Coolier - 新生・東方創想話

お賽銭箱物語 (一) リボン

2009/08/01 22:03:51
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 0 ―序章―




 おぼろげな月を隠す雲は、灰色、紺色に変わりながら、ゆったりと流れている。
 淡い光は原生林に阻まれ、地上には濃い闇が広がっている。
 ゆるい風が時折、木々をざわめかせる他は、静かな夜だった。
 湿った空気の中に、昼間の熱が少し残っている。

 雲の切れ目から、満月が姿を見せた。
 黄色く濡れた月光が木々の間を縫い、森の奥の光景を浮かび上がらせる。
 樹海に浮かぶ小島のように、そこだけ草むらが広がっていた。
 その野原に、躯が二つ、横たわっていた。

 仰向けになった一つには、どす黒く汚れ、引き裂かれた男の着物が張り付いていた。
 破れた袴の下からは、血の気を失った白い足が露出している。
 その顔は、酸に溶かされたように潰れており、折れたあばら骨の下は空っぽだった。
 片腕は肘から先が無く、断面に百足が一匹這っていた。

 もう一つ、女の着物の躯には、毛むくじゃらの影が、覆い被さっていた。熊にしては痩せており、山犬にしては肩が広い。
 肉をむさぼる湿った音に、かりこりと、骨を噛み砕く音が混じる。
 躯も、大木の切り株も、低い茂みに覆い隠されている中、その影だけが、野原の中で揺れ動いていた。

 妖怪。人を食らう存在。
 夢中で飢えを満たしていたそれは、一度喉を鳴らして、死体から頭を起こした。そして、最後のご馳走へと目を向ける。
 血生臭い香りの中で、産衣に身を包んだ赤子が、泣き声もあげずにじっとしていた。息が止まっているのではない。すやすやと眠っている。
 妖怪は一度、顔をしかめた。
 傷の走った自らの脇腹に、長い舌を伸ばし、べたべたした己の血をぬぐう。
 そして、赤い目を歪め、本能の赴くまま、目標の柔肌に飛びつこうとした。

 そこに、もう一つの影が現れた。

 妖怪が萎縮して動きを止めた。
 地の底からふいにわきだしたように、不穏な気配が、木々に囲まれた野原をすっぽりと包んでいる。
 月が再び、雲の向こう側へと隠れた。その禍々しい妖気から、逃れんとするように。
 だが、暗闇に落ちても、妖怪の夜目にはその存在が映っていた。

 それは人影だった。
 雨粒も降らぬこの夜更けに、大きな傘をさした影だ。
 女性的な体格を覆う黒も、袴というよりドレスかスカートのようであり、森をうろつく格好からは程遠い姿だった。
 その異質な影に、自分と同じにおいを嗅ぎ、妖怪は牙を剥きだして威嚇した。
 背後の獲物を渡さぬよう、毛を逆立てて妖気を放つ。
 張り詰めた空気の中、先に攻撃を仕掛けたのは、妖怪の方だった。
 咆哮が影に向かうにつれ、細く、伸びた。



 月の光がまた差してくる。
 妖怪は既に消えていた。
 二つの屍も、臭いごと無くなっており、土の丘が二つできていた。
 日傘を差した人影だけが、変わらぬ姿勢で立っている。

 茂みの中で眠っていた赤子が、やにわに泣き出した。
 人影はその声に向かって、一歩ずつ近づいていく。
 そして、その子を持ち上げ、肘の上に抱き、その頬についていた血をぬぐった。
 赤ん坊はしばらく泣いていたが、やがて落ち着き、再び寝息をたてはじめた。
 人影は夜風に長い髪を揺らしながら、二つの土の丘に目を向けた。
 そしてまた、腕の中の子に顔を戻し、そっと呟いた。


 「…………楽園……か…………」


 




 


 


 1 ―幾望の宴― (一日目 夜 巫女の場合) 


 うちの神社には無いものがたくさんある。ご利益が無い、お賽銭が無い、肝心の巫女もたまにいない。
 そして、無駄に豊富なものもある。お酒が売るほど、妖怪が山ほど、宴会が腐るほどだ。
 さらに言うなら、後者三つはいつも同時にやってくので、

「かんぱいだぜー!」
「かんぱーい!」

 こんな風に、足せば神社はどんちゃん騒ぎ、ということである。 

 しかし、今夜の神社の宴会は、いつもよりはだいぶ大人しかった。
 皆は神社の母屋側――季節の草が手入れもされず、好き放題に生えた裏庭で――虫除けのお香とお提灯の下、それぞれ勝手に飲んでいる。
 私、この博麗神社の巫女である博麗霊夢は、その光景を、縁側に座って眺めていた。

 この宴を計画したのは、幼馴染の霧雨魔理沙だった。
 『梅雨明けの満月とくれば、飲まないわけにはいかない。それだけじゃ足りないので、前夜祭もやろう』。という話を、彼女が昼間に持ってきて、あまりの蒸し暑さに、縁側でたれていた私は、『あーそうね、雨ばっかりだったから、それもいいかもね』と、適当に返事してしまった。
 それからあいつは午後いっぱいを使って、知り合いに片っ端から声をかけてきたらしい。相変わらず、呆れた行動力である。

 はじめは騒がしかった宴会も、進むに連れてだいぶ収まってきていた。
 比較的静かな奴らが集まっているのに加えて、人数が少ないというのもあるのだろう。
 ただし、明日は満月。今夜よりもはるかに昂ぶった妖怪達が、大挙して押し寄せてくるに違いない。
 百鬼夜行の終点地。それを想像すると、二日酔いでもないのに頭痛がしてきた。
 主に、後片付けのことを考えて。

「……れいむ~」

 聞き慣れぬへべれけ声が、私の耳を引っ張った。
 見ると、緑色の髪と対照的に、顔がすっかり赤くなった巫女服の少女が、千鳥足で近づいてくる。
 目がぐるぐる渦を巻いているというのは、まさしくこの状態を指すのだろう。
 酒に弱いこいつが、ここまで飲んでいるのも珍しいわね。

「れいむ~」
「なによ」
「今日という今日は~言わせてもらいますよ~」

 守矢神社の風祝、東風谷早苗は、縁側に両手をつき、のろのろとした動きで、私の側に座ろうとしてきた。
 だが、結局力尽きて、そこに寝そべってしまった。
 
「……お賽銭にこだわるのはいけましぇ~ん。私達は神に仕えるものなんですから、金銭欲など以ての外でしゅ」
「それで?」
「もっと信仰を増やすために積極的に奉仕しなしゃい……わかりましたかぁ~?」
「………………」
「れいむぅ!? 聞いてるんですかぁ!」
「はいはい、聞いてるわよ」
「ちゃんとこっち見て聞きなさぁい! どこ見てるんですかぁ!」
「床に突っ伏してるあんたの後頭を見てるんだけど」
「にゃら、いいです……れいむは百点です……」
「ああそう」
「……満点でしたぁー!」
「はいはい、ありがとうね」

 酔っ払いと会話しても実りはないので、私は適当にあしらった。それ以上絡んでくる様子もなく、風祝はそこで寝はじめた。
 別に構いはしないけど、間違ってもここで戻すのだけは勘弁してもらいたい。
 昔一度、魔理沙がやりそうになった時は、すかさず蹴落として、きっちり掃除させたっけ。
 ついでに思い出すならば、その後しばらく、神社に来なかったような気も……。

「またかんぱーい!! さー飲めー!!」

 その魔法使い、今夜の宴会の企画役は、向こうで本日何度目かの乾杯の音頭を取っていた。
 私も酒に弱い方ではないが、あいつの肝臓も人間離れしているように思える。
 側にいるのは、半人半霊の剣士と、紅魔館のメイド長。
 その奥では、なにやら話し込んでいる狐と天狗の姿がある。
 反対側では、神様二柱と吸血鬼のお嬢様が、互いに持参したワインと日本酒を飲み比べしているようだ。
 それぞれ思うままに、宴会を楽しんでいる。それは結構な話かもしれないけど……


 ……誰一人として、お賽銭を入れようとする気配が無いのはどういうことかしら?


 いや、こいつらに期待しているわけじゃないけど、もうしばらく、お賽銭の鳴る音を聞いてないのだ。
 生活費については、妖怪退治の報酬ということで里から出してもらう謝礼で、十分に食べていける。
 それ以上を望みはしないし、守銭奴になったつもりはない。
 そう。実は私は、単にあの音が聞きたいだけなのである。

「……だから、お金や信仰が欲しくて、お賽銭お賽銭言ってるわけじゃないの」

 むくり。

 と、寝ていた早苗が頭を起こしたので、私はギョッとした。
 据わった二つの眼が、こちらを凝視している。

「れいむ」
「あ、あんた起きてたの?」
「今、言いましたよね。言いましたよね。どういうことですか」
「……なんのこと?」
「とぼけないでください。じゃあそこまでお賽銭を欲しがる理由って何ですか。お金や信仰でもないなら、どうしてそこまでこだわるんですか」
「知らないわ。知っててもあんたに教えないしね」
「……びぇーん!!」

 わっ、早苗が泣き出した!?

「れいむがー! れいむが教えてくれないんですー! ひどいですー!」
「は、はぁ!? ちょっとあんた、落ち着きなさい!」 
「どうせ私は外からやって来たよそ者ですよー! ちょっと奇跡が起こせるだけの凡人ですよー! せっかく同世代の巫女と友達になれると思ってたのにー! お酒飲んで頑張ったのにー!」
「……………………」
「魔理沙や他のみんなばっかりー! 私だけ仲間外れー! 教えてくれないー! れいむのいじわるー!」
「うるさい黙れ」

 びしっ、と首に手刀を一発。
 すぐに早苗は床に倒れ伏し、大人しくなった。
 頭をお払い棒でつんつん突いてみて、今度こそ完全に気を失っていることを確認する。
 ほっと息をついた。

「……魔理沙や他の誰にだって、教えたことがないっつーの。二、三度しつこく聞かれたことはあってもね」

 でも、これからも、誰にも教えるつもりはないわ。
 心の中でそう付け加えて、私は盃に、お酒を注いだ。


 ……ちゃり


 遠くでお賽銭箱が鳴ったのを聞いて、私の手元が狂いそうになった。
 
 今の音、誰かがお賽銭を入れたようだ。
 ちょうどここで話題にしていた時に鳴るとは、タイミングが良すぎる……いや、偶然にしては明らかにおかしい。
 私の勘が告げていた。こういう悪趣味な真似をするのは決まって、

「考えてみれば、あっちに式が来てるんだから、あんたがいるのは不思議じゃないわね」
「……そうとも限らないわよ」

 何も無い闇から、返事が返ってくる。

「例えば、神社に巫女がいても、祀る神様がいない場合もあるでしょ」
「それって嫌味?」
「あら、この神社のことを言ったわけではありませんわ」

 闇に裂け目が走った。目や手が蠢く不気味な空間から、紫色のドレス姿が出てくる。
 頭にはリボンのついたナイトキャップ。波打つ金髪を腰まで伸ばし、日傘をさして微笑しているのは、

「こんばんは霊夢」
「こんばんは紫」

 八雲紫だった。外見こそ人間だが、れっきとした妖怪である。
 空間を繋げるスキマを操り、神出鬼没で行動原理も不明。何だか妖怪の中でも偉くて、頂点に近い実力を持っているという噂。
 幻想郷でもっとも謎に満ちた、つまり変な妖怪だった。

「相変わらず唐突ね。ちゃんと表から入って来れないわけ?」
「招かれざる客は、それなりの方法を選ぶ必要があるのよ」
「確かに、招いてないけど。普通に入ってくるのが一番よ」

 彼女は時々、この神社に、こんな感じで現れる。
 その後は、付かず離れず座ったままだったり、スキマの向こうでニタニタと笑っているだけだったり、謎かけをしてきたり、修行をつけてきたりと、うっとおしい妖怪だ。
 そう思うと、すぐに察して姿を消してしまうので、いよいよもって胡散臭い。空気が読めているのか読めていないのか、よくわからないやつだった。
 最近はもう、こいつは天気の一種だと思うことにしている。
 あら、今朝は曇りね。昼から雨になったわね。夜には紫が現れるでしょう。
 そんな感じ。一々気にしたところでしょうがないのだ。
 けどね、

「そうだ紫。この前お煎餅が一つ減ってたけど、あれあんたでしょ」

 厄介なことに、この天気は雨や雪と違って、家の中まで入ってくる上に、つまみ食いまでするのである。
 気がつくとしまっておいたお菓子が消えていたり、お茶の葉っぱが少なくなっていたりするのだ。
 ここまでくると、天気というより、天災のようなものかもしれない。
 じしん、かみなり、かじ、ゆかり。
 うん、間違いない。

「新しいものから食べていかないでよ。どうせなら、古くてもう食べられないものから持っていきなさい」
「スキマをゴミ箱と一緒にしないで。それに、言われずとも、古いのはちゃんと始末してあげていますわ。貴方、たまにものぐさなところがあるからね」
「むぅ……」

 気が利くんだか利かないんだか。
 紫は小さなスキマから、一升瓶を取り出して見せた。

「ほら、今夜は手ぶらじゃないわ。ちゃんとお酒も持ってきてるのよ」
「仕方ないわね。六対四で気が利くことにしてあげるわ」
「それじゃあ、ここに注いでちょうだいな」
「前言撤回」

 私はきっぱりと言った。
 まぁ、そうぼやきつつも、その盃に注いでやるくらいの仲ではあるのよね。




 私達は二人――くたばっている早苗を入れると三人だけど――縁側に座って、静かに飲んでいた。
 紫が持ってきたのは、外界のお酒。おつまみの裂きイカも、外の海とやらで取れたものらしく、普段はあまり口にすることができないものだ。

「里で売ってることもあるけど、ちょっと高くて手が届きにくいのよね」

 もぐもぐ、とよく噛んだイカを飲み込んでから、私はそう話を振った。

「あれもやっぱり、あんたが外から仕入れてるわけ?」
「ご想像にお任せしますわ」

 私の横に、おつまみのお盆を挟んで座る紫は、口元に微笑を浮かべている。
 目を閉じ、古風な盃を膝の上に支えながら、虫の音と混ざった宴の雰囲気に、耳をすましているみたいだ。
 宴会が特に好きな妖怪といえば、小鬼だったり吸血鬼だったりがいるが、このスキマ妖怪も例外ではない。ただ彼女の場合、ちょっと楽しみ方が変わっている。
 呼んでもいないのに現れて、騒ぎの中心に入らず、私の近くに座って、宴会の様子を眺める。そんなことが多かった。
 私は裂きイカを、指でつまんで回した。

「たまに売ってるといえば、鰹節や昆布もそうよね。あっちは安いからいいけど、これも安くならないのかなぁ」
「嗜好品はどうしてもそうなるのよ。博麗の巫女の頼みなら、安くしてくれるんじゃないかしら」
「そういうのは何か嫌。でもお賽銭には期待できないし……」

 参拝客は少なく、知り合いの多くはお賽銭箱に見向きもしない。
 律儀に投げ入れてくれる例外といえば、この少女趣味の妖怪くらい。
 もちろん小銭なので生活費の足しにもなっていない。せいぜい、子供のお小遣い程度といったところか。

「そういう貴方は、お賽銭に何か思い入れでもあるのかしら。さっき、そこの子と話していたようだけど」
「なんにも」

 私はそっけない返事をして、

「でも、いい音だって思わない? 私だけかね」
「貴方だけかもしれないわね。もっといい音は、自然の中にあふれているわ」
「私だって小雨の音や虫の音は好きよ。自然のだけじゃなくって、風鈴やビードロも好きだし。お賽銭もその一つってことよ」
「神社の巫女ならではかしら。まぁでも、その音が貴方の中で……例えば、何かの思い出と結び付けられているというなら、分からないでもないわ」
「……………………」

 私は口を閉ざす。
 自然、心の動きも停止させていた。
 ただし、そのそぶりは絶対に見せない。あくまで自然な手つきで、おつまみをまた一つ、口に含む。
 私のすげない態度に、紫はさして気を悪くすることも無く、

「話したくないのなら話さなくてもいいわ」
「話すことなんて何にもないわよ」
「わーん! れいむのいじわるー!」
「あんたは寝てろ!!」

 突然起き上がった早苗の頭に、私は拳骨を降らせた。
 いっそのこと縛って奥に放り込んでおくか、と気絶した風祝を睨んでいると、妙な声がした。紫が扇を開いて、忍び笑いを漏らしている。

「ふふ。何だかんだ言って、この神社で開かれる宴会が一番多く、一番盛り上がる。その数も増えるばかり。やっぱり、貴方の人徳なのかしらね」
「さすがに、これ以上増えると片づけが大変なんだけど。いや本当に」
「ご苦労様ね」

 紫は立ち上がって、虚空を指で撫でた。

「それじゃあ、また明日」
「あれ、明日も来るわけ?」
「ええ、楽しみにしていますわ」
 
 うっすらと笑みを残して、紫は開いたスキマの向こうに消えていった。

 ……ま、唐突に現れて、唐突に消える。いつものことだ。
 きっと、博麗の巫女である、私の監視も兼ねているのだろう。一応、幻想郷を管理してる、妖怪の賢者の一人らしいし。
 そこに、入れ替わりのように、足音が二つ近づいてきた。

「ああ、ここにいたか。すまないねぇ」
「ほら早苗ー。起きて帰るよー。諏訪子だけにー。ケロケロ」
「つまらん」
「なんだと神奈子」

 漫才空気で現れたのは神様、今夜の宴会に参加していた、守矢神社の二柱である。
 しめ縄を背負った神様が八坂神奈子。彼女を睨み上げている、大きな目玉のついた帽子の神様が洩矢諏訪子。
 そして、私の隣でたんこぶを作ってダウンしているのが、彼女達に仕える風祝、サナエ・コチーヤである。
 私は神様コンビを、軽くたしなめた。

「飲めないのに宴会なんて連れてくるもんじゃないわよ。保護者さん」
「そう言わないでちょうだい。この子も他のみんなとの輪に、何とか溶け込みたくて必死でがんばってるのよ」
「だったらしっかり監督しなさい」
「ごめんごめん。でも、私らが見張ってるばっかりじゃ、楽しめないでしょ?」

 酔いつぶれたコチーヤを背負い、諏訪子は手を合わせて謝ってくる。
 神様に拝まれるというのも不思議な気分だった。

「それじゃあ、また明日。早苗はこの様子じゃ、連れて行けないわね」
「そうね。家でお留守番かな」
「ちょっと、あんたらもたまには片づけを手伝ってよ」

 帰る背中に向けて、私が文句を言ってやると、神奈子が一人振り向いて、意味ありげな笑みを見せた。

「神はあくまで盛り上げ役。守矢でやる宴ならともかく、大事な役目はその神社の巫女に任せるのが決まりよ」
「いつから飲み会の片づけが、巫女の大事な役目になったのよ」
「おや、私の記憶違いだったかな」

 とぼけた笑いを残して、神奈子は先に行った二人を追う。
 三人並んで、一人は背負われながら、二柱は小突き合いながら、山へと飛んでいった。
 彼女らの後ろ姿は、神とそれに仕える者には見えなかった。
 なんというか、それよりも……。

「…………」

 盃の底に残っていたお酒を、私は飲み干した。

 今夜の宴会も、もうすぐ終わりだ。勝負の本番は明日。
 そろそろ、片付けの準備をしましょうかね。

 私は立ち上がり、まだ飲んでいる奴らを、追い出しに向かった。




 



2 ―飛んでけ賽銭箱― (二日目 昼 巫女の場合)




 夏の昼過ぎにやってくる、うだるような暑さの中。


 ミーン、ミンミンミンミンミンミンミギィ~~~


「……みんみんみぎぃ……」

 博麗神社の鎮守の森に住む蝉の声に、私は洗脳されていた。

 幻想郷の夏は蒸し暑い。
 始めの時期は『ムシ暑い』で済むが、夏の一番の時期は『ムシムシ暑い』。
 さらには蝉の声がやかましくて風鈴も聞こえないので、『ムシムシムシ暑い』。
 おまけに昼を境に西日が入るので『ムシムシムシムシ……あー、だめだ。頭がとろけてきたみたい。

「……あ~つ~……」

 縁側に座る私は、だらしのない格好をしていた。
 服装こそいつもの巫女服だが、かなりはだけている上に、右手にうちわ、左手に水出しのお茶、両足は桶に張った水に浸かっており、それももうぬるくなっている。
 この夏用装備だと、額の汗をぬぐう度に、どんどん魅力ゲージが落ちていくのが難点。
 これでも私、花も恥らう女の子。ああ神様、どうか敬虔な巫女に冷風を。

「……打ち水してみたんだけどなぁ……」

 じっとりと汗ばんできた巫女服を、私はパタパタと動かした。
 この暑さでは、多少の水を庭に撒いても、それほど効果は期待できないようである。
 なるべく動きたくないが、ここでじっとしているのも生産的とは思えない。
 のんびりお茶を楽しむ平和主義者(本当よ)の私が言うのもなんだけど、こんな時はスカッとするような異変でも起きてくれるとありがたい。
 温泉の次は巨大プール、氷精が神社の庭に増えて大混乱、とか。
 いっそのこと、宴会もプールで行うとか。だめかなぁ……。

 茹だった頭でそんなことを考えつつ、私は冷たいお茶を一口飲んだ。
 すると、

「……ん?」

 こことは反対側、神社の境内の方に、何らかの気配を感じた。
 魔理沙ではない。魔理沙ならもっと勢いよく、うるさくしてやってくる。

「お客さんかしら」

 ありえないことでも、呟いてみると、吉に転ずることもある。
 実際はいつも、暇を持て余した妖怪だったり、妖精だったりするのがオチなんだけど。
 昨日宴会に来なかった奴が、今夜の段取りについて聞きにきたとか。
 ちなみに妖怪はお客さんには入らない。というわけで、この神社にお客さんはほとんど来ないということになる。

「でも……もしかして……」

 本当に参拝客だったりしたら嬉しいわね。
 早苗のところの神社、守矢神社の分社を置いてから、うちにもわずかながらも、たまにお客さんがやってくることがある。
 お賽銭を一つ入れて、澄んだ音を鳴らして、手を合わせてから願い事。
 神社の主である私にとっては、この暑さも解消されそうな、心の躍るイベントだ。
 願い事の方は、いるかどうかも分からない神様に任せるとして、巫女たる私の役目は、冷たいお茶をお出しして、秘蔵のお饅頭をご馳走するとか……。
 そんなふうに、楽しい想像を巡らせていると、


 ゴトン。


「ゴトン?」

 思わず口にして、私は振り向いた。
 今の音は、間違っても、お賽銭の音ではなかった。
 私が期待しているのは、もっと小さく甲高い、そっと耳を撫でる響きなのだ。
 ゴトンなんて、石器時代のお金でも入れない限りするはずがない。
 だとすると、今のは賽銭箱を動かした音だろうか。

 …………って!? 

 だれていた気分が、一瞬で消し飛んだ。

 まさか泥棒!?

 私はすぐに、桶から足を抜いてささっと拭き、お茶とうちわを、お払い棒と御札に持ち替えた。
 三秒でいつもの異変解決モードの姿になり、靴を履いて表へと飛ぶ。
 うちの神社の物に手をつけるとは許せん!
 天誅!

「賽銭ドロボー!」
 
 そう叫んで神社の角を曲がった私は……拍子抜けした。

「あれ? 誰もいないわね」

 そこにはいつもの風景が広がっている。
 簡素な造りの拝殿の前に、古い檜のお賽銭箱。ぶら下がったしめ縄。白い石畳の敷かれた境内に、石燈籠が二つ。
 動かされた物もなく、悪戯がされた痕跡もなく、実に平和な空気であった。

 考えてみれば、覗いても空っぽの賽銭箱を盗もうと考える輩などいるはずもない。
 裏山の動物が興味本位で触ってみたとか、いつもの三妖精が悪さをしようとして逃げたとか、あるいは私の聞き間違いか。
 とりあえず、私にとって一番大事な、お賽銭箱は無事だった。
 そもそもこれには、私が本気でがんばった結界が施されており、そんじょそこらの妖怪には決して開けることなど出来ないのだ。

「ふ~ん……」

 念のため、私は周囲の気配を探ってみる。
 巫女の勘には何も反応が……


 …………怪しい。


 なんだろう。気配はしないのだが、何かが起こっている気がする。
 問題はその正体が分からないということ。
 なんだか薄気味悪かったので、ちょっと探りを入れてみる。

「誰でもいいけど、隠れてないで出てきた方がいいわよ」

 私の独り言に、反応は無い。もう少し試してみることにした。

「そうねぇ。その場で土下座して謝るなら、お祓い棒百八叩きで勘弁してるわ。妙なそぶりを見せたら、針が刺さるわよ。逃げた歩数の分だけ刺すから、覚えておきなさいね。妖怪なら夢想封印。妖精なら結界に閉じ込めて宴会の見世物とかしら」

 神への捧げ物を奪おうとする輩には、それほどの罪過が背負わされるのよ。
 けど、ここまで脅し言葉を並べても、何も現れる気配はしなかった。
 やっぱり気のせいだったか、と、私は考え直す。

「そうだ。今日はまだお賽銭を見てなかったわね」

 ……今さら中が空っぽでも、がっかりなんてしない。これはいつもの日課なのだ。
 一日の始まりはこれと決まっているのだが、昨晩が片づけで遅かったので、今朝はお寝坊してしまった。
 ひょっとしたらその間に、誰かがお賽銭を入れてくれていたかもしれない。可能性はゼロじゃないものね。

 私はるんるん気分で、箱の蓋に手をかけ

 ……る前に、『お賽銭箱』がふわりと浮き上がった。

「はっ!?」

 そのまま、百貫はありそうだったお賽銭箱は、もの凄い勢いで飛び出した。
 境内の上を横切り、あっという間に林の外へ……博麗神社の外へと出て行った。
 あまりの出来事に、私はしばし、ぽかんとその姿を見送っていたが、

「ちょっ、待ちなさい!」

 慌ててその後を追った。




「待てー!」

 私は林の中で、急に神社から逃げ出したお賽銭箱と、鬼ごっこをしていた。
 博麗神社は山奥に建っており、徒歩であれば、長い石段か林を下りることになる。
 お賽銭箱は低空飛行で、木々の間をふらふらと揺れながら下山していた。
 明らかに、私から逃げるように飛んでいる。そして当たり前だが、逃がすつもりはない。
 私は陰陽玉を取り出し、御札を飛ばして、お賽銭箱を取り巻くように配置した

「―封―」

 すかさず封印結界を発動。
 六つの頃からやっている術だ。今では鼻歌混じりで発動できるものの、逃げるお賽銭箱相手に使うのは――言うまでも無いが――はじめての経験だった。
 逃走経路を塞がれた箱は、抜け道を探すかのようにしばらく浮遊していたが、やがて観念したのか、ずんと地面に落ちた。
 それを確認して、私も地上に下りた。

「私から逃げられると思ったら大間違いよ。箒に乗ったスピード狂だろうと盗撮天狗だろうとね」

 言いながら、私は妖怪退治用の封魔針を構えた。
 が、続く声を聞いて、危うく手から、その針を落としそうになった。


『……抵抗はしない』
「なっ!?」


 お、お賽銭箱が喋った!?
 日頃から、妖怪よりも神経が図太い、と失礼なことを言われている私でも、これには意表をつかれた。
 だがすぐに、その正体に見当がつく。

「……あーあー、ひょっとして……つくも神ってやつ?」
『………………』
「お賽銭箱の他に気配は無いし、うちの神社も地震やらで壊される前は、相当古かったらしいから」

 九十九神。長く使った道具や自然物に神や御霊等が宿り、人の寝静まった夜中になると勝手に動き出すというやつである。
 新築の神社にあるもので古いものといえば、無事だったこのお賽銭箱だった。
 さらにその素材は霊木。いつの間にやら、何かが宿っていてもおかしくはない。
 老人を思わせる枯れた声で、箱はそれを認めた。

『……その通り、私はつくも神だ』
「へぇ、やっぱり。はじめて見たわ」
『それで、どうするつもりだ』
「どうするつもりだ……って、それはこっちの台詞よ。つくも神って目覚めたとたんに逃げ出すもんなの。しかも今は昼間よ」
『……いや、そうではない』
「じゃあ何で神社から逃げたのよ」

 私の尋問に、お賽銭箱はしばし黙った後、いきなり大声で言い放ってきた。


『賽銭が全く入らないから、かわりに集めてこようと思ったのだ! わかったか!』


 ……………………。


「うぇーん!!」

 情けない話だが、それからの私の泣きっぷりは、昨日の風祝と大差なかった。








 3 ―つくも神と語る午後―


 私が泣き止んだのは、お賽銭箱が言ったことが、冗談だと分かってからだった。
 急に動けるようになったので、つい飛んでみたくなった、とかいうのが理由らしい。
 だったら最初からそう言え、という話だ。戯れ言にしては達が悪すぎる。
 こいつがお賽銭箱じゃなかったら、怒りにまかせて、薪にして燃やしてやるところである。
 それに、目覚めた途端、私を置いてどこかへ行ってしまったというのも、気に食わない。

「あんた、つくも神なのよね」
『あ、ああ』

 私はドスのきいた声で確かめながら、お賽銭箱を睨み下ろした。

「この神社にずっと住んでいたのよね」
『うむ』
「なら、まずは私と話してみよう、とか思わなかったの?」
『…………どう意味だか、よくわからないのだが』
「はい?」

 聞き違いかと思った。

「ちょっと。まさか私のこと、覚えてないとかいわないわよね」
『いや、すまないが、その通りだ。ずっと座っていたとはいえ、その間のことは覚えてないのだ』
「どうしてよ」
『お前も生まれる前までのことは覚えていないだろう。それと同じだ』
「じゃあ赤ん坊なのあんた。その割には、ぺらぺら喋ってるけど」
『いやいや、こうして目覚めるのは初めてじゃないのだよ。そうだな、六十年に一度といったところか。前に目覚めた時には、お前の何代か前の巫女と会話する機会があった。一日だけだがな』
「ふ~ん」

 お賽銭箱に、そんな秘密があるとは知らなかった。まぁ、あの神社には、住んでいる私でも知らない秘密が、まだまだいっぱいあるらしいんだけど。
 六十年に一度か……。それがホントなら、私がこいつと会話できるというのは、案外ラッキーなのかも。
 となれば、この機会を利用しない手はない。私は腰に手を当て、期待して言った。

「じゃあ、お話しましょ」
『む?』
「む、じゃないわよ。目覚めたんだから、巫女の私と話すもんなんじゃないの?」
『あ、いや、それはそうかもしれないが、別に無理にとは……』
「何よ。私とお話できないっていうの。何代か前の巫女とは会話したって言ってたじゃない」
『いやいやいや、それはそうだが』
「じゃあお話しましょ。嫌とは言わせないわよ。私は博麗霊夢。よろしくね」

 手を差し出して、相手が箱だということを思い出した。
 表情こそ分からぬものの、彼(彼女かもね)は困惑しているようだった。

『ひょっとして、お前は私と、そんなにお話がしたいのか?』
「そうよ。いつかこんな日が来ないかな、て夢みていたの」
『そ、それは、何というか、変わった巫女だな』
「悪かったわね。よく言われるけどさ。……あ、そうか。あんたは六十年前の博麗の巫女とか、百二十年前の博麗の巫女とかを知っているのね。その人達と比べて、変わっているってこと?」
『ああ、そういうことになる』
「その時は、どんなことを話したの? どんな人達だったの?」
『まぁ、今お前がしているような質問をされたな。性格は明るくてお転婆だったり、礼儀正しくしっかりしていたり、引っ込み思案で恥ずかしがりやだったりと、巫女によって様々だった。だが……』
「だが?」
『賽銭箱と話すのを夢見るような巫女はいなかった。そういった意味で、博麗霊夢は珍種のようだな』
「珍種言うな」

 どすん、と私は、お賽銭箱にお尻を乗せた。

『ああっ!? 何をするんだ、罰当たりなやつめ!』
「おあいにく様。小さい頃から、よくやっているのよ。神罰が下るならとっくに下ってるわ」
『むむむ、やはり変わった巫女だな』
「そうね。そう言えば、あの頃は、あんたの中に隠れたりもしたっけ。あれは意外とお気に入りの遊びだったわね」
『なーんだとぉ!?』
「ど、どうしたのよ」
『や、やめんか! そんなことをしたら本当に罰が当たるぞ!』
「子供の頃の話よ。今やるわけないでしょ。狭っ苦しいもの。そんなに怒らないでよ」
『そ……そうだな。すまなかった。やはり、記憶に無いことを知らされると、驚くのだよ』
「あー、じゃあ紙銭のかわりに御札を入れた悪戯とかも……」
『絶対にやめなさい』
「……はい」

 私は生まれてはじめて、お賽銭箱に叱られてしまった。
 それが、何だかくすぐったくて、思わず笑みがこぼれた。




 私は林の中、お賽銭箱と二人っきりで、お喋りを楽しんだ。
 周辺には虫の気配しかないし、場所は木陰だったために涼しい。夏に秘密の話をするには、もってこいの場所であった。
 話題は尽きることがない。何せ、この不思議な話し相手は、私の知らない昔の神社を知っているのである。

「……じゃあ、博麗神社って、昔からお賽銭に縁が無かったわけ?」
『うむ。私としては残念なことではあるが、巫女の大半は妖怪退治の謝礼で生活していた』
「やっぱりそうなのね。つまんないな」
『いや……よく思い出してみると、たくさんお賽銭を手に入れていた巫女もいたな。彼女は凄かった』
「えっ、どんな秘訣があったの!?」
『里まで私を担いで下りていった』
「……豪快ね。一度会ってみたかったわ」
『そもそも昔から、博麗の巫女に里の人間が期待することは、もっぱら妖怪退治だったからな』
「昔から?」

 お賽銭箱は、幻想郷の歴史についても詳しかった。
 普段はあまり興味の湧かない分野だが、せっかくの機会なので、興味のあることを中心に聞いてみる。
 彼は意外に――たぶん、某寺子屋の教師さんよりも――説明が上手かった。

『……いやいや、そんなことはないぞ。博麗大結界ができる前から、博麗神社は存在していた。しかし、博麗の巫女の雛型についてはもっと古い。およそ千年は遡る』
「千年!? そんなに昔からいたんだ……」
『私もまだ霊木の一つとして生きていたので、直接知ったわけではない。初期の博麗の巫女からの又聞きになる。元々この地には妖怪が多く住んでおり、人間と生活圏を分け合っていたのだが、当然、お互いの交流や衝突があった。そこで、人間達は自らの発言権を強めるために、各地から妖怪退治の専門家を呼び寄せたり、異能者を育てたりすることを積極的に行っていたそうだ。その中でも優れた力を発揮したのが、行者、法師、陰陽師、そして巫女だったというわけだな』
「法師に陰陽師ねぇ……今じゃ巫女しか見当たらないけど。それで続きは?」
『うむ。しかし、外界においても幻想郷においても、妖怪の力は減少し続け、絶滅の一途を辿っていた。別な言い方をすれば、人間側の力が圧倒的に上回ってしまったのだ。そこで、この地と外の世界を分け、外界の妖怪を盛んに招くことで、当時の妖怪の賢者達はバランスを保とうとした。『幻と実体の境界』、その時この地は『幻想郷』と名づけられた。今から五百年以上前の話になる。私が賽銭箱になったのもその頃だ』
「つまり、その時に、あの博麗神社が建てられた、ってわけね」
『その通りだ。幻想郷の東側に建立され、妖怪がもっとも力を発揮する鬼門を見張るための防衛線だった。今でこそ博麗の巫女には、博麗大結界の管理という仕事があるが、元々は妖怪と向き合い、闘うための存在。人間側の精神的支柱だったのだよ』
「ふ~ん。妖怪退治が仕事だったなら、今の私とあまり変わらないわね。それにしても詳しいじゃない」
『まぁ、目覚める度に巫女と語るついでに、その時の幻想郷について聞くことにしているからな』
「あら。それなら私にも聞いていいわよ」

 お賽銭箱の不躾な質問にも、私は快く答えてあげた。
 さっき私が言ったことは嘘ではない。私は神社のお賽銭箱が好きで、こんな風に会話できたらいいな、と思っていたのである。
 普通の女の子が、大事な人形やぬいぐるみに話し掛けたりするのと同じように、巫女の私は、この箱を子供の頃から親しんできたのだ。
 ある理由も手伝って……、

『そうだ。さっき、『放っておいた』とか、『あれっきり』、と言っていたな』

 それまで上機嫌で喋っていた私は、それを聞いて、押し黙った。

『どういうことだ?』
「………………」

 いつ口を滑らせたのだろうか。
 先ほど動揺したあげく、無意識に言ったかもしれないが、覚えていない。
 第一、話したくない内容だった。魔理沙だろうと早苗だろうと。人間だろうと妖怪だろうと妖精だろうと神だろうと。
 『あの人』相手を除いて、ずっと秘密にするつもりだった。
 けれども、

『……どうした、霊夢』
「……本当に覚えてないのね、あんた」

 このお賽銭箱には、それを聞く権利があるだろう。
 立派な当事者の一人なのだし、それに、『あの人』がいない今、私の心を語り継ぐ存在がいるとすれば、この箱しかいない。

「いいわ。話してあげる」

 私はお賽銭箱の隣、乾いた木の根の上に座り、箱に寄りかかった。
 そして、一度深呼吸してから、

「私が……六つになってからなんだけど」

 これまで包み隠していた記憶の紐を、丁寧に解いていった。




***




 幻想郷生まれの幻想郷育ち。でも私は、生まれた時から、博麗神社に住んでいたわけではない。
 五つまでは里で過ごし、六つになってから、あの神社に住むようになった。

 その頃の幻想郷の様子は、今とはだいぶ違っていた。
 子供の私は、何とも感じていなかったのだけど、当時は人間の誰もが妖怪に怯えていた。
 人里から出る機会はわずかだったし、妖怪に襲われて亡くなる事件も珍しくなかったらしい。
 里から離れた神社まで参拝しに来る者など、全くと言っていいほどいなかった。

 では、六つの私が、博麗神社で生きていけたのはなぜか。
 それは、里から週ごとに一人ずつ、代表してやってくる、世話役の婆や達がいたからである。彼女らを道中守護するのは、私の役目だった。
 博麗の巫女がいれば、妖怪達は襲ってこない。万が一襲われたとしても、年老いた住民なら、食われても構わないという里の都合があったのだろう。もっとも、それに私が気づいたのは、一人で暮らせるようになってからのことだったけれど。

 最初は七日のうち六日間、ご飯の炊き方を覚えてからは五日間、婆やが神社に住み込みで、炊事洗濯をしてくれる。私が家事を一通り覚えるまで、その慣例が続いた。
 覚えのよかった私は、早くからお米の炊き方や服の洗い方を身につけた。それぞれの婆やが、それぞれのやり方を持っていたために、私はそれらを自分なりに応用することを覚えた。
 多くの生活の知恵を教えてくれたことについては、今でも感謝している。だけど、彼女達の多くは最後まで、博麗の巫女という存在をどこか敬遠していたので、最後まで私と他人のままだったのが、少し残念に思える。
 
 肝心の巫女の作法についてだが、その半分は後から蔵の書物で覚えた。
 難解な漢字をしっかり読めるようになったのは十を数えてからだったけど、禊や祓いなどの基本的な儀式なら知っていたし、そこに載っていた術式についても、すでに扱えるものばかり。針も御札も結界術も、とっくに覚えていた。
 この事に関して、周囲から天才と呼ばれることもあるけど、私はそうは思わない。実は、覚えが良かったのには、ちゃんとした理由があるのだ。
 そのうちの一つは練習相手。
 物騒な話だが、神社のまわりにはいつも妖怪がうろついていたので、よくそいつらを攻撃していたのである。
 博麗大結界の維持に必要な巫女は、通常妖怪に襲われることはない。だが、かなり危険で実践的な暇つぶしだったのは確かである。
 神社に閉じ込められた子供が欲求不満を解消するには、もってこいの遊びだったのだ。結果的にあれが、術のいい練習にもなってくれたのだろう。

 もちろん、一人遊びの種類はそれだけではない。
 あやとりにお手玉、手鞠に凧揚げ、ビードロに逆立ち。どれも人並み以上にできる。
 縁側でお茶を飲んだり、屋根の上で日向ぼっこしたりして、のんびり過ごすのも嫌いじゃない。
 神社で眺める季節の移り変わりも好きである。春の山菜を美味しく料理してみたり、暑い夏を効果的に涼しくする方法を考えてみたり、秋は虫の音を聞きながら眠ったり、冬は境内に雪だるまを作ってみたり。そんなことも子供の頃から楽しんでいた。

 つまりは私、博麗霊夢にとって、一人で過ごすことは、さほど苦ではないということである。
 ここら辺が、魔理沙とかに冷たいなーとか言われる所以かもしれない。




***




「……あ、魔理沙っていうのは、幼馴染の腐れ縁のことよ。霧雨魔理沙、職業は普通の泥棒」
「泥棒だと?」
「間違えた。普通の魔法使い」
「ふむ。その魔理沙とは、神社に来る前から知りあっていたのか?」
「あいつは、『絶対にそうだ! あれは霊夢だ! あの時私を殴ったんだ! 思い出せ!』とか言ってるんだけど、全然覚えてないのよね」
「……気の毒に」
「まぁ、孤児院にいた頃のことは記憶も薄れているし、私もやんちゃだったらしいから、里で偶然会っていて遊んだこともあるのかもね」
「孤児院?」
「そう。私、神社に来る前は、孤児院に住んでたの。両親の顔も知らないのよ」
「孤児だったのか。それがどうして、博麗の巫女に?」
「それをこれから話すのよ」
「失礼。聞かせてくれ」




***





 私には家族がいない。父親も母親も覚えていない。
 神社に住む前の私は、孤児院に住んでいて、そこの仲間と暮していた。
 みなしごの年少組は孤児院で、六歳を越えてからは寺子屋で生活する。それが当時の里の決まりだったのだ。

 孤児院時代の私はかなりのお転婆で、女の子にも男の子にも、一目置かれる存在だった。
 持ち前の運動神経と潜在的な霊力、加えてつっぱった性格により、仲間からは絶対的存在として恐れられていた……というのは後で聞いた話なんだけど。
 それが、五歳の半ば頃になってから、私は一目置かれるどころか、距離まで置かれるようになってしまった。
 言うまでも無く、博麗の巫女としての生き方が始まったからである。

 それがどのような選別の末に決められたのかについては、よく知らない。
 理由もわからないまま、巫女服に袖を通し、お祓い棒を渡され、『博麗の巫女』という幻想郷の仕組みについて、里の長老から口伝受けたのである。
 私が博麗の巫女になるという事実を、同じ孤児院の子供達は、割と納得して受け入れていた。
 おりしも、空を飛んで大人の頭を飛び越えたりするなかで、だんだんと私の存在が孤児院の中で浮き始めていた頃だった。
 彼らは悲しがったり寂しがったりするよりも、むしろ憧れと畏れの混じった複雑な表情で、私を送り出した。
 その視線の束を巫女服の背に受けて、私は大人達と、博麗神社へ旅立った。
 今まで生きてきて体験した唯一の引っ越しであり、はじめてのお別れである。
 私は孤児院の霊夢ちゃんから、博麗の巫女さんになったわけだ。

 しかし、当人としては、すんなりとその役目を受け入れたわけではない。
 さっき一人遊びが得意と言ったけど、もっと小さい頃の私、博麗神社に住み始めた頃の私はどうだったかといえば、それはもう毎日が面白くなくて、神社なんて大嫌いだった。
 だって、それまで私は、普通の子供の遊びに親しんでいたのである。里で同年代の子供達と混じって、鬼ごっこや隠れん坊をして遊んだ小さい子が、いきなり神社での生活に放り込まれたのだから、たまったものではない。
 ろくな遊び相手もいないし、里に気軽に下りていくこともできない。ストレスは日ごとたまっていく一方だった。
 何度帰りたいと思ったことか、何度辞めたいと思ったことか。
 子供の私は、そんな不満を誰かに打ち明けることもなく、大人達に相談することもしなかった。

 たった一人を除いて。

 新しい生活を嫌がり、里を恋しく思っていた、あの幼少時代。
 私の心変わりのきっかけは、彼女との出会いだった。

 今でもあの時のことを思い出す。
 私の神社での生き方、博麗の巫女としての生き方、全ては彼女に教えてもらった。
 博麗神社に住むようになってから、一ヶ月が過ぎた頃のこと。
 彼女は突然、私の前に姿を現した。


 耳をそっと撫でる、不思議な音ともに。
 

 





4 ―博麗霊夢の物語 一日目― (九年前 巫女の場合)


 秋のはじめの昼下がりは、まだ夏の暑さを引きずっているものの、厄介な湿気はなくなっていて、わりと過ごしやすい時期になっていた。
 裏山の木々も、緑から黄色に色づき、時折風に葉っぱが散る。
 六歳になったばかりの私は、母屋の縁側に座り、ぼんやりと庭の風景を眺めていた。

 今日は婆やはいない。一週間に一度、神社で一人で過ごす日。
 けれども、普段の暮らしに変化があるわけでもない。
 朝起きて井戸水で顔を洗い、着替えて朝ごはんを食べる。外に出て、神社の周りを散策。そこで神社周辺にやってきた妖怪を追い払い、お昼ご飯の時間。お腹がいっぱいになったので、縁側でうとうとして、そのまま我慢できずにお昼寝。飛んできた葉っぱが鼻をくすぐり、くしゃみをして起きて今に至る。
 神社の私の日常は、いつもこんな感じで、殆どすることがない。生活必需品の他には、玩具も何も置いてないし、遊ぶ相手もいないので、きわめて単調な毎日であった。

 景色を黙って眺めていた私は、ふぁ、とため息のまじった欠伸をした。
 さっき見つけた小物妖怪はさんざん痛めつけてやったので、今日はもうやってこないだろう。
 お腹が空くまで、何も予定が無い。地面に絵でも書いて過ごすか。

 母屋でぶらぶらと足を揺らしながら、そんなことを考えていると、


 …………り


 不思議な音がした。


 私は足を揺らすのを止め、神社の表、境内のある拝殿側の方を向いた。

「…………?」

 音がしたのは一度だけ。しかし、それまで聞いたことのない音だった。
 なんだろう。また別の妖怪か、それとも動物かな。人間は私が案内しなきゃ、ここまで上ってこれないし。
 私はその正体を確かめようと、急いで靴を履き、縁側から降りて表へと向かった。
 足音を立てないように、わずかに浮きながら。




 私は神社の外の壁を回りこみ、柱の影から、そうっと顔を出してみた。
 境内の石畳から、短い階段を上ったところ、お賽銭箱の前に、誰かが立っている。
 妖怪でもないし、知っている人間でもない。それは、全く想像していなかった存在だった。

 そこに立っていたのは、女の人だった。

 真っ直ぐな黒髪を、小さな薄桃の布でまとめ、茜色の和服に身を包んでいる。桃色がかった白い帯も含めて、可愛らしい服装だった。
 賽銭箱の前に立ち、本殿に向かって手を合わせ、目を閉じて、何事か呟いているようだ。
 神社で見るのは、婆やに妖怪、他には虫に獣に大きな亀くらいだったので、私はキツネにつままれた気分になり、声をかけられずにいた。
 しばらく、柱の影で様子を見守っていると、彼女はふと顔をあげて、こちらを向いた。

「あら、こんにちは」

 明るく伸びやかな声。

「……こんにちは」

 私が小さな声で挨拶を返すと、女の人はほんのわずかに、首をかしげた。
 向き合ってみると、本当に綺麗な人だった。整った眉の下に、愛嬌のある目元、薄紅をさした唇が、微笑みを湛えている。
 成人はしているだろう。けれど、当時の私には二十も三十も同じだったし、見た目は若くても落ち着いた雰囲気があるために、もっと歳をとっているのかもしれなかった。
 そのまま見つめあってるのも、なんだか気恥ずかしかったので、私は柱の影から体を出し、きょろきょろと、聞いたことが無い音を探し始めた。
 その間も女の人は、私をじっと見ているのがわかり、首が熱くなってくる。
 彼女を視界に入れないように、しつこく探すふりをしていると、

「何か探しているのかしら?」
「ううん、なんにも」

 そう返事してしまって、もう探すふりをするわけにはいかなくなった。
 女の人は、こちらに近づいてくる。後ずさりしそうになった私の元で、わずかに膝を屈める。
 甘い匂いがした。

「貴方が博麗の巫女さん?」
「……うん」
「お名前を聞いていいかしら」
「はくれいれいむ」
「そう。じゃあ霊夢と呼んでいいかしら」
「……うん」

 私はうつむき加減で、こくりとうなずいた。
 うなずきながらも、やはり頭には疑問符がつく。
 博麗の巫女になってから、里の人間も妖怪も、かしこまったり、睨んだり、恐れて逃げ出すものばかり。
 こんなに馴れ馴れしくされた経験がないので、少々呑まれていたのである。

「……おばちゃんは、何ていう名前なの?」
「あら、おばちゃんって誰のこと?」

 まさかその返事は予想していなかった。

「ねぇ、誰のことかしら」
「あ、あんたのことよ」

 私は思わず、きつい口調で言い返した。
 けれども彼女は、少しも応えた様子がない。
 それどころか、平然とした顔で認めてくる。

「霊夢がおばちゃんというなら、私はおばちゃんね」
「は?」
「だから、霊夢は私をおばちゃんって言ったでしょ。だから、私は……」
「ちがうよ。あんたの名前を聞いてるのよ」
「じゃあ霊夢、あれは何かしら」

 女の人は出し抜けに屋根の上を指差した。
 小鳥がチッチッと甲高い声で鳴いている。

「……すずめ」
「雀ね。じゃああの雀は何という名前かしら」
「知らない」
「霊夢が名前をつけてあげたらどう?」
「………………」

 子供の私でも、さっきした質問からどんどん遠ざかってるのが分かる。
 それでも、私はしばらく考えてから、適当な名前を言った。

「ぴぃちゃん」
「あらぴぃちゃん。素敵な名前ね」

 女の人は、その雀に向かって手を振った。

「よろしくね、ぴぃちゃん。私はおばちゃんよ」

 ぴぃちゃんと名づけられた小鳥は、細かく首を動かして、彼女を見下ろしている。
 私は白けた気分で、その光景を見ていた。

 これは相当の変わり者である。頭がどこかおかしいのかもしれない。
 神社に一体何しにきたのか。まさか里で道に迷ったあげくに、ここまでたどり着いたわけではないだろうが。
 とりあえず、私はその変な女性を『おばちゃん』と呼ぶことにした。

「おばちゃんは何しにここに来たの?」
「私? 私は霊夢に会いに来たの」
「うそ。だって、私はおばちゃんのこと知らないもん」
「そうね。実はこの神社に遊びに来たのよ」
「やっぱりうそ。だって、ここには何にも遊ぶものがないよ」

 それはもう、一ヶ月住んでみた私が一番よく知っている。

「なるほど。道理で退屈そうな顔をしてるわね、霊夢」
「たいくつ?」
「面白くなさそうってことよ」
「面白くないよ」
「それは大変。女の子ならいつも、素敵な笑顔じゃなきゃ。もちろん男の子もね。博麗の巫女さんなら尚更よ」
「素敵な笑顔って?」
「こんな顔」
「変な顔」

 そう言ってやると、彼女はぴしり、と硬直してから、袖から手鏡を取り出した。

「……変かしら」

 と眉根をよせて、小さな丸い鏡を覗き込む。
 それから何故か、彼女の百面相が始まった。

 白い歯を見せて頬を緩ませたり、薄目で口の端を歪めてみたり、流し目でオホホと言ってみたり、目をカッと開いて大口を開けてみたり。
 その笑顔があまりにもたくさんあったので、私は呆気にとられていた。
 やがて、おばちゃんは二番目の笑顔に戻り、

「えーと、やっぱりこれかしら。この角度が映えるわ。霊夢はどの笑顔がいいと思う?」
「そんなにたくさん顔があるのって変」
「あら、霊夢は顔を一つしか持っていないのかしら」
「当たり前よ!」
「じゃあ、おばちゃんに笑って見せてみて」
「えっ」
「霊夢の笑顔を見せてくれないかしら、お願い」

 彼女は邪気の無い顔で頼んでくる。私は少しひるんだものの、ここでできないと言うのも癪である。

「わかった」
「まぁ、楽しみね」
「…………」

 お望みどおり、私は笑顔を作ろうとしてみた。
 頬の端をぴくぴくと持ち上げ、目元にぎゅっと力をこめる。
 口をわずかに開いて……。
 そのままじっとしていると、ひょい、とおばちゃんは、私に鏡を向けた。
 そこには、山姥に弟子入りしたような顔をした、もの凄く怖い女の子が映っていた。
 
「どう?」
「……や!」

 おばちゃんの鏡を持つ手に私はパンチして、ふん、と顔をそむけた。

「あら、自分の笑顔が気に入らなかったの?」
「知らない。それに、そんなのが博麗の巫女にいるなんて、聞いたことないもん」
「そんなことないわよ。子供も大人も博麗の巫女も、素敵な笑顔じゃなきゃね」
「……………………」
「退屈なら、私と遊ばない?」
「遊ばない。あっち行ってよ」
「はい。おじゃましまーす」
「ちょっと!」

 神社の奥へと進むその服を、私は掴んで引っ張った。

「なんでうちに入ろうとしてんのよ!」
「霊夢があっちって言うから、こっちの方へ」
「そっちじゃなくて、もっと別のところ!」
「あっち? こっち? そっち?」
「どっちでもいいから、ここじゃないところ!」
「私は遊びに来たのに……」
「帰れ!」

 私は両手でその人のお尻を、神社からぐぐぐっと押しのけた。
 彼女は抵抗しなかった。
 それどころか、私に押された速度のまま、階段から境内に下りて、そのまま歩き出した。
 実に自然な動きだが、逆にそれが、私には不審に思える。
 おまけに、境内から山を下りて帰るのかと思ったのだが、彼女の足は神社の裏へと向かっているし。

「…………むぅ、あやしい」

 目を離すと何をされるかわからないので、私はそのあとを追った。




 母屋――つまり神社とくっついている、私の生活住居――には絶対に入れないぞ、と見張っていたが、おばちゃんはそちらではなく、神社の裏手にある蔵へと近づいていった。
 簡易な階段のついた、神社と同じくらい年を重ねていそうな蔵。
 その階段を上り、入り口の古い木戸の前で、彼女はぴたりと止まった。

「言っておくけど、それ開かないよ。鍵がかかってるから」

 一応、私は後ろから、忠告してあげた。
 鍵のありかは私も知らない。里の人達も誰も知らず、私も神社の中を色々と探してみたりするんだけど、いまだに見つからないまま。というか、扉にも鍵穴らしきものはないし、大人が押しても開かないので、単に戸の立て付けが酷く悪いのか、奥で何かが引っかかっているというのが正解だと思う。
 先代の巫女は、片付けが嫌いだったのかもしれない。
 私がそんな推測をしていると、おばちゃんは無造作に、蔵の戸に手を当てて言った。

「ひらけごまー」

 ……ギギィ……

「ええ!?」

 耳障りな軋む音を立てて、本当に戸が開いていったので、私は唖然とした。
 開けた当人を問いただそうとする前に、蔵の中の空気が外へと流れ出てくる。

「う……けっほ、けほ!」

 埃と黴の香りが溶けあった、すさまじい臭いがした。
 私は咳き込みながら、腕で顔の下半分をかばう。
 おばちゃんは鼻をつまみながら、階段を下りてきた。

「ひどい臭いねぇ。一度、空気を入れ替えてから、掃除しましょうね」

 私は聞かずにはいられなかった。

「どうして開け方を知ってたの?」
「さて、どうしてでしょう」
「あの、ひらけごま、が呪文なの? 隠してないで教えてよ!」
「心配ご無用。後でちゃんと開け方を教えてあげるわ。神社には色々、不思議な仕掛けや道具があるのよ。楽しみでしょ?」

 おばちゃんは人差し指を立てながら、にっこり笑った。
 どう見ても、そう言う本人の方が、楽しみなようなんだけど……。
 私は少々心配な気持ちになってきていた。
 ひょっとしてこの人、泥棒じゃないかしら、と。



「それじゃあ、そろそろ始めましょうか」

 立ち込めていた埃が落ち着いてから、おばちゃんは私に声をかけてきた。
 呼ばれた私は、彼女の隣に立ち、蔵の中を覗いてみる。
 窓の無い室内の中央に、大人が一人通れるくらいの道ができていた。その左右に葛篭やら箪笥やら、壷やら、厨子やらが、整理されているんだかされてないんだか分からないくらい積み重なっており、ごっちゃごちゃの大変な有様だった。
 奥に至っては真っ暗で、何がどうなっているのか想像もつかない。
 隣の泥棒(容疑者)は、一歩踏み出し、

「どんなものがあるか、中に入って見てみましょ」
「ダメよ。この蔵の物は神社のものなんでしょ。よその人は入っちゃだめ」
「じゃあ、霊夢が先に入って指示してくれないかしら。私が外に運ぶから」

 おばちゃんは私に、あっさりと道を譲った。
 もちろんここで、やっぱり怖いから嫌だ、なんて言えるはずがない。
 私は、むん、と口を引き結び、覚悟を決めて、蔵の中へと入っていった。

 収納物の谷間は、奥の闇へと続いている。口と鼻に手を当てて、目を半分閉じながら、私は進んだ。
 やっぱり、中はまだ埃っぽい。空気も外よりも冷たく、ひんやりというかねっとりしていて、気味が悪い。
 入って一秒で外の空気を吸いに戻りたくなったが、私はやせ我慢して進み続けた。
 そのうち、だんだん目が慣れてくると――唐突に、天井近くからこちらを狙っている影に気がついた。
 ハッとして、お祓い棒を構える。

「な、なによ!?」

 人の子くらいの大きな鳥が、翼を広げてこちらを睨んでいる。
 だが、しばらく身構えつつ待っても、動く様子はない。
 よく見ると、鳶の形をした凧だった。

「どうしたのー霊夢」
「……なんでもない」

 蔵に入ってきた背後のおばちゃんに、私はうめき声を返した。

「ああ、あの凧が怖かったのね。じゃあ、あれから片付けましょうか」
「怖くなんかないわよ!」

 私は強がって、箱の一つの蓋を開けた。
 ぎょろりと目を向いた、黒髭の男の顔が現れた。

「わゃあああああ!!」

 今度こそ私は、本物の悲鳴を上げて腰を抜かした。

「な、なにこれぇ! 妖怪!?」
「どれどれ。あら、神楽面ね」

 おばちゃんは涼しい顔で、箱の中に手を入れて、そのおっかない顔の『お面』を取り出した。

「かぐらめん!?」
「そうよ。神楽っていうのは、神様をまつるために、笛や太鼓に合わせて踊る、神社でもよく行われる行事なの。これはその時に、かぶるお面なのよ」
「わ、私がそれ、かぶらなきゃいけないの!?」
「ええ、そうね。霊夢にとっても似合うとおも……ああっ! 嘘よ! これは別に巫女さんがかぶらなくていいのよ」

 泣きそうになる私に、おばちゃんは割と慌てた様子。

「巫女さんはね、白粉をつけて口に紅をさして、笛に合わせて優雅に舞うのよ。とっても綺麗な姿なんだから」
「綺麗な?」
「ええ。霊夢もお化粧して、踊ってみたくない?」
「…………」
「あれ、どうしたの、霊夢?」
「なんでもない」
「このお面は怖い顔してるけど、鐘馗っていうありがたい神様で……」
「いらないわよ。欲しかったらあげるわ」

 私は冷たく言って、そっぽを向いた。
 怪物じみたお面が、私の顔を覗きこんでくる。

「ハーイ! 僕ショッキー! 怖くないからよろしくね、霊夢ちゃん!」

 私は無言で、べし、とお祓い棒を、そのヒゲ面にたたきつけた。




 蔵の中はまだ埃が凄かったので、掃除するには、一度中の物を全部外に出さなければならなかった。
 私は、おばちゃんがネコババしないか見張りながら、片付けを行うこととなった。
 といっても、子供の私は重い物が持てないので、どちらかというと片付けを手伝ってる方に近い。
 おばちゃんの方はというと、見かけによらず力持ちなようで、重そうな葛篭もひょいと持ち上げて、さっさと運び出していく。
 外に出した収蔵物の品定めは私の役目。
 日の光に当てられた箱を一つずつ、恐る恐る開けていくと、面白そうな物がいっぱい出てきた。
 私はそれらを、一々取り出して、おばちゃんに聞いた。

「何これ?」
「それは玉串。神木に紙垂をつけて、神様にささげるの。昔使った物が残っていたのね」
「これは?」
「それはおみくじね。引いた人間の運勢を占うのよ」

 見つかったのは、神社の道具だけではない。
 たくさんの巻物だったり、浮世絵だったり、家財道具だったり、筆に文鎮だったり、風鈴だったり、蚊取り線香だったり。
 それになんと、この神社に縁が無いと思っていた、子供の遊び道具もいっぱい出てきた。
 中には見たことのない玩具もある。

「何これ?」
「それはポッペンよ」
「ポッペン? 変な名前」
「ビードロとも言うの。吹くとポッペンって音がして、魔除けにもなると言われているわ。強く吹くと壊れちゃうから気をつけてね」
「すぅ……ぽっ、ぺん」
「そうそう。上手、上手」

 他にも、けん玉や手鞠、凧や羽子板、ビー玉におはじき、横笛やでんでん太鼓など。
 私は我慢できずに、品定めを一端中断して、それらで遊ぶことにした。願ってもない宝の山に、ちょっと感激していた。
 手鞠をついて遊んでいると、おばちゃんが話しかけてきた。

「さっきも聞いたけど、霊夢は博麗の巫女なのよね」
「うん」
「じゃあ、巫女ってどんな人か知ってる?」
「えーと、かみさまにつかえる人」

 私は手鞠をつきながら、里の長老から聞いたことを、そのまま復唱する。
 本当は他にも、穢れを祓ったりだとか、博麗大結界を見張ったりするとか、色々聞いていたけど。
 おばちゃんは片付けをしながら、さらに質問してくる。

「ふうん、神様ってどこにいるのかしら」
「この神社にいる」
「あら、見たことがあるの?」
「ない」

 そこで失敗し、手鞠は私の手を離れて、遠くへ転がっていく。
 私はそれを追いながら言った。

「きっと、こんな神社に、神様なんていないよ」
「あら、霊夢は神社が嫌い?」
「嫌い」

 理由はさっきおばちゃんに言われたとおり、ここは退屈だから。
 それに比べて、一週間に半日しか滞在できなくなったとはいえ、里は賑やかで好きだったし、遊び相手も少しいた。
 神社が嫌いな理由は他にもある。夜は真っ暗だし、人気はないし、神楽面は置いてあるし、よく妖怪がうろついているし……。
 また鞠をつきながら、そんな風に思いつくだけ言ってやると、

「妖怪も嫌いなのね」
「嫌いに決まってるわ。いっつも神社の回りにやってきて、嫌なことばっかり言ってくるんだもん。私をやっつけられないから、意地悪してるのよ」
「なるほどね。そんな霊夢にぴったりの道具が見つかったわ。これ、妖怪退治の道具」
「えっ!? 見せて見せて!」 

 私は手鞠を放り出して走り、おばちゃんが持っていた箱を、引ったくるように受け取った。
 開けてみると、中には、鈍い光沢のある長い針が、いくつも入っていた。
 手の中で、針の一つを転がしてみる。
 ……これ、間違って自分を刺しちゃったら痛いだろうな。

「それはまだ危ないから、霊夢はこっちにしておきなさい」

 おばちゃんが次に開けた箱には、手のひらサイズの紙がたくさん入っていた。紋様のような漢字が書かれた、黄色がかった紙の山だ。
 御札のように見えるけど、どうやって使うんだろうか。
 私はその一つを、お日様に透かしてみたり、ぺらぺらと振ってみたりしたが、何も起きない。

「えーと、これでもないし……あぁ、見つかったわ。これを探していたのよ」

 そちらを向くと、おばちゃんが蓋を片手に、葛篭のひとつを開けていた。
 そこには不思議なデザインの玉が入っていた。大人の握り拳二つ分の大きさで、反面が白、反面が黒でできている。
 泳いでいた二色の魂が、一つの丸い石にされてしまったような形状で、持ってみると結構重い。

「これ何?」
「陰陽玉よ。博麗の巫女が妖怪退治に使うための、大事な道具」
「これが? 妖怪にぶつけて使うの?」
「ぷっ、あはは! それは確かに痛そうね!」

 真面目に聞いたつもりだったのだが、おばちゃんは大笑いした。
 私は憤慨して、

「なんで笑うのよ!」
「あらごめんなすって。霊夢は今までどうやって、妖怪退治をしていたの?」
「そんなの決まってるわよ。お祓い棒で叩いたり、蹴っ飛ばしたりしてた」
「…………早めに教えといた方がよさそうね」

 おばちゃんは一転、熱を確かめるかのように、自分の額を押さえた。

「じゃあ霊夢、これを使って、そっちの御札を浮かせてみなさい」
「はぁ? そんなことできるわけないでしょ」
「できないなら、私がやってみせるわ。貸してちょうだい」
「だめ!」

 私はそう言って、おばちゃんの魔の手から守るため、陰陽玉をしっかりと抱きかかえた。

「これは私の! 触っちゃだめ!」
「なら、使い方を覚えた方がいいわよ。体の近くに持ってきて、イメージするだけだから簡単よ」
「…………こう?」
「そうそう。そのまま、御札を静かに浮かせるように……」

 私は陰陽玉を抱えたまま、言われた通りにやってみた。

 浮き上がれ!

 ヒュンッ、バシッ
 
「ぷぁっ!?」

 突如、浮き上がった御札が、おばちゃんの顔面に直撃していた。
 私は驚愕した。

「ほ、本当に動いた!?」
「……いたた、も、もう少しゆっくり動かしてくれると、ありがたいわ」

 私の視界には、鼻を押さえて涙目のおばちゃんと、その黒髪の横でふよふよと動いている御札があった。
 よく見ると、動いているのは、その札だけではない。他の箱にしまわれていた御札も、全部薄ぼんやりと光りながら揺れ動いている。

「私が……動かしてるんだ……」
「ええ。これを思うように動かせるようになれば、もうキックしなくても妖怪は追い払えるわ」
「………………」
「はい、もう一度」

 私はおばちゃんの指示どおり、御札の一つを、ゆっくり、すーっと動かしてみた。
 本当に、私の思念に合わせて、自在に動かせるのがわかる。なんだか、手がもう一つ増えたような、奇妙な感覚だった。
 御札を動かすことに熱中する私の横で、最後におばちゃんが開けたのは、白い厚紙の束だった。
 少し御札に似ているけど、違うみたいだ。

「これは符ね」
「符?」
「あらかじめこれに霊力を込めることで、不思議な効果を生むのよ。ちょっとした設計図みたいなものね」

 おばちゃんは、それを私に手渡してから、よいしょ、と立ち上がった。

「これだけ遊び道具があれば、ひとまずは退屈しないですむんじゃないかしら、霊夢?」

 私は手にした符とにらめっこしながら、その言葉を聞いていた。
 確かに、これで神社でも退屈しないですむ気がする。
 一人遊びの道具はいっぱい見つかったし、妖怪退治の道具も面白そうだった。
 けれども、それとは別に私の中で、疑問がむくむくと膨れ上がっていた。
 私は符を見つめたまま、独り言のように話した。 

「おばちゃんは、どろぼうじゃなかったのね」
「泥棒じゃないわ」

 おばちゃんは穏やかな声で、やんわりとそれを否定する。

「どうして私に、色々教えてくれたの?」
「さて、どうしてでしょう」
「ねぇ、名前を教えて」
「霊夢が名づけてくれたじゃない。私はおばちゃんよ。なんならショッキーでもいいわ」
「ふざけないで……」

 私が振り向くと、

「あれ?」

 おばちゃんが、忽然と姿を消していた。
 私は立ち上がって、辺りを見回してみたが、庭には自分しかいなかった。
 今の今まで会話していたのに。

「ねー! どこ行ったのー! 隠れてないで出てきてよー!」

 呼びながら神社のあちこちを探したが、全然見つからない。
 どうやら、あっという間に帰ってしまったらしい。

「……変な人」

 幽霊のように消えちゃった。
 それに、何というか、妖怪よりも分からない人だった。
 見た目は和服の似合う美人なのに、どこか捉えどころがなく、ボケていた気がする。
 結局、名前も教えてくれなかったし。

「名前……」

 沈もうとしている夕日を見ながら、私は呟いた。
 お昼に私が名前をつけた、ぴぃちゃんのことを思い出したのだ。

 雀とか犬とか人とかいう名前は、大昔に神様が与えたという話を、里で聞いた。
 そして、雀の中の、それぞれの自分の名前は、親が名づけるということも聞いた。
 あのぴいちゃんだって、きっと親にもらった名前があるに違いない。私が勝手に名づける前の、本当の名前が。

 じゃあ、私の霊夢という名は、誰がつけたのか。
 博麗という苗字がつく前から、私はその名を持っていた。
 それは、誰かが始めにそう呼んだから、名づけたから生まれたに違いない。
 けれども、私には親はいない、いたとしても覚えていない。
 私があの小鳥にぴぃちゃんと名づけたように、ある日突然誰かに言われたのだろうか。それもなんだかおかしい。

 私は博麗霊夢、博麗の巫女。里の人間も妖怪達も、それを知っている。この神社に住み始めた、巫女服を来た女の子のことを、そう呼んでいる。
 でも、私がこの服を脱いで、普通の女の子の格好をして別の世界に行ったら、誰も私だと分からなくなったりするんだろうか。
 そうしていなくなったら、博麗の巫女は、誰か他の女の子がやってくれるだろう。
 それは少しだけ、面白そうだった。

 ほんの、少しだけ。




***




「まぁ、これが、私とおばちゃんの最初の出会いってわけ」

 一区切り話し終えて、私は休憩することにした。

『なるほど、実に不思議な話だ』

 その私に寄りかかられている、聞き手のお賽銭箱は、はじめから興味津々な様子である。

『しかし理解できた。お前が一人遊びが得意なのも、その時に手に入れた道具で遊んだ経験からか』
「うんまぁ、そういうことになるのかな」
『それで、遊び道具がいっぱい見つかって、退屈せずにすんで、めでたしめでたしということだな』
「外れ」
『ほう? 何故だ』

 林の中を一匹の蝶がひらひらと飛んでいた。
 私が戯れに浮かせた御札の角に止まって、羽を休めだす。
 それを眺めながら、私は質問に答えた。

「私もそうなると思ってたんだけど、実際は五日くらいで飽きちゃったのよね。それに、もっともっと憂鬱になることがあったのよ」
『それはやはり、博麗の巫女に関係することか』
「正解。さっき話したように、私は週に二回、婆やを送り迎えするために、里まで下りることができたの。ちょっとの時間だけど、それが楽しみだった。けれど、友達だった子の性格がみんな変わっちゃって……」
「怒るかもしれんが、変わったのはむしろお前の立場なんじゃないか?」

 すぅ、と蝶々を運んできた御札を見ながら、私は苦笑した。

「それも正解。博麗の巫女は妖怪と向き合う存在、異界へと足を踏み入れる存在。まぁ得体の知れない人間だから、みんな怖がっちゃって遊んでくれなくなったってわけ。大人はみんな、もっと分かりやすい態度で、私を扱っていたわね」
「博麗の巫女の宿命か……」
「そう言うってことは、あんたの知ってる巫女さん達もそうだったの?」
「確かに、今お前が話したような状況が普通だった。しかし、だとするとお前は、どうやってその退屈をしのいだんだ」
「答えは簡単。そんな得体の知れない私とも遊んでくれる、奇特な人間がいたのよ」
「それはつまり……」
「そう。おばちゃん」

 蝶々がまた、どこかへと飛びたっていく。
 それを見上げながら、私は続きを語り始めた。








5 ―博麗霊夢の物語 二日目― (九年前 巫女の場合)


「ぽっ……ぺん」

 風鈴の下がった縁側で、私はビードロを吹いていた。
 いつものように婆やを里に送り届けてから、神社に戻った後のことである。
 戻ってきて改めて分かったのは、やっぱりここはつまらないということだった。

 先週、開け方を知った蔵を、私はあの後も物色してみて、たくさんあった遊び道具や妖怪退治の道具も、色々といじってみた。
 それで退屈しなくなると信じていたのだが、結局どれも期待はずれだった。いつも何かが足りないのだ。
 今では里ですら面白くなくなってしまったために、毎日が憂鬱で退屈になってしまい、先週よりもひどい状態だった。

「……ぽっ…………ぺん」

 気になることは他にもあった。
 考えてみると私は、博麗の巫女になる前、里の孤児院で過ごしていた時から、漠然とした違和感を覚えていた。
 それは神社にやってきてからさらに増え、今では日毎に増す一方だった。
 何がおかしいのか。何か原因でもあるのか。その正体がつかめないから、ますます苛々する。
 神社も里も私も、この幻想郷全体が、もやもやしていて変な感じ。

「……ぽっ……ぺん…………ぽっ…………ぺん」

 次に私は、先週のお客さんのことを考えていた。
 世界がもやもやしている中で、ただ一人楽しそうに笑っていたあの人。
 あの物知りのおばちゃんなら、このもやもやした感覚の名前も知ってるかもしれない。
 彼女は一週間前のあの日、ちょうどお昼過ぎのこの時間、不思議な音の後にやってきた。
 そう言えば、あれは一体、何の音だったんだろう。
 おばちゃんと関係があるんだろうか。


 …………とり


 そうそう、こんな音。

 私はハッとして、ビードロを口から離し、表へと急いだ。




「霊夢ー、こっちよー」

 境内で彼女の姿を探していた私は、裏庭からその声が聞こえたので、急いで戻った。
 思ったとおり、おばちゃんが神社に来ていた。
 黒い真っ直ぐの髪も、夕日色の和服も、先週に会ったときのままの姿。
 だけど、今日の彼女は、賽銭箱の前ではなく、裏庭に生えている、林檎の木の近くにいた。

「こんにちは。この林檎、そろそろ食べられそうね」
「だめー!」

 私は全力で飛び、彼女の前に大急ぎで回り込み、両腕を広げて木をかばった。

「これは私のだから、食べちゃだめ!」
「あら、けちんぼ。あんなに生っているんだから、一つくらい分けてもらえない?」
「だめ! ぜんぶわたしが食べる!」

 食い意地が張っていると言うなかれ。
 神社の周囲には林檎の木、柿の木、桃の木など、果物類が豊富だった。
 裏山には他に、桑の実や木苺、山菜なども生えている。ここでの数少ない楽しみの一つなのだから、横取りされてはたまったものではない。
 がるる、と唸る私を見下ろしながら、彼女は肩をすくめた。

「仕方が無いわね。霊夢も食べ盛りだし、おばちゃんも我慢するわ」
「人のものをとるのは、どろぼうっていうの!」

 私はそう言って、とん、と地面を踏み、浮き上がった。
 ふよふよと木の枝の間まで飛びながら、実の様子を確認する。
 林檎はどれも、私の拳より大きくなったが、まだ青みが濃く、熟れているものはなかった。
 若いのを食べて後悔したくないので、もう少し辛抱しなくてはいけない。

「どうかしら。もう食べられそう?」
「まだだよ」

 そう返事して、私は下を見ながら、いい気味に思った。

「ここまで飛べないと、食べには来れないわよね。ざんねんでした」
「まぁ、意地悪」
「べー、だ」

 地上のおばちゃんに向けて舌を出してから、私はいいことを思いついて、気分を一新することにした。

 浮かんだ私は、林檎の木からさらに高度を上げて、神社の屋根へと下り立った。
 思いついた『いいこと』とは、屋根裏での日向ぼっこである。
 夏は暑すぎるし、冬は寒すぎると思うので、これが楽しめるのは春と秋のはじめくらいだろうか。
 もしかしたら、退屈しない遊びになるかもしれない。
 うーん、と背伸びして、私はそこに寝転がった。

 ああ……顔も背中も胸もお腹も、ぽかぽかしていい気持ち。


「気持ちよさそうね」
「きゃぁ!?」

 いきなり声をかけられて、私は悲鳴をあげて起き上がった。さらにバランスを崩して、屋根から落っこちそうになった。
 あわわ、と宙を泳がせた手を引っ張りあげてくれたのは、下にいたはずのおばちゃんだった。
 彼女はクスクスと笑いながら、

「気をつけなきゃ霊夢」
「ど、どうやってのぼってきたの!?」
「空を飛べるのが、貴方だけだと思ってた?」
「わっ!?」

 な、なんと、おばちゃんの足は、屋根から浮いていた。
 私以外に飛べる人間がいるなんて、考えたことも無かった。
 驚愕する私に対し、おばちゃんは得意げな顔で、私の鼻をつつきながら、

「ね。見かけで物事を判断しちゃだめよ」
「う~……」

 と、私は唇を噛んだ。これで林檎を守る手段がなくなってしまったではないか!

「そんな恨めしそうな顔をしなくても、霊夢の林檎はとらないわよ」
「ほんとにぃ? うそついたら、ハリセンボンのますわよ」
「いいわよ。じゃあ、指きりげんまんね」

 と、小指を差し出されて、私は面食らった。
 おばちゃんの行動は、先週から変わっていない。私を博麗の巫女だとかいう理由で遠ざけたりするどころか、ずけずけと入り込んでくる。
 なぜか憎めない、けど憎めないのが、なんだか釈然としなくて、やっぱり不思議な人だった。

「どうしたの霊夢」
「ううん、なんでもない。約束だからね」

 私はふん、と鼻を鳴らしてから、それに小指を絡めようとして、

 ……かわされた!?

「やっぱやーめた」
「なーっ!」

 何て性格が悪いんだ! やっぱり憎いー! 

「こうしましょ霊夢。私と勝負しない?」

 叫びかかろうとした私は、おばちゃんの提案に、眉をひそめた。

「……勝負?」
「そう。私が勝ったら、あの林檎を一つ分けてちょうだいな」
「あのりんごを? でも、じゃあ、私が勝ったら?」
「霊夢が勝ったら、これをあげるわ」

 さ~てなにかな~ふふ~ん♪、とおばちゃんが鼻歌つきで取り出したのは、赤いリボンだった。
 縁に白いレースのひらひらがついた、大きな赤いリボン。

「可愛いでしょ。霊夢もせっかく綺麗な髪なんだから、これをつけたら、もっと可愛くなるわよ」

 てっきり林檎と同じく食べ物かと思っていたので、私は少々がっかりした。
 まあでも、あのリボンも結構いいかも。私だって可愛い物は嫌いじゃないし。
 私はおばちゃんの挑戦を受けることにした。

「いいわよ。じゃあ三回……いや、五回勝負ね。何をするの?」
「遊びで決着をつけましょう。昨日見つけた遊び道具が、いっぱいあったでしょ」

 ふふん。私はすでにあの道具の殆どを、遊びつくしてしまった。
 それに、里で過ごしていた頃は、相手が子供だろうと大人だろうと、どんな遊びでも私は勝つことができたのである。
 誰であろうと負ける気がしない。……あれ、でも昨日見つけたのって、ほとんどが一人用の遊び道具だったはずだけど。

「それじゃあ霊夢、今から早速はじめましょうか?」
「いいわ。絶対負けないからね」

 まあいいや。
 おばちゃんのおかげで、今日の午後も先週と同じく、退屈しないですみそうだし。
 私は、こつん、とおばちゃんと拳を合わせた。








●林檎とリボンを賭けた、赤の誘惑と死闘(おばちゃんが命名)●

 第一戦 羽根突き対決(選択・霊夢)




 私達は神社の横手、蔵の側に移動していた。
 おばちゃんは絵柄のはげた羽子板を手にして、しげしげと眺めている。

「へぇ、羽根突きねぇ」
「そうよ」

 私も別の柄の羽子板を左手に持って、ひゅん、と振った。

 五回勝負の種目は、お互いが一戦ずつ選ぶことにした。
 まずは私から。選んだ種目は羽根突きである。
 互いに羽子板で羽根を打ち合い、拾えなかった方が顔に墨を塗られるというお遊び。
 女の子がよくやる、お正月の伝統行事だ。

 私はこの羽根突きを里で二年間経験し、一度も顔に墨を塗られたことがなかった。
 女の子はもちろん、年上の男の子にも白星を重ね、大の大人ですら打ち負かしてしまった。
 ついたあだ名が、羽根突きの霊夢ちゃん。百戦無敗を達成してからは、羽根突き無双の称号を授かっている。
 その強さの秘密は、私の運動神経が良かったこともあるが、もう一つの反則級の能力のおかげでもあった。

「いくよー!」

 待った無しの一本勝負。
 私は羽根のついた玉を摘んで持った。おばちゃんもそれを見て、羽子板から私に視線を移し、「いいわよー」と、頭よりも高く大仰に構えた。

「……それっ!」

 私は彼女に向けて、羽根を強めに打った。
 おばちゃんは上手に受けて、それを山なりに返してくる。

「はぁっ!」

 あらかじめ上空へと飛んでいた私は、羽根の放物線の頂点を待って、遠慮無く羽子板を上から叩きつけた。

 ……そう。これが私の反則的な能力、『空を飛ぶことができる』ということだった!
 普通の人間よりも、移動力は遥かに上。広い領域を三次元の動きで全てカバーすることができ、浮いた羽にすかさずスマッシュを叩きつけることができるのである。
 これぞ羽根突き無双の基本にして究極の奥義。男の子達はこれを見て震え上がり、女の子達は「霊夢ちゃん……それもう羽根突きじゃないよ」と、口々に賞賛していた。
 里では私の攻撃に、大人も含めて、最初の一撃で戦意喪失し、白旗を上げるのが常であった。
 しかし、今回の相手は、一筋縄ではいかなかった。

「よっと!」

 おばちゃんは、私が打った羽根に向かって、体ごと倒れこむようにして羽子板を伸ばした。
 そして、見事にカンと打ち返してくる。
 多少驚いたものの、私は返ってきた羽根を冷静に、気持ち遠めに打ち返した。
 体勢の崩れたおばちゃんに、これを拾うことは不可能。
 ……のはずなのだが、

「まだまだ!」
「ええっ!?」

 なんと、おばちゃんは地面に伏せた状態から、ぐわっ、と宙返りを行い、無理矢理海老反りになりながら、羽根を拾って返した。
 一瞬、頭が真っ白になったものの、私は反射的にその羽根をきちんと打ち返す。
 おばちゃんは空中で、コウモリのごとく逆さまになった状態のまま、ひゅんっと移動し、羽根を私に向けて打ち返してきた。
 じょ、常識外れの動きだ。完全に重力を無視しているとしか思えな……

「あー!?」

 そうだった!
 おばちゃんは私と同じく、『空が飛べる』のだった。つまり、能力的には私と互角。
 数合で終わると予想していた羽根突きは、大熱戦となった。

「くっ!」
「はいなっ!」
「このぉ!」
「そこね!」
「やぁ!」
「なんの!」
「がー!」
「おほほほ!」

 拾われては打ち返し、拾われては打ち返す。
 白熱したラリーは、一分経過しても終わらない。
 が、戦いが進むにつれて、私は気がついていた。実力的にはこちらが劣っていることに。
 私の返球はだんだんと意地悪になり、はるか遠くに打ったり、自分の近くに落としたりと、里の子相手には絶対に使わない禁断の秘技を繰り出している。
 だが、おばちゃんはそれをふざけた動きで、全て拾ってしまうのだった。
 遠くへ打った羽根は、『あわあわ』と後ろ向きに飛行して、近くへ落とした羽根は『それーっ』と急スライディングで、しかも一々私が打ち返しやすいように、手加減してくれているのがわかる。
 前に後、上下左右と、和服姿で忍者のごとく動き回るおばちゃんは、

「はっ、ねっ、つっ、きぃ!」

 羽根突きを満喫しているようだった。
 しかし、打てども打てども拾われるこちらとしては、まるでこんにゃくの壁を相手にしているようで、じれったい。
 早いこと勝負を決めるため、私はムキになって、力いっぱい羽子板を振った。

「これでどうだぁ~!!」

 遠心力を使って、大振りで羽根を打ち返す。
 だが、勢い余って、羽子板も指からすっぽ抜けて飛んでいってしまった。

「あ、しまった!」

 相手の顔面目掛けて飛んでいくそれに、私は思わず口を押さえるが、

「だが見切った!」

 おばちゃんは気合とともに、飛んできた羽子板を、真剣白刃取りの要領でキャッチしていた。
 さらに自分の羽子板を腋にはさみ、低く飛んできた羽根を、器用にカンと打ち返す。
 ふらふらと舞い上がった羽根は、口をあんぐりと開けていた私の頭に、ちょこんと乗っかった。
 和服の曲芸使いは両手に羽子板を持ち、汗顔に息をはずませて、にっこりと笑った。

「私の勝ちね、霊夢」
「……………………」

 百勝一敗。

 羽根突きの霊夢ちゃん、はじめての敗北であった。


  霊夢 - おばちゃん

1  ×     ○




 第二戦 おみくじ対決(選択・おばちゃん)


「さて、今度は私が勝負を決める番ね」
「……ぷぅ」
「霊夢、いつまでもそうしてると、お顔が風船になっちゃうわよ」
「……だって、絶対におかしいもん」

 第一戦が終わってから、私はずっと膨れっ面だった。
 勝負は五回あるので、まだ負けだと決まったわけではないけど、羽根突きで敗北したのは、生まれて初めてだったのである。
 しかも打ち合いが続いたとはいえ、完全に力負け。なんだか異様にムカムカして仕方がなかった。

「運動の次は、大人しい勝負にしましょう。これなんかどうかしら」

 おばちゃんが第二戦に選んだのは、おみくじの箱だった。

「これを引いて、運が良かった方が勝ちにしましょ」
「……それ、勝負になるの?」
「あら。運も実力のうち、っていう諺もあるのよ。羽根突きと同じく、これも神事が元だしね。知ってた?」

 知らなかった。
 それだけじゃなく、実は私は、おみくじを引いたことがなかった。
 大吉が一番良くて、凶が一番悪いということだけは知っていたけど、吉と小吉のどっちが上かは分からない。

「それじゃ、霊夢からどうぞ」
「…………」

 私は膨れっ面のまま、差し出された箱から一つ、くじをつまむ。
 そして、乱暴に包みを開いてみた。

「……あ! 大吉だ!」

 何だか難しい字が書かれていてよくわからないけど、『大吉』という大きな文字だけは、はっきりとわかった。
 機嫌が直った私は、どんなもんだ、とくじを見せびらかす。

「ほら! 二戦目は私の勝ちね!」
「まだ分からないわよ。私が大吉を引いたら、もう一回引きなおすことになるもの」

 むっ、そうだった。まだまだ油断は禁物。
 おばちゃんがおみくじを、もったいぶった手つきで開くのを、私は戦々恐々と見守った。

「……まぁ! 凄いわ!」

 紙を広げたおばちゃんは、瞳を輝かせて私に見せてくる。

「ほら! 『凶』が出たわよ!」

 がくっ、と私はコケた。
 いくら遊びとはいえ、凶が出て喜ぶ人がいるだろうか。

「と……とにかく、私は大吉なんだから、私の勝ちね」
「あら、でも凶は縁起がよくないから、とっても数が少なくされているのよ。大吉よりも引くのは難しいのよね」
「だ、だから何よ! 大吉だから、私の方がいいに決まってるでしょ!」
「そうね、第二戦は霊夢の勝ちということね。わーい、凶だー」

 おばちゃんは嬉しそうに、ひらひらとおみくじを見せびらかしてくる。
 ぐぬぬぬ、私が勝ったはずなのに、なんか悔しい!

「おばちゃん! もう一回引くからね! いいでしょ!?」
「霊夢のお好きなように」
「よーし! 凶が出ろー!」

 私は念をこめて、もう一度くじを引く。

「あー! また大吉だー!」
「よかったわね霊夢」
「よくない! もう一回!」
「あら、また大吉」
「なんでよ! これ大吉ばっかり入ってるんじゃないの!?」
「どれどれ、私にももう一度引かせて。……あれ、また凶でした」
「うがー!! もう一回!」

 しかし、何度引いても、私は大吉だった。
 二十回くらい引いて、ようやく中吉が出たくらいだった。
 ちなみに、おばちゃんはその後、凶を二回も引いた。さすがにちょっと落ち込んでいた。


  霊夢 - 運の悪いおばちゃん

1  ×       ○
2  ○       ×




 第三戦 輪投げ対決


「次はこれよ!」

 私が用意したのは、三つの輪っかと、木の枝だった。
 つまり、選んだ種目は『輪投げ』である。
 おばちゃんが私と同程度以上に空を飛べるということが分かったので、私が勝つためには、自分の能力に頼らない競技を選ばなくてはならなかった。
 そんな中でも、自信のあるのが、この輪投げだった。

 地面に足で線を引き、大股で五歩離れた位置に枝を刺す。
 線の上からはみ出たら失格。そこから三つ輪を投げて、数を競うというルールに決めた。

「じゃあ、霊夢からどうぞ」

 その言葉に、私は遠慮なく線の上に立った。
 おもむろに、ひょい、ひょい、ひょい、と流れるような手つきで、輪を投げる。
 それらは狙い違わず、全て枝にはまった。

「どう? 驚いたでしょ」
「まぁ上手ねぇ霊夢」
「里にいる時から、これは得意だったのよ。お祭りの時の屋台でも……」

 そこで私は口ごもる。
 はじめて輪っかを投げたこととか、横入りして来た子を泣かせたこととか、見事景品の星飾りを手に入れたこととか、それをまだ泣いてたその子にあげて感謝されたこととか。
 たった二回だったけど、里のお祭りの雰囲気はとっても好きだった。
 今では、遠い昔の話のような気がする。

「よーし、私もやるわよ」

 私がもの思いにふけっていると、おばちゃんが線の上に移動した。
 片足を後ろに伸ばして水平に浮かせ、そのまま一本足で前屈みになり、ぷるぷると輪を持つ腕を限界まで伸ばして……

「って、おばちゃん! なにしてんの!?」

 あまりの姿勢に、私は突っ込むしかなかった。
 おばちゃんは片足で、やじろべぇのごとくバランスをとったまま、青い顔で、

「る、ルールは守ってるわよ。浮いたりも……しっ、してないし……」
「……もしかして、そんなにりんごが食べたいの?」
「くっ、もう少し……あっ」

 ついにバランスを崩し、おばちゃんは持っていた輪を全部放りなげて、ずでーんと転んでしまった。
 当然のごとく、それらは一つも枝にははまらず、私の勝利となった。
 おばちゃんは地面に転んだお間抜けな状態で、頬をかきながら苦笑していた。

「うーん、ちょっとコントロールに難があったわね」

 ……それ以前の問題なような気がする。
 これで先ほど羽根突きで私を負かしたんだから、運動神経がいいんだか悪いんだか、よく分からない人だった。
 ただ、疑うまでもなく、相変わらず変なおばちゃんだった。
 

  霊夢 - やることがセコいおばちゃん

1  ×         ○
2  ○         ×
3  ○         ×




 第四戦 凧揚げ競争(選択・おばちゃん)


 ここまで勝負は、私の二勝一敗。
 上手くすれば、第五戦までもつれ込むことなく、リボンを手に入れられるという状況である。
 だが、今度の種目は厄介だった。

「第四戦はこれで勝負しましょう」

 私はおばちゃんが持ってきたそれを見て、妖怪の干物に出くわした気分になった。

 私の背丈と変わらぬほどの大きさ。茶色の翼を広げて、嘴を突き出した鳥の形。
 昨日神社の蔵で、神楽面と共に私を脅かしてくれた、トンビ凧君である。
 明るい日の下で見ると、ちっとも怖くなく、むしろ間抜けな造形だった。
 ただし、不愉快な代物には変わらないが。

「これをどれだけ長く飛ばせるかで競争する。いいかしら?」
「よくないよ。私、どうやって飛ばすか知らないんだもん」

 前述した理由もあって、この凧だけは、遊び道具の中で触れずに、蔵の中に放置しておいたのである。

「私がちゃんと教えてあげるから。それでいいでしょ」

 おばちゃんはそう言って、凧と糸巻きを手に歩き出した。。


 凧揚げは、裏庭で行われることとなった。
 まずは、初めの飛ばし方、操り方を教えてもらう。
 あまり乗り気じゃなかった私は、話半分でそれを聞いていた。
 やがて私は、大きな糸巻きを手にし、おばちゃんはトンビ凧を持って、離れたところに立った。
 風は十分に吹いている。

「霊夢が合図したら、手を離すからね」

 私は適当に、強く風が吹いたのに合わせて、「今ー!」と合図をし、糸を引っ張って後ろに走った。
 トンビは風に乗って舞い上がる。が、やった、と喜んだのもつかの間だった。
 すぐに凧はよたよたとバランスを崩し、地面に急降下してしまった。
 失敗だ。

「…………」
「三秒くらいかしら。次は私の番ね」
「いいよもう。私が負けるのは分かってるんだから、わざわざやる意味ないよ」
「あら、じゃあ私の勝ちということでいいのね?」
「いいわ。これで二対二ね」
「わかったわ。じゃあ霊夢、ちゃんと糸巻きを持って」

 意味が分からなかったので、私は眉をひそめた。
 おばちゃんは地面に落ちた凧を拾い上げて、また手に持つ。

「もう一回飛ばしてみましょ。さっきも言ったとおり、風を背中に受けるようにしながら、糸をやたらめったに引かずに、静かにゆっくり動かして……」
「やるなんて言ってないでしょ! そんなにやりたいなら、おばちゃんが一人でやればいいじゃん!」
「え? でも、凧揚げは気持ち良いわよ。意地なんて張らずに、一回くらい遊んでおかないと、人生は損よ」

 その言葉に、私は憮然としたが、結局それに付き合うことにした。

「……一回だけだからね」
「ええ。それじゃあちゃんと糸巻きを持って。腕で引っ張ってもうまくいかないわ。風に合わせて、体を移動させて操作すること。後は体で」
「おばちゃん! 今、風が来てるよ!」
「よーし、それじゃあ放すわよ。それっ!」
「わ……」

 ぐいっ、と引かれて、私は慌てて、糸巻きをしっかりと持った。
 鳥の影が空高く舞い上がった。

「わー」
 
 時間にして、二呼吸くらいだろうか。
 短い間だったが、私は確かに、糸を通して風を感じていた。
 やがて、風が弱まったのか、凧は呆気なく落ちてきてしまった。
 おばちゃんはそれを受け止めながら、

「少し風が弱くなってきたわね。もう少し糸が長くならないかしら」
「なんで長くするの?」
「もっと高いところには、いい風が吹いてるからよ。神社の屋根から飛ばしてみたらどうかしら」
「あ、それいいかも! 日向ぼっこしながら揚げるの!」
「まぁ素敵ね! いい考えよ、霊夢」
「でも、おばちゃんはだめ! あれは私の神社!」
「困ったわね。誰が凧を持つのかしら」
「うう~」

 結局、それは許すことにした。
 凧がちゃんと揚がるまで、私はずっと文句を言っていたけど、おばちゃんは柳になったみたいに、それを受け流していた。
 でも、屋根から揚げた凧は本当に気持ちがよくて、私はすぐにそれを忘れてしまった。
 いつしか私達は、並んで屋根の上に座って、空を見上げていた。




***




 神社近くの林の中。
 五番勝負の四番まで語り終える中で、お賽銭箱は何度も大笑いしていた。

『なんだかんだ言って、楽しく遊んでるようじゃないか』
「そうなのよね」

 私も笑って頷いた。

「今思えば楽しかったような気もするけど、私はおばちゃんと遊んでいるっていう感覚はなかったのよ。でも、おばちゃんのねらいは最初からそれだった。小さかった私は、林檎を口実に、まんまと誘われちゃってたってわけ」
『向こうが一枚上手だったということか』
「そういうこと。最初に神社に来た時に、おばちゃんが言ったことは間違っていなかった。あの人は私に会うため、私と遊ぶために神社に来ていたんだわ」
『それだけじゃないと思う。きっと、霊夢に笑ってほしかったんじゃないか、おばちゃんは』
「……うん。知ってる」

 私は呟いて、空を見上げた。
 一羽の本物の鳶が、甲高い声で鳴きながら、夏雲の下を飛んでいる。
 屋根の上で凧を揚げながら、おばちゃんと寝転がって見た光景に似ていた。
 あと少し……あと少しで私は、あの時笑えていたかもしれない。
 でも、やっぱりだめだった。 

「……おばちゃんと違って、私は結局、凧揚げを好きになれなかった。最初は面白かったんだけど、とうとう我慢できなくなって、糸を切っちゃったの」
『糸を切った?』
「うん。風に揺れてるだけの凧が可哀想で、自由に飛ばしてあげたくなったの。この気持ち、あんたならわかるでしょ?」
『……………………』
「でも、私の期待通りにはいかなかった。凧はすぐに突風にあおられて、裏の林に落ちちゃった。おばちゃんは何も言わずに、探すのを手伝ってくれたけど、私はその間、とても酷いことをしちゃったんじゃないかと思って、すごく怖くなって……」

 その時の感覚を思い出して、私は膝を抱えた。
 お賽銭箱は心配そうに、声をかけてくる。

『霊夢…………』
「……………………」
『その凧はどうしたんだ。林の中で、見つかったのか?』
「……………………」
『そうか……すまない。悪いことを聞いた』
「…………ぷっ、ふっ!」

 私は我慢できずに、吹きだした。

『あ! 霊夢! 私を騙したな!』
「ごめんごめん。お気づきの通り、凧はちゃんと見つかって、今も蔵にあるわよ。たまに空に飛ばして遊ぶこともあるわ。私もあの頃より、だいぶ飛ぶのが上手くなったからね。結構楽しいんだ」
『そうか。よかったな、失わないで。きっとその凧も喜んでいるだろう』
「ふ~ん、そうかな?」
『同じ道具の私が言うんだから、間違いないさ』
「ふふ、だといいけどね」

 なかなか嬉しいことを言ってくれるお賽銭箱を、私は軽く肘でつついた。

『ところで、第四戦の凧揚げはお前の負けだったとして、第五戦は誰がどうやって決めたんだ』
「そうなのよ!」

 その続きを思い出して、私は手を鳴らす。

「こっからが面白いの。その凧を無くさなかったら、『あれ』は思いつかなかったんだから、びっくりよね」
『なんだなんだ。いきなり何の話だ』
「あー、あんたは知らないのよね。今じゃ幻想郷で、誰でも知ってる遊びのことよ」
『誰でも知ってる遊び……?』
「実はその遊びはその時に生まれて、第五戦はそれで勝負を決めることにしたの。このことを知っているのは、作った私とおばちゃんだけ。今からあんたにも教えてあげる。特別にね」
『そ、それは光栄だな。でもそれが、無くした凧とどんな関係があるんだ」
「それはね。私が林の中で、あのトンビ凧を見つけてから…………」

 私はその時の状況を、目に浮かべながら語り始めた。




***




 鎮守の森、神社を囲む林の中、私はうずくまっていた。
 胸の中には、今朝まで嫌っていたはずの、トンビ凧がある。
 凧の翼は、妙な形に曲がっていた。落ちた時に、片方骨が折れてしまたのだ。
 おばちゃんが、私の側に屈みこんだ。

「霊夢……」
「……聞きたくない」

 私は首を振って、いやいやをした。
 けれども、おばちゃんは叱らずに、予想してなかったことを言った。

「あとで、その子を直してあげるわ」
「……………………」
「だから、いつかまた、貴方がもっと高く飛べるようになったら、一緒に飛んであげたらどう?」

 私は凧を抱いたまま、むっつりと頷いた。

「いい子ね。それじゃあ、神社に帰りましょう」

 また同じように頷き、私は立ち上がった。
 とぼとぼと、重い足取りで、おばちゃんと並んで歩く。
 しばらくして、彼女が温かい声で、私の耳を撫でた。

「霊夢は優しい子ね」
「………………」
「貴方の気持ちはわかる。でもね、風に任せることが、自由とは限らないわ」
「………………」
「流れに支配され、運命に踊らされ、下りる場所も選べない。それは果たして自由かしら」
「……でも、あの時この凧、悲しそうだった!」

 無意識に、私は声を荒げていた。

「だから、逃がしてあげたかったの! 糸で繋がれっぱなしなんて、可哀想だもの!」
「……………………」
「やっぱり、凧揚げなんて面白くなかったよ! おばちゃんの嘘つき!」
「ええ、ごめんなさい。霊夢が正しかったわね」
「…………うん」

 けど、おばちゃんが間違いを認めても、私はちっともいい気分にならなかった。
 私だって、これが八つ当たりだと分かっていたから。
 凧揚げはもうやらない。屋根の上の日向ぼっこも、もうやる気にはならない。
 なんでこんな辛い気持ちにばかりなるのか。
 何もかもきっと、あの神社が悪いに違いない。
 これこそ八つ当たりかもしれないけど、私は今では、そう信じきっていた。

「あら霊夢。大変よ」

 おばちゃんが妙な声を上げたので、私はその視線の先に顔を向けた。

「ああー!?」

 その先には裏庭。私の大事な林檎の木が生えている。
 そしてなんと、妖怪が不法侵入していて、実の一つをもいでいた。
 文字通り飛び上がった私は、凧を放り出すようにおばちゃんに手渡した。

「こらー!」
 
 落ち込んでいた気分が跳ね上がり、怒り心頭に達した状態で、私は侵入者に向けて突進した。
 蛇のように舌をチロチロと出していた妖怪は、こちらを見て顔色を失い、林檎を捨てて逃げ出す。

「逃がすもんかー!」

 私は怒鳴ってから『符』を取り出し、霊力を込めた。
 手にした紙が光を帯び、妖怪目掛けて飛んでいく。
 私は目を閉じ、陰陽玉を通じて、その符へと意識を繋げる。
 すぐに術が発動するのを感じた。

 泥棒妖怪の周囲に、御札の陣ができていた。
 御札はどれも鈍く輝き、ぐるぐると標的を取り囲んで動く。
 妖怪は青くなって、逃げる方向を探しているが、その間にも陣は狭まっていく。
 やがて決心したようにそいつは、隙間の一つから逃げ出そうとした。
 だが、すでに遅い。もう一つの御札の列が、その行く手を通せんぼしている。
 妖怪が再び動きを止めたその瞬間、狭まっていた陣がまた大きく広がり、大輪の花を咲かせた。
 その一つに、妖怪は飲み込まれた。

『きぃやああああ!!』

 悲鳴をあげてから、罰当たりな侵入者はよろよろと落ちていく。
 私はその成果を見て満足し、お祓い棒を振って構えた。

「私の林檎は、誰にも渡さないわ!」

 と、カッコよくポーズを決めていると。

 ぱちぱちぱち

 と手の鳴る音がした。
 いつの間にか側に来ていたおばちゃんの、場違いなほど大きな拍手だった。
 何だかえらく興奮している。

「すごいわ霊夢! もう符が使えるようになるなんて。あれは何ていう術?」
「まだ名前は考えてないよ。妖怪を逃がさないために考えたの。けど、隙間ばっかりで、上手くいかなくて……」
「そんなことないわ。その方がとっても綺麗じゃないの。御札がいっぱい詰まっているよりも、見た目がいいわよ」
「そ、そう?」

 綺麗だと褒められて、悪い気はしなかった。
 里で一度見た打ち上げ花火や、一人で吹いていたシャボン玉で思いついたのである。
 おばちゃんは大きく手を鳴らした。

「そうだ! 霊夢、最後の勝負はそれにしましょ!」
「え?」

 何のことだか分からず、私は聞き返した。

「私が霊夢の……そうね、弾幕と呼びましょうか。その弾幕を最後までかわし続けることができたら、私の勝ち。もし途中で御札に当たっちゃったら、私の負けで、霊夢の勝ち。第五戦はそれにしましょう!」
「おばちゃん、わかってるの? これは妖怪退治用の術で、遊びじゃないんだよ」
「いいえ、これはきっと素晴らしい遊びになるわ」
「ならないよ」
「なるわ」
「ならないって!」

 私がムキになって、言い張ると、

「絶対になるわ。試しにやってみましょ、霊夢」

 おばちゃんは自信たっぷりにウィンクした。




 第五戦 ???




「じゃあ、ここから…………ここまでの範囲ねー」

 境内の四隅を、おばちゃんは徒歩で一周してまわりながら言った。
 私は落ち着かない気分で、のほほんとしたその姿と、手にした符を見比べていた。
 霊力を込めた御札が、人間に当たったらどうなるかは知らない。けど、石に当てたらひびが入ったので、間違いなく怪我する威力だった。それに、動きの速い妖怪の中でも、この符から逃げられた奴などいなかったのである。
 いくらおばちゃんが普通の人間と違って、空が飛べるとはいえ、どう考えてもこの試みは危険だった。
 気の進まない私は、もう一度聞いてみた。

「ねー! 本当にいいのー!?」
「いいわよー。怪我しても、霊夢の責任じゃないから安心してー」
「そんなわけないでしょー!」
「大丈夫よー」
「本当にケガしても知らないからねー!」
「わかったわー」

 おばちゃんは、のん気に手まで振っている。
 私は説得を諦めて、さっきと同じ符を取り出した。
 適当な呪を唱えて霊力をこめ、陰陽玉を通して発動させる。
 ただし、今回の攻撃対象は妖怪ではなく、平和ボケした和服のおばちゃん。

「行くよー! 気をつけてねー!」

 浮遊する彼女に向かって、符は光りながら飛んでいき、霊力を解放した。
 発動した符の力に従って、二十程度の御札が、おばちゃんを取り囲んだ。
 彼女は私の忠告を聞いていなかったかのように、ぼけっと空中に直立している。
 だんだんと輪が狭まっていっても、全く動かずに、その御札の動きを静観していた。
 何をしているんだ。あのままだと、いずれは当たってしまう。
 私はしびれを切らして、また声をかけようとした。

 その時だった。


 ふわり


 おばちゃんの体が、御札の列を通り抜けた。
 そこに、別の御札の列が回りこむ。
 危ない、と私が叫ぶ寸前に、彼女は体をひねり、あっさりとそれをかわした。
 御札がまた迫り、おばちゃんはかわす。
 また迫り、またかわす。

「お、おば……」
「やっほー、霊夢ー」

 驚きのあまり、口をぱくぱくとさせる私に対し、彼女は朗らかに笑っている。
 だが、その身体は休むことなく、流れるような動きを保っていた。

 茜色の蝶が舞う。御札の光でできた花を、自由気ままに飛んでいる。
 幻のような着物の動きは、突然、別の生き物に変化する。
 鳶のように遅く、栗鼠のように素早く、弾幕の隙間を、緩急自在に泳ぎ続ける。
 彼女の動きによって、それは妖怪退治の術ではなく、本当に弾幕を避ける遊びになっていた。

 いつしか私は、その姿に見とれていた。
 稚拙な弾幕よりも、ひらひらとかわすその姿に、心を奪われていた。
 見るものを緊張させる空間の中で、あくまで優雅に、美しく振舞う。その服を巫女服に替えれば、それはまさに、昨日の話にあった神楽を舞う巫女にふさわしくなるのでは、と思った。

 ――綺麗……。

 夢のような光景だ。
 できれば私はその舞踊を、そのまま見続けていたかった。
 だが、

「あーれー」

 突然、胡蝶がおばちゃんに戻り、不自然な動きを見せた。
 それまでのリズムを乱し、御札の進路へと入ってしまう。
 ざん、と和服越しに、霊力が突き刺さり、彼女は地面へと倒れ伏した。
 私の喉から悲鳴が漏れた。

「おばちゃん!?」

 慌てて符を中断し、私は寝そべっていた彼女の元へと駆けた。
 しかし、到着する前に、おばちゃんが上体を起こす。

「……あらら、当たっちゃったわね」

 苦笑する彼女の体には、傷一つついておらず、服が少し焦げているだけだった。
 どうやらかすっただけらしい。
 だが、一瞬感じた恐怖に、私の心臓は鳴り止まない。

「だから危ないって言ったのに……! 怪我したらどうすんのよ!」
「あら、心配してくれたのね、霊夢」
「…………知らない! おばちゃんなんて知らない!」

 頭にきた私は、そっぽを向いてやった。

「ふふふ。ありがとう。でもね、人間も動物も妖怪も、遊びで怪我をするたびに、大事なことを覚えるの」
「……………………」
「霊夢だって、怪我を絶対しない遊びなんて、つまらないでしょ?」

 おばちゃんは余裕を含んだ口調でそう言って……ついに私は、その意図に気づいた。
 彼女は、昼に見せてくれた、赤い大きなリボンを取り出す。

「私の負けね、霊夢。じゃあ、約束どおり、このリボンをあげるわ」
「……………………」
「結んであげるから、後ろを向いてちょうだい」
 
 私はおばちゃんに降参されても、そのご褒美を見ても、何の感情もわいてこなかった。
 人形のように、彼女の指示に従って、後ろを向く。
 髪がすっと持ち上げられ、てきぱきと後ろで結ばれる感触があった。

「……はい、できあがり。ああ、やっぱり似合ってるわ。ほら」

 おばちゃんが背後から鏡をくれる。
 私はそれを受け取って、自分の顔を映した。
 おかっぱ頭の上に、大きな可愛い赤いリボン。

 だけど、鏡の中の女の子は、お面のように無表情だった。

「どうかしら、霊夢」
「……おばちゃん」

 私は鏡を返しながら言った。


「わざと負けたんでしょ?」


 彼女は笑みを消し、絶句していた。

「おばちゃんは、最初からこのリボンを私にくれるつもりだったんでしょ?」
「……………………」
「さっきまでの勝負も、引き分けになるように、手加減していたんでしょ。それに、私を笑わせようと、わざとふざけていたのね」
「……ええ。ごめんなさい」

 おばちゃんはごまかしたりせず、正直に私に謝った。

「霊夢が笑ってくれると思ったんだけど、失敗しちゃったみたいね。怒った?」

 私はふるふる、と首を振った。
 おばちゃんに怒ってなんていない。私は、私自身に、幻滅していた。
 博麗神社に来てから、ずっと笑えずにいる自分に。

 その事実を認めて、私は怖くなった。
 そう。実は私は、笑わないのではなく、笑えないのだ。
 笑い方は、ここに来る前に、里に置いてきてしまったようだった。
 この神社ではくすりとすることはあっても、すぐに虚しさを覚える。
 何でだろう。笑顔が嫌いなんじゃない。
 本当は私だって……私だって笑ってみたい。

「…………っ」
「霊夢……泣かないで」
「……泣いてない!」
「おばちゃんは、霊夢が泣くと、とても悲しい。霊夢の笑顔が、見てみたいわ」
「……そんなのないもん」

 私は何度も目をこすった。

「私は……素敵でもなんでもないし、笑顔だってないし、は……博麗の巫女だって、仕方なく……やってるだけだもん」

 だけど、この巫女服を着てから、ずっと楽しくない日々が続いていた。
 まだ私が空を飛べるようになる前、里で『普通』の子として暮していた頃に比べて、この役目は苦行に近かった。

 里の人達は、誰もが不安を抱えて生きていた。
 外に出れば妖怪に襲われるという危険。結界に閉じ込められ、里を逃げ出すこともできないという閉塞感。
 大人ばかりでなく子供まで、闇雲に妖怪を恐れ嫌い、背を向けつつ、その撲滅を願う。
 増殖する不安を持て余し、何かにそれを預けようと必死で探し続ける。

 それは全て、博麗の巫女である、私に預けられた。

 妖怪の場合は、どいつもこいつも不満を抱えて生きていた。
 彼らは……それがどんな形にせよ、人間との交流を求めている。一方向的なものではなく、双方向的な交流を。
 難しい言い方はできなかったが、里にいる時から、子供の私はそれに気づいていた。
 しかし、この世界では人間を襲うことができず、絶対に逆らえない存在である博麗の巫女がいる。そして人と同じように、結界の中に閉じ込められた存在となっている。
 退治され続ける一方で、妖怪としての気概を失い、何かに悪意をぶつけるしかない。

 それは全て、博麗の巫女である、私にぶつけられた。

 でも肝心の私は、博麗の巫女が何なのかすらわからない、ただの小娘だった。
 見えない神様に仕え、縁の無い結界をまかされ、意味も無く妖怪を攻撃する。それはなんだか、抽象的というか婉曲的すぎて、空気の塊を預けられたようだった。掴めないし、背負っている感触もない。何の役にも立ちそうになく、何かが変わるとも思えない。
 それなのに、人は私に期待と信仰を押し付け、妖怪は軽蔑と怨恨をぶつけてくる。彼らの嫌な感情が、私にどんどん入ってくる。
 互いの境界に立つ私は、この思いをどこへ持っていけばいいのか。誰にぶつければいいのか。
 博麗の巫女なんて、本当に損な役割でしかなかった。 

「なんで……私なの……」

 そう。何で私は巫女をやっているのだろう。
 確かに、里に飛べる子はいないし、一度御札の真似事を教えても、全く扱うことができなかった。
 でも私だって、生まれた時から博麗の巫女だったわけじゃない。もっと適役の子がいたって、おかしくないじゃないか。
 きっと探せば他に見つかる。現におばちゃんだって、私みたいに飛べるし、何より素敵な笑顔じゃないか。
 このまま巫女を続けたら、私はいつかきっと、風船みたいに破裂しちゃって壊れてしまう。

「みんな……なんで…… 」

 だけど、ここから逃げても、私はあのトンビ凧みたいに、どこかへ墜落してしまう気がした。
 いくら空が飛べても、運動神経がよくても、妖怪が退治できても、私はちっちゃい子供で、一人で生きていく術を持っていない。
 里の孤児院に戻っても、『普通』じゃない私はもう遊べない。最後に別れたときの彼らの目を思い出す。まるで、妖怪の子を見るようなあの目。
 だから私は、この神社で糸に繋がれているしかない。他に居場所なんてないのだ。
 やりきれない思いに、いくら目頭を熱くさせても。

「……おばちゃん」

 私はついに、それを口にした。

「……私、博麗の巫女をやめたい」

 里の人間にも婆やにも、子供達にも、妖怪にもいえなかった本音。
 唯一、私と同じ目線で、ひたむきに付き合ってくれる……おばちゃんにだけ、私は打ち明けた。


「霊夢、どうしても貴方が博麗の巫女を辞めたいなら、私が何とかしてあげる」


 その強い口調に、私は顔を上げた。
 おばちゃんの表情は、夕焼けの逆光になって、よく分からなかった。

「貴女の悩みも苛々も、全部消してあげる。私が助けてあげる。そうすれば、霊夢もきっと笑えるようになる。素敵な笑顔を取り戻せるわ」

 彼女の真剣な台詞は、どん底だった私を勇気付けた。
 確かに、おばちゃんは何でもできるし、私よりもずっといろんなことを知っている。
 きっと私を助けてくれる、そんな気がして、信じたくなった。はじめて、誰かに助けてもらいたくなった。
 しかし、子供だった私は、続く言葉に凍りついた。

「ただし、それには条件があるわ。今の遊びで、私に勝ってみせること」
「えっ」
「これから一週間、時間はあるわ。その間に霊夢は符を作って練習すればいい」
「…………!?」
「……次はわざと負けたりしないわ。一週間後に、また会いましょ。それじゃあ霊夢、またね」

 おばちゃんは一方的に言った後、空へと飛び上がり、神社の屋根の向こうへ消えていく。
 私は呆然とそれを見送ってから、 

「ちょ、ちょっと待ってよ! おばちゃん!」

 彼女の後を追って、神社を飛び越えた。

 だけど、母屋の庭には、生き物の影すら見当たらなかった。




***




「……これで、おばちゃんと過ごした二日目の話は終わり」

 私はそこまで話し終えて、また一息ついた。
 今まで誰にも話したことがなかったので、少し気疲れしたものの、心にかかっていた霧がすっきりして、ちゃんと形になっていく気がする。

「あんたは知らないだろうけど、その時の遊びが、弾幕ごっこの元になったの」
『弾幕ごっこ……』
「そう。正確にはスペルカードルール。お互い弾幕で技を魅せ合って、回避を続けると同時に、美しさを競い合う決闘法……まぁ、私が考えたんだけどね」

 懐から符、今ではスペルカードと呼ばれるそれを一つ取り出し、木漏れ日に当てて回す。
 弾幕ごっこに必要なそのアイテムは、ルールを制定されてから妖怪の間に急速に浸透した。
 発案者の私も驚くほどの大流行だった。吸血鬼異変の後、あっさりこの決闘法が認められたのも、今では一つの謎である。

「まあそれで、私はそれからの一週間、猛特訓したの。色んなことを覚えたわ。ただ闇雲に霊力を出しても駄目だとか、陰陽玉は私の精神状態に応じてイメージの中でいくつにも分けて作業させることができるとか、あの頃の私だと符を三つまでしか発動できないということとか……どれも基本的なことだけど」
『い、いや待て。それを一週間で、自力で覚えたのか!?』
「そうよ。おかしい?」

 私は不思議に思ったが、彼は心底驚いているようで、興奮気味に喋った。

『いや……私は賽銭箱なので、そこまで詳しくないが、凄いことに聞こえる。歴代の巫女の中でも、そこまで霊力やセンスが高かった例はないはずだ。ましてや子供だろう。通常では考えられないほどの成長だ』
「人を化け物みたいに言わないでよ。言ったでしょ、神社の近くは、妖怪がいっぱいいたから、練習相手には事欠かなかったって。それに私も、おばちゃんに勝とうと必死だったし」
『そうか……それでも、お前はその女性に勝てなかったんだな。今も巫女を続けているのだから』

 理解した、という様子で、お賽銭箱は言う。
 私は、くすりと笑った。

『まさか、勝ったのか?』
「……ううん。そんなんじゃないの。でも、あの日は一生忘れないわ」

 私は一度首を振ってから、ついに告白した。
 頭の上のリボンを、そっと撫でて、


「だって私が、本当に、博麗の巫女になった日だから」









(続く)
霊夢がその秘密を語る前に。
少し時間を戻して、別の人物の視点に移ります。

旧名:PNS
このはずく
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コメント



0.3670簡易評価
8.100名前が無い程度の能力削除
ありそうな霊夢の過去話で面白い
期待して続きを読んできます
12.100名前が無い程度の能力削除
ちっちゃい霊夢かわいいなぁ。 続きを今すぐ読みに行ってきます!
25.100名前が無い程度の能力削除
期待
30.100名前が無い程度の能力削除
凄く続きが気になる、おばちゃんはあの人かな
39.100名前が無い程度の能力削除
これは大作の予感。
42.100名前が無い程度の能力削除
これは・・・・
43.100名前が無い程度の能力削除
一度(三)まで読んでるんですが、前回はレスしてなかったので
これだけ分量があるのに、また、ふと読みたくなる
なんていうか物語全体から漂う余韻が良いんですよね。また心動かされたくなる

それはそうと、結構小ネタを挟んでるんですね~。かじ、ゆかりとか子供のお小遣いとか
二度びっくりw
44.100名前が無い程度の能力削除
予想以上に引き込まれました……。
51.100みなも削除
シリーズを通してひきこまれました.
52.80名前が無い程度の能力削除
この霊夢はかわいいなぁ
53.100名前が無い程度の能力削除
長いのに全然飽きがこない。
62.100名前が無い程度の能力削除
続きに期待