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「諏訪たん萌え萌え」
などと、その天狗はいうのである。
堂々たる偉丈夫である。神奈子さんよりさらに頭ひとつばかり高い長身で、痩躯ながらひきしまった肉を肘と膝の先にたくわえ、整った鼻筋には妖怪らしからぬ知性をたたえている。
その彼が、目を輝かせていうのだ。
「諏訪たん萌え萌え! 境内をちょこちょこ歩き回ってるお姿、鼻血ものです! いやー、悪いと思いつついつもたまにね、部下の千里眼で覗かせるんです。諏訪たん今なにしてるとか、実況させるんですよ! 見えないってのがまた、想像をかきたてるんですよねー」
堂々たる覗き宣言である。
「これでもこちら、先月山伏天狗の娘と祝言をあげたばかりでして」
げっそりした表情で、六波羅というその鴉天狗の肩に手をおいたのは、同じ鴉天狗であるところの文さんである。
「ええもう、これがもう可愛くて可愛くて! 女房は楚々としてね、気立てがよくって、首から下はボンッキュッボンッってなもので、そこの射命丸とは似ても似つかぬ」
「……潰しますよ」
「諏訪たんへの信仰は信仰。女房への愛は女房の愛。公私はきっちりわきまえております、ご安心ください!」
文さんの凄みもどこ吹く風、六波羅天狗は終始にこにこしている。天狗としての格は文さんと同等のはずだが、白狼天狗を大勢率いるという彼は、実質的にやや立場が上なのかもしれない。
「ああ、安心したよ。諏訪子がここにいないことにね」
本宮の上がり框に片膝立ちで座った神奈子さんが、こめかみをつまんで長く息を吐き出した。
「残念です、諏訪たんにお目にかかれず!」
「……とりあえず、たん、はやめろ今すぐに」
「はい、諏訪さまで」
おそるべき切り替えの早さ。きっぱり真面目な顔に戻って彼は神奈子さんの前にかしこまる。
「それで、どうなんだい。都合が悪いってんなら、無理に答えてもらわなくとも構わないが」
そういいながら、身を乗り出した神奈子さんからは、譲歩を許さない迫力があった。
「構いませんか?」
目を伏せた六波羅天狗が引き出したのは、私の肘から先より長そうな煙管である。
「ああ、いいよ」
「ありがとうございます」
彼が刻み煙草を詰めて火をつけ、長々と煙を吐き出すまで、私たちは黙っていた。ひと吹きした彼と神奈子さんの間に、私は袖にしまっていたものを置いた。
神奈子さんは平然としている。しかしよく見れば、後ろに控える早苗さんからは死角の首筋を、汗がつうとしたたった。器用なものである。
「おや、藁人形ですね」
興味深そうに、文さんがかがみこむ。朝露にたっぷり濡れた人形は、アリスさんが持っていたものより作りが荒く感じられた。胴の部分に、小指ほどもある太い釘がつき立っている。
「これで三度目なんだよ。別に文句をつけたいわけじゃないが、お前さんはお山の警備の現場担当なんだそうじゃないか、ちょっと話を聞きたいと思ってね」
神奈子さんの話を聞く六波羅天狗の隣で、文さんがじっと私の顔を見ていた。感情はわからないが、冷たくもない。不思議な瞳である。
「あの、外しましょうか?」
「いいんですよ、阿求さん。居てください」
文さんがいい、六波羅天狗もうなずく。神奈子さんに向き直って――彼はぱっと大きな手を広げた。
「いやさすがは八坂さま、隠し事はできませんね! 信仰は私、諏訪さまに捧げておりますが、八坂さまには毎度感服つかまつるばかりで」
「正直なのか、調子がいいのか、迷うやつだなあ」
「お見立てのとおりです。数日前、配下の者が西の谷にて侵入者の形跡を見つけました。そしてそれきり、発見できておりません」
またも劇的に顔を整え、かかとをそろえて彼はきりりと背筋を伸ばす。
「なるほど。どうも昨日から文たちが慌しいと思ったら」
「やっぱり、バレてましたか」
文さんが頭をかく。
「そりゃね。他の天狗も飛び回っているみたいだし。で、その侵入者とやらがこれ」あごを使って神奈子さんは藁人形をしめす。偉そうにみえるが、嫌がっているのは明白だ。「ウチの庭先で釘を打っている輩なのかい」
「わかりません。なにしろ、山へ侵入した痕跡はあれど、それ以来ぷつりと手がかりが途絶えているのです」
「こちらが報告を遅らせるから、大天狗さまがお怒りでしてねえ。おかげで私まで引っ張り出されまして。次の新聞の記事、ようやく仕上がるところだったのに」
文さんがやれやれと首を振る。
「言ってくれるな射命丸よ。一番怒られたのは俺なのだから。すぐ見つかると思っていたんだよ」
六波羅天狗は大きく肩をすくめた。
「現在は配下を総動員して、行方を捜させています。数十人の白狼天狗の監視をかいくぐるんですから、これは相当の力を持つ妖怪が相手とみていいでしょう」
「ふむ」
神奈子さんがぐるりと首を回し、私は藁人形を懐にしまい込んだ。
「話はわかった。もう行っていいよ」
煙管の灰を落とし、ではと六波羅天狗が頭を下げる。羽団扇を広げて、ふと顔を上げた。
「ところで、諏訪さまに一目」
「いいから帰れ。忙しいんだろ」
神奈子さんに睨まれ、彼はあわてて地を蹴る。続いて軽く会釈した文さんを、神奈子さんは呼びとめた。
「安心していい。今回のことは、山の妖怪や天狗の仕業だとは思っていないからさ。それにこんな悪戯程度のもの、我々が祓えばいいだけだ。ただ気になっただけなんだよ」
「それとなく、伝えておきます。上のものに」
含みのある笑みを浮かべてから、文さんはまた私を見た。それも一瞬、すぐに風が舞って地上から二人の天狗の影が消える。
「そんなことが起きていたんですね」
私の側へ早苗さんがやってくる。
「早苗に隠す気はなかったんだが、悪戯だと思っていたしね。それは今でも思っているが」
神奈子さんは腰を上げ、本宮の奥へ歩いていく。
「藁人形、こちらに来てからはじめて見ましたよ」
早苗さんは楽しげに頬をゆるませていた。
「外の世界にいたころは、たまに境内の木に刺さっていたものです。懐かしいなあ。名前が丸文字で書いてあったりしてね。ところでそれ、誰を呪ったものなんです?」
丸文字というのは、どこかの国の言語だろうか。
「さあて。ところで早苗さん、その外の世界についてお話うかがいたいのですが……」
私は返事をごまかした。あらためて念を押されてはいないが、一度約束したことだ。それに、守矢と山との関係は、考えていたほど楽天的なものではなさそうだと、気づきはじめていたこともある。
六波羅天狗は名を道春(どうしゅん)というらしい。
昨夜の言い合いの名残りか、朝餉の席では静かだった二柱も、ぶらり出かけた諏訪子さんが三番目の呪い人形を見つけて戻ってくると、活気づく。神奈子さんは怯え、諏訪子さんはまた藁人形を投げつけ、一騒ぎである。
ところが、落ち着きを取り戻した神奈子さんが、やおら言い放ったのである。
「天狗を呼ぼう。あいつらにバラそう」
どうした熱でもあるの、額に手をあてる諏訪子さんもかまわず、神奈子さんは私に手順をしめす。
やがて鳥居の前で待ち構える二柱のもとへ、私は駆け寄った。その朝みつかったばかりの藁人形を握りしめて。
「お二方、裏の杉の木にこんなものが!」
「むむむ、これは藁人形! おのれ神聖な神社でなんということを。これは戦争だね、神奈子!」
「ああ、私らに対する挑戦に違いない。やむを得ないね、諏訪子!」
そろいも揃って見事な大根芝居だったが、効果は覿面だった。私たちが社務所にたどりつくより早く、参道に風が吹いて、六波羅道春と射命丸文、二人の天狗が降り立ったのだから。
「山の妖怪に騒がれずに、そいつが八雲のような化け物でなくてもね――ウチの森で釘を打つ方法が、もうひとつあるんだ」
それは、呪いをかけたものが山の住人だった場合だと、そう告げた神奈子さんの瞳は冷ややかだった。
文さんたちが去り、私は書きものの手をとめて、客間のうすく開いた障子からのぞく冬の庭と、さしかけた梅の枝を眺める。蕾はまだ硬そうだ。その向こうに広がるは、幻想郷の空。
自然に溶け合ってみえるその風景は、人の尺度でもごく最近に、いわば力任せに一つにされたものなのだ。
外の世界から守矢が移ってきて一年と暫くになる。けれども妖怪の山は神奈子さんたちを、いまだ手放しで受け入れたわけではないのだろう。まだ距離がある。文さんたちが神速で現れたのが、何よりの証拠だ。
天狗や河童が白装束で釘を打っているのかはともかく、そう思われることは得策ではないと、文さんや道春さんの「上のもの」が考えたということなのだろう。単純にどちらの力が上、などという問題ではないだろうが……。
箒を持った早苗さんが独り、参道を横切っていくのを、私はじっと見送っていた。
「まあ、連中がやったとは思えんが、天狗たちがめざとく走り回ってくれれば犯人は見つかるかもしれん。丑の刻参りも諦めるかもしれん。ひとつ揺さぶってみるのさ」
試してみようよ、と意気込む神奈子さんとひきかえ、諏訪子さんは気が乗らないようだったが、反対はしなかった。
屋根から雪解けのしずくがしたたる。さて、と私は頬杖をやめて座りなおした。お茶を一口すすり、机に向かう。
呪いの件はさておき、私は私の仕事をしなくてはならない。
この数日の滞在のうち二柱から聞いた守矢についての情報を箇条書きする。早苗さんに蔵から出してもらった、神社で保存されてきた各種の文書や巻き物を調べ、縁起に載せる意義がありそうな話題を探す。
そのほとんどは歴代の神官たちの記した日誌であり、参拝した者の記帳であり、収支明細であり、祭事の段取りや手順を時代ごとに残した記録だったりした。それぞれ興味深いが、しばらく読みすすめて私はそれを閉じる。神奈子さんはほとんど、諏訪子さんにいたっては全くといっていいほどその名が出てこないからだ。
別の神の名はちらほら見えるが、どうもあまり熱の入った記述ではない。屈折した歴史を、私は予感している。
守矢が引っ越してきた騒動の折、かつて神奈子さんに「敗れた」ことがあると、そう諏訪子さんは話したという。そのあたりの資料を探すが、やはり見つからない。
「そろそろ、お昼にしませんか?」
早苗さんがふすま越しに声をかけ、私は相当の時間が過ぎていたことに気づく。
縁側を彼女のあとについていく。少し晴れ間がのぞいた境内は静まり返り、建物の影はゆるんだ雪の上で墨のようににじんでいる。
「記録はお役に立てました?」
「どれも面白いものではありますね。八坂さまたちは?」
「お二人とも、お姿が見えません。珍しいことじゃありませんから」
神出鬼没っていいますしね、と早苗さんは人懐こい笑顔を浮かべて食卓の横にしゃがみ、ご飯をよそってくれる。
「ところでどうです。こちらに来てしばらくになりますが、お友達はできましたか」
まるで幼子を扱うような物言いになったのは不本意だった。早苗さんは手をとめ、んー、と天井を見やる。
「天狗さんや河童さんや夜刀さんや……里の皆さんにもよくしていただきますし。あ、こっちにはまだ狼がいたんですね! なぜか私、懐かれるんですよね。って、こういうのは友達とはいいませんね」
早苗さんは肩をすくめる。
「いいんじゃないですか。博麗の巫女はどうも、愛想がよくないですし」
「霊夢さんとは、だいぶ親しくなれた気がします。友達……なのかな。そう思ってもらえてるのかな」
「同世代の女の子は、どうですか。外の世界とこちらでは、違います?」
「ワイルドですね」
私はたくあんを一切れかじる。わいるど。ほほう。
「この前、里に降りたら私くらいの女の人が猪の解体をやっていて。とっても手馴れているんですよ! 私もお魚くらいは出来るようになりましたけど、四つ足の獣は自信ありません。それからね、綺麗な人が本当に綺麗! 外の人たちとくらべるとお化粧っ気はないのに、自然に髪も肌もぴかぴかしていて、びっくりさせられますね。あと……」
堰を切ったように口の回る彼女をつまみに、昼餉をたのしむ。案外、こういう話題に飢えていたのかもしれない。
私のいることで彼女が寂しくないならと、そんな殊勝なことを少しだけ思った。
--6-----
午後いっぱい机に向かって、日が傾いて暗くなった部屋を出る。
おとといと同じ井戸端で空を見上げていると、諏訪子さんがいつの間にか横に立っていた。
数羽の鴉を率いて天狗が森を越えて飛び去り、がんばってるなー、と諏訪子さんは額に手をかざす。
「本当に、なんともないのですか?」
私と自分とに交互に目をやり、諏訪子さんは手のひらで青い衣の胸をとんとんと叩いた。
「呪いのこと? だいじょーぶさ。藁の人形に何本釘が打ち込まれても、私の体に穴があくわけじゃない。丑の刻参りのカミサマってのに私は会ったことはないが、神にもできることとできないことがある。どんなに強く願い、祈られたとしてもね」
呪いの神より、祟り神を束ねる諏訪子さんの方が上位ということだろうか。
「でも、気持ちのいいものじゃないでしょうに」
答えず、諏訪子さんは意味深な笑みを浮かべた。両足をそろえて、私のまわりをぴょこぴょこ跳ねてまわる。じろじろ見られる。
「なんです」
「もう洋服は着ないの」
「諏訪子さんまで……」
「でも、里の若いのが阿求のお洒落に入れ込んで、結婚申し込んだって話じゃん。よかったねえ。祝言はいつ?」
肺の空気を全部吐き出しそうになったが、我慢する。にやにや笑いを無視して、ことさら冷静な顔をつくった。
「神さまってのは、よっぽどおめでたい話が好きなんですね。知りませんでした」
「ああそうさ。泥玉があれば天と地に分かつし、連理の枝はくっつけたがる。もう本能だね」
すると我々は、神々の猫じゃらしに飛びつくような衝動で生まれたのだろうか。
「あのですね。禎太は稗田の家と前から付き合いのある、ただのあきんどですよ。歳もずっと上ですし」
「ねえ。御阿礼の子は、恋をしちゃいけないの?」
諏訪子さんは心底不思議そうに首を傾げていた。私はぽかんとしてしまう。そういうことは、たいてい分別のある者ならば、私の前で遠慮する質問だからだ。寺子屋の子らだって、もう少し気を使ってくれる。
「ええと、とにかく……。それにですね、彼は所帯持ちですよ。去年、お嫁さんをもらったばかりなんですから」
ささやかな式には、私も顔を出した。やはりまだ雪の残る初春だった。
「あーららら。そりゃ、神奈子の勘もあてにならないね。ま、なにか縁でもあったら、私らを頼っておくれよ。ご利益はずむよ?」
「別に、そんな気は」
「婚礼は神奈子、私はもっぱら性愛の担当だがね」
「せ、せいあ……」
いたいけな舌をぺろりと出して、なんてことを口にするのだ、この神さまは。
ぐったり疲れて、私は井戸のふちに座り込む。隣にぴょんと諏訪子さんが飛び乗ってきた。
「ねえ、神奈子と一緒にいて、どうだった?」
昨日のことだろう。
「そうですね。優しくしていただきました」
「なんだそりゃ」
愉快気に諏訪子さんが体を折り曲げる。見当はずれな返事をした自覚はあるので黙っている。
「優しい。そうか、優しいか」
ぶらんぶらんと足を振り、反動で頭を揺らしながら、諏訪子さんはしばらく口をつぐんでいた。
つめたい風が麓の方から吹き始める。太陽は雲にかくれたままだが、西の空は赤紫蘇を煮出したような色にしぶとく染まっている。
「神奈子はかつて、侵略者だった」
私は諏訪子さんを見た。
「愛する国を、私は奪われたの」
ひっくり返した帽子のくぼみに語りかけるようにして、彼女は続けた。
私はそっと腰を浮かせて座りなおす。井戸の蓋がきしんで、少し怖い。
「霊夢と魔理沙に、そのようなことを話したとか」
「だったかねえ。ま、いいさ。それで神奈子を恨んでいるわけじゃないし、当時も恨んだかどうか、おぼえてない」
「そうなんですか」
「ただしあれは戦争だった。巫女や魔法使いとの決闘とは違う。遺恨を残さないために決闘は行われるが、戦争は遺恨を押し付けあうものだ」
私は着物の裾を握り締め、でっぷり沈んでいく夕陽ともども、彼女の一語一句を正確に記憶すべく、意識を集中する。
「たとえどんな些細なことでも、傷つけられ奪われた方は、決してそれを忘れない。憎しみや恨みは、別のもので埋め合わせることができないんだ。人間の指導者の中には、恨みを持つものすべてを根絶やしにしようと図る者もいる。でも神奈子は、すべて受け入れた。この私さえも」
それは人の歴史である。轟音をたてて行き過ぎる権力の怪物の足元で、傷ついたものは己の乾かぬ傷跡を、ただ見つめつづける。
ところで、これはなんの冗談だろうか。
夕陽が沈んでいく光景など、見えるはずがないのだ。冬雲が垂れた静かな夕べはどこにもなかった。私と諏訪子さんは、見知らぬ荒地にいた。神社の建物も杉林もかき消え、なだらかな裸の丘が右から左に続いているばかり。じゃがいもの肌みたいにでこぼこした地面のあちこちに、うずくまり、転がり、うめき声を上げ、あるいは身じろぎひとつしないものたちは。
「神奈子はうまくやった。私の存在も利用して、くすぶる怨念を慰撫しようとした。信仰も、徐々に集まった。でもね、祭神として看板を背負えば、きっといろんな声がとどいたはず。何年も、何代も、消えぬ呪いのささやきが、神奈子の耳元で聞こえていたはずなの」
「だから、あんなに苦手にしてらっしゃるんでしょうか」
「さてね」
抱えた膝にまわした手にあごをのせて、諏訪子さんは周囲の変貌にもまるで気づく様子がない。私はよろよろと前に進んだ。熱気すら感じられるほど、沈みかけた太陽は巨大にかがやき、せりあがった大地と挟まれて、ひどく息苦しい。全身に汗がにじむ。この場の季節は、夏なのだろうか。
どさりと音を立て、私のつま先のすぐ前に投げ出されたのは人間の腕だ。節くれだち、泥と血にまみれて、それでも水をもとめる木の根のようにその五指はあがき、土を削りながら立ち上がろうとする。
私はおそるおそる、目線をあげていく。手首から肘、肘から肩と、わななく先にあるものを見極めるべく。振り乱した黒髪が見える。影になった顔からは、血とも汗とも油ともつかない黒ずんだ液体がしたたる。やがて無限の恨みのこもる眼が、私へと。
「よせ!」
大音声が私をつらぬいた。風の壁がどっと押し寄せ、思わず顔をそむけた先で、目を丸くして諏訪子さんが立ち上がる。
「ばか! 諏訪子!」
元通りの守矢の境内だ。日はほとんど落ちて群青の薄闇の中、雪に残った昼間の光が白くにじんでいる。その雪を踏みしめ、つかつかと私を追い抜いた神奈子さんは、腰に手をあてて諏訪子さんを見下ろした。
「か、神奈子?」
「気づいてなかったの?」
きょとんと首を縮めていた諏訪子さんだったが、私の顔を見てなにごとかさとったようだった。
「あ、そっか。なんか見えちゃった?」
「はい」私は向き合うニ柱のもとに歩いていく。「いったいなんでしょうか。戦のあとのように見えましたが」
「私の意識というか、無意識というか……。記憶そのままじゃないんだが。うっかり漏れ出しちゃったみたいだね、はは」
「笑い事じゃないよ」
神奈子さんはつめたく言い放ち、指先を諏訪子さんにつきつける。
「忘れたのかい! 阿求は、見たものを忘れることができないんだよ。死ぬまでね」
「あ……」
みるみる、諏訪子さんは青ざめた。劇的な変化だった。唇を噛み締め、倒れこむように駆け寄って、私の肘をつかんで包むように抱き寄せてくる。
「ごめんね。本当にごめん。いやなもの、見えなかった?」
「すまない阿求、私も……。死ぬまでなんて、思わず」
うってかわって、神奈子さんまでうち萎れてしまう。
夜の帳に冷気が集いつつあったが、ほかほかとしたものが腹腔から立ち上り、私はちょっとのぼせたようになっていた。何度か言葉を選び、ようやく二人をなだめにかかる。
「お二人とも、ちょっと過保護すぎますって。私とて十数年生きているんです。それなりの経験はしてきましたし、見たくないものだって見てきました。求聞持の能力とつきあうすべは、心得ているつもりです」
「でも……」
見事に、神奈子さんと諏訪子さんの声がそろった。
社務所に明かりがともる。
「ほら、早苗さんが夕餉の支度をはじめています。屋根のあるところに戻りましょう? 私も、顔を洗ってすぐ参りますから」
うなだれるニ柱の肩をぐいぐい押して、私はつとめて陽気な声を出した。何度か振り返りながら、神奈子さんと諏訪子さんが境内を横切っていく。
井戸端で、私は息をつく。垣間見た凄惨な光景と、ふくよかな感情が、双方から私を抱きとめていた。
とりあえず、水を汲もう。
ポンプの柄を握ったとたん、ぐいと大きな力で後ろに、いや斜め上に引っ張られた。
腰に手をまわされていると気づいたときには、私の足はすでに地を離れていた。屋根瓦、鳥居の柱、宵の口の黒い森。あっという間に、守矢の社がマッチ箱よりも小さくなっていく。
そう長くは飛んでいなかった。雪をかぶった峰を一つ越え二つ越え、ようやく我に返った私が振り向いて声をあげようとしたところで、今度はいきなり地面が迫ってくる。
あげかけた悲鳴は、口を押さえられた手のひらに跳ね返って消えた。
斜面に突き出した岩肌に激突する瞬間、ふわり風に持ち上げられ、私の草履はこの上なく優しく地面を踏んだ。
けれども膝に力が入らない。そのまま後ろに倒れ掛かるのを、しっかと抱きとめられる。また声が出かかり、口を押さえられた。
「すみません、どうか、どうかお静かに願います」
「文さん!」
私の前にまわった文さんは、眉をハの字にして笑いながら、立てた人差し指を唇に寄せた。
「手荒な真似をして本当に申し訳ありません。あまり人目につきたくなかったので過程をはぶいたんですが、驚かせてしまいましたよね」
「心臓が止まるかと」
思いました、がいえない。大きく深呼吸する。あの速度で飛んで文さんはよくも、息ができるものだ。
「さて、こっちです」
陰鬱な闇のこもる森の中を、文さんはさっさと歩き出す。
「ちょ、ちょっとちょっと」
「足元気をつけて」
なるほど尾根のように、細く切り立った岩の背を下っていくのである。一本歯の高下駄のくせに文さんの歩みは速く、私はついていくのに精一杯だった。
やがて文さんが立ち止まったのは、山の斜面が両側から落ちかかる、ちょっとした谷あいの一番奥まった場所だ。根雪と分厚い木々の階段に両側をふさがれている割に、谷の向かう先の見通しはよく、はるか下方には里の煮炊きの灯がぽつぽつ浮かび上がっている。
「見えますか。あそこ」
文さんが指差したのは、斜面のはじまる根元、崩れた板状の岩が重なりあっている場所だ。
「暗くて……」
「あそこに、小さな洞窟があります。奥に通じているわけじゃないから、岩の隙間といってもいいですが」
ぼんやりした暗がりに、文さんの瞳がきらりまたたく。もとは鳥でも夜目がきくんだな、と私はそんなどうでもいいことを考えていた。
「で、その洞窟に、なにかあるんですか」
「なにもありません」
「え?」
「今はね。見つけたときは、こんなものが」
文さんが手帳を取り出し開く。髪の束のようにみえる細い房が、そこに挟まれていた。
「藁ですね。……あっ」
「ええ。人形の材料でしょうね。よく見れば火を焚いたあともありました。ちょうど山の中腹ですから、麓から登ってきてここで一泊したんじゃないかしら」
淡々と述べる文さんの声に、雑駁な羽音が混じる。とっさに振り返った谷の出口に、背の高い影がすっくとそびえている。
「道春。どうだった?」
気づいていたらしく、文さんは落ち着き払っていた。
「思ったとおり、ここから上がっていったのだろう」のしのしと近づいてきた道春さんが私に目礼をくれる。「北の山尾根にかけて、木の枝が折れている箇所がいくつかあった。ただ雪が溶けかけて、足跡はわからん」
「そう。夜が明けたら哨戒天狗を何人か使って虱潰し、かしらね」
「そうするか。しかし、大胆にして巧みなヤツだな。飛べないのか飛ばないのかはわからんが、歩いて我々の懐にまで入り込むとは」
「いっそのこと、守矢の社近くの森にでも潜んで、待ち伏せてみてはいかがでしょう。呪いをかけにやってきたところを捕まえればいいのでは」
私が口をはさむと、文さんと道春さんは顔を見合わせた。ややあって、道春さんが頬の肉を引き伸ばしたようにして笑いだす。
「さすがは稗田殿! いや、そうしたいのは山々なのですが、大天狗の大半が反対しておるのです。神社の領分に入れば神社に任せておけ、ということらしいんですな。ところで、諏訪さまはおかわりなく」
いきなり話題を変えられて驚いた。諏訪子さんが呪われていることに気づかれたかと思ったが、道春さんは護謨のような柔らかい笑みをたたえたままである。
「ええ。お元気そうでしたよ」
「そうですか。いや、久方ぶりにお目にかかりたいなあ。頭なでなでしたいなあ。いや諏訪さまはね、われらの目でもなかなか見つけられんのですよ。朝一番に守矢神社を覗いてお姿を見られたら一日ハッピー! なんてまじないが流行っているくらいで」
「はあ」
腰からじゃらじゃら下げている小物、その中から緑に光る楕円形のものを、得意げに彼は指にかけて示す。よくみればそれは、早苗さんが髪につけている飾りによく似ていた。
「これ。お守りなんですよ、諏訪さまの。五つ限定で、天狗でもほかに持っているのは天魔さまくらいってシロモノでしてねえ」
天狗の頭領、なにをやっているのか。しかし守矢の方々もなかなか、手広くやっているようである。
「もう帰りなさいよ道春」文さんが呆れたように首を振る。「奥さん、待っているんでしょ。あとは私に任せて」
「おっとそうだった。すまんな文。妬いてくれるなよ」
「誰が妬きますか」
「今夜は特製シチューさ。稗田殿もこれにて、諏訪さまによろしく!」
どおんと彼は飛び立ち、やがて山鳴りが広大な山の斜面をつたっていく。まさに天狗囃子である。
「さ、阿求さんも、そろそろ。……阿求さん?」
文さんの呼びかける声を背に、横たわる倒木をえいやと私は乗り越えた。正面に黒々開いた口が、話にあった洞窟だろう。
「阿求さんたら。攫ってきておいてなんですが、守矢の方々が心配しますから」
ひと跳びで文さんが私の隣に立つ。頭を低くしてごそごそと、私は洞窟に身を差し入れた。
「どうせ暗くって、なにも見えないでしょ?」
確かに、中からみれば外の夜が大方明るく感じるくらいである。闇の中手探りして、私は岩肌に背をつけてかがみこむ。
「仕方ないですねえ」
いきなり、世界が光で満たされた。すぐに輝きは収束して、ゆらりと揺れる一筋の炎となる。どういう術なのか、枯れ枝の先に灯したそれを、文さんは私の前の土にさくりと立てた。
目が慣れるのを待ってあたりを見回す。焚火のあとはすぐ目についた。
「稗田の者は本当、好奇心の塊ですね」
私と差し向かいに、窮屈そうに座った文さんは、穏やかな目をしていた。さすがに気になってしまう。
「先代に会ったことがあるんですか?」
「ええ」
そして文さんはそれ以上いわない。なにかを待っているように、私には思えた。
「これは……」
火のついた枯れ枝を、私は手にとって焚火あとの地面に近づけた。黒く色の変わった土くれのそばに、砂のようにこぼれているものがある。指につけて手のひらでこすると、淡い線が引かれた。
明かりが弱いので色は判別できないが、これはおそらく。
「頬紅でしょうか」
「あと、白粉ですね。やはりお気づきになりましたか」
私の隣で、膝立ちになって文さんものぞきこんでいる。
「やはりって、文さんも気づいてたんですか」
「ええ、私とて女です。あの朴念仁の道春は気づかなかったようですがね」
文さんは私の手をとった。指についた砂混じりの化粧を、払い落としてくれる。
「丑の刻参りは顔も白く塗るんでしょうか。それなら白粉もわかりますが……」
「頬紅はささないでしょうね」火を吹き消して、文さんは洞窟に入り口に立つ。その上から、なかば霙のような細かい雪が降りかかる。「道春は巧みなどといいましたが、とんでもない。ここから麓にかけての谷あいには、くっきり足跡もありました。見つからなかったのは、ただの偶然ですよ。ここで一夜を明かしたのは、普通の人間の娘です。これは記者の勘ですね」
「あたっ」
洞窟を出ようとして岩の天井に頭をぶつけてしまう。文さんは手を差し伸べ、引っ張られた私は抱きとめられるように、彼女の胸に着地する。
「低く飛びますよ」
文さんのささやきが消える前に、もう体が浮き上がった感触があった。視界のてっぺんに墨の塊のような森と、雲のかたちが残る夜が流転する。血が頭にのぼる。たまらず目を閉じた。
「私ね、ずっとイライラしてるんです」
ばたばたと、文さんの声に混じるのは、彼女の巻いたマフラーがなびく音だろう。
今朝お目にかかったときには、もうあの場所は見つけていたんです。それからずっとモヤモヤ、イライラでした。だから阿求さんを呼びつけちゃいました。ええ、ごめんなさい」
頬にかかる雪がゆっくり溶けていく。吹き付ける風もなんのその、文さんはすらすら喋る。
「きっと無力な女なんです。それが、こわいこわい妖怪の山にずんずん入り込む。真夜中の山で、一人釘を打つ。そりゃ、山をあずかる天狗としてのプライドもありますよ? でも、そういうんじゃないんです。わからなくって、気持ち悪いんです。ただの女の身を、ここまで引き上げてくるものが」
「きっと、色恋沙汰でしょうね」
私はいった。やっと目をあけた。神奈子さんにされたように、私は文さんに抱きかかえられていた。高い空はまだ少し明るく、それは文さんの背後にたなびいていた。すっかり影に包まれて、かたちのいい鼻梁の奥で、文さんは不思議な目をしていた。どうしたわけか、私はまた地底の橋姫を思い出している。
『恋などと、容易く語るな』
彼女はいった。傷つけてしまったのかもしれないと、はじめて思った。
「ええ、ええ、まったく阿求さんの仰るとおり」
文さんの指が、頬をぬらした雪解け水をぬぐっていく。飛び越えた白樺の大木の向こうに、神社の明かりが見えた。
「丑の刻参りとくれば、妬み嫉みが定番です」
天狗の監視をくぐりぬけた娘――もちろん、少女かもしれないし母親かもしれないし、老婆かもしれないのだが、彼女はこの森の周辺に潜んでいるのかもしれない。中腹の洞窟のように、ひっそり火を焚いて、深夜を待っているのだろうか。
だんだん速度が落ちた。鳥居を見上げる短い石段に文さんは着地し、かるがると私を持ち上げ、上の段に座らせる。
「あ、文さん?」
どうしたことか、文さんはそのまま急な石段に私を押し付けるようにして、どんどんかがみこんでくるのである。
鼻先が触れ合う距離。額もくっつきそう。私の視界はすぐに文さんの顔の輪郭に閉じ込められてしまう。吐息がやわらかく上唇をくすぐる。
「ど、どどどうしたんで……」
「阿求さん。どうです、私と、身も心もひとつになってみませんか」
「……え。え?」
なにをいわれたのかわからない。文さんの唇がかすかに波打ち、彼女の匂いをはらんだ闇が、そっくり私を包み込もうとする。
――と。
「あっははははは。だめだだめだ。こりゃあだめだわ」
なにがなんだかわからない。私の上から飛びのいた文さんが、山桜の幹にしがみついて、天を仰いで大笑いしている。
文さんのいう「虱潰し」は夜が明けてからということだったが、夜のうちに天狗たちの意気込みが山に伝わったのか、翌朝早苗さんと神社の森を調べてみても、新たな呪いの痕跡は見あたらなかった。
朝食のあと、私は神奈子さんにお願いし、里へと下りた。数日ぶりの屋敷で興味津々につきまとってくる使用人たちを締め出し、自室にこもる。お茶を飲んだり書物をめくったり寝床をごろごろして、そのいずれにも集中できず、あれこれ思案したあげくに、日も傾いてから町へ出た。
やるべきことも行くべき場所も、あらかた決めている。それでも、からっ風の吹く往来を、私はわざと、ゆっくり歩いていった。
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川べりの草を一枚引き抜いて、笛の吹き方を教えてくれた。
水のような笑みをたたえて、取るに足らない話を聞いていてくれた。
光にみちみちた夏。
カッ、と澄んだ響きをあげ小刀の刃先が地面にとどく。柄を握った手がわずかに痺れる。
切り落とした藁束のくずを、焚き落とされた火に放り込む。しめった藁は端からじわじわと焦げていく。
喉の奥がひゅうひゅう鳴る。吐き出す息にこもる体温が惜しい。かわりに吸い込んだ外気は冷たさのあまり喉につっかえた。
最後の人形を壁際に置き、木の根にもたれて、黒砂糖のかけらを舐める。持ってきた材料はこれで尽きた。これを木に打ち付けて、それからどうしよう。
なにか変わるだろうか。
変わらなければ、どうしようか。
外へ出て、鴉の黒羽のごとく生い茂る、熊笹の葉に積もった雪をすくって口に含む。なかなか融けないのを無理して飲み込んだ。
広大で深々とした山間に夕陽が落ちていく。血だまりのような円周に、まるで手が届きそうだ。晴れていたのだと、はじめて気づいた。
どこか空恐ろしくなるような蒼天が、冬木立のてっぺんから覆いかぶさってくる。
ずっと見守られているのは、わかっていた。
知らぬ間に道がしめされ、岩がどけられ、枝が払われる。洞窟の入り口には食べ物まで置かれる。おそろしい天狗たちも邪魔しにこない。いくら山に不慣れだって、そんな都合のいい神徳などありえないと、誰にだってわかる。
それが彼女のくるしみを増すだけだということは、きっとわかってもらえないのだろう。
笹の葉を一枚ちぎり、唇に押し当てて思い切り吹く。ひょうひょうと哀れむように息は隙間から漏れるばかりである。結局一度だって、教わったとおりに鳴らせたことがない。
おかしなものだと思う。ただ一度きりの出会いだった。それで、なにもかもかなぐり捨ててしまえるほど、自分は向こう見ずな性格をしていただろうか。
心の横穴をふさぎ、一本槍の感情をつくる。姿をあらわさないのならば、それでもかまわない。淡々とやりとおすだけだと、決意する。その冷酷さだけが、体に力をくれる。
濡れた笹原をはだしで踏んで洞に戻る。湿した手のひらで顔をぬぐう。
頬骨の上に、紅の赤い粉をのせるとき、はるか遠ざかった人間の土地に置いてきた眼差しが、心をよぎった。穏やかな沈黙が精一杯ないたわりであると、そばにいるときは気づけなかった。
今もきっとそうなのだ。この手に残ったわずかばかりのぬくもりを、刻々と取りこぼしているのだろう。
それでいい、と思う。すべて流れ出して空っぽになればいい。そうすれば、透けてみえる感情もあるかもしれないのだから。
輝ける夏はあまりにも遠い。
暗がりにかがみこみ、こわばった髪を梳る彼女の姿は、かつての山の支配者にも似ていた。
--7-----
夢をみている。
私の夢は、大別すると二つになる。ある特定の日時の記憶を正確になぞるものか、ひどく曖昧な輪郭の崩れた印象が連続するものか、どちらかなのだ。
そしてどちらの夢も、眠りながらそれが夢であると、つねに私は自覚している。
周りの者に話すと、どうも私の夢は特殊らしいのだが、自覚できずによくわからない記憶が浮かぶなどと、怖くないのだろうかと、むしろ奇妙に思ったものだ。
さて、今回の夢は前者のようだ。二年前の師走、三日三晩つづいた雪がようやく晴れた朝の体験だ。間違いない。
どうしてなのか、何度かくりかえしてみる夢というのがあって、これもその一つだから、夢とわかったとたん、ああまたあれか、と私は気づいていた。
机に向かっていた私が、ふと立ち上がり、ふすまをあけて隣の間へ歩く。気心知れた女中の一人が控える部屋はもぬけの空だ。
そうそう、鏡台の二つ目の引き出し。そこをあけるのよね。わかってるわ。
取り出したのは、伏せた小さな椀。内側に塗られたあざやかな紅が目をさす。
吸血鬼の館ではスティック状に固めたものも使われていると聞くが、里ではこの種の艶紅が主流である。
夢の中の私は、耳をすませてあたりをうかがう。どさりどさりと、障子に影を残して屋根から雪が落ちる。私は鏡にかかった覆い布をめくり、紅の入った椀に、おっかなびっくり指をいれる。
持ち主が使ったばかりなのか、紅はまだ柔らかい。そっと指ですくいとり、しばし鏡の私をにらみつける。唇の真ん中に、おそるおそる押し付けた。
しばし、私は身じろぎもしない。鏡のうつす薄暗い天井の下で、唇の紅は枯れ枝にひとつ残った柿の実のように、浮いてみえた。
――それで満足すればよかったのに。
観察者の立場でひとりごちる。このあと待ち受けることまで、私は知っているからだ。
すると視界がぐらりと揺れだす。こんなのは記憶にないといぶかしんでいると、障子の向こうから声がかかる。
「すまないね、阿求」
間近に私を見おろすのは神奈子さんだ。客間の机に突っ伏したまま眠っていたらしい。
窓からみえる神社の境内は、とっぷり日が暮れている。
「さんざん里を歩き回って疲れたんだろう」
「あ、いえ。すみません、ご飯、呼びにきてくださったんですよね」
「そうなのよお。早苗ったら私の顔も見ずに『そろそろ呼んできてください』って、まったく神使いが荒いったら。いつからあんな子になったのかしら」
「幻想郷に来てからじゃないですか。なにしろ自分勝手な輩が多い」
「そうねえ。友達は選ばせないといけないわね」
ふくれっ面の神奈子さんだが、目は笑っている。
縁側に出ると、醤油の煮える香ばしいにおいが漂ってくる。
「寒鯉のいいのを河童がとどけてくれてね。肝までとれとれよ」
「おお、それは結構ですね。お酒は出ますか」
「あんたも、なにげに好きよね」
神奈子さんは猪口をくいとかたむける手つきをする。
鋭利な夜気が鼻腔の奥まで冷やす。水たまりの夜空には星があふれている。夜半すぎればきっとひどく冷え込むことだろう。
なんとなく自分の肩を抱いた。神社を囲む森は静まり返っている。しばしそちらを眺めていた神奈子さんが、居間に通じる障子に手をかける。
「ところでさっき、夢をみていただろう」
思わずくしゃみが出て袂で押さえる。人間以上に人間くさい顔をするな、この神は。いやな予感しかしない。
「なんです」
「寝言いってた。いやんばかんそんなとこさわらないでーっ、とか」
「最低ですね。ついでに嘘でしょう」
なにしろ夢の内容は覚えているのだから。からからと、まったく懲りない様子で神奈子さんは笑いながら指をくわえる。
「でも、夢をみたのは本当じゃないか? 指をくわえてさ、まるで赤ん坊みたいにさ。お乳を恋しがっているみたいにさ」
「えい」
「ぎゃああああ」
「なにやってるの。入ってきなよ」
袖にしまっていた藁人形をつきつけられた神奈子さんは、ちょうど内から引かれた障子の向こうに、背中から転がりこむ。
「まだ持ってたの! す、捨ててきなさい」
「えー。諏訪子さんがもう大丈夫だからって。後学のために」
「いいから、捨ててきなさい! 捨ててくるまで、お家に入れてあげませんよ!」
あ、なんだろうこの懐かしい感じは。
赤い顔で言い募る神奈子さんの隣で諏訪子さんが苦笑する。懐手に私は縁側を引き返す。
客間の行李の隅に藁人形を置くと、持っていた右手の親指と人差し指の股が、黒く汚れていた。
きっと火のそばで編んだのだろうから、藁の一部が焦げていたのかもしれない。
居間へゆく前に手を洗おうと、私は縁側を巡って台所へ向かった。
――あるいはもう、山から下りたかもしれないね。
夕方、里のはずれに迎えにきた神奈子さんは、山へ戻る道すがら私の話に耳を傾け、ぽつりとそういった。
私の記憶は、けっして色あせない。
貧しいながら精一杯ととのえた白無垢で、花嫁は笑っている。いつもは農具をひく馬は彼女をのせて、首を垂れてゆっくりあぜ道をゆく。とくに親しかったわけではないが、きっと普段から生活の機微をすべてを楽しんでいるのだろうと想像できるような、彼女の浮かべるのはそんなリラックスした笑みだった。
馬の手綱を握る禎太は、今日ばかりはぼさぼさの髪をととのえ、日に焼けた面長の顔にこちらはつつましい喜びと緊張を浮かべ、祝福する人垣にいちいち頭を下げながら、歩いていく。
誰がみても、いつか困難に見舞われても、きっとうまく噛み合っていけるだろうと、そう幸せに予想できるような眺めだった。
「……離縁してるね」
それなのに、どうしてなのか。
守矢の社に戻り、その足で本宮の裏手に出て私は諏訪子さんと会った。おずおずと切り出した私の頼みを聞き、しばらく眼をこらしていた彼女は、残念そうにつぶやいた。
里人の婚姻を感じ取った神奈子さんと同じように、別れの知らせもまた信仰する神のもとへ届けられるのではと私は考えたのである。
客間に戻りながら、私はひどく自分を蔑んだ。すでにわかっていたことを、神の力に頼ってまでたしかめただけなのだ。確信が得たければ、里で禎太をつかまえて尋ねればすむことだったのだ。麓近くで生きる猟師や樵、大店のご隠居に茶店の女将と、ほうぼうで話を聞きながら、私は彼の顔だけは見ずに逃げ帰ってきたのである。
「肝心の用件、忘れるところでした」
前の夜、さんざん笑い転げたあげく、不意に真顔になった文さんは、愛用の手帖のページを一枚ちぎり、私に差し出した。並んでいる数行の文字列は、人名だった。
「人里に近い天狗といわれる私だから得られた情報です。でもこれ以上調べるのは、妖怪の身ではさすがに難しい。ただの人間に山へ入られたというのもあまり大っぴらにしたくないことですしね。どうか協力願えないでしょうか」
それは、ここ数ヶ月の間に里で行方不明になった人間の一覧だという。誰に聞いたのかというような説明を文さんは続けていたが、そのとき私は完全に上の空だった。
比較的安全になったといわれる現代の幻想郷だが、多くの人間にとってまだまだ危険なことも多い。
たとえば、文さんのくれた一覧の最上段のご老体。彼は和菓子屋の隠居で大の釣り好き、二ヶ月前のある日釣竿をさげ家を出たまま行方知れずになった。なんでも、霧の湖に棲むという「ヌシ」を釣るなどと壮語していたらしい。彼の服の一部が先月、魔法の森近くの沼のたもとで見つかっている。するどい牙のようなもので布地が断ち切られていたと、茶のみ友達だった薬屋の店主は語った。
別の職人の若者は、雪の日に居酒屋で深酒をし、竹林の方角へ足跡を残して失踪していた。しかし自宅をたずねると、当の本人があらわれ、照れくさそうに事情を話してくれた。彼は翌日には里に戻っていた。雪の中で寝転がっていたのを、自警団の女性に助けられたという。文さんに話した者が、それを知らなかっただけらしい。
里の東西を行き来しながら、私はだんだん焦っていく。安否が判明して、不明者たちはつぎつぎ不明者でなくなっていく。ただ一人の名前が取り残されていくのだ。一覧の中でただ一人の女性名。
禎太のひく馬にのり、朗らかにほほ笑んで、そのまま彼のもとへ嫁入りしたはずの、花嫁が。
直接たしかめれば済むことだ。わかっていながら、なかなか足が向かない。ようやく二人が暮らすつましい家の前に立ったのは、日もだいぶ傾き、一覧の名前を彼女以外、すべて調べ終えたあとだった。
ささやかな庭に二列の畝が盛られ、青菜が弱弱しく雪に葉を揺らしている。
行商が主の禎太は留守のようで、黒板塀に囲われた内側はしんとして気配はない。神奈子さんと待ち合わせた時刻も近く、それを言い訳にして私はついに木戸を叩かず引き返す。
ところがはす向かいの家に住むという老婆が、私と知って話しかけてくる。こちらのご新造さんは、と私が聞きかけるのも折り込み済みとばかりに、並べ立てていく。たぶん、禎太の家の前に馬鹿みたいに突っ立っているところから、見られていたのだろう。
――正月が過ぎたころに、お嫁さんがひどい熱を出して。
――竹林の医者のところで診てもらって、一命はとりとめたけれど。
――子供を……諦めなきゃならなくなったとかで。
――お嫁さんはしばらく竹林で養生してから、ついこの前家に戻ってきたのだけれど。
――突然、姿をくらましてしまったらしいんですよ、お嫁さん。床の上に三行半を置いてね。
――それから旦那さんは、ずっと独りで。あちこち探し回っているらしいんですが。
「二人で手をつないで、ちょうどこの時分ですよ、家の周りを散歩してるんですよ。めおとというより、友達のようで、私ゃその姿をみるのが楽しみだったんですがねえ」
老婆はそう嘆息し、私は長い影を曳いて大通りを戻った。消息がつかみきれなかった名前は彼女のほかにも一人二人残った。あるいは、文さんが調べた以外にも不明者はいるかもしれない。
けれど私はずっと別のことを考えていた。つい先日、アリスさんの人形劇のところで会った禎太は、そんなことを匂わせもしなかった。記憶の中の花嫁はずっと笑っている。老婆が訥々と述べたことと、私の中でなにひとつ結びつかない。すべてのパーツはでたらめに明滅する。まるで私をからかうように。
イライラして堪らない。これが、子供ということなのだろうか。
神奈子さんと合流するころには、苛立ちはすっかり冷めて、ただうつろな疑問だけが、私の心にぽかりと空洞を穿っていた。
色あせない記憶。
あの日の花嫁は、今何処でどんなことを考えているのだろうか。
--8-----
宴もたけなわ、である。
身も心もひとつに、なんてねえ。センスの欠片もない――。
さんざん笑って息を吐き出して、文さんはもうかすれ声だ。
「だから、その話はもういいじゃないですか」
本当だよ、文。そんな体たらくじゃ、大事な阿求はやれないね。
神奈子さんも体を折って、苦しそうだ。
「私はここの娘ですか。だから、もう」
え? え? それからどうしたんです?
焼きおにぎりを頬張りながら早苗さんが膝を乗り出す。苦肝を除いた鯉の内臓を刻みこんだ醤油で炙ったものだ。幻想郷に来るまではあまり和食は得意でなかったという話だが、見事なものである。いや、そうじゃなくて。
「早苗さんまで、どうかまぜっかえさないで……」
にししししししししし。
納豆が糸ひく粘っこさでずっと笑い続けている諏訪子さん。小さな手を握って、さっきから何故か私のお尻をぐいぐい押してくる。酔っ払い自重しろ。
「自重しろ。あっ言っちゃった」
夜がふけていく。障子に影がゆれる。料理はどんどんはけていく。
鯉こく、洗い、唐揚げ、皮の酢味噌和え。皿を並べて、さあ食べようかというところで慌しく乱入してきたのは文さんだった。
ひとまず今日の「虱潰し」は空振りに終わったらしい。丸一日飛び回ってくたびれましたー、と畳に突っ伏す彼女を、二柱はこころよく御馳走に誘った。諏訪子さんが手伝って料理を追加し、お酒の余分は最初からそのつもりだったのか、文さんが持ち込んでいた。
火鉢の炭が、隙間風にあおられてごおおと猛る。
「しっかし、口説き文句なんて考えたの、七十年ぶりだったわねー」
猪口を片手に、文さんがやっと笑いやむ。その七十年前になにがあったのか聞きたいところだが、きっとはぐらかして答えてはくれないだろう。
二本目のお酒の空瓶がころがったところで、文さんが先日の私とのことをぺらぺら喋りだしたのである。というか、厠に行って戻ったらもう大盛り上がりで、手のつけようがなかった。
「今宵は暴露合戦か。なら別にいいかな」
揚げた鯉の皮をかりかり齧って、諏訪子さんがぺろりと上唇を舐める。
「んで、神奈子。あんたはまだ、藁人形が怖いわけなのよね」
「わ、諏訪子! 早苗がみてるのに」
「んー怖い? なんですか? ひょっとして特ダネですかあ?」
赤くなった目じりを垂れ下げて、文さんがにぱあと笑う。
「ん。つぅかこちら、呪い全般ダメダメでね。だから今回の犯人、はやくとっつかまえて欲しいわけ」
「へえ~♪」
身を乗り出して神奈子さんが諏訪子さんを黙らせようとするのに、記事にしちゃおうかなー、と文さんは楽しげに手帖を取り出しにかかる。
「うふふふふ」
三者三様でぴたりと身動きをとめたのは、早苗さんが笑い出したからだ。
「なんだ、そうだったんですか。神奈子さま。そうだったんだ……」
「さ、早苗?」
毛足の長いセーターの袖に頬をうずめ、くふくふと赤い頬に笑みをこぼし、早苗さんは猪口をあおる。
「神奈子さま可愛いな。可愛いな神奈子さま」
「ちょ、ちょっと諏訪子」
「ああ、あんまり見たことない酔い方だねえ。早苗、大丈夫?」
「わーん」
いきなり、早苗さんがすがりついたのは私の膝である。びっくりして猪口を落としそうになった。
「だからこのところ、皆さんでこそこそしてたんですね。阿求さんまで! どうして私だけ仲間はずれにするんですかあ。どうして……」
着物の膝がじわりと濡れる。
「ありゃ。そんなつもりはなかったんだが。ごめんよ早苗」
手で腰を浮かせ、ずりずりと寄ってきた神奈子さんが、ゆっくり早苗さんの背をなでる。
しばし、唇をとがらせていた文さんが、ばちんと音を立てて手帖を閉じた。
日付けのかわる頃合には、一尾の大きな鯉は人妖、神あわせて五つの胃袋に綺麗に片付いた。いささか飲みすぎたかもしれない。
縁側に立っていると、いよいよ凄みを増した星空が迫る。一筋二筋、また星が流れる。
予想通り、きびしい寒気が隙間なく地表に敷き詰められている。
とす、と障子のしまる音。
「早苗、寝ちゃった」
近寄ってきた諏訪子さんが、おお寒い、と首をすくめた。私をはさんで反対側に神奈子さんがのっそり立つ。
「久しぶりに、湖に御神渡りが出来そうだね」
「渡ってきなよ、神奈子。義務だろ」
「嫌よ、この寒いのに」
「なんというか、罰当たりな神さまだね、あんたは」
諏訪子さんがため息をつく。庭の水たまりはきんと凍り、くもの巣のようにひび割れている。
「夜目がきくやつらが今も探してます。もうじき見つかるでしょう」
屋根からひょいと飛び降りてきた文さんが、しげしげと私を見上げる。
「ええ。……心配していたわけではありません」
半分は嘘ではなかった。私はただ、わからないのだ。
白い息を吐きながら、私たちはそのまましばらくじっとしていた。言葉もなく、同じものを見ているように思えた。
「山を下りているといいね」
神奈子さんがいう。いい夜だが、人間には辛い、と。神奈子さんの組んだ腕に寄り添った諏訪子さんが、甘えるように流し目をおくる。
「呪いなんて不要だって、まだ思ってる?」
「もちろんさ。でなきゃ、こんなことにはなってない」
きっぱりとしていたが、いつかのように強い声ではなかった。それから神奈子さんは私の背にあわせるようにかがみこみ、全員を見やって声をひそめる。つられて円座のように、文さんも諏訪子さんも顔を近づける。
「たのみがあるんだが。もし見つかったら、それが阿求の話した娘なら、あとは万事私に任せてくれないか」
私以外の二人は、それぞれ複雑な顔をした。やがて小さくうなずいた諏訪子さんの向かいで、文さんは眉を寄せている。
「文。立場はわかるが」
「ああ、いやいや。反対ではないのです。どうせ神社近くで見つかれば、手出しはしない方針ですからね。ちょっと気がかりがあるだけで」
大げさに手を振る文さんに、二柱は首を傾げる。お茶でも飲みますか、といそいそと文さんは障子を引きあける。
毛布をかけられて寝息をたてる早苗さんの横に座した。
「しかしねえ阿求さん。蒸し返しますが」火鉢にのせた五徳にかけた鉄瓶を取り上げ、立ちのぼる湯気越しに文さんはにやにやする。「一つだけ教えておきますよ」
「なんです、文さん。あんまり大きな声は」
早苗さんの横顔を眺めて顔をあげると、まさに目と鼻の先に文さんがいた。神社の石段に押し付けられた、あの距離だ。
「! ……あ、の」
おおモーレツ、と急須に茶葉を入れながら諏訪子さんが感心している。すぐに離れた文さんはなにくわぬ様子で鉄瓶を傾けた。
「こんなふうにされたらですね。――ま、相手が嫌いでなかったらですが。素敵で可愛いオンナノコの礼儀としては、目を閉じるものなんですよ?」
「なんだ文。お前、そんなことまでやったのか」
神奈子さんがたのしげに身を揺する。白磁の湯のみ椀が、つぎつぎ翡翠色の液体で満たされていく。
私は無性に悔しくなった。こんなことは、生まれてはじめてだ。
「阿求さんが色恋なんていうから、からかいたくなったんですよ。でも、ぱっちりお目目で見つめられるから、私こそどうしようかと」
「阿求も大概だねえ」
はは、と諏訪子さんがこぼして、ぷつんと思考が真っさらになる。
「馬鹿にしないでください! 私だって――」
はっとして口を押さえた。なにを言い掛けたんだ、私は。
あわてて下を見ると、さいわい早苗さんは同じ姿勢で目を閉じたままた。
「……夢の話、しておやりよ」
部屋がしんと静まった。立て膝に横たえた腕にあごをのせて、神奈子さんはしんねり私を見つめている。
「な、なんで今そんな話が出てくるんです。関係ないじゃないですか」
「いいや、あるね」
あまりにはっきり否定されて、私は口ごもる。
「どんな夢なの」
穏やかに、諏訪子さんは湯のみを傾けた。文さんはそっと鉄瓶を火鉢に下ろす。つややかな唇に、神奈子さんは薬指をあてて目じりを緩めた。
「さっき、こうやって寝ていたよ。阿求は」
「そ、そうですとも。ええ、お母さんのお乳にしゃぶりつく夢でした。それでいいでしょう」
ヘタクソな嘘もあったものだが、馬鹿にされても本当のことを隠したいと、なぜか思ってしまったのである。
「この指はね」ふくよかな唇のおもてを指の腹ですべらせ、神奈子さんはほほ笑んだ。「別名紅指し指ともいうんだ。知らなかったか? だとしたら、他の者が紅をさすところを見て覚えていたんだろうね、阿求」
自分の薬指を唇に押し当てて、文さんはしきりにうなずいている。
乾いた喉に、私はまだ熱いお茶を強引に流し込んだ。かっかと笑って、神奈子さんは大仰に肩をすくめてみせる。
「違うんだ、阿求。からかおうってんじゃない。ただきかせてほしいだけなんだ」
「なにを、ですか」
「お前がね、ただの子供でも知ったかぶりでもない、一人前の娘だってことをさ」
横座りした文さんが艶っぽい目つきをする。
「お願いしますよ。阿求さんが聞かせてくれたら、お返しに私の八十年前のコイバナ、話してあげますから」
それは少しききたい。でも、さっきは七十年といってなかっただろうか。
「お、いいね文! その意気やよし。さあさあ、まずは阿求だ。まだ夜は長いよ?」
神奈子さんがぱちぱち手を叩く。こうなれば自棄である。まだ宴会は続いていると思い込もう。
「言っておきますけどね。本当に変哲もないただの昔話なんですからね――」
そう、私にとってそれは夢などではない。ともすれば勝手に秘めたる願望を映し出したりするものではないのだ。
私は腹をきめる。早口で、神奈子さんに起こされたところまでみていた内容を、まずざっと語る。
――そしてそれから。
唇にのせた紅は、鏡に貼り付いた染みみたいに場違いで、いつまでも馴染まない。いーっと口角を引っ張っても、むにむにと口をあわせてみても、無駄な抵抗だ。
だんだん私は腹がたってくる。ひどく幼稚な落胆にとことん打ちのめされる。こんなものがあるからいけないんだと八つ当たりする。口紅をさせば妖怪に狙われやすくなるとか、腹いせに縁起に書いてやろうかしら。そんなことまで考える始末だ。
大きくため息をつき、指を拭いて、紅の椀をしまう。鏡に布をかけて、唇もぬぐってしまおうとして、私は冬日の照らす畳のうつくしさにそれを忘れたのだ。
雀がしきりに庭で鳴くから、誰もいないのだと思い込んでいたこともある。
障子をからりとあけると、裏木戸の前でしゃがんでいた人影がゆっくり立ち上がった。
手についた雑穀の粉を払い、足元に集った小鳥たちを迂回して、縁側の靴脱ぎ石の手前に立った禎太は、一度深く首を垂れる。
忘れていたのだ。週に一度、彼が日用品や茶菓子の補充にやってくる日だったことを。
馴染みなんだから遠慮するなというのを、かならず表で案内を乞い、庭先に通されても使用人が迎えるまではじっと控えているのだということを。
とっさに障子の影に隠れようとして、それじゃただの子供だと、私は踏みとどまる。唇を巻き込むようにして、袖で口元を隠したから、きっと気づかれてはいないだろう。
重そうな背負子をかつぎ、禎太は細面に柔らかい笑みを浮かべたままである。
誰ぞ呼んできましょうか、と平静を装い引っ込もうとした私を、めずらしくはっきりした声が呼び止める。
阿求さま、と。
おそるおそる振り返る私に、少しかがみこんで禎太はいった。
「とてもお似合いですよ、阿求さま」
筋張った手を口に添えて、ささやくように。
そんな夢を何度かみている、と結ぶと、聞き入っていた女神二人と天狗はなぜか、出来の悪い石像みたいにぼけっと固まっている。
火鉢の火が弱まり、部屋の四隅から寒さが迫ってくる。丑三つ時を過ぎたろうか。
やわやわと私の体をつたうものがある。眠っているとばかり思っていた早苗さんが、私の膝、腰、胸とやわらかな指を這わせて起き上がる。とろんと座った目つきが怖い。と思っているうちに、背中からしなだれかかられてしまった。
「いい思い出ですね。それは、実際あったことなんですよね」
「ええ。どうしてくりかえして夢にみるかは、わからないんですが」
神奈子さんがぐう、と妙な声を出す。
「その方はお元気なのですか」
「去年、結婚しました」
「そうですか」
別れたことはだまっていた。首元に巻きついた早苗さんの手は存外力強い。私の襟元に顔をうずめて鼻を鳴らす。はて、ひょっとして泣いているのか。なぜ、彼女が。
「阿求さん」
きまり悪いような、言い出しかねているような、殊勝な顔をした文さんが、畳においた私の手をとる。それで黙っているのだから、まったく彼女らしくもない。
諏訪子さんは火箸で炭をひっくり返している。神奈子さんはとみれば、酒瓶の底に指三本分ばかり残っていたのを、ラッパのみに干して口をぬぐった。
「わかったよ、阿求。なるほどあんたは、見たものを忘れない」
その目には妙な力がある。
「それは、ご存知かと思いましたが」
「人間も妖怪も、神にしたって、普通は刻々と忘れていく。忘れたくない記憶があったら、何度も追想するか、日記にでもしたためてこころに刻むしかない」
「そうですね。そのぶんの時間を別につかえるのは便利です」
「そう。阿求はなんだって忘れない。あんたにとって大切なことも、そうでもないこともね。……あのね、さっきの話の逆だけど、忘れないからそれは大切な記憶、って図式もあてはまるんだよ。むしろ私らにとってはそっちが自然なことかもね」
手をとめた諏訪子さんが、火箸を灰にさして神奈子さんを見やる。
「でも、私にだって大事な過去はあります。なんでも平均化しているわけじゃないですよ」
「そうだね。それは阿求自身、大事なことだと思っているからだろう」
「ええ。正直忘れたくって困るのに、何度も思い出してしまうような記憶もありますしね」
愛想笑いをうかべてしまう。誤魔化そうとする自分がいやになる。核心に近づく神奈子さんを、どうにか押し留めたくて必死なのである。核心がなにか、わかっていないのにだ。
「水がひいて残る岩みたいに、忘却に逆らう事物はそいつにとっての大事ってことだ。それが人なら、大切な相手ってことだ。どうしてそれが大切なのかわからず、あとになってから自分の気持ちに気づく、なんてことも珍しくない。阿求」
残る片手を神奈子さんに握られ、私は自分が震えていたことに気づいた。右半身に諏訪子さんも寄り添い、四方から人と神と天狗にすっぽり抱きかかえられてしまう。
「大丈夫だ、阿求。たとえ記憶が同じような顔して並んでいたって、あんたはきっとその中から大切なものを選び取る。かならずできるさ」
「同情されるのは、きらいです」
それはまるで私の声じゃないみたいだった。
「同情なんかじゃない。あんたのことが好きなんだよ」
神奈子さんの肉感豊かな肩に頬をあずけて、私は目を閉じた。
喪失感はない。悲しくもない。
ただ動物の本能みたいに、今感じているぬくもりを手放してはいけないと訴える感情に、素直にしたがっている。
今はわからなくてもいいのだ。
神奈子さんのいうとおり、後からそれが大切なことだと、理解できるかもしれないのだから。
どのくらい、五人でそうやって固まっていたことだろう。
にわかに、外に面した障子に突風がぶちあたる。ガタンとひずむ家鳴りの中に、聞きなれた音を私は拾い出す。文さんは先に気づいたようで、さっと立ち上がり縁側へ走る。
文さんが手をかけるより早く障子は向こうから開かれた。私は目を見張る。見たこともないほどくたびれきった様子の道春さんが、縁側に立っていたからだ。
--9-----
山に入った娘――禎太のもとを去った妻である彼女を、当初から道春さんはつかず離れず見張っていた。
すぐに追い返すつもりだったが、どうもただならぬ様子に、なにをするつもりか見極めることにしたのである。
新妻に打ち明け協力をもとめた。彼女は山伏天狗であり、法術全般の知識に長けていた。身を隠す呪力をこめた札を用意してもらい、娘に先回りして貼り、またすみやかに回収する。娘の野宿した洞窟の前には食べ物までも置いた。気づかれていると知らせることで、引き返させようとしたのである。
しかし彼女はあきらめず、たゆまず山を登り、やがて神社の森で釘を響かせはじめる。山の住人たちもどうもおかしいと気づき始める。守矢の二柱も当然動きだす。
頃合と考えた。気の済むまでやらせてやりたかったが、ことが大きくなりすぎるのはまずい。いよいよ姿を現し、力任せに連れ去ってでも山から下ろそうとした。
その矢先に、娘はねぐらにしていた木の洞から、姿をくらました。
「いつも寒そうにしていた。山に入るには、あまりに薄着だった。この一両日は仲間の目もあり、食べるものを差し入れることもできていない。……あの子は病み上がりだった。もっと早く追い返しておくべきだった」
苦しげに吐き出し、大男の天狗は膝を正して深く頭をさげた。どうか助けて欲しい、と。
夜明けの森を連れ立ってゆく。遠く鳥居の朱がわかるくらいには空も白んでいるが、木々のつくる闇は音すら吸い込まれるように深い。
「なるほど、道理で見つからないわけです」
先頭の文さんが二の腕をこすりながら苦笑いする。
「うすうす、手引きするものがいるだろうと思っていましたが。阿求さんに動いてもらえばぼろを出すかと考えたんですが、道春。あんただったとはね」
里をうろうろする私を、どうやら文さんはしっかり見張っていたようである。
「すまん」
かくりと道春さんは力なくうつむく。
「いいわよ。それより、どうしてその人間に肩入れしたのか、教えてくれる?」
私も聞き耳をたてる。とるものもとりあえず神社を出てきて、まだそこを聞いていない。
「何年前だったか。あの娘がちょうど今の稗田殿」火の入れていない煙管をくわえていた道春さんが、その先を私に向ける。「そのくらいの背丈だったと思う。薬草をとりにきたとかで、沢の近くで足を痛めて動けずにいるところに行き会った。里と取り決めた境界線に近い場所だったから、手当てをしてさっさと帰すつもりだったが、娘は俺と話したがった。薬草を一緒に探してやり、夕方になりようやく娘は帰っていった。それだけだよ」
彫りの深い顔には疲労がにじんでいる。見るやすみれ色のにじむ稜線から、星がどんどん引き上げていく。空と森が分かれていく。
「その娘、それからも何度も麓にやってきただろう。同じ沢のたもとに立っていただろう。山の方をじっと見ていたりしただろう」
「なぜ、お分かりになります」
ぎょっとして目をむいた道春さんは諏訪子さんに詰め寄る。まだ幻想郷にいらしてなかったじゃないですか、と。
「それで、一度くらいは会ってやったのかい。その娘にさあ」
交差して垂れ下がる下枝に積もった雪を落とし、神奈子さんがいう。
「まさか。しかし私とて千年を生きる天狗。男女の機微はわかりますとも。こういうとき、どうすればいいのかということも」
昂然と胸を張る道春さん。神奈子さんが鼻を鳴らす。
「ほほう」
「うぬぼれるわけではありませんが、娘が私に懸想していたのは間違いないと」
「ほうほう。それでおまえはなにをしたんだ」
「当時すでに婚約しておりましたから、今の女房を連れて、娘の目につくように森の上を飛んだり、川で涼んでみたり。手をつないでね、ことさらイチャイチャと……正直、心苦しかった!」
「この、阿呆……」
わなわなと、神奈子さんが手をふるわせる。
「止まって」
なだらかな斜面に落ちかかる手前、低木の藪のところで諏訪子さんが低い声で私たちを制した。
「来るのかい? 丑の刻参りって時刻じゃないが」
「まだわからない。少しここで待とう」
神奈子さんに答えて、やれやれと諏訪子さんが腰を下ろす。おのずと全員が車座のようなかたちでしゃがみこむ。
「コイツはまずいですかね」
長煙管を手でもてあそぶ道春さんが、神奈子さんにうかがう。
「煙が出る。我慢しとけ」
「はい」
素直にしまいこみながら、彼は乱れ気味の髪をばりばりかきむしった。
「反省はして、おるのです。だからあの人間の娘がすることを、黙認していたかった……」
その一言で、私はひらめくものがあった。漠然と感じていた意識の段差が、一段ずれこむように、おさまった。
「そうか。呪われていたのはあなただったんですね。諏訪子さんではなく」
目を丸くしたのは当の諏訪子さんである。「当然でしょう。恨まれるべきは私です、なぜ諏訪さまが」と道春さんはたくましい腕を組んで憤然とまくしたてる。
「あ、そっか。あんた私のお守り持ってるね?」
手のひらをぴたりあわせて諏訪子さんがいう。じゃらりと道春さんの袂から取り出された蛙のお守りを、おーこれこれ、と彼女は指でさすった。
「なるほど。あんたの私への信仰はまずまずホンモノってことか」
「どういうことです?」
文さんが膝を崩す。
「私のことを信じてくれて、お守りを持っているから。あんたにかかる呪いを、私が肩代わりするようになっていたんだよ。なるほどなるほど。道理で私への怨念を探してもなにもみつからないわけだ。いや気づかなかったよ」
神奈子さんに遠慮なくよりかかり、諏訪子さんは満足そうに破顔した。
「ご存知なかったんですか」
「うん。まあ、呪われてるなー、ってことぐらいしかわかんないの」
我々凡百の身には理解しがたいアバウトさである。
「最初、私の名をつぶやきながら釘を打っていたから、呪われているのはわが身だけだと……。これは諏訪さまには、とんだご迷惑を」
「気にしない気にしない」
這い蹲る道春さんの頭巾を、諏訪子さんがぺしぺし叩く。
「阿求は、どうして気づいたのさ?」
神奈子さんが諏訪子さんを抱きかかえたまま、ぐいと顔を近づけてきた。
「諏訪子さんが呪われる理由がないことがひとつ。ですが、今思うに先日の藁人形ですよ。持っている手に、わずかに灰のようなものがついていたのです」
「ふむふむ」
文さん、反射的にメモをとりはじめる。
「最初は焚き火のそばで編んだからどこか焦げたのか……とも思いましたが、しばらく持ち歩いて手が汚れたのは、それがはじめてなんですよね。おそらく、人形の内側に入れられていたものがゆっくり外に漏れ出てきたのです。あの藁人形、中に髪の毛や対象の名前を書いた紙などは入っていなかったんですよね?」
諏訪子さんがうなずく。
「そしてもうひとつ。手を鼻に近づけたら、独特のにおいがしました。煙草好きの店主がいる店先で感じる、あれです」
私が指差すと、全員の視線をうけた道春さんは目を白黒させた。
「きっとそれです。煙管から落ちた灰」
彼はあわてて愛用らしい長煙管を抜き、上下にこねくりまわしてまじまじと眺めた。
「あなたの痕跡を、丹念に拾い集めていたのでしょうね」
「……そうか。そうだったのか」
道春さんは目を伏せた。
木々の根の上に遠い朝日が照りはじめる。吐き出す息は乳白ににごり、このままでは襟巻きに霜が下りるのではと思わせる。
「きっと、あなたを不幸にしたい、というつもりじゃなかったんだと思いますよ。呪いと相手をつなげる材料としては、煙管の灰なんて、あまりに関連が薄い」
ゆっくりと道春さんは顔をあげた。男らしい面立ちが細かく震え、いろいろと情けない有様になっている。
「かといって、今さらあなたを是が非でも手に入れたい、種族の違いを跨いでも添い遂げたい、ということでもないはずです」
文さんも、二柱もだまって私をみている。全員寒さで鼻先をあからめ、藪の根元で寄り添っている。私は緊張していた。未知の冒険に乗り出す気分なのだ。けれど水草のようにゆらゆらした根拠でも、私は言い切ってみせたかった。
誰もいない禎太の家の庭先を思い出していた。なにがあったにせよ、一度は愛に近い感情で、あの二人はお互いの手をとったはずだと、信じたかった。
「彼女はただ、会いたいだけなのです。一目会って、一言声を交わして。きっとそれだけの未練なのです。……私は、そう思います」
ほう、と二柱はうなるように声をそろえた。文さんはふーっ、と長い息を吐き出し、口元をぴくりとほころばせた。この場の唯一の男性は、いささか得心がいかない様子ながら、静かな瞳で私を見つめていた。
「身をかがめて」
張り詰めた声で、藪の向こうをうかがって諏訪子さんが手を振った。即座に緊張して私たちは肩をくっつけあう。
「おあつらえ向きにこの木は柊だ。そうそう見つかりはしないだろうが」
彼女は帽子を目深にかぶり、じっと斜面の下る先を見つめている。
「ちょっと待ってください。柊は鬼の……」
「そうさ阿求。これからやってくるのは人にあらずさ。鬼といってもいいかもね」
「え、鬼ですって! それはこま」
天狗ふたりが仲良く声をあげかけ、神奈子さんに右手と左手で口をふさがれる。
「いや、お前たちの元親分とは違うかもしれんが」諏訪子さんが唇に指をたててささやく。「その娘は、急に姿をくらましたのだろう? あんたが熱心に見張っていたのにさ。返されたんだよ、呪符を。身を隠すためとはいえ、一種の呪いだからね」
柊のとがった葉を一枚つまんで、諏訪子さんは目を細めた。
「もちろん、ただの人間の身でそんなことはできっこない。娘は境界をまたぎかけているんだよ。寒さと飢えの極限状態をすごすことによって、人とあやかしの境界をね」
彼女の指差す先で、朝靄が不気味にしなり、蛇体のようにうねった。
はじめに気づいたのは、かすかな違和感だった。
斜めにさした朝陽が雪にまみれた下生えを輝かせている。風はなく、動くもののない森で、それでもなにかがゆっくり進んでいる。そう感じた。
「ありゃ。神奈子のやつ、どこへ行った?」
諏訪子さんが私の肩越しに後ろを見る。私の背中を暖めるようにくっついていてくれた神奈子さんの姿はない。
「あいつ、私にまかせろとかいっておいて。まさか、この期に及んで藁人形だのが怖くて、逃げ出したのか」
「まさか……」
「お、お、さっき聞きそびれたんです。さあさあそこんところをぐっと詳しく」
「……ブン屋。今は自重なさい」
道春さんのみ黙って目を見開き、森のあちこちを見渡している。
「本当に、『いる』のですか? 諏訪さま」
「ふん。仕方ないね」
柊の枝をぴんと弾き、諏訪子さんはゆっくり立ち上がった。そのまま藪を抜けて、まっすぐ歩いていく。
いつの間にか、その両手には金属でできた輪が握られていた。無造作にそれを掲げ、ぐっと寄せて交差させると、諏訪子さんは一気に左右へ振り下ろした。
波のような風が起こる。
それは私たちの背後よりあらわれ、諏訪子さんを追い抜いた。
「なんと」
文さんが小さくつぶやく。
波に洗われた砂地から貝殻がのぞくように、景色が一枚ぺろりとめくれたようだった。
人間ではない。
はじめ、そう思った。白装束の人影は意外にも近く、諏訪子さんからいくらも離れていない大岩の前に立っていた。
あわただしく、道春さんと文さんが柊の影から飛び出す。
人影は静かに歩き出した。私たちに気づいていないのか、横切るようにしてその歩みはよどみがない。
振り乱した髪の下、表情はうかがえない。それでも案外、あたりの空気が剣呑でないことに、私は少し胸を撫で下ろす。
彼女の行く手に、幣をめぐらし神域をしめす大杉がそびえている。その赤みを帯びた幹の前に、やがて白い後姿は悄然として佇んだ。
すっと差し上げた白い手に、釘の銀色がまたたく。
「待って」
踏み出そうとした道春さんを、諏訪子さんが手でとめた。どうせ効果はないんだから、ひととおり人形を打ち付けるまで待ってやろうというのか。
幹の中央にあてた藁人形に、彼女は優しく手を添える。鈍く光る太い釘をまっすぐあてがい、古びた木槌は力強く振りかぶられる。
私は思わず目をつぶった。
こっ、という堅い音はしかし、一度で止まる。おそるおそる見上げると、着物姿の背中はあきらかに狼狽していた。肩が震え、手が震え、しゃにむに首が振られる。
藁人形に置いた細い指に、滔々としたたるものを私は見た。
諏訪子さんがうなずき、私たちは大杉の方へ近寄っていく。雪に降りかかったのを見れば予想通り、鮮やかな赤いしずくだ。馴染みのある生々しいにおいが鼻をつく。
とうとう限界を超えたのか、娘の背中ががくりと力を失い、後ろに倒れかかる。
「へ?」
おかしな声が出た。にょき、と何の前触れもなく杉の木から生えた人の腕が、娘の腰をぐっと抱えて支えたのだから。
いや、人ではない。神だ。
「神奈子……ったら」
諏訪子さんが額を押さえて空を仰ぐ。手からつづいて肘、肩と、それから前髪が現れる。戸口をくぐるように気軽な様子で姿をみせた神奈子さんは、「やっほぅ」とこちらにウィンクしてみせた。
「やっほぅ、じゃないよまったく」
「だ、大丈夫なのですか、あの」
神奈子さんはこちらに手のひらを立て、黙れ、と合図した。その豊かな胸の膨らみの谷間に、五寸の釘で藁人形が縫い付けられているのである。一度打たれただけの釘は深くは刺さってはいないのだが、流れる血は止まっていない。赤い衣だから目立たないだけである。
「……ごめんなさい。……ごめんなさい」
小さな声がした。娘は神奈子さんに抱かれたまま、垂れていく神の血を、どうにか手ですくって押し留めようとしている。着物の袖がどんどん赤く濡れていく。乱れた髪の隙間に泣きはらした目と、にじんだ頬紅がうつる。その耳元に、神奈子さんはゆっくりと口を近づけた。
いいのよ。
確かに、唇はそう動いた。
途端に空気が変わる。もう一度起きた風の波が円を描いて吹き上がり、木々にたまった雪の塊を振り落とす。肩や頭にそれが降るのもかまわず、二人の天狗が杉の根元へ駆け寄っていく。
「あらら」
風と入れ違いに、頭上から声が落ちてきた。早苗さんと一緒に森の上を飛ぶ人影がある。
「来てくれたのね、厄神」
諏訪子さんが手を振る。麓の森には、厄を引き受ける女神がすむという。早苗さんはどうやら、彼女を呼び出す役目をおおせつかっていたらしい。
「すでに厄は薄いようですが。一応引き受けておきますね」
厄神が手を広げると、服から垂れ下がる装飾が風を受けてふくらむ。そのまま流れに逆らわず、彼女の姿は杉木立の彼方へ漂っていった。
「諏訪子さま、阿求さん。どうやら、うまくいったみたいですね」
早苗さんがするすると降りてくる。
「ああ。ま、こんなもんだろうさ」
いつの間にか、私の横には神奈子さんが立っていた。その胸にはもう藁人形も釘もなく、流れた血痕もあとかたもない。
「あの、痛くはなかったんですか?」
「そりゃあ痛いさ! 阿求、黙って釘を打ち込まれて痛くないやつなんていると思うかい?」
「いや、それはそうなんですが」
思わず目をそらすと、じっとこちらを見ている諏訪子さんに気づく。にやにやしながら大股で、神奈子さんがそちらに歩いていく。
「どうだい、諏訪子。私なりの解決法ってやつさ」
「……ふん。まったく、荒っぽいったら」
言葉と裏腹に、諏訪子さんは神奈子さんのちょうど釘の刺さっていたあたりを、気遣わしげに撫でた。
「でも、思い出したよ。あの子が釘を打った瞬間、いろんな思いが流れ込んできた。こういう痛みは、忘れちゃいけないね」
「……ばか」
なぜか頬をあからめた諏訪子さんは、帽子を深く引き下げて、曲がった木の根をぴょんと飛び越えていく。
本格的に顔を出した朝日に、私は手をかざす。引いて立つ文さんの前で、ちょうど道春さんが白装束の背に手をあてて抱き起こしたところだった。
ぽつぽつとなにごとか囁く娘の横顔は、ひどく穏やかに見えた。一瞬消えてたちどころにまた現れた道春さんは彼女を膝にすわらせ、どこで見つけてきたのか、みずみずしい緑の木の葉を取り出すと、口にあてて頬をひきしめる。
ぴいぃぷぅいいいいい。
舌足らずできれぎれの音色が、黄金色の日光をつたって空へと昇っていった。
--10-----
「友達同士のような夫婦で、いいと思ったのです。彼女に、こころに秘めた相手がいることはわかっていました。その思いが叶わないだろうことも。だから、ゆっくり夫婦になっていけばいいと、申し合わせていたのです。あの病気がなければ……。たとえ子供ができなくとも、私は変わらずにいるつもりでしたが、どこまでわかってあげられていたのか。親兄弟の目も、ありました。思いつめていたことに、気づいてあげられませんでした。それを、悔やんでいます」
守矢神社から里へ帰って数日後。いつものように行商にやってきた禎太は、庭の池のたもとに私と並んでしゃがみ、一言ずつ搾り出すようにして語った。
屋敷の表まで彼を送ると、先日の彼女が向かいの茶店で待っているのだった。杖をついているがしっかりした足取りで禎太の隣に立ち、私に深々と頭をさげた。
どうにかまた二人でやっていきます。そういって去り際に、禎太は彼女を優しく見おろした。それを思い出すと胸のうちからちりちり、小指の先でひっかかれるような感触がする。
「いい目つきをするようになったじゃない」
そして私はまた、地底の橋の前に立っている。蛍の群れのような光輝が闇を横切り、気がつけばあの橋姫が嫣然とほほ笑んでいた。
「あなたに謝りたくてきたのです」
私がいうと、彼女は笑みをひっこめて露骨に顔をゆがめた。
「なあに。しけた話ね。謝ろうが謝るまいが関係ないわよ。私に興味があるのは熟れきって腐りかけた負の感情だけ。青瓢箪な小娘の理屈なんて、聞きたくないわ」
つりあげた唇が取り出した血管のように濡れそぼり、するどく反った犬歯がのぞく。おそろしさに縮み上がりながらも私は、一歩ずつ橋の傾斜を上っていく。
「さっさと逃げ出さないと、どうなっても知らないわよ?」
「どうか、聞いてください。私はなにもわかっていなかったから」
「うるさい、近寄るな! それ以上寄ったら」
「思わず頭をなでてあげたくなるじゃないの、ですか。二度も自分をたずねてきた人間が可愛いのですね。わかりますよ」
ぎくりと宙を仰いだ橋姫、パルスィさんが緑の目を禍々しく発光させた。「さとりっ! あんたまた……どこよ、出てきなさい!」
「ふふふ、こっちですよ」
橋の下からあらわれた地霊殿の主は、ゆるゆると橋の欄干を飛び越え、手を伸ばしたパルスィさんをひらりかわして、こちらを向いたまま洞穴の奥へと飛んでいく。
「どうにか、傷つけずに追い返そうとして、さっきから思考回路はショート寸前じゃないですか、パルスィ?」
「だ、黙りなさい! それ以上喋るな!」
「ふふ、つかまえてごらんなさい」
「ひとを馬鹿にして!」
猛然とパルスィさんが飛び上がる。ひらひらとはためくスカートを両手でつまんで、さとりの妖怪は私を見てほほ笑んだ。
「地底へようこそ。地上の方」
そしてきゃあきゃあうふふと、さわがしい掛け合いだけがどんどん遠ざかっていく。
洞穴の角度が変わる場所まで戻る。壁から突き出た岩に腰掛けていた文さんが、ひらりと飛び降りてきた。
「遅いですよ阿求さん!」
「すみません」
「出入りが認められたとはいえ、やはり地底はどうも落ち着きません。さっさと引き上げましょう」
私をがばと抱き上げ、文さんは早々に飛び上がる。あんまり阿求さんが遅いから鬼にでも食べられたかと気が気じゃなくって、とぺらぺら喋る。
橋姫のところまでついてこないで欲しいと頼んだのは、私なのだ。
「ところで、洞穴の岩場には土蜘蛛がすむとききましたが」
「ええ、ええ。あんまり暇なんでさっき取材してました。いやあ地底の住人といえどなかなか気のいいやつで、なんでもはきはきと答えてくれて新聞のネタが――って」
すみません、と今度は文さんが頭をさげる。
「でも、心配はしてたんですよ?」
「わかってますって」
地上の明かりが近づく。夕方なのでまぶしさは感じない。
そういえば文さんの、七十年だか八十年前のコイバナ、ってのを聞きそびれたなと思い出す。一連の守矢での出来事を新聞にする気はないようだし、持ちつ持たれつということになりそうではあるが。
「出ますよ」
文さんが耳元でささやき、私たちは夕映えの空の只中にいた。幻想郷の眺めが足元に広がる。
まだまだ知りたいことは山ほどあるのだ。地底にだっていずれちゃんと取材にいきたい。直接会ったことのない妖怪だってたくさんいる。いや、よく見知った人のこころにも、私の知らない領域は、ふんだんに残されているにちがいない。
そして私のこともまた、知ろうと欲してくれる相手がいるなら、それを拒まずに居たいのだ。
「?」
目の合った文さんがきょとんと見つめてくる。
「なんでもありません」
「それじゃちょっと、博麗のとこに顔を出していきますか。節分から会っていないから、面白い話でも聞けるかもしれませんし」
「夕食どきだから、面倒くさがられるかもしれませんよ?」
「あー、ありそうですね。ま、阿求さんがいればとりあえず、陰陽玉をぶつけられたりはしないでしょ」
文さんがぐんと下降し、耳元で風が鳴る。鼓動が腕につたわる。そして彼女の服からは、すでになつかしさをおぼえる山のにおいが、うっすら漂ってくるのだった。
<了>
神奈子は侵略者なんですよね・・・
ただその設定なら刀売神じゃなく、建御名方の方がいいかなと。
お素敵でした。
情景や感情の表現が繊細で、王道な物語構成も面白いものでした。
一気に読み進めた今現在の読後感が大変心地良いものです。
道春の不器用っぷり(?)が良い味出してます
淡麗な空気感もまた良し。
今回の作品はそれに加えて、いつもより増量気味の上品な諧謔が一筋縄でいかない彼女たちの関係に奥行きと深みを与えていてその立体感が堪らなく魅力的でした。
守矢神社と妖怪の山の友好と緊張の狭間に渡された関係、求聞持としての阿求と普通の少女としての阿求の対比、神奈子と諏訪子の神としての矜持と人間くさい感情、僅かしか登場しない橋姫や厄神や悟りの妖怪に至るまでくっきりとした陰影を残していて読む楽しみを満喫させて頂きました。
後、道春のお守りや阿求の紅の思い出など小さな(と思わせる)伏線の使い方も見事です。
主たる物語、伏線、情景描写、人物描写いずれも隙のない、それでいて優しく暖かい印象の素敵な作品をありがとうございました。
そうそう、
冗談(でもないか)で阿求に迫ったら真顔で見つめ返されて慌てる文が超可愛いんですが♪
そして、
『諏訪たん』‥私も呼びてぇええええ!
あなたの作品が読めることに毎回幸せを感じます。
素敵な読後感。最高です。
たくさんのコメント、感想、望外のよろこびです。……本当に、励まされます。
また>>1さま、なんとなく女性名をつかってみたかった……という程度の動機なのです。少々迷ったところでもありました。ご意見有難う存じます。
考えるだけでぎこちなくなるテーマを、おぼつかない足取りながら、なんとか書き終えられたことに、なによりホッとしているところです。
またいつかこういう方向で書ければ、とも思いますが、やはり気恥ずかしくなってしまうのでしょうね(笑
さとりさま、橋のあたりまでうろうろするようになったんですね(笑)
ムーンライト伝説なパルスィも可愛くて好みです。
そして相変わらず話が良い。
あゝ、まさに作中の阿求のようだ
と感じたり。
しかしこの道春天狗、罪づくり過ぎてもう……。
そしてさとりwwwwwwww
しかし、オチをパルパルとさとりに持ってかれてる感があるのは自分だけか
阿求と守矢組と天狗の絡み、楽しめました。