*それなりに長いかと思われます。どうぞお時間のあるときに、お付き合いいただければと思います。
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文さんに先導され、哨戒の白狼天狗に背負われて、けわしい山肌を駆け上がる。古い妖怪たちの暮らす聖域は、朝もやのヴェールの下だ。
守矢の神社の鳥居の下に私を降ろし、しばらく名残惜しげに木立の上を旋回していた文さんが、くるりと向きを変えて山を下っていった。
私にもわかっていた。空気が変わったのだ。
振り向いた私を迎えるのは、厳かにも穏やかなほほ笑み。
かぐわしい緋の衣が風をはらみ、差し伸べられた手が、私をいざなう。
折りしも、晩冬のおそい朝日が昇ってくる。山の頂きを覆っていた霧が晴れて、杉の色濃い枝葉に朝露がきらめく。
「あれが幣拝殿」
その声は、まるで四方から押し寄せるように、私をつつむ。
「向こうに見えるのが神楽殿。神楽なんて、もう長く奉納されていないけれど」
甘やかなため息も、どこかいかめしい。
「昔はもっとごちゃごちゃ建っていたのだけれど、風祝とその家族くらいしか住まなくなって久しいからね」
「大変格式のある造りですね。幻想郷でも、ここまで歴史を感じさせる建物は、そうありません」
「しょせん容れ物にすぎないけれど、ほめられて悪い気はしないね」
「四隅に立っているのが、名高い御柱ですか」
凛として空をささえる柱の先端には、それぞれ幣が結ばれ、風にたなびいている。
「名高いかどうかは知らないけれど、そうだね」
対面の挨拶もそこそこに、八坂の神は私を差し招き、あちらこちらと案内してくれる。足どりはきびきびして、ゆたかな肢体には力と歴史がつめこまれている。
しっとり濡れた参道を踏む音だけが、神さびた庭にとけこんでゆく。境内へ枝を伸ばす木々は、まるでじっと耳を澄ましているかのよう。
私は感動していた。
清浄な気が天地に満ちている。本宮の屋根の下に現れた風祝、東風谷早苗さんが、こちらに気づいてうやうやしく一礼する。
二拝二拍一拝か。四拍手か。
「どちらがいいのです、八坂刀売神」
拝殿に下がる注連縄を見上げてまごつく私に、あたたかな声が返ってくる。
「どちらでも。あなたの好きにすればいい、阿礼乙女。神はどこにでも居る。それから、私のことは神奈子でいいよ。どうもその八坂うんぬんは、半身だけ呼ばれているようで、落ち着かない」
「ならば、私のことも阿求とお呼びください」
これだ。これこそが信仰というものだ。
おぼろに記憶に留まり、外の世界では既に失われたかもしれない厳粛と寛容が、ここにはある。
背筋がおのずから伸びて心引き締まる。草木の葉が日に向かうように、自ずから傅き敬愛を手向ける信仰が、ようやく幻想郷に現れたのだ。
頭の片隅で猛烈な抗議をしている紅白の巫女がいるが、黙殺する。
参道や本宮の屋根にかぶさるように、紙垂をめぐらせた古木が静かに立ち並んでいる。神社の境内というより、森とおなじだけ歳を取った遺跡といった様相だ。これらすべて、鬱蒼茂る森の奥で光り輝く湖までもろともに、外の世界からそのまま持ってきたのだと、神奈子さんはいう。
「神の御業とは、かくも壮大なものか……」
「なんの、阿求。結界を越えてからの方が難儀したよ。保守的な山の住人、ことに天狗にはなかなか受け入れてもらえないし、博麗の巫女には襲撃されるしね」
「彼女らは、とりわけ獰猛で無作法な種族なのです。どうかお許しいただきたい」
霊夢と文さんが肩を組んでブーイング。そ知らぬ顔で、私は差し出された神奈子さんの手を握る。ほとんど幻想郷の政治指導者みたいなノリだが、やさしく微笑まれてしまってああもうどうでもいいや。
そのまま手を引かれ、原初の闇ただよう杉木立を、神とともに散策する。
「阿求。私は、幻想郷の停滞を前に進ませたいんだ。妖怪の賢者たちの慎重さは尊重すべきだが、世界の蒙昧に足をとられるのは結局いつも、一番力弱きものたちだ。違うか?」
「おっしゃること、わかる気がします」
神の馥郁たる胸元にかかる鏡には、紅潮した私の顔が映っている。幾筋もの木漏れ日を背負った神奈子さんは、額に深い縦皺を寄せて拳を握り固めた。
「欲しいのは展望なんだ。未来なんだ。そのために、太陽の烏を連れて私らは地底にも潜った。成果はいずれあらわれるだろう。古参の妖怪たちもやがて理解してくれるはずだ。私たちの目的が独占でも君臨でもないことを! 今こそ、真の協調がこの地にもたらされるべきなにょ」
「ええ、まさに!」
力強く首肯してみたものの、不自然な語尾が気になっていた。なにょ、ってなんだ。かわいいけど。
実に人間らしい表情をたたえた神奈子さんがいる。私を、いや私の背後をじっと見ている。
口をあんぐり開けて、具体的には驚愕。それから――。
「神奈子、だめ!」
長く伸びた杉の影から、ひょいと現れる姿があった。神奈子さんがはっと我に返る。
「んおぅ」
なんとも形容しがたい声を絞り出し、赤い衣の雄雄しき神は木の根にぐにゃりと座り込んだ。
「どうなさいました?」
思わず手を差し伸べると、素直に握り返される。おやと気づいた、手が小さい。
とことこ木の根を乗り越えてきた少女が、私の手を引いて会釈する。貫頭衣めいた服装に大きな帽子。くりくりした丸い目が、私を見上げた。
「ひょっとして貴女は」
「うん。ここのもう一人のカミサマってやつ。洩矢諏訪子です」
「稗田阿求です」
ぺこりと挨拶をすませ、私と諏訪子さんは黙って振り返る。諏訪子さんの影でふるふる震えていた顔がゆっくり上向き、私と目が合うと、ぼん! と紅く染まった。
「ごめんちょっとあとは任せたからケロ子!」
後ろ向きのまままっしぐらに駆けていくのは、信じがたいが神奈子さんである。
あ、転んだ。
「あーあ、早速バレちゃったか。せめて天狗に嗅ぎ付けられてなきゃいいけれど」
ケロ子、いや諏訪子さんと私は申し合わせたように一点に目を向けた。
神奈子さんが穴があくほど見つめていた杉の表面。ちょうど目の高さくらいに、それは無残に打ち付けられていた。
無残に、というのは正しくないかもしれない。なにしろそれの存在意義は、打ち付けられることにあるといっても過言ではないからだ。
藁人形。
「いや、見苦しいところを見せたね」
翌朝。客間の布団から這い出し、居間につづくふすまを開けると、神奈子さんが腕を組み肩をそびやかしていた。
「神奈子さあ。いまさらカッコつけてもしょうがないと思うんだけど」
火鉢によりかかってあーうーと足を投げ出していた諏訪子さんが、庭を見たままくすくす笑う。
「う、うるさい! 誰にだって苦手なもんはあるだろ!」
「しかし、神が呪いを苦手としているってのもねえ」
「丑の刻参りめっちゃ怖いじゃん!」
諏訪子さんにくってかかる神奈子さんを尻目に、コタツにもぐりこむ。おおぬくいぬくい。
「頭にひょっとこ被った白無垢の女が、ええじゃないかええじゃないかと踊りながら釘を打つのよ! 想像してごらんなさい!」
「それ、想像無理だから。だいたいどんな知識だよ」
「思い出してもぞっとするわ。あの藁人形のニヒルな笑い」
「顔なんて、ありませんでしたよ」
盛られていた煎餅をばりりと噛んだ私に、二柱がはっと振り返る。
「そうだっけ? でも」
言いかけた神奈子さんが口をつぐむ。私はうなずいた。求聞持の能力を思い出してもらえたのだろう。こと自分の代に見聞きしたものならば、私は決して忘れない。
「でさあ。実をいうと今朝もね……」
青蜜柑をのせた盆の脇に、諏訪子さんがごとりと置いたのは古ぼけた板切れだ。それは人の形に切り抜かれ、今度は簡単な目鼻立ちが描かれている。その体の中心につき立っているのは釘ではなく、大工の使う鉄の楔だ。
「ほら、ごらんよ阿求。これ、ここんとこ。墓場の卒塔婆から削り出しているんだねー。いやあなかなか周到な仕事」
「古式ゆかしい呪いのヒトガタですね」
「にゃあああああ!」
叫んで神奈子さんがコタツの布団を引っかぶる。
「あ、天の岩戸、天の岩戸」
「もー。みっともないな」
諏訪子さんがやれやれと首を振る。
「阿求に裸踊りでもさせようってか? お客をこき使うのは本意じゃないんだけど」
「どうして私ですか?」
アメノウズメ神の役どころなのだ、もちろん神が担当すべきだろう。
「仕方ない阿求。私がこの呪い人形をかざすから、ひるんだところで布団をひっぺがして」
「タヂカラオの役まで私ですか」
「近づけないでったら!」ついには顔まで潜った神奈子さん、くぐもった声だけになる。「なんでそんなもの持ち込むのよ! いつもみたいに、諏訪子がちゃっちゃと片付けてくれればいいじゃない」
「いや、だからね。説明しようとしてるのにあんたが逃げるんじゃない。今回は――」
「お待たせしました」
障子越しに声がかかったとたん、悠然とあぐらをかいた神奈子さんが目の前にいた。いつコタツから這い出したのか、まったくわからない。
お櫃と飯椀を持って入ってくるのはエプロン姿の早苗さんだ。
「お汁とお魚もすぐ運びますね」
「うん、ご苦労、早苗。あ、飯は私がよそうから、おかずを取っておいで」
「でも」
「いいから。客人を待たせるのはよくない」
ちっちと指を振り、神奈子さんは穏やかに諭す。
「わかりました、それではお願いしますね」
早苗さんが立ち去り、黙々と神奈子さんは椀に飯を盛る。きっちり人数分よそい終えてから、耐えかねたように髪をかきむしり、がくりと膝をついた。
「……ごめん。早苗だけには」
「武士の情けじゃ」
呪いのヒトガタを帽子の下から出して諏訪子さんは胸を張る。
それにしても、会った次の日に神に頭を下げられるとは、私も偉くなったというほかはない。
幻想郷縁起を世に出してからも、新たな妖怪、人ならぬものの結界越えは続いている。
代々の稗田はこういう事態にどうしていたのか。記録をひもといてもよくわからない。考えてみれば、幻想郷が結界を備えて安定したのはほとんど私の代からである。参考にならないのだ。
とりあえず、新参の勢力についてもこれまでどおり情報を集め、記録しておくことにした。改訂版を出すかどうかはわからないが、転生の準備に入るのもまだ当分先だし、縁側で茶をすすってばかりいても仕方がない――というような話をしたら、霊夢には妖怪でも見るような目をされてしまったが。
そして新参の存在のうちでも、かねがね最も興味をひかれていたのが、守矢の二柱であった。
なにしろ神だ。胡散臭い妖怪や亡霊とは格が違う。縁起に載せるにしても、危険性を知らしめるためではなく、神宿る地としての幻想郷を祝福する意図となるだろう。
彼女らが現れた、という話を聞いてから私はずっと心躍っていた。
しかし、守矢の社が移ってきた妖怪の山は、天狗をはじめ古参の妖怪たちが閉鎖的な社会を作っている。博麗の巫女ですら立ち入るには相応の手順が必要だ。まして、貧弱な人間の身でなど到底叶うまい。
そう思って諦めていた。つい先日、里の八百屋の前で早苗さんと出くわすまでは。
ちなみに早苗さんとは、これまでも何度か顔を合わせていた。買出しなどの用向きのたび、彼女は里の衆に声をかけ積極的に交わろうとしている。守矢の信仰を得ようという目的意識むき出しなのだが、そのあけすけ振りがむしろ初々しい、と評判だ。
「あ、いいですよ。是非お出でください。帰って八坂さまと洩矢さまに話してみますが、きっとお許しくださるはずです」
私の話を皆まで聞かず、早苗さんの目が嬉々として輝き出す。
「でも、山の妖怪が」
「天狗さんたちには、私から話をつけておきますから。ああ、楽しみだな。幻想郷縁起は私も拝見したことがあります。あの有名な本に八坂さま、洩矢さまのことが載るだなんて。考えただけでワクワクしちゃう」
買ったばかりの大根を抱きしめて、早苗さんは天を仰いだ。
「いや、そのまだ、縁起を改訂すると決めたわけじゃ」
「それで、いつにします?」
あまりにとんとん拍子に進んだ。あの日のまぶしい彼女の笑顔を、私は忘れない。まあ忘れたくとも無理なのだが。
「――で。ここらで私、一旦帰りたいのですが」
朝食が済み、早苗さんが食器を片づけて引っ込むと、私はずばり切り込んだ。
「残してきた仕事もありますし、泊まると言ってきたわけではありませんので、屋敷の者が心配しますゆえ」
もっとも、昨日の夜にも同じことを頼んだのである。猫舌らしく冷ました茶をすする諏訪子さんに、助けを求めるように目をやっていた神奈子さんが、べそり、と蛇が這うようにコタツの天板に突っ伏した。
「お願いだよ。もうちょっとだけ居ておくれよぅ」
「そういうわけにもいきません」
「私のこと、神奈たんって呼んでいいから」
「じゃあ私はあっきゅんで。だいたい神奈子さん、昨日から篭りきりで出てきてくださらないから、ろくな取材も出来なかったじゃないですか」
「なんでもありのままにあけすけに答えられることには答えるからさ、ね?」
「とりあえず、一旦」
「家の方には使いを出すからさ」
ぬるくなったお茶で喉を湿して、私は首を振る。
「縁起の項目にお二人のことを追加するとまだ決めたわけではありません」
「でも、記録は残すんだろう」
「稗田の生業ですから」
「頑固者」
ふくれた頬を、肘をついた手で神奈子さんがくるむ。その横で諏訪子さんは、せっせと茶を減らすのに忙しい。
別に彼女らは私を閉じ込めているわけではない。ただ、送ってくれる天狗を呼べるのは彼女らだけなのである。自力で妖怪の山を下りられるわけもない私は、生殺与奪権をにぎられたことになるのだ。これは大げさか。
いっそ早苗さんに頼んでこっそり出て行こうかと思いつつ、今ひとつ踏ん切りがつかずにいる。
神の弱点が呪いの類だなんて――面白いじゃないか。
やはり、こうやって実際足を運んでみるものだと思う。先の縁起での取材では、危険度の高いと思しき妖怪について、人の噂や伝聞で済ませた記事も多かったが、勿体なかったかもしれない。
第一、神奈子さんは神霊だ。妖怪のように人に害をなすわけはない。どう書くにせよ、緊急性が求められているわけではない。
それに、実際きちんとした取材はまだ出来ていないことではあるし。
要するに、私も内心未練たらたらだったわけである。
--2-----
社務所に隣接した井戸から汲んだ水で顔を洗う。身を切るような冷たさにぶるりと身震いすれば、山の彼方はもう茜色。
「おーい、あきゅーん」
いつの間にか、井戸の蓋の上にしゃがみこんでいた洩矢の神が、手ぬぐいを顔に投げつけてくる。
「もが」
そのまま、ごしごしと拭われて、ついでに頭を撫でられる。
小さな手の感触。
「あははは。やっぱり、人間の子供は可愛いな」
ちなみに、諏訪子さんは私より背が低い。二センチくらい。
「子供じゃ、ありません」
「まだ寒いから、蛙のプレゼントは出来ないんだな。ごめんね」
「いりませんよ、そんなの」
二人きりだと、彼女はやたらと私の世話を焼きたがる。
洩矢諏訪子。守矢神社のもう一人の神。
やたら印象的な造形の帽子がトレードマーク。御左口の神にまつわるスペルカードを使う。
神奈子さんとは、古い因縁で結びついている、らしい。
早苗さんに約束をとりつけてから、私は霊夢や魔理沙、文さんたちに話を聞き、守矢の二柱について情報を集めた。けれども、こと諏訪子さんについて聞こえてくる内容は、せいぜいこの程度だ。
神奈子さんが出てこないから、彼女を主に捕まえつつ、二人の関係などそれとなく探ってみるのだが、のらりくらりとかわされている。
「ただでさえ弱っちいのにさ。阿求は、その中でも特にひ弱なんだろう?」
「長く生きられないだけです。そんな人間は、珍しくもない」
「そう。知らぬ間にぽろぽろ死んでいくからなあ」
物騒なことを口走りながら、夕日を受けた彼女の横顔はただの幼子だ。神奈子さんの威厳――順調に暴落中だが――そういうものとは程遠い。薄い皮膚に赤みが透けた腿は寒そうで、さすって暖めてやりたくなる。
稗田の家に残る古い資料では、太古の土着の神格のうち、モルヤだかモレヤという名前が見つかるのだが、果たして本当に目の前の彼女がそうなのだろうか?
「ミシャクジの神は、祟りをなすんですよね」
「どうかなー。そう思う人間にとっては、そうなるかもしれないねぇ」
「神奈子さんの言うとおり、呪い人形や藁人形なんて、諏訪子さんならどうにでも出来るんじゃないんですか。 そもそもあんな古臭いやり方で効果があるとも思えませんが」
しばらく、じっと私の顔を見ていた諏訪子さんが、ぴょんと井戸から飛び降りて、小走りに去っていく。と思えば、本宮の柱の影に立ち、ちょいちょいとこちらを手招く。
近づいていくと、さっと離れて振り返り、また手招き。
まるで人見知りの猫だ。
「なんなんですか」
何度かくりかえされ、社務所の背後につづく森へと誘い込まれ、ふと見回すと、あたりの雰囲気が変わっている。
背の高い杉に囲まれて、小ぢんまりと開けた場所に小さな祠が立っている。その前につづく石畳に、諏訪子さんはこちらに背を向けて立っていた。
ほんの軽く。私にはそう見えた。諏訪子さんはつま先を上げて足を踏み鳴らした、ただそれだけだ。
どぉん! と、腹に響く大音量が轟き、地面がぐらりと揺れた、と思う。私は思わず尻餅をついていた。
こちらへ歩いてくる諏訪子さんの表情は見えない。その背後で、祠の戸がぎい、と左右に開いていく。
「見えるかい?」
手を握られたとき、ぞくりと背が震えた。私を引き起こした諏訪子さんが指を差す。木々の間をすりぬけた細い赤光が照らす祠の中は、一畳ほどの広さにご神体らしきものもなく、三方の壁を覆うように吊り下げられ、貼り付けられ、積み上げられている、それは。
あっと声が出た。まず目につくのはおびただしい藁人形、それから、今朝見たような板や紙を切り抜いたり、布袋を縫い合わせたヒトガタ。古くなった雛人形、そのいくつかは手足がなくなっている。
人形ばかりではない。同じ漢字をひたすらに書き連ねて真っ黒になった紙片。いわくありそうな水墨画。弦の切れた弓。真っ赤に錆びた刀。ひび割れた面。ひときわ長く黒々と垂れ下がるのは、女の髪の束だろう。
「神社っていうのは境界なんだよ。別に博麗でなくってもね。だから、いろんなものが流れ着くんだ」
はいおしまい、と諏訪子さんが手を振ると祠の扉は独りでに閉じる。
「あ、ちょっと。もう少しじっくり拝見したいんですが」
「だーめ。そろそろ早苗が買出しから帰ってくる」
きょうのごはんはなんだろなー。歌いながら諏訪子さんは、私の背をどんどん押して日なたへと連れ出した。
後ろ髪を引かれながらも、すっかり見慣れた大鳥居の姿に、密かにホッとする。
「不吉な眺めだったろう? 神奈子もだから、あそこには近づきたがらない。私の独壇場さ」
見透かしたように、諏訪子さんが囁いた。
「あれはすべて、呪いに用いられた道具なのですか」
「それだけじゃない。扱いに困って、捨てるのも怖くって、そういうものが自然と神社には集まってくるわけ。体のいいゴミ捨て場だよね」
「そんな」
「まあ、こっちに移ってきてからはあんまり無いけどね。妖怪はもともと物持ちが悪いし、ただの人間がここまで登ってくるのは骨だからねえ」
魔法の森で道具屋を営む店主あたりが聞けば目を輝かすかもしれない。いや、放置されるのがいわくありそうな代物ばかりでは、彼も閉口するだけかもしれないが。
「それでは、諏訪子さんはああいったもののお祓いを受け持っているんですね」
「さーて。ちゃんと綺麗さっぱり無害になっているかは、わからんねえ。私は厄神じゃないからね」
けんけんぱ、けんけんぱ。社務所に続く飛び石を踏んでいく諏訪子さんの返事は、不思議とずっと耳元で聞こえていた。
「だから、諏訪子が片付けてくれればいいんじゃない。これまでずっと、そうしてきたでしょ」
不意に背中から声がかかる。輪にした注連縄に腰をかけて、ゆらりと降り立った神奈子さんが、私の髪の花飾りに手を添えてそっと直した。
「だから、私も言ってるでしょうが。今度はそうはいかないの」
「どうしてさ」
帽子をとって近づいてきた諏訪子さんは、むしろどこか申し訳なさそうだった。
「呪いをかけられているのが、他ならぬ私だからよ」
鳥居の下へ歩いていくと、山道へつづく階段を掃いていた早苗さんがあら、とくすぐったげに首を傾げた。
「サイズ、大丈夫ですか」
「勝手にお借りしています。その、神奈子さん……八坂さまが、このぐらいがちょうど合うだろうと見繕ってくださって」
「ええ、構いませんよ。でも、ちょっと恥ずかしいな」
「馬子にも衣装ですね」
「そんなことありません。よくお似合いですよ」
あろうことか、と。稗田の家の者が見れば唖然とするだろう。
薄緑のスカートをはいた私である。肩からつながる意匠で、ジャンパースカートと正しくはいうらしい。内には白い長袖のシャツ、肩には厚手のショール。紅魔館の悪魔たちが着ているものに近いのだろうが、洋装について私は詳しくない。あわせて履いた紐靴が正式にはなんというのかも、だ。
想定外の滞在となったので、着物の替えが足らなくなってきたのだ。それを口実に帰らせてくれと頼むと、神奈子さんが引っ張り出してきたのが早苗さんの箪笥の中身だったわけだ。
口惜しいのは、私の体格にぴったりなのが数年前の彼女を装っていたものばかりだったことだが。
「さ、阿求。出かけようか」
参道の真ん中に影を垂らし、神奈子さんがやってくる。
「ええと、はい」
「神奈子さま」早苗さんが神奈子さんのもとへ駆け寄る。「里にご用でも? 私に仰せ付けくだされば」
「うーん、いいのいいの。阿求と私で行かなくちゃ意味がないから」
「大切なご用なんですね」
「そうなるかな」
「私、楽しみなんです。阿求さんがどんなふうにお二人のことを書いてくださるのか」
「うぐっ。そ、そうね」
神奈子さん、苦しい。私も心苦しい。
「じゃ、じゃあ行ってくる」
神奈子さんは軽々と私の背に手をあてて抱き上げた。
「あ、いいなあ。空を飛べるようになってから、そんなふうに抱っこされること、なくなっちゃったから、羨ましいです」
まじまじとのぞきこんでくる早苗さん。これはさすがにちょっと恥ずかしい。
ふわりと浮き上がる。どんどん小さくなっていく早苗さんが、箒を振ってぴょんと跳ねる。
「今夜もまだお泊りくださいますよねー!?」
「ええと、たぶんおそらくはー!」
口に手をあてて、こちらも大声で返す。
「寒くはないかい」
点在する社の屋根があらかた見おろせるくらいまで上昇したところで、神奈子さんが胸元にうなだれて、私の目を見た。
「ええ。大丈夫です」
ところどころ雪を冠した黒い森の向こうに、まるで千年前からそこにあったかのように、半ば凍った湖が朝日に輝いている。
ふと、諏訪子さんのことを思った。昨夜からずっと姿を見ていない。
神奈子さんが彼女を怒らせてから。
「じゃ、ちょっとだけズルをするよ」
「ズル?」
「スキマ妖怪の真似事、かねえ」
神奈子さんがウインクした。すると、周囲の景色がブレたように動いて、閉じたまぶたに星が散る。目をあけると、どこか見慣れた風景が広がっていた。正面遠くに鳥居が見えるが、明らかに先ほど早苗さんと居た場所とは違う。
「博麗神社?」
「その通り。分社があるからここまではひとっ飛びってわけさ。詳しい原理は、神でもわからん。さて、急がないと勘のいい紅白がやってくるからね。いろいろ聞かれると面倒だ」
私を抱いたまま、神奈子さんはゆるゆると飛ぶ。その腕から伝わる熱が心地よく、もの苦しいような、懐かしいような感情を呼び起こす。
だから気になってしまったのだろう。今もどこかで、ずっと独りでいるだろう諏訪子さんのことが。
――ちょっと、どういうこと!? 諏訪子が呪われているだなんて、そんな。
呪いをかけられているのは自分だ、と。そう諏訪子さんに告げられたとき、神奈子さんはひどく狼狽していた。
「理由はまだわからないけどねー」
一方諏訪子さんは飄々としたもの。夕食後、早苗さんが風呂の支度に取り掛かるやいなや、中断していた話し合いが再開する。
「だーいじょうぶだって。どうせ神に呪いなんて効きはしないんだから」
ごろり肘をつき横になって、諏訪子さんはしゃあしゃあと酒を呑む。
「でもさすがに穏やかじゃないよ。諏訪子、呪ってるのは誰なのさ。教えなさいよ」
思えば、興奮する神奈子さんをさらに焚きつけようと、諏訪子さんはあんな態度だったのかもしれない。
「そこまでは特定できないんだな。第一、教えたら神奈子、そいつをギッタンギッタンにするでしょ」
「そりゃ……そうさ」
「それじゃダメなの。呪いってどうやって解決するのか、神奈子は知らないでしょ?」
杯をあおって神奈子さんは唸る。どうやって解決するのだろう?
早苗さんに作ってもらったお湯割り焼酎をすすり、炒り銀杏を齧って私も考える。呪いなんてものは捨て置けばいいと、そう思っていたからだ。
「呪いなんて、非生産的だよ。理解する必要なんてないさ」
「くらえー!」
「きゃーっ!?」
いきなり、どこからともなく取り出した今朝のヒトガタを諏訪子さんにぶつけられ、神奈子さんは畳の上を転がりまわる。
「あっははは。ささ、天津より来たる八坂の神よ、どうにかして祓いたまえ清めたまえ?」
猪口で何口かすすったばかりなのに、諏訪子さんの顔は真っ赤だ。はじまる呪い人形のキャッチボール。人間の身としてはあまり心安らかではない。
組んだ足元に転がったヒトガタを、目を細くしてにらみつけていた神奈子さんだったが、やがて観念したようにごくりと唾をのみこみ、人差し指と親指ではさんでつまみあげた。
ちなみに、楔はもう抜いてある。どてっ腹に穴が開いているのが、一層禍々しい。
「……なにさ、こんなもの」
乱暴にむんずと掴み直すと、神奈子さんは気合一閃、造作もなく握りつぶしてしまった。指の間から吹き上がった炎が、砕けた木屑を消し炭に変えて吹き散らす。
「あーっ」
膝を打って立ち上がったのは諏訪子さん。相変わらず赤ら顔だが、それが酔いではなく別の感情によるものに変わっていると気づいたのは、私だけだったろう。
「へ、へへん。どうだい阿求。最初っから、こんなもん怖くなんてなかったのさ」
そのとき私は煌々たる二つの炯眼に目を奪われていた。部屋が暗いわけでもない。なのに、瞳を囲む諏訪子さんの表情が、見えない。
「……寝る」
「へ?」
ようやく、諏訪子さんの様子に気づいた神奈子さんが顔を上げたが、時すでに遅い。
「もう知らない! 神奈子のばかばか! えんがちょ!」
「おいおい、なにそんなに怒ってるの。一番風呂譲ってやるから落ち着きなよ」
「今日はもともと私の順番だい!」
ぴょこんと跳ね起きた諏訪子さん、神奈子さんの手をばしりと跳ね除けた。
「呪いを祓う方法だって教えてやんない! 今回は神奈子が自分でどうにかしなよ。解決するまで、口きいてあげないから!」
あっかんべー、まで投げつけられ、天地開闢の勢いで障子が開き、また閉まる。
神は嵐とともに去れり。心なしか、雨まじりだったような気もするのだが。
「子供か」
立てた膝にあごを乗せて、やれやれと神奈子さんはため息をついた。
「でも、本気でお怒りのようでしたが」
「うん、まあね。岩戸に篭るのはアイツの方だったかも」
「どうかしましたか?」
さすがに聞きつけたか、早苗さんがひょっこり顔を出す。
「ああ、なんでもないよ。諏訪子は?」
「鼻息荒くお風呂に飛び込んでいかれました、から……」
「気にしないでいいよ、早苗。諏訪子が出たら次は阿求を案内してあげな」
それで引っ込んでしまうのだから、この手の諍いはいつものことではあるのだろう。しかし私は、その夜寝床に入ってからも、記憶に刻まれた諏訪子さんの怒りの表情を何度も見つめなおしていた。
翌朝、朝餉の席に諏訪子さんは現れず、探しに行こうとした早苗さんを適当に誤魔化し、二人になったところで神奈子さんがやおら立ち上がる。
「仕方がない。不本意だが、これも信仰の一環と思おう。まずは呪いについて知ることだ。阿求、一緒に来ておくれ」
「かまいませんが……私でお役に立てますでしょうか。まじない占いの類は、正直よくわかりません」
つまり、藁人形に釘を打ったあとのことまでは知らないということだ。それに、本格的に行われる呪術ならともかく、そういった願掛け程度のものは、内心軽んじていたこともある。
「もちろん。役に立ってもらうよ」
神奈子さんは大きくうなずいた。
そして今。博麗神社にほど近く、まばらに雪化粧したなだらかな林に、私を抱きかかえた神奈子さんがゆっくり降りていく。
「で、結局どちらへ向かっているんです」
「餅は餅屋ってね。やはり専門家をあたるのが常道というものだろう」
神奈子さんはまたウインクした。
--3-----
「ええと、あのこんにちは。いや、ここは暗いからこんばんわ、かな? さすがは地底といったところでしょうか。申し遅れました、わたくし稗田阿求と申します。地上では知らぬ者なき有名人でして。ごめんなさいそれは言い過ぎでした。緊張しているもので、あはははは」
「……」
私を見つめる、深い色の眼。いにしえの王の遺骸を飾ったという翡翠の玉にも劣らぬ輝きには、一切の感情が含まれていない。
「実は私、幻想郷の風物について広く記事を書いておるものでして、このたびめでたくこちらとの行き来が再開したということで、ここはまず架け橋たるこの場を守るあなたにこそ話を伺うべく参上した次第でしていやはや」
取り乱しているのは自覚しているが、これは仕方がないのだ。いつもなら私は、直接妖怪のもとへ出向いて話を聞く場合、たとえどんなに温和で友好的という評判だとしても、事前の聞き取りや古書の照らし合わせなど、入念な調査を欠かさない。
幻想郷縁起は――近頃は人妖問わず広く読み物として受け入れられているが、あくまでも人間のために書かれるものだ。妖怪のためではない。つまり妖怪が、書き手の私に敬意を払う必要など欠片も存在しない。
無用のトラブルを避ける、これは私なりの知恵なのだ。それなのに、ろくに下調べをしていない妖怪の前にぽんと放り出されてしまうなんて。
中空に広がる闇を、私は睨みつける。
「……人間?」
やっと喋ってくれた。思ったより可憐な声だ。
「本当に人間なの?」
ホッとしたのも束の間、いきなりずかずか近づいてきた彼女にぐいと肩をつかまれる。
その手の冷たさと、思わぬ力強さに心臓が跳ねる。そういえば、鬼とも同一視される存在だったか。
橋姫。私の知識では、嫉妬に狂った人間の女が変じたものということだが、今回重要なのはそのあたりのことではない。
「どうやら本当にただの人間みたいね」
「ええ、私はただの無力な村人Aでして」
「どうかしら。ただの人間がこんなところに下りてこられるものやら。この前の人間たちみたいに礼儀知らずなら、橋から叩き落すわよ?」
水底みたいな闇に、水音が響く。それ以上に緑の瞳が深い。私は大きく首を振るしかない。
「まあ、いいわ」ふっと目を伏せた橋姫が離れ、欄干に柳腰をもたれる。「子供を苛めるのは趣味じゃないし」
「子供じゃありませんてば」
「ふふ。名乗られっぱなしも癪ね。私は水橋パルスィ。それで人間、何の用?」
ふわふわした金糸の髪に異国風の服。落ち着いて見ると、とんでもない美人だ。
「……妬ましい」
「え?」
「なんでもありません。ついでに私は阿求です。それでパルスィさん、いくつかお聞きしたいんですが」
しばらく、地底世界のことなど尋ねて機会をうかがう。
橋姫という名が神奈子さんの口から出たとき、私はすぐその意図を察した。藁人形に釘を打ち込み災いあれと祈る、いわゆる丑の刻参り。伝承によれば、その呪いを最初に行った存在こそ、橋姫なのだ。いわば彼女は、丑の刻参りのパイオニアなのである。話を聞く相手としては、これ以上ないほど適任だろう。
しかし話題が話題である。ここは慎重に誘導しなければならない。さりげなく……。
「ところでパルスィさん。最近誰かを呪ったことがありますか?」
少しもさりげなくない。なんとか、遠まわしに話題に近づかなければ。
「藁人形って、可愛いですよね!」
そんな同意の求め方があるか。万が一、うん可愛いわよね、って乗ってこられたらどうする。
「呪いの動機って、やっぱり失恋ですか? でも、相手に嫌われないためには逆効果じゃありませんかね?」
「子供にはわからないわよ」
「子供扱いしない。だって呪いをする女なんて正直気持ち悪いじゃないですか。なんて、これは怒るかなあ……ですか」
……え?
どうして返事が。いやそもそも、なぜ考えていることが声になって聞こえる?
思わず口を押さえ、私は二つのことに気づいた。これは私の声ではない。もう一つ、すでに手遅れである。
弓なりになった橋の向こう岸から、影から浮き上がるように現れたのは、紫の髪にどこか着崩した風の洋装姿の娘。おそらく人間ではない。いや、胸元で揺れる不気味な一つ目は、ある妖怪の特徴のはず、確か……。
「ご名答。私は覚りよ。あなた、妖怪に対する知識においてはただの人間ではないわね」
そう、その第三の目は、相手の心を読むことができるのだという。
びゅうと風が吹き、地底の空気が動いた。私の傍に来た覚り妖怪はふわりと浮き上がる。
「散歩していたらやたら強い念が漏れてくるから、ちょっとお節介してみたけれど、余計だったようね。失礼したわ」
眠たげな瞳に悪戯っぽい笑みを浮かべた彼女は、「地底へようこそ」と優雅に会釈をし、そのままそそくさと消えてしまう。残されたのは、私と。
「ふ、ふふふふふ……」
鈴が鳴るようにころころ笑い、橋姫が歩いてくる。心底楽しそうな様子に、これは案外怒っていないかもと、希望を持ってみる。
「どうしてほしい? やっぱりサービスが足りないかしら。白装束に五徳を被って、ろうそくも用意した方がいいのかしらね?」
前言撤回。やっぱり怒ってます。いきなりぎりりと目じりを吊り上げた彼女が、両手を掲げて迫ってくる。
「よくも古傷を抉ってくれたわね。その度胸、人間にしておくには惜しいわ。実に妬ましい」
「パルスィさん、あの。そんなつもりじゃ」
「あんたの聞きたいのは丑の刻参りについてね。そんな名前のスペルあるから、味わってみる?」
顔の前で腕を組み、力を放出する。冗談ではない。強い風が、橋の上に吹き始める。
緑の目は、いよいよ昏い。
「あっ」
ひょいと、足を風にさらわれた。
「失恋だとか、怨みだとか、あんたに色恋のなにがわかるってのよ。子供が容易く語るな! ……くっ、なによこの風」
顔を覆った橋姫の姿が、足元はるかにどんどん遠ざかっていく。濃密な地底の闇が、あっという間に私たちの空隙を埋めた。
すっかり馴染んだ感触が私を包み、ぐいぐいと体が、地上への風穴を上りはじめる。
「神奈子さん! 遅いですよ、間一髪だったじゃないですか」
どろどろと姿を現した神奈子さんは、「ごめんよ」と気軽に言う。
「肝が冷えましたよ、もう」
「そう膨れなさんなって。地霊殿の主に出くわすとは思わなかったわ。運が悪かったね」
「覚りの妖怪のことですか」
「うん。古明地の娘さね。あいつ、私のことにも気づいていたね。思考までは隠せないからな」
なるほど、橋姫が怒っても助けが入ると、あの妖怪にはわかっていたのか。いや、それならば。
「なおさら、神奈子さんが姿を隠した意味がないじゃないですか。出てきて話を聞けばよかったのに」
「うんまあそうなんだが。地底では私らはあんまりね。目立ちたくないんだわ。だから阿求に頼んだんだが」
頬をかいて神奈子さん、言葉を濁す。そこで私たちは地上に飛び出し、まばゆい光に一瞬、目がくらむ。
「でも案外、慎重なんだねえ。妖怪の記事なんて書いてるんだから、もうちょい堂々と渡り合うかと思ってたよ」
からかうような口調に、いささかむっとする。
「人間はそうやって生き延びるんです。力もないのに恐れないのは、ただの愚か者です」
「然り」
湖へと流れ込む谷川のほとりに、神奈子さんは私を下ろし、うーんと思案する。
「しかし、これからどうするかね。吸血鬼んとこの図書館でも覗かせてもらうかい?」
湖の霧にぼやけて、はるか先には紅い館の時計塔が、シルエットだけ浮かび上がっている。
「いっそ博麗に頼んで祓ってもらうというのは」
「うーん、そうだねえ……。異変のたぐいと思われると困るしねえ……」
気がすすまないらしい。神社同士の縄張り意識とか、いろいろあるのだろうと、私は勝手に解釈する。
薄氷のような雲の向こうに、春ののどけさを宿した空がのぞいている。高いところを真っ直ぐ飛びぬけていく影は天狗だろうか。文さんではなさそうだが、やはり新聞の取材でもしているのかもしれない。
「あ、そうだ」
新聞で思い出した。どうして彼女のことを忘れていたんだろう。
「お。なにか心当たりがあるのかい?」
「ええ。もうひとり、この呪いに関しての専門家がいるんですよ」
しかし、目当ての人物を里の外れ、寺子屋近くの辻にて見つけて声をかけた私は、激しく後悔する羽目になる。
「あ、阿求ちゃんだ!」
その彼女――アリス・マーガトロイドはちょうど人形劇を一幕演じたところだったようで、周りの人垣と歓談していたのだが、その一人が私にめざとく気づいたのだ。
不覚。
「なにそれー? 珍しい格好してるね!」
「本当だ、かわいい!」
口々に叫んで走り寄ってきたのは、寺子屋に通う、私と同年代の少女たちだ。私自身は寺子屋の生徒ではないが、どういうわけか妙になつかれている。
遊びに誘われることもある。さすがに、三度に一度は断っているが。
「え、いや、これは」
すっかり失念していたのだ。今日は早苗さんのスカートを穿いていたことを。
取り囲まれてかわいいかわいいと連呼され、遠巻きの大人たちからも物珍しげな目を向けられ、頭のてっぺんからつま先まで茹蟹みたいになっているのは自覚するが、どうにもならない。
そしてとどめに。
「これは、見違えましたよ、阿求さま」
禎太という、稗田の屋敷に繁く出入りする行商人がにこにこと歩み出て、私の前にしゃがみこんだのである。
「禎太っ……。どうかこのことは、屋敷の皆には」
「ええ、わかってます。言いませんよ」
大きな手のひらが、私の肩に軽く置かれる。洋服を着ていたことではなく、かくのごとくの騒ぎになったことを知られたくないのだ。口さがない、いつも話題に飢えている使用人たちには。
「行きましょうか。私に用だったんでしょ?」
そこへ、騒ぎをよそに悠々と片付けをすませたアリスさんが近づいてきた。
「みんな、ごめんね。続きはまた今度」
アリスさんが手を振ると、えー、と不満げな声を残して子供らが散り始める。私の周りにいた子らも、禎太に促がされて離れていく。
「でも、よくお似合いですよ」
去り際に彼がつぶやき、私は思わず頭を抱える。
アリスさんを連れ、足早に町外れに至る。酒屋の蔵が並ぶ裏手に、枝ぶり見事な赤松が雪をかぶっている。あたりに人気はない。
天からさっと風が吹き、雪の欠片が舞う。神奈子さんは腰に手をあてて、私たちの前に降りてきた。
アリスさんがちらと私を見、鞄を持ちかえて一歩後ずさる。
「山の神じゃないの。用があったのは貴方?」
「そう構えなさんな。聞きたいことがあるだけさ」
「普通に出てこられないんですか、神奈子さん」
「いや一応、神っぽくしないとね。別に街中をほいほい歩いても構わないんだが。ところで、阿求」
「なんですか」
ちょいちょいと手招きされ、かがみこむ神奈子さんの口元に耳を近づける。
「さっきのオトコは、あんたのいい人なのかい?」
「なにを仰いますか」
「おや、存外淡白な反応。もうちょい慌てるかと思ったのに」
「お門違いだからですよ」
別段禎太を嫌っているわけではないが、そういう次元ではない。しかしこの神ときたら、縁起に記すときには趣味・覗きとでも付け加えてやろうかしらん。
「あら、私も思ったわ。いい雰囲気だって」
思わぬ方角から奇襲をくらい、つんのめりそうになる。知るほどにアリスさんは好人物だが、人形のように澄まして冗談を言ったりするので困る。
前と横から計四つの瞳にじっくり覗き込まれて、さすがにきまりが悪くなる。
「もう、アリスさんまで! 本題ですよ神奈子さん。さっさと用件を済ませましょう。藁人形です、アリスさん。あなたには覚えがあるのではないかと思うのですが」
「ん? 藁人形。藁人形ね」
きょとんとしたアリスさんはかがみ込み、鞄に手を入れてごそごそ探った。
「まさか」
じりじり後退しかけた神奈子さんの裾をはっしとつかまえる。
「嫌な予感が」
「だからって、逃げてどうなるんです」
「あったあった。ちょうど持ち合わせていたのよね」
まるでハンカチでも出すかのようにアリスさんが手にした藁人形は、藁の切り口もまだ真新しい。
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「つまり、犯人はあんたってことだ!」
なんとなく、その反応は予想できたので、私は落ち着いて、アリスさんを指差しわめく神奈子さんを、なんとか人気のない茶屋の縁台まで引っ張っていった。
「なるほどね。神の思わぬ弱みってやつね」
「うう、知られてしまった……」
神奈子さんが余計な動揺をみせたおかげで、ことの経緯をあらかた話さなければならなくなったのである。
「かわいいじゃない、ねえ」
どういうからくりか、ふわりと浮いた藁人形が縁台にかけたアリスさんの膝の上をとてとて歩く。今日はじめての笑顔がアリスさんから零れた。ひいぃと押しつぶした声をあげ、神奈子さんが私の肩に顔をうずめる。
「それにこの子には、まだ名前を書いた紙も、誰かの髪の毛も埋まっていないから。呪的アイテムとしての力なんてない、ただの人形よ」
老婆が黙ってお茶と団子を置いていく。目がよくないのか、アリスさんの手に抱きついた藁人形にも、気に留めた様子はない。
「確かに私は、天狗の新聞に載ったけれど」両手にはさんだ湯のみに、アリスさんは小ぶりな唇をつけた。「あれは呪いの効果をためす実験みたいなものだし、それ以来丑の刻参りの真似事はやっていないわよ。それに第一、妖怪の山に分け入るなんて面倒なこと、頼まれたってやりたくないわ」
私の肩口にしがみついたままの神奈子さんと目をあわせ、アリスさんはしぶしぶ藁人形を鞄にしまいこむ。
文さんの新聞に、アリスさんが大量の藁人形を博麗神社の森の木々に打ち付けたという記事が載ったのは、だいぶ前のことである。
「博麗んとこでバレたから、ウチの森にしたとか」
「あのね。私の記事を書いたのは文なのよ。そこんとこわかってる?」
「ははは、冗談にきまってるじゃないか。あんたがやったなんて思っていないよ」
「どうだか。さっきは本気みたいだったじゃないの」
山は文さんの本拠地である。アリスさんのいうことに嘘はないだろう。私は、いつもなら山肌がそびえる空の一角を見やる。今は低い雲が垂れ込めているばかりだ。
いったい諏訪子さんを呪ったのは誰なのか。
もし人の身ならば、まる二日はかかる行程をえっちらおっちら、守矢神社を囲む森まで登っていったことになる。しかも呪いの人形は二日連続で見つかっている。冬の山で、野宿でもしているというのか。天狗や他の妖怪の目もあざむいて。
考えにくい。もちろん霊夢やアリスさんたちならその限りではない。しかし移動の問題は解決しても、結局入山するためには許可が必要になる。その基準は、相当にきびしいはずだ。
妖怪の監視に一切捕まらず、もしくは存在だけで入山を認めさせてしまうような大妖怪も、いないわけではない。ごく一人二人に限られるが、私はその存在を知っている。しかし……大妖と呼ばれる者が、丑の刻参りなどするだろうか?
どこかで私は、今回のことは人間が引き起こしたのではと思い込んでいた。思い込みとわかっていながら、その考えを捨てたものか、迷っている。
「ところで。その呪い、成就したのかしら?」
アリスさんが、きれいな爪の指を組み替えた。
「効果は現れたの? 相手はケガでもした? ひょっとして死んだ?」
うつむいてくつくつ笑う、その横顔はちょっと怖い。
「ピンピンしてるよ」
串に刺さった団子を二つ一気に引き抜いた神奈子さんが、不快そうな声を出す。やはり気づいたか、という顔だ。神奈子さんは、誰が呪われたかまでは、言わなかったのだ。
「やっぱりね。ただの呪いならお焚き上げでもすればいいのに、どうしてなのかと思っていたけれど。呪われたのはあなた? それとも、あの巫女かしら」
「早苗は風祝だ。諏訪子だよ。本人がそう言ったんだ」
「なるほど。神に呪いか……」
「身内の恥をしのんで話したんだ。呪いをとく妙案でもないかね?」
「アリスさんのかけた呪いは、どうだったんです? 成就したんですか」
いきなり口をはさんだ私を、アリスさんは目を丸くして見おろした。
「私? どうして。もうそんな古い話。それにあれは実験だって」
「呪いの意をこめない実験なら、結果をたしかめようもありません。動機になった思いが、あるんじゃないですか。その思いを向けた相手が、いたんじゃないですか」
「阿求……。あの、ええと」
橋姫の、突き通るような緑の瞳を思い出したのは、何故なのだろう。アリスさんは表情をやわらげてみせたが、私の意志は固い。彼女の答えに解決の糸口があると、信じきっていた。
「まあまあ、阿求。アリスにも事情があるだろう。このくらいにしておこうよ。思いついたこともあるし、ここらで神社に戻ろうじゃないか」
神奈子さんがそっと湯のみを私の膝に置く。口に含んだ茶は、すっかりぬるくなっていた。
縁台に銭を置いて立ち上がった私たちを、アリスさんはため息をついて見上げた。
「まいったわね。神奈子には助けられたみたい」
彼女を困らせたことに、私はやっと気づいた。
「すみません、アリスさん。ちょっと熱中してしまったようで」
「いいのよ、そんな阿求も、いいわ。その服装もね。これじゃお礼に、神さまの弱みについては忘れてあげなくちゃいけないみたいね」
「わざわざ言わずとも、あんたならわきまえてくれると思っていたよ。良識派魔法使い?」
神奈子さんはかかと笑い、アリスさんは渋い顔で冬木立を歩き出す。少し離れて、顔を向けた。
「それにしても、変わった組み合わせね」
「昨日から、守矢の取材をさせていただいているのです」
「へえ。縁起の改訂でもする気? 阿求、答えてあげられなくってごめんなさいね。またいつか話しましょう」
それきり振り返らず、青いスカートは遠ざかる。うーんと伸びをした神奈子さんが私に手をさしのべる。
「あ、神奈子さん、ちょっと」
「なんだい、屋敷にでも戻って着替えをとってくる?」
「……そう思いましたが、やめておきます」
私はショールを胸元にかき寄せた。禎太は口が堅いが、別のところから耳に入って、使用人たちで盛り上がっている可能性もある。魚の群れに餌を投じるみたいに騒がれるのは、なによりたまらない。
「今度は着物を貸してあげるからさ」
神奈子さんは優しく私を抱き上げた。
守矢神社へ飛んで戻ると、社務所の縁側に座っていた影が、こちらに気づいたように立ち上がった。
「お邪魔しています。取材はどんな調子ですか、阿求さん」
着地した神奈子さんと私を順番に見やり、文さんはどこかそわそわしていた。
「ええ、ぼちぼちといったところでしょうか」
「それはなにより。詳しく聞きたいところですが、本日は急ぎますので」
そそくさと立ち去ろうとする。
「あ、お茶入れましたのに。――お帰りなさい、神奈子さま、阿求さん」
廊下を渡って、早苗さんが盆を持ってあらわれる。
「ではもったいないので、行儀が悪いですが」
文さんは立ったままお茶を一息にあおり、「ごちそうさま」と手を上げて飛び立った。胸に下げた愛用のカメラには、触れようともしない。
「妙だな」
「妙ですね」
「なにがですか?」
空になった湯のみを盆にのせて、早苗さんが首をかしげる。
「てっきり、喰らいつかれて根掘り葉掘り聞かれるかと思ったんですが」
私をここに送り届けながらも、興味津々だったのである。未練がましく立ち去りかねていた彼女からは、想像もできない豹変ぶりだ。
文さんが消えた空にはどっしりした雪雲が横たわっている。別の天狗が軽やかにその雲を分けて現れ、湖の方へ飛び去った。
「そうだよ。あいつが阿求のこの格好を見逃すわけがない。写真にも撮らないだなんて、ありえないね。特ダネだよ? 号外が出てもおかしくないよ? 題して『御阿礼の子、洋服を着る』」
「……そこまで物珍しいものでしょうか」
触れられなくて、むしろホッとしたのだから。
「そうですよ。お似合いなんですから」
微妙にズレたなぐさめ方をされる。縁側に膝をつき、新たに持ってきた湯のみに急須からお茶を注ぐ早苗さんに、神奈子さんがたずねた。
「文はなにを聞きにきたんだい?」
「普通の世間話でしたが。阿求さんのことも聞いてましたよ。留守だとわかると、天気がどうとか、この前の新聞がどうとか……」
「ふむ」
どっかり腰をすえて、神奈子さんは沈思の構えだ。
夕刻になり雪が舞い始める。着替えた着物で縁側に出ると、神奈子さんはまだ同じ姿勢でいた。その隣には諏訪子さんが小ぢんまりと座っている。仲直りしたのかと安堵したが、ニ柱は薄暗がりに薄片が散る庭を真っ直ぐ眺めて、お互いを見ようとしない。
「必要なんだよ」
「いいや、要らないね」
頑なに首を振るのは、神奈子さんだ。
「神奈子の悪い癖だよ。負の感情をも含めて、人間なんだ。認めなよ」
「いいや、必要ない。恨み妬み呪う時間は、無駄だ。当の人間を苦しめるだけだ」
声をかけそびれ、半開きの障子に手をかけたまま、私はじっとしていた。
「今日、里にいる間にさ」神奈子さんは背中をぐっとそらした。「一組の男女が、めおとになった。女の赤ん坊が、二人生まれた。どちらも人間の、歓喜の声で囲まれていた。それで、いいじゃないか。そうやって人間は進んでいくんだ」
「同じように、私らがまばたきする間にも、病人が出て、葬式も済む。そうだろう?」
神奈子さんは答えなかった。ため息とともにかすかな笑みを浮かべ立ち上がった諏訪子さんが、私の肩を抱いて、「冷えてきたから、おいで。ご飯より先にお風呂にしよう。一緒に入ろう」と居間へと連れ出す。
一度振り返ってみた神奈子さんの姿勢は変わらず、その大きな肩にはうっすら雪が積もっていた。
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天狗は夜目がきかないとも聞くが、本当だろうか。
流れ星のように夜空を過ぎた軌跡を見送り、おそるおそる木陰から身を起こす。
荒い息が垂れ下がる枝を叩き、雪がこぼれる。濡れた落ち葉が滑って転びそうになり、なんとか踏みとどまる。
着慣れぬ着物は汗を含んで重い。五徳に挿したろうそくが音を立てて燃え、目の前の空気ばかり照らすおかげで、森はいっそう暗い。
どうにか、守矢の社の灯が見えてきた。神木というにはもっと近づいた方がいいのかもしれないが、このところの藁人形はすべて回収されている。これ以上近づけば見つかってしまうだろう。
懐に仕込んだ藁人形を取り出す。木に押し付けるとき、いつも指が震えてしまう。
真新しい釘を、人形の胸に差し込む。片手で保持しているのがつらい。木槌を握り、振り上げた。
澄んだ音が、広大な森に響き渡る。最初に生まれるその音に、彼女はいつしか呪いなどではなく、はかない願いを込めるようになっていた。
会いたい。
<続く>
続き行ってきます!
神奈子様が愛らしすぎてもう私はダメでごわす……
後半も楽しみに読ませてもらいますね
特にパルパルとあっきゅんのやり取りが好きだ
早速後編へ。