エリザベート・バートリはロリコンである。
己が美貌が為と称して、数千の処女の血をバスタブに満たし、恍惚の表情をもってそこに身体を浸すなど、吸血鬼の所業というよりも、危ないロリコンの所業に違いない。
底知れぬ悪女であるのは間違いないだろうし、その美貌はカリスマを名乗るのには十分であろう。
しかし、及ばぬ。
なぜか。
彼女は人間である。
かの有名な鬼女は吸血鬼ではない。
彼女は、人間なのだ。
危ないロリコンに、純然たる吸血鬼が、劣る道理があるだろうか――
それは現実逃避だった。
不条理な事実から逃げだしたいが為の現実逃避。
紅魔館のお嬢様――レミリア・スカーレットは夜目覚める。
しかし訳あれば、今日のように朝方に目が覚めてしまうことも、たまにはある。
小一時間前の小悪魔の話を思い出す。「怪談? クックック、怖がるわけないじゃない」などと言いながら、フランドールの隣で聞いた小悪魔の怪談話を思い出す。
今、レミリアは恐る恐る廊下を歩き、この時間に限りあやかし(首の長いやつとか、は○こさんとか)が住まうと聞く「WC」と掲げられた部屋へと向かっていた。
「……フフ、フフフフ、あ、あの程度の怪談で、ひゃっぁ!!」
突如レミリアの首筋を水滴が襲った。雨漏りである。絢爛な館にあって雨漏りとは何事か。CIA(Cirno,Inubashiri,Ayaya)の陰謀か。最初の⑨はともかくとして、後の二人は実に油断ならない連中だ。ひょっとしたら、この瞬間もカメラを構えたパパラッチが物陰に潜んでいるかもしれない。
(いやしかし、あの犬走椛とかいうやつの耳と尻尾、あれは一度でいいからモフリたいねぇ)
レミリアは過去に一度、咲夜に犬耳尻尾をつけさせたことを思い出す。非常によろしかった。しかし、何かが足りない。何が足りないのか。――あぁ、反応か、と気が付いた。
身体の一部としての耳尻尾をまさぐられるのと、慰みに取り付けられた耳尻尾をまさぐられるのと、まさか同じ反応をする訳はなかろうて、と結論付ける。ではパチュリーに言って、咲夜に本物の犬耳尻尾を生やす魔法を探させようかとも思ったが、今はそれどころではない。耳と尻尾をモフられて、うっとりと揺れる咲夜の表情を思い浮かべるとそれはそれはたまらなかったのだが、今はそれどころではない。
先程の水滴の奇襲攻撃はレミリアの我慢ゲージを確実に削っていた。
レミリアは暗い廊下を疑心暗鬼に駆られながら歩いて行く。明け方の奇妙な空気が、その道のりをより一層異質なものにしていた。その道をレミリアは一人で進まなくてはならない。今の時間、咲夜は仮眠をとっている。だから彼女に頼ることは出来ないのだ。
ようやくその部屋の前へと辿り着く。
周囲を見回してから、ドアノブに手を掛ける。が、
「なん…だと……?」
ドアはピクリとも動かない。
(これが流言飛語に聞く、開かずのトイレ……!)
流言飛語とはつまり小悪魔の怪談話を指す。が、しかし彼女はカリスマである。慌てるといったような醜態は晒さない。我慢ゲージに余裕があるうちに、上品にノックをする。
二度ほど、乾いた音が廊下に反響した。
しかしそれだけ。それだけだった。何の反応も、ない。
(ちょ、中で誰か死んでるとか……)
まさかまさかと考えながらも、無闇に否定は出来ない。相手は、あやかしの住まう部屋だ。
咳払いをして今一度確かめる。
「コホン。誰か入っているのなら、返事をして頂戴」
鈴を鳴らした様に透き通った声でドアを叩く。肘の角度は九十度。コツンというノックの音は狂いなく440Hz、Aの音である。その挙措動作は(どことなく内股でもじもじしていることを除けば、)まさにカリスマそのものである。
ドアの向こうはどうなっているのだろうか。今のレミリアにとっては、さながらパンドラの箱だ。
階下のトイレへ行くべきか。彼女はしばしの沈黙をもって思索する。
「聞こえていないのかしら。返事をなさいな」
よく見れば、ドアの隙間からは光が漏れている。真っ暗な廊下にぼうっと漏れ出している光に、レミリアは今になって気が付いた。
(やっぱり中で誰か、ん)
……犯人はヤス。パチュリーの入れ知恵である。
ドアの隙間から、疑似サスペンスの香りがした。
(いや、そろそろそれどころじゃない)
もう一度、今度は強めにノックをする。コツンコツンと、静かな廊下にいやに響いた。
レミリアがビクリとして後ろを振り返る。何かがいるわけがない。いるとすれば、パパラッチくらいである。
ホッと胸をなでおろす。が、すぐに今度は後ろから、確かにノックの音が聞こえた。
「ひゃっ!」
振り返る。扉がある。恐る恐る、もう一度ノックする。
「……返事をして頂戴」
(あー、もー!! はーいー、ちょっと待って下さいよー。待てないなら他の階に行ってください。あれ? 待てないならアウトですね。ははっ…………はぁぁあ、全くパチュリー様ったら「小悪魔、貴方はこの季節に一緒にいるとやたらと怪談話をするから、別のところで読書でもしてなさい」って。最終的にトイレで落ち着く私も私ですが……)
トイレの中から、ブツブツと小言が聞こえる。
「……ちょっと、あんた、小悪魔なの?」
(へ? その声は)
やっとのことで会話らしい会話が成立した。図書館を追い出された家なき子が、ようやく館の主に気が付いた。
「あ、あわわわー!! も、申し訳ありません! お嬢様だとは気が付かずに!」
木のドアが思いきりきしみながらドスンと開いた。
「っと、危なっ!」
レミリアが飛びのくようにして、その悪意なき攻撃を避ける。可憐なバックステップである。
「さ、さぁさぁどうぞぅ……」
厚さ四から五ミリほどのA5サイズの書物を何十冊もかかえるように抱きながら、小悪魔がレミリアをトイレ内に導き入れる。
不夜城レッドをお見舞いしてやろうか、お前も蝋人形にしてやろうかと思いながらも、まぁそれどころではないなと考えなおして、レミリアも素直に小悪魔の誘導に従った。
「あんたも不憫ね」
トイレに踏み込み、振り返りながらレミリアが言う。こんな時でも気遣いを欠かさない。実によくできたお嬢様であり、カリスマである。
「あ、あはは……ではごゆるりとぉ」
レミリアはぎぃっという蝶番の泣き声を聞きながら小悪魔の顔を眺めていると、今更ながらちょっぴりトラウマな怪談話を思い出した。
「ちょっ、ちょっと待って!」
バタン、と扉が閉まり、レミリアは閉じ込められた。
「……ん?」
閉じ込められると、まぁ意外と冷静になるもので、その冷静な頭で考察してみると、
「我慢してたら、平気になっちゃったわ」
尿意とは、概してそんなものである。そしてさらに冷静に考えれば、洋式トイレにあやかしは些か似合わない。全て杞憂である。
芳香剤の、薔薇の香りが切なかった。
「部屋に戻る、か」
トイレを後にして再び真っ暗な廊下を歩く。かすかに階下に人が歩く音が聞こえるのは、メイド達が朝のお勤めを始めたからだろう。
しばらく歩いて右に折れるとレミリアの自室があるのだが、眠気が覚めてしまった彼女は廊下のつきあたりの咲夜の部屋が気になった。
(咲夜、まだ仮眠中かしら)
ぴょん、ぴょんと歩くのに合わせて、背中の羽根がひょこひょこ揺れた。
絶対に口には出さないけれど、こんな時間に一人でトイレに行けたことを褒めてほしいな、などとカリスマのカの字くらいしかない事を考えながら廊下を進む。
レミリアはスリッパが絨毯をこする音になんとなく耳を傾けながら、瀟洒な従者の愛らしい寝顔を思い浮かべて廊下を進む。ほどなくして目の前には、さくやのへや、という掛札。レミリアの手書きである。
「そぉぉ、っと」
音を立てないように、慎重にドアを押す。幸い、鍵はかかっていなかった。
「ん、寝てるわね」
咲夜は部屋の隅に置かれたベッドの上で、壁側に顔を向けて寝息を立てていた。
「……寝顔を、見せて、頂戴な」
レミリアがすっ、すっ、すっ、とすり足でベッドに近寄る。向きのおかげで、残念ながら横顔しか拝めなかったが、それでもレミリアは無防備な咲夜の顔を見ると、自然と頬が緩むのが分かった。
常夜灯のみの薄暗い部屋で、咲夜の銀色の髪の毛がいつもよりも艶めかしく、鈍く光っていた。
それを見ているとレミリアの胸の内に、例えば宝石や愛おしいぬいぐるみに頬ずりしたくなるような、そんな衝動が湧き上がる。
「寝てるもの、ね」
そぉっと髪の毛を手にすくうと、頬へ擦りよせる。ふわりと優しいシャンプーの匂いがした。
(oh……キューティコー)
御存知のように彼女、十六夜咲夜はショートカットである。つまりこの姿勢、二人の顔と顔の間に、距離はあってないようなものだった。
レミリアの目の前に、形のいい耳があった。
それを見ていると、レミリアは思うのだ。
(この控え目ながら柔らかそうな耳たぶ……ふふふ、誘っているのね)
これは誰もが感じる、原始的な欲求の一つであるといえる。
耳たぶを、わさわささわさわといじりたいというのは、これは道理なのである。
レミリアは恐る恐る、咲夜のその耳たぶをつまんだ。
「えっ、なにこれふにふに」
ロマンスは、ふにふにだった。
(あぁ、遠い昔、私が飼いたい飼いたいって言っているのに咲夜が「駄目ですよ、お嬢様。結局私がお世話することになるんですから」と無下に却下した捨て犬、そう――館の隅に置いてあった段ボールの中で丸まって凍えて、震えていた捨て犬の肉球なんかよりもはるかに柔らかい……っ!)
ちなみに、この埋め合わせとして咲夜は犬耳尻尾を付けさせられたという。
レミリアは我を忘れて耳たぶを触り続けていた。
「……んっ、んぅ」
咲夜は僅かに寝がえりを打ち、吐息を漏らすが、目覚める気配は全くない。
「ほうほう……意外と無防備ねぇ」
しかし、そう言いながらもレミリアは思う。咲夜は普段仕事をし過ぎなのだ。疲れているから、眠りが深いのだ。
すると、では私がマッサージの一つでもしてやるべきだと、そう思ったのだ。
「レミリア流耳たぶマッサージ……」
とは名だけである。チンクルチンクルクルリンパと心の中で呪文を唱えるが、所謂成り行き上のノリである。
結局は両手をもってしてその耳をいじくりまわしているだけなのだ。もはやふにふにだとかぷにぷにだとか、関係なくなっている。
「っ、あっ…ぁ…すぅ………んっ」
これはあくまで寝息である。しかしレミリアの耳には、どう聞こえていたのだろうか。大切なのはテンションである。
その寝息は、レミリアの手つきに合わせて弾むように揺らめいていた。
やはり、レミリアのお気に入りは耳たぶだ。
「くっ、自分の耳を触っても、こんなじゃないのに……!」
ほのかな嫉妬心がレミリアの心の中でちらちらと燃え上がる。
すやすやという寝息が、薄桃色の吐息が咲夜の唇から漏れ出す。
咲夜の頬が心持ち紅色に染まっていたが、これは寝息なのだし、いかんせん部屋が暗かったので気のせいなのだろう。レミリアはお構いなしに咲夜の耳をまさぐり続ける。
「主が献身してやっているというのに、なんなのかねその気持ちよさそうな寝顔は! これはお仕置きというか、いや、もう少し刺激の強いマッサージが必要のようね」
レミリアが、綺麗に整えられた爪の光るその小さな掌で咲夜の頬に触れる。
「だ、だって、寝てるんですもの。それに、吸血鬼っていったら、雰囲気的には、こ、こっちの方がしっくりくるでしょう」
ぶつぶつと自己正当化の文句を呟きながら、ゆっくりとゆっくりと、レミリアの唇が咲夜の耳に近付く。
「はむっ」
レミリアの小ぶりで血色のいい唇が、咲夜の耳たぶを、挟んだ。
それは指で感じていたよりも、もっと魅惑的な感触で、
(こ、こいつはふにふにどころじゃない。ぷにぷにじゃあないか……!)
犬耳なんていらない。レミリアはそう思った。
一瞬、パチュリーに言って福耳にする魔法を探させようかと思ったが、いやしかし、このこじんまりとした佇まいが素晴らしいのだと、そう思い直してとりあえずその感触をエンジョイすることにした。
もはや、耳たぶだけにこだわる必要もない。
「もふもふもふ」
(ふにふにふに)
「モフモフモフ」
(ぷにぷにぷに)
リズム感が大切なのだ。その吐息、パーカッションのように。もうすぅすぅという寝息と、モフモフという音しか聞こえない。
いよいよ咲夜のその頬がほの暗い中でも分かるくらいに紅潮してきた、とレミリアには感じられたのだが、本当に寝ているのなら、やっぱり気のせいなのだろう。そうに違いない。
彼女は掌で咲夜の頬の熱を感じながら、咲夜の耳をなおもついばみ続ける。
とそこで、ツッと嫌な感触がした。
「ん、あっ、やばッ」
――大切なのは、テンションなのだ。ノリにノッてしまうと、歯を立ててしまうこともある。
そこでレミリアはほんの一瞬、本当に僅かな一瞬に逡巡した。
――この血、私が吸ってしまえば――
いやいや、とそんな思考を振り払う。どうしてだかは分からなかった。
素早く咲夜の耳元から口を話す。
「吸ってないからセーフ!飲んでないからセーフ!舐めてないからセーフ!」
これほどに微量ならなんて事はない。しかし、白い耳たぶを辿る赤い一筋を眺めると、恨めしいやら、寂しいやら、よく分からない気持ちになった。
そのまま、少しばかりぼぅ、っと静寂を嗜む。
「……ふぅ。代わりに、無色透明の血液でもいただこうかね」
ここまでやって寝ているんだから、何をやっても同じでしょう、と頭の中で付け加える。
咲夜の頬に添えた掌を、そっとこちらに寄せる。
レミリアはここにきてようやく彼女の寝顔を正面から見たことに気が付いた。
唇が、吐息を漏らすがために、すこしだけ隙間をちらつかせていた。
「えぇっと、こういうときはあれね。うん。……いただきまぁす」
従者に対しても食前の礼儀は欠かさない。カリスマである。
咲夜の唇のその隙間を塞ぐように、レミリアが覆いかぶさる。レミリアには咲夜のその唇がひとりでに開いてレミリアを受け入れたかのように思えたのだが、しかしそれを深く考えるほどの余裕はなかった。
カチッコチッという時計の音が、漏れる吐息を、交わり跳ねる水音をかき消した。
――あぁそうか。どうやら今日は、雨のようだ。
・
「――ます。お嬢様」
レミリアが、いつも通りの優しい声に揺り起こされる。
どうしたのだろうか。いやに身体が重い。そんなことを思いながら、彼女は上体を起こす。
「おはようございます。お嬢様」
「んぅ、おはよう、咲夜」
目をこすりながら、眼の前の咲夜を、時計を眺める。
ほんの少し、寝坊だった。
と、そこで一気に意識が覚醒する。
(うわ……)
季節はずれの梅雨模様な――丁度、今朝の雨降りのような――ズロースが、ひどく、ひどく憎らしかった。
(クッ…!畜生、これも全て、昨日の小悪魔のせい……! ん、小悪魔といえば、ん?)
思い返してみる。
トイレに向かうと小悪魔がいて、でも結局平気になって、そのあとは……。
そして、自室に戻った記憶がないのに、レミリアは現在自室にいる。
レミリアは回想しながら、一つの結論に辿りつく。
「……ゆ、め?」
「ふふっ、どうかなさいましたか?」
「ううん、なんでも……って、ちょ、ちょっと待って!!」
咲夜はレミリアの言葉を聞かぬふりで、掛け布団をひょいっとめくり、小脇にかかえた。
世界地図が、白昼にさらされる。
レミリアは頭に血が昇って、顔が湯だって、眼の前がクラクラと揺れているような心地に取り憑かれたまま、呆然とする他なかった。
すぅっと、沈黙の妖精さんが部屋を横切った。
咲夜はレミリアの足元に彼女の着替えを揃えると、無言で主の耳元に口を寄せる。
「お嬢様。血が、少し抜けてしまったようなのです」
「へ?」
「にもかかわらず、どうしてだか火照りが治まらないようで」
「うん」
「――また今度、よろしくお願いしますわ」
咲夜はふふっと妖艶な笑みを浮かべてレミリアの耳元で囁くと、レミリアの下のシーツをするりと引き抜いた。さながらテーブルクロス引きである。
その手には世界地図。もう一度意味深に微笑み、ドアに手をかけると、彼女はレミリアの寝室を後にした。
後姿が、意地悪い。
去り際、ちらりと見えた片耳には、絆創膏がしてあった。
「うー……着替えの手伝い、してくれないの」
とはいえ、今日ばかりは嫌らしい手つきと恍惚の表情でネグリジェを脱がされては、たまったものではない。カリスマの大暴落だ。
レミリアは、湿ったズロースと共に、一人残された。
ベッドに腰かけたまま、彼女は思う。
瀟洒と悪女と、そしてロリコンは紙一重なのだと。
・
・
・
・
・
とある日の早朝、咲夜は仮眠を取る為に自室へと戻った。鍵はかけない。
常夜灯に切り替えると、その橙色の灯に照らされるようにして、数日前の出来事が、脳裏に浮かぶ。
ドキリとしたあの一時を思い出す。
お嬢様ったら、仕様がないのだから。
穏やかに回想する。
――果たして、また来てくれるのだろうか。そうしたら、今度は……
少しだけ顔が熱くなるのを感じて、首を振る。
そして微笑んでから――それはそれはねっとりと微笑んでから、血が止まった耳元に、軟膏を薄く塗った。
咲夜はまたいつかと同じように、壁を正面にして眠りに就いた。
寝息の奥では、レミリアが再びこの部屋に訪れる事を期待して。
お嬢様が、すぐに口をつけられるように、その耳を上にして。
……そこに塗られた軟膏が事実何であったかは定かではないが、しかし毒々しい瓶から取り出されたそれが、穏やかなものでない事は、確かのようだ。
そう、レミリアは勘違いをしていた。
咲夜は、瀟洒で、悪女で、ロリコンだった。
しかしあとがきw
これはセフト
グレイト!