日記を綴る。
愉快で楽しく面白い日常。私の愛する幻想郷が重ねる記憶。
どれだけ書いても苦ではない。
走る筆に淀みは無く、転がるように
「――あら?」
紙の上を墨が滑っている。筆が落ちていた。
落とした記憶はない。手を滑らせた覚えもない。
手の感覚を無くしているということもなかった。
だのに事実、筆は落ちて紙の上に墨を散らしている。
これはつまり。
「――――あぁ」
わかっていたのに、名残惜しい。
「もう、終わりなのね」
故に他人事のように実感など皆無。
心の底が受け入れない。
でも、それも時間の問題。
事実は変わらず、いずれそれを認めてしまう。
冷静に冷酷に現実は追いついてしまう。
「藍」
虚空に一声。すぐに気配は現れる。
「支度を」
「は、え――?」
私の命に二つ返事ではない藍も珍しい。
何年ぶりかしら。
「承知いたしました――――寂しくなります」
「ありがとう」
余計な一言に礼を告げる。
その余分にこそ感情が籠っていたから。
「紫様、此度は如何程の猶予が……」
「長くはないわ。いつもどおり」
幾度繰り返したかわからぬ問答。
聡明な藍なら同じ返事が返ってくるとわかるだろうに。
「……では西行寺様、伊吹様にご連絡を……」
「構わないわ。幽々子は重々承知でしょうし、萃香はどこに居るとも知れないもの」
こんなことに彼女たちの時間を割いてしまうのも忍びない。
彼女たちなら、待っていてくれるでしょうし。
だから、今は。
「……博麗神社に行くわ」
息を呑む気配。
「ですが、その……」
「ええ。怒られに行くの」
「そのような――後で、私が説明をすれば……」
藍の声は苦々しい。橙だったら普段の凛然とした態度で想像も出来ないでしょうね。
「きっと、霊夢もわかってくれます。ですが、今は、紫様の口から伝えられては」
彼女にも結末は見えている。計算するまでもなく想像できることだろう。
そう、わかり切っている。どうなるかなんて決まっている。
でも――
「きっと泣かれるわ。と思うのは自惚れかしらね」
逃げることは、許されない。
沈黙。
答えあぐねているのか、無言だというのに重々しい気配。
それでも答えようとするのだから、優しいわね。あなたは。
「――いいえ……そのようになると存じ上げます」
「ふふ、だとしたらとんだ悪女ね、私」
返事はない。今度こそ答えに窮したようだ。
これ以上はいじめと変わらない。
藍を虐めるのは楽しいけれど、時間の限られている今は興じていられない。
「後は任せます」
「……いってらっしゃいませ、紫様」
一度も藍の顔を見ることなく部屋を出る。
ここで後ろ髪引かれてはせっかくの決心が折れてしまう。
そう、決心なんて強い言葉を使っても誤魔化せない。
私の意思は折れかけている。立ち止まってしまいたいと願っている。
私の心は、泣き叫んでいる。
しかし、嘆くことに意味などない。
これを選んだのは私なのだから。
この結末を繰り返すのは……私の意志なのだから。
また、日記に空白が出来る
神社には雨が降っていた。
梅雨の時期。大結界の外と違って幻想郷では狂いなく雨期が来る。
夏前だというのに冷たい雨。
……丁度いい。人払いの結界になってくれるだろう。
彼女とは、二人きりで話したかった。
そういえば――彼女と初めて出会ったのもこんな雨の日だった。
言葉を覚え始めた年頃の童女だった。
そうして彼女が神社にやって来て、巫女の修行を始めた頃に再会した。
「……野晒しころり髑髏が一つ♪」
物怖じしない子で、乞われてよく遊んであげた。
「鴉も喰らわぬ目玉が二つ♪ 獣に食われて手足が三つ♪」
紅白の童女に教えてあげた手毬唄を口ずさむ。
「足りぬや惜しいしかばねの♪」
追憶に耽る。少女の幻影に歌いかける。
――情けない。
私は、彼女に逢うことを恐れている。
このまま……一歩も踏み出したくないと思っている。
「ごろりごろりとむくろを蹴って……♪」
今ではない、過去に縋って逃げ出したいと……
「神社で不吉な歌を歌うな」
知らず俯いていたらしい。声に顔を上げる。
傘を差した彼女がそこに居た。
「……霊夢」
髪から滴が落ちて一瞬彼女を見失う。
ああ、傘を、忘れていた。
「ひどいわね。小さい頃に歌ってあげた時は喜んでくれたのに」
「歌詞の意味もわからん子供にそんなの歌うな」
雨越しでも赤面しているのが見て取れる。
ふふ、もう子供の時分を語られたら恥ずかしい歳なのね。
「というか、そんなの憶えてないわよ。子供の頃に会ったっけ?」
「人間は忘れっぽいわね。あんなに遊んであげたのに」
でも、私はいつまでも憶えているわ。絶対に忘れない。
あの頃の思い出も、あなたが大きくなってからの記憶も――持っていく。
「……その歌にはなんか憶えが――なんて立ち話する前に」
手を引かれる。
「濡れ鼠じゃないの、ほらこっち来なさい」
手を引かれて彼女の差す傘に入れられる。
並んで歩く。引かれる手に視線が落ちる。
細い、腕。
――彼女は背が高い。
私よりは低いけれど、同年代の少女の中では群を抜いているだろう。
だからその細さが際立ってしまう。
病的とまでは言わないまでも、一度意識すれば無視できない細さ。
「霊夢、ご飯はちゃんと食べてる?」
「は? いきなり変なこと訊くわね」
「あなたは自分のこととなると無頓着だから」
「言われなくても甘やかしてますわ。それより自分の心配しなさい。
梅雨寒くらい知ってるでしょうが。風邪引くわよ」
縁側まで連れて行かれる。
「手拭い取ってくるから待ってなさい」
人にも妖怪にも平等な博麗の巫女。それは己をも含まれる。
強い妖怪も弱い人間も等価に扱う。他人も己も同じ勘定。
でもね霊夢――自分と云うのは、人一倍大事にしてようやく吊り合うものなのよ。
「やっぱり、心配ね」
「何がよ? 風邪が?」
手拭いを放られる。
膝の上に落ちたそれを見降ろしたまま口を開く。
「藍に言えばお米くらい都合するからね」
「別にそこまで食うに困ってないって。なんなのよいきなり」
「人間らしく生きなさいと言っているの」
膝に目を落したまま呟くように囁く。
「あなたは人間なんだから」
雨の音に掻き消されそうな声は、しかし彼女に届いていた。
怪訝な顔をしているだろう気配。応じる声にはその色がより濃かった。
「……変よ紫。説教にしても的を外してる」
説教、か。閻魔の真似事のつもりはなかったのだけれど。
ああでも、的を外した説教というのは的を射ている。
これに愛情なんて籠められてないのだから。
「いつか恋をして、子を産んで、子を育んで……人間らしく笑って死になさい」
突き放してるだけなのだから。
「――あんたと私って、子供作れたっけ?」
また突飛な問いね。そんなのわかった上で愛し合っていたのに。
「作れないわね。女同士ですもの」
「じゃあっ」
袖を掴まれる。握り締められる。
「……じゃあ、それは、どういう意味で言っているの。それじゃ、まるで。
まるで、私を、見限るって言ってるみたいじゃない」
苦々しい声。辛い。辛くて、言葉を紡げない。
それでも、嘘をつかねばならない。
嘘で、彼女を突き放さなければならない。
「見限るんじゃないわ。あなたを捨てるの」
顔を上げる。霊夢の顔を見ないように視線を外しながら。
それだけで、心が折れてしまいそう。
見えてしまったから。
ほんの少しだけ、あなたの顔が見えてしまったから。
彼女は眼を見開いていた。
「今日はお別れを言いに来たの」
「……まだ梅雨、よ? 冬眠には」
私の声が聞こえてないふり。否、心底理解できなかったのかもしれない。
「冬眠じゃないの」
心が痛い。しかしやめるわけにはいかない。
「百年の眠り」
ここでやめては、彼女を泣かせる意味が無い。
「百――年?」
「長生きの秘訣かしらね」
彼女の戸惑いに気づかぬふりをする。
淡々と事実だけを告げる。嘘を混ぜ込むのはほんの少しで済ませたい。
「御阿礼の子の本全てに私が書かれていないのは何故か知ってる?」
淡々と事実だけを告げる。一秒でも早く彼女を突き放したい。
「幻想郷縁起が編纂される時代に私がいなかったから」
淡々と事実だけを告げる。あなたを傷つけるのは最小で終わらせたい。
「大結界の維持のために、力を蓄えるために、長い眠りにつくから」
「何、だから、お別れ? なによ、それ」
だのにあなたは理解を拒む。
耳を塞ごうとする。
駄目よ。それじゃ意味が無い。
それじゃ、あなたは私を忘れられない。
「何もかも無責任に放り出してあなたを選ぼうとした」
だから私は畳みかける。
「でもダメだった。私は私の愛した幻想郷を捨てられなかった」
塞いだ耳を抉じ開ける。
「あなたを選べなかった」
冷酷に別れを突き付ける。
「だからさよなら」
「――――っ!!」
襟を掴まれる。押し倒される。
「なにを、勝手な――っ! あんたの方から好きだって来たんじゃないっ!
あんたが私を捕まえて逃がさなかったんじゃないっ!!」
「ええ。好きよ霊夢。愛してる。その気持ちは変わらない」
白々しい声になるように感情を殺す。
「あなたが大好き。今すぐ抱き締めたい。これが嘘だって囁きたい」
心からの言葉を嘘にする。
「でも私は幻想郷を選ぶの。あなたじゃなく幻想郷をえら」
「ふざけないでっ! そんなの、あんたの都合じゃない! 私の気持ちは!?
あんたが好きだっていう私の気持ちはどうなるのよっ!?」
耳を塞ぐ。
「これはどうにもできないの。何十年か冬眠で誤魔化して、百年眠り続ける。これは」
心を閉ざす。
「なんで、やめてよ……っ! だったら、勝手に居なくなればいいじゃないっ!
どうしてわざわざそんなことを言いに来るのよ……っ」
顔に、熱いものが落ちた。
霊夢は、泣いていた。
「――――行かないでよ」
それでも――私はあなたを見ない。
「行かないで……私の傍に居てよ……ゆかり……」
誰の価値も等しく見ていた彼女が、私を失いたくないと泣いている。
……これなら、大丈夫よ、霊夢。
誰にでも平等なあなたが……私っていう例外を作れた。
私を愛して、失いたくないって己に還る想いを抱けた。
あなたは誰かを愛せる。あなたは人並の幸せを掴める。
私がいなくなっても――あなたは幸せになれる。
だから、抱き締めるな。私の腕。
だから――言葉にするな。私の……想いを。
「私は幻想郷のために死ねないの。死なないようにしなければならないの」
最後まで彼女を見ない。あなたから視線を逸らし続ける。
この衝動を、殺し続ける。
「だから霊夢」
私はいつまでも……
「さようなら」
あなたの幸せを願ってる。
頬が熱い。
彼女に叩かれたところが熱をもっている。
冷たい雨に冷やされた体で、そこだけが熱い。
「……初めて見たわ。泣いてる顔」
もう居ない彼女に語りかける。
「でも、大丈夫よ。いつか、忘れられる」
独り言なんていうのは自分に語りかけているだけと知っているのに。
「あなたはまだ若いんだもの」
それでも止められない。
言い訳を……己に言い聞かせている。
そうでもしないと、追いかけてしまいそうだから。
この冷たい雨の中を走り去ってしまった霊夢を追いかけてしまいそうだから。
もう、どうしようもないのに。
どれだけ愛を語ろうと、彼女を求めようと……百年の別れは免れない。
何があろうと再び出逢えることなんてあり得ない。
次に目覚める時にあなたは居ない。
だから、私に出来ることは忘れさせることだけ。
私が居なくなっても彼女が幸せに生きられるように願うことだけ。
こうなることなんて、幻想郷の礎になると決めたあの時からわかっていた。
「――――このビンタは百年後まで持って行くわね」
報われることなんて望んでいない。
「今までありがとう」
私は幻想郷を愛せればそれでいい。
「愛していた――……」
何も還ってこなくても構わない。
「…………愛しているわ、霊夢」
それで――
「霊夢……」
――よかったのよ
無限に広がる荒野。
見上げる空は赤く錆びついていて、朝と夜の狭間のまま止まっている。
夢の光景。
これが私の心象風景なのだとしたら……随分と、荒んでいる。
そこで私は日記を捲っている。
何も書かれていない空白のページを捲り続けている。
書き込もうにもここには筆すら無かった。
空白のページだけが増え続けている。
あれから何年が経ったのだろう。最早目覚めを待ち遠しく思う心すら死んでいる。
彼女のいない幻想郷で目覚めるのが……たまらなく嫌だった。
いつからだろうか。私の中で彼女の存在が幻想郷と等価になっていたのは。
私の楽園で面白おかしく日々を過ごすことよりも……彼女の笑顔が見たいと願うようになったのは。
彼女が妖怪だったならよかったのに。
そうであったなら、この百年の眠りだって―――――
自嘲する。
たらればの可能性に意味なんてない。
私は――あるがままの霊夢を愛したのだから。
「――――」
全てが止まった世界に声が響く。
私の名を呼ぶ声。
笑顔の、霊夢。
霊夢がそこに立っていた。
立ち上がる。彼女に歩み寄る。
手を伸ばして、触れる寸前で止める。
きっと、触れれば壊れてしまう。
これは夢なのだから。
繰り返される明晰夢。
なんとも私に相応しい地獄だ。
知らぬ存ぜぬで興じれれば極楽なのに、夢と知っているから私を苛む。
「……ごめんなさいね、何度も呼び出して」
最後に見たのは泣き顔なのに。
一番焼き付いてしまっているのは最後のあの顔なのに。
我ながら、さもしい。
「この百年の夢で何度目なのでしょうね――」
写真のように笑顔だけを浮かべる霊夢の幻に語りかける。
「あなたに、縋るのは」
私は疲れているんだろう。
こうして霊夢の姿を見なければ壊れてしまうほどに。
しかし、そんなものはなんの免罪符にもなりはしない。
私が泣かせたあなたに縋る言い訳にはなりはしない。
「あなただったら……少女趣味と笑うのかしら」
「――紫」
幻影が、私の名を呼んだ。
自嘲を深める。
不様で、惨めね。この期に及んで……まだ一人芝居を続けるだなんて。
「紫」
「もうやめて。お願いだから……」
「紫」
幻影は私の名を呼び続ける。
私が望んでいる、否定している夢。
己の愚かしさに呆れかえる。私は、どこまで……
「起きなさい、紫」
え――?
顔を上げると、霊夢の幻影は腕を大きく――
ばちんっ
びりびりと痛みが走る。
腹に感じる重さ。
眩しい、錆びた赤じゃない光。
「おはよう」
「……おは、よう……?」
反射的に応じて、見上げる。
――知らない女が馬乗りになっていた。
歳の頃は20を過ぎたあたりだろうか、強気に吊り上がった眼が艶やかな黒髪に似合っている。
やはり、見覚えはない。
「百年ぶりねバカ女」
「……え?」
「このビンタの味を忘れるとは相当寝惚けてるわね」
寝惚け……私は、起きているの?
つまり、あれから百年が過ぎて……
「まだわからない?」
いつの間にか私から下りていた女はポケットをまさぐる。
「こうすればわかるかしら」
赤い、リボン。
黒髪に結われた、大きな、リボン。
「れい……む?」
まさ――か。そんな、あり得ない。
夢かと疑う。しかし頬の痛みは現実だと訴えていて。
数年で目覚めたのかと疑う。しかし体に満ちる妖力は百年の休息を示していて。
心が壊れたのかと疑う。しかし壊れているのならば疑問すら抱けぬ筈で。
刹那に四万五千七百三十二通りの可能性を審査し棄却する。
そして二千六百七十一通りの成長過程を演算して――彼女が霊夢だという確信に至った。
「霊夢、嘘でしょう……? なんで、あなたが」
それでも信じられない。何度も計算し直す。
彼女が生きていて、再び私のところに来てくれることなんてあり得ないのに。
「本当に、霊夢なの? あれから、百年」
「ええ百年経ってるわよ。魔理沙は魔法使いになっても泥棒してるし、
早苗は神様になっちゃってるし、慧音は物理的にも頭硬いまんまだし、
映姫はたまに説教しに来るし、咲夜は人間やめてないのに歳取らないし、
アリスは人形作りまくってるし、幽々子はぽやぽやしたまんまだし、
宇宙人共は」
「ちょ、ちょっと待ちなさい」
彼女、霊夢に一気に捲し立てられ、理解が追いつかない。
本当に――百年経っている?
「なんで、あなた、そんな」
なら、何故彼女は生きていて、こんなにも若々しいのか。
それこそあり得ない。人間にはこんな真似出来はしない。
蓬莱人になるだとか魔法使いになるだとか延命の手段はいくらでもあるけれど……
霊夢はそんなものに手を出すような愚か者じゃなかったのに。
混乱しきっている私に、霊夢はふんと鼻を鳴らしてあっさりと答えた。
「あぁ、妖怪になるのに時間かかったのよ。もう少女とは云えないわね。
こんなに美人に育っちゃったわ」
――意識が遠のく。
「よ、よう――」
それこそ、理解できない。
「なにを馬鹿な真似しているのっ!?」
目眩を押し退け霊夢に掴みかかる。
「あなたはまだ若かった……! いくらでも人間としての幸せを探せた!」
百年、夢の中でも祈り続けた彼女の幸せが滅茶苦茶だ。
「私なんか居なくなってもあなたは幸せになれたのにっ!」
祈りと、願いと真逆の結末。
「なんでよっ!? 私は、あなたの幸せだけを……っ!」
これでは――私が愛した、人間としての博麗霊夢を殺したのは私じゃないか。
何が足りなかった。何を間違えた。
どこで私は、彼女を歪めてしまったのだ……!
「私は、あなただけは守りたかったのにっ!」
人間が妖怪になる。
数十年しか生きられない人間が膨大な時間を生きてしまう。
それは長い年月をかけて行われる拷問。
人間性を切り売りして、心をすり減らして続く生。
否応なく変わってしまう。化物になってしまう。
そんなの、嫌だったのに。
「だから私はあなたを突き放したのにっ!」
いくらでも変えられた。
霊夢を妖怪にすることなんて簡単だった。
それでも考えすらしなかった。
私は人間の博麗霊夢を愛したのだから。
彼女にこんな永遠に等しい苦痛を味わわせたくなかったのだから。
「なんでよ……」
なんでよ、霊夢。
どうしてこんな馬鹿な真似を。
「これじゃ、私はなんのためにっぶ」
「うっさい。勝手にあんたの考えを押し付けるな」
襟首を掴まれてる。触れるほど近くで睨まれている。
「あの時はわざわざ私に嫌われに来てくれてありがとう。クソ喰らえだわ」
喉が圧迫されて声が出せない。
こんなもので死にはしないけれど、反論が出来ない。
「百年前はあんたの都合で押し切られた。今度は私の都合で押し切るわ」
怒気を孕んだ彼女の言葉をただ聴くことしかできない。
「私の幸せ? 人間として? ふざけるな」
身を切る想いで果たした私の努力が、一言で吐き捨てられる。
「私の幸せは過去にも今にもただ一つ。あんたと共に在ることだけよ」
悲劇で終えた話を――否定される。
「私はあんたと共に在りたいと願った。願って努力した。
生まれて初めての努力だったわ。ありとあらゆる文献調べて、
魔理沙やアリスに手伝ってもらって妖怪になる方法を探し尽くした」
語られる彼女の百年。
「そして妖怪になって、博麗の巫女の座を次代に継がせて、あんたを探し続けた!
50年かけてここを探し当てた! 藍を脅してこの家に住み続けてあんたが目覚めるのを待ったっ!」
私を追い続けた……百年。
「そして――あんたが諦観した、悲恋の物語なんて、ブチ壊してやった」
抱き締められる。
頭が真っ白になる。
彼女がどんな顔をしているのか見えなくて……想像もできなかった。
「あんたが愛した数多の幻想郷の中の一つくらい――あんたを愛する奴がいたっていいでしょ?」
私の苦悩を、あっさりと踏み潰した。
終わりさえも、弾き飛ばした。
何も終わっていないと、閉じた私の眼をこじ開けた。
無理矢理で、滅茶苦茶で……霊夢、らしい。
「夢じゃ――ないのね」
そっと抱き返す。
「本物の、霊夢なのね」
「まだ目が覚めてないんならもう一発要る?」
笑いが漏れる。
百年が過ぎて、人間ですらなくなったというのに……変わっていない。
あの頃のまま。何も――変わっていない。
「馬鹿ね……本当に馬鹿」
彼女の肩に顔を埋めて、強く霊夢を感じる。
「馬鹿で馬鹿でどうしようもない、徹底的に馬鹿」
「連呼するな」
「あは、あははははは」
「うん? 嬉し過ぎて壊れた?」
「ええ、壊れたわ。壊れちゃった」
なにもかも全部、ね。
大妖怪の肩書も、妖怪の賢者の誉れも、あなたを守るだなんて思い込みも。
全部壊されちゃったわ、霊夢。
もう飾ることなんてできない。
あなたを求めるこの心を騙せない。
「後悔するわよ?」
「後悔させてみなさい」
ありがとう。
私は――あなたが好きよ、霊夢。
強く、強くあなたを抱き締める。
そして、囁かれる。
「でもまずは――」
「百年分、抱き締めなさい」
愉快で楽しく面白い日常。私の愛する幻想郷が重ねる記憶。
どれだけ書いても苦ではない。
走る筆に淀みは無く、転がるように
「――あら?」
紙の上を墨が滑っている。筆が落ちていた。
落とした記憶はない。手を滑らせた覚えもない。
手の感覚を無くしているということもなかった。
だのに事実、筆は落ちて紙の上に墨を散らしている。
これはつまり。
「――――あぁ」
わかっていたのに、名残惜しい。
「もう、終わりなのね」
故に他人事のように実感など皆無。
心の底が受け入れない。
でも、それも時間の問題。
事実は変わらず、いずれそれを認めてしまう。
冷静に冷酷に現実は追いついてしまう。
「藍」
虚空に一声。すぐに気配は現れる。
「支度を」
「は、え――?」
私の命に二つ返事ではない藍も珍しい。
何年ぶりかしら。
「承知いたしました――――寂しくなります」
「ありがとう」
余計な一言に礼を告げる。
その余分にこそ感情が籠っていたから。
「紫様、此度は如何程の猶予が……」
「長くはないわ。いつもどおり」
幾度繰り返したかわからぬ問答。
聡明な藍なら同じ返事が返ってくるとわかるだろうに。
「……では西行寺様、伊吹様にご連絡を……」
「構わないわ。幽々子は重々承知でしょうし、萃香はどこに居るとも知れないもの」
こんなことに彼女たちの時間を割いてしまうのも忍びない。
彼女たちなら、待っていてくれるでしょうし。
だから、今は。
「……博麗神社に行くわ」
息を呑む気配。
「ですが、その……」
「ええ。怒られに行くの」
「そのような――後で、私が説明をすれば……」
藍の声は苦々しい。橙だったら普段の凛然とした態度で想像も出来ないでしょうね。
「きっと、霊夢もわかってくれます。ですが、今は、紫様の口から伝えられては」
彼女にも結末は見えている。計算するまでもなく想像できることだろう。
そう、わかり切っている。どうなるかなんて決まっている。
でも――
「きっと泣かれるわ。と思うのは自惚れかしらね」
逃げることは、許されない。
沈黙。
答えあぐねているのか、無言だというのに重々しい気配。
それでも答えようとするのだから、優しいわね。あなたは。
「――いいえ……そのようになると存じ上げます」
「ふふ、だとしたらとんだ悪女ね、私」
返事はない。今度こそ答えに窮したようだ。
これ以上はいじめと変わらない。
藍を虐めるのは楽しいけれど、時間の限られている今は興じていられない。
「後は任せます」
「……いってらっしゃいませ、紫様」
一度も藍の顔を見ることなく部屋を出る。
ここで後ろ髪引かれてはせっかくの決心が折れてしまう。
そう、決心なんて強い言葉を使っても誤魔化せない。
私の意思は折れかけている。立ち止まってしまいたいと願っている。
私の心は、泣き叫んでいる。
しかし、嘆くことに意味などない。
これを選んだのは私なのだから。
この結末を繰り返すのは……私の意志なのだから。
また、日記に空白が出来る
神社には雨が降っていた。
梅雨の時期。大結界の外と違って幻想郷では狂いなく雨期が来る。
夏前だというのに冷たい雨。
……丁度いい。人払いの結界になってくれるだろう。
彼女とは、二人きりで話したかった。
そういえば――彼女と初めて出会ったのもこんな雨の日だった。
言葉を覚え始めた年頃の童女だった。
そうして彼女が神社にやって来て、巫女の修行を始めた頃に再会した。
「……野晒しころり髑髏が一つ♪」
物怖じしない子で、乞われてよく遊んであげた。
「鴉も喰らわぬ目玉が二つ♪ 獣に食われて手足が三つ♪」
紅白の童女に教えてあげた手毬唄を口ずさむ。
「足りぬや惜しいしかばねの♪」
追憶に耽る。少女の幻影に歌いかける。
――情けない。
私は、彼女に逢うことを恐れている。
このまま……一歩も踏み出したくないと思っている。
「ごろりごろりとむくろを蹴って……♪」
今ではない、過去に縋って逃げ出したいと……
「神社で不吉な歌を歌うな」
知らず俯いていたらしい。声に顔を上げる。
傘を差した彼女がそこに居た。
「……霊夢」
髪から滴が落ちて一瞬彼女を見失う。
ああ、傘を、忘れていた。
「ひどいわね。小さい頃に歌ってあげた時は喜んでくれたのに」
「歌詞の意味もわからん子供にそんなの歌うな」
雨越しでも赤面しているのが見て取れる。
ふふ、もう子供の時分を語られたら恥ずかしい歳なのね。
「というか、そんなの憶えてないわよ。子供の頃に会ったっけ?」
「人間は忘れっぽいわね。あんなに遊んであげたのに」
でも、私はいつまでも憶えているわ。絶対に忘れない。
あの頃の思い出も、あなたが大きくなってからの記憶も――持っていく。
「……その歌にはなんか憶えが――なんて立ち話する前に」
手を引かれる。
「濡れ鼠じゃないの、ほらこっち来なさい」
手を引かれて彼女の差す傘に入れられる。
並んで歩く。引かれる手に視線が落ちる。
細い、腕。
――彼女は背が高い。
私よりは低いけれど、同年代の少女の中では群を抜いているだろう。
だからその細さが際立ってしまう。
病的とまでは言わないまでも、一度意識すれば無視できない細さ。
「霊夢、ご飯はちゃんと食べてる?」
「は? いきなり変なこと訊くわね」
「あなたは自分のこととなると無頓着だから」
「言われなくても甘やかしてますわ。それより自分の心配しなさい。
梅雨寒くらい知ってるでしょうが。風邪引くわよ」
縁側まで連れて行かれる。
「手拭い取ってくるから待ってなさい」
人にも妖怪にも平等な博麗の巫女。それは己をも含まれる。
強い妖怪も弱い人間も等価に扱う。他人も己も同じ勘定。
でもね霊夢――自分と云うのは、人一倍大事にしてようやく吊り合うものなのよ。
「やっぱり、心配ね」
「何がよ? 風邪が?」
手拭いを放られる。
膝の上に落ちたそれを見降ろしたまま口を開く。
「藍に言えばお米くらい都合するからね」
「別にそこまで食うに困ってないって。なんなのよいきなり」
「人間らしく生きなさいと言っているの」
膝に目を落したまま呟くように囁く。
「あなたは人間なんだから」
雨の音に掻き消されそうな声は、しかし彼女に届いていた。
怪訝な顔をしているだろう気配。応じる声にはその色がより濃かった。
「……変よ紫。説教にしても的を外してる」
説教、か。閻魔の真似事のつもりはなかったのだけれど。
ああでも、的を外した説教というのは的を射ている。
これに愛情なんて籠められてないのだから。
「いつか恋をして、子を産んで、子を育んで……人間らしく笑って死になさい」
突き放してるだけなのだから。
「――あんたと私って、子供作れたっけ?」
また突飛な問いね。そんなのわかった上で愛し合っていたのに。
「作れないわね。女同士ですもの」
「じゃあっ」
袖を掴まれる。握り締められる。
「……じゃあ、それは、どういう意味で言っているの。それじゃ、まるで。
まるで、私を、見限るって言ってるみたいじゃない」
苦々しい声。辛い。辛くて、言葉を紡げない。
それでも、嘘をつかねばならない。
嘘で、彼女を突き放さなければならない。
「見限るんじゃないわ。あなたを捨てるの」
顔を上げる。霊夢の顔を見ないように視線を外しながら。
それだけで、心が折れてしまいそう。
見えてしまったから。
ほんの少しだけ、あなたの顔が見えてしまったから。
彼女は眼を見開いていた。
「今日はお別れを言いに来たの」
「……まだ梅雨、よ? 冬眠には」
私の声が聞こえてないふり。否、心底理解できなかったのかもしれない。
「冬眠じゃないの」
心が痛い。しかしやめるわけにはいかない。
「百年の眠り」
ここでやめては、彼女を泣かせる意味が無い。
「百――年?」
「長生きの秘訣かしらね」
彼女の戸惑いに気づかぬふりをする。
淡々と事実だけを告げる。嘘を混ぜ込むのはほんの少しで済ませたい。
「御阿礼の子の本全てに私が書かれていないのは何故か知ってる?」
淡々と事実だけを告げる。一秒でも早く彼女を突き放したい。
「幻想郷縁起が編纂される時代に私がいなかったから」
淡々と事実だけを告げる。あなたを傷つけるのは最小で終わらせたい。
「大結界の維持のために、力を蓄えるために、長い眠りにつくから」
「何、だから、お別れ? なによ、それ」
だのにあなたは理解を拒む。
耳を塞ごうとする。
駄目よ。それじゃ意味が無い。
それじゃ、あなたは私を忘れられない。
「何もかも無責任に放り出してあなたを選ぼうとした」
だから私は畳みかける。
「でもダメだった。私は私の愛した幻想郷を捨てられなかった」
塞いだ耳を抉じ開ける。
「あなたを選べなかった」
冷酷に別れを突き付ける。
「だからさよなら」
「――――っ!!」
襟を掴まれる。押し倒される。
「なにを、勝手な――っ! あんたの方から好きだって来たんじゃないっ!
あんたが私を捕まえて逃がさなかったんじゃないっ!!」
「ええ。好きよ霊夢。愛してる。その気持ちは変わらない」
白々しい声になるように感情を殺す。
「あなたが大好き。今すぐ抱き締めたい。これが嘘だって囁きたい」
心からの言葉を嘘にする。
「でも私は幻想郷を選ぶの。あなたじゃなく幻想郷をえら」
「ふざけないでっ! そんなの、あんたの都合じゃない! 私の気持ちは!?
あんたが好きだっていう私の気持ちはどうなるのよっ!?」
耳を塞ぐ。
「これはどうにもできないの。何十年か冬眠で誤魔化して、百年眠り続ける。これは」
心を閉ざす。
「なんで、やめてよ……っ! だったら、勝手に居なくなればいいじゃないっ!
どうしてわざわざそんなことを言いに来るのよ……っ」
顔に、熱いものが落ちた。
霊夢は、泣いていた。
「――――行かないでよ」
それでも――私はあなたを見ない。
「行かないで……私の傍に居てよ……ゆかり……」
誰の価値も等しく見ていた彼女が、私を失いたくないと泣いている。
……これなら、大丈夫よ、霊夢。
誰にでも平等なあなたが……私っていう例外を作れた。
私を愛して、失いたくないって己に還る想いを抱けた。
あなたは誰かを愛せる。あなたは人並の幸せを掴める。
私がいなくなっても――あなたは幸せになれる。
だから、抱き締めるな。私の腕。
だから――言葉にするな。私の……想いを。
「私は幻想郷のために死ねないの。死なないようにしなければならないの」
最後まで彼女を見ない。あなたから視線を逸らし続ける。
この衝動を、殺し続ける。
「だから霊夢」
私はいつまでも……
「さようなら」
あなたの幸せを願ってる。
頬が熱い。
彼女に叩かれたところが熱をもっている。
冷たい雨に冷やされた体で、そこだけが熱い。
「……初めて見たわ。泣いてる顔」
もう居ない彼女に語りかける。
「でも、大丈夫よ。いつか、忘れられる」
独り言なんていうのは自分に語りかけているだけと知っているのに。
「あなたはまだ若いんだもの」
それでも止められない。
言い訳を……己に言い聞かせている。
そうでもしないと、追いかけてしまいそうだから。
この冷たい雨の中を走り去ってしまった霊夢を追いかけてしまいそうだから。
もう、どうしようもないのに。
どれだけ愛を語ろうと、彼女を求めようと……百年の別れは免れない。
何があろうと再び出逢えることなんてあり得ない。
次に目覚める時にあなたは居ない。
だから、私に出来ることは忘れさせることだけ。
私が居なくなっても彼女が幸せに生きられるように願うことだけ。
こうなることなんて、幻想郷の礎になると決めたあの時からわかっていた。
「――――このビンタは百年後まで持って行くわね」
報われることなんて望んでいない。
「今までありがとう」
私は幻想郷を愛せればそれでいい。
「愛していた――……」
何も還ってこなくても構わない。
「…………愛しているわ、霊夢」
それで――
「霊夢……」
――よかったのよ
無限に広がる荒野。
見上げる空は赤く錆びついていて、朝と夜の狭間のまま止まっている。
夢の光景。
これが私の心象風景なのだとしたら……随分と、荒んでいる。
そこで私は日記を捲っている。
何も書かれていない空白のページを捲り続けている。
書き込もうにもここには筆すら無かった。
空白のページだけが増え続けている。
あれから何年が経ったのだろう。最早目覚めを待ち遠しく思う心すら死んでいる。
彼女のいない幻想郷で目覚めるのが……たまらなく嫌だった。
いつからだろうか。私の中で彼女の存在が幻想郷と等価になっていたのは。
私の楽園で面白おかしく日々を過ごすことよりも……彼女の笑顔が見たいと願うようになったのは。
彼女が妖怪だったならよかったのに。
そうであったなら、この百年の眠りだって―――――
自嘲する。
たらればの可能性に意味なんてない。
私は――あるがままの霊夢を愛したのだから。
「――――」
全てが止まった世界に声が響く。
私の名を呼ぶ声。
笑顔の、霊夢。
霊夢がそこに立っていた。
立ち上がる。彼女に歩み寄る。
手を伸ばして、触れる寸前で止める。
きっと、触れれば壊れてしまう。
これは夢なのだから。
繰り返される明晰夢。
なんとも私に相応しい地獄だ。
知らぬ存ぜぬで興じれれば極楽なのに、夢と知っているから私を苛む。
「……ごめんなさいね、何度も呼び出して」
最後に見たのは泣き顔なのに。
一番焼き付いてしまっているのは最後のあの顔なのに。
我ながら、さもしい。
「この百年の夢で何度目なのでしょうね――」
写真のように笑顔だけを浮かべる霊夢の幻に語りかける。
「あなたに、縋るのは」
私は疲れているんだろう。
こうして霊夢の姿を見なければ壊れてしまうほどに。
しかし、そんなものはなんの免罪符にもなりはしない。
私が泣かせたあなたに縋る言い訳にはなりはしない。
「あなただったら……少女趣味と笑うのかしら」
「――紫」
幻影が、私の名を呼んだ。
自嘲を深める。
不様で、惨めね。この期に及んで……まだ一人芝居を続けるだなんて。
「紫」
「もうやめて。お願いだから……」
「紫」
幻影は私の名を呼び続ける。
私が望んでいる、否定している夢。
己の愚かしさに呆れかえる。私は、どこまで……
「起きなさい、紫」
え――?
顔を上げると、霊夢の幻影は腕を大きく――
ばちんっ
びりびりと痛みが走る。
腹に感じる重さ。
眩しい、錆びた赤じゃない光。
「おはよう」
「……おは、よう……?」
反射的に応じて、見上げる。
――知らない女が馬乗りになっていた。
歳の頃は20を過ぎたあたりだろうか、強気に吊り上がった眼が艶やかな黒髪に似合っている。
やはり、見覚えはない。
「百年ぶりねバカ女」
「……え?」
「このビンタの味を忘れるとは相当寝惚けてるわね」
寝惚け……私は、起きているの?
つまり、あれから百年が過ぎて……
「まだわからない?」
いつの間にか私から下りていた女はポケットをまさぐる。
「こうすればわかるかしら」
赤い、リボン。
黒髪に結われた、大きな、リボン。
「れい……む?」
まさ――か。そんな、あり得ない。
夢かと疑う。しかし頬の痛みは現実だと訴えていて。
数年で目覚めたのかと疑う。しかし体に満ちる妖力は百年の休息を示していて。
心が壊れたのかと疑う。しかし壊れているのならば疑問すら抱けぬ筈で。
刹那に四万五千七百三十二通りの可能性を審査し棄却する。
そして二千六百七十一通りの成長過程を演算して――彼女が霊夢だという確信に至った。
「霊夢、嘘でしょう……? なんで、あなたが」
それでも信じられない。何度も計算し直す。
彼女が生きていて、再び私のところに来てくれることなんてあり得ないのに。
「本当に、霊夢なの? あれから、百年」
「ええ百年経ってるわよ。魔理沙は魔法使いになっても泥棒してるし、
早苗は神様になっちゃってるし、慧音は物理的にも頭硬いまんまだし、
映姫はたまに説教しに来るし、咲夜は人間やめてないのに歳取らないし、
アリスは人形作りまくってるし、幽々子はぽやぽやしたまんまだし、
宇宙人共は」
「ちょ、ちょっと待ちなさい」
彼女、霊夢に一気に捲し立てられ、理解が追いつかない。
本当に――百年経っている?
「なんで、あなた、そんな」
なら、何故彼女は生きていて、こんなにも若々しいのか。
それこそあり得ない。人間にはこんな真似出来はしない。
蓬莱人になるだとか魔法使いになるだとか延命の手段はいくらでもあるけれど……
霊夢はそんなものに手を出すような愚か者じゃなかったのに。
混乱しきっている私に、霊夢はふんと鼻を鳴らしてあっさりと答えた。
「あぁ、妖怪になるのに時間かかったのよ。もう少女とは云えないわね。
こんなに美人に育っちゃったわ」
――意識が遠のく。
「よ、よう――」
それこそ、理解できない。
「なにを馬鹿な真似しているのっ!?」
目眩を押し退け霊夢に掴みかかる。
「あなたはまだ若かった……! いくらでも人間としての幸せを探せた!」
百年、夢の中でも祈り続けた彼女の幸せが滅茶苦茶だ。
「私なんか居なくなってもあなたは幸せになれたのにっ!」
祈りと、願いと真逆の結末。
「なんでよっ!? 私は、あなたの幸せだけを……っ!」
これでは――私が愛した、人間としての博麗霊夢を殺したのは私じゃないか。
何が足りなかった。何を間違えた。
どこで私は、彼女を歪めてしまったのだ……!
「私は、あなただけは守りたかったのにっ!」
人間が妖怪になる。
数十年しか生きられない人間が膨大な時間を生きてしまう。
それは長い年月をかけて行われる拷問。
人間性を切り売りして、心をすり減らして続く生。
否応なく変わってしまう。化物になってしまう。
そんなの、嫌だったのに。
「だから私はあなたを突き放したのにっ!」
いくらでも変えられた。
霊夢を妖怪にすることなんて簡単だった。
それでも考えすらしなかった。
私は人間の博麗霊夢を愛したのだから。
彼女にこんな永遠に等しい苦痛を味わわせたくなかったのだから。
「なんでよ……」
なんでよ、霊夢。
どうしてこんな馬鹿な真似を。
「これじゃ、私はなんのためにっぶ」
「うっさい。勝手にあんたの考えを押し付けるな」
襟首を掴まれてる。触れるほど近くで睨まれている。
「あの時はわざわざ私に嫌われに来てくれてありがとう。クソ喰らえだわ」
喉が圧迫されて声が出せない。
こんなもので死にはしないけれど、反論が出来ない。
「百年前はあんたの都合で押し切られた。今度は私の都合で押し切るわ」
怒気を孕んだ彼女の言葉をただ聴くことしかできない。
「私の幸せ? 人間として? ふざけるな」
身を切る想いで果たした私の努力が、一言で吐き捨てられる。
「私の幸せは過去にも今にもただ一つ。あんたと共に在ることだけよ」
悲劇で終えた話を――否定される。
「私はあんたと共に在りたいと願った。願って努力した。
生まれて初めての努力だったわ。ありとあらゆる文献調べて、
魔理沙やアリスに手伝ってもらって妖怪になる方法を探し尽くした」
語られる彼女の百年。
「そして妖怪になって、博麗の巫女の座を次代に継がせて、あんたを探し続けた!
50年かけてここを探し当てた! 藍を脅してこの家に住み続けてあんたが目覚めるのを待ったっ!」
私を追い続けた……百年。
「そして――あんたが諦観した、悲恋の物語なんて、ブチ壊してやった」
抱き締められる。
頭が真っ白になる。
彼女がどんな顔をしているのか見えなくて……想像もできなかった。
「あんたが愛した数多の幻想郷の中の一つくらい――あんたを愛する奴がいたっていいでしょ?」
私の苦悩を、あっさりと踏み潰した。
終わりさえも、弾き飛ばした。
何も終わっていないと、閉じた私の眼をこじ開けた。
無理矢理で、滅茶苦茶で……霊夢、らしい。
「夢じゃ――ないのね」
そっと抱き返す。
「本物の、霊夢なのね」
「まだ目が覚めてないんならもう一発要る?」
笑いが漏れる。
百年が過ぎて、人間ですらなくなったというのに……変わっていない。
あの頃のまま。何も――変わっていない。
「馬鹿ね……本当に馬鹿」
彼女の肩に顔を埋めて、強く霊夢を感じる。
「馬鹿で馬鹿でどうしようもない、徹底的に馬鹿」
「連呼するな」
「あは、あははははは」
「うん? 嬉し過ぎて壊れた?」
「ええ、壊れたわ。壊れちゃった」
なにもかも全部、ね。
大妖怪の肩書も、妖怪の賢者の誉れも、あなたを守るだなんて思い込みも。
全部壊されちゃったわ、霊夢。
もう飾ることなんてできない。
あなたを求めるこの心を騙せない。
「後悔するわよ?」
「後悔させてみなさい」
ありがとう。
私は――あなたが好きよ、霊夢。
強く、強くあなたを抱き締める。
そして、囁かれる。
「でもまずは――」
「百年分、抱き締めなさい」
十代目の文は吃驚するほど九代目にそっくりだなぁ
妖怪にまでなってみせた霊夢の愛が凄いですね。
文献や妖怪になる方法、紫様の家を探しあてた霊夢の必死さが素敵です。
霊夢を抱きしめる紫様や後書きでの新しい妖怪として載った霊夢の文章など面白いお話でした。
そんな霊夢が「人間をやめるとしたら?」と考えたとき、
やはり一番人間らしい理由でやめる気がするんですよね。
自分を愛してくれるひとの考えも願いもわかるけど、
自分の願いのためにわがままとわかっていても、
相手の願いに反する行動を取る。
まさに人間だから持てるエゴ。
個人的に一次の霊夢と紫は萃夢想や儚月抄や香霖堂や紫香花で、
常に「霊夢が紫を探している」印象が強いので、
妖怪になり家を執念で探しそこに居座り待ち続けるってのは、
霊夢と紫に限定するなら一次霊夢のイメージに近くすんなり読めました。
(これが魔理沙とかだと魔理沙が追いかけて霊夢は魔理沙を探さない印象を受ける)
とても良かった「一つの形」でした。
やっぱ寿命ネタなら霊夢か魔理沙ですな。
楽しい時間を過ごさせていただきました・・・が、
>咲夜は人間やめてないのに歳取らないし
ここだけが引っかかる。時を止めている分寿命が短いはずでは。
霊夢をたたえるリグルたちの合唱が鳴り響いた。
もし自分の意思で妖怪化することがあるとしたら、
きっとこのような理由なのでしょうね。
ほほう、愛する人の為に人間であることを捨てて百年の孤独に耐えたのか
ほー、いいじゃないか、こういうのでいいんだよ、こういうので
ラストの「百年分、抱き締めなさい」…あれが効いたな
俺にお似合いなのはこういうゆかれいむですよ
実に好みの霊夢でありゆかれいむでした
とにもかくにも、とても良いお話でした。
なんなんだアンタはww
しかし、咲夜さんが……ww
霊夢のような人間が、後の世に生まれるか
人を辞めて関わっても、妖怪と向き合う人間がいなくなれば失われる楽園
もし人外への移行が答えならば、まさに泡沫の夢に終わるかもしれず
そんな感想を持ちました
人間らしくない彼女が一番人間らしい感情で妖怪になる、ありだと思います
個人的には妖怪よりも悪霊or亡霊化の方が合うような
異変解決に動き出す今代の博霊の巫女、そしてその後を追うかの様な魔法使い魔理沙…
そして、謎の紅白の妖怪が暇つぶしに…空想が止りません!
本編もとても楽しめました。
霊夢のような人間が人間を止めるとしたら?
これはアリですね。違和感なかった。
咲夜さんwww 貴女どうやって生きてるんだwww
紫や霊夢の感情もよく伝わってきました。物語も好きです。
そこだけが気になるところなんですけど、どうなんでしょう?
愛する紫の為に妖怪化する霊夢。こんなゆかれいむも大好きです!!
紫『私は幻想郷を愛せればそれでいい』『何も還ってこなくても構わない』
霊夢『あんたが愛した数多の幻想郷の中の一つくらい――あんたを愛する奴がいたっていいでしょ?』
愛は見返りを求めるモノじゃない。 ですが何かしら報われることがあったっていいじゃないか、と
幻想郷を愛している、そんな紫が好きな私の想いを描いた貴方は俺かと問いただしたいwww
あとがきも最高です。ありがとうございました!!
「アリスは子供作りまくってるし」に見えた俺は大丈夫なのかそうでないのか。
後書きがおもしろかった。原作みたいなギャグも効いててよかったです。
蓋然性すら斬り捨てる紅白の巫女、も最近は全然アリに思えてきました
いいなぁこれ。うん。なんという完成度。
ある意味もっともあとがきであるあとがきなのかもしれない。本文の後に読むべきという意味で。
我々にでk(ry
霊夢と紫のこういう幸せの形もありですね。
後半でほっとしました。
私だけかな
咲夜さん凄いなぁ。ほんとに人間なのかねw
自分はそういう風に考えてたんだけど。
なんとなく作中で霊夢の語った百年を一つの話にして欲しい自分がいる。
大胆かつ合理的!!一見無茶に見えるが最も理にかなった攻撃を繰り出してきよる
普通に人間として一生を全うして、子孫がお礼参りにでも来たのかとおもったので。
それにしても咲夜さんは(ry
人間側が妖怪化するというのは、好みが別れそうな問題ですね。
私はシリアスらぶらぶ展開ならどちらも大好きですが←
人間側が、人間として生を全うする話はよくありましたが、
妖怪化して寿命をぶっちぬいて我を通すような話は、思ったようにはお目にかかれません。
何故、人であり続けたいのか。
何故、人であることをやめるのか。
どっちにしたって、なかなか難しいですよね。
やっぱハッピーエンドが一番ですね。
そして咲夜さんがさりげなく人間離れしてるwww
そしてお二人とも、お幸せに!
良い話でした。
霊夢は自分が人間であることにも結構無頓着っぽいですよね、誰にでも平等でその中にも自分自身が含まれている感じ。
霊夢がリボンを付けるところで涙出てきた。
こういう設定的なものがあると
さらに面白いです
素敵なお話でした。
霊夢は自分の中では「気が付いたら人外になってた」みたいなチートなので、
けっこうしっくりきました。多分霊夢は人間の器なんかにおさまらないんだろうなぁ…
良い意味で期待を裏切られました。
だが霊夢が人間をやめるというのは受け入れられない。
魔理沙はまだ納得できるが、霊夢となるとやっぱり違和感を感じてしまいます。
作品自体は良かったです。
でもやっぱり悲しい別れよりこっちの方が幸せだと思います