0 ―序章―
暮れ六つの逢魔時。
幻想郷においてそれは人の時間の終わり、そして、妖怪の時間の始まりを表す。
夕日に焼けた空を背に、私は幻想郷の鬼門へと向かっていた。
晴れることのない深い霧に潜り、呪を唱えながら真っ直ぐ進む。
すると、巨大な門に囲まれた、妖気の漂う日本家屋にたどりつく。五百年前から変わっていない、見慣れた八雲の実家だ。
帰宅した私は、すでに起きていた主が、縁側にて出迎えてくれていることに気がついた。
自然、足をそちらへと向ける。
「ただいま帰りました、紫様」
「お疲れ様、藍」
結界の見回りを終えた私を、正装していた主はねぎらってくれた。
「私が眠っている間、変わりはなかった?」
「大きな変化は見られません。……が、懸案していた事態が近づいている気がします」
「やはり、ね」
主の八雲紫は予想通りという顔で、さほど衝撃を受けた様子もなかった。
あるいは、幻想郷が崩壊するかもしれないという報告にも、取り乱すことなく、続ける。
「山の方ではかなり荒れてるようね」
「いえ、動いているのはいずれも小物。とはいえ、このままでは上まで動揺が広がるかもしれません。実際に天狗達の間にも不満が溜まっているようです」
実際は、妖怪の山だけではない。
飼い殺しの身に気力を下げるもの。縛られることを嫌って今まで以上に人を襲うもの。
幻想郷に住まう妖怪の意識は、大きく二つに分裂してしまっている。
それも全て、百年近く前に幻想郷に引かれた、『博麗大結界』が原因であった。
人を襲う、という妖怪の本能を押さえつけることは容易ではない。私達の予測よりも早く、徐々に問題が、時に野望の形となって紛糾している。
結界を歓迎していた人間側も、この妖怪達の動きを受けて、不安と混乱が徐々に増しているようであった。
限定された世界に、境界がいくつも生まれ、その断絶が進む。
根本的な問題の解消に至らぬまま、幻想郷は緩やかな死へと向かっている。
「……厄介なものね。発生したひずみに、澱んだ気はたまる一方。しかし、そこで暮す者は、ほとんどがその正体に気がつかない。目には映らない、映ったときには、すでに時遅し、そんな異変ね。貴方ならどうするかしら」
「難しいですね。なだめようと力で押さえつけようと、ひずみそのものが無くなるわけではない。この状況で外界から大きな勢力がやって来れば、さらに状況は悪くなるでしょう。……そして、その可能性は常に開かれています」
私は苦い未来を口にした。
何事もないのが一番ではあるが、常に起こりうる最悪の事態へと気を配らなくてはならない。
幻想郷を管理する八雲の一員として、必要な姿勢だった。
深々と一礼して、主に進言する。
「今こそ、紫様の御力が必要とされる時ではないでしょうか。私には幻想郷の流れを支配することはできません。式の私にできるのは、手入れくらいです」
「いいえ、それは私も同じよ藍。その理由も知っているでしょう」
「はい……この幻想郷が八雲ではなく、そこに生きる物達、そして外界で待つ妖怪達、全てのものであるためですね」
「それだけではないわ。この世界を構成する思念は膨大。常に式を書き変えられ続ける危うい塔ともいえる。迂闊にいじればそこから腐敗し、取り返しのつかない結果を生む」
「はい……」
「観測による微細な影響、破滅へと到る道への細工。この地を管理する私達といえど、その程度しか許されていない。許されてはならない」
主の顎が、つ、と上がり、その目が遠くに向けられた。
「……はずなんだけどね」
「紫様?」
引っかかる言い方だったので、私は聞いていた。
「何かあったのですか」
「ええ。こちらにもニュースがあるの。博麗の巫女が決まったわ」
「ああ」
それまでの緊張が解け、私はほっと息をついた。
「そうですか。何といっても、今は大事な時期ですからね。心配事が減るのはありがたい話です」
「さて、果たして減ったかどうか」
「何を仰るんです。ついこの間まで、その件で頭を悩ませていらっしゃったじゃないですか」
「…………」
「それで、彼女の名は?」
「霊夢。むは夢と書く」
「博麗霊夢……ですか。不思議な名前ですね。でも良かった、無事に決まって」
「…………」
「願わくばその巫女には、本当に楽園となった幻想郷を、見せてあげたいですね」
私は明るく、希望をこめて言う。
だが、主は暗い表情のままだった。
「知恵の実は林檎だったのかしら……そうじゃなくても、これは大罪ね」
独り言のように、彼女は呟く。
自嘲に悲嘆を混ぜたような、そんな笑みを浮かべている。
崩れていく城を、沈んでいく島を見下ろすように。
それは私の心を落ち着かなくさせた。
「……紫様、それはどういう意味ですか?」
「さぁね。私はその楽園を、地獄から楽しませていただきますわ」
「やめてくださいよ。縁起でもない」
「ふふ、そうね」
しかし、主は、その表情を消してくれなかった。
結局そこで、話は流れてしまい、私もすぐに忘れてしまった。
私がその意味を知ったのは、それから九年後のことである。
1 ―幾望の宴― (一日目 夜 式の場合)
酒の香りが漂う中、たまに弾ける笑い声。博麗神社の宴会は、今夜も盛況だった。
私、八雲藍は、神社の庭の一角で、誰と戯れるわけでもなく、月を肴に飲んでいた。
この宴会は、明日の夜に開かれる本番の、前夜祭という名目で行われている。
梅雨が明けてからの満月に、盛大に飲み明かそうということだそうな。
発案者は人間の魔法使い、霧雨魔理沙。当日になって知らされるという、やぶから棒な呼びかけだったが、雨が苦手な紅魔館の主も、守矢の神社も賛成し、結局二晩続けて宴会が開かれることとなった。
といっても、今日集まっているのは十名ほどで、割と静かな飲み会である。
望月前の十四夜に、心を乱されることもない。自分としては、むしろこんなムードの方が好きだった。
「楽しんでますか?」
「ん?」
振り向くと、顔見知りの鴉天狗が、とっくりを手にして立っていた。
「楽しんでいるよ。そちらはどう?」
「もちろん、楽しんでいますとも」
射命丸文は、私の隣に、いかにも天狗らしいスマイルを浮かべながら座った。
「今日はお一人で?」
「いや、主の付き添いだよ。式が一人でのこのこと、このような遊びに参加することはないから」
「おやまあ、それはずいぶんと厳しい扱いですね」
「最近は特に忙しくてね。家事にお守りに結界の見回り。休む間といえば今くらい」
「使われてますねぇ」
「それが式ですから。……おっと、これはどうも」
山吹色の酒を、私は自前の盃に受けた。
とっくりを引っ込め、彼女は人懐っこそうな顔を近づけてきて、
「……今夜も明日の晩も、仕事は抜きで楽しみませんか?」
「お互い様じゃないのかな。貴方もネタを探している最中なんでしょ。私に話しかけたのもそれが理由のはずだ」
「あやややや、バレてますね。神社の宴会は、ネタには事欠かないものですから」
「それは言えている」
酌を返しながら、私はくすりと笑った。
この神社の宴では、幻想郷でも有数の力を持つ妖怪共が集まって、互いに親交を深めたり、競争したりするのが常であった。
つまり、何が起こっても不思議ではない。
新聞記事を発行する鴉天狗にとっては、格好の取材現場なのだろう。
「しかし、貴方の主の姿が見えませんが」
「どこかで覗いているんだろうね。あるいは霊夢の所にいるとか」
「ああ、そう言えば、お気に入りですよね」
「お気に入り……か」
なるほど、と私は彼女の言葉に頷いた。
確かに私の主、八雲紫は、当代の博麗の巫女である、博麗霊夢を気に入っていた。
これまでも彼女が博麗の巫女と接したことはあったが、こと霊夢に関しては、その回数が桁違いである。
もっとも、それを当の巫女が嬉しく思っているようには見えないし、時には露骨に迷惑がってるように見える。
実際、主はあの性格だ。一年中使われるだけでなく、からかわれている身の私からすれば、霊夢に同情を禁じえなかった。
「あの御方も何を考えているのだか。まだまだ私は及ばないわ」
「おや。その言い方ですと、『及ぶ』ことを望んでいるように聞こえますが」
「もちろん、そのつもりで生きているよ」
「ははぁ、なるほど。やはりそうなんですねぇ」
射命丸がしたり顔でうなずきながら、手帳にペンを走らせるので、私は不思議に思って聞いた。
「やはり、とは?」
「前に取材させていただいた時、八雲紫さんから、貴方は式であることを忘れているようだ、とも聞いてましたからね」
「まさか。これでも本分はわきまえているつもりさ」
思わず苦笑いして、彼女からいただいた酒を一口飲む。
うん、旨い。
「……でもね、紫様のために働く、紫様を超えようとする、どちらも私の生きがいには変わらないから」
私の言葉に、彼女はペンを動かす手を止めて、きょとんと瞬きした。
「それって矛盾してませんか?」
「統一された法、唯一の解。それを求める者の目に、世は矛盾が渦巻く混沌と映る。それでも、世界は動いている。崩れることなくあるがままに」
「……えーと」
「はは、いや失敬。煙に巻くつもりじゃなかったんだ。私も答えを探している最中なのよ」
私は弁解しながら、夜空を見上げた。そこにはまだ白い月が浮かんでいる。
すぐそこにあるようでいて、手が届かず、その裏側も見えない。私にとって紫様は、そんな存在だった。
単純な計算力でも実力でも、彼女には遠く及ばない。だが、その側で輝けるだけの存在になることができれば。
決してあり得ない話ではなく、要は物差し次第だと思っている。どんな力の差も、目的の前では、質に応じて相対化するからだ。
そして、私の目的は、この身が式神となった時から変わっていない。幻想郷を真の楽園とするために、主の手足となって働くこと。
つまり、式が主を超えるというのは、私がそれを確信し、主がそれを認めてくれなければいけない、ということになる。
一億年かけても、それが間に合うかどうかは分からない。だけど私は、誰よりもあの御方に認めてもらいたいのだ。
式として、そして……
「わかりました。ぜひ、答えが見つかった時はお聞かせください」
「いいとも。それまでお互い、生きていることを願って」
私は冗談交じりに、盃を持ち上げる。
射命丸は軽くお辞儀して、今度は帰り支度をしていた神様達の元へと取材しに行った。
さて、私もそろそろ紫様を呼びに行くか。
「妬いてるの? 藍ちゃん」
立ち上がろうとしていた私は、半腰で振り向いた。
浅葱色の着物。みょうちくりんな帽子。螺旋を描いた三角巾が、桜色の髪に乗っている。
ふよふよした掴み所の無い雰囲気は、亡霊ならではだろう。
背後に霊魂を従えた西行寺幽々子が、いつものにこにこ顔で浮かんでいた。
「こんばんは、幽々子様。しかし、妬いている、とは?」
「紫があの巫女ばかり構っているじゃない。だから藍ちゃんは、やきもち焼いてるんでしょ?」
「………………は?」
「そういう時はヤケ食いね。ほらほら」
どこに隠し持っていたのか、私の座る前に次から次へとお膳が用意された。
ざっと十人前はある。
「さぁ、お腹いっぱい食べなさい」
「……さすがにこんなに入りませんよ」
「あら、もっと食べないとダメよ。ヤケ食いなんだから」
「ヤケ食いする理由はありませんし、その効能も信じていません」
「八雲藍。食い改めよ、冥界に近づけり」
「いや死んどるやん」
「白玉楼に来れば毎日食べ放題よ?」
「新手の飯ア待望論かいな」
たまらず二度、平手で突っ込むと、幽々子は扇で口元を覆い、目を嬉しそうに細める。
「ああ、やっぱり藍ちゃんのツッコミは素敵ね。妖夢に教えてやってくれないかしら」
「望むところです。あの子が心労で倒れる前に、ぜひとも伝授しておきたいですからね」
これは冗談ではなく、本気だった。
「あれ、そう言えば、妖夢は?」
「向こうでお友達と飲んでいるわ」
「へぇ……」
見ると確かに、半人半霊の従者は、人間の霧雨魔理沙や十六夜咲夜と飲んでいた。
数間離れたここからでも分かるほど、仲良さげに談笑している。時折聞こえてきた笑い声は、彼女達のものだったのか。
「というわけで、若い人は若い人にまかせて……」
「年寄りは年寄りで、ということですか?」
「あらあら、いけないわ藍ちゃん。私達、まだお肌もピチピチじゃないの」
「妖怪と亡霊ですからね」
「せめて、鯛と島鯵、と言ってほしかったわ」
「単に貴方の好物なだけじゃないですか。しかも海の幸だし」
「素晴らしいわ。それこそ私が求めているものよ。藍ちゃん、今度余興で漫才を組んでみましょう」
「丁重にお断りします。ボケの相手は紫様だけで十分です。成長した妖夢に期待してください」
「もー、どうしてそんなに改まった口調なの?」
「……ああ」
そういうことか。
やっと私は、彼女が不満そうに絡んでくる理由に気がついた。
「これでいいのか、幽々子」
「そう。それでいいのよ藍ちゃん」
口調を変えた私に、幽々子はぱちりと扇を閉じて、満ち足りた顔を見せた。
幽々子と会う時は、基本的に主の客人として扱うことが多い。自然、私は彼女に対して、敬語で話す機会が多くなる。しかし、私達は元々、気安い口調で語り合う程度の仲なのであった。
「とはいえ、主と同じくらい言動が謎だらけなんで、幽々子は私にとって得意な相手じゃないんだけど」
「いやいや、口に出てるわよ藍ちゃん」
「わざと出しているの」
「紫は向こうでお話中だし、妖夢は取られちゃったし、余り者同士仲良くしましょう」
「妖夢をあの中へとやらせたのはお前だろう。あの子は自分から主の元を離れたがる性格じゃない」
「そうね。藍ちゃんとおんなじね」
「……あの、どうしても私を霊夢に妬かせたいの?」
「知りたいと思わないかしら。紫がなんであんなに、霊夢に懐くのか」
「博麗の巫女は結界の要、霊夢は妖怪の人気者。問題ないでしょ」
「そうか、藍ちゃんは霊夢じゃなくて、紫に妬いていたのね」
「なんでそーなる」
ああもう。
話すだけで疲れてくるから、この亡霊嬢は苦手なのよ。とほほ。
そんな私の心を知ってか知らずか、幽々子は小さな甕を取り出した。
黒い無骨な装飾の、怪しげな甕だ。
「食べないなら、こちらを味見してみない? 特性のお酒なんだけど」
「はいはい、いただきます」
投げやりな態度で、私はそれを受け、口に流し込んだ。
「……む」
眩惑。
芳醇な香りが鼻へと抜ける。
夢から戻った私は、ほうと息をついて、盃を見下ろした。
「どうかしら」
「いささか驚いた。明日にはもっと上物を?」
「いいえ。これは藍ちゃんのために、特別に用意したお酒」
「私のために? なんだか怖いな。裏がありそうだ」
「ほらほら、もっと飲んで食べて。その料理は妖夢が作ったのよ」
「となると、食べないわけにはいかないわね」
仕方なく降参して苦笑を見せ、私は幽々子と飲むことになった。
古酒が喉を潤し、その余韻に、つまみへと箸が伸びる。
純朴な味付けはいかにも妖夢らしい。そう誉めると、幽々子との会話はさらに弾んだ。
きっかけは料理に始まって、とりとめのない近況について。
だけどいつしかまた話題は巡って、霊夢と主の話になった。
「博麗……霊夢か…… 」
彼女は不思議な存在だった。
あるがままに、自由に生きているようでいて、博麗の巫女だけはちゃんと続けている。
なぜか常識以上にお賽銭を好み、妖怪を情け容赦なく退治したりして。
何か秘密がありそうでも、絶対にそれを語らなそうで……、
酔いが回ってきた様だ。
「私は……知りたいことだらけね……」
主が霊夢をどう思っているのか、霊夢は何を考えて生きているのか、どうすれば私は紫様を越えられるのか、紫様の本心は……。
この幻想郷には、知りたいことだらけなのに、
「誰も……教えてくれはしない……紫様も……霊夢も……だから……自分で見つけなきゃ……」
主の役に立ちたくて。
でも、主の真意を読み取れた時には、いつも手遅れで。
それでもいつか追いついて、自分を認めてもらいたくて。
昔から変わらぬこの思い、どうすればあの御方を超えられるんだろう。
何だ。体が動かない。
頭も朦朧として。
「幽々子……まさかお前……毒を……」
呂律の回らなくなった舌で、それだけ喋るのが精一杯だった。
やがて、私の意識は闇に落ちた。
まどろみの中、何かに飲み込まれた気がした。
それは私の体が、よく知っている感触だった。
2 ―飛んでけ賽銭箱― (二日目 昼 式の場合)
涼しい風が、首筋を撫でた。
続く雀の鳴き声で、私ははっきりと目を覚ます。
「ん……朝か」
だが、見慣れた朝の光は無く、視界はなぜか真っ暗だった。
両足を伸ばそうとしたが、すぐに途中で壁にぶつかる。
指に触れるのは、木の感触だった。そういえば、身を包む香りも古い檜のものである。
どうやら、私は布団ではなく、木製の箱の中にいるようだ。
「…………箱?」
ハッとして、うずくまった状態から、何とか仰向けになった。
顔が触れそうなほど低い天井には、横に線がいくつも走っており、その隙間から、縞々の光が差し込んでいた。
その向こう側にあるのは、やはり木の天井。だが、その横に、わずかに青空の切れ端が見えていた。
咄嗟に私は、計算をはじめる。幻想郷の地図を頭に映し、光の位置から太陽の方向を図る。
さらに体内時計を駆使して、すぐに現在位置を割り出すことができた。
間違いない。ここは早朝の博麗神社。そして今、自分がいるのは……
「…………賽銭箱だと!?」
なんと、私は博麗神社の賽銭箱に収まっていた! だが、どうして!?
すでに覚醒した私は、脳内の記憶を早送りで再生しはじめた。
山から帰った橙を出迎えて、あの子から宴会の噂について聞いて、その後寝ていた主を起こして、彼女の付き添いで神社の飲み会に参加して、帰ろうとする前に幽々子の酒を飲んで……そこからだ。そこから記憶が途切れ、今のこの状態に至っている。
誰がここに連れてきたかは明白だった。
寝ている私に気配も感じさせずに、ここへと連れてくることの出来る能力。そしてその発想。
間違いなくスキマだ。
「何を考えているんだ、あの御方は!」
毎度の事ながら、主の悪戯に違いない。幽々子の酒で意識を失ったのが運のつきである。
箱の中は窮屈でたまらなかった。私は九本も尻尾があるので余計に辛い。
ここにお賽銭が詰まっていたなら、圧死していたかもしれない。相変わらずこの神社は、小銭に縁が無いようで助かったということだが……。
そこで私は気がつき、顔から血の気が引いた。
ここには当然、博麗の巫女がいる。それも、お賽銭となれば目の色を変える巫女が。
今ここに自分が入っているのを知られたら、どんな言い訳をしても調伏されてしまうだろう。
それはもう、ぎったぎたのめっためたにされて、お祓い棒で平たく伸ばされてしまうに違いない。
さらにはお腹が空いたから、とかいう理由で、うどんの具にされてしまうかもしれない。
きつねうどんになった私を見て、橙は泣いてくれるだろうか。その後ろでは、主が腹を抱えて笑い転げていたが。
ええい、なんと腹の立つマスターなんだ! 式は道具であっても、おもちゃじゃないんですよ! スキマの手の届かないところに保管してください!
いやいや、まずはここを脱出することを考えなくては。
私は軽く、天井の蓋を押してみた。開く気配はない。やはり鍵がかかっている。
ここで九尾の腕力に任せて破壊すれば、本気であの巫女に殺されるかもしれない。ことは慎重に行うべきだった。
まずは隠行の術からとりかかることにする。
「ナウマク・サマンダ・ボダナン・キリカ・ソワカ……」
姿と気配、物音を限界まで殺す術である。これで何か作業をしても見つかることはない。
保険をかけ終えた私は、心を落ち着かせ、脱出法について考えることにした。
ふうむ。しかし、のどかな空気ね。今の時間はここは日が当たらないので、それほど暑くない。
そよ風も気持ちいいし、鳥の声も聞こえるし、狭いのを我慢すれば、悪くないかも……。
ぐー。
いや寝てる場合じゃないぞ私!
暗い穴とか箱とかが好きなのは狐の習性であり、式になっても変わらなかった。
子供の頃は、こうやってよく隠れんぼしたなぁ。さすがに、賽銭箱に隠れた経験はなかったけど。
ん? 今気がついたけど、この蓋にかかっているのは鍵だけじゃないな。これは……封印術?
げげっ! これは厄介だ。無理に解こうとすれば、かけた術者に気づかれるので、ばれないように最新の注意を払わなくてはいけない。九尾の妖力と、式の計算力があれば、そうそう解けない術もないのだが……。
……な、なんだこれは!
博麗大結界レベルの難易度だぞ! たかが賽銭箱にここまで手をかけるか!?
霊夢らしいと言えば霊夢らしいけど!
って、感心してる場合じゃない。イリュージョンマジックは成功しなければ悲惨な結果を生む。
霊夢に気づかれないうちに、とっとと脱出する方法を考えなくては。いやいや、霊夢だけじゃなくて誰にでも、こんなお間抜けな姿、絶対見せられないや。
しかし、これほどの封印をかいくぐってスキマで私を運んでくるんだから、あの御方もいろんな意味で常識が通用しな……。
ああっ!? まさか、宴会でこの姿を肴に飲むつもりじゃないだろうな!
大変だ。明日は橙も来るというのに、こんな主の姿見せたら幻滅されてしまう。
というかそんな状況に陥ったら、尻尾で首を締めて死にたい。もっともそれは、スキマ妖怪と亡霊の首を締めてからだ。
どっちも死にそうにないので、永久に締めてやる。
そうならないことを願って、ここは可及的速やかに封印を解除することにしよう。
タイムリミットは、宴会の始まる夕刻。もちろん、それまでに霊夢に見つかってしまってもアウトだ。
私は全力で賽銭箱の封印に取りかかった。
四時間が経過したものの、私はいまだに賽銭箱から脱出できていなかった。
封印を無理やり破るなら、とっくに終わっていてもおかしくないのだが、術者に気づかれないようにするために、非常に繊細な作業が必要とされていた。
だが、頑張った甲斐があってか、この調子だとあと半刻ほどで、ここを出ることができそうである。
問題があるとすれば、一つ。
暑い! 暑すぎる!
全身から汗が吹きだしていた私は、たまらず冷却術を使って、熱を逃がし始めた。
よく考えなくても、夏のまっ昼間にこの狭い箱で九本の毛皮と同居してるんだから、暑いのは当たり前だ。
賽銭箱というよりも、個室サウナに近い。涼しかった朝と違い、とっとと逃げ出さなくては適わぬ環境になっていた。
……うーむ、これだけ暑いと、作業に支障をきたすおそれがある。誤って変に結界をいじって霊夢に気づかれ、それまでの苦労が水の泡となるかもしれぬ。
服も汗でべたべたしてきて、気持ち悪かった。
見つかったときのリスクは高くなるが、上着を脱いで作業した方がよさそうだ。
……ごそごそ。
ん? なんだ?
あぁ、雀か。
こらこら、近づいてくるな。あっちに行ってなさい。
霊夢に気づかれたら大変ではないか。しっしっ。
あっ、こら! こんな所で糞をしようとするんじゃない!
なんてふてぶてしい雀だ! 神社の持ち主にでも似たのか!
やめんか!
ゴトン
あ…………やってしまった!
「賽銭ドロボー!」
蝉の声も吹き飛ばしそうなその怒鳴りっぷりに、私は悲鳴をあげそうになるのを、何とかこらえた。
最悪のタイミングだ。件の神社の巫女、博麗霊夢が、この箱に近づいてくる気配がする。
「あれ? 誰もいないわね」
ど、どうやら、私がここに入ってることには気づいていないらしい。
私は隠行を行っているため、姿や気配は悟られることはない。霊夢も鼻までは人間並なので、私に気がつかないとは思うが。
しかし、彼女はしばらくその場から移動しようとしなかった。
それどころか、
「誰でもいいけど、隠れてないで出てきた方がいいわよ」
何!? バレているのか!
いや違う。その声はまるで別の方向へと向けられていた。
おそらくこれは、周囲に何かいないか探っているのだろう。絶対に声を立ててはいけないぞ、私。
「そうねぇ。その場で土下座して謝るなら、お祓い棒百八叩きで勘弁してるわ。妙なそぶりを見せたら、針が刺さるわよ。逃げた歩数の分だけ刺すから、覚えておきなさいね。妖怪なら夢想封印。妖精なら結界に閉じ込めて宴会の見世物とかしら」
ひぃいいいいい、なんて恐ろしいことを考える巫女なんだ。
この幻想郷で彼女に逆らえるものはいない。そして彼女は妖怪には全く容赦が無い。
さらに今、私はお賽銭箱の中で、下着姿になっているのである。やむを得ぬ状況だったとはいえ、はたから見ればただの変態でしかない。
よって、両手を上げて投降する案は却下だ。いくら私が弁解しようと、お祓い棒の餌食になるだろう。
見つからずに済むならいいのだが、蓋を開けて中を手で探られたら、流石にバレる。
そうなったら最後だ。霊夢に退治された上に、私の名声は落ちるとこまで落ち、地霊殿でハロー古明地さんだ!
「そうだ。今日はまだお賽銭を見てなかったわね」
霊夢の明るい声が氷の欠片のように降ってきて、私の体を震わせた。
さらに近づく霊夢の気配に、パニックは加速しはじめた。
耐えがたい箱の暑さ、冷たくなった背中、蝉のやかましい鳴き声、霊夢の静かな足音。相反する要素が恐怖のカクテルとなり、私の心臓を早鐘に変えていく。
熱暴走寸前の頭は、この状況を何とか打開する策を見つけようとしていた。
封印解除には、あと十五分程度。いや、見つかった以上、無理やり解除に徹すれば五分もかからないだろう。
つまり、ひとまずこの賽銭箱をどこかへ隠し、すみやかに封印を解除し、服を着て霊夢がやって来る前に脱出すれば、私の名誉も命も守られる!
おお! 完璧な作戦じゃないか! やるっきゃない!
私は、賽銭箱を中から持ち上げて、浮遊させた。
「はっ!?」
霊夢の驚く声を後にし、私は命がけのスピードで、賽銭箱ごと逃走を開始した。
「待てー!」
待てと言われて待つ妖怪はいない。
追って来る声から遠ざかるように、私は賽銭箱を飛ばして逃げていた。
スピードにはそれなりの自信があったものの、視界がゼロなので、すぐに全力を出せないことに気がついた。
木や岩などの障害物の、かすかな気を探って逃げるために、どうしても速度は遅くなる。他の妖怪に見つかる可能性もあるため、高度を上げることもできない。
やはり一度、追っ手を振り切るしかないのだが……、
「…………む!?」
突如走った悪寒に、私は賽銭箱を急停止させた。
続いて、周囲で封印結界が発動するのが分かった。
息を切らした、巫女の声がする。
「……私から逃げられると思ったら大間違いよ。箒に乗ったスピード狂だろうと盗撮天狗だろうとね」
なるほど……もう追いつかれたのか。お賽銭箱を奪われた霊夢がどれほどの力を発揮するか、甘くみていた。
ここまでね、と私は観念して、賽銭箱を地面に下ろした。
「……抵抗はしない」
低い声、命を諦めかけた声で、私が呟くと、
「……ひょっとして、つくも神……ってやつ?」
え?
「賽銭箱の他に気配は無いし、うちの神社も地震で壊れる前は、相当古かったらしいから」
おお! なんと! 神はまだ私を見捨てていなかった!
やはり霊夢は私の気配には気づいていなかったのだ。しかもいい具合に、つくも神と勘違いしてくれているらしい。
となると、まだ助かる道は残されている。
私はより低い声を作って、
『……その通り、私はつくも神だ』
「へぇ、やっぱり。初めて見たわ」
納得してくれた! これはいける手応えが!
『それで、どうするつもりだ』
「どうするつもりだ……って、それはこっちの台詞よ。つくも神って目覚めたとたんに逃げ出すもんなの。しかも今は昼間よ」
…………確かに変だ。夜になって悪さをする程度なら分かるが、いきなり神社からダッシュするアグレッシヴなつくも神など聞いたこともない。
しかし、私はそんなつくも神を演じなくてはいけないのだ。
早速一つ、言い訳を思いついた。
『……いや、そうではない』
「じゃあ何で神社から逃げたのよ」
私は声に威厳を含ませて、霊夢を一喝した。
『賽銭が全く入らないから、かわりに集めてこようと思ったのだ! わかったか!』
咄嗟に思いついた理由ではあったが、割とよく出来た言い訳に思える。
事実、この神社は、お賽銭とはほとんど縁が無い。霊夢は時折、そのことに対する不満を口にしていた。
かわりに集めてくる、と言えば、感心してこの場は見逃してくれるかもしれない。いやむしろ、恥ずかしいからやめろ、と連れ戻されるのがオチか。
どちらにせよ、神社の主に対し献身的なつくも神だと思ってくれるならば、私が退治されることはないだろう。これでこの場は一安心だ。
さて、今のうちに封印の解除を……。
「………………」
ん?
霊夢の様子がおかしいな。
「…………く……っく……」
なんだ? 笑ってるのか?
それとも……、
「ひっく……ひっく……うぇーん!!」
れ、霊夢が泣き出した!?
「えーん! えーん!」
間違いない、彼女は泣いている!
こんな火がついたように泣く霊夢の声は、耳にしたことがない。
いや、おそらく、彼女を知る者は、誰も聞いたことがない、というか想像したことすらないんじゃないだろうか。
しかし、原因は何なんだ。
賽銭が入らないことがそんなに悲しかったのか。それともこれは、賽銭箱の殊勝な決意に対する嬉し涙か!?
『は、博麗の巫女よ。そんなに嬉しいのか』
「えーん! ……嬉しいわけないでしょ、このバカ!」
どん、と賽銭箱が揺れて、私は肝を冷やした。
蹴飛ばされたのかと思ったが、近づいた声の様子からすると、彼女は賽銭箱にしがみついて泣いているらしい。
「なんで今さらそんなこと言うのよー! ずっと放っておいたくせに! あれっきり会いに来てくれなかったくせに!」
『…………?』
「ひどいじゃないのさー!」
わけのわからないことを言いながら、霊夢はドンドンと賽銭箱の外壁を叩く。
まずいな、こんな大騒ぎしていたら、他の誰かにまで見つかってしまう。
彼女に泣き止んでもらわなくてはならない。
『すまん! さっきのは戯れ言だ!』
霊夢の泣き声が、ぴたっと止んだ。
『……実は深い意味はない。急に動けるようになったので、つい飛んでみたくなったのだ。何しろ、ずっとあの神社の前で座りっぱなしだったのでな』
この言い訳に、霊夢はしばらく考えているようだった。
箱の中で判決を待つ私にとっては、永遠のように長く感じる。
「……あんた、つくも神なのよね」
『あ、ああ』
やがて響いた怖い声に、私はビビりつつも肯定した。
「この神社にずっと住んでいたのよね」
『うむ』
「なら、まずは私と話してみよう、とか思わなかったの?」
ん?
これは難しい質問だ。
下手に喋るとボロが出そうなので、誤魔化すことしかできない。
『どう意味だが、よくわからないのだが……』
「はい? ちょっと。まさか私のこと、覚えてないとか言わないわよね」
『いや、ずっとあそこに座っていたとはいえ、その間のことは覚えてないのだ』
「どうしてよ」
『お前も生まれる前までのことは覚えていないだろう。それと同じだ』
「じゃあ赤ん坊なのあんた。その割には、ぺらぺら喋ってるけど」
『いやいや、こうして目覚めるのは初めてじゃないのだよ。そうだな、六十年に一度といったところか。前に目覚めた時には、お前の何代か前の巫女と会話する機会があった。一日だけだがな』
我ながら、よくもここまで舌が回るものだ。
位が上がるほど、狐は人を化かすことが少なくなるのだが、九尾を持つ私が、今は思いっきり嘘を吐いている。
ましてや私は、大妖怪八雲紫の式であって……そうだ、元々はあのスキマと亡霊どものせいでこんな状況に陥ってるんだった。
「ふ~ん」
続く霊夢の台詞は、意外なほど嬉しそうだった。
「じゃあ、お話しましょ」
『む?』
私は賽銭箱の中で、首をかしげた。
3 ―つくも神となった午後―
結局、私は妙な経緯から、賽銭箱の立場になって、霊夢とお喋りすることになった。
お賽銭箱とずっと話してみたかった、と言うのだから、やはり彼女は、変わってるといえば変わってる人間だった。
霊夢は私に、過去の幻想郷、博麗の巫女について質問してくる。幸いこれは私の記憶から、知っている範囲で答えてあげることができた。
そして、思わぬ役得だったのは、霊夢に対しても自由に質問が許されるという、この状況だった。
何しろこの巫女は普段、自分のことについてあまり語ってくれない。嬉しそうな当人から話を聞く機会など、全くといっていいほどないのである。
彼女を気に入っている妖怪は大勢いる。私がこうして自然に会話していることを知られれば、羨ましがられるどころじゃすまないだろう。
かく言う私も、こうして霊夢と話せる機会に巡りあい、ちょっとした優越感を覚えていた。
「……確かに神社には子供は全然来なかったけどね。最初の頃はともかく、一人でも色んな遊びができたから、ほとんど退屈しなかったわよ」
『ほう。例えばどんな遊びだ』
「いちいち数え切れないなぁ……好きだったのは手鞠とか、ビードロとか、あとは妖怪いじめとか」
『妖怪いじめですか』
「巫女なら普通でしょ?」
『うーむ。まぁ、博麗の巫女の役目は、妖怪退治でもあるからな』
「そういうこと。みんなでワイワイやるのも、結構好きなんだけどね。最近は宴会が増えたから、そんな時間が増えてるかな」
本当に何でも答えてくれるので、普段は馬鹿馬鹿しくて聞けないような、些細な好みまで聞いちゃったりして。
「……犬と猫、どっちが好きか? そう言われてもねぇ。知り合いには猫っぽいのが多いけど、犬も割と好きよ」
『ほほう。動物が好きなのか。狐とかはどうだ』
「狐? 狐はそんなに。何かに化けて、人を騙したりしそうだし」
『……そうだな』
「あ、一番好きなのは兎かも」
『なっ、本当か!?』
「うん。冬に鍋にすると最高よね」
『誰が食べる話だと言った』
こんな感じで、私達の会話は大いに盛り上がり、時には笑い声さえ生まれた。
しかし、話が進むにつれて、私の胸中は、晴れから曇りへと変わっていった。
霊夢は八雲藍に心を開いているわけではない。彼女のにこやかな態度は、あくまでこのお賽銭箱に向けられているものなのだ。
そして私の知る限り、彼女が妖怪に対し、こんな様子を宴会等で見せたことはない。隙を見せずに傍観し、怒鳴って仲裁に入るくらいだ。
やはり、我々妖怪には気を許していないのか、と思うと、がっかりしてしまう。博麗の巫女という立場から考えれば、その方が良いとは分かっているのだけど。
もう少し、嬉しそうとまではいわずとも、感情豊かに会話に参加してくれてもいいのでは……あれ?
『そうだ。さっき、『放っておいた』とか、『あれっきり』、と言っていたな。どういうことだ?』
「………………」
それまで饒舌だった霊夢が、急に黙ってしまう。
私は少し緊張した。何か触れてはいけないことに触れてしまったのかもしれない。
『……どうした、霊夢』
恐る恐る聞いてみると、霊夢は小さくため息をついた。
「本当に覚えてないのね、あんた」
『…………?』
「いいわ、話してあげる」
霊夢が私のすぐ近く、お賽銭箱の隣に座る気配がした。彼女は私に、静かに語りはじめた。
「私が……六つになってからなんだけど」
それから霊夢は、賽銭箱となった私に、自身の知られざる過去、博麗の巫女になったきっかけについて語り始めた。
神社に現れた謎の女性『おばちゃん』との出会いについて、しみじみと。
彼女と蔵の整理をしたことを、懐かしそうに。
林檎とリボンを賭けて遊びで勝負したことを、さも愉快そうに。
最後は符の勝負で決着をつけ、彼女に悩みを打ち明けたことについては、少し恥ずかしそうに。
どれも初耳であるだけではなく、当事者の霊夢から聞くだけに、新鮮な驚きがあった。
賽銭箱になった私は、心を躍らせつつも、あくまで真摯な態度で、時折相槌を打ちながら聞いていた。
「……あの日は一生忘れないわ」
そして、ついに私は、霊夢が博麗の巫女を続ける理由、その核心に触れようとしている。
謎の女性との真剣な対決、その結果と、その後の出来事について。
「だって、私が本当に、博麗の巫女になった日だから」
4 ―博麗霊夢の物語 三日目― (九年前 巫女の場合)
一週間後に、あの遊びで勝つこと。それが私を助ける条件だと言い残し、おばちゃんは神社を去った。
その日から私は毎日、符の使い方について、全身全霊で取り組んだ。
朝早く起きて一時間御札を動かす練習。ご飯を食べてから、午前中はずっと符の作成に取り掛かった。
お昼ご飯の後は、妖怪相手に片っ端から実戦演習。晩ご飯を食べてから眠くなるまで陰陽玉とにらめっこし、夜もそれを抱いて眠った。
その時期に一緒に過ごした婆やは、もしや私が妖怪に取り付かれてしまったのでは、と心配していたらしい。
数年後にそれを里で知った時は、笑い話にできたものの、当時の私にとっては冗談ではなく、人生を賭けた真剣勝負の準備だった。
あの頃は、毎晩同じ夢を見た。
夢の中で私は、もっと凄い実力の巫女になっていて、どんな強力な妖怪をも打ち負かしてしまった。
そして、決まって最後に、おばちゃんが現れる。彼女は私の術をあっさりと攻略し、それまで空に浮いていたはずの私は、地面へと落ちていくのだ。
そこで目が覚める。
起きた私はすぐに、昨日に作った符を取り出し、どこが悪かったのかを考える。
そしてまた同じ予定の繰り返し。一週間とはいえ、よくあれだけの根性が続いたものだ。
私はどうしても、あの人に勝ちたかった。あの人に認めてもらいたかった。
日が過ぎるほど、巫女を辞めたいという気持ちよりも、そちらの気持ちの方が強くなった。
届かないその姿に向かって、まっしぐらに進み続けること。
それが私の、生きるエネルギーとなった。
そして、一週間が経ち、ついにその日はやってきた。
***
博麗神社に妖怪が一匹も寄り付かなくなり、林檎の実はどれも赤く染まった。
私はお賽銭箱に腰をかけて、膝に頬杖をつき、彼女を待っていた。
その間も、頭の中では予行演習を続けている。繰り返し繰り返し。私のイメージに反応して、陰陽玉が時々光っていた。
やがて、石段の向こうに人の気配を感じ、私は顔を上げた。
そんな風に感覚が鋭くなったのも、この一週間の修行の成果だった。
思ったとおり、境内に、彼女が現れる。
「こんにちは、霊夢」
私は返事をせず、石段を上がってきたその姿に、じっと目を凝らしていた。
出会った時とまるで変わらない、肩から力の抜けた自然体。
長い黒髪も、茜色の和服も、晴れた空に合う笑顔も、この前と同じ。
だけど、私は違う。
「……………………」
私は無言で、賽銭箱から飛び降りた。
私はこの一週間で、自分でも実感できるほど成長していた。
子供の知恵をふり絞って符に工夫を重ね、眠くて倒れる寸前まで御札を操った。
弾幕を花火の代用品程度にしか思わず、扱えなかった前回とは違う。
きっとこの人に勝てる。絶対に勝つ。そう気合を入れた。
境内の石畳の上を、一歩ずつ進む間も、決闘者から視線をそらさない。
数間挟んで立ち止まった私は、今日のために作った符を取り出し、彼女に向かって突きつけた。
「まぁ、三つも作ったの?」
おばちゃんは私の手元を見て感心している。
確かにそこには符が三つ。
だけど、本当は三つどころではないのだ。他にも二十種以上の符が、母屋の居間に散らばっている。
三つというのは、私が発動できる符の限界。それにあわせて選んだ、もっとも強力な三枚だった。
「……始まる前から、面白くなってきたわね。それでは、この前と同じルールでやりましょう。その三つの符の弾幕を全てかわすことができたら私の勝ち。一度でも当たったら霊夢の勝ち。いいかしら?」
「……うん」
私は短く答えて、符の一つを左手に持った。
おばちゃんは、ふわりと空中に浮き上がる。私も同じ高さに飛んで移動した。
「……おばちゃん、約束だからね」
「ええ、約束は守るわ」
「……………………」
そして、勝負は始まった。
私は符を投げつけ、すかさず陰陽玉を取り出した。
弾幕が、私達二人の間で発動した。
御札の洪水が現れた。
この前見せた御札は、せいぜいが二十枚程度、今度はその十倍以上ある。
展開速度もはるかに増しており、別物といっていいほどの弾幕だった。
「ふふふ……」
しかし、彼女は夢の中と同じく、軽やかに御札をかわしていく。それは先週に見せた舞よりも、はるかに複雑な軌道だった。
本気になったのか、私の弾幕がその動きを強いるだけの力になったのか。
だが、事前の演習で、これくらいは対処されることを予想していた。
今回はそれだけではない。符の中の設計図が導くままに、私は霊力を解放させた。
「増えろ!」
陰陽玉が白く透き通り、『分身』をはじめた。実際は霊力を玉に透過させ、イメージの判を押して作った擬態だ。
しかし、高純度の霊力であることには変わらず、威力も数に勝る御札以上にある。
私は分かれた擬態を五つ、御札をかわす彼女の周囲にばらまいた。
規則的に動く御札と、不規則に動く陰陽玉。この二つなら同時にかわせまいと、私は踏んでいた。
だが、期待は呆気なく裏切られた。
――えっ!?
おばちゃんの動きが加速したのだ。
御札の密集地帯から、残像が浮かぶほどの速度で消え、安全な場所に移動していた。
定めた領域からは出ていない。あくまでそこは境内の中、ただし私の弾幕の死角だった。
御札が迫るたびに、おばちゃんは対角線へと素早く移動する。
その速さに、私は首を左右に振って、目で追うのが精一杯だった。
術者の困惑は、弾幕の動きにも表れる。予測できない動きに集中が乱れ、御札や陰陽玉の動きが単調になる。
決して追いつけない鬼ごっこに、私は終始翻弄されるままだった。
やがて、一枚目の符の効果は切れてしまい、再び静寂が戻ってくる。
汗一つかいていない様子で、おばちゃんは宙に浮かんでいた。
「惜しかったわね、霊夢」
私は、ぎゅっと拳を握った。
惜しいなんて思えない。たった一回の攻防で、先週よりもずっと実力の差を感じてしまった。
やっぱり、この人は凄い。妖怪よりも、よっぽど手強い。
人の身でも、この域へとたどり着けるのか。表情にこそ出さぬものの、私は感嘆していた。
だけど、負けてはいられない。勝負はまだ続いている。
「これからよ!」
私は次の符、本命のカードを取り出した。
「いっけぇー!!」
気合を込めて、さっき以上に、陰陽玉に霊力を注ぐ。
コピーがいくつも生み出され、それらは私を中心にして回り始めた。
髪の毛の端が持ち上がるほど溢れ出した霊力が、ぱちぱちと帯電しながら、周囲を青紫に染めていく。
私はお祓い棒を縦に構え、その制御に集中した。
符が発動し、御札が大量に出現する。
しかし、それは先ほどの弾幕よりも、より私の意識が行き届いていた。
増やした陰陽玉を直接ぶつけるよりも、全て御札の制御にあてたほうが良いと気づいたのは、一昨日の練習中だった。
動きの増した御札は高速で移動し、霊弾の形を取る。それは一群の矢となって、おばちゃんを襲った。
さっきほどの余裕こそ感じられぬものの、相変わらず速い動きで、弾幕は避けられていく。
だがすぐに、おばちゃんの動きが、一端停止した。顔にははっきりと、驚きが浮かんでいる。
避けたはずの弾幕が、方向を変えて彼女を追撃したのだ。
「……鬼ごっこというわけね!」
「そうよ!」
その表情を痛快に思いながら、私は叫び返した。
この弾幕は、陰陽玉の力によって、誘導させることが可能なのである。
スピードも先ほどの符より上。私が作成した中で、一番の自信作だった。
弾幕の矢はさらに二つ増えた。
フィールドを御札と霊弾が埋め尽くし、おばちゃんの回避もおぼつかなくなっていく。
にわか雨に見舞われた蝶々が、懸命に飛んでいるようだ。
このままいけば、いずれは弾幕に捕まり、私の勝利で終わるはずだった。
しかし、彼女が魅せた動きは、またもや予想外のものだった。
「なっ!?」
真っ直ぐ、術者の私に突進してきのだ。その後ろで、標的を見失った弾幕同士が交錯していた。
御札の波を次々と乗り越え、彼女は距離を縮めていく。
逃げる妖怪の動きに慣れていた私は、その判断に驚愕した。それは確かに、有効な戦術だったからだ。
この符は、扱う相手が私と遠ければ、いくらでも激しい弾幕を浴びせることができる。
しかし近くだと、私の体を傷つけないために、スピードを押さえる必要があり、誘導も切らなくてはならなかった。
つまり、術者の周囲に安全圏が存在するのだ。私はそのことを失念していたが、それを初見で見抜き、行動に移してしまう相手も、大胆不敵であった。
間合いの内に入ってきたおばちゃんが、私の次の動きに期待して、微笑んでいる。
この弾幕では、近すぎて彼女に届かない。ならば、どうするか。
……移動!
私は瞬時に答えを見つけ、おばちゃんから離れるように飛んだ。
それまで私が立っていた場所に、弾幕の矢が過ぎる。
おばちゃんは突風にあおられたように、身を翻し、回転しながら飛び離れていった。
私は胸中で、舌打ちしていた。
何で気がつかなかったんだろう。
今まで当たり前のように、仕掛ける側は動かないものだと考えていた。
しかし、よりフィールドを広く使うためには、術者も動いた方が絶対に有利なのだ。
動きながらの制御は苦しいものの、これまでよりもいける手応えがある。
再び間合いを詰められる前に、私は急いで弾幕の誘導に集中した。
おばちゃんは気まぐれな風のように動き、狙いを絞ろうとさせない。
私は昨日、鳶凧を操っていた時の感覚を思い出していた。
余計なことを考えず、体の感じるまま、瞬時に風を読む。
点が線に、線が面に、面が空間に。イメージの中の彼女の動きに、御札が届くその瞬間。
時間が切れた。
乾いた大きな音を立てて、弾幕は全て一瞬で、跡形もなく消え去った。
呆然とする私の前で、効力を失った符がひらひらと揺れ、石畳へと落ちていった。
その先では、空中で悠然と微笑む、着物姿があった。
「……凄いわ、霊夢。ここまで符を扱えるようになるとは想像していなかった。それに、よくあそこで答えを見つけたわね」
おばちゃんの褒め言葉には、感嘆の響きがあった。
しかし、対峙する私は、焦りと不安で、全身が冷え切っていた。
二つ目の符には、絶対の自信があったのに、ものの見事に攻略されてしまったのだから。
そしてもう後が無い。
「さぁ、最後の一つ、見せてもらいましょうか」
「………………」
私は残った一枚を、緊張に震える手で取り出した。
その符は、今でいうなら、結界をイメージした符だった。
相手を霊力に閉じ込めて、フィールドをさらに狭く、場を限定させ、その中で御札を動かすのだ。
しかし、結界と御札を同時に制御するのは難しく、練習でも失敗することも多かった。できればこれを使う前に、決着をつけたかったのである。
「どうしたの、霊夢」
「…………」
「もう降参かしら?」
「…………!」
私は奥歯を噛み締めて、余裕に満ちた態度に、その符を投げつけた。
そして、陰陽玉に霊力を叩き込み、弾幕を発生させた。
予想以上に酷いものが生まれた。
見た目が綺麗でもなんでもない、相手を捕まえようとするだけの、ぐちゃぐちゃした極彩色の弾幕が発生した。
今の私、不満を抱えて笑えずにいる、自分を表しているようで……まるで鏡に心を映しているようで、凄く気持ちが悪かった。
その感情は、陰陽玉に正確に伝わっていた。弾幕は歪な形のまま、のろのろと分解しながら進みはじめる。
――これじゃだめだ。
私はそれを何とか制御しようとしたが、できなかった。力の無さに、涙があふれてくるのがわかった。
おばちゃんは弾幕を、そっけなく避ける。もはや、勝負どころか、遊びにすらなっていない。
――だめだ、これじゃだめだ。
伸ばした手が遠ざかる。あんなに頑張ったのに、陽炎のようにすり抜けていく。
誰も私を見てくれない。博麗の巫女になってから、誰も私に向き合ってくれない。
おばちゃんだけが唯一の例外だったのに、やっぱり遠ざかっていく。
――やだ。待ってよ。
そして終わってしまう。
また、博麗の巫女に戻ってしまう。
神社に閉じ込められて、透明の壁に囲まれて、一人でふさぎ込むだけの毎日に。
私の側から誰も……この人もいなくなってしまう。
最後の玉が消える瞬間、私は叫ぼうとした。
やめて。行かないでおばちゃん、と。
その時だった。
「行くわよ、霊夢!!」
はつらつとした彼女の声が、私を現実に引き戻した。
次の瞬間、周囲に『知らない弾幕』が張られていた。
しかもいきなり現れたそれは、私を狙ってきた。
「ええっ!?」
私が抱いていた恐れは、別種の恐怖となって逆流してきた。
じわじわと迫ってくる御札の圧力に、息が止まりそうになる。
「霊夢! 落ち着いて! 横に避けてごらんなさい!」
また聞こえたその声で、私の金縛りは解けた。
大げさに腰を引いて、右に一歩。それだけで、御札は私の体の横を通り過ぎていく。
そして、ふっ、と消えた。
私は前を見た。
太陽の光を浴びた、まるで絵本の中のヒーローみたいな人が、満面の笑みで空中に立っている。
おばちゃんが、『符』を手にして浮かんでいた。
「霊夢!」
彼女は私の名前を呼んで、
「ほら! これはどう!?」
再び、弾幕が迫る。
輪を二つ重ねただけの、シンプルな形状。
「落ち着いて、踊ってみて!」
私に向けて、私目掛けて、弾幕が迫ってくる。
胸のうちで、何かが弾けた。全身の冷えが消え去り、胸の内が熱くなって、顔が火照っていく。
博麗の巫女になってから、私は初めて、
『攻撃』されていた。
「……よーし!」
私は飛んだ。
そして、色彩の迷路の中で、舞をはじめた。
近くに迫る弾幕は、私が作ったものよりも、ずっと単純で幼稚。だけど生まれて初めてのスリルを、私は体験していた。
空間を広く使って、最小限の動きで。弾幕に誘われるように、手を引かれるように、かわしていく。
調子にのって、くるんと回転してみたり。スカートの両端をつまんで、ぴょんぴょんと跳ねてたり。
やがて、もっと速く、もっと拍子良く、もっと軽やかに。
ああ、なんて楽しいんだろう!
「おばちゃーん! どう!?」
「とっても素敵よ、霊夢!」
「本当に!?」
「ええ!」
手を振る彼女に、私も手を振り返した。
ああ、そうだ。これが私の知ってる遊びだ。
一人遊びじゃない。もう味わえないと思っていた、鬼ごっこや隠れんぼのわくわくだ。
今、博麗の巫女になってからはじめて、本気でぶつかってきてくれる相手が、目の前にいる。
一人ぼっちだった私にとって、何よりの喜びだった。
「おばちゃん! 簡単すぎるよ! もっと凄いのないの!?」
「言ったわね! それじゃあ、これはかわせるかしら!?」
挑発すると、期待に応えたおばちゃんの弾幕が、さらに難しく、手の込んだものになっていく。
私は怖気づかず、むしろ勢いよく、それに飛び込んでいった。
失った風を再び得た、本物の鳥のように。
やがて、遊びは終わりを迎え、唸っていた風も、落ち着きを取り戻していった。
時間のトンネルをくぐり抜けてきたような気分で、私達はお互い何も言わずに、静かにたたずむ。
しばらくそうして、余韻を味わってから、おばちゃんは口を開いた。
「……引き分けだったわね、霊夢」
「……うん、そうだね」
私もうなずいて、それを認めた。
結局、おばちゃんに勝ちきることはできなかった。
でも、もう、勝負のことなど、頭の中から消えていた。
いつの間にか、心の中にもやもやが無くなって、すっきりしていた。
そこで私は思い出した。
「おばちゃん! ちょっと待っててね!」
そう言い残して、私は神社の裏、林檎の木へと飛んで向かう。
生っている実の中から、真っ赤に熟れていて一番美味しそうなのを選び、急いで戻ってきた。
「はいこれ!」
私がその林檎を差し出すと、おばちゃんはきょとんとした顔になった。
「霊夢?」
「これあげる。おばちゃん、このりんごが食べたかったでしょ? もう美味しくなってるよ」
「私が……食べていいの?」
「うん」
私はぜひ、おばちゃんに食べてもらいたかった。
誰よりも、ひょっとしたら自分よりも。
でも、なぜかおばちゃんは、その実を手にしたまま、逡巡していた。
……どうして迷っているんだろう。
しばらく、私が固唾を飲んで見守っていると、やがて彼女はふっと笑った。
そして、林檎に静かに口をつけ、しゃくりとかぶりついた。
「……美味しいわ。ありがとう、霊夢」
その声を聞き、私も顔から力が抜けたのがわかった。
おばちゃんの目が、曲線からまん丸になった。
「まあ霊夢! 今の貴方、素敵な笑顔よ!」
えっ、と私が驚く前で、彼女は急いで鏡を取り出す。
「ほら、見てごらんなさい!」
本当に? 私が?
半信半疑で、私はおばちゃんの手鏡を覗いてみた。
口をへの字にした女の子が、こっちに顔を向けていた。
とても素敵には見えない。
「……………………」
私は鏡を受け取った。
そして、前にやったように、口の端を吊り上げようとしてみたりして、何とか頑張ってみる。
しばらくそうして、笑顔作りに苦戦していると……。
いきなり私の顔が、ぐにーと横に伸び、ドラ焼きを頬張ったカエルのようになった。
後ろから細い指が、私のほっぺたを軽くつまんで引っ張っている。
「これでどうかしら、すてきなえがお~」
「ちょ、ちょっとやめてよ、おばちゃん!」
私が怒って手を払いながら振り向くと、悪戯したおばちゃんも、ひょっとこみたいな顔をしていた。
思わず笑ってしまってから――ハッと口を押さえた。
「笑ったわね、霊夢」
「……笑ってないもん!」
「どうかしら、こちょこちょ」
「キャハハ! やったなこのー!」
今度はくすぐり攻撃だ。
私は鏡を片手に、おばちゃんは林檎を片手に、追いかけっことお相撲を繰り返した。
やがて、二人で息を切らして、石畳に寝転ぶと、いつの間にか、空が快晴になっていることに気がつく。
雲ひとつない青を見上げて、私はおばちゃんと一緒に、二か月分の笑いを神社に振りまいていた。
「あはは! おばちゃん、私、笑ってるよね!?」
「そうよ霊夢。貴方は笑ってる。無理に笑顔なんて作らなくてよかったのよ。何も考えずに、笑いたい時に笑って」
「うん……!」
「そうすれば、ほら」
そう言って、おばちゃんは横から、また鏡を見せてくれた。
「あっ!」
そこに映った笑顔の女の子は、びっくりするほど可愛かったので、私は思わず声を上げて起き上がった。
一瞬だったが、頭の赤いリボンも、とてもよく似合っていた。
「驚いた? それが貴方の笑顔よ、霊夢」
「………………」
「それを忘れないで。無くさないでね」
おばちゃんはそう言って、服についていた土を払い、立ち上がって、歩き出した。
「あ、待って!」
おばちゃんがまた、何も言わずに帰っちゃうんじゃないかと思って、私は引き止めた。
彼女は不思議そうな顔で振り向いた。
「どうしたの?」
「じ、神社の中には、ほかにもお菓子があるの! 干し柿とかお饅頭とか、あと、あと、お茶も飲めるよ」
「………………」
「だから……えっと……」
私が上手く誘えずにいると、おばちゃんは、お上品にくすくすと笑った。
「そう。それじゃあ仕方が無いわね」
「……あの……その……」
「お言葉に甘えて、神社に上がらせてもらうわ、霊夢」
また、力が抜けた気がした。
私の不安は杞憂で、おばちゃんは最初から私に果物を剥いてくれるつもりだったらしい。
私達ははじめて、母屋の縁側に、並んで座っていた。
兎の形に切られたりんご。私はそれを爪楊枝で、ぱくりと食べた。
「ん~! 美味しい!」
酸味と甘味が口の中で弾ける。こんな美味しいりんご、食べたことがなかった。
「おかしいわね、霊夢。林檎も全部貴方が食べちゃうんじゃなかったっけ?」
「いいの! いっぱいあまってるし、他の果物もお菓子も食べていいよ。おばちゃんには特別に許してあげる!」
りんごをつまむ私は、とってもご機嫌だった。
こんなに気持ちのいい縁側なんて、やっぱり今まで知らなかったから。
おばちゃんもりんごを一つつまみ、庭を眺めながら、
「この裏の林にはね、外の世界のものが色々と落ちているのよ」
「外の世界のものが?」
「ええ。でも危ないものも混ざっているから、やな予感がしたら触っちゃだめよ」
「うん、わかった!」
おばちゃんは、やっぱり、神社のことを凄くよく知っていた。
さらに、私が忘れてしまわぬように、分かりやすく、一つ一つ紙に書いてくれた。
神社の見取り図と名称、巫女の基本的な作法、符のもっと詳しい作り方、大結界を維持するための方法。
私はそれを真面目に聞き、その場で一生懸命覚えようとした。
そう。私の術は、それまでの遊びと、その午後におばちゃんが書き残した紙束が、土台となっている。
おばちゃんと過ごす中で知ったこと、体験したことは、今に至っても色あせずにいる、充実した、特別な思い出なのだ。
「あの音は、なんだったのかなぁ」
畳の上で頬杖をつきながら、私は聞いてみた。
お習字用に字を書いてくれていたおばちゃんは、筆を止めてこちらを見た。
「あの音って?」
「あのね。昨日も、一昨日も、おばちゃんが来る前に、不思議な音がしたの」
不思議な音……、とおばちゃんは虚空を見上げて呟いていたが、やがて思い出したように、
「ああ、あれね。なんだか知りたい?」
「うん、知りたい」
「わかったわ」
おばちゃんはお習字をさらさらと書き上げ、筆を置いて、よし、と立ち上がった。
「行きましょう、霊夢」
「どこに?」
「はじめて貴方と会った場所よ。あの音の秘密を教えてあげる」
私達は、神社の表へと移動していた。
「これが何か知っているかしら」
おばちゃんは、私が椅子代わりによく使っているその箱を、指し示した。
「知ってるよ。お賽銭箱。婆やがここでお参りしていた」
「じゃあ、お賽銭って何か知ってる?」
「うん。紙で出来たお金でしょ」
私がそう答えると、おばちゃんは小さな丸いものを取り出した。
それは婆やが用いるような紙銭ではなく、褐色に光る硬貨だった。
硬貨はおばちゃんの手を離れ、箱の中に落ちていく。
りんことり
木を叩く音に、私は身震いした。
間違いない、あの時聞いたのはこの音だ。
呆然とする私の目を醒ますかのように、ぱん、ぱん、と手の鳴る音がした。
おばちゃんが神社の奥に向かって、手を合わせている。
それは、はじめて私が彼女を見つけたときと、同じ光景だった。
「……はい、終わったわ」
「え?」
「こうやってお金を入れて、神様に願い事をするの。入ったお金は霊夢のものよ。銭を投げるのは、おまじない」
私は背伸びして、お賽銭箱を覗きこんだ。
箱の底で、小さな硬貨が、息を潜めている。
「私は先週も先々週も、ここに来た時に、こうしてお願い事をしていたの。ここの神様にね」
「お願い事? どんな?」
「一日目のお願いは、この幻想郷が楽園となりますように」
指を一つ立てながら、おばちゃんは言った。
「二日目のお願いは、霊夢と仲良くなれますように。これはもう適っちゃったわね」
ほっぺたがじわじわと痺れたので、私は首をちぢめた。
「三日目のお願い、つまり今願ったのは、霊夢がいつまでも素敵な笑顔でいられますように」
「おばちゃんったら変なの。私のことばかりなのね」
「そうね。でもどれも、私にとっては大切な願いなの。何よりも三つ目のお願い、霊夢に幸せになってもらうことが一番大切なのよ」
「…………」
なんだかすごく照れくさかったので、私は急いで別のことを聞いた。
「ねぇ、おばちゃん。『らくえん』って何?」
「楽しい園、と書くの。みんなが楽しく過ごせる場所」
「みんなが楽しく?」
「ええ、人も妖怪もね」
それを聞いて、私はいい気分から、腐った林檎を口にした気分になり、すかさず反論した。
「ちっともここは、楽園じゃないよ」
「そう思う?」
「うん。だって、里の人たちは、みんな怖がってるし、妖怪もちっとも楽しそうじゃないもの。ここでお参りしていた婆やだって、すっごく暗い顔でお願いごとしていたの、知ってるもん。だから私、お賽銭箱がそんなきれいな音を立てるなんて、全然思わなかった」
「そうね。霊夢の言うとおりね」
「でもね、あのね……」
うつむいていた顔を上げ、私は声を弾ませて、両腕をいっぱいに広げた。
「さっきはとっても楽しかった! あんな遊びがあるのね。おばちゃんとりんごを食べながら話してるときも、とっても楽しかったし、その後のお勉強も、嫌じゃなかったよ。全部ぜーんぶ楽しかった! きっと今のこの神社だけが、『楽園』なのよ!」
えっへん、と私は威張って言った。
おばちゃんが、おかしそうに、
「あら、霊夢。神社が好きになったようね」
「……うん」
一瞬迷ったけど、私は素直にそれを認めた。
「神社だけじゃなく、この幻想郷全てがそうなったら、とっても素敵ね」
「そんなのできっこないよ」
「無理じゃないわ。博麗の巫女なら、それができる」
おばちゃんは優しい顔のまま、けどもっと大きな雰囲気に変わっていた。
「人間と妖怪との間に入り、二つを繋ぐ存在。何か問題が起こった場合は、すかさず解決しにいく英雄。そのおかげで幻想郷では、妖怪も人間も、楽しく笑って暮せる。博麗の巫女は、楽園の象徴。そして、その調停者であるべきなの」
「楽園の……象徴……」
それは不思議な呪文だった。一つ一つの言の葉が、体のすみずみまで響き渡る。
小川のせせらぎのように、森のざわめきのように。何かとてつもなく大きな存在が、彼女の姿を借りて、私に語っているようだった。
その感覚が過ぎ去ってから、幼い自分の中で、ふっと何かが芽生えた。
おばちゃんは、寂しげに笑って、
「今も妖怪に殺される人間が絶えないんだから、おかしな考えかしらね」
「ううん。おかしくないわ」
その横顔がとても悲しかったので、私は否定した。
「ねえ、おばちゃん。私、巫女をやりたい」
はじめて、私はそう願った。
「博麗の巫女を、ちゃんとやりたい。私も楽園を見てみたい。どうしたらいいとおもう? やっぱり、修行をしなきゃだめなのかな」
私の心に生まれた願いが、それを口にさせている。
誰かに教えを請うことなんて、今までにない経験だった。そして、相談する相手は、彼女以外にはありえなかった。
おばちゃんは、しばらく私をじっと見つめてから、やがて手を差し出してくる。
「霊夢。あなたに見せてあげるわ。この幻想郷を」
私はその手を取った。
とても柔らかい手だった。
「すっごーい! ねぇおばちゃん、見て見て! あんなに神社が小さくなっちゃった!」
「ふふ、可愛いお菓子みたいね。あ、霊夢。手は離しちゃだめよ」
「うわー! 広ーい! 森ってあんなに大きいんだー!」
私はおばちゃんに連れられて、博麗神社のはるか上空にいた。
屋根より高く飛べなかった私にとって、そこは未知の光景だった。
下で吹いていた風は、涼しいを通り越してかなり冷える。
だけど、私はその雄大な景色に、寒さを忘れてはしゃいでいた。
「ねぇおばちゃん! もっと高く飛べないの?」
「このくらいがちょうどいいのよ。幻想郷全体を見渡せるからね。これ以上高く飛ぶのは、霊夢にはまだ早いわ」
「う~ん……そっか!」
私はその言葉に対して強がったりしなかった。
おばちゃんの言うことががわかったのだ。これより上に行けば危ない、と。
危険に対する巫女の勘、その感覚を、私はその時に覚えた。
「あ! あれ、里の人たち!」
人里の中を生きる住民、ありんこくらいに小さく見える彼らを、私は指さしながら言った。
「そうよ。そしてあれが妖怪の山」
おばちゃんが指さしたのは、飛んでいる私達よりもはるかに高くそびえ立つ、でっかい山だった。
岩山の周囲を森が覆い、まるで緑のスカートを穿いているみたい。頭には雲の帽子をかぶっている。一体、どんな妖怪が住んでいるんだろう。
「そしてあれが魔法の森で……あれが霧の湖」
お野菜のケーキみたいな森と、薄い綿飴が乗った湖。
幻想郷の、一つ一つの場所を指さしながら、おばちゃんはそれらについて私に語った。
「……霊夢、ちゃんと見えたかしら?」
「うん。もう全部覚えたわ」
「覚えるだけじゃだめ。なぜなら、この幻想郷は生きているのだから」
「生きている?」
「ええそうよ。ほら、もっとよく見て……」
おばちゃんの言うとおり、私はもっと目を凝らしてみた。
すると、それまで見えていた以上のものが、気の流れが、意思の流れがはじめて『見えた』。
それらは互いに混ざり溶け合いながら、呼吸をするように動いている。
色のついた気を消しては生み出し、うねりながら、巨大な一群となって進んでいる。
だけど、
「何だか……苦しそう」
「そう、よく気づいたわね。それが、幻想郷の澱み」
「よどみ?」
「貴方がこれまで感じていた、嫌な感じの正体」
「えっ……それって!?」
「妖怪も人間も気がつかない、異変の前兆。放っておくと大変なことになるということよ」
私はびっくりした。
そんなものに悩まされていたなんて、ちっとも気がつかなかった。
おばちゃんだけが何で知っているのか不思議だったが、私も今その澱みが見えて、それが嫌な感じだということがわかった。
「おばちゃん、澱みが山の麓にも……あ、人里にも。あっちにもあっちにも、いっぱいあるよ! どうすればいいの!?」
「大丈夫。見てごらんなさい」
怯える私を安心させて、おばちゃんは下を指さした。
幻想郷の東側、小さな神社から流れる気が、大きくゆっくりと広がっていく。
「博麗神社で生み出された『気』は、龍脈……大きな道を通って、この地を生きる者達に影響しているの。そしてそれは巡り巡って、また神社へと帰っていく」
「じゃあ、あれが、幻想郷全部に流れていくの?」
「ええ。長い時間をかけてね」
「でも、どうして今、あの気が生まれたんだろう」
「ふふふ。何かを思い出さないかしら?」
「もしかして……さっき私とおばちゃんが遊んで生まれた気なのかな」
「お見事。正解よ、霊夢」
「わぁ……」
里の上で澱んでいた気が、その大きな流れに飲み込まれ、だんだんと西へと動いていくのがわかる。
濁っていた色も、澄んでいくようだった。
「これで、霊夢がやるべきことがわかったわね」
「私が、あの神社で楽しくしていればいいってことね!」
「そう。そして、幻想郷に異変が起こったら、すぐに解決しに行かなきゃね。そうじゃないと、また嫌な気が神社に戻ってきちゃうわよ。そうなったら嫌でしょ?」
「うん! まかせて! 我儘言う妖怪は、私が退治してあげるわ!」
だが、私の答えは、おばちゃんの期待から、ほんの少し外れているようだった。
彼女は苦笑して、
「霊夢、覚えておいて。貴方が我儘な妖怪を退治するのは間違っていない。でもね、この世界では、人も妖怪も、互いに無くてはならない存在なの。妖怪は人無しではその意味を消失し、人は妖怪の存在によって生を実感する。そもそもこの幻想郷で人間は、妖怪の賢者達の管理無しでは生きていけずにいる。なのに、二つの存在の間には、断絶が広がるばかり。一番の問題は、誰もそれに気づかないということ。それが歪の正体、澱みを生む源泉となっている」
「……………………」
当時の私には、その言葉は少し難しかった。
だけど言いたいことは、自然にわかった。なぜなら、私が里に住んでる頃から、ひそかに気づいていた真実だったからだ。
私の心を読んだかのように、おばちゃんは頷いた。
「霊夢、貴方の力は霊力だけではない。貴方の本当の才能は、物事の本質を見抜く力。異変を解決する巫女にとって、必要不可欠な能力よ。だけどそのせいで達観し、物事から遠ざかってしまってはダメ。かといって、近づきすぎて、難しく考えても、苦しむばっかり。ほどよい間合いで、あるがままにそれを楽しみ、彼らと仲良くなり、皆の悩みを解いてあげなさい。あの素敵な笑顔を忘れぬ限り、きっと上手くいくわ」
私は子供なりに考えて、その意味を捉えた。
「……おばちゃんの全部の願い事が、一つめの願い事に繋がっているんだね」
「そうよ」
私はお賽銭箱に願われた、その三つを思い出しながら言った。
「二つめの願いは、かなったんだよね」
「ええ」
私とおばちゃんが、仲良くなること。
「三つめのおねがいも、わたしが笑っていればいいのよね」
「ええ」
私がいつまでも素敵な笑顔でいるということ。
「じゃあ、一つめの願いも、私がかなえてあげる!」
この幻想郷が、楽園になるということ!
幻想郷の天辺から、私はそれを宣言した。
「おばちゃんの好きな、楽園を作ってあげる! だから、楽しみにしていてね! だって私は、博麗の巫女だから!」
世界の果てまで届け、というほどの大きな声で、私はそれを誓った。
おばちゃんはそこで、肩の荷が下りたように、大きく息をした。
今まで縛ってていたものが解けたような、そんな安らかな笑みを浮かべていた。
「ええ。ありがとう霊夢。私は貴方を、いつでも見守っているわ」
私はその声を、今でも忘れない。
たとえそれが、嘘だったとしても。
私達は並んで、博麗神社へと、静かに下りていく。
途中、彼女と繋いだ手を、私は少し引っ張った。
「…………ん」
「霊夢、何か言ったかしら?」
「ううん、なんにもいってないよ」
私は首をぶんぶん振って否定した。
喉元まで出かけた緊張を、ひたすら押し隠して。
大丈夫。
まだ言う機会はある。
そしておばちゃんもきっと、私がそう呼ぶことを、許してくれるに違いない。
だから、焦っちゃだめだ。私はそう自分に言い聞かせた。
地上に戻った頃には、お日様はすでに、夕日になっていた。
遠くから烏の鳴き声が聞こえるなか、私は薄橙に染まった博麗神社、そのお賽銭箱の前に、ふわふわと下りていった。
石畳に下りてから、私はいち、に、さん、と飛び跳ねた。
さっきの体験に、まだ心臓がドキドキしていて、落ち着かない気分だったのだ。
「凄かったね、おばちゃん」
私は後ろに声をかけた。
返事がなかった。
あ……だめだ。まだ振り向いちゃだめだ。
振り向いたら、終わってしまう。終わってほしくない。
「……私、あんなの初めて見た。すっごくびっくりした。この神社が、色んなところに繋がっているんだって」
やっぱり、返事がない。
頭では分かっていても、私はそれを認めたくなかった。
だってまだ、早すぎる。
どうしてもっと、ちゃんと握っていなかったのか。どうして目をそらしてしまったのか。
いつの間にかあの温かさは、手の内から消えていた。
「どうやったら、澱みは無くなるのかなぁ……」
一生懸命、私は言葉をつむごうとする。
きっと後ろで、聞いていてくれているはずだと信じて、私は続ける。
「やっぱり、妖怪が我がままなのよね。人を襲っちゃだめ、って言われても、我慢できないんだもの。襲うんじゃなくて、みんなで遊べないのかしら。私もそれなら少しは考え……る……のに……」
その時だった。私は大発見をした。
「弾幕……ごっこ……!」
あの符を使った遊び。
あれを妖怪達に教えてあげれば、きっと妖怪は夢中になって遊び、人間も襲われずにすむんじゃないか。
そうだ。そして、その遊びで、全部決着をつければいいんだ! これくらいの広さでやるとか、見た目が綺麗じゃなきゃだめだとか、色々なルールを考えて……。
そうすれば、妖怪も私を攻撃できるようになるし、里の人達も恐れることがなくなる。私も特別扱いされずに、みんなにかまってもらえるようになる!
そして、妖怪と人間が仲良くなって、澱みが全部無くなって、きっと幻想郷に、楽園が生まれる!
全部がうまくいく! 凄い! 信じられない!
「ねぇ! お母さん! こういうのはどう!?」
私は褒め言葉を期待して、振り向いた。
だけどやっぱり……そこにはもう、誰もいなかった。
***
林の中を吹いたそよ風は、夏には珍しいほど涼しかった。
「あの時、私は初めて、巫女になった気がしたんだ……」
博麗の巫女は、ついに自身の過去を語り終えた。
賽銭箱の中の私は、しばし、あまりの驚きに、口がきけなかった。
霊夢が提案したスペルカードルールについて、はじめて聞いたときは私も感心していたのだが、それが誕生した秘密までは知らなかった。まさか、自分が巫女になっても、他の者と、妖怪と遊べるためだっただなんて、誰が想像できるだろうか。
そして、霊夢がお賽銭にこだわる理由は謎だったのだが、それがこんな、純真無垢な理由だったとは思わなかった。
いずれにせよ、それまで私の抱いていた霊夢のイメージとは、かなり異なっている。
「そのあと私、またあの人が来ないか、ずーっと待ってたんだ。賽銭箱の前で、ふた月くらいかしら」
『………………』
一言も聞き漏らさぬよう、私は真剣に耳を傾けた。
「それからはそこで待つことは諦めたんだけど、でもたまにお賽銭の音がした時は、神社の前まで走ったわ。いつも違う人でがっかりしたけどね」
『……………………』
「三年くらいで、あの人が残した紙は全部頭に入れて、術も全部使えるようになった。飛べる高さも地面からどんどん離れていって、大抵のことは何でもできるようになった。その頃からかしら。だんだん、私も落ち着いてきたというか、すれてきたというか、そんなものよね、って思えるようになったの」
こん、と賽銭箱に、霊夢が後ろ頭を当てる音がした。
「でもね。あれから毎日、今でもたまに、あんたに話しかけていたのよ。今日はこんなことがあったんだよ、お母さん、って」
『……お母さん、か』
「私、小さい頃のこと、あんまし覚えてないから。お母さんって聞くと、あの人のイメージしか湧かないの。でも、最後にそう呼んでみる前に、あの人は『おばちゃん』のまま消えちゃった。残念だけどね」
『残念だよ、私も』
「なにが?」
身を切るような思いで、私は告げた。
『お前が話してくれたことを、何一つ覚えていないんだ。それが、残念でたまらない』
それは私、八雲藍の本心だった。
これまでどれほど、彼女の言葉が失われてきたことだろうか。
霊夢は、物を言わぬこの賽銭箱にしか、その心情を明かせなかったに違いない。
賽銭箱である私と話す様子が、あんなに嬉しそうだったから。
「そうね。でも良いじゃない。こうして今日話せたんだし。あ、でも一日だけなのか」
『そうだな……』
本当に、話せてよかった。
だけど、今この瞬間も霊夢を騙していることに、胸が痛んだ。
「それでね。お賽銭の音がすると、お母さんに褒められた気がした。あの時の嬉しい気分が甦って、一日が素敵になった。だから、さっきあんたに逃げられた時に、悲しくてたまらなかった。お母さんに、生まれてはじめて、ぶたれた気がした」
『そうか。私がいなくなって大泣きしたのは、それが理由だったのか』
「あれは……ちょっと不意打ちだったからよ」
霊夢が少しムッとした様子で、立ち上がる気配がした。
「でもあの人がお母さんっていうのも考えものよ。本当だとすれば、ひどい母親だよね」
急に膨れっ面になった声のまま、彼女はまくし立てた。
「だって、言うだけ言ってから、その後一度も様子を見に来なかったのよ! たまには挨拶に来たっていいじゃない! ちょっと放任主義が過ぎると思うわ! だから、この私の性格だって、きっとお母さんゆずりなのよ! 暢気で危機感が無くて修行が面倒なのも、ぜーんぶお母さんゆずり! べー、だ!」
胸のつかえを取るかのように、霊夢の大声が、山中にこだました。
しかし、それに返事するものはいなかった。
今も。昔も。
「……一度も抱きしめてくれなかったしさ。厳しいよね」
博麗の巫女は、今どんな表情でいるのか。
賽銭箱の中の私は、目に映すことができない。
それでいい。きっと、彼女の思い人以外、誰も見てはならないのだろうから。
「あの人が先代の博麗の巫女だったって知ったのはそれからしばらく後」
『…………?』
一瞬、私の心にさざ波が立った。
「里の人にさりげなく容姿を聞いて、そっくりだったから……だから、もう死んじゃってるってのも知ってるのよ」
『……そうだったのか』
「うん。あの人は、あの人に出来なかったことを、私に託したんだと思う。そう考えると、やっぱりやってやろうって気になって、異変解決にも乗り気になってたんだけど……でも、たまに考えるんだ」
『……………………』
「楽園って何なんだろう。あの人はあの時、どんな場所を想像して、お願いしていたんだろう。本当に今みたいな幻想郷で良かったのかな。妖怪ばっかり集まるあの神社で」
霊夢の声は、だんだんと小さくなっていく。
私は呼吸するのも忘れて、じっと耳をこらした。
「博麗の巫女って、私で良かったのかな……」
しぼみきった声の後、霊夢は秋風のような、季節外れの乾いた声で、呟いた。
「……どっちにしろ、私はぶたれていたかもね」
賽銭箱の中に、それは確かに届いた。
私の腹は決まった。
***
およそ一刻ほど後、私は四分の三日ぶりに、八雲の屋敷に帰ってきていた。
「紫様!」
主の寝室の襖を開け放ち、私は部屋に入った。
だが、彼女の姿はない。
部屋の中央に布団だけが残されており、枕元に紙が落ちていた。
私はすぐに、それを手にとって読んでみた。
藍へ
私も隠れてみました(はぁと)
ゆかりん
「……そこかぁー!」
私は怒声をあげ、すぐに部屋の隅にある箪笥に突進した。
二段目の引き出しを開けると、思ったとおり八雲紫の顔が現れた。
「あら、さすが藍ね」
「褒められても嬉しくありません!」
単なる経験則というものである。
昔、紫様と隠れん坊して遊ぶと、いつもこんな風に常識外れの場所に隠れるので、探すのに苦労したものだから。
私はスキマに入っていた彼女の体を引っ張りだし、がっくんがっくん揺さぶった。
「今日という今日は許しませんよ! 何てところに閉じ込めるんですか!」
「私の式じゃなきゃできない珍しい体験じゃないの」
「誰が喜ぶんです誰が! 幽々子様もグルだったんですか!?」
「提案したのは彼女ね。貴方が気持ちよさそうに眠っていたから、起こすのも可哀想だと思って、お賽銭箱の中に」
「入れるなー!」
「眠れる檻の美獣とでも呼ぶべきかしら」
「あのまま寝てたら霊夢に殺されてましたよ! なんで賽銭箱なんですか!」
「だって貴方、知りたかったんでしょう?」
言葉に詰まった私は、主の襟元から手を離した。
そして、正直に告白した。
「……ええ、知りたかったです」
主は乱れた服装、私と同じ柄の八雲の装束を、ぽんぽんと払った。
「そう。それで、知りたい情報は、手に入れることができたのかしら?」
「まだ聞かなくてはいけないことがあります。紫様、貴方に対して」
私の声は、知らず固くなっていた。それに影響して、空気も変わる。
「紫様。私は霊夢が幼少の頃に会ったという、先代の博麗の巫女について知っています」
「ええ、そうよね」
「少々体が弱く、霊夢とは性格もまるで違いましたが、真面目な良い巫女でした。そして」
一度言葉を切ってから、記憶にあった事実を告げる。
「……彼女はその血を残せずに逝きました」
「博麗の巫女に、血縁は関係ないでしょう」
「それだけではありません。霊夢が六つの頃に会ったという九年前、彼女はすでにこの世から亡くなっていたはずです」
「あら、じゃあその人は亡霊だったのかしら」
「ご冗談を……」
私はかぶりを振った。
「霊夢は……少し変わった人間です。浮世離れしているというよりも、どこか物事を達観している雰囲気がある。何も恐れず、何にもこだわらない。しかし、彼女は間違いなく人間であって、妖怪でも仙人でもない。私達の多くが忘れがちですけどね」
「ええ。彼女は人間よ。貴方の言うとおり、間違いないわ」
「そこです。霊夢とて、こだわりが無いわけではない。お賽銭等もさることながら、何より疑問に思うべきは、博麗の巫女という役職です。四季の移り変わり、縁側で飲むお茶、どれも彼女が好きなことには違いない。しかし、それらはいずれも、彼女が博麗の巫女を続ける必要条件ではない。なのに彼女は明らかに、異変の解決にこだわりを持ち、巫女であり続けることを望んでいる。ではなぜか」
私は推理の途中で一度、言葉を切った。
主は無言で、続きを促した。
「……私は今日、偶然か必然か、それを知りました。霊夢が誰にも明かさなかったその理由、思い出の賽銭箱にしか明かさなかったその秘密は、十年前のちょっとした出来事、ある女性と交わした約束、彼女が賽銭箱に封じた願い事だった」
「……………………」
「そして、その出来事は霊夢を、幻想郷のシステムにこれ以上ないほど当てはまる、もっとも優れた天才へと成長させた……そうですね?」
「ええ。迷わずたどりついたわね」
八雲紫は薄く笑った。
「その通りよ。あの時『私』が打ち込んだくさびによって、霊夢は今までに無い、最高の巫女となったわけ」
ついに彼女は、それを自白した。
5 ―二人の後継者―
やはり……。
覚悟はしていたものの、私は内心、衝撃を受けていた。
霊夢から話を聞き終え、その正体が主であったと推理するのは、さほど難しい道ではなかった。
私の頭の中で思い描いた霊夢の思い人は、先代の巫女とはまるで違う性格であり、むしろ私のよく知る妖怪に近かった。
そして、黒髪や茜色の和服、幼い霊夢の断片的な記憶ではあるが、その容姿が真逆だったからこそ、ますます確信が強まった。
思い出すのは、九年前のあの夜の出来事だ。
主は珍しく、起きて私を出迎えてくれた。さらによく思い出してみると、あの時の彼女は、様子がおかしかった。
おそらく、霊夢が話した三度目の出会い、そのすぐ後のことだったのだろう。時間的にも辻褄があう。
だがしかし、女性の正体が紫様だったとするなら、新たな疑問が持ち上がる。
「霊夢は……誰の娘なんです。親はどうしているんですか?」
「死んだわ。両親共にね。そして霊夢は、その瞬間を目撃しているの。覚えていないでしょうけど」
「まさか……殺されたのですか?」
「食われたの」
「なんですって?」
思いもよらぬ事実に、私は愕然とした。
食われた。幻想郷でそれが意味することは、一つしかない。
「まだ乳離れしたばかりの霊夢の前で、父も母も妖怪に食い殺された。でもそれも半ば自業自得。里を抜け出した彼らは、その子供を育てることを放棄し、山に捨てようとしていたのだから」
「捨て子……そんな……じゃあ……」
「望月の晩に、そこで妖怪に襲われた。それはそれは凄い抵抗だったんでしょう。残された赤子の産衣は、人とあやかしの血に染まってたわ。あの頃から……霊夢は白と赤だったのよ」
主は口の端を歪めた。
寒気がするほど艶美で酷薄な、妖怪の笑みだった。
「私がそれを見つけたのは偶然だった。けど、とても利用価値の高い拾い物だったわ。生まれつき高かった霊力が、幼い頃に妖怪の血に触れ、危機に反応して活性化し、なおかつそのことを本人が忘れている。それは貴方の言うとおり、この地を成り立たせるのに必要不可欠なシステム、『博麗の巫女』という歯車に、これ以上ないくらい当てはまった。先代には後継ぎができなかったし、他に優秀な子供もいなかったからね」
血の通っていない口調で、主は淡々と過去を語り続ける。
式の私には、思い当たることばかりであった。
彼女、博麗霊夢を初めて見たとき、幻想郷に求められて生まれてきたかのように思えた。
高い霊力、天才的な感性、誰を差別することもなく、必要な職務は全うする。
全て、あの時代を終えるのに必要な素質だったのだ。いっそ、運命というものを信じようかとまで考えた。
しかし、彼女は実は、選ばれていたのだ。生まれた時から、博麗の巫女として。
「皮肉な話よね。妖怪と人間の間に起こる儀礼的な摩擦。その犠牲者が、今は人と妖怪の共存の要として、幻想郷の人柱として、何も知らずに働いているんだから」
「……………………」
「そして私の思惑通りに、彼女は今日も、その役目を果たしている。これが事の真相よ」
主は話を締めくくり、妖しく光る瞳を、私に向けた。
「納得したでしょう。八雲藍。我が式」
私は瞼を閉じて、しばし黙考した。主の回答を反芻し、噛み砕いた。
心中を様々な感情が渦巻いている。気を抜けば暴れ出し、衝動的な行動に走らせようとする。
それらを真っ直ぐ縦に両断し、残った核を取り出す作業に徹した。
やがて私は、口を開いた。
「……ええ。納得しました。これまでの疑問が、全て氷解したようです」
「そう。それじゃあ」
「……博麗霊夢、いい名前だと思います。それが貴方の、最大の秘密だったのですね、紫様」
狙い済ました一手だった。
目を開けると、主の表情が消えていた。
私は感情を抑えた口調で、粛然として続ける。
「貴女はいつか、私に話してくださいました。貴女を縛るものが、幻想郷以外のルール以外にあってはならない、と。それが私を、娘と呼んでくださらない理由でした。私は今でもそれを忘れてはいません。すでに納得もしています」
「……………………」
「ですが、あの時一度だけ、私はそれを許されました。同じことを、もう一度許してくださらないでしょうか」
「……つまり?」
「彼女と……霊夢と会ってあげてください。母として、もう一度」
くくくっ……とスキマ妖怪は笑った。
「何を言ってるの、藍」
「紫様……」
「本気なのかしら? 妖怪が人の子の母なんて、冗談も程々にしておきなさい」
「紫様……私は貴女を見てきました」
「霊夢に妙な同情でもしたのかしら? 妖怪らしくないうえに、私の式にふさわしくない感情ね」
「紫様……! 私は……貴女を……見てきました!」
「全て幻想郷の目的のために利用しているに過ぎない。貴方もそれが分かっているんでしょう、藍」
「ずっと見てきたんです!!」
私はとうとう抑えきれずに叫んだ。
「これまで貴女が、どれだけあの子を気にかけてきたか、普段からどのような目で見守っているか、式である私は、ずっと見てきました! だからこそ! 貴女が彼女を、ただの歯車としてしか見てないなんて、尻尾の毛先ほども信じられません! 拾って利用するだけの存在に、なぜあそこまで側に寄ろうとするのです! なぜぎりぎりまで近づこうとするのです! 今の貴女こそが偽りで、あの時の貴女こそが本物だったのでしょう! だけど、隠すしかなかった! 幻想郷を預かる責任を優先して、これまで自制し続けてきた、そうなんでしょう!」
それを知ったとき、情を持たぬ妖怪なんて、冷酷な妖怪なんて、私の目には映っていなかった。
私の目には、私が誰よりも知っている、優しい紫様しか映っていない。
博麗霊夢、答え最初から、そこに示されていたのだ。
「人と妖怪、互いに相容れなかった時代。だからこそ、その最後の犠牲者であるあの子に、博麗の巫女を受け継いでほしかったんでしょう。贖罪と理想と愛情を込めて、あの名前を付けたんでしょう。当代の博麗の巫女に、貴女は楽園の『夢』を預けたんじゃないですか! そこまで思っているのに、親ではあり得ないなんて、どうして言えるんです!」
私の心を、幾重もの悲しみが駆り立てていた。
その中には、主に裏切られたという、黒い感情も混じっていた。
「なんで……! なんで九年間、今まで相談してくださらなかったんですか! どうして私を最後まで、あざむき続けようとするんです! また一人でお抱えになるつもりなのですか! 私が未熟だからですか、甘すぎるからですか、それとも……」
そこで、恐怖に近い感情が私を刺し、主を睨みつけさせた。
怒りと憎しみを込めた、強い視線で。
「まさか……私が、霊夢と同じだからなんですか?」
主は何も言わない。
ただ、感情を映さぬ瞳で、私を見つめるだけだった。
「彼女を冷たくただの歯車扱いすることで、式である私の矜持が満たされると思ったのですか」
「……………………」
「それで喜んで尻尾を振る程度の存在だと、この藍は思われていたのですか?」
「……………………」
(それが真相だと言うなら、私はいつでも舌を噛み切って死んで差し上げますよ)
その言葉を飲み込み、私は説得を続けた。
「……紫様。今だけ禁を破らせてもらいます」
「……………………」
「私は貴女の娘です」
「藍」
「お許しください。道具という言葉で縛られているのは、霊夢や私ではない。貴女自身のための戒めだということを、私は知っています。しかし、道具だろうと家族ごっこだろうと、私は考えを曲げる気はありません。貴方が道具と呼びたいなら、それでもいい。そこに絆があることは、絶対に否定できない。誰であろうとさせません」
「……………………」
「……ですが、私は貴女の娘であるだけじゃないんです。私は……!」
私はありったけの思いを、主にぶつけた。
「今の私は、『母』でもあるんです! 私には、主と同じくらい大切に思える、式ができたんです! だから私は、どちらの気持ちも痛いほどわかるんです……母を思う子の気持ちも、子に母だと名乗れない親の気持ちも!」
私は膝をつき、主に寄りすがった。
「私は許せません! 私が貴女の式になったのは、貴女を不幸にするためじゃ、霊夢を犠牲にするためじゃないんです! それで完成する楽園なんて、私は要りません! 私は認めません!」
彼女の服を掴み、嘆願した。
「お願いします! 信じてあげてください! 私達が目指し、霊夢が築いたこの楽園を! この世界では、もう貴方が縛られることはない! きっとうまくいくはずです! あの賽銭箱の前で、もう一度、たった一言でもいい、よくやったと声をかけて、抱きしめてあげてください! 楽園の最後の一かけが、そこに残っています!」
私は主の手に、顔をうずめた。
最愛の存在に名乗れず、彼女が遠く想い続けることを、見守ることしかできないなんで、その温もりを確かめることもできないなんて。
私なら耐えられない。私は主に、そんなことを耐えてほしくない。
祈る気持ちで、私は答えを待った。
「……藍。やっぱり貴方は、それを選んでしまうのね」
その台詞に、私の口から、諦めとも安堵ともつかぬ、ため息が漏れた。
「……お見通しだったのですね」
「ええ。できれば、私の答えで納得してほしかったわ」
「なぜですか。私のことなど気になさらないでください」
「いいえ藍、貴方がどう思おうと関係ない。私の天秤の上で、幻想郷と釣り合う存在なんていない、いてはならないの。貴方も霊夢も、私自身も含めて。ここがどんなに素晴らしい楽園であろうと、それだけは絶対に譲れない」
「ですが……それでは霊夢は……」
「霊夢なら、貴方が救ってくれたじゃない」
「え……?」
顔を上げる。主の表情は変わっていない。
だけど、その声は私の好きな、母としての紫様の声だった。
「ごめんなさい。実は私、貴方の心なんて読めなかったのよ。種を明かせば、貴方達二人の会話を、『式』を通して聞いていたの」
「なっ……!」
「そんなに慌てないで。むしろ驚かされたのは私の方なんだから」
私の目元を、紫様の指が、そっとぬぐった。
声の色に、隠せぬ喜びをにじませながら、
「あの時聞いた台詞……忘れない。素晴らしい答えだったわ、藍」
***
賽銭箱の中で、彼女の最後の呟きを聞き、私は腹を決めた。
『……霊夢、さっきは急に飛び出してしまって、悪かった』
「別にもう気にしてないわよ」
『だけど、そうしてしまった理由を、お前に聞いてほしい』
「え?」
霊夢は私に、その心を明かしてくれた。
次は私……いや私達、妖怪の番に決まってる。
『今回目覚めた私は、本当に驚いて、確かめたくなったんだ。百年前とはまるで違う、このぬるい空気に』
「ぬるい?」
『ああ。とても心地よいぬるさだ。そして、今の話を聞いて確信した。これこそが、お前が作った楽園なのだろうと』
今さら、賽銭箱の心情を騙ったりする必要はない。
真っ直ぐ、普段の思いを、ちゃんと伝えるだけでよかった。
『私には、目覚めるまでのはっきりした記憶が無い。しかし宴会の、楽しげな様子だけは、私の肌に染み付いている。お前という存在がいて、妖怪同士の繋がりが増えた。さらには人間も。きっと誰もがお前に、心の底で感謝していることだろう』
「か、感謝ぁ?」
『ああ。弾幕ごっこか、素晴らしい発明だと思う。妖怪の本能、有り余る動と個性の主張を、同時に満たすことのできる遊び。妖怪が、自分が妖怪であることを認識でき、巫女を通じて人間と語らうことができる。まさに、この楽園のための遊びだ。大発明だよ、恩を感じないわけがない』
「あ……あのねぇ。あいつらは感謝なんてしてないわよ。もししてるなら、ちょっとはお賽銭を入れてもいいじゃないの」
納得がいかなそうな声に、私は箱の中で、くくっ、と笑った。
『賽銭を入れたくないのは、お前に遠くに行ってほしくないから、もっと近くにいてほしいという願いがあるからなんだよ』
「へ?」
今、彼女がどんな顔をしているのか、何となく想像できた。
『それだけお前は、好かれているということなのさ。神社に集まる者達は、紛れもなくお前と繋がりを持ち続けたいと思っている。だから、あるがままに、自分の感じるままに、好きな名前をつけてあげてやればいい。仲間でも友達でも家族でも。例えそこにどんな思いがこめられていようと、今では誰もがお前と向き合い、一人ぼっちになんてさせない。これからも、ずっとそうなることだろう』
神社に集まる妖怪達を代表して、私はその思いを伝えた。
『殺伐とした世界を弾幕で消し、宴で輪の中に引き入れる。その役目を引き受け、見事こなしているじゃないか。この幻想郷の象徴であり、調停者。間違いなくお前こそが、楽園の素敵な巫女なんだ』
幻想郷を預かる存在、その一人として、私は彼女を称えた。
『だからお前が死んだら、きっと私の中は賽銭でいっぱいになって、次の巫女は目を白黒させることだろう。そう思うと、愉快だな』
「……へぇ。私が死ぬのが楽しみなの?」
『い、いや違う! そう意味じゃない! 悪かった!』
「ふふっ、冗談よ。何かすっきりしたわ」
その声は、歳相応の少女らしい、いつもの博麗霊夢の声だった。
「あいつらが何考えてるかまでは興味が無いけど、それでも楽しんでくれているのはわかるわよ。我儘な吸血鬼だったり、天然の亡霊だったり、迷惑なスキマ妖怪だったり、引きこもってた宇宙人だったり。どいつもこいつも好き勝手異変起こしてくれちゃって、そのくせ神社でけろっとした顔で呑んでるのよ。はっきり言って、好きになれっていうのは御免だわ、だけどまぁ……嫌いにもなれないんだよね」
不覚にも、意中の相手に告白されてる気分になり、私は頬に血が上るのを感じた。
「人里も雰囲気が良くなって、いつのまにか私も気軽に下りられるようになった。まぁ、あっちの方は慧音に頑張ってもらうとして、私は私にしかできない役目をやらせてもらうことにするわ」
その生気あふれる声は、さっきまで落ち込んでいた者とは思えぬ、眩しさを放っていた。
薄暗いこの賽銭箱の中まで、光を届けてくれる。
「不埒な異変はすぱっと解決。たまには宴でストレス発散。のんびりお茶を楽しめる、平和で素敵な幻想郷」
歌うように口ずさんでから、彼女は――たぶん、空を見上げながら――言った。
「……いつか、ここがそうなったら、きっとお母さんにも、認めてもらえるよね」
そうか。
これが人間の力。霊夢が、博麗の巫女が、人間であるという意味。
我が主よ、私はその輝きを今、間近で感じ取っています。
霊夢が、うーん、と背伸びする声がした。
「あー、お腹空いちゃった! そろそろ宴会の準備をしないといけないし! 一緒に帰りましょ!」
『あっ、いやっ……その……』
何と言い訳しようか考えていると、霊夢はあっさりした口調で言った。
「あっそ。じゃあ、気の済むまで散策してきていいわよ」
『え?』
「ただし、絶対に人間や妖怪とかに見つからないように。あ、ちょっと待って」
いきなり賽銭箱に霊力が注がれ、私は身をすくめた、
だが、それは決して乱暴な術ではなく、そっとリボンが結ばれたような、優しい感触だった。
封印結界が外され、その代わりに別の術がかけられたらしい。
霊夢がぽん、と箱を叩いた。
「これであんたの姿は目に映らないわ。でも、騒いだら効果が弱まるから、覚えておいてね」
『いいのか? 話したいことがまだあったんじゃぁ』
「もう全部済んだわよ。私だってたまには一人で外出したい気持ちはわかるし、無重力の巫女にもあってるんじゃない?」
おどけるように、賽銭箱の持ち主はそう言ってから、
「でも、今夜の宴会までには戻ってきなさいよ! お賽銭箱に逃げ出されたなんて思われたら、本当にみっともないからね。誰かに聞かれたら、蔵に置いてあることにしておくから、後でこっそり裏から入ってきなさい」
『ああ、心得た』
「話せて楽しかったわ。これからもよろしくね、つくも神さん」
『私も楽しかったよ。これからもよろしく。それじゃあまた、宴会で会おう博麗霊夢』
「ええ」
博麗の巫女はそれだけ言い残して、颯爽とした空気とともに、神社へ帰っていった。
霊夢がいなくなってから、着替えを終えた私は、蓋を開けて、外に出た。
すでに結界は消えている。誰に気づかれることもない。
私も一度伸びをしてから、お賽銭箱を、さきほど霊夢が、かつて博麗の巫女が涙を落としたであろうそれを撫でた。
「……幸せ者ね。私もお前も」
返事があるわけないと知っていても、そう言わずにはいられない。
何だかもうこの箱とは、『他人』の気がしなかった。
本物のつくも神であれば、一体どんな言葉を彼女にかけてあげたんだろうか。
きっと私なんかよりも、もっと彼女の気持ちを汲んで、ひたむきに付き合ってくれただろうに。
……さて。
私は北東に、目を向けた。
そこには我が住み処、八雲の実家が待っている。
このお賽銭箱は、主が片付けてくれるだろう。
霊夢の話を聞いていて、私の推理は確信へと変わっていった。
帰ったら何としてでも、あの御方に問いたださなくてはならない。なぜ今、私はこれを知ることになったのか。
そして、考えなくてはならない。私がこれから、何をするべきなのか。
私の心には、小さな火が灯っていた。
幻想郷の未来を照らす、妖怪から見れば年端もいかぬ、大好きな人間からもらった、小さな火が。
***
なんと。
主はしっかりと聞いていたらしい。全く気がつかなかったけど、少し考えれば想像がつくことだった。
「盗み聞きして悪かったわ。でもいつの間に、そんな力を身につけていたのかしら」
「ど、どういうことですか」
紫様が何を仰ろうとしているか分からず、私は戸惑うことしかできない。
「貴方のその考えは『式』の計算、つまり、私から受け継いだ力ではない。あれは貴方自身の発想」
「……………………」
「貴方が妖怪として生き刻んだ月日の中で、磨き上げて生まれた信念。それがどういう意味かわかって?」
金の瞳に射すくめられ、肌が粟立つ。
柔らかい手が、茫然とする私の頬を撫でた。
「それこそが、まぎれもなく誇っていい、未来へと繋げるための力。主の私を超える可能性のある、貴方だけの力ということなのよ」
「……………………」
紫様が私の成長を誉めてくれることなど、滅多に無いことだった。
悪い夢から起こされて、いきなり毛布越しに抱擁された気分だ。
彼女の氷の微笑が、わずかに溶けた。
「でもね……自慢の娘が二人もいるなんて……私にはもったいないわ」
主はすぐに、その顔を巧妙に消してしまおうとする。
私は追いかけるように、急いで言った。
「紫様。霊夢にもその言葉を伝えてやってください」
「霊夢はもう大丈夫よ。貴方のおかげでね。お疲れ様、藍」
「お忘れですか。まだ一人、救われていない者がいます」
部屋から出て行こうとするその背に、私は声をかけた。
「紫様、霊夢に会ってください。貴女自身のために」
「出来ない相談だと言ったでしょう。それに、その時博麗の巫女であることを、霊夢はやめるわ。そして、この地も終わり。巫女が解決する異変とはわけが違う。修復することのできない、致命的なバグよ。幻想郷を脅かす可能性を、私は許すことはできない」
「一つ聞きます。紫様は、幻想郷が崩壊するのを恐れているのですか。それだけじゃないはずです。霊夢の想いそのものが怖いのでしょう」
戸を開けたところで、主の足が止まった。
「本当は、誰よりも貴女が知りたかったはずです。関わることができず、暴くこともできず、霊夢の心情を、想うことしかできなかった。霊夢がどう思っているのか、貴方のために、何を残しているのか。彼女ともう一度、話したくないんですか?」
「私は今も昔も妖怪。彼女を道具として扱っているのには変わらない」
「私はそうは思いません。なぜなら、私もその一人だからです」
「貴方の本質も道具よ、八雲藍。それは決して間違いではない。出しゃばらないことね」
「ええ。私は貴女の道具です。主の幸せを何よりも願い、貴女の望みを叶える存在です。それは決して間違いではない。……ですから、『首尾』をご報告させていただきます」
私は彼女に、最後の願いをかけた。
「……霊夢は、貴女を待ってますよ」
「……霊夢は決して、私を許しはしないわ」
主はそれだけ言い残して、部屋を出て行った。
「藍様! ここにいたんですね! 支度ができましたよ!」
「………………」
「紫様はもう出発したんですか? 三人で行けると思ったのに……」
「………………」
「私も今日は、お酒を飲んでいいですよね、藍様! 友達もいっぱい来て……」
「………………」
「……藍様?」
「………………」
「……どうして……泣いているんですか?」
私の式が下から、顔を覗き込んでいた。
猫耳をわずかに震わせ、困惑して、目を潤ませている。
「ゆ、紫様に怒られたとか」
「……ううん。違うさ」
「じゃ、じゃあ、褒められたとか?」
「……いや」
「悲しいんですか? それとも、嬉し涙?」
「ふふ……どちらだろうね」
私は、彼女を腕の中に引き入れた。
「藍様……」
「…………うん」
「藍様ぁ、泣かないでくださいよぉ」
「ごめんね……しばらくこうさせておくれ」
私は式を抱く腕に、強く力をこめた。その温もりを噛み締めるように。
それがまた、私の視界を、涙で歪ませる。
「……私はきっと、幸せなのが悲しいんだ」
「ど、どうしてですか?」
「……この世にはね。抱きしめてあげたくても、抱きしめてあげられない者が……抱きしめてもらいたくても、抱きしめてもらえない者がいるの」
「……………………」
「私には……橙も紫様もいる。だから……本当に幸せ。でも……それが辛い……」
「藍様ぁ、泣かないでください。橙も悲しいです」
「……弱い主ね、私は」
そして私は、弱い式でもある。
幻想郷の歪みを全て引き受けようとしている彼女を、また地獄へと向かう彼女を――最愛の主を、止められなかった。
紫様の受け続けてきた傷、式の私でさえ癒せぬとすれば、それはあの巫女しかいない。
種族も役割も生き方も何もかもが違う、ずっと過酷な運命を背負った、もう一人の私だ。
霊夢。お前に伝えてやりたい。
あの時、お前が出会った母は、お前のことを放ってなんていなかった。
ずっと側で見守っていて、ずっと抱きしめてあげたかったのに、できなかったんだ。
それ以上踏み込むことが許されない領域があった。だからお前にそう呼ばれる前に、彼女は姿をくらませたんだ。
再び現れた時にも、名乗ることができず、本心を鋼鉄の笑みに隠して、必死で耐えていたんだ。
特別な存在だからこそ、特別に誰かを見ることを許されない宿命を持つ二人。私の導いた答えだけで、救われるとは思えない。
だからこそ、昔の気持ちのままに、二人だけで会話をさせてやりたかった。
彼女自身の心に開きかけていた穴も、主ならきっと塞いでくれるだろうに。
なぜこの楽園は、こんなにも二人に残酷なんだ。
私はそれと戦いたい。紫様を救いたい。
しかし主は自分から、再びそこに踏み込むことなど、決してないだろう。
幻想郷を守るために必要ならば、どんな感情だろうと自制してしまう強い御方だ。
かといって、私の姑息な作戦など、全て見通してしまう。単純な読みと計算で、式が主に適うはずがないのだ。
無力だった。
分かっているはずなのに、ずっと昔から、その答えを見つけようとしているのに、いつもそこに戻ってしまう。
式と主の間にある、決して超えることのできない高い壁に、悩まされ続けるだけの一生。
…………いや、待て。
私は式を抱きしめながら、今一度、自らの可能性を見つめなおした。
あの時紫様は、私の答えを、主を超える可能性のある力だとおっしゃった。
それが真実だとすれば、前提であるはずの物差しが間違っていたという可能性はないだろうか。
思い当たる節は色々とあった。複雑な計算を解いたり、与えられた情報を分析したりしても、主は容易に褒めてはくれなかった。それは式として、当然の働きだからだ。
幼稚な遊びであっても、ふと湧いた発想、導き出された直感、これまで私が主を驚かせてきたのは、そうした質のものだった。
それがもし、本当に通用するなら、私にできることは、まだあるはず。
「藍様、今日は宴会に行くのを止めにしますか? 私も我慢します」
「ううん……大丈夫」
返事する私は、強い気持ちを取り戻していた。
逆に考えてみればどうだろう。私の頭で編み出したどんな優れた計画でも、主は常にその一歩先を行く。
ならば、主がそもそも考え付きもしない作戦だとすれば? それこそ稚拙そのもので、真面目な計算のうちに入らないような作戦。
答えに一歩近づいたような気がするが、そもそも成功できるかどうかが疑わしいのでは危険だし、失敗すれば、今度こそ私は許してもらえないだろう。
だけど、主がもっと大きな破滅へと向かう前に、私は止めなくてはならない。
あと一歩、何らかの予想できない要素があれば、彼女を出し抜くことが可能なのでは。
紫様から与えられた『式』以外で、私に残っている力といえば……、
「橙は……藍様の力になりたいです……」
「…………!」
いた。
胸の中の存在は、私が得た新たな力を担っていた。
主に出来ないことを、式である私ができたのだ。それはきっと、まだ続く。
「……橙、よく聞いて」
「……はい」
「橙に頼みがあるの」
「…………藍様ー!?」
しっぽに雷が落ちたかのように、、橙は大声をあげて飛び跳ねた。
こちらを見上げる顔が、びっくり仰天している。
「ほ、本当ですか!? 私に頼みが!?」
「うん。私だけじゃできなくて、橙の力が必要なの。手伝ってくれる?」
「当たり前です!! 私は藍様の式です! どんなことでも、命がけでやります! ぜひ命令してください!」
「……ありがとう」
「ううー! この時を待っていました私は! ようやくお役に立てますね藍様~!」
「ふふっ」
感涙して胸に飛び込んでくる式が、私は誇らしく、どこか懐かしかった。
間違いなくこの子は、私の式。そして、もう一つ肩書きを持っている。
紫様。
貴方はひょっとすると、忘れていらっしゃるのかもしれませんね。
優秀な娘だけではないのです。
貴方には、優秀な『孫』もいるんですよ?
(続く)
泣いた。
ほぼ逝きかけましたwww(凄すぎで)
サーセンwww