『運命』が嫌いだった――そんなモノに自らの人生を左右されるなどと信じたくなかったから。
『能力』が嫌いだった――それが自分の薄汚い人生の根源だったから。
・・・・・・そして結局、この二つから逃れられていない。
幻想郷、霧の湖を覗く紅魔館は、文字通り外壁や内装がほとんど赤、というよりも紅色で統一されている。ほとんど、というのは客人が通ることになる廊下など、だ。むしろ紅色でない場所の方が多いかもしれない。
もちろんそんな内装を提案したのは館の主なのだが――病院の手術室で、ずっと患者の血液や体内などを覗き続けていた医者が、白い壁に目をやると網膜に焼きついた赤色がちらついて離れなくなるということがある。つまりはそういうことだ。いくら傍若無人な吸血鬼といえども、理想と現実はしっかりと弁えている。
そう、館の主であるレミリア・スカーレットは人間などではない、吸血鬼である。紅い館だから紅魔館なのではない、紅き魔が住まう館だから紅魔館なのだ。であるからして、館が紅い必要性はない――自らの考案した内装が上手くいかなかったレミリアはそう自分を慰めてプライドを納得させていたという。
何かしら納得できないことがあるとそんな風に塞ぎこむレミリアを、妹や友人や門番が代わる代わる慰めるということもあった。もちろん、そんな彼女達もまた人間ではない。
地下室を寝床とし時に様々な騒乱を巻き起こすレミリアの妹は吸血鬼であり、主の友人にして図書館に住まうのは魔女(その従者は悪魔)、館の名に恥じぬ紅髪を持つ門番は詳細不明な妖怪。その他、細々とした雑用をしたり散らかしたりするというメイドもまた妖精。
人間が見当たらないのは当然だろう、レミリアという吸血鬼にとって、人間とは糧だ。部下ではなく、食料である。
・・・・・・ただし、たった一人だけ例外、いや特例が居る。彼女は食料でもなければ新米でも見習いでもお荷物でもない――むしろそんな存在を統べる立場にある。
紅き吸血鬼が住まう紅い館において、主の腹心でありメイドを統べるメイド長という存在――それが、十六夜咲夜である。
美しい銀髪にすらりとした体躯、黙っていようといまいと男達が放っておかない美貌の持ち主である彼女だが、悪い虫がよらないのはひとえに門番や主の尽力・・・・・・だけではなく、彼女の役職によるところが多いだろう。
主の我がままをできうる範囲で叶え、使い物になるかならないかといったらならない方に大きく傾きかけている妖精メイドを叱咤し、侵入者を迎撃しきれなかった門番にはやる気を削がない程度にお仕置き。たまに図書館の魔女の実験に巻き込まれ、それに感化されてか良からぬことを思いついた主に溜め息を吐き、稀に暴れだす主の妹に対しては全力全開で相手をする。
主は吸血鬼であるのだがとある時期から普通の人間のように寝起きをするようになったので、ライフスタイル面では人間である咲夜にも問題はない。だがそれ以外に問題が多すぎる――普通の人間であれば。
殺人どころか殺妖と言ってもいいほどのスケジュールを普通の人間がこなせる訳がない。主や門番、魔女や妹にそれぞれ能力があるように、彼女もまた普通ではない能力を持っている。
それは、『時間を操る程度の能力』。時を止めるという、夢のような力を彼女は持ち、さらにそこから派生して『空間』を操ることもできる――紅魔館が外見よりも広いのはそのためだったりする。
そうやって彼女はスケジュールをこなしていく。あっちに行ってはなだめ、こっちに行ってはすかし、どっかに行ってはナイフを握る(吸血鬼の従者なのだが銀製である)。
もちろん戦闘能力もそんじょそこらの人間より高い。自らの能力を活かして瞬きより早く標的の周りにナイフを発射体制にするなど造作もないことだ。
つまり、彼女はその便利な能力から日々の事務や家事や雑用に追われ、戦闘にも駆り出されることが多いという、本末転倒ながら忙しい日々を送っている。
そう、この能力があるからこそ彼女は今の地位に上ることができた。この館に彼女が来る前は、ここまで能力を使いこなせていなかったし、周囲の人間からは忌み嫌われるという悲惨な生活を送っていた彼女だが――今は、ほんの少しだけ感謝している。
主に対する恩返しを助けてくる、自らの能力に対して。
「ふぅ・・・・・・」
たった一つの溜め息に一日分の疲れをこめて、十六夜咲夜は自室へと戻った。メイド長という立場であるし空間的な意味でも紅魔館を取り仕切っているのは彼女だから、ある程度の広さがある部屋であるが、ベッドや机、クローゼットという最低限の家具しかなく、小物の数も女性にしては少ない。そんな机の傍に置かれた椅子に、行儀悪く彼女は座り込む。
ちなみに紅魔館が衣食住を提供するのでいわゆる無給無休で彼女は働いている――が、いろいろと人には言えない手段で物を手に入れることもあるが。もちろん能力を利用して。
そんな彼女の今日の仕事は、ほぼ終了している。吸血鬼らしからぬライフスタイルの主はもう部屋で眠っているし、珍しく妖精メイドが働くのでやることもない。侵入者も怪しげな実験も破壊的な癇癪もない。館も静かに思えるのは気のせいだろうか、と彼女は疲れた頭で考えていた。
時にはこんな夜もある、奇跡的にタイミングが重なって、何もない夜というものが。そんな一時の休息を楽しむ・・・・・・のは普通の人間だ。
生粋(?)のメイドではないがいずれメイド服を着ている時間がそうでない服を着ている時間を超えるのも遠くない咲夜にとって、『何もない夜』に何もしないでいるのは、逆にリラックスできない。
もはやこれは病気のレベルだろうな、と一人笑いながら、咲夜は考える。さて、何をしようかと。
「図書館で本を借りる・・・・・・気功でも教わってみる・・・・・・地下室探検・・・・・・」
だがしかし、考えること全てが何かしらのイベントにつながるようなフラグに思えてきて、咲夜は天を仰いだ。というよりも、こんな静か夜に動くことそれ自体がフラグのようでもある。
つまりは、部屋から出ない方が良いだろう――そう考えた彼女は、自らの部屋をぐるりと見回す。が・・・・・・そんなものがあるなら、そもそも何をしようかと考える必要もなかったのだ。
つまりは、何もない。
「・・・・・・本ぐらい、何冊か借りておくべきだったわね」
そう独り言を呟いて、諦めきれずに彼女はもう一度部屋を見回し――その視線がまずクローゼットに止まり、一拍遅れて顔もそちらに向いて止まった。
そのクローゼットに何が入っているか、もちろん彼女は良く知っている。同じ柄のメイド服がほとんどであり、中には少し丈を短くしたりだぼだぼにしたり穴開きだったり(すべてレミリアの支持である)のメイド服もある。
だが彼女の目的はメイド服ではない。問題は、そのクローゼットの奥に隠すように置かれているモノ。
「・・・・・・やることもないし」
別にやる必要があることでもない、趣味と言えるようなものでもない。だけど咲夜は、そう呟いて久々に“ソレ”を取り出そうと、少し億劫そうに椅子から腰を上げた。
紅い館の紅い廊下を、彼女は飛ぶ。人間なら胸の辺りぐらいの高度で彼、ふらふらと飛ぶ。ただ目的地は定まっているようなので、目的もなくというよりは何となくふらふらしているようだ。
そんな不安定な飛行で長い廊下を飛び、たどりついたのはメイド長の部屋。分かりやすいように扉にはナイフ型のプレートが掛かっている。「いっそ銀のナイフを刺しておけばいいんじゃない?」などと彼女が言った時はメイド長も乗り気だったが、実際にやってみるとまるで脅迫でも受けているようだったのですぐに取りやめとなり、代わりに手先が器用な門番がプレートを作ったのだ。
そんなことを思い出しながら彼女は、できるだけ音が立たないようにノブを回し、ゆっくりと扉を開く。隙間から中を覗き込み、目指す目標がこちらに気づいていないことを見て、自らが通れるほどに隙間を開く。そして部屋に入りきったところで、これまたゆっくりと慎重に扉を閉めた。
机に向かって椅子に座り、まだこちらに気づいていないメイド長の後姿――特にうなじの辺り――を見やって、地に足をつけてからその足をバネのように縮めて・・・・・・飛び掛った。
「さーくーやっ!」
「きゃっ!?」
飛びついて抱きついたその感触と、普段は滅多に聞けない可愛らしい声に飛び掛った彼女――レミリア・スカーレット――は、声と同じぐらいに堪能することが少ない感触を体に覚えこもうとするように抱きつく力を強めた(壊れないように加減はしているが)。抱きしめようと思えばいつでも抱きしめられる門番の、柔らかさを残した引き締まり方とはまた違った感触は彼女にとっては馳走なのだ。
「お、お休みではなかったのですか!?」
「元々私のライフスタイルは夜行型でしょう? たまには夜更かしぐらいいーじゃない。ほーれうりうりうり」
「ちょっお嬢様、お止めください!」
「言葉遣いがなってないわよ~、そんなことで部下に示しがつくのかしら」
「そ、それとこれとはっ――」
これまた普段は滅多に聞けない焦ったような声も堪能しながら、レミリアは咲夜の肩越しに机の上を覗き見る。そこには、一目見ただけでは良く分からない“部品”が散らばっていた。他にもブラシやオイルなどが置かれている。
手のひらに収まるぐらいの大きさ・太さで、蓮根上に六つの穴が空いた円柱の部品。それが収まるようなフレームにはグリップと長い筒がついている。
それらに共通するのは、どれも傷だらけということだろう。それも長年使っている内につくような傷だけではない。特に筒の部分は何かの破片が突き刺さっているという酷い有様だった。
「そんなモノ、まだ持っていたのね・・・・・・」
懐かしそうに呟いたレミリアの声音に非難の色を読み取ったのか、咲夜はピクリと反応する。もちろんその動きは抱きついているレミリアにも感じ取られたから、彼女は溜め息を吐いた。
時折、咲夜は本当に臆病になる――そんなことを考えながら。
「別に責めているわけじゃないわ。むしろ、壊れたままで置いておく方がどうかと思うわね・・・・・・いっそ、山の河童にでも修理させてみない? 簡素な造りだから、やれないことは無いだろうし。ナイフ以外にも武器を持っておいて損は無いでしょう?」
「本体だけ修理したところで、弾がないと意味が無いです・・・・・・それに河童に任せると変な改造をされてしまいそうで」
「あぁ・・・・・・確かにそうね」
レミリアもソレを見るのは久々だったから、その武器の特性についてはすっかりと忘れていた。弾がなければナイフどころか金槌にも負けるような代物だ。とはいえ、河童の技術があれば弾の問題など些細なことのようにも思える。
むしろ咲夜が嫌がるのは改造の方だろう――至極当然に、レミリアはそう当たりをつけた。
「ちゃんと念押しするか、いっそ私の能力で改造できないようにするって手もあるじゃない。それでも嫌?」
「・・・・・・お嬢様のご厚意はありがたいですけど」
普段なら主の言葉を受けれているだろう――咲夜もレミリアもそう思う。そしてそれを受け入れたくない理由も、お互いに良く知っている。思い出は綺麗なまま、というが逆だってあるのだ。
そう、これは思い出。
もう抱きつくレミリアをそのままにして、咲夜は目の前の部品に集中し始めた。主に対する従者の態度としては失格かもしれないが別にレミリアはそこまで厳格ではないし、咲夜の時間を邪魔するほど無粋でもない。
「・・・・・・これは、このままでいいんですよ」
もう掃除する場所もほとんど残っていないが細かい場所を丹念に調べながら、咲夜は主にというよりは確認するようにそう呟いた。レミリアも邪魔にならない程度に抱きつきながら、黙って聞いている。
奇しくも、二人の思考はほぼ同じ道を辿っていた。
まだ紅魔館が外の世界にあった頃、レミリアが人間の従者を雇っていなかった頃、咲夜がまだ咲夜でなかった頃――今より、刺激に満ち溢れ平穏でなかった頃。。
咲夜は手入れを続けながら、レミリアは咲夜に抱きつきながら――もう戻ることのない、戻りたくもない、だが大切な過去の記憶を、辿っていく。
人間は様々な土地を開発する。
大きな戦争が無くなり、平和でなくとも平穏といえるものを人間が手にし始めた時、世界的に人口が増加するのは自明の理だろう。そうすると増やさなければならないのは衣食住。
結果として、人の手が入らない場所は前世紀よりもさらに数を減らし、例えば暗黒大陸などという呼び名ももはや想起すらされなくなった。
そうなると割を食うのが妖怪である。
人間が闇を怖がらなくなり、妖怪に対する強力な武器を手に入れられるようになると、強大な力を持つ妖怪といえど団体で行動する人間には対抗することが難しくなってしまった。
ならば、人間が来ないところでひっそりと暮らすしかない――それが、人間の開発によって難しくなってきている。
そんな妖怪たちの最後の楽園が、後に紅魔館が移転することになる世界であるのだが・・・・・・現在、紅魔館が建っているのは到底楽園とは言い難い場所だった。
奇跡的に人間の手が入らないことにより、木々が太陽を遮り昼でも薄暗い山の中、外壁は紅いというのにほとんど木に隠れて目立たず、ひっそりと隠れるようにして紅魔館は建っていた。
洋風だが、窓が少ないせいか外見からでは何階建てかというのが把握しづらく、簡単には乗り越えられそうにない高い塀と相まって威圧感をかもし出している――普段であれば。
今はその紅い威圧感を――白い虚無が覆っている。
冬の晩。吹きすさぶ風と降りしきる雪が、普段は緑に覆い隠された紅魔館を同じように覆い隠している。
そんな紅魔館の傍、木の陰で・・・・・・雪を踏みしめる音が響く。だが、風にかき消されてほんの数メートル先に届いたかどうかすら怪しかった。その音は、紅魔館の塀をぐるりと一周してなお止まらず、最終的には正面で止まった。
扉などの切れ目が存在しない塀だが、当然正面には門が設置してある。かなり重そうな門だ。外見上は木製にしか見えないが、視界不良と大きさが相まって館以上に威圧感を撒き散らしている。
そんな門の傍に一人の女性を見つけて、足音はそちらへと向かった――その前に、目に付いた目立つ木の根元にリュックを隠してから。
門の傍、申し訳程度の照明の下で、彼女は立っていた。
「うぅぅぅ・・・・・・寒いよぉぉぉぉ」
伸ばした語尾が震えている女性は、美しい紅髪と引き締まるところは引き締まり飛び出るところは飛び出た肢体を扇情的な中華風の洋装で隠し、帽子には星のマークというこんな嵐の中でも目立つ女性・・・・・・だったのは雪が降り出す前まで。
今はその服装の上にもこもことしたコートを羽織っているせいで、惜しいことに顔以外は女性の美しさが隠れてしまっている――が、当人にとってはそんなことより防寒対策の方が重要だ。
彼女の名は、紅美鈴。
「中はぁぁぁぁあったかいんだろうなあぁぁぁ」
そろそろ言葉としても怪しくなってきそうだが、そこまで寒いのなら中へ戻ればいいのではと言いたくなるかもしれない。だが彼女の役職がそうさせない。
館の入り口、門を護り、客人には丁重に挨拶を、招かれざる者には時に丁重時に冷酷にお帰りいただく役職――門番。
こう書くと格好良いが――どうせ客人も招かれざる者も訪れそうにない吹雪の中を、ほぼお飾りのような状況で立っていなければならないというのは、肉体的にも精神的にも疲れが大きい。
それでも生来の生真面目さと上には逆らえないお人よしさが、彼女をここに立たせている――が、そろそろ限界だった。
「誰も来ませんように誰も来ませんように誰も来ませんように・・・・・・」
もうあと少ししたら中に入ろう、誰も来なかったらそうしよう――明らかに無駄な祈りを彼女は呟き続ける。できるだけ語尾が震えないように小刻みに呟き続けるせいで、なんとも間抜けなことになっていた。
そして彼女の願いはあっさりとかき消される。
「あ、あのぉ・・・・・・」
「は、はいはいはい!?」
「っ・・・・・・こ、こんばんは」
吹雪の中、突然美鈴の前に現れたように見えるぼろきれ――正確には顔の隠れた少女(美鈴は声と背丈からそう判断した)――に、思わず苛立つような声をかけてしまったものだからぼろきれは大いに奮え、我に返った美鈴が慌てて表情を接客用の笑顔に変える。
「こんばんは、今日はお泊りですか休憩ですかそれともわ・た・ってこれパチュリー様から教わった接客マニュアルだった!」
「・・・・・・?」
これが男性に対する正しい接客の仕方よ、と図書館の魔女から教わった美鈴だったが、迷い込んできた人間にやってしまったせいでいろいろと大変なことに――魔女にとっては面白いことに――なった。
焦っていたせいかそのマニュアルを諳んじてしまった美鈴は思わず地団太を踏み、それは余計に少女をビクつかせる。
少しの間、地面が見えるぐらいまで踏み続けてから、美鈴は改めて笑顔を作って問いかける。
「ようこそ、紅魔館へ。こんな吹雪の中、どうされたんですか?」
「・・・・・・道に迷ってしまい、気がつけばここに出てきたんです・・・・・・あ、あの、その・・・・・・」
「お泊りですかご休け・・・・・・って違う違う、一晩の宿をお貸ししましょうか?」
遠慮からかそれとも美鈴の変わり具合から言いよどんでしまう少女の後を、未だマニュアルから抜け切れていない美鈴が続けた。
別にホテルを経営している訳ではないが、美鈴の主である吸血鬼はたまに来る人間をもてなすように指示を出している。こんな場所に紅魔館が建っているせいで、人間の客人というのが珍しいためだ。
もちろん、訪れた客人は主の能力で館の場所を憶えられないようにしてから、帰されるのだが。
「い、いいんですか!?」
「えぇ、もちろんいいですよ」
「あ、ありがとうございます! ・・・・・・で、でも御代が」
「いいですよ、一人ぐらいどうってこたぁないですから」
地獄に仏とばかりに喜ぶ少女に、もう面倒くさくなったのか美鈴はいつもの砕けた調子で手をひらひらと振る。主と同じように、彼女もまた来客が来ることを喜んでいる節がある。
もちろん金を取る気がないのも事実。紅魔館は落ちぶれている訳ではないし、せいぜい旅の話ぐらいが御代代わりになる。
思わぬ心遣いに感謝しているといった様子で、少女は何回も頭を下げる。その度に、ぼろきれに積もった雪が落ちていく。
美鈴はそんな少女を優しい笑みで見つめていた。目を細めて、吹雪の中だというのに日向ぼっこでもしているような微笑み。
そして彼女は呟き、
「ようこそ、紅魔館へ――そしてさようなら」
何の構えもない状況から一瞬でタメの構えから右の手刀を突き出した。
手刀が生み出した風圧は舞い散る雪を降れずに散らせるほどだった――そしてぼろきれと中に居た少女も同様に触れずに舞った。
いや、正確には少女が一歩後方へと飛びのき、それに追随できずにぼろきれが宙を舞ったのだ。その中から現れた少女の服装は――黒。
雪とあからさまに調和しない、黒のタクティカルベスト、黒いズボン、ご丁寧にブーツも黒。右腰のホルスターから覗くグリップ、胸元には丸型の物体が二つ、さらにグリップを下にして胸元から抜きやすくしたナイフが二本。
長い銀色の髪に蒼い眼が印象的な少女と戦闘服の取り合わせは、雪と戦闘服以上に合っていない。
「館の周りをうろつく気配・・・・・・気づいていないとでも思いましたか? ・・・・・・できればそのまま立ち去ってほしかったです」
「・・・・・・くっ」
「女の一人旅は危険ですが――さすがにそれは心配のしすぎのような気もしますよ。人間を相手にするにはいささか過剰ですね――吸血鬼退治ですか?」
「・・・・・・」
今までの微笑みも震えも消し、雪より冷たい美鈴の声が少女に突き刺さる。もはや誤魔化しようもないと考えてか、少女の顔が引き締まった。
美鈴は既に構えの姿勢に入っている。右足を引き、両手を真っ直ぐにして構える。明らかに慣れた者の動き。
対する少女――吸血鬼ハンターは、両手に一本ずつナイフを取り、順手で構える。こちらもまた手馴れた動き。全く無駄も隙もない。
距離は近いが西部の決闘よろしく、二人は対峙する。お互いに何も喋らず、身体を動かさず、ただ眼だけを動かして相手の隙を探る。既にお互いはお互いの力量を予想している。構えている。
あとは、きっかけがあれば――
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
紅い髪にアクセントのように白い雪が積もっても、銀髪に紛れ込むように雪が積もっても、二人は動かない。二人以外には誰も居ない、白銀に覆われた世界。二人を邪魔する者は、誰も居ない。
そして一段と吹雪いた時――二人はほぼ同時に動いた。
「ハぁッ!」
白い息とともに声を鋭く吐き出して美鈴は右の手刀を繰り出す。心臓を狙ったその鋭い一撃は僅かに屈んで身体を傾けた少女のタクティカルベストを仕込まれた金属製のプレートごと掠めるように切り裂くに留まった。
「――っ!?」
「・・・・・・っ」
二人の顔が歪む。美鈴はプレートの感触に顔を歪め――少女は金属プレートごと切り裂いた美鈴の手刀の鋭さに驚く。だが戦闘はまだ始まったばかりだ。
手刀を突き出した状態という無防備な美鈴の喉を狙って少女は銀製のナイフを横なぎに払う――だがそれは美鈴の左手によって弾かれた。さらに突き出した左のナイフの軌道を戻ってきた美鈴の右手が変える。
かと思えば空中で器用に逆手に持ち帰られたナイフが縦に振り下ろされる。美鈴はそれを半歩引いてかわし、体勢が傾いたところを狙って攻撃――が、強引にナイフを戻し攻撃してくる少女の前に一旦攻撃を取りやめさらに一歩退く。
少女は無理な体勢がたたってか後ろに一歩よろめいた。そしてまた睨みあう二人。
――二人が同時に飛び出すまで大した時間はかからなかった。
そこから先はまさに激戦。
繰り出される手刀や時折混ぜられる蹴り、油断すればナイフを奪うか弾き飛ばそうとしてくる美鈴の手を少女は何とか避け逃げ振り払い、時にはタクティカルベストを浅く切り裂かれながらナイフを振るい続ける。
対する美鈴は繰り出されるナイフを全くの無傷で退け続けていた。不思議な軌道を描く美鈴の両手がナイフの軌道をあらぬ方向へと歪め、即座に次の行動に入っている。銀製のナイフは掠めもしない。
つまり――状況は美鈴の優勢。雪深い状況だというのに足の運びが上手いとなればなおさらだ。
(なかなかの腕・・・・・・だけどそれほどでもない)
ナイフが何度も掠める中でも美鈴は冷静に分析する。そもそも彼女は近接戦闘を主体としている。そんな相手にナイフで挑む時点で、ほぼ勝負は決まっているようなものだった。それでも油断せずに美鈴は窺う――決定的なチャンスを。
(くっ――)
対する少女は顔だけは冷静ながらも心の中で焦っていた。彼女も美鈴の特性を既に理解し、そんな相手に近接戦闘を挑んだ自分の愚かさを嘆いている。柔なナイフでは突き通せないプレートですら浅いながらも切り裂かれている。
このままでは――負ける。
そんな弱気な心が隙を生み出したのか――低いながらも振り上げられた美鈴の左の手刀に少女は反応できなかった。
「やっ!」
少女の左のナイフが弾かれて地面に落ちる。それを一瞬だけ目で追ってしまったのがさらなる隙を生んだ。今度は左の手刀が残ったナイフを弾き落とす。
(もらった――!)
ナイフを取り落とした相手に対して美鈴は一瞬だけ右手の掌底を“タメ”た。相手が単独行動か、所属はどこか、どこまでの情報を持っているのか――それを確かめるためには殺さず捕らえるしかない。ナイフを持った相手にそれは難しくとも、持っていない相手になら造作も無い。
「はっ!」
鋭い叫びとともに美鈴は顎を狙って打ち上げる形で掌底を繰り出した。ある程度手加減しているから脳震盪で済ませらる程度の威力になっている。
それを今まさに食らおうとしている少女は微動だにせず――消えた。
「・・・・・・えっ」
反応できず美鈴の掌底は大きく空を切る。その状況からして見えなくなった訳ではない。本当に消えたのだ。
そして消えた気配は――背後に現れている。
「なっ!?」
即座に振り向いた美鈴の目の前に黒い穴が突きつけられて――そこから飛び出した『44Mag弾』が美鈴の額に着弾した。
いつの間にかナイフを回収して美鈴の背後に回っていた少女は装備していたリボルバー――S&W-M629Stealth Hunterを右手だけで構えシングルアクションで発砲した。かのM29の現代版、ハンターモデル。7.5インチの長い銃身とこれまた雪に合わない黒色。六連発の44Magだったが、放たれたのは一撃だけ――それでも十分な威力と凄まじい銃声、闇を照らす発射炎を生み出した。
使った弾頭は銀製――そして先端に穴を空けHP(ホローポイント)弾と同じ形状に加工されている。銀は特性上、適度な貫通力と変形のしやすさを合わせもっている。つまり人体に撃ち込む弾としてはかなり威力が高い。
頭蓋骨を難なく突き破った44Mag弾は内部で大きく潰れてその威力を発揮しながら美鈴の脳味噌をぐちゃぐちゃにして、マグナム弾のパワーから――至近距離だったことも相まって――反対側の頭蓋骨をも突き破り、大量の血液と脳漿を雪深き地面へと飛び散らせた。
どう過小評価しても即死――美鈴はそのまま自分の体液が飛び散った地面の上に仰向けに倒れた。少しの間、手足の先がぴくぴくと痙攣していたが、それもすぐに収まり、動かなくなる。
「・・・・・・ふぅ」
それを確かめてから溜め息をついて、少女は背後の紅魔館を見やった。今の銃声が聴こえているかもしれないと考え、少しの間息を潜めて動かなかったが、館からは何の動きも見受けられない。
おそらく吹雪が良い具合に作用したのだろう――そう考えて少女は自らの装備をチェックした。
タクティカルベストはところどころに鋭い傷が入っているが、重大な損傷ではなかった。取り落としたナイフは回収しているし、身につけていたM67破片手榴弾二個とそしてM629SH用のスピードローダー二個も無事だった。右手に構えたM629SHの弾丸が残り五発になったことだけが損害といえるだろう。
つまり、まだまだ戦える――与えられた任務を果たすことができる。
「・・・・・・よし」
そう呟いて、彼女は大きな門――に取り付けられた小さな扉に近づいていく。
後には、美しい紅髪がそれよりも真っ赤な血液に汚された肢体だけが残った。
外の吹雪と比べて、中は至って平穏だった。扉を閉めてしまえば、外が吹雪いていることすら気づかないかもしれない――何せ窓が少なく扉は頑丈なため、少々の風では揺らぎもしないから。内装はほぼ紅色で統一され、ところどころにおかれた燭台の蝋燭の白が逆に目立っている――もちろん炎は紅色だったが。
今までずっと白い世界ばかりを見てきたせいで、その色使いに少女は目をしばたかせた。調度品は少女から見てもセンスが良い物なのに――紅色がそれすらを飲み込む。
まるで紅色に支配されているかのようだと、少女は思った。
(・・・・・・どこに居るのかしら)
しかしそんなこと、彼女の任務には関係ない。吸血鬼ハンターである彼女の目標はただ一つ――この館の主の吸血鬼。だから目指すべきは主の居場所。
とはいえ、選択肢が多かった。右手には多くの扉が窺える廊下が伸び、左手にはそれよりもかなり短い廊下とそれよりは大きくて重厚な扉が見える。正面にはいくつかの扉と階段、上階には一つの扉。
そして薄暗いために良く良く目を凝らさなければ見つけられないのが、階段の脇にある小さな扉。それは他の扉とは違ってかなりボロボロである。
さて、どこへ行くべきだろうか?
(・・・・・・右の扉はおそらく客室、主人の部屋があるとは思えない。左は・・・・・・どうだろうか。少なくともあの粗末な扉の先とは思えない。となると――)
左右に目を走らせ順当に可能性を潰し、見上げた上階の扉――少女は目を見開いた。
視線の先で、扉が揺れている。それは風の動きで揺れているのだが、問題はそこではない。
先ほど彼女が見た時――その扉は、閉まっていた。本当にそうなのか、と彼女は自らの記憶に問いかけてみるが答えは同じ。風に揺れる扉があれば、目ざとい彼女が見落とすはずがない。
つまり――
(誘われて、いる?)
その予感に、少女はぞくりと体を震わせた。吸血鬼は身体能力が高く、何かしらの能力を持つともされる、そんな相手に侵入がばれないはずがない――先ほどの自らの楽観的な予測に呆れながら、だがその心を満たしたのは恐怖ではなかった。
面白い――そう考え、少女は武者震いをしたのだ。
「・・・・・・行ってみようじゃない」
小さな呟きだったが、聞いている者が居るかもしれないことを考えれば不用意なもの――だがもはや少女はそんな顛末ごとに煩わされたくはなかった。
考えるのは、任務を果たすこと。吸血鬼ハンターとしての、任務。
それは、吸血鬼を殺すこと。
M629をしっかりと両手で構えなおし――少女は階段を一歩ずつ、ゆっくりと登り始めた。
少女は、捨て子だった。
それを少女自身は思えていないが、自分を育ててくれた吸血鬼ハンター達の中でも優しい――比較的、だが――男が、それを教えてくれた。
彼らがとある吸血鬼を退治した時、無数の人間の死体(食い散らかされていた)の中にその少女は居た。木製の籠の中で毛布に包まって、手紙を乗せられて。
どう見ても捨て子だったが、なぜ捨てられたのか、どうして吸血鬼の手に落ちたのか――そんなこと、彼らに分かるはずもない。それでも、惨状の中でぐずりもしない少女に興味を持って、彼らは彼女を拾い、育てることにした。
そして分からないまでも、前者の問いには答えが見えてきた――少女には不思議な力があったのだ。最初は彼らにも分からなかったが、ある日、哺乳瓶で飲ませていたミルクが不自然な減り方をしたことで、その能力の片鱗に気がついた。
そして時が経ち、少女に物心がついた時、彼らは少女を吸血鬼ハンターとして育てることを決意する――もちろん、能力を活かして、だ。
彼女は身体能力が高く、能力も相まってかなりの戦闘力を誇り、時として強者と称される吸血鬼を退治したこともある。
吸血鬼は夜になると布団に包まってがたがたと震える――そんな風に噂されるほどに、彼女の名声は広がった。
だから、今回の任務も自分に回ってきたのだ――慢心でも何でもなく、現実として彼女はそう考えていた。
「紅い館・・・・・・ですか?」
「そうだ。詳細な場所までは分かっていないが、吸血鬼が居ることだけはほぼ確かだ」
閉じられたブラインドの隙間から、光が漏れている。それを背にぼさぼさの髪とよれよれのスーツを着込んだ男が、椅子に座って机に両肘をつき、顎に手をやっている。
対して少女は――黒いタクティカルベストを身に着けていた。右腰にはM629SHをぶら下げ、手榴弾も装備している。彼女は来客用のソファになど見向きもせず、直立不動の姿勢を保っている。
男にとって少女は部下であり、少女にとって男は上司――吸血鬼ハンターによって作られた組織、その中の上下関係。
男が、スーツから取り出した紙片を差し出す。それを少女は受け取り、目を走らせる。そこには、とある山の名前が書かれていた。
「その山では不思議な話が多い。旅人や登山客が、行方不明になったり記憶喪失で戻ってくるという事件が多発している。それに、後者は山に居る間の記憶だけを失っている。明らかに、何かしらの力が働いているはずだ」
「・・・・・・それだけ、ではないですね」
「――記憶喪失で戻ってきた人間の中に、首筋に小さな二本の穴が空いた者が居たそうだ。体質にも変化は無く、すぐに消えたから大した騒ぎにはなっていないが――分かるだろう?」
首筋に二本の穴――吸血鬼の牙。
くしゃりと、少女は紙片を握りつぶす。
「・・・・・・任務は?」
「吸血鬼の存在の確認。それが成功した場合は、退治もしくは脱出。登山のための装備も必要だから、武器は必要最低限にしておけ」
「・・・・・・最低限、ですか
「ああ、そうだな、今の装備でも十分だろう――期待しているぞ」
どこか訝しげな少女の表情を、じっと男は見つめる。少女からは見えなかったが、男の額には汗が流れていた。
少しの間、どちらも動かず何も言わず――そして、少女が黙って頷き、身を翻したところで男が小さく、少女には聴こえないように安堵の息を吐いた。
彼が汗を拭ったのは、少女が部屋を出てからだった。
(・・・・・・そうだ、役に立たなければいけない。役に立たなければ――)
階段を登りきって、揺れる扉の陰に隠れて一分ほど。少女は銃口を下に向けたM629SHをぎゅっと握りしめて、心の中でそう唱え続けていた。
扉の向こうからは、気配が感じられない――だというのにとてつもない威圧感を感じるという、矛盾。それが彼女の足を止めている。
本来なら、このまま帰っても問題はないはずなのだ。いきなり襲ってきた門番に、窓のほとんど無い館。人間味のない内装。状況証拠は十分に揃っている。
だが、決定的証拠は無い――それ以上に、決定的証拠があろうとなかろうと、そのまま帰るという選択肢を、彼女は思いつかなかった。結果、その心と恐怖心が拮抗して彼女の足を止めている。
「・・・・・・役に、立たなければ」
だが、小さく呟いたことで恐怖心が劣勢になったようだ。
少女は意を決して、扉の隙間から中を窺う。何かが起きればすぐに反応できるように身構えているが、中は暗くて何も見えない。
そこでまず突き出したM629SHを部屋に入れて左右を伺い、次に腕、最後に体全体を入れて、彼女はようやく部屋への侵入に成功した。
真っ暗なので、闇に目を慣らすために彼女はほんの一瞬ぎゅっと目を閉じ、開いた。
まさにその瞬間、彼女の背後で扉が閉まり――十数メートル先で蝋燭に火が点いた。
「――っ」
蝋燭の光などたかがしれているが、それでも少女はまず目をぱちぱちとしなければならなかった。
ようやくはっきりとした視界に、まずは背の高い燭台の上で炎を揺らめかせる蝋燭が入る。次にその真下、一本足ながら分厚いテーブルの上には、ワインの瓶とワイングラス(中には紅い液体が半分ほど入っている)。そこまで来ると部屋全体も見渡せるようになってくる。細かい絵画や彫刻品は良く見えないが、部屋の中心線に敷かれたカーペット(紅色)を挟むようにして、三本ずつ円い柱が立っている。
そして全ての中心、背もたれの高い椅子に座った――女が居た。淡い青といった髪の毛、小さな帽子に大きなリボン。白い服に紅いアクセントが良く目立つ。
見た目は幼いのに威圧感を漂わせ、目の前に居るというのに気配を感じさせない。だから少女は、幼女でも女性でもなく“女”と認識するしかなかった――この調子では女性かどうかすら怪しいが。
その女に、少女は銃口を向ける。
「・・・・・・お前が、吸血鬼か」
「人に名前を尋ねる時は――自分から名乗るものよ」
そう言って妖艶に微笑む。見た目不相応な口調と表情から、少女は断定する――目の前に居るのが、吸血鬼だと。
だから少女は相手の言葉を突っぱねる。それ以前に、答えられないというのもあるが。
「吸血鬼に名乗る名前などない」
「失礼な客人ね・・・・・・それに私は吸血鬼だけど、『吸血鬼』なんて名前じゃないわ。私の名前はレミリア・スカーレットよ、憶えておきなさい」
「・・・・・・どうせすぐに忘れる」
どこか胸を張って言い放ったレミリアの言葉に、少女はぼそりと呟いた。その呟きが挑発などではなくごくごく普通のことを言っていることを悟って、レミリアはずるりと椅子から転げ落ちそうになった。
だがなんとか踏みとどまって、体勢を立て直す。
「酷い話ね、これから殺す相手の名前すら覚えておいてくれないなんて。“貴方の上司は”吸血鬼の供養すらしてくれないの?」
「憶える意味も利点も無い。供養なんてもってのほかよ」
ふと・・・・・・何かしらの違和感を感じて、少女はほんの少しだけ顔を強張らせる。それを悟ってか悟らずか、レミリアは続ける。
「せめて私の髪の毛ぐらい持ち帰ってちょうだいよ? 何の形見も残せずに死ぬなんて嫌だから。“リュックに”それぐらい入るでしょう?」
「・・・・・・火葬してあげるわ、灰すら残らないぐらいに」
また、違和感。渋い顔になってきているのもレミリアの物言いではなくそれが原因。対照的にレミリアの表情はだんだんと品の無いニヤケ面へと変貌している。
「それならいっそ、このまま帰ってくれない? 舞台設定とか照明とか、あと門番も改造しておくから。貴方も“私が居ることが分かったんだから、問題は無いでしょう?”」
「っ・・・・・・戯言を」
違和感、違和感、違和感。
もはや無視できないほどのそれに少女はまともに答えることすらできなくなった。頭の中で『早く撃て』という言葉が響き続ける。それは目の前の吸血鬼の言葉で囁いているようだった。脳はまだ様子を見ろと命令しているのに、心が急かす。
そんな彼女の心の引き金を――レミリアの言葉が引いた。
「あら、やる気? “たった五発で”私を殺せるなら――」
「――っ!?」
思わず少女は引き金を引いた――があまりの焦りと驚愕に普段は絶対にやらないようなグリップミスをしでかし照準が大きくずれて燭台に弾丸は命中した。対人用としては強力な弾丸の前に燭台はあっけなく壊され、落ちる風圧で蝋燭の炎がかき消される。
そして闇に包まれる直前、レミリアの姿が見えなくなり――“威圧感”が移動するのを少女は感じ取った。それは彼女から見て右の柱の陰へと移動する。
そちらに銃口を向けたところで――“威圧感”がまた移動すると同時に暗闇の中を何かが動くのが見えた。間髪いれずダブルアクションで発砲。発射炎に彼女の目がくらみそうになるが、何とかそれを避けて次に備える――手ごたえの無さと壁に着弾した音からして外れたことが分かっているから。
それを裏付けるようにまた何かが移動――今度は斜め前の柱に移動しようとするがさせじと少女が発砲。だが今度もまた外れてしまった。まるで嘲うかのように、くすくすと小さな声が彼女の耳に届く。
「あと二発」
そんな声がしてまた斜め前の柱に――今度は読んでいた少女の照準が勝った、が何かが飛び散る音がしたが決定的とは到底思えなかった。掠めただけだろうと彼女は推測する。
それよりも大事なのがM629SHの弾丸が残り一発しかないということだ――レミリアもそれを知っていることを少女は言動から察知する。
そして二人の間を妨げる柱は・・・・・・もう無い。
(いつ・・・・・・いつ来る?)
リボルバーのリロードはスピードローダーがあっても時間が掛かる。“能力を使えば”問題は無いがむやみやたらに使えるものでもない。
ならば残り一発で倒すか、凌ぐ必要がある・・・・・・汗で滑りそうなグリップを少女はしっかりと握りしめた。相手が残弾を把握しているなら、相手にとってはチャンス――もちろん少女にとってはピンチ――だ。一気に飛び掛ってくることもできる。安全にいくならフェイントをかけることだってできる。
つまり――少女はたった一瞬でそのどちらであるかを把握して、しっかりと照準し、引き金を引かなければならないのだ。
「・・・・・・ん」
少女の喉がゴクリと動く。必中を期待するなら撃鉄を起こしておいた方がいいのだが、その僅かな動きすら隙になりそうでそれができない。呼吸・瞬きすら最小限に抑え、少女はただジッと待つ。
いつ飛び出してくるのか、柱のどちらから飛び出してくるのか・・・・・・どうやって飛び出してくるのか・・・・・・何か能力を使ってくるのか・・・・・・・・・・・・本当に飛び出してく――
その瞬間柱を“粉砕して”レミリアが少女に向かって飛び込んできた。決して細くない柱が粉砕されたことと自らに降りかかってくる破片に一瞬目を閉じそうになって――そんな脳からの信号を必死に拒絶して少女は目を見開き、しっかりと照門と照星を合わせて照準した。
狙いは飛んでくるレミリアの――頭部!
(当たれ――!)
心の中でそう願って少女は引き金を引き――それに連動して撃鉄が起きシリンダーが回って固定され――切った。44Magシルバーブレットが銃身内のライフリングによって回転し、銃口から飛び出して真っ直ぐにレミリアの頭部へと向かい、
レミリアが笑ってほんの少し首を傾げた。それはまるで「わからない」とまだちゃんと喋れない子供が表現するような仕草で、決して大きくも大げさでもなく自然とした小首の傾げ方で――そんなレミリアの髪をかすめるようにして必殺のシルバーブレットは“外れた”。
「な――っ!?」
少女は小さな口を目一杯に開いて驚きを表現する。そんな少女に対してレミリアは笑いを浮かべたまま一瞬で伸びた爪を上段に振りかぶって――
少女の蒼い目が、紅に色を変えた。
瞬間、彼女の見る世界が――灰色に変化する、だけではない、周りの一切が“停止した”。レミリアも、銃口から立ち昇っていた硝煙も、レミリアの飛行に巻き込まれてまだ地面に落ちていなかった柱の破片も、全てが停止する。
その隙に少女はM629SHのシリンダーラッチを押し、シリンダーを左に振り出す。銃全体を傾け、エジェクターロッドを押して空薬莢を排出。それが地面に落ちるより早く素早くタクティカルベストのスピードローダーを手に取り、シリンダーに捻じ込んで一気に装填。
スピードローダーを収める時間も惜しいとばかりにそれを地面に捨て、左手でシリンダーを元に戻し、仕上げとばかりに撃鉄を起こして“紅魔館に入る前にしたようにしっかりと照準する”――あの時は振り返るまでは後頭部に照準していたのだが。
そして彼女の目が紅から蒼へと変わり・・・・・・世界が色を取り戻して、同時に時間も元に戻った。立ち昇っていた硝煙も、柱の破片も――レミリアもまた動き出す。世界は元通りになった。
ただM629SHの残弾が零から六に変わったことだけが――大きな違いだった。
そして撃鉄が落ちる。
最初の一発と同じように額に着弾したそれは今度も同じように貫通した。頭蓋骨を貫通し弾頭が変形して反対側から飛び出て、脳漿が飛び散る。ただ最初と違うのが、撃たれたレミリアが失速しながら前のめりに少女の足元に倒れたために、自らの体液で汚れた床には落ちなかったことだろう。
だからではないが少女はもう一発を今度は心臓を狙って背中側から撃った。今度もまた貫通して床に突き刺さり、結果レミリアは二発の44Magシルバーブレットを頭部と心臓という二つの急所に撃ち込まれたことになる。
そして一切の動きを止めた。
「は・・・・・・はぁ、はぁ・・・・・・」
自分でも気づかず息を止めていた少女は、大きく息を吐いてへたり込んだ。目の前には、今まさに自分が撃ち殺した吸血鬼の死体。部屋は真っ暗。聴こえるのは自分の鼓動と呼吸音。
それだけだった。
門の外、倒れた肢体には雪が積もっていた。今まで微動だにせず、誰も気づく者が居なかったのだから当然だろう。このまま、春になるまで待つことになるのだろうか。
そんな期待を裏切って動きがあった――肢体の指先で。
手だけが、握られたり開いたりを繰り返して、少ししてから地面につけられ、「よっこいしょ」という声が漏れて肢体が膝をついて起きあがった。
「いたたたた・・・・・・防御が間に合わなかったか」
そんなことを言いながら顔をしかめて、美鈴は立ち上がる。その頭部には確かに44Mag弾が貫通した跡があるというのに――いや、正確には違う。貫通した跡から肉が盛り上がってきて、その傷をまるで塞ごうとしていた、いや塞いでいた。
そんな驚くべきことには頓着せず、美鈴は自らに積もっていた雪を払い落とし、紅魔館を見上げた。彼女の耳には、微かな銃声が届いていた。
「『私を倒した存在は直々に相手する、手を出すな』、か・・・・・・お嬢様もほんと物好きですよねぇ」
誰も聞く者は居ないが語りかけるようにそう呟いて、美鈴は仕上げに帽子の雪を払い落とし、そのまま紅魔館に背中を向けた。
彼女の仕事は門番であり――現在の職務には『楽しんでいる主の邪魔をしない』が加わっているのだから当然のことだ。
彼女が心配しているのは主の身ではなく、主の邪魔をする存在が現れること――とそうなった場合のお仕置き――なのだから。
深呼吸を何度か繰り返して、少女はようやく落ち着きを取り戻した。そうすると、一連の流れを振り返る余裕も戻ってくる。目の前には吸血鬼の死体があるが、目を閉じてしまえばさほど気にならない。とはいえあれだけ派手な戦闘をしたのだから今すぐにでも逃げるべきなのだが、能力を使ったことによる疲労と数分経っても誰も来ないことから、彼女はひとまず流れを振り返る。
(なぜ・・・・・・私は撃ってしまった?)
戦闘を始める引き金はまさに彼女が引いた。だがそれは本意ではなかった。だからこそ初弾は外れ、燭台を粉砕した。
ではなぜ引き金を引いてしまったのか。
(・・・・・・そうだ、悪寒がしたんだ)
吸血鬼の言葉を聞いて、悪寒がした――だから撃ってしまった。悪寒の源は――
(まるで・・・・・・まるで全てを“見ていた”ような口ぶりだった・・・・・・)
思い出すだけで彼女の肌は粟立ちそうになる。
吸血鬼ハンターというのは一匹狼も多い。なのにレミリアは少女に上司が居ることを知っているような口ぶりだった。
さらに自分がリュックを背負ってきたことも知っているような口ぶり――これは登山をする者にとっては常識だろうからまだいいかもしれない。
次にまるで“吸血鬼の所在を確認すれば退避しても構わない”少女の任務を知っていたような口ぶり――それはレミリアの曖昧な言葉に惑わされただけ、という考えもできる。
だがこんな吹雪の中、分厚い扉や壁があって、しかも撃鉄は起こしていないから分かるはずもないのに――“なぜレミリアは残弾が五発だということを知っていた?”
「まさか・・・・・・見ていた、なんてことが――」
「それは違うわ、“視た”のよ」
少女が顔を上げるよりも早く燭台の蝋燭が点灯した――それは少女が先ほど壊したものではなく、部屋の左右に備え付けられていた物。一気に眩しくなった部屋に少女は思わず腕を顔の前に翳し――その陰から、信じられないモノを見て目を見開いた。
彼女のすぐ前、倒れているレミリアの身体が蝙蝠へと変化し、バサバサと翼をはためかせながら部屋の奥へと飛んでいく――それが少女を驚かせたのではない。
驚かせたのは蝙蝠の飛んだ先、最初にレミリアが座っていた椅子に――“レミリアが”座っていたこと。短い足を組んで、頬杖をついた、不遜な表情の吸血鬼。
だが、そのレミリアには左腕が無かった――そして本来左腕があった場所に、蝙蝠が群がり、あっという間に左腕が元通りになった・・・・・・かなり傷だらけだったが。
「・・・・・・どういうこと?」
吸血鬼ハンターとして仕事をしている内に“驚くべき事態に適応する”ことに慣れてしまった少女は、ただそう問い返す。
「目を使って“見た”んじゃない・・・・・・能力を使って“視た”のよ――運命を」
「・・・・・・馬鹿馬鹿しい、そんな能力、あるわけが――」
「時間を止める能力も、同じぐらい馬鹿馬鹿しいわね」
レミリアの言葉を一蹴しようとした少女の耳に、レミリアのそんな言葉が響く。それはさらに少女を驚きと共に困惑させた。
確かに少女は『自分と自分の身につける物』以外の時間をほんの僅かな間だが止めることができる。つまり、少女が時を止めたところを観察することは不可能に近い――なのに何故、レミリアがそれを知っているのか。
運命を、視たから――?
そうだ、ただの人間が時を止められるのなら――吸血鬼が運命を視てもおかしくはない。論理としては間違っていないかもしれない、それでも少女は拒絶する。
「運命を視れるだなんて、そんな馬鹿なこと、あるはずがない。ならば私の、私の運命を――」
「正確には違うわ、私は『運命を操る』能力を持っているの――ついでに教えてあげるわ。貴方の能力は正確には『時を止める』ものではない。もっと面白いことができる能力よ・・・・・・まぁ、まだ使いこなせていないみたいだけど」
「・・・・・・有り得ない、運命なんて有り得ない」
「その口ぶりだと・・・・・・私の能力じゃなくて、運命そのものを拒絶しているようね・・・・・・人間風情が、面白いわ」
確かに少女の能力は時を止められる。それは他の存在には知覚すらできないはずの能力。それを知っていることからしてレミリアの言葉の信憑性はより確実なものになった。
それでも、拒絶する。それは相手が本当に『運命を操る』ことができるなら自分に勝ち目があるはずもないというのが一つ目の理由、そしてもう一つは・・・・・・
「運命なんて有り得ない・・・・・・そんな馬鹿げたもので、世界を――私の人生を語られてなるものか!」
「本当に・・・・・・人間というのは、面白いものね」
そう吐き捨てながら立ち上がった少女に対して、レミリアは憐れみを込めた笑顔を見せる。その表情にはどこか自嘲も混じっていた。
「運命は打ち破れる、なんて言葉を信じたり、自分が親に捨てられた原因かもしれない能力を使ったり――上司に捨てられるかもしれないという思いがあっても、まだ上司を信じようとするんだから」
「・・・・・・な、何を言って」
少女がどもったのは、レミリアの言葉に対してだけではない。その表情にもだ――嗜虐的、挑発的、そんな言葉が似合わない表情なのだ。まるで、本気で少女を哀れんでいるかのような哀しげな微笑みを、レミリアは浮かべている。
「貴方の装備・・・・・・どう見ても、私のような吸血鬼に対しては力不足よ。門番を一度ぐらいなら凌げても、ね。たとえ偵察が主体としても、軽装備過ぎる。貴方のその能力があっても、自殺行為ということに変わりは無いわ・・・・・・なぜ、そんな任務を貴方に託したのかしら、上司は」
「そ、それは・・・・・・」
「あわよくば、貴方が殺されることを望んでいた、というのはどうかしら」
過ぎたる力を持つ者は、同属からも嫌われる。
それが原因で親に捨てられた少女が――他の人間からも捨てられないと、どうして言える?
「――っ、有り得ない。そんなこと有り得ない。なんで私が殺されることを望むなんて――」
「だから人間は面白いのよ・・・・・・親に捨てられた理由が能力のせいだと自覚しても、相手が上司となると――信頼したい上司となると、それを受け入れられない」
もはや少女は首を振り続けるだけだった。M629SHには必要以上の力が込められていたが、それが分かっているかどうかすら怪しい。
レミリアは続ける。
「その運命は、別に私が操作した訳じゃないわ・・・・・・能力を持ったことによる、貴方の運命。それは今更能力を捨てたところで、変えられるものではないわ」
「・・・・・・」
「だけど、ここから先の運命を変えることはできるわ――私の元に来るなら」
「・・・・・・ぇ」
思わず、少女はレミリアの表情を見てしまう。それは先ほどまでより遥かに驚くべき表情――慈愛に満ち溢れた微笑みと共に、レミリアは彼女に手を伸ばしてくる。
「人間が貴女を恐れるのは何でだと思う? それは人間の大半が貴女より弱いから。だけど私は貴女より強い。人間ごときを恐れるなど有り得ない――だから貴女を捨てることなんてしない」
その言葉は、少女が今まで退治してきたどんな吸血鬼よりも残酷で――少女が今まで信じてきた仲間や同僚達よりも優しかった。
恐れる必要がないから捨てることなどありえない――綺麗ごとではなく、純然たる事実。それを突きつけられて、少女の心は揺らぐ。
「貴女に、別の運命を歩ませてあげる・・・・・・どうかしら?」
甘く優しい悪魔の言葉。受け入れれば待っているのは魂の隷属。
それが分かっていても――少女は伸ばす左手を止められなかった。もちろん二人の距離は二人の腕を合わせた以上に離れているが、少女が腕を伸ばしたという事実だけで、レミリアの口元に満足げな笑みが零れる。
そして少女が呟く。
「本当に運命があって・・・・・・人でない貴女が運命を変えることができるなら・・・・・・」
世界は灰色、蒼は紅。
蝋燭の揺らめきは止まり少女以外の時が止まる。少女は伸ばした左手を戻して胸元にやり、タクティカルベストからM67破片手榴弾を取り出した。
「ならば、人を超えた能力を持つ私が貴女を殺して――」
そのピンを口で外し、握りしめた手を緩めてレバーを飛ばす。これで遅延信管が作動した。爆破まで残り四秒。
本当ならこのまま二秒ほど待ってから時間停止を解除して投げるべきだが、能力の連続使用がそれを許さない。諦めて少女は振りかぶり――
紅は蒼、世界は元通り。
「――自分で運命を変えてみせる!」
握りしめていたM67を思いっきり良く投擲して来る爆発に備えて柱の陰へと跳んだ。
一拍遅れて、爆発。破片が彼女の隠れる柱にまで飛んできた。
(まだまだ――!)
さらに一拍置いて柱の陰から彼女は銃と腕と顔だけを出して、まだ煙が収まらぬ椅子の辺りへと駄目押しの44Mag弾を撃った、撃った、撃ち続けた。わずかな間を置いて速射される弾丸は正確に椅子の辺りへと飛んでいく。あっという間に残弾の四発が消費された。
(・・・・・・やったか?)
少女はそう思いながらも油断せず、目だけは煙の中ほどに向けたままリロードを行う。最後のスピードローダーから弾がシリンダーに装填、スイングアウトしたシリンダーを元に戻すところで一瞬だけ手元に目をやる。
その一瞬だけで十分だった。
煙の中から何かが高速で彼女に向かって飛び出してくる。やはり生きていたかとM629SHを向けたところで――少女の顔が大きく歪む。
飛び出してきたのは手榴弾の破片と44Mag弾を食らった――テーブル。
「くっ!?」
慌てて身を低くする彼女だがM629SHがその動きに遅れた。鈍い衝撃が彼女の手に走りテーブルと共にM629SHが後方に弾き飛ばされる。
「つぅっ!」
その痛みに表情をさらに歪ませ――たところで今度こそレミリアが彼女の元に飛び込んできた。
伸びた爪を振り下ろしてきたレミリアに対して少女はすぐさま反応し両手に一本ずつナイフを取り、防御的な逆手に握った。そして振り下ろされた爪を受け止め――ずに受け流す。
相手の身体能力の高さを彼女は既に把握している。まともに受け止められるなどと考えていない。
「――くっ」
果たして、相手の力に逆らわず受け流しただけだというのに少女は早くもナイフを取り落としそうになってしまった。まるで思いっきり振り回される鉄パイプを受け止めたような衝撃に手が痺れる。
「あら、もう降参?」
「っ、誰がぁっ!」
地面に降り立ちざま、間髪を居れず反対側の爪が逆袈裟に振り上げられる。それも辛うじて受け流すが、無理な姿勢からの攻撃だというのにレミリアの斬撃は凄まじく、受け流した少女の方が体勢を崩しかけてしまう。
本当なら距離を取って立て直したいところだが、これだけの近距離では跳ぼうとしただけで敗北の可能性が高い、それは避けなければならない。
だから少女は片方のナイフを捨てて一本のナイフを順手に握りなおし、それでレミリアの攻撃を捌くことにした。爪による斬撃という特性上、両手が一辺に襲い掛かってくることは無いといっていい。ならば両手のナイフで立ち向かった方が良いという考えからだ。
それでも今度は受け止めた振り下ろしの斬撃は重く鋭かった。かなり近い位置で二人の顔が向き合う。
「綺麗な顔ね・・・・・・傷つけるのは勿体無いわ」
「――戯言を!」
足をバネのように縮めてから力をこめて少女は爪を弾き飛ばした。だがレミリアは逆にその勢いを利用して体を回転させての斬撃。やはり体勢が悪かった少女は今度は体を反らせてそれを避けることに成功した。
そこから先の少女はまさに必死だった。わずか三十秒も経っていないのに少女の疲労は大きく溜まり、レミリアに対して効果的な攻撃を全く行えていない。受け流すことが精一杯だった。
「こん、のぉっ!」
たまに受け止めてしまった場合は思いっきり力を込めて弾き飛ばすことになり、それがまた疲労を増大させる。掠めた爪による傷とそれに伴う痛みも、彼女を追い詰めていく。
対するレミリアにとっては何ら苦痛でも疲労でもなかった。ただお遊びといった風に爪を振るうだけで、たいてい力弱き人間はすぐに倒れるのだからそういった意味では疲れは大きくなるが、それはあくまで比較した場合のことだ。絶対的にはむしろ小さい。
「ほらほらぁ、気をつけないと危ないわよ?」
「くぅっ!」
嘲りを込めた挑発と爪による斬撃で少女の心と体を追い詰めていくレミリア。それが分かっていてもどうしようもない少女。
だが、少女は何故――
「――なんで、能力使わないの?」
「っ!?」
一瞬の驚愕が命取り、足元を襲う強烈な足払いを少女は小さくジャンプすることで間一髪回避した。だが攻撃はまだ止まらない。
そう、少女は何故、能力を使わないのか――それは正確には違う、“使えない”のだ。明確な使用制限がある訳ではないが、能力は彼女に重い身体的・精神的負担をかけてくる。もちろん長く時を止めればそれだけ負担も大きくなる――だからこそ少女は僅かな間しか、時間を止められない。
レミリアはそれが分かっているかのように、嘲りの笑みを浮かべて爪を振るい続ける。少女はもはやそれを受け流すことすらできなくなってしまった。斬撃を受け止めるごとに体勢が左右に大きくブレ、自然と疲労も大きくなる。
それでも決定的な攻撃をレミリアは行わない――遊んでいるのだ、弄んでいるのだ。
「残念ね・・・・・・貴方の運命は、従うか死か、それとも裏切られるか、そのどれかよ」
「ぅっ――」
余裕は言葉にも表れる。息一つ切らさず、レミリアは喋りながら左右の爪を振るう。対する少女はもはや呻くことしかできない。
「そうね、貴方は自分で運命を決められた・・・・・・死か、裏切りか。どちらにせよそれは運命を打ち破ったんじゃない、“別の運命に飲み込まれた”だけよ」
「くぅっ!」
タクティカルベストの左肩の部分が大きく切り裂かれ鮮血が飛び散る。もはや金属プレートなど狼を相手にする藁の家程度の防御にしかなってくれない――つまりあっても無駄。
爪による傷と、言葉による嬲り。状況は好転などしない。
「運命を変えられる、というのも半分正解で半分間違いね。運命を変えたところで、運命が思い通りになる訳じゃない――まぁ、私の能力も似たようなモノだけど」
「――っ」
どこか遠くを見ながらでも正確な一撃、隙の無さ。このままでは反撃どころか相打ちの手段すら見つからず、少女は――負ける。それが分かっていても、少女にはただ耐えるしかない、それしかできない。
もはや相手の爪に合わせてナイフを振るっているのか、ただ腕を振り回しているだけなのかの区別すら少女にはつかない。
「さぁ、貴方が選べる運命は二つに狭まったわ――どちらを選ぶ?」
そして――レミリアの爪が少女のナイフを天井高くへと弾き飛ばした。もはや状況把握すらまともに行えていない少女はナイフを目どころか顔全体で追ってしまう。
そんな無防備な少女に対してレミリアが爪を大きく振り上げ――
「私に服従するか、それとも――!」
角度をつけて突き刺すように少女の胸元を狙う――その様が、少女の目にはスローモーションに映った。
ゆっくりと振り下ろされる爪。同じぐらいゆっくりとそれを追う自分の視線。長く伸びた爪と皮膚の間すら判別できるぐらいに少女の体感時間は延びる。
それでもやがて来る結末を後回しにすることしかできない。レミリアの爪は少女の胸元に残った手榴弾を掠めるようにしてまずタクティカルベストを貫通する。そしてその下の金属プレートで僅かに速度を落としながらもなおも突き破ろうとし――貫通すると同時に痛みが少女を襲った。それは時間が進むごとに強くなっていく。
さらに皮膚を突き破った爪はそのまま肉をも貫きその奥にある心臓を――
全てを、灰色に。
(――間に合った!!)
思わず心の中で喝采をあげながら少女は跳びあがるようにして後方に退った。爪が抜ける際の痛みで顔をしかめるがそれでも彼女は止まらない。
レミリアの攻撃を受けながら僅かでも時間が止められるように能力が回復するまで待ったのだ、もはやチャンスは一度しかない。数秒も止められるか怪しいのだ、逃げることなど考えていない。
彼女の狙いは――後方に弾き飛ばされていたM629SH。
「くっ!」
地面に着地した衝撃ですらうめき声を上げるほど満身創痍な体を押して少女は綺麗に後ろへと転がり、M629SHを右手で拾った直後に膝撃ちの姿勢に立て直した。
必中を期すためには両腕を使いたかったが左腕の痛みは激しく、距離も近かったため少女は諦めて右手だけでレミリアの額に照準して――
レミリアの爪に引っ掛かった円い金属製の輪に彼女が気づくと同時に時間停止が解除され、世界に色が戻った。
「ここで――」
レミリアの言葉の続きも少女の耳には入らない。彼女の意識は既に自らの胸元に残った――レミリアの爪が安全ピンを外した――手榴弾に向けられている。下を向いた彼女の目に映った手榴弾はレバーすら外れていた。慌てて少女は空いていた左腕を反射的に無理やり動かして手榴弾を掴み取って適当に放り投げて――
「――死ぬか」
レミリアが言い終わると同時に起こった手榴弾の爆発に対して少女が出来たことは、咄嗟に両腕で頭部をカバーすることだけだった。
少女の胸元に手榴弾が残ったのは偶然。
レミリアの攻撃が手榴弾自体を壊さなかったのも偶然。
レミリアの攻撃直後に少女の能力が回復したのも偶然。
そして彼女が銃を拾うために後ろに跳び――結果的にレミリアの爪に引っ掛かった手榴弾のピンが外れたのも、また偶然。
そして、少女が死ななかったのは――
「・・・・・・ま、そう簡単に死ねるならとっくに死んでるわよね」
聞きたくなくても耳から入ってくるその声が、少女の目覚まし代わりとなった。目を開けて最初に見えたのが天井だったから、状況を把握しようと体を――起こせない。体中に走る激痛に少女は声にならぬ呻き声を上げる。
諦めて仰向けになったまま、体の具合を確かめようと両腕を――動かせない。体よりは範囲が狭い分、逆に鋭い激痛に今度は呻き声すら出てこない。
「あ、動かさない方が良いわよ――ついでに見るのも止めた方が良いわね。私から見ても、その・・・・・・かなり、グロいから」
二度の激痛に記憶を呼び覚ました少女は、それもそうだろうと納得する。無事(?)に生きているということは、手榴弾の破片は彼女の急所には当たらなかったということだ――その代わりに、両腕がボロボロになっているのだろう。
そんな風に考える少女の目の前に、ひょいとM629SHが・・・・・・いや、M629SH“だった物”が突き出される。だった、というのはそれがもはや使い物にならないことが明らかだったから。両腕とともに手榴弾の破片をモロに食らえば、頑丈なリボルバーでも無事では済まない。
「なかなか大層なオモチャだったけど、こうなっちゃうと、ねぇ・・・・・・」
彼女の視界から壊れたリボルバーが消えて――代わりにレミリアの顔が現れる。倒れこんだ少女の顔を上から覗く形だ。
「大丈夫?」
「・・・・・・つぅっ!」
「痛みを感じられるなら、大丈夫ね」
本当はいけしゃあしゃあとのたまうレミリアに対して抗議したかったのだが、下手に筋肉を動かしてしまったせいで呻き声になったのだが、彼女は一人納得して続ける。
「どう、運命を打ち破れなかった気分は?」
「・・・・・・」
「そ、そんなに睨むことないじゃない・・・・・・」
朗らかに言い放つレミリアを――痛みのせいだったのだが――睨み視線はかなり鋭かった。今までの戦闘での傷より遥かに大きいダメージだったのだろう。
そう、自分は勝ち目すらなかったのだ――その事実を実感して、少女の心は急速に冷めていく。視線からも力が抜けていき、閉じられる。
抵抗も逃亡もできない、ならばこのまま死ねば良い、そうすれば、何も無い闇の中へと――
「こぉら」
「――#◆@㏄$!?」
安寧を打ち破るのはレミリアの小さな握り拳。殴った、というより小突いただけだったが、少女の体に激痛を走らせるには十分すぎた。冷たい闇へと堕ちようとしていた意識が一瞬で浮かび上がる。
「せっかく生きてるのに、死んだら勿体無いじゃない」
「・・・・・・ぅ、ぁ」
非難がましい目も気にせず、レミリアは自分の親指を口元に持っていき――自らの鋭い牙で皮膚を食い破った。零れる雫はワインのように紅い。
その親指が口元に近づいてきて、少女はようやくレミリアの意図に気づいた。吸血鬼の血液は、滋養強壮回復効果に人前では言えないような効果がある、というのは吸血鬼ハンターの間では半ば常識となっていた。
どんな副作用があるか知らなかったから少女は飲んだことがないが、今まさに自らの体が実験台になるという事実に――だが彼女は目だった抵抗をしない。
肉体的にできないというのもあったが、精神的にもする気が起きなかった。
「運命によればこれでいけるらしいんだけど・・・・・・まだ試したことがないのよねぇ」
目の前でどこか不安そうに不吉なことを言う吸血鬼が、どこか可愛らしく見えて――何となく、示された運命に乗ってみようか、などと思ってしまったから。
薄く開いた口元に親指が押し付けられ、生暖かい血液が口内へと侵入する。
その暖かさに、本当に見捨てられないか、それ以前に本当に吸血鬼の血液が効くのか、副作用が無いのか――この運命の先に何が待っているのか、そんな不安が優しく消えていく。
喉を通り越した血液は、体中に広がるような錯覚と共に少女の体を内から温めていき――自然と、少女の目がまた閉じていく。
だが今度の闇は冷たくない、暖かくて、優しくて、まるで知ることのなかった――
「おやすみなさい――“十六夜咲夜”」
その声は、少女の耳に届いていなかったかもしれない。
「その後は大変だったわ・・・・・・目を覚ましたら急にハイになっちゃうわ暴れだすわ。ちょっと血液の量が多すぎたのかしら」
「・・・・・・忘れてください、お嬢様」
長い長い記憶の旅路は、目の前の傷だらけのリボルバーの掃除には十分すぎるほどの時間だった。むしろ途中から手が止まっていたりする。
あの長くて短い夜の邂逅からこれまでの間、咲夜が銃を使うことは無かった。能力の使い方と同時に美鈴が教えたナイフの投擲技術が性に合ったということもあるし、整備や弾丸の補充が問題だと咲夜は理由づけていたが、その程度どうにでもなることはレミリアにでも分かること。
それでいていつまでもリボルバーを持っているというのは――
「まだ・・・・・・過去を振り切れていないのかしら」
「――っ、それはありません」
レミリアの言葉に咲夜が振り返りながら強い口調でそう言い放つ。直後、過ぎたる口だと考えたのか少し顔を紅くしながら顔を元に戻して、目の前のバラバラの部品を組み立て始めた。
その手つきにいささかの動揺も見られないことから、咲夜の言ったことが本当であるとレミリアは信じることにした。
「私は、お嬢様がくださった運命を存分に楽しんでいます・・・・・・思っていた以上に、刺激に満ち溢れていますが」
「それは良かったわね」
思い当たる節は小石を投げれば当たるほどに多すぎて、レミリアはどこか虚空を見つめている。我が侭な吸血鬼は自覚はしているのだ、自重はしないが。その代わりに自分も刺激たっぷりの紅茶を飲まされることがあるのでおあいこか――そう自分を納得させて、彼女は改めて咲夜の背中を見つめる。
ほんの気まぐれから自らに近づいた運命を手繰り寄せた結果が、目の前に居る。実は、レミリア自身も運命というものが気に入らなかった。確かに彼女は運命を操作できるが、運命を新しく創ることはできない。結局、彼女もまた運命は打ち破れない。だから大事な時以外には、能力を使おうとしない。
「・・・・・・ふぅ。できましたわ、お嬢様」
ただ、今のように吸血鬼には眩しすぎるほどの笑顔を見せる咲夜の顔を見ると、そんな能力も悪くないかなと思う――らしからぬそんな心境を、彼女は誰にも話したことがない。
振り返って笑顔を見せる咲夜の手には、綺麗になったM629SHがあった・・・・・・とはいっても細かい傷が消えただけで、痛々しい姿に変わりは無いが。
「・・・・・・やっぱり、河童にでも修理してもらわない?」
「いいんですよ、お嬢様」
弾は入っていないが、撃鉄を起こして咲夜は適当に狙いをつける。その銃口から逃れるようにレミリアは位置をずらした、何となく。
そして咲夜が引き金を絞り――
「壊れたままだからこそ、示せるモノもあるんです」
響いたのは、涼しい金属音だけだった。
『運命』が嫌いだった――そんなモノに自らの人生を左右されるなどと信じたくなかったから。
『能力』が嫌いだった――それが自分の薄汚い人生の根源だったから。
・・・・・・そして結局、この二つから逃れられていない。
・・・・・・でも、それで良いと思う。
紅魔館のメイド長の私室には、壊れたままのリボルバーが飾られているという。
それは額には入れられているが、装飾どころか傷だらけの一品である――実はそれを見かねた主が額を造らせたのだが。
たまに訪れる客人が初めてそれを見て、何であるのか、なぜ飾られているのか、なぜ傷らだけなのかを問う。
それに対してメイド長はいつも一言で答えるという。
「忠誠心の証です」
それを知らないのは主の吸血鬼だけ、というのはどうでもいい話。