もう少しで手が届く。
ここは風が強くて飛ぶこともままならない場所。
通称、魔の崖。
幾人もの妖怪たちが不用意に飛んでは、崖に向かって吹く突風に煽られ、岩肌に叩きつけられて命を落としていた。
だから飛べない。
飛べないから、手と足を使ってゴツゴツした岩にしがみつくのが一番安全だ。
飛ぶことに慣れた妖怪ならすぐに死んでしまうだろう。
けれど、私は生来的にバランス感覚に優れた化け猫だった。こんな不安定な場所でもなんとかなる。
伸ばした腕の先には、青っぽい色をした小さな花が咲いていた。
私はその花を手にしたかった。
「よし、とれ……ったっと、うわわわわっ」
風が吹いてバランスが崩れそうになる。どうにかこうにか持ち直して、ようやく一息つく。
こんな危ないことをしていると知ったら、藍さまに叱られてしまうかもしれない。
叱られるのは嫌。怒られるのは嫌。
尻尾がフニャってなっちゃうから。
けれど、褒められるのは大好きで、もっと好きなのは藍さまが嬉しそうな笑顔になること。
もちろん紫さまも同じ。紫さまは私にとってはご主人様のご主人様だから恐れ多すぎてあまり話したり、褒めたり、叱られたことすらないけれど、同じように笑顔になるところを見たいという思いはあった。
そんなわけで、花は二つある。
なんとか手に入れることができた。
紫色をした花と、藍色の花。
どちらも同じ種のようだったけど、色合いは個性によって異なるようだった。
この花を藍さまと紫さまにあげたら、笑顔になってくれるかな。
そうだと嬉しいな。
けれど少し想像してみると、紫さまが笑顔になったことはあまりないというのが本当のところだった。正確には外交をするときのような形式ばった笑顔はよくなされるのだけれど、藍さまのようなお腹の奥がぽやんとあったかくなるような笑顔をなされたことなかった。
うーん。
とすると、花をあげたいという主たる理由は藍さまというよりは紫さまにあるのかな。
自分でも自分の動機がよくつかめない。
どっちがメインだとしても、不遜になりそうだったから、私はあまり深く考えないことにした。
メインとかサブセットとか、よく紫さまがおっしゃられているけれど、正直なところよくわからないということもつけくわえておこう。
藍さまが住んでいらっしゃる場所は、紫さまの家だ。
私が住んでいるマヨイガという場所からはわりと近くで飛んでいけばすぐにつく。藍さまの方針としては私が一人前になるまでは生活力を養うために一人暮らしさせるつもりらしい。もちろんほとんど毎日のように会ってるし、たまにはお泊りしたりもする。お泊りするときは藍さまの尻尾に思いっきりモフモフしちゃう。私だけの特権だ。
早く会いたいと思った。
空を飛んで会いにいく。
「お、橙、今日もちゃんと時間どおりに来れたようね」
藍さまが私の姿を目ざとく見つけて、遠くの方から声をかけてくれる。
私は藍さまがいる場所の数メートル前に向かって、最大速度で飛んでいく。
トンと、着地。
優雅に着地できるのは化け猫の特権。
と、思っていたのは着地後、ほんのわずかの瞬間だけだった。勢いがつきすぎて、地面に足をつけたのはいいんだけど、そのままの勢いで藍さまのふくよかなおっぱいにダイビングすることになってしまった。ああ、ここもモフモフだ。
「こら。橙。もう少し落ち着かないと危ないだろう」
「その通りでした」
おかしいな。いつもならちゃんとできるのに、バランス感覚がイマイチだ。
たぶん、急ぎすぎたせいだろう。
気を取り直して、私はふところから、例の藍色の花を藍さまの前にさしだした。
「これ。藍さまにあげたくて」
「え? 橙が私に?」
「はい。藍さまのお名前といっしょの色です」
「橙」
藍さまはいつもより柔らかく私の名前を呼んだ。そのあと頭を撫でてもらった。私にとっては最高の報酬だった。
「嬉しいです」
「ん? なにがだい」
「藍さまの笑顔が嬉しい」
「これは勿忘草というものだよ」
藍さまは照れたのか、いつものようにちょっと真面目な声に戻った。
わすれなぐさ。
というのが、私がとってきた花の名前らしかった。
「私を忘れないでくださいというのが花言葉だ。覚えやすいだろう」
藍さまは必要以上に私に覚えておくように言わない。本当に忘れてはいけないことだけを覚えておくように言う。例えば、人に優しくされたら感謝の言葉を忘れてはいけないとか、悪いことをしたら素直に謝らないといけないとか、絶対に忘れてはいけない言葉は、あまり多くはないみたい。
だから、私は自由な意思で覚えておきたいと思ったから、その小さな花の花言葉を覚えておこうと思った。
「紫さまの分もとってきたのですよ」
私は紫色をした花をとりだした。
「そうか。なら紫さまが起きたら、橙から紫さまに手渡してあげなさい」
「はい。そうします」
と、そこで異様な気配が私の背後に出現した。
一瞬のうちに、得体の知れない気配が充満するから、私の毛が本能にしたがって逆立つのを感じた。
「うふふ。いつも寝ているみたいに言わないでよ。藍」
振り向くと――
縁側のよく日のあたる場所に、紫さまのお姿があった。
いつもどおり、裏がありそうで素の状態でもあるような、ちょっと怖い笑顔だ。
死の気配。
夜の姿見を覗き込んだような、
自分の影が夕方に伸びきったのを見るような、
そんな怖さ。
死というのは言いすぎかな。紫さまからは甘い匂いしかしないはずなんだけど。綺麗すぎるからそう思うのかもしれない。
紫さまにはどこか生物という感じがしない怖さがある。そんなこと思っちゃダメだと思うんだけど、やっぱり怖いものは怖い。
その場から一歩も動けなくなった。尻尾も垂れ気味。
「脅えているの? かわいいわね」
「そんなことはないです、けど」
「そう。ならいらっしゃいな。私に何かをくれるのでしょう」
今度は紫さまの言葉に従って、私の足が自動的に進んでいく。
そして、目と鼻の先まで来て、私は必死の思いで、紫さまに勿忘草をさしだした。
「これ。紫さまに」
「とても綺麗な紫色。勿忘草ですわね」
「そうらしいですね」
「あら。わかって取ってきたわけではないのね」
「今しがた藍さまに教えてもらいました」
「因果かしらね。勿忘草を取ってくるなんて……」
「え?」
「私もすべてが見えているわけではないけれど、多少は境界のスキマからいろいろと見えるということよ」
紫さまの思考は私の何倍も何十倍も速くて正確だ。
クロック数と藍さまはおっしゃっていた。私が1だとすると、紫さまの思考速度は100を超えるらしい。それだけでなく思考の幅も普通の妖獣なんかとは比べ物にならない。テンソルの思考形態とかマトリクスがどうとか……。
うん。無理だ。
今の私には理解できない。
ともあれ、藍さま曰く、紫さまの話は適当に聞き流していればいいらしい。わかるときがいずれ来るだろうし、理解できるときがいずれ来ることを見越して、私たちに合わせた言葉を選択してくださっているらしいから。
だから、私は特になにも聞きなおさなかった。
一礼してから、藍さまの元に駆け戻り、そして服の裾を掴んでちょっと安心分を補給。
ふぅ。落ち着いた。
「あらあら。嫌われちゃったのかしら」
「寝起きの顔は存外醜いものですからね」
「あら言うようになったわね。藍」
「ところで紫さま。今日はいったいどうして早く起きたのですか」
「ま、たいしたことではないのだけど――。式の式の顔でも見たくなったからといったら貴方は信じるかしら」
私の顔が見たい?
そんな言葉が聞けるなんて思ったこともなかった。
「信じますね。私のご主人さまはどうやら式思いの方のようですから」
「まあ。そういうわけよ」
「どういうわけですか」
「運命が見える吸血鬼でなくてもわかる程度の表現にしてあげましょう。そう、つまり――橙はあと数ヶ月の命といったところね」
「は?」
「私の見立てでは、脳腫瘍の一種みたい。いまはまだ大丈夫だけれども、長くは持たないでしょうね。橙。あなた手先が痺れたり、バランス感覚がおかしくなったりしてない? それは徴候よ。すぐにもっとはっきりわかるようになるでしょう。残酷なことですわ」
何を言われているか理解できなかった。
ただ私が死ぬということが紫さまの口から発せられたという事実だけは認識できた。
実感なんてまださっぱり湧かない。
「本当なんですか?」
藍さまが混乱している私の代わりに聞いてくれた。
「本当よ。こんなことでわざわざ嘘をついてもどうしようもないもの」
「なんとかならないんですか。境界を操るとか」
「あー、それ無理だから。境界を操作するということは破壊と創造を同時にやるようなもの。橙が橙でいられなくなってしまうわ」
「腫瘍とそうでない部位を分ければいいでしょうに」
「いいこと藍。私の能力は無限ではないのよ。1から10までの数字があるとして、それを一本のラインで二つのグループに切り分けることができる。そういう能力なの。でもここで問題なのは、1と10というふうな飛んでいる数字を取り出すことはできないのよね。あくまでも境界を動かせるだけなのですから。例えば、脳腫瘍の番号が5という数字だとして、橙が橙でいられるというアイデンティティの数字が1と10のいずれにもまたがってるとしてみなさいな。私の能力では5だけを切り分けることはできないでしょう。そういうことなのよ」
「では、物理的に破壊することも……」
「できないでしょうね」
「ここ幻想郷にはいないのですか。あらゆる病魔を治してしまう薬を作ってくれる医者は!」
「そうね。残念ながら時が足りないようですわ」
紫さまは含み笑いのような、恐ろしげな笑みをこぼしていた。
正直怖かった。
いや、怖いのは私が死ぬという事実に対してかもしれない。
怖い。すごく怖い。胃の裏側あたりが水か何かに直接つっこまれたかのように冷たくなっていた。
もう春の暖気で辺りは包まれているというのに、背筋から震えが立ち上ってきて止まらない。
「橙」
藍さまが私の身体をぎゅっと抱きしめてくれた。
いつもはそれでどんなに怖いことがあっても震えが止まるはずなのに、今日だけは全然止まってくれそうになかった。
「藍。説明責任は直接のご主人である貴方が果たすべきではなくて?」
紫さまの声。
私が抱きしめられたまま見上げると、藍さまは怒りの表情だった。
どうして?
そう思っていると、藍さまが怒気を含んだ声を出す。普段絶対に出さない声だ。
「先ほどの発言は撤回させていただきたい。紫さまはずいぶんと式に冷たい方のようだ」
「それしか方法が無いと言っているのですわ」
「まだ橙には……」
「早いも遅いもあるわけないでしょう。あなたは相対性精神学を少しも理解していない。精神や心や魂といったものは所詮は相対的な数値に過ぎない。この世の中に絶対的に不動な『私』などというものは存在しない。式も然り。あなたはあなたの責任を果たしなさいな。もしも、橙というキャラクターを真に愛しているのなら」
「私は良いのです。十分な時を得てから式としての自覚を得ましたからね。でも、橙はまだ幼い」
「なら。理解させないままやってしまう? それでも私はかまわないけれど」
「それは……」
「何が一番、橙のためか。考えなさいと言っているのよ」
長い沈黙があった。
紫さまは縁側に座ったまま、じっと藍さまのことを見つめていた。
やがて、藍さまは私をそっと解放して、膝をついて私に視線をあわせてくれた。
「橙。よく聞きなさい」
「はい」
「おまえの頭の中には『式』がある。これは知っているね」
「知っています」
「式は普段のおまえにはない力を発揮させてくれるだろう。しかしそれだけではない。式はおまえであることを学んでいるんだ」
「ん…にゃ?」
理解が追いつかなかった。
私であることを学んでいる?
「つまりバックアップ……、という言葉ではわからないか。えっとそうだな……、ちょうど写真のようなものだと思えばいい。私やおまえの素体は妖獣であり、妖獣は脳で考えて、脳で呼吸して、脳で食べたり生活しているということは前に教えたね。もう少し詳しく言えば、ニューラルネットワークといって、脳神経を流れる電気信号とシナプス等の化学的な信号があいまって、おまえという思考を形成しているんだ。この思考そのものを式は写真のようにそっくり複写してリアルタイムで更新しているわけなんだよ」
「そっくりそのまま?」
「そっくりそのままだよ。寸分の狂いもない。毎秒あたり数千回という頻度でチェックしているからね」
藍さまの言葉はとても難しい。
「同期と言えば理解できるのかしらね」紫さまは扇子を取り出して口元を隠しながら話している。「わからないかしら」
「ちょっと理解が……」
理解力というよりは、使っている言葉がそもそも違う気がした。
けれど私にだっていつかは藍さまに追いつく気概はある。
私は前を向いて、目を逸らさないように努力する。
紫さまは目を細めた。
「あなたの頭のなかにある式には、米粒よりも小さな<藍>がいて、式があなたと少しでも違う思考パターンになるとすぐさま修正して同じにするということですわ」
藍さまは私の保護者であり教育者でもある。
私が悪いことをして藍さまが叱る姿をイメージした。
「えっと、それで?」
私はまだよく飲みこめていない。
困惑の表情のまま、藍さまに聞いた。
「それで式は脳という物理的な構造を有しているわけではないから、脳から式へとスイッチすることによって、おまえは病魔から逃げ切れる」
「スイッチとはなんです?」
「配線のつなぎなおしだよ。身体の統制権を式に渡す。現状の式はインプットのみをしている状態だが、アウトプットもできるようにする」
「脳はどうなるんです」
「排除し、思考力のまったくない偽脳と取り替える。生理的に必要なことは偽脳がやってくれるというわけだ」
「じゃあ、仮に式になったとして、その状態で式がはずれたらどうなるんですか? 死んじゃうとか?」
式は私にくっついている状態だ。
ちょっとした衝撃ではずれてしまう。私が式になった状態で、式がはずれたら体はただの空洞になってしまうような気がした。
けれど、藍さまは頭を横に振った。
「どうにもならないよ。おまえである『式』は偽脳に埋めこんでおけばいい。そして能力値をアップさせる式はバックアップとして存在し続ける。おまえが式にスイッチした状態になったあとも、式がはずれることはあるだろうが、おまえの体が空洞にならないように配慮することは可能だ」
「でも! スイッチしたら私は『式』になってしまうんじゃないですか。私は私でなくなってしまうんじゃないですか!?」
私は声を張り上げていた。
「同期していると言っているじゃないの。あなたはあなたのままよ」
紫さまはぞっとするような声色で私に言葉を投げかけるのだった。
でも、納得できなかった。そんな得体の知れない存在に私が私であることを渡してしまうなんて、死んでも嫌だった。
そう――死んでも。
ともかく、私の寿命が残り少ないのはまちがいない。
もう少しでまともに身体を動かすこともできなくなるらしい。
けど、それならいっそ、そのまま死んだほうがマシなのではないかとも思った。得体の知れないエイリアンが私の身体を乗っ取って、藍さまの尻尾でモフモフするなんて絶対に嫌だった。
「すぐに納得してもらわなくてもいい。ただできるだけスイッチするのは早いほうが良いだろう。脳の損傷が激しくなると、その損傷も式は学んでしまうことになるわけだからな」
「今もそうなら、もう遅いのではないですか。バランス感覚もちょっと変なんです」
「遅くはないよ。多少の不具合がでたところで、式は拡張が可能だから。バランス感覚が変だというのなら、スタビライザーの補助的な式を作動させればいい。すぐに違和感はなくなるだろう。言わば、自転車の補助輪や松葉杖のようなものだよ。大事なのはおまえが持っている思考や記憶や感じ方。それが――橙――おまえがおまえであるということだ」
藍さまの声色は優しい。
けれど私はいつものように素直に言葉を受け取れない。どうしてこんなに嫌悪感が湧いてしまうのだろう。本能的な恐怖。眩暈に似た気持ち。わからない。
どうしようもなくなって、私はふらついた。
「藍はもとより、私もあなたに今死なれても困るのよ。いずれはあなたにもいろいろなことを任せたいと思っているわ。だから、あなたの気が狂うことを恐れているわけね。まぁ、幸いなことに腫瘍の部位から見て、端的に運動機能が低下するだけの可能性が高いけれど」
思いついたのは――
手の平から砂がこぼれていくようなイメージ。
いつのまにか『私』がこぼれていって、私は何処とも知れない砂浜の一握の砂となる。
そんな感じがした。
私は猶予期間をもらった。
変調が訪れたら、すぐにでもスイッチするという条件つきで、いま私は考えている。
スイッチしたあとも脳を排除せずに一週間ぐらいは様子見を行うようにするらしい。もしも同期がうまくいってなかった場合は、もう一度、式内の<藍さま>が式を修正してくれる。マイクロレーザーで小さな蜘蛛の糸を焼ききるようにして、あるいは機を織るようにつなぎなおして、現在の私の脳の配線とそっくり同じ配列にしてくれる。
そうすることで、私と式は同期する。
とりあえずひとごこち。
冷静に考えられる状態だとも思えないのだけど、自分の家に帰ってきて、藍さまがそばにいないと逆に自分の考えがはっきりしてくるのを感じた。
私はいったい誰なんだろう。
おまえは化け猫か式かと問われたときに、私は『化け猫』だと答えるのが今の状態では絶対的に正しい。
これは疑いようもない。
なぜなら、式は私と同じものを見て、同じものを聞き、同じように思考するけれど、身体を使うことはできないからだ。つまり、インプットとしか行えない。私と同じように感じているかもしれないが、絶対に身体を動かすことはできない。
だから、口を開いて答えを言うとき、化け猫である私が答えていることになる。
「私は私」
そうやって魔法のようにつぶやくと、少しだけ安心感が生まれていく。
私はまだ私だ。
その言葉を唱え続けることが、私である証明だった。
では式は他人なのだろうか。式のなかには小さな藍さまがいて、化け猫である私と違うまちがった思考をすると即座に修正する。この修正は一秒あたり一千万回よりも多いスピードで行われ、式と私の思考はまったく同じものになる。
けれど、そうであるならば――
さきほどの『私は私』という言葉の魔法も失われることになりそうだ。
だって、私がそう思うように、式もまたそう思うのだろうから。
言葉は唱えられた瞬間にしか効力を発揮しない。
夜空に一瞬だけ明滅する花火のように、私が私であることの証明も言葉が放たれた一瞬のうちにしか現れない。すぐに、また、曖昧になっていく。
次の日、友達のミスチーとチルノとリグルが遊びにきた。
私は自分が病気であることは黙ったまま、彼女達と遊ぶことにした。当然、弾幕ごっこ。まだ特に身体に不具合が出ているわけではないから、いつもと同じように遊べた。
弾幕ごっこは身体的な遊びであると同時に、精神的な決闘方法でもある。
そうして思ったことは、いくら式が生来的な脳と同じような働きをするとしても、弾幕ごっこの本質的な要素にまで迫れるわけではないという想いだ。
弾幕ごっこは確かに単なる弾のぶつけあいに過ぎないけれど、そこには式にはできない魂の語らいがあるような気がする。
紫さまが言うには、式は位相幾何学的に完全に私の脳と構造を一致させているらしい。しかし、それは本当の意味で同じだと言えるのだろうか。
弾幕が実際のところはただの気持ちの良いスポーツに過ぎないということは納得できても、そこにある魔法のような煌きまでは絶対に式にはわかりえないのではないか。
そういうふうにも思った。
だって――、いくら式が完全に脳の形を真似たところで、玄妙で精緻をきわめる生きた脳を本当に完璧な形で再現できているかなんてわかりようがないからだ。いくら脳が毎日何千何万と神経細胞が死んでいく壊れやすい器官だとしても、生来的な脳みそには、生物の何億年と長いときをかけてきた歴史がある。その歴史的な重みが式にはない。
そんな式に私の脳の代わりが務まるはずがないと思う。
あまり論理的ではないが、そういう確信めいた自信があった。
それで――私は落ち着きのないことに、藍さまにそのことをおずおずと伝えてみた。
そうすると、橙には私がスイッチしているかどうかわかるのかと聞かれた。
私は『スイッチしていない』と主張したかったけれど、理性的に考えれば藍さまの生きた時間はとても長いみたいで、妖獣の寿命をはるかに超越している。だから、永久不滅の式として生きているという答えのほうが明らかだと思った。
そうだとすると、私の言葉は式にスイッチした妖獣はただうわべだけが生物らしい器械だと言ってるのに等しく、それは藍さまを器械扱いするに等しかった。
私は心臓をわしづかみにされたような痛みを覚えて、泣いて謝った。
藍さまはいつもと変わらず、私をそっと抱きしめてくれた。
次の日は、紫さまに質問しに行った。
式と私の関係についてのいくつかの疑問点を明らかにしたかった。
紫さまは縁側のポカポカしたところに座っていた。お日様が明るい時間帯に起きていることはとても珍しく、私が見かけたのは初めてだ。もしかすると私が来ることを察知して前もって起きててくれたのかも――というのは傲慢すぎるだろうか。
「勉強熱心な子は好きよ」
紫さまはそう言って私を手招く。私はたどたどしい足取りで紫さまに近づいていく。べつに運動機能が低下したわけではなくて、やっぱり、ちょっと怖いと思ったから。
「畏れを知っている子も好き」
紫さまの白魚のような指先が私の頭の上にのった。
そこについている式を確かめているのか、それとも単に私の頭をなでてくれたのかはわかりようもない。けれど、藍さまと同じように暖かく触れた手が気持ちいい。
眠くなっちゃう。
はんぶん夢見心地に、私は紫さまの言葉を聞く。
紫さまの講釈――
あなたは物理的な存在ではない。原子レベルで見れば、生まれたばかりのあなたと今のあなたはひとつとして同じ原子は存在していないのだから、当然のこと。
では精神とは何か。心とは何か。これは空間配列情報を時系列に従って出力した結果。
つまり、相対的な情報パターンに過ぎない。
そうすると、まったくの同一の情報パターンがあれば、それはまったく同一の存在であるといえる。
意識は一つでなくてもよく、存在は一つでなくてもいい。
主体は分裂し、意識は無数のコピーが存在してもいいということになる。
そして、式はまさに同一の意識として『機能する』のだから、式はあなたと等号で結ばれる。
私は反論する。
式が同じように機能しているのはわかります。けれど、それは意識や精神が本質的にどのようなものであるかということへの答えにはなってないじゃないですか。
同じように意識し、思考し、認識し、同じように愛することができたとしても(それも私には理解しがたいのですけれども)
それは外形上同じであるように見えるというだけのことではないのですか。
紫様は再反論。
テレビがどうして映ってるのかあなたは理解できてないけれど、リモコンのスイッチを押せば、実際にテレビは見れるわけでしょう。それと同じこと。『どうしてそうなるのか』ということがわからなくても、何の問題もないじゃない。あなたがあなたであるという結果だけでは不満足なのかしら。実際、あなたのご主人様である藍にしたって、きちんとスイッチして、何の問題もなく暮らしているのよ。それに、式は私が死なない限り永久不滅の存在だけれども、妖獣の寿命は短い。人間よりははるかに長いといっても、たかが知れている。
理解にかけるべき時間はあまりに少ないということですわ。
私は何度も紫さまの言葉を反芻する。
つまりは、紫さまとて、意識や精神がどうしてそうあるのかということの本質――もっと言えば『私』とはなんであるのかという問いに対する答えを知っているわけではないらしい。
その問いは宇宙の理に等しく、最終試験に等しい。ということなのかもしれない。
問題は、理解することが妖怪の賢者といわれている紫さまであっても不可能である以上、私なんかが数週間のうちに悟りを開くなんてことはありえないということだ。これだけは確信をもっていえる。では現実的にはどうするべきか。『結果』を享受して生きるか。それとも問いの答えを探すことで無為に時間を過ごすか。
その二つに一つしかない。
どうこう言ったところで、私はもうすぐ死んでしまうし、今の危機をのりこえたところで、いずれは死んでしまう。もちろん寿命で死ぬのならそれもいいけれど、藍さまや紫さまとできるだけ長い時間、ともに生きたいというのは素朴な願いだった。
「紫さま。もう一つだけ教えてください」
「ん。なにかしら」
「紫さまは何故、私を必要としているのです?」
「そんなこと……」
紫さまは妖艶な顔つきで私を見ている。
まちがったことを言ったのかもしれない。今の言葉を取り消したいと思った。紫さまは沈黙したままだ。私も黙っていた。奇妙な空隙のような時間だった。
そして――
紫さまはつい、と、
扇子で床の間の中の一点を指し示す。床板の上には私が紫さまに送った小さな花が花瓶に生けられていた。
「勿忘草。贈ってもらったわね」
私は小さく頷いた。
「私はあなたのそういう優しさのパターンが好きということですわ」
その日のうちに私はスイッチすることを決心し、藍さまにその旨を伝えた。
だって、どこに思い悩む必要があるのだろう。私が藍さまや紫さまに生きることを望まれているのなら、スイッチしないで死ぬことを選択するのはふたりを悲しませることになる。失うものなんてはじめから何もなかった。自分が化け猫であるか式神であるかは、スイッチする前はわからないのだし、スイッチしてしまえば、私は式神でしかありえないのだから、そもそも最初から私が化け猫であることを主張すること自体が無意味に思える。
これは死に対するアナロジー。
私に死が訪れるまでは、死は目の前になく思い悩む必要はない。
逆に、私が死ねば、そのとき私はいないのだから、やはり思い悩む必要はない。
それといっしょ。
いずれにしろ消滅が運命づけられている私には選択肢なんてなかった。
それに、こうも思える。
いずれにしろ――、長期的な視点に立てば、私の寿命は二百年? それとも三百年? よくわからないけれど式よりも遥かに寿命が短い妖獣では、いつかは式にスイッチしなければ、紫さまや藍さまとともに生きることは許されていないのだ。
私が、そうありたいと願うのなら、式も同じようにそう願っているのだろう。
術式は、一週間後に執り行なわれることになった。
式を微細に配線しなおすには、私の頭のなかにある式よりもさらに小さな式を作動させる必要があり、準備に時間がかかるらしい。
スイッチを三日後に控えたある日の昼。
私はいつものようにチルノたちと弾幕ごっこをして遊んでいた。チルノのパーフェクトフリーズを寸前で避けて、懐に入りこみ一撃を決めようと思っていた。
けれど、そこで奇妙なことが起きた。
懐に入ろうとした瞬間、私の体は動かなくなっていた。病気のせいで運動機能がおかしくなっているのだろうか。一瞬の隙ができてしまった。
そう思い、次の行動に移ろうとした。
まさにそのとき、だ。
私の体は自動的に動いていた。
まるで器械のように、
オートマチックに、
移動する。
風の動きを感じる。
私の体はまったくのタイムラグもなく、チルノの側面へとまわりこんで、弾幕を放っていた。得意そうな私の声が響くのを感じた。
一体何が起こっているのかわからず、私は全身が粟立つのを感じた。しかし、そう感じたのは私だけだったようで、私の格好をした私ではない誰かは春の陽気に照らされた肌の汗を、服のそででぬぐっていた。
私は悲鳴とも絶叫ともつかない声をあげようとしているのだが、体はまったく言うことを聞いてくれなかった。
どうしよう。
これほどの最悪な事態はない。私が恐れていたことが起きてしまった。
いつのまにか『式』が私の体を乗っ取ってしまった。私は自分の体にとじこめられてしまった。極小の世界。感じられる五感だけが私の小窓。けれど何も反応を返せないなら私は死んでいるのと同じだ。いまや私は腕をかくことも、尻尾をふにゃっとすることも、声をあげることすらできずに、完全に封じこめられている。
汗をかいて喉が渇いたのか、私の体はチルノたちといっしょにスイカを食べた。
目の前がまっくらになって、こんなにも動揺しているというのに、種を飛ばすときの感覚はいつもと同じ、スイカの水分が喉を通るときも、なにひとつ変わることはない。
ここにいたって、私は思考できることがこんなにも恐ろしい拷問だとは思わなかった。
指先ひとつ動かせない状態で、思いだけがギシギシと膨らんでいく。
それを、『彼女』はまったく気づいていない。
彼女は私の予定と同じどおり、つまりいつもと同じく藍さまのもとへ向かった。
藍さまは私と同じく彼女に優しい言葉をかけ、私と同じくそっと彼女を抱きしめていた。
どす黒い感情が私のなかに充満するのを感じる。
もしも何か行動することを許されたのなら、私は自分の喉を血が出るまでかきむしっていたかもしれない。
そこをどいて。
私だけが――許されているのに。
彼女はなんの躊躇も抱かずに、藍さまの尻尾でモフモフする。お決まりの気持ちの良い弾力のなかに身をうずめる感覚を受けて、私は彼女に殺意を抱く。
夕方。
私は一人になる。
家に帰ってきて、食事をつくり、それから夜になり布団の上で横になっている。
それから、頬のあたりに冷たい感触を感じた。
泣いているみたい。
私のほうは、狂乱状態から少し冷静さを取り戻していた。
冷静に考えると、スイッチがひとりで起こるなんてことはありえない。紫さまがナノサイズ(とっても小さいサイズらしい)の式を使って配線を組み替えることをスイッチというのであって、その作業はとても精密で外から自動的におこなうことは不可能だ。紫さまはその極細な式を私の体に侵入させていないし、そういう不意打ちめいたことをするのならば最初からやっている。わざわざ私に式にスイッチすることの意味について教える必要がない。
だとすると答えは一つしかない。
「式はどう思っているのかな」
彼女の声が聞こえてくる。私は昼間の殺意がまったくもって見当違いだったことに気づいた。
そう、私は式なんだ……。
藍さまの愛情も、尻尾のモフモフもすべて彼女のものであって、私のものじゃない。
おそらくは式内の<藍さま>に故障が起きたのだろう。式である私を生きた脳である私に真似させることができなくなって、私は私を認識するようになってしまった。
私がしてきたすべてのこと、私が口に出してきたこと、私が手を伸ばしてきたすべてのことは、そう思っていただけで、<藍さま>が私をそう思いこむように修正してきたからに過ぎない。
こんな気分になったのは生まれて始めてだった。
狂ったように笑いたいけれど、笑うことすら私には許されていない。
私はどうするべきなのだろう。時間はあと三日程度しか残されていない。スイッチがおこなわれる段階になれば、一時的に私が身体の制御を取り戻すことになるのはまちがいないだろう。そのとき、私と彼女の思考が一致していないことが紫さまに露見すれば、確実に私は修正される。
殺されるのは私。
いや――そんなことは<藍さま>が壊れるまでの間、ずっと行われていたことだから、いまさらそんなことを気にしてどうするのかと思いはするけれど。
運命の日が訪れたとき、私がもしも生きたいと願うのなら、彼女を真似ることだ。
微細な変化なら、紫さまだって気づかないだろう。
それとも私は自分が式であることを告白し、虚無の向こう側へと沈んでいくべきだろうか。本能的な部分で嫌だと思う私がいた。
その本能はまやかしだとわかっているし、その思考パターンも彼女からの借り物だと思うが、すでに私と彼女は別の存在で、私は私のアイデンティティを賭けて、ギリギリのところで生き残りたいと思った。
殺されなければ――
殺される。
私の敵は私だ。
天井のくすんだ色をした板は見慣れたものだった。
傍らに視線を移すと、藍さまが心配そうな顔で私を見つめていた。
私は腕を少し上にあげてみる。動く。きちんと動く。それだけのことなのに、私は涙が出そうになるほど嬉しかった。
スイッチは何事もなく行われた。彼女はすでにスイッチすると決めたときから覚悟を決めていたのだろう。
私はゆっくりと背を起こす。藍さまが手を貸してくれた。
「あ……」
と、小さな声が漏れた。
視線の先には紫さまがいつものように蝶が舞うような優雅さで、中空に浮いていた。
そして、空には、何もないところに、光る板のようないくつかの四角い窓があって、よくわからない文字列がものすごい勢いで流れていっている。
たぶん私を観察する魔法の一種。
全身から汗が吹き出るのを感じた。紫さまのゾッとするような視線が私を逐一観察している。こんなとき彼女ならどう考えるんだろう。にっこりと微笑んで挨拶するのが正解だろうか。それとも、その場から逃げ出すようにして藍さまの影に隠れるのが正しい反応だろうか。
そもそもそういった彼女の真似をしようとする思考すら、私と彼女の思考のズレを明確にしてしまう。
不可能だと思った。
私が紫さまを一秒だって騙せるはずがない。
今すぐにでもこの場から逃げ出して妖怪の山へと逃げこむというのはどうだろう。もしもこの場からの逃走がうまくいけば、不可侵の山への侵入は紫さまも躊躇なさるはずだ。けれど、そうなったら囚われの姫君を助ける勇者のように、藍さまが危険を顧みずに、私を殺しにやってくるだろう。
紫さまが、扇子を口元にあてて月のように柔らかく微笑む。
「ふむ……、気分はどうかしら。橙」
紫さまが私の名前を呼んだ。
もしかすると、生まれて始めて名前を呼ばれたかもしれない。
私はおそるおそる頷くことしかできなかった。
「まあ、あれだけ怖がっていたことですし、何も無いのが逆に怖いのかもしれませんわね」
「よかったな。橙。これで助かる」
「はい……、そうですね」
私は青白い顔をしていたかもしれない。
いったい紫さまは何をしているのだろう。私が式であることは明らかになったはず。すぐにでも私を拘束して、<藍さま>を再起動させ、私を抹殺するべきだ。それが彼女と紫さまとの約束だったはず。
しかし、紫さまはその後、私に対して一言もかけることなく、夜にはまた起きるとだけ藍さまに伝えると、奥まったところにある寝殿へと向かった。
よくわからない。
なにが起きているんだろう。
「どうした橙? 怖かったのか。でもおまえはおまえのままだ。なにも変わってはいない」
「私は私……」
藍さまに抱きしめられながら、私は魔法のようにうわごとを繰り返す。
そんな言葉にはもはや何の意味も無かった。
そして――
私は私を殺して私になった。
昨日のこと。
病魔に犯された脳みそはスキマの彼方へと廃棄された。そして生理的機能を代替する偽脳が据えられた。
何が起こったのか、はじめのうちはわからなかった。
紫さまに聞こうと何度思ったことか。
しかし、結局は私は私であることを望み、私が私でなくなることを恐れた。だから紫さまに『どうして私を殺さないのですか』と聞くことはできなかった。
今になって思えば、それは正しい行動だった。
どうして、紫さまが私が式であることを黙っていたのか。藍さまに告げることもなく私にも告げることもなく沈黙を通したのか。
もしも、紫さまが<藍さま>を再起動させることを選ぶとなると、スイッチのしなおしをおこなわければならない。そうなると、化け猫である橙は体を動かせなくなったトラウマをわめきちらし、二度とスイッチすることはないだろう。
そして、紫さまは私が生きることを望んでいた。おそらく最初から、そうだったのだろう。
久遠の時を生きる紫さまは、同じく永久に近しい時を生きる存在をこそ、傍らに置くことを望まれていた。
そのための式。
そのための素体として妖獣。
望まれていたのは『私』だったのだ。
もちろん、紫さまにとっても<藍さま>の故障はイレギュラーなことだったのだろう。紫さまは私を観察しながら、どういうふうに思ったのだろう。けれど、紫さまが藍さまに黙っている以上、私と紫さまは共犯関係にある。私が罪の意識に耐え切れなくなれば、紫さまの選択を無為にしてしまう。それで、私は一切を藍さまに告げなかった。
休養の期間は終わり、私はまた明日からマヨイガへ戻る。
ふと床の間に飾ってある勿忘草を見ると、花弁が枯れて茶色に染まっていた。
だから、私はその花を手のひらで握りつぶし、ゴミ箱のなかへと放りこんだ。
式と宝石の着想は面白いと思う。
後半がそのまま引っ張ってきただけなのはもう少しアレンジがあればとは思うので、
-20点で。
個人的にこういう話題は大好物なのでこの点で。
そして今一番読みたい話だった
二次でものすごくよく勘違いされてる設定…紫・藍と橙は普段は別居、紫・藍の住処は在所不明の紫の家、橙の住処は(恐らく)妖怪の山にあるマヨイガ…がちゃんと守られてたのも地味に良かった
ただ説明がちょっと回りくどすぎる気がした、それだけが-10点
有名小説のキャラの名前を東方キャラに変えただけなのと同じです。
オマージュやパロディにすらなってないような。
こういうので評価されるって、楽しいですか?
途中で読む気無くしたからなあ。