壱
風見幽香。
一年中花に囲まれて暮らす妖怪。活動場所は太陽の畑。
その姿は人と変わらない。赤いスカートと白い日傘が目印である。
己の邪魔をする者に対しては一切の容赦がなく、その危険度は極めて高い。
純粋な力のみで他者を圧倒する、人の形をしながらにして妖怪らしい妖怪。
ただ人里に買い物に訪れることもあり、下手に手を出さなければ友好的であるとは言える。
もちろんそれは、脆弱な人間になど基本的に興味がないということでもあるが――。
彼女がどれほど長く生きているのかは定かではない。
ただ、少なくとも三代目阿礼乙女、阿未の代の幻想郷縁起には既に彼女らしき妖怪の記述があるので、千年近く生きていることは確かだろう。
咲いて散り、また咲いて散る花の営みを、私たち人間は儚く美しいと思う。
彼女のような妖怪にとっては、我々人間の短い生も、そのようなものなのかもしれない。
弐
筆を置いて、阿求は小さく伸びをした。
膝の上で丸まっていた猫がぴくりとその髭を揺らし、さっと膝の上から走り去る。
その尻尾を見るともなく眺め、それから手を叩いて女中を呼んだ。息抜きに紅茶を持ってこさせることにする。何事につけても、適度な休憩というものは必要なのだ。
生けられた花の香りが鼻腔をくすぐる。心の落ち着く香りに、阿求は息をつく。
ほどなく女中が運んできた紅茶を口にしつつ、阿求は手元の幻想郷縁起に視線を落とした。
当代の幻想郷縁起、その最初の発表から二年と少しが過ぎた。あれからいくつか、新たな妖怪や神についての記述が増え、既出の妖怪たちについての記述も増補されている。
とはいえ、この二年での進捗がはかばかしいかといえば――。
「……微妙なところですね」
ぽつりと呟いて、阿求はひとつため息をついた。
基本的に、阿求は人里の外へは出歩かない。御阿礼の子は身体が弱い、というのもその理由のひとつであるし、随分と平和になったとはいえ、女子供がひとりで出歩いて無事が保証されているほど、人里の外は安全とは言い切れないのである。
なので、幻想郷縁起に今までに記した妖怪についても、人里に現れる者以外に関しては伝聞に頼る部分が大きい。主な情報提供者は博麗霊夢と射命丸文だ。霊夢はともかく、文の提供する情報に関しては眉唾なものが多いが、それも仕方ない。
過去の御阿礼の子には、様々な妖怪に直接コンタクトを試みたアグレッシブな者もいたようだが、少なくとも阿求にはそんな真似は少々難しいものがあった。
そろそろ博麗霊夢の新たな武勇伝でも欲しいところなのだが、最近はなかなかそれらしき異変も起きないし、相変わらず本人もあまりやる気は無さそうである。
とまあ、そんなわけで。幻想郷縁起の編纂を進めようとしても、そもそも最近はネタが無い、というのが実情であった。何か異変でも起きないものだろうか、と本気で思う。
「散歩でもしますか」
飲み終えた紅茶のカップを置いて、阿求は立ち上がる。障子を開けると、午後の気怠い陽射しが瞼を貫いた。その眩しさに目を細めて、阿求はそれから足元にまとわりつく猫を見下ろす。
日がな一日、日向で寝転び、気ままに散歩し、自由を謳歌する猫。
――自分も似たようなものか、と苦笑して、阿求は玄関に向けて歩き出した。
あまり外には出歩かないとはいえ、稗田家当主の顔は人里では知れ渡っている。
自然、道を歩いていればすれ違う人々に挨拶されることも多い。
そうしたひとりひとりの顔と名前を、阿求は因果なことに全て記憶していた。
御阿礼の子としての能力。一度見たものを忘れないという、まあ特技レベルのものだが。
「おや、阿求ちゃんが出歩いてるとは珍しいね」
「引きこもりのように言わないでください」
「わはは、そうそう、たまにはお天道様を拝まにゃ」
「全く、稗田家の当主様に失礼な奴だねえ。阿求様、いい山菜が採れてますよ」
「そうですか、後で使いを寄越します」
「毎度どうも」
呉服屋の旦那が気安く笑い、山菜屋の女将がぺこりと頭を下げる。
子供たちが笑い声をあげながら、傍らを通り過ぎていく。人里は今日も平和だ。
「……おや?」
通りの開けたところにさしかかると、賑やかな音楽とともに人だかりが出来ていた。
人だかりの中心にある姿は見えなかったが、見当はすぐについた。プリズムリバー騒霊楽団だろう。また突発ライブでもしているのかもしれない。
曲が途切れ、歓声と拍手が湧く。その人だかりを遠目に眺め、阿求は踵を返した。
騒霊楽団の演奏自体は嫌いではない。ただ、人の多いところで聞く気にはならない。
――人だかりは苦手なのだ。それは概ね、この因果な力のせいでもある。
足早に、人通りの多くない通りまで戻り、阿求は深く息をついた。
人の顔に、自分はその人物についての情報を見る。記憶している限りの情報を。
大勢の人の顔は、情報の洪水だった。それを処理しきれなくなるのは、単に自分が人だかりに慣れていないというだけなのかもしれないが――できないものは仕方がない。
この記憶力は便利でもあるが、そういう意味では不便でもある。
やれやれ、と阿求は首を振り、相変わらず脳天気な晴天を見上げた。
妖怪たちのように、この蒼天を気ままに飛べたら気持ちいいだろうか、とふと思った。
――そうして、視線を戻した先。
風に揺れる花びらのように、日傘が花屋の店先に揺れていた。
チェック柄の赤いスカートと、白い日傘の影に覗く草色の髪。
店先の花を愉しげに――けれどどこか遠い目をして見つめるその横顔に、阿求は息を飲む。
ちょうど今日、縁起の記述を見直していた箇所だ。
花妖怪、風見幽香。
「――あら?」
不意に、彼女がその日傘を翻してこちらを振り向いた。
妖怪の笑顔とは、基本的に剣呑なものである。強者は笑顔なのが定説だ。笑顔とは余裕の表明であり、ひいては威圧である。貴様ごときに動じる必要などありはしない――という。
そして風見幽香は、その顔に満面の笑みを浮かべて、薄紫の花を手にこちらを見つめた。
「お久しぶり、ね」
手にした花が、ふと吹き抜けた風に、その花弁を揺らした。
参
風見幽香という妖怪に対して、阿求が直接コンタクトを取ったことはなかった。
人里に姿を現す妖怪、という意味ではコンタクトを取りやすい相手ではある。実際、阿求と個人的な付き合いのある妖怪も数名だがいる。例えば射命丸文がそうだし、人里に住んでいる上白沢慧音もそうだ。妖怪の賢者である八雲紫も――それを付き合いと言っていいのか怪しい面はあるが――知り合いではある。またその式である八雲藍とも、里で見かければ世間話程度の会話を交わすことはある。
下手に刺激さえしなければ、ある程度年を経た妖怪というのは基本的に話の通じる相手だ。話を聞く限り、風見幽香も地雷を踏まなければコミュニケーションを取れる相手のはずである。
――では、なぜ自分は風見幽香に今までコンタクトを試みなかったのだろう。
幻想郷縁起の編纂に必要なものは、何より知識と情報である。人里という限られた範囲内で情報を萃めざるを得ない阿求にしてみれば、人里に現れる妖怪に対しては本来、積極的にコンタクトを試みるべきなのだ。――それは解っている。
しかし、自分は風見幽香に接触を試みなかった。
それは単に、彼女が危険な妖怪だから?
いや、それで言ったら神隠しの主犯、八雲紫の方がよっぽど危険とも言える。
――だとすれば、なぜ?
「お久し、ぶり?」
彼女の言葉の意味を一瞬掴みかね、阿求は訝しんで目を細める。
幽香は数度目をしばたたかせて――それからゆったりと、ひどく優雅に微笑んだ。
「あら、ごめんなさい。人違いだったようだわ」
悠然とした幽香の笑顔の裏に何があるのかは、阿求には見当も付かない。
風に薄紫の花弁がそよぐ。白い日傘が風を受け微かに揺れた。花のように。
ごくり、と阿求は唾を飲む。身の危険を感じた、というわけではなかった。目の前の笑顔は穏当だ。強大な妖怪の余裕の笑み。その力を自分に向けようとする意志はそこにはない。
――ならばそれは、脆弱な人間への無関心の笑みか?
「風見、幽香さん……ですよね」
「ええ。貴女は――稗田家当主さんね」
幽香はゆったりと笑みを浮かべたまま、すっとこちらに歩み寄る。
その手の花は、薄い色紙をくしゃくしゃに丸めたような花弁をしていた。
「稗田阿求です」
「――そう、阿求、ね」
幽香の手がこちらに伸びた。差し出される花。阿求がおっかなびっくりそれを受け取ると、幽香はすれ違いざま――どこか寂しげに笑った。
それは一瞬で、阿求が振り返ったときにはもう、見えるのは日傘とその背中だけ。
阿求は手元の花を見下ろす。静かに風にそよぐその花の名前を、阿求は知らない。
ただ、幽香が一瞬見せた寂しげな笑みが、頼りなげなその花の薄い花弁と重なって。
「……風見、幽香」
その名前をもう一度呟いて、阿求はしばしその場に立ちつくしていた。
屋敷に戻ると、出迎えた女中が手の中の花を見て声をあげた。
「あら阿求様、どこでその花を?」
「通りすがりの方にいただきました」
「今の季節に咲く花じゃないんですけどねえ」
不思議そうに花を受け取った女中は、お部屋に飾っておきますね、と踵を返す。
「――何と言う花ですか?」
その背中に阿求が声をかけると、女中は振り向いて答えた。
「花浜匙、ですね」
聞き覚えのない名前だった。花の事典でも後で引いてみよう、と阿求は考える。
ぱたぱたと去っていく女中と入れ替わり、猫が一匹阿求の足元にすり寄った。
「ただいま」
抱き上げて阿求がその喉元をくすぐると、気持ちよさそうに猫は一声啼いた。
――ともかく、花についてよりも、まず先に確認しておくべきことがある。
阿求は足早に自室へ向かった。歴代の幻想郷縁起の原本は屋敷の奥の倉に仕舞われているが、写本は自室に揃っている。
抱いていた猫を放し、書棚から写本を取り出す。風見幽香らしき妖怪についての記述が見えるのは三代目、阿未の代の幻想郷縁起からだ。
黙々と阿求は幻想郷縁起の頁を繰り――一通りの記述を当たり終える頃には、陽はすっかり傾いていた。女中が夕餉の時刻を告げた声で、阿求は写本から顔を上げる。
「……詮無いですね」
ひとつ息をついて、阿求は膝の上の猫を撫でた。
歴代の幻想郷縁起には、過去に一通り目を通して、内容に関しては記憶している。確認はその記憶との照らし合わせだったが、やはり自分の記憶は確かだった。
風見幽香に関する記述は、六代目の阿夢から若干詳細になる。それ以前は名前も不確かな、花畑の強大な妖怪、として噂のように存在が語られるだけだった。《幽香》という名前が縁起の中に現れるのは阿夢の代からである。
六代目の阿夢は、幽香に接触を図ったのだろうか?
『お久しぶり、ね』
幽香の言葉を思いだし、阿求はひとつため息のような息をつく。
彼女らにとって、数百年という単位は《お久しぶり》の一言で済むのだろうか。
『あら、ごめんなさい。人違いだったようだわ』
幽香は――自分の姿に、かつての御阿礼の子の姿を見たのだろうか?
振り返る。渡された花浜匙の花は、書棚の傍らに飾られていた。
立ち上がり、花の事典を手に取る。部屋に女中が夕餉を運んできた。「置いておいてください」と答えて、阿求はその事典を開く。
花浜匙――別名はスターチス。五月から六月に咲く一年草。ドライフラワーに用いられる。
花言葉は《変わらぬ心》。薄紫の花は――《知識》。
なるほど、自分には似合いの花かもしれない、と阿求は薄紫の花弁を見下ろして思った。
肆
不躾な来訪者は、概ね夜に現れる。
「お邪魔します」
襖を開けて現れたのは、営業スマイルを浮かべた鴉天狗だった。
「何の御用で?」
筆を置き、座布団に腰を下ろした射命丸文に、阿求は紅茶を口にしつつ訊ねる。
「今日、騒霊楽団が突発ライブを人里で行ったと聞きまして」
「それで、どうして私のところに?」
「その会場近くで貴女を見かけたと。ライブを聴かれていたのでしたら感想でもいただけましたらと思いましてね」
ライブ会場の近くは通りがかっただけだが、誰かが気付いていたのか。阿求は息をつく。
「散歩していたら、たまたま通りがかっただけです。特に聴いていたわけでは」
「あやややや、これはあてが外れましたか」
大仰に肩を竦めて、文は万年筆の尻を頬に当てて首を傾げる。
その姿を横目に見つつ、阿求は手元の書きかけの文面に目を落とす。
今書いているのは、加筆部分の草稿だ。幻想郷縁起の記述は常に書き加えられていく。新たな異変があればもちろんのこと、些細な事実でも書き加えておいて損はない。情報の取捨選択をすべきは読み手である。
そして、射命丸文は阿求にとって、貴重な情報源のひとりだ。
もっとも、彼女の記事がどれほど信用できるのかといえば、それは甚だ心許ないが――。
「用件はそれだけですか?」
「いえいえ、もう一件ほどありまして」
営業スマイルを崩さす、文は軽く居ずまいを正した。
「風見幽香という妖怪についての情報が、ご入り用では?」
阿求は眉を寄せて振り返った。文はあくまで笑顔のまま、こちらを見つめる。
「……あの妖怪についてならば、先に発表した幻想郷縁起にも既に記しましたが」
「ええ、存じております。ただ――あの縁起の記述は不完全では、と思う次第でして」
文の真意を計りかね、阿求は文の方を向き直った。
「無論、あの縁起はまだ完成ではありませんが――何故、今さら?」
縁起の第一稿を発表したのは随分前の話である。その不出来を指摘するのが今である理由が掴めず、阿求は眉間に皺を寄せる。
「スターチスが咲いていたのですよ」
唐突に話が飛んで、阿求はきょとんと目を見開いた。
文はどこか慈しむかのように目を細めて、阿求の背後に生けられた花を見やる。
スターチス――花浜匙。
「やはり、《貴女》にその花は贈られたわけですか」
「……どういう意味ですか」
阿求の問いに、文はやれやれと肩を竦めた。
「先の幻想郷縁起――未解決資料の項で、当新聞の記事に訂正を入れられていましたが」
話が飛躍する。八雲紫と会話している気分だった。眩暈を覚えつつ、阿求は頷く。
「不思議だったのですよ。彼女がどうしてああしているのか。そして縁起の彼女についての記載がああも……いえ、それは飛躍ですか。――けれど、あれを読んで納得しました」
「……貴女が何を言いたいのかが解らない」
顔をしかめる阿求に、文が向けた笑みは――憐憫のようにすら思えた。
「私は傍観者。答えは教えられませんから、これは取材協力者へのお節介です」
「お節介?」
「貴女が《貴女》で無いのだとしても、彼女は彼女のままなんですよ、阿求さん」
持って回った言い回しに、阿求は苛立ちを覚えて文机を叩く。
けれど文は構うことなく、八雲紫のようにはっきりとしない言葉を続けた。
「もちろん、貴女は稗田阿求ですから――無視したって構わない。彼女もそれは解っているでしょう。実際、過去はそうだったわけですから。けれど――」
「不確かな情報の押し売りだけなら、もう結構です」
これ以上聞き続けていても混乱するだけだった。阿求がそう言い放つと、文は目を細めて、「あやややや、これは失敬」と立ち上がった。
「まあ、全ては貴女次第という話です。気付くも気付かぬも、思い出すも忘れるも――」
それだけの話です。文はそう言い残して、襖を開け放つと縁側から翼を羽ばたかせる。
夜空に溶ける黒い翼を見送って、阿求は冷めた紅茶をすすった。
『あら、ごめんなさい。人違いだったようだわ』
首を傾げた幽香の、悠然とした笑みが浮かんだ。
冷めた紅茶がひどく渋くて、阿求は顔をしかめた。
膝の上に飛び乗った猫が一声鳴いた。その背を撫でて、阿求は呟く。
「……ゆう、か」
馴染みのない響きが、ひどく居心地悪く感じられた。
伍
誤解されがちだが、阿求には転生前の記憶はほとんど残っていない。
幻想郷縁起に関すること以外――先代の阿弥以前の個人的な記憶はほぼ無かった。
個人を形成するのが記憶であるとするならば、それも致し方ないのかもしれない。
阿求たち御阿礼の子は、稗田阿礼本人でもある。けれど、阿礼の記憶そのものを保持していないという意味では、やはり稗田阿求は稗田阿求でしかない。
例えば五代目の阿悟や七代目の阿七は男性である。その記憶を自分が保持していたとしたらどうなるだろう。自分は男性なのか女性なのか、歴代の御阿礼の子の《誰》なのか――それが解らなくなってしまうかもしれない。
転生前の記憶が失われるのは、そもそも短命である御阿礼の子が、せめてその短い生の中でも《自分》が《誰》なのかで悩まなくても済むようにという、何者かの配剤なのかもしれない。
――そのような理由で、過去の御阿礼の子のことを知る材料は、その当人の残した日記などである。長く生きる妖怪に直接訊くという手段もあるが、そもそも妖怪の知り合いが増えたのは幻想郷が平和になって以降のことだ。例えば六代目、阿夢の頃などはまだまだ物騒で、当時の幻想郷縁起も本来の《妖怪対策》の書物としての性格が残っている。
だから、阿夢の代に幽香の記述が詳しくなるのは不思議なこととも言えた。当時、幽香が人里を襲うような事態があったというわけでもなさそうである。それならば阿夢の代の幽香の記述は、もっと剣呑なものになっているだろう。
だが、阿夢の記した風見幽香についての記述は、もっと脳天気なものだ。
今の幻想郷縁起とそう変わらない。他の妖怪についての記述が剣呑なのに比べると、本人の危険度に比して、随分と穏やかな記載に留まっている。
何度かその項を読み返して、阿求はひとつの確信を持った。
阿夢は当時、幽香と個人的な知り合いだったのだ。
その当時、人と妖が交わるのは今に比べれば遥かに珍しいことだったはずである。けれども阿夢は、風見幽香と何かしらの形で交流を持ったはずだ。
幽香の言葉と、文のひどく曖昧な《お節介》を思い出すにつけて、その確信は深まる。
だが――文はあの迂遠な言葉で、こちらに何を伝えようとしたのだろう。
それが解らないのが、どうにも阿求には居心地が悪かったのだ。
「阿求様」
襖を開けて姿を現した女中は、その両手にいっぱいの花を抱えていた。
色とりどりの花浜匙だった。目を丸くする阿求に、女中は苦笑する。
「いつも花をくださる花屋の娘さんが、季節外れにたくさん咲いたので、と」
「そうですか」
屋敷に生けられた花は、里の花屋が持ってきているものだと聞いている。
「この間のと一緒に生けておきますね」
「お願いします」
薄紫、黄、桃色。どこか慎ましげな花弁と華やかな彩り。飾られるその花を見やりつつ、阿求は立ち上がった。
「阿求様、どちらへ?」
「調べものをしたいので、書庫へ。花に関してはお任せします」
かしこまりました、という女中の声を聞きつつ、阿求は襖を閉めた。
自室の書棚にも、過去の御阿礼の子の日記までは並べていない。それらは書庫の一角にまとめて保管されているはずだった。
自分以外の御阿礼の子の私的な日記に関しては、あまり熱心に読み込んだことは無かった。もちろんそれらも、過去の幻想郷を知る上では貴重な資料ではあるのだが、それが《自分》の書いたものである――という意識が、忌避させていたのかもしれない。誰だって、過去の日記を読み返すのは恥ずかしいものである。
書庫の扉を開ける。立ちのぼった埃っぽい空気に、阿求は口元を覆った。
使用人に言えば書庫から本を運んできてもらえるのだが、自分で探した方が早いことも多い。書庫のどこにどの本があるのかは頭に入っていた。こういうとき、自分の求聞持の能力は便利である。
書棚の並ぶ狭い空間に身を滑り込ませて、目当ての棚へ手を伸ばす。歴代の御阿礼の子、その六代目――阿夢の日記を取り出して、阿求は踵を返した。ここで読むには書庫は薄暗いし、埃っぽい空気は身体にあまりよろしくない。
書庫を出ると、昼下がりの陽射しが嫌に眩しく感じられた。
縁側の陽だまりに寝転ぶ猫を見やりつつ、阿求は自室へ戻る。女中の姿は既になく、色とりどりの花浜匙が書棚の傍らを鮮やかに彩っていた。
「……さて」
文机の前に腰を下ろし、阿夢の日記を開く。
劣化した紙を破らぬように慎重に繰りながら、阿求はざっとその内容に目を通す。
――しかし、見渡したその文中に、幽香らしき妖怪の記述は見当たらなかった。
ひとつ息をついて、阿求はその日記を閉じる。あてが外れたか。他の日記を確かめるのはまた後日でもいいだろう。そう急ぐようなことでもない。
「しかし……行動的だったのですね、三代前の私は」
もう一度日記をぱらぱらとめくりながら、阿求は感嘆とも呆れともつかない息を漏らした。
博麗神社はいい。霧の湖もまあ良しとしよう。太陽の畑、迷いの竹林もギリギリセーフだ。しかし、妖怪の山や冥界まで行っているというのはどういうことだ。しかも今よりも遥かに幻想郷が物騒だった時代に。
行動的というか、無謀というか、そもそも本当に身体が弱かったのだろうか、この御阿礼の子は。日記の中で嬉々として幻想郷の各地を歩き回っている様に、阿求はこの日記がフィクションではないかとすら疑ってしまう。少なくとも自分にはこんな元気はない。せいぜいが博麗神社まで行くぐらいで、霧の湖や太陽の畑までは、
――太陽の畑?
阿求はもう一度頁を繰る。確かに、阿夢は太陽の畑に行っている。日記にそう書かれているのだから間違いない。――ならばやはり、幽香に会っているのか。
しかし、会っているならば何故、それを日記に書いていないのだ?
他の日付を繰る。たとえば妖怪の山の麓まで行ったという話。警備の天狗に追い返された、と書いている。外見の描写からして、犬走椛かもしれない。迷いの竹林で兎に騙された、というのは因幡てゐのことだろう。
しかし、太陽の畑についてはその美しさと、妖精の悪戯に遭ったという話だけで、幽香らしき妖怪の記述はやはり見当たらないのだ。
太陽の畑に幽香は居なかったのだろうか? 阿夢の代の幻想郷縁起の記述を思い出す。幽香の項。――太陽の畑に暮らす妖怪、と書かれていたはずだ。
稗田阿夢は、風見幽香と出会っていたのか?
出会っていたなら――日記に書き漏らした? それとも、書かなかった?
日記の文字を指でなぞりながら、阿求は眉を寄せる。
――過去の自分は、太陽の畑で何を見たのだろう。
そこで彼女と出会ったのだとしたら、どんな会話がそこに為されたのだろう。
『貴女が《貴女》で無いのだとしても、彼女は彼女のままなんですよ、阿求さん』
射命丸文は、そう言った。どこか憐憫すらこめた眼差しで。
稗田阿求は、稗田阿礼本人であり、阿一から阿弥までの八人でもある。
――だが、その記憶を保っていないなら、それは本当に本人と言えるのか?
「私、は――」
思い出せないことなど無いはずだった。けれど、確かにあるのだ。
過去の自分は、いったい何者だったのか――。
慄然と虚空を見つめて、阿求はかつての自分の日記を握りしめた。
陸
「何の用? 最近、異変なんて特に無いわよ」
お茶をすすりながら、博麗霊夢は半眼でこちらを見つめながら言った。
「ええ、それは承知しています」
紅茶を飲みつつ、阿求はその視線を受け流す。
――博麗霊夢が人里に来ていたら、屋敷に来るように言付けてほしい。
使用人にそう頼んだ翌日、さっそく博麗の巫女は捕まった。
そうして今、阿求は霊夢と向き合って紅茶を口にしている。
「武勇伝聞かせろっていうんじゃないの?」
自分が霊夢を呼び出すのは、大抵は異変の後だ。その異変で出会った妖怪やら何やらに関しての情報を求めて、彼女の異変解決の武勇伝を聴くのは立派な阿求の仕事である。もっとも、異変の内容によっては口を濁されることもあるのだが。
「風見幽香という妖怪を、ご存じですよね」
「幽香? そりゃまあ知ってるけど」
きょとんと目を見開いた霊夢に、阿求は紅茶のカップを置いて向き直った。
「太陽の畑に、私を連れて行ってほしいんです」
「……はあ」
「それで、いざというときは風見幽香から私を守ってもらえると、助かります」
霊夢は思い切り、訝しげに目を細めた。
改めて考えてみれば、霊夢よりは何でも屋の霧雨魔理沙の方に頼むべきだったかもしれない。
しかし、魔理沙は人里には姿を現さない。彼女が霧雨道具店の勘当された娘だというのは、人里の事情に詳しい者なら聞いたことのある話だから、人里に来ないのもおそらくはそのあたりが絡んでいるのだろう。
だからといって、自分のごく私的な都合で使用人を魔法の森まで行かせるのも気がひけた。魔理沙が入り浸っているらしい博麗神社に行かせるにしても、やはり人里からではそれなりに距離があるのだ。
ともかく、今さらああだこうだ言っても仕方ない。
「重くはないですか?」
「軽いわよ。軽すぎて不安なぐらい」
飛べない阿求を背中に負ぶって、博麗霊夢は幻想郷の空を飛んでいた。
人と変わらぬ姿の妖怪が空を飛ぶこの幻想郷でも、人間で飛べる者は僅かだ。その僅かなうちのひとりである博麗霊夢は、重力を無視してふわふわと浮かぶように空を飛ぶ。
水の中に浮いているような気分で霊夢にしがみつき、阿求は空中から見下ろす幻想郷の光景を眺めていた。
空から見下ろす幻想郷。人里の外に出るのも滅多に無いことだから、ますます新鮮である。
「しかし、なんでまたわざわざ幽香のところに」
「情報収集のためです」
「正直、黙ってても喧嘩売られるからあんまり相手にしたくないんだけどねえ」
ため息をつきつつも、霊夢はふわふわと太陽の畑に向かって飛んでいく。
そしてほどなく、そのすり鉢状の草原が視界に入ってきた。
向日葵の季節は既に終わっている。夏の間、その黄色い花を咲き乱れさせる向日葵も今は種を残すばかり。そうなってしまうと、この場所もいささか寂しげである。
「はい、到着。幽香がいるかどうかは知らないけどね」
向日葵畑のそばに降り立って、霊夢は肩を竦めた。阿求はその背中から降りると、広い草原に視線を彷徨わせる。トレードマークの赤いスカートと白い日傘は見えない。
――あるいは、ここに来れば何か思い出せるかとも思ったが。
さすがにそうはいかないようだ。だいいち、その場所へ来るだけで先代以前の記憶が蘇るなら、自分ももっと色々と思い出していていいはずである。
さく、さく、と草を踏みしめて、阿求はひどく脳天気な蒼天を見上げた。
阿夢はこの場所で何を見たのか。そして彼女は――ここで。
「――あら?」
声が、降り注ぐように響いた。「げ」と霊夢が顔をしかめたような声を上げる。
「こんな季節に、珍しい来客ね」
振り返る先にあるのは、陽射しの下に揺れる白い日傘と、チェック柄の赤いスカート。
「ねえ――稗田阿求さん」
風見幽香はその日傘を回しながら、白くなった向日葵を背に微笑んでいた。
漆
「エスコート役は貴女? ご苦労様ね」
「全く」
霊夢を振り向いて、幽香はまた悠然と微笑んだ。その微笑の裏に、どんな感情が隠されているのか、阿求には解らない。妖怪の感情など解らないことの方が多いにしても。
「それで、どんな御用かしら?」
揺れる日傘が、草の上に薄い影を落とす。
その姿を見つめても、阿求の記憶に蘇るものはなく。
「――私は、貴女に会ったことがありますか」
阿求の言葉に、幽香は静かに目を細めた。
「先日、人里ですれ違ったわ」
「それ以前です」
「貴女に会った――言葉を交わしたのは、あれが最初よ?」
幽香の笑みは揺らがない。千年近くを生きる妖怪に、人間らしい感情は果たして必要なものなのだろうか、と阿求は思う。人の心は千歳という年月に耐えきれるのか――。
「いいえ、私は貴女に会っている。――私がまだ阿求ではなかった頃に」
その言葉に、幽香は一度目を伏せて、日傘をすっと下げた。
陽光を仰ぐ幽香につられ、阿求も空を見上げる。頭上は、塗りつぶされたような青。
「人違いなどではありません。稗田阿夢は、かつての私は貴女に――」
すっと、幽香が一歩阿求に歩み寄った。
息を飲んだ阿求に、差し出されるのは――幽香の手にした日傘。
「陽射しが強いわ」
幽香はどこまでも泰然と微笑む。感情を押し殺したような笑みに、阿求には見える。
日傘を受け取った阿求に、幽香はくるりと背を向けた。
「だけどそれは、稗田阿求ではないわ。――違うかしら?」
「――――」
確信した。阿夢はやはり幽香に会っているのだ。
けれど、阿求はそれを覚えていない。かつての自分のことであるのに。
――いや、それは本当に《自分》のことなのだろうか。
「私は、」
「人違いなのよ、稗田阿求さん」
それ以上の反駁を遮る、鋭い言葉、
阿求はぐっと押し黙り、その背中を見つめた。
幽香が今どんな表情をしているのかは、ここからは見えない。
「お帰りなさい。そして私のことは、太陽の畑に住む花好きの妖怪と記しておけばいいわ。貴女に必要なのは――それだけよ」
そして幽香は振り返り、ひどく嗜虐的な笑みを浮かべた。
「帰るわよ、阿求」
霊夢が駆け寄り、阿求の袖を引く。
身を竦めた阿求の手から、日傘が離れた。風が吹く。ふわりと浮き上がった日傘は、幽香の手に吸い寄せられるように収まり、そして幽香の表情は日傘に隠れた。
霊夢が阿求を抱きかかえるようにして浮き上がる。阿求はそれに身を任せたまま、影を落とす白い日傘を見下ろしていた。
『人違いなのよ』
そう言った感情のない声が、耳に残って離れなかった。
捌
人里に戻る頃には、既に陽はだいぶ傾いていた。
霊夢は人里の入り口のところで、阿求を下ろす。
「あんたが何をしたいんだか知らないけど――」
呆れたように腰に手を当てて、霊夢は息をつく。
「幽香にちょっかいかけてたら、命がいくつあっても足りないわよ」
「……だから貴女にお願いしたわけですが」
「私だって死にたくはないの。次は魔理沙に頼んでよね」
そもそも、妖怪は博麗の巫女を殺せないだろう。阿求がそう反論しようとしたときには、霊夢はふわりと浮き上がると博麗神社の方角へ飛び去っていった。
それを見送り、阿求は息をつく。
――どうしてわざわざ、太陽の畑まで行こうなどと考えたのだろう。
気にするほどのことなどではないはずなのだ。過去の自分が幽香と会っていたからといって、それが何だというのだ。稗田阿夢が会っていた可能性のある妖怪は他にもいる。だというのに、どうして風見幽香のことがこうも――。
屋敷までの道程を歩きつつ、阿求は答えの出ない問いを頭の中で転がす。
詮無い思考だとしても、止めることが出来ない。
「あら、稗田のお屋敷の――」
不意にかけられた声が、阿求の足を止めた。振り向けば、目に入るのは色とりどりの花。花屋の店先で、看板娘がにこにこと微笑んでいた。
「こんにちは」
ぺこりと頭を下げ、もう夕方か、と阿求は空を見て思う。
薄紫に色を変えつつある空に、ふと部屋に飾られた花浜匙を思い出した。
「ああ、先日はたくさんの花浜匙をありがとうございます」
阿求がそう声をかけると、「え?」と花屋の娘はきょとんと首を傾げた。
「屋敷まで届けてくださったでしょう?」
「――いえ、すみません。花浜匙ですか? ……そんな覚えは無いのですが」
不思議そうに首を傾げて、花屋の娘は店先を振り返る。花浜匙はそこにはない。
「え? でも――」
自分の部屋には今、たくさんの花浜匙が飾られている。あれは――。
『スターチスが咲いていたのですよ』
射命丸文はそう言った。
『いつも花をくださる花屋の娘さんが、季節外れにたくさん咲いたので、と』
女中は花浜匙を抱えてそう言った。
『貴女が《貴女》で無いのだとしても、彼女は彼女のままなんですよ、阿求さん』
花浜匙の花言葉は――《変わらぬ心》。
阿求は愕然と立ちすくみ、そして花屋に会釈をすると、足早に屋敷へ戻る。
「あら阿求様、おかえりなさいませ」
息を切らせて屋敷に戻った阿求の姿に、出迎えた女中が目を丸くした。
部屋に花浜匙を運んだその女中に、阿求は呼吸を整え、詰め寄る。
「あの、部屋の花浜匙――あれを届けたのは、誰ですか?」
「え? それはいつもの、花屋の――」
「その人は、どんな格好をしていました?」
「どんなと言われましても、白い日傘と赤いスカートの」
――ああ、と阿求は目元を覆って天井を仰いだ。
だとすれば、あの花の、あの言葉の意味は。風見幽香という妖怪は――。
『――そう、阿求、ね』
彼女はどんな気持ちで、阿求に一輪の花浜匙を差し出したのだろう。
その花こそが彼女の、何よりも雄弁な言葉なのだとしたら、自分は。
――稗田阿求は。
『だけどそれは、稗田阿求ではないわ。――違うかしら?』
阿求は自室への襖を開ける。書棚の傍らに、花浜匙は色とりどりの花弁を開いている。
薄紫の花言葉は《知識》。
桃色の花言葉は《永久不変》。
黄の花言葉は――《愛の喜び》。
「変わらぬ、心……」
彼女らにとって、数百年という時間はどれほどの長さなのだろう。
人間の自分には気の遠くなるようなその時間、彼女は何を想って――。
阿求は書棚に置いた、稗田阿夢の日記を取り出した。風見幽香のことは、この日記には書かれていない。おそらくは、敢えて書き落とされている。
阿夢がそれを日記に書き残さなかったのは、あるいは自分たちのためなのかもしれない。
転生によって失われる記憶。けれど、寿命の長い妖怪たちは生き続けている。
――たとえば、もしも。もしも稗田阿夢が、風見幽香という妖怪に恋をしたとしても。
生まれ変わった稗田阿七も、阿弥も、阿求も――そのことを覚えてはいない。
阿夢本人でもあるはずの御阿礼の子たちは、けれど知らないままに生きていく。
かつて自分が愛した者が、まだこの地に生き続けていることを――。
「私は、どうすればいいのですか?」
風見幽香という妖怪。届けられた花。残されたものは断片でしかない。
たとえ自分が幽香を求めようとしても――自分は、稗田阿夢ではないのだ。
少なくとも、風見幽香を愛した、あるいは風見幽香が愛した――稗田阿夢では。
「私は――」
自分を覚えていてくれる者が、転生しても生き続けている。
それは幸せなことだと思っていた。妖怪の知り合いが増えたことで、自分はきっと心安らかに転生を迎えられるだろう――と、思っていた。
だけどそれは、残される者にとっては。
「…………ッ」
阿求は顔を上げる。襖を開け放つと、縁側から見える空は赤く暮れなずんでいた。
「阿求様、夕餉の支度が――」
「いいえ、結構です」
声をかけてきた女中を遮って、阿求は歩き出す。
「阿求様?」
「もう一度出掛けてきます。――今日は、戻らないかもしれません」
「え、あ、阿求様、ちょっと――」
慌てて声をあげた女中から逃げるように、阿求は屋敷を飛び出した。
一番星が遠く、薄暮の空に煌めいている。その方角を目指して、阿求は走りだす。
博麗霊夢の背に乗って飛んだ景色の記憶を頼りに――その場所へ向かって。
玖
太陽の畑とは、こんなに遠かったのか。
息を切らせ、足をよろめかせながら、阿求は闇の中を歩き続けていた。
景色は既に夜の帳が下りて、虫の音が遠く響いている。
月灯りだけがひどく冴え冴えと、人が踏みしめた道を照らしていた。
普段屋敷を出歩かない自分が、いかに体力が無いかを思い知る。おそらくまだきっと、大した距離を歩いたわけでもないだろう。なのにもう、ひどく足が重い。思考がぼんやりとして、夜の闇より深い黒が、視界を埋め尽くそうとする。
――稗田阿夢は、かつての自分は、この道を歩いたのだろうか。
彼女に会いに――あの場所を目指したのだろうか。
そこに今、自分が行って、何をしようというのか――。
「あっ――」
足がもつれた。身体が傾ぐ。重力が、阿求の身体を地面に叩きつけようとする。
今倒れたら、もう立ち上がれない。そんな確信を、もはや踏ん張りのきかない足腰が伝えていた。――もう、どうにもならない。
近付いてくる地面に、阿求はぎゅっと目をつぶり、
「本当に――貴女は無茶をする人間ね」
差し伸べられた手が、阿求の身体を支えた。
それはひどく優しい手だった。自分はいつか、この手に抱きしめられたことがある。
遥か昔の、ひどく甘美な記憶が微かに蘇った気がして――。
「……幽香」
その名前を、阿求はひどく自然に口にしていた。
見上げた風見幽香の顔は、月光に照らされて――ひどく儚げな微笑みに、阿求には見えた。
「貴女のような人間が、こんな時間にこんなところを出歩くものじゃないわ」
諭すような言葉は、泣き出したくなるほどに優しい。
阿求は空を切る両手を、幽香の背中にぎゅっと回した。
抱きしめられたその温もりが――ひどく懐かしくて、心地よかった。
「どうして――」
阿求はただ、幽香の胸に顔を埋めて、その問いを呟く。
「どうして、私にあの花を贈ったんですか」
幽香は答えず、ただ阿求の髪を優しく撫でた。
「私が、かつての私でないことを知っているなら――どうして」
そうだ。稗田阿求はもはや、稗田阿夢ではないのだ。
彼女はそれを知っていたはずなのに――花浜匙を、阿求に贈った。
花言葉は《変わらぬ心》。幾百年を過ぎても変わらず、見守る者の想いの形。
「……花は咲いて、散って、種を残し、また咲くのよ」
囁かれる言葉は、虫の音に溶けるような静かな響きだった。
「それはきっと別の花。だけど私は、散った花が残した種を知っている――」
繰り返し繰り返し、花は咲く。新しい季節が来るたびに、何度でも廻り続ける。
それを、御阿礼の子の歪な生に重ねるのは、あるいは傲慢なのかもしれないけれど。
「それだけの、話よ」
阿求は顔を上げた。幽香はどこまでも、優しく微笑んでいた。
どれだけ長く生きても――生きる限り、誰かを求めずにはいられないのかもしれない。
それが業だというなら、人も妖怪も、何も変わりはしないのだ――。
「……話を、聞かせてください」
だから阿求は、そう囁いた。
「かつて貴女に出会った、私によく似た誰かの話を」
幽香は微笑んだまま、静かに目を細めた。
「それを聞いて、貴女はどうするの?」
「どうもすることはありません」
阿求はゆっくりと首を振り、そして、笑いかけた。
「稗田阿求は、ただ――風見幽香のことを、知りたいんです」
そのときの幽香の顔は、きっと泣き出しそうだったのだと、阿求は思った。
拾
不意に筆を止め、顔を上げた。
何のことはない、いつもの自室の光景があるだけで、ふっと息を吐き出す。
膝の上の猫が一声鳴いた。その背を撫でて、それから書棚を振り返る。
その傍らには、花浜匙が飾られている。
薄紫と、桃色と、黄の花が、この部屋を華やかに彩っている。
猫がぴくりと髭を動かし、ひらりと膝の上から降り立った。
筆を硯に置き、立ち上がる。襖を開けると、眩い晴天が広がっている。
――また、彼女に会いに行こうか。
そんなことを思ったところで、女中が姿を現した。
「紅茶をお持ちしました」
「ありがとうございます」
文机の前に座り直し、カップに注がれた紅茶を口にする。
それから、書きかけの幻想郷縁起に視線を落とした。
そこに記録されるのは、花に囲まれて暮らす、ある長生きな妖怪のこと――。
「阿斗様?」
笑みを漏らしていた自分に、女中が不思議そうに首を傾げた。
「何でもありません」
そう微笑して、紅茶を飲み干すと、立ち上がる。
彼女はまた、あの場所で自分を待っているだろう。
そして自分はまた、彼女に会いに行くのだ。今までの自分がそうしたように。
たとえ記憶が、思い出が失われるのだとしても。
花が繰り返し咲くように、自分はここにいて、彼女もそこにいるのだから。
吹き抜けた風が、飾られた花浜匙の花弁を小さく揺らした。
寿命差ネタはよくありますが、転生が絡んでくるとまた違ったものもあります。
しかし10代目の名前が阿斗なのは……。
中国で無能の代名詞とされるような名前を付けなくてもいいと思うのですが。
とても面白かった
ありがとう
幽香と阿求の抜けた部分の話も読みたかったな。
素敵な話をありがとうございました。
その繰り返しを見守り続ける幽香の在り方がとても尊いと思いました。
でも私も「名前は阿斗じゃない方が…」と思いました
10代目も聡明だと思うので…
また著されるのであればもちろん読んでみたいですが。
ただ、私は気にしませんでしたが、
「阿夢」や「阿斗」といったオリジナル要素のある名前を加えずとも
「四代目」や「十代目」といった言葉で十分表現できたのではないでしょうか。
できれば加えないほうがよろしいと思われますので。
ため息が出る。
文が傍観者に徹していたのは、実は文も過去の2人と何らかの接点があったから…
というのを推測してしまいました。
綺麗で素敵なお話でした。
綺麗で、透き通るような作品。そんな気がします。
阿斗の意味は日本でも有名な三国志に連なる話なので、浅木原忍氏にしてはうかつなミスかな?と思いました。
だがちょっと待ってほしい。こういう解釈もありえないだろうか?
転生して以前の記憶も無いのにまた同じ妖怪に惹かれてしまう自分の愚かさを表して敢えて阿斗を名乗っていると。
何にせよとても心に響くいいSSでした。
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