パタリ、と本が閉じられる慎ましやかな音とともに、霧雨魔理沙はソファーに横たわったその体をゆっくりと起こした。
窓から月を見上げればどうやら時刻はとうに零時を過ぎているようであり、閑散とした魔法の森では風に揺れる木々の声だけが静寂を打ち破らんとざわめいていた。
窓辺から離れて大きく伸びを一つ。バキボキと鳴った自分の背骨に満足そうに笑みを浮かべ、魔理沙は壁に掛けられたカレンダーの元へと向かった。
七月六日、と記された日捲りのその表面を無造作に一枚破り捨てると、下から現れたのは大きな赤丸の付けられた日付。
世間一般においては七夕と呼ばれ、もっぱら短冊に願いをこめて星に祈りを捧げる日。しかし、そんな世間一般からはるか外れた位置に存在する魔理沙の知人たちにしてみれば、イベントにかこつけた宴会の日という程度の認識であった。
とは言え、せっかくのイベントなのだ。もちろん普段通りの宴会というわけではない。永遠亭から輝夜達が笹を持ち寄り、咲夜と藍が作る絶品料理がテーブルには所狭しと並ぶ。初参加の早苗達や地底の連中はもちろん、普段仏頂面の閻魔もこの日ばかりは顔を綻ばせるだろう。それほど大きな宴会だ。
もちろん準備は朝からになる。数十人分の席を用意し、材料の買出しに出かけ、夕方からは料理と配膳。魔理沙はそれに備え、普段よりも少し早めの就寝をすることにした。
その前にまずは洗い物。数時間前に水に漬けておいたカレーの皿に洗剤を数滴かける。文の新聞を購読したらオマケで貰えたそれが、魔理沙はなんだか気に入っていた。少し擦るとたちまち出てくる泡が、幼い頃のシャボン玉遊びを連想させた。
魔理沙は神に祈る信徒のように両手を組み合わせ、親指だけを広げる。そこに現れた今にも弾けてしまいそうな薄いシャボンの膜にそっと息を吹きかけると、小さな玉がいくつも空へと舞った。
こんな風に遊んだのはもう何年前のことだろうか。自分が実家を飛び出す前、黒と白の魔女装束に包まれる前の頃を思い浮かべる。けれどもあれだけ憎んでいた父親も、家を飛び出そうと思った激情も、魔理沙には全くリアルに感じられなかった。
まるで遠く離れた国の出来事のように、絵本の中の出来事のように。目の前に浮かぶシャボン玉に軽く触れると、魔理沙のリアルは壊れて消えた。
これが年を取るということなのだろうか。だとしたら、年を取るのもそう悪くはない。たまには実家に帰ってみようか、と今までに無い気持ちが生まれてくるのを魔理沙は感じた。
カレー皿の泡も流し去り、いつの間にやら随分と溜まっていた洗い物を全て終えてリビングに戻ると、魔理沙はバスタオルを一枚掴み取りそのままの足でバスルームへと向かった。
歩きながらに上着を脱いで籠に投げ込み、スカートも脱ぎ捨て下着姿に。脱衣所の姿見に映った自分は年相応、とは少しばかり言い辛い体をしていた。
こっちのほうは時間が解決してくれなかったな、と魔理沙は苦笑いを一つして、ドアを開き風呂場へ。地底から直接吸い上げた温泉が出てくるように改造したそれは、今では魔理沙の飛び切りの娯楽の一つだ。
流石に露天温泉とはいかないため景色の方は茶色い板張りの壁が見えるだというのは少しばかり残念だが、少し蛇口を捻ればすぐにでも出てくる熱い湯はつい声を漏らしてしまう程気持ちいいのだった。
「……っくぁー。極楽極楽」
いつも通りのその声を響かせ、魔理沙はゆっくりと三十分の至福を堪能した。
湯から出てリビングを通ると、先ほどまで読みふけっていた本が視界の端に映ったが、もはや片付けることすらもどかしい魔理沙は隣の物置へと全て押し込んでしまい、そのままベッドに横たわった。
明日はいい日になる。そう予感して、魔理沙はぐっすりと眠った。その期待がいとも簡単に裏切られるとも知らずに、ぐっすりと。
翌朝。太陽がちょうどその姿を完全に現した頃、透き通るような晴天の中を魔理沙は自慢の箒に乗って疾走していた。
神社に着いての最初の一言はもう決まっている。そう、今日と言う日をまずは祝うためにまず最初は。
「いよう霊夢! 今日は七夕だぜ!」
境内で竹箒を掃く霊夢を見つけるなり魔理沙はただちに着地。大きく右手を掲げて声をかけたものの、霊夢の反応はどこか訝しむようなものだった。
「ごめん魔理沙。もう一回言って」
霊夢はすぐさま聞き返した。
聞こえ辛かっただけか、と思い直し、魔理沙は先ほどより少し大きな声で再び言った。
「いよう霊夢! 今日は七夕だぜ!」
「……魔理沙。今日は何月何日だったっけ?」
「デロリアンにでも乗ったのか? だとしても1955年の11月5日でないことは確かだが」
「いいから答えて」
「七月七日じゃないか。だから七夕だと言ってるだろう」
霊夢はようやく合点がいった。道理でこのお祭り好きの魔女が何の連絡も寄こさなかったわけだ。
「魔理沙、落ち着いて聞きなさい」
「おいおい、七夕の朝だってのに落ち着けってのか? こちとらテンションが……」
「今日は七月九日よ」
魔理沙のテンションはガタ落ちした。
今この巫女はなんと言ったのだろう。今日は七月九日?だとしたら、七夕は。
「ちょっと待て、んなわきゃないだろう」
「んなわけあるわよ。だからこうして一昨日の宴会の片付けをしてるんじゃない」
魔理沙が辺りを見渡してみれば、辺りには酒の空き瓶やら割れた湯飲みやら散った笹の葉やら。
朝まで飲んだ宴会の日、そのままその日の夜まで寝てしまったため霊夢が放置していた宴会の名残だ。
「お……おいおい!? 宴会を一日早めたのか!? だったら言ってくれれば……」
「早めてもないし、あんたをからかってるわけでもないわよ。今日は七月九日。ただそれだけよ」
なるほど。霊夢がここまで言うということは、間違いない。今日は七月九日なのだろう。
魔理沙はようやく気付いた。そう、これは。
「これは異変だ」
面倒なことになりそうだ、と霊夢は思った。
「そうね。頑張りなさい。んじゃ私は掃除を続けるから」
「ここにみんなで食おうと思ってもってきた特製ケーキがある」
「お茶を用意するわ」
「おう、よろしく頼むぜ」
神社の居間、冬にはこたつ布団がかけられ皆の憩いの場となる机の前で、二人は今回の異変について状況を確認していた。
「七月五日はアリスと会って、七夕の話をしたから間違いない」
「ふーん。んじゃ翌日は? これ美味しいわね」
「六日は家で色々本を読んで、夜はカレーを食べた。零時過ぎに翌日に備えて早めに寝たぜ」
「へー。二日くらい寝てたんじゃないの? うまうま」
「んなわけないだろ」
正確に言えば異変について話していたのは魔理沙だけであり、霊夢は持ち込まれたケーキを消費するのに夢中だった。魔理沙はそれを冷ややかに見ている。
午前午後と準備に明け暮れる何人かの裏方用に魔理沙が作ったそれは、およそ直径40cmほどと、成人男性が見れば胸焼けがしそうなほどの量を誇っている。だが霊夢のフォークは一時たりとも止まることはない。
少女にとって甘味は別腹だ。そして普段は飄々としている霊夢もその本質においては女の子なのだ。ただひたすらケーキだけを暮らしていたいと思ったこともいくらでもある。
パンが無ければケーキを食べればいいじゃない、とかのマリー・アントワネットは言ったそうだが、霊夢に言わせればそれは逆だ。ケーキが無いから仕方なくパンを食べてやってるのだ。そうでなければパンなど米という名の主食の王の配下になることすらもできない。
少女の幻想するこの世の食料事情は米とケーキの二国志なのだ。パンは江南でもそもそと内政していればいい。そのうち晋が南進してくるだろう。
そんなケーキに対する激情の潜む霊夢だから、普段食べられないケーキに対する思いは人一倍激しい。だからと言って自分で作ろうという気にはなれなかった。
それは一つには作ったことが無いからであるし、もう一つにはそれ故に材料もレシピもさっぱりわからないということである。だが、何よりも大きい理由は、単にめんどくさいから、というだけのことであった。
毎日でも食べたいけれども、自分で作るのはめんどいしだるい。誰か作ってくれ。それが霊夢の日常だった。
「美味しそうに食ってくれるのはいいんだけどよ、そろそろ真面目に考えて欲しいんだが」
「って言ったってねぇ。あんたの勘違いなんじゃないの?」
「いや、間違いない。文献でも読んだことがある。これは時間をぶっ飛ばされたに違いない」
時間を飛ばす。それはつまり過程を飛ばして結果のみを得るということだ。
例えば飛んでくる銃弾の時間を飛ばす場合、自分の体に命中するというのが過程、自分の後ろへ貫通するというのが結果。
魔理沙の主張するのは、七月七日と八日という二日を丸ごと吹っ飛ばされたということ。七日七日と八日を経て九日へ至る、というその間の過程を飛ばし、七月六日から直接七月九日へ至ったという説だ。
「スキップしたってこと? それだったら私達だって宴会できてないでしょう」
「む……確かにそうだが、局所的に飛ばしたとも考えられる」
「むしろアンタの周りだけ時間を止められてたんじゃないの? それならできるやつは結構いるし」
時を止める、というそれは一般的な人間からすればあまりにも荒唐無稽で、まるで子供の夢のようなものに見えてしまうが、こと幻想郷の人間にとっては違う。
難易度は確かに高いし、可能な者も限られてはいるが、それをやってのける存在は確かにいる。
「いや、それにしちゃあおかしいんだ。カレーがいつの間にかかなり無くなってたり、洗い物の皿がやたら増えてたりした。これは結果だけ出力される時間を飛ばす能力に違いないだろ」
「それはあんたの食い意地とずぼらさのせいでしょ、いつの間にか洗い物が、だなんて常套文句じゃない」
「まぁ、それを言われるとなんとも言い返せないんだが」
上の空で会話を続けながらもなおも食べ続ける霊夢。
なんとか真面目に話しを聞いてもらう手はないかと考えていた魔理沙は、その姿を見て一つ計を案じた。
「んじゃよ、お前の今食べてるケーキあるよな」
「あるわね」
「もし今フォークに刺したそれが、時間を吹っ飛ばされていつのまにかチョコレートケーキになってたらどうする?」
「はぁ?誰の仕業かわからないけど喜ぶわね、これだけ多いと味に変化も欲しいし」
「そうだな。そう思ってお前はそのままフォークを口に運ぶ。すると見えてくるんだ」
「何がよ」
「その黒く染まったチョコレートケーキは、いつの間にかケーキの表面にびっしりと止まった……羽虫なんだ」
パタリと転がる霊夢のフォーク。
「ケーキの上でギッチリと身を寄せ合って蠢きあう虫達。そうとも知らずにチョコレートケーキになったなどと喜ぶお前はそのまま口の中へ」
「……」
「口の中で一斉に羽ばたく虫達。お前はなんて活きのいいケーキなんだと咀嚼を始め……」
「……魔理沙、ごめん。ケーキ残しちゃうけどいいわよね」
「ああ」
「戦闘用のに着替えてくるわ」
「お払い棒も忘れるなよ」
「えぇ」
米とケーキの二国志を外から脅かす第三勢力。それは世界を覆った霧よりも、いつまでも続く冬よりも、すり替わった偽の月よりも。霊夢が解決してきた今までのどの異変よりも凶悪な敵になりそうだった。
少女にとって甘味の敵とは世界の敵。ならば、躊躇も手加減も必要は無い。霊夢はいつもの加減した退魔針の代わりに、先祖代々に伝わる妖魔調伏用の殺傷力の高いものを引き出しから取り出した。
長い封印から解かれたそれが最初に炸裂したのは、もちろん魔理沙の頭であった。
「食べてる最中に変な話をするんじゃないっ!」
「すみませんでした」
時間が飛ばされたのだろうと、時間を止められたのだろうと、どちらにせよ敵は時間を操る能力を持っている。
二人の判断は、時を操る人間として最も有名であるかの紅魔館のメイド長の元へ出向くというものだった。
「動機は?」
「さぁな。だがアイツ自身に動機はなくても、主の気まぐれやら暇つぶしって事はありえるだろう」
「納得」
晴れ渡った湖を飛び越え、今回は迷うことも無くまっすぐに紅魔館へと向かう。
その途中、湖で遊ぶ妖精や化け猫の姿を霊夢は見かけた。まだ午前中だというのにこのうだるような暑さだ。冷たい湖に飛び込むのはさぞ気持ちのいいことだろう。
だが霊夢には使命がある。その使命は、この幻想郷の少女達を集り来る羽虫から守る聖なる戦いだ。
少しばかり先を行く魔理沙が高度を下げてゆく。まもなく紅魔館。そこに見えるのは、門前に佇む一人の妖怪。
「いよう」
「お早う」
声をかける二人。だが門番、美鈴からの返事は無い。代わりに寄こされたのは、日差しの暑さも吹き飛ぶほどの熱気と殺気。
「……何か御用ですか?」
ようやく返事をした美鈴の視線は、来訪者の挙動を一瞬たりとも逃すものかとぎらついている。
二人はその視線と美鈴の姿勢――今にも飛び出さんとする猫科の猛獣かのような、大地を踏みしめるその両脚に力を蓄えた姿に、すぐさま身構えた。
「なるほど、大当たりみたいね」
「あぁ。門番にこれだけ警戒させているとなれば、間違いないだろう」
「どっちが行く?」
「私が行くぜ。楽しみにしてた七夕の分、初っ端はやらせてもらう」
ズイ、と霊夢を押しのけ魔理沙が前に出る。
美鈴は腰をさらに落とし、臨戦態勢を取った。
美鈴の両脚に蓄えられた力同様、魔理沙も箒を握るその右手に魔力を集めていく。
「さぁ、道を開けてもらおうか」
「今日だけは通せません。特に今のあなたのような敵意剥き出しの輩は」
「まるで明日なら通っていいというような口ぶりだが?」
「えぇ、明日ならまったくもって構いませんよ」
「と、言われてもな。こっちもそういうわけにはいかないんでね」
「そうですか。でしたら」
半身に構えた美鈴の左足と、正面を向いた魔理沙の右足が同時に一歩を踏みしめた、その瞬間。
「道半ばで散るがいい!」
「罷り通させてもらうぜ!」
二人の蓄えた力が爆発した。そのベクトルは両者とも同じ、上空へ。
「え、飛んだ? 美鈴が?」
霊夢はこの展開に驚きを隠せなかった。飛行においてはこの幻想郷でも並ぶ者もほとんどいない魔理沙に対し、本来大地の上において真価を発揮するはずの美鈴が飛んだ。その狙いは――
「なっ、上を取られたァ!?」
「中長距離の飛行ならあなたに分がありますが……ほんの一瞬だけであれば私の方が速い」
魔理沙は己のミスを悟った。美鈴はああ言ったが、二人が最初から空中にいたならばどれだけ短い距離だろうと魔理沙が上を取れていただろう。
だが地上から飛ぶスピードならば、大地を蹴る力が加わる分美鈴の方が断然速くなる。
魔理沙は十数メートル上空の身鈴に向かっていくつもの星弾をランダムに打ち込んだ。
いや、正確に言えばランダムにしか打つことができなかった。真上を取った美鈴の利点は、背後から照りつける太陽。その日差しは魔理沙の視界を極度に低下させていた。
「下手な鉄砲なんて、数打っても当たりませんよ」
美鈴は両の指に構えた数十のクナイ弾を一斉に放つ。
正確な射撃はそれ故予想しやすい。相手の予想を外す動きをすることこそが戦闘において最も必要なことだと美鈴は知っていた。
「ご忠告ありがとよ。だがあいにく私の弾は鉄砲じゃなくて大砲なんでね!」
真上から飛来したクナイ弾の群れをかわした魔理沙がその手に掲げたのは八卦炉。
自分から相手の位置が見えなくても、相手が攻撃してくればだいたいの方向がわかる。
そしてだいたいの方向さえわかれば、魔理沙には広大な範囲を焼き尽くすマスタースパークがある。
空中での動きを苦手とする美鈴にこれを避けることはできようはずもない。魔理沙はその身に宿る膨大な魔力を八卦炉に装填した。
「魔理沙・ザ・ラストシューティングってな!」
魔理沙が上空へ放った魔力の奔流は、太陽よりもなお眩しい輝きを伴って吸い込まれるように青空へと消えていく。
その光が消えた跡に焼け焦がれた美鈴の姿は―――無い。
「私の勝ち、ですね」
「ッ!?真横!?」
上空にいるはずの美鈴が現れたのは魔理沙の真横、至近2メートルほど。
美鈴が投げたクナイ弾は真上から投げたのではなく、真上に投げた物だった。後は待っていればいい。上空へと超スピードで奔る魔理沙がやがて落下し始めるクナイ弾に追いつくのを。
「おいおい、いつの間に弾幕ごっこから隠れんぼになったんだ? こそこそ隠れやがって」
「最初からですよ。視界さえ奪えれば、相手の気を逸らして意識させなくするのは簡単です」
「石ころ帽子みたいなもんか、便利なやつだな」
美鈴はゆっくりと間合いを詰めながら、両腕にさらにクナイ弾を発生させる。
「ギブアップしてくれるとありがたいんですけれどね。空中とはいえこの距離でマスタースパークも無しに勝負するほど愚かではないでしょう」
魔理沙のマスタースパークはその威力故に魔力の消費も凄まじい。一発打ったら次までには相応の時間を置かなければならないのも必然。
至近距離において美鈴の突撃を止められるだけの早さと威力はもはや魔理沙には無い。
「そうか? 試してみなけりゃわからないぜ」
「……わかりました。今日は何があろうと、何人たりとも通す気はありません。このままご退場していただくとします」
美鈴は両の手に構えたクナイを全て投げ捨てると、その手の平に拳大の気弾を浮かべた。
それは魔理沙を諦めさせるための手加減の入った弾幕などではなく、本気で魔理沙の意識を奪いにかかるためのもの。
それだけのことをしても、館へと通せない理由が美鈴にはあった。
にじり寄る美鈴の前に、魔理沙は八卦炉を持つ右手にわずかながらに力を込めた。
「ブラフは通じませんよ」
美鈴は宙を踏みしめて残りの間合いを一気に殺すと、その勢いのままに左右両腕の掌を突き出す双掌打にて気弾を押し放つ。
己の意識を刈り取ろうと一瞬のうちに迫る凶器を目の前にして、魔理沙はニヤリと笑った。
その笑みを美が認める間もなく、魔理沙の右手に掲げられた八卦炉から鮮やかな光の筋が溢れ出す。
マスタースパーク、と呼ばれるそれが真っ白な光の柱を虚空に描いた。
「んで、最初に撃ったのはなんだったの?」
「ん?」
地上に降りた魔理沙を出迎えたのは、頭に疑問符を浮かべた霊夢からの問いだった。
連射できないはずのマスタースパーク。それを三分とかからずに次弾を撃ち込めたのは、一発目がマスタースパークに似せただけの別物だったから。
そう予測した霊夢の勘は、正解だった。
「ありゃあマスタースパークに似せただけのベギラマさ」
「てことはかくれんぼには最初から気付いてたってわけね」
「んー、まぁそんなとこだ」
と言っても実際には魔理沙も最初から気付いていたわけではない。ただ、普段は色とりどりの光弾をメインとする美鈴が、あの時クナイ弾を使ったことに違和感を感じた。
エネルギーの塊である光弾に無く、物質化したクナイ弾にあるものといえば重量、すなわち重力。
では何故重力を必要としたのか。それはクナイが上から来たかのように思わせるため、マスタースパークを無駄打ちさせるため。ならば美鈴は上空には既にいない。
「面倒なこといちいち考えるわねぇ。どばーっとやってすどーっとやってどーんと倒しちゃえばいいのに」
「へいへいそうですね。まったくこれだから天才は困る」
「まったくですよねぇ。特に自分は天才じゃないなんて思ってる辺り。もうボロボロですよ」
「ほら、言われてるわよ魔理沙。って美鈴、あんた着替えてきてないの?」
いつの間にやら目の前に立っている美鈴。例え全力のマスタースパークとて、妖怪の強靭な生命力全てを消し去ることは不可能だ。
とはいえもちろん戦闘不能に追い込むくらいならお手の物だが。
しかし自身を紅魔の盾と称する美鈴が相手となれば、一発や二発の直撃では足りはしない。三発四発と必要になるが、現状の魔理沙の魔力では二発すら連続して撃つことは難しい。
かつての騒動の時のように、撃ち落とした妖精の魔力を吸収したり、春のかけらから魔力を吸い上げたりしなければとうてい美鈴を倒すほどの出力など見込めない。
ただそれは美鈴の方とて一緒で、空で回避に専念した魔理沙は今一つ弾幕ごっこのスタイルに合わない美鈴では撃ち落とすことは不可能。
それ故に、残機ゼロ一発勝負の弾幕ごっこと定義された美鈴と魔理沙の勝負において、勝負後に美鈴がこうしてすぐさま復活してくるのはいつものことだった。
今回の結果が一つ普段と違うところをあげるとすれば、魔理沙の魔法で焼け焦げた服を一旦自室で着替えてくるはずの彼女が、今日は落ちてそのまま来たのかその肌を顕にしたままだということだった。
「えぇ、そんなことより大事なことがありますので」
「ん? ここは通さないってか?」
「それについては負けてしまいましたし認めますよ。ですが、一つだけお願いがあります」
勝った方が相手に言うことを聞かせる、ということの多い弾幕ごっこにおいて、負けた美鈴が頼むという話はまさに異例だった。
ボロボロの美鈴のその姿に二人はとりあえず聞いてみることにした。単純に興味があったのだ。美鈴ほどの妖怪がそれほどまでにするお願いというものに。
「今日だけ館の中では静かにしていただきたいのです」
しかし返って来たのは拍子抜けするほどあっさりとした言葉。
意表を付かれた二人の反応は非常に遅かった。
「……は?」
「え、それだけ?」
「それだけです」
二人は美鈴の台詞を今一度頭の中で噛み締めた。館の中では静かにしろ。まるで小学校の図書室の張り紙かのような、その願い。
「あ! あれか。パチュリーが集中する系の魔法実験してるとかそんな感じか。暴走するとやばい系の」
「あぁ、それありそうね」
「んー、まぁそんなところです。とにかくよろしくお願いしますね。それでは私はこれで」
そう言って自室へと消えてゆく美鈴。後に残された二人は、不思議に思いながらも門を越え紅魔館の玄関へと向かう。
試しの門、と呼ばれているらしい重厚なその扉を美鈴の部下の門番衆に押し開いてもらうと、その奥には煌びやかな中世ヨーロッパの装飾が一堂に会するロビー。
目の前にはレッドカーペットの敷かれた螺旋階段、左へ行けばメイド達の居住スペース、右を見ればそこはいつも魔理沙が通る図書館への通路。
初めて目のあたりにする者ならば腰を抜かすであろう、それらの意匠が放つ隠しようも無い―――というより隠すつもりも無い威圧感と尊大さが二人を迎える。
とは言ってもそんな威圧感も、そこに並ぶ500万の伊万里の壷に謎の抽象画にしか見えない落書きをしたり、それらの壷を集めてお手玉をする主人の妹を見ている霊夢と魔理沙にとってはまるでたいしたことはないのだが。
そ知らぬ顔で二人はいつも通り靴の汚れを気にすることも無く堂々とカーペットの上を歩き出す。そしてそんな二人に近寄る人影が二つ。
「何か用かしら?」
「いよう咲夜……じゃなくてパチュリー?」
二人に声をかけたのはいつも通りの咲夜ではなく、ここにいるはずのない図書館の主とその司書だった。
魔理沙は考える。美鈴はパチュリーの魔力実験だと言っていた。いや、そのようなものだと言っていた。しかし現実にパチュリーはここにいる。ということは。
「なんだ、もう実験は終わったのか。美鈴もあんだけ頑張ったのに無駄落ちだったな」
「実験? ……あぁ、そういうことね。道理であんなに真面目に戦っていたわけ」
「一人で納得してないで話してくれると嬉しいんだけれど」
「館の中では静かに、とでも言われたのでしょう?」
うんうん、と頷く二人。
「でもま、お前の実験も終わったことだしいつも通りやかましくさせてもらうぜ」
「残念だけどそれは無しよ」
階段の手すりにもたれかかっていた魔理沙にかけられたのは、背後からの聞き覚えのある声。
その声に振り向いた魔理沙が見たものは、螺旋階段から降りてくるの館の主人、スカーレットの吸血姉妹。
「いらっしゃい」
「いらっしゃーい」
小さいながらもロビー全体にステレオで響く透き通るような声。
しかし霊夢がこの時感じたのは、ある種の不自然さだった。
常に主人に先んじて全てを整えるはずの咲夜がいない。いつもなら一番最初に自分達を迎えるはずの彼女が出てこない。
とすればやはり魔理沙の時間を奪ったのは咲夜で、館の住民が彼女を匿っているのか。
しかしそうだとしたら美鈴のお願いの意味がわからない。咲夜に関する何かではなく、静かに、というだけのそれ。
霊夢は決断した。面倒な手順など必要ない。考えてわからないなら相手に聞けばいい。右手の袖に隠し持った退魔針にそっと手を伸ばしたその時。
「なんだかわからないけれど咲夜に会いに来たんでしょう?こっちに来なさい」
またもやあっさりと事態は進行した。
美鈴の対応とその後の頼み。咲夜の不在。かと思えばレミリアは咲夜の元へと連れて行くという。
ちぐはぐすぎる、と霊夢は思った。おそらく、罠。そう判断してからの霊夢の対応は速かった。
右手に退魔針、左手に札。霊力のこもった札を前方のレミリアへバラバラに投げつけると、それら全てを投げた針で射抜く。射抜かれた札は一枚一枚が高速度、高威力を伴って標的へ飛来する。
ヒュンッ、という風を切る音とともに必殺の威力を持った弾幕は、見事に狙い通り頭部に炸裂した。レミリアの右手で差し出された身代わりの魔理沙の頭部に。
「痛ーーーーッ!」
「ッ、レミリア、あんた!」
「パチェ! やりなさい!」
右袖から新たな針を取り出そうとした霊夢の耳に聞こえるのは、いつのまにか終わりに近づいているパチュリーの詠唱。
瞬間レミリアの手から抜け出した魔理沙は妨害の高速弾を放つも、速度を重視した瞬間詠唱のか細い弾幕は割って入った小悪魔に弾かれる。
捨て身で突進する霊夢に立ちはだかったのはフランドール。投げつけた針はその全てを中空で破壊され、札は一瞬のうちに焼き払われる。
そして、詠唱が完成した。
「木符『ミュート』」
それぞれ防護符と八卦炉を構え、受けの姿勢に回った二人を待っていたのは長い長い沈黙だった。
両の手に魔力をこめ来るべき衝撃に備える二人に対し、紅魔館の面々は既に完全にリラックスしていた。まるでもう戦いは終わったとでも言うように。
そんなレミリア達に探りを入れようと魔理沙がその口を開いた時。
―――今のは何のつも……あ?
魔理沙の口はパクパクと動けども、声が発せられることはなかった。
慌てふためく魔理沙の様子に、声をかけようとした霊夢も気付く。声が出ない。
―――やってくれるじゃない、レミリア
これでは詠唱の類は不可能。常に詠唱を必要とする魔法を使う魔理沙はもちろん、霊夢の方も霊力を込めるのに必要となる九字を切ることもできない。
内心の焦りを隠しながら、霊夢は目の前のレミリアをにらみつける。
自らを貫く鋭い眼光に、レミリアは一片たりとも臆すことなく言い放った。
―――ふふ、美鈴も言ってたでしょう、静かにしろって。……ん? あれ? はぁ?
しかし、レミリアの口は魔理沙同様に金魚のようにパクパク動いただけで、その言葉は誰にも届かなかった。
―――あ、ごめんレミィ。この呪文は対象指定が周囲全域の生物なのよ。とは言っても何言ってるかわからないでしょうけど
お前はアホの子か、というレミリアの心の声が聞こえてくるような見事な突っ込みが決まった。
キュッキュッキュ、とサインペンが走る音が紅魔館の応接室のあちこちから響く。
『んで何? これはあとどれくらい続くわけ?』
『およそ二時間から三時間といったところね。木符と黙符をかけてるのよ』
『いや聞いてないし』
結局対応策に困ったその場の六人は、どこからか小悪魔が持ち出してきたスケッチブックを使って筆談で意思疎通をしていた。
『めんどいわねぇ』
『わりと面白いよー』
『そうですねー』
心底面倒そうな霊夢に対し、割とハイテンションで過ごしているフランドールに小悪魔。
魔理沙は魔理沙で『知ってるがお前の態度が気に食わない』などと遊んでいた。
『……で』
『何かしら?』
霊夢は遊んでいる三人を背中に、残ったレミリアとパチュリーに向き直る。
『あっちの三人はおいておくとして、とにかくこの騒動は何だったのよ』
今回の霊夢の最大の疑問。異変を起こすにしても、ここの住民の性格を考えればいちいち隠したりせずに大々的にやるはず。
『と言われてもねぇ。こっちだっていきなり押し入ってこられてわけがわからないわよ』
『何言ってるのよ、入念に迎撃の準備してたんでしょうが』
『準備なんてしてないわよ、あれはアドリブ。紅魔館の住民ならあれくらいの意思疎通は取れて当然よ』
見事なパーティープレイだったでしょう、と息巻くのはレミリア。
『戦士ふらんに勇者れみりあ、魔法使いのは゜つりってところね』
『小悪魔は?』
『商人とか? ステータスが全部微妙なところとか』
『レミィとは真逆で戦闘以外でだけ役に立つところも似てるわね』
『アンタらにどこぞの街の建設予定地に置いていかれないよう祈ってるわ』
『『こあくまばーぐへようこそ』』
先ほどの戦闘の緊張感もどこへやら、気付けば和やかに談笑している面々。
そんな中で、フランの額に【肉】、小悪魔の額に【魔界のプリンス】と書き終えた魔理沙が霊夢側のソファーへと移動してきた。
『んで、咲夜はどこなんだ? お前等の話だけ聞いてもしょうがない、咲夜に会わせてもらおうじゃないか』
『ま、そうなるとは思ったけど。まぁいいわ、今なら大丈夫だし、来なさい』
そう言って、いやそう書いて部屋の外へと案内するレミリアは、先ほどと同様にあっさりと咲夜の元へ歩き出した。
『レミィ、私は図書館に戻ってるから』
『私も整理がありますので』
そう言って残った二人を置いて、一行は歩き出す。
応接間から再びロビーへ抜け、その先の居住区へ。妖精メイドが何人かパタパタと飛び回る中、やがて一同が辿り着いたのは居住区の最奥。
『ここよ』
レミリアが指差したその先にあるのは、妖精たちの人並み外れたセンスで飾られた他の部屋とは違い、シンプルに「咲夜」と書かれたプレートのみが掲げられた飾り気の無いドア。
『予想通り可愛げの無い部屋だな』
『あらそう思う? ほらフラン、開けてあげなさい』
『はーい』
音も無くドアノブがゆっくりと捻られると、ギギィ、と古めかしいドアが立てる音が静かに響いた。
ノックもせずにいいのか、と右手に握ったサインペンを走らせようと魔理沙がそう思ったその時には、レミリアのスケッチブックにはこう書かれていた。
『覗いてごらんなさい』
霊夢と魔理沙は半開きのドアからそっと部屋に顔を入れた。
するとすぐに見えてくるのは部屋の右側に配置されたクローゼット。全開のそれの中に見えるのは、ハンガーにかけられた何着かのメイド服。
クローゼットの左に目を移してみればそこにあるのは姿見の置かれた化粧台。ちょうどドアの正反対に位置する窓からの光が姿見に反射されており、魔理沙はその眩しさに少し目を細めた。
ドアをもう少し開き、視線を正面側の壁へ。中央に窓を備えたその壁側には家具の類は何も無い。というより、家具など置くスペースがない。
窓からさす光が照らし出すのは、犬、猫、熊に狐に狸。いわゆるぬいぐるみがそこかしこに並べられていた。その数はもはや魔理沙が数えるのを放棄するほどだ。
一際大きな熊のぬいぐるみ、咲夜がフドウと名付けたそれの肩に座る何体もの小熊はまさに親子。
ブレーメンの音楽隊かのように互いの背に乗った、天井までそびえ立つ犬と猫とカブトムシはザ・タワーと名付けるに相応しい。
壁側の床に敷き詰められているのは外で流行ったものだと以前魔理沙に霖之助が言っていた、ゴールデンハムスターをそのまま大きくしたような間抜け面のネズミ。
確かカブレラさんとか言うんだったか、と魔理沙が遠い目をしてそれらを見つめていた頃、霊夢は既にサインペンを手にスケッチブックとにらめっこしていた。
『ほら魔理沙、もう行くわよ』
魔理沙が我に帰った時には、既にレミリア達は元来た道を帰り始めていた。
止める間もなく霊夢もまた歩き出す。
慌てる魔理沙に、霊夢は親指で部屋の中を指し示した。
再び魔理沙は部屋の中へと顔を突き入れ、最後に残った左側の壁を見る。
質素なベッドにかけられた花柄のシーツの上、無数のぬいぐるみに囲まれた探し人はぐっすりと眠っていた。
十六夜咲夜、実に一ヵ月ぶりの休日であった。
再び応接間へ戻ると、互いに色々説明をするのに筆談では面倒だと一旦休憩を挟むことになった四人は、本の整理を中断した小悪魔の淹れた紅茶を楽しんでいた。
霊夢は朝のケーキに引き続き、前日咲夜が作ったというブラウニーで甘味を補給する。
ダイエット中だという魔理沙が恨みがましく睨んでいたが、霊夢にとってみれば体重など気にする方がどうかしており、そんなもの気にしたって何にもならない、と年頃の女子とは思えない発言をしたこともある。
体重の悩みにすらも束縛されない霊夢だった。
そんなブラウニーの山が皿から消え、紅茶が三杯目に突入した頃。
「……あ、あ。あーー。お、喋れるようになったか」
『あれー?私まだだよ』
『私もね』
ようやく元通り喋れるようになった魔理沙。霊夢とフランはまだ解けないのか筆談で返事をした。
「相手の知力によって効果時間が違うんじゃないか? 妨害計略だし」
「魔法慣れしてるだけよ。フランや霊夢みたいに普段から魔法に接してない者には効きがいいんでしょう」
横から口を出したのは実は魔理沙より前に効果の切れていたレミリア。紅茶のカップを右手にゆったりとソファーにもたれかかっている。
「あぁ、確かにそれっぽいな。知力依存だったらお前が喋れるのは一番最後だろうし」
「身の程を弁えぬ発言は蝋燭を縮めるぞ、人間」
「おー怖い怖い。しかしこっちはお前に盾にされた借りもあるんでね、詠唱もできるようになったところで是非返しておきたいんだが」
魔理沙の体内から漏れ出す微小の魔力が大気を通じ、紅茶のカップに幾筋かの波紋を立てる。
つい一時間前の映像が魔理沙の頭に浮かぶ。朝方に霊夢に刺されたのと寸分違わぬ一点を貫いた針はまさに激痛だった。
その激痛をの借り返さんと息巻く魔理沙とは対象的に、レミリアはいたって冷静だった。
「あぁ、そんなこと。それだったら明日になったら返させてあげるわ」
「……ん? あー。そういや普段寝ない子がぐっすりお休み中だったか」
「それもあるけれど……まぁいいわ、明日になってもまだ返す気があったら来なさい。返す気があれば、だけど」
「ふぅん、ま、しゃーない。今日のところは勘弁しといてやるぜ。んで、だな」
クルリ、と魔理沙は首を霊夢達の方へと向ける。
「お前等はそろそろどうだ?」
「オッケーよ」
「もう大丈夫かな」
数分ほど遅れて喋れるようになった二人は、応接間のソファーに深々と座りなおす。
ちょうど麻雀を打つかのように、中央の丸テーブルを囲んだ四人は役目を終えたスケッチブックをテーブルに積み上げた。
「んじゃ、まずはこっちからいいか?」
「どうぞ」
最初に発言したのは魔理沙。受けるのはレミリア。
魔理沙はカップに入った冷たい紅茶を飲み干して聞いた。
「今回の異変はお前らの仕業ではない、とそういうことでいいか?」
魔理沙はことのあらましを全て話し、レミリアに再度の確認を取る。
レミリアから返って来た答えは、NOの一言だった。
やっぱりそうだったか、と霊夢は一人で思案する。
いつもの異変ならすぐさま働くはずの勘が全く働かなかった。紅魔館へ入ってもそれなのだから、おそらく異変の解決から遠ざかってしまっているのだろう。
「んじゃ、紅魔館の面々は関わってないが、咲夜が単独犯でやったって説はどうだ?」
「えー、咲夜はそんなことしないよー」
「犯人だったら堂々と寝てたりはしないでしょ」
魔理沙の思いつきに反論するフランと霊夢。
いやわからんだろう、と話す魔理沙に対し、レミリアは話を振った。
「魔理沙、あなた咲夜はいくつくらいに見える?」
「……うん?」
突如関係の無い話を振られた魔理沙は、しばし考えてから答えた。
「んー、だいたい十七、八ってところじゃないのか?」
自分より多少上、大体二つ三つくらい上なのだろうと当たりを付ける魔理沙に、レミリアは意外な答えを返した。
「十三よ」
「……はぁ?おいおい、私より年下だってのか?」
「そうね、年齢においてはあなたより下。ただし生きている日数で言えば」
「あ」
そういうことか、と魔理沙は考える。
咲夜が周囲の時間を止めている間も、咲夜だけには時間が流れ続けている。
「年齢、というカレンダーに沿った時間的には生まれてまだ十三年。けれども咲夜の体に実際に流れた時間はあなたの言った通り十八年分くらいでしょうね」
いきなり関係の無い話を何故、と思っていた魔理沙も重要なことを語ろうとしているのだと気付き、黙って聞き始める。
霊夢とフランドールは既に持っていたカップをテーブルに預け、レミリアの次の言葉を待っている。
「外の世界では異端の能力。私と出会うまでに何をしていたかなんて知らないし、聞くつもりも無いけれど、あの子は随分と能力を使ってきていたようね」
その言葉を聞いて、フランドールは咲夜と初めて会った時、自身の時間における七年前のことを思い出していた。
自分よりも一回り以上大きい体に対して、まったく持って未成熟であり他者に心を開かなかった咲夜の精神。
こうして表に出るようになってみて、フランドールにはようやくその理由がわかった。
体は放っておいても独りでに成長する。だが、心は一人では成長できない。他者がいて初めて成長することができる。
地下室でずっと一人だった自分同様、止まった時間の中で一人過ごしてきた咲夜もまた壊れかかっていたのだろう。
「紅魔館に来てあの子はようやく自分というものを獲得できた。自分の居場所を見つけることが出来た。しかしどれだけかが経ってふいに気付く。己が人間であり、残りの時間などそう長くはないことを」
人間の寿命は短い。時間を止めるということは、そのただでさえ短い人間の寿命の一部を自分一人のために使ってしまうということ。
咲夜は館に来て初めてそれに気付いた。
「あの子はこの館に関連することでない限り時間を止めたりはしない。それだけは間違いないわ」
咲夜が時間を止めるのはこの館の住民のためになる時だけ。それはいいが、紅茶を入れるくらいのために能力を使わないでほしい、とレミリアは常々思っている。
館の住民が関わらない事項に関しては絶対に時間を止めないが、館の住民がほんの少しでも絡むことがあれば、どんなくだらない用事にも能力を使ってしまう。
しかしレミリアは咲夜に言い聞かせるのは既に諦めていた。一度言い出したら頑固なところのある咲夜には、一度言いつけて駄目なら何度言っても無駄だと知っているからだ。
「あー、じゃあぬいぐるみを集めてるのも、実年齢的と精神年齢的なもの?」
先ほど目にした山のようにそびえる玩具を思い出し、霊夢は尋ねた。
「まぁそうでしょうね。幼い頃そういったものに触れられなかった分が今爆発している、ってのもあるでしょうし」
「こっちからすると随分大人びて見えるんだがなぁ」
「あぁ見えて実は見栄っ張りだから、魔理沙たちの前では完璧でいたいのかな?」
「ま、そんなところでしょうね。霊夢達は言わば咲夜にできた初めての友人。その前でしっかりした姿を見せたいと思うのも無理はないわね」
そんなもんか。と魔理沙は思う。万能かつ万全な咲夜の姿しか見たことの無い魔理沙にしてみれば、レミリア達が語るメイド長の姿が遠い星の同姓同名の別人のようにしか思えなかった。
しかしふと疑問を持つ。
「いや、初めてではないだろう。お前らだっているじゃないか」
「そうよね。なのにレミリアの口ぶりじゃ、館の住民の前では完璧主義者じゃないわけでしょう?」
二人の言い草に、レミリアとフランドールは顔を見合わせて笑った。
「これだから知力の低いのは困る。一つの家に一緒に住む、それを家族と呼ばなくて何て呼ぶの?」
「家族の前で飾り立てても仕方ないからねー」
「ま、とにかくこの異変に咲夜は関係無いわよ。そうね……ヒントをあげるとしたら、『犯人は犯行現場に戻ってくる』、それだけ言っておくわ」
犯人は犯行現場に戻ってくる。
なるほど言われてみればそうかもしれないと魔理沙は思った。
いたずらとは相手の反応を見て楽しむものだ。落とし穴しかりドッキリカメラしかり。犯人は七夕を見事にスルーした魔理沙の反応を見に来るに違いない。
魔理沙は立てかけておいた箒を手に取る。四人はそのまま玄関へと向かい、別れの挨拶を始めた。
「いや悪かったな、突然押しかけて」
「まぁいいわよ。こっちにも勘違いさせる要素はあったわけだし」
「あ、勘違いといえば」
玄関の扉を開いたところで思い出した霊夢。それは……
「美鈴が静かにしろ、って言った理由はわかったわ。けれど、なんであそこまで排除しようとしたの?咲夜が寝てるから静かにしてくれって言うだけでいいじゃない」
霊夢の抱いたそんな素朴な疑問。それに対しまたも姉妹は顔を見合わせるのだった。
「だってそんなこと言ったら霊夢たちは咲夜の寝顔見に行っちゃうでしょ?」
「愛する娘の可愛い寝顔、他人に見てもらいたい奴なんているわけがないじゃない」
門へと振り返った人間二人が見たものは、着替え終わった母親の大きな大きな欠伸だった。
意外に美味しかった小悪魔の紅茶と、いつも通りに美味かった咲夜のブラウニーの味わい以外に収穫の無かった二人は、レミリアの言葉通り魔理沙の自宅を目指していた。
魔法の森に近づくにつれ、霊夢の勘が働き出す。
「方向的には間違いないわね」
「おし、急ぐか」
魔理沙は目深に帽子を被りなおし、差し掛かる西日に目を細めた。
いつの間にか時刻は夕方。沈みかけた太陽が真っ赤に輝き自己主張を続けている。
時間の経つのは早いものだ、と魔理沙は思った。
かつて父親に勉強を習っていた頃は長い長いと思っていた一時間。今ではちょっと何かを始めたら、気付いたときにはその三倍の時間が過ぎてしまっている。
きっとこれは成長しないとわからないことなのだろう。蝋燭の溶けるペースが、ある程度溶けてからでないとわからないように。
今やるべきことをやれ、時間を無駄に使うなとあの頃言っていた父親のその蝋燭の短さを想像して、魔理沙は前日の決心を深めた。
「さて、着いたな」
「着いたわね」
そうして魔理沙が思案しているうちに、気付けば自宅は目の前。
犯人は犯行現場に戻ってくる、巷でよく言われるその格言が真実なら、魔理沙の時間を奪った者、いわば時間泥棒はここにいるはず。
「どうだ? 霊夢の勘では」
「いるわね。確実に」
その言葉に魔理沙は身構えた。
魔理沙の家にはいくつかの罠がしかけてある。それは秘匿を主義とする魔女としてはもはや常識であり、対人センサーはもちろん、魔女の基本である動き出す石造や絵画、叫ぶ人体模型に、「引き返せ」と囁く壁、1Fで踏むと本気で殴りたくなるおにぎりデロデロの罠などがある。
それらトラップは発動次第魔理沙に一定の魔力波を送るようになっている。しかし今、そういった魔力波を魔理沙は感知していない。
それはつまり、中にいるのはトラップを苦にしないレベルの強者であるということ。そしてそんな強者が相手ならば、既にこちらの存在は感知されていると思って間違いは無い。
魔理沙はここまで乗ってきた箒を家の外壁に立てかけ、ゆっくりとドアノブに手をかけた。
「……入るぜ」
「ええ」
そっと押し開いたドアは、音も無く滑っていく。
期待された襲撃も、相手が逃げだす音も無い。爪先立ちになって魔理沙は、そろりそろりと室内に入ってゆく。
「どう?何か室内に変わりは?」
「ない……な。罠も未発動、物も移動していない。別の部屋ってところか」
今の中央で、辺りを見渡す魔理沙。
決して広いとは言えないこの家の中で、隠れられるような場所は三点。風呂、寝室、物置。
「霊夢は風呂を」
「ん」
小声でそう話し、爪先立ちのままで寝室へと向かう魔理沙。
寝室の中央から半開きのドアの隙間を覗き見る。敵の姿は見えない。
ドアノブをそっと引き、内部を確認する。やはりいない。
周囲に気を張り、部屋の中へと入る。自分が身を隠すなら、クローゼット、ベッドの中、あるいはベッドの下。
指三本でそっとつまんだ布団を軽く引っ張り、感触を確かめる。ベッドの中には誰もいない、とわかると魔理沙は一気に布団をめくり上げた。
バッ、という大きな音とともに布団が舞い上がる。その音に息を呑む声も、なんらかの反応も見当たらない。
この部屋にはいなさそうだ。そう判断した魔理沙は、念のためベッドの下とクローゼットを調べると、霊夢と合流した。
「どうだ?」
「風呂はいないわね」
「オーケー。んじゃ最後行くぜ」
二人が向かった先は物置。乱雑に物が置かれたその場所では侵入者が隠れる場所にも、戦う武器にも困らない。
ただし、それら整頓されていない物品のおかげで窓は完全に隠れている。つまり出入り口は今魔理沙が傍らに立っているこのドアだけだ。
大きな深呼吸とともに、両手の骨をベキバキと鳴らす。さぁ、突入だ。
魔理沙は力強くドアノブを握りこむと、一気にそのドアを開け広げた。
すぐに目に入ってくるのは正面、山のように詰まれたマジックアイテムやビン詰めの薬草。いない。
右。壁のフックにかけられた般若の面と不幸の兜。立てかけられているのは舌を噛みそうなコルヌリコルヌと変なおじさんからもらったロンバルディア。いない。
ならば左?しかし見つかるのは妖精の笛にアダマンタイト、それを捨てるなんてとんでもない、などと頭に浮かんで何故か捨てられなかった光の玉。いない。
なるほど。魔理沙はニヤリと笑った。前後左右にいないとならば、上!
見上げたその先には、少し前にシベリアンブリザードにも勝る格闘地獄で仕留めた体重2トンのホッキョクグマの毛皮が干されている。いない。
「最後まで粘ってくれるじゃないか」
残された最後の方向、真下を見る前に霊夢の反応をチラリと確認した時、魔理沙は気付いた。
霊夢の視線が一点で止まっている。その視線の先にある物は。
「あ」
床上に散らばる本。昨夜適当に物置に放り込んだ、163巻と書かれた長寿漫画を手に取り魔理沙は言った。
「なぁ霊夢」
「うん、何?」
「100巻までは熱中して時間を忘れるのも仕方ないと思うんだ。二日経ってしまうくらいにさ」
唸りを上げる三度目の退魔針は、それまでの二射同様魔理沙の額の傷を的確にえぐり込んだのだった。
……後書きの最後になんかツッコむもんか。
そういえば今日は七夕か……
それが大いに残念だった。
あと8月33日は「ハサミの日」らしいですよ
ええ、ビビりましたとも
しかしこのレミリア恐ろしい……
策士すぐる
それにしても、咲夜さんの年齢が13歳とは…w
ぬいぐるみが所狭しと並んでる部屋に寝ているのを想像すると凄く可愛いですね。
オチがやっぱり残念というか拍子抜け。
しかし主人公ズの会話の小気味良さや咲夜のかわいさは素晴らしい。
って、ランスロットさんを変なおじさんとか言っちゃらめぇぇ!!
しかしそれ以上にレミリアお母さんの優しさが素晴しい。
・・・でもこれだけ引っ張った割りにちょっとオチ弱いし、ストーリー的に少し残念な気が。
異変ネタからスタートせずに、最初からアットホームな紅魔館を主体に書けば良かったかも。