その夢に入るとすぐわかる。
最初は、視界が一面桜色に染まるのだ。それも、くっきりした色合いじゃなくて、とても淡い、いまにも融けて消えてしまいそうなくらいに儚くて、柔らかくて、けぶるような優しい色。
やがて、それが大量の桜の花びらだとわかると、今度はふうっと吐息のように暖かくて心地よい風が頬を撫でる。
そうだ、この夢の中ではいつだって春なんだ。
それを思い出す頃、桜の群舞が途切れて、いつものように彼女に出会う。
「なんだ、また来たの」
彼女はいつものように素っ気なかった。
「ええ、また来たわ」
私は、そのいつもどおりが嬉しくて、つい声を弾ませる。私は知ってるのだ。彼女の素っ気なさは、裏表の無い証。初めて会ったときからずっとこの調子だが、きっと十年ぶりに会ったって変わらないに違いない。
まだ匂いも真新しい白木の長椅子に座る彼女は、湯飲みから一口、美味しそうにお茶をすする。この姿もまたいつもどおりで、この夢の中で、彼女はこうして湯飲みを傾けるのが常だ。
遠慮せず、彼女の隣に座る。椅子の上の盆には、当たり前のように私の分の湯飲みがあって、急須を傾けると程よく熱いお茶が出てくる。このお茶がまた私好みの味加減。やや濃いめの良い色合いである。
こうして、二人並んで、ただゆっくりお茶を飲む。これは、そんな夢である。
ただ、それだけである。
それだけなのに、これが良いのだ。
彼女の傍でお茶を飲むだけで、自分の中で凝り固まった色々なものが融け出て行くような心地になる。次第に頬が緩んでいくのが自分でもはっきりわかるし、ほうっと息を吐けば、どんな不安も怖れも消えて、ただ緩やかな安堵だけがいつまでもとろとろと残るのだ。
では、隣の彼女はどうかというと、これが私と同じか私以上に緩みきっているのである。私が横にいることすら忘れてるんじゃないかと思うくらい、ほんとに素のままの彼女。
そんな彼女を見ていると、むくむくと悪戯心がわき起こる。
仕掛けるのは、いつも私の方からである。
「最近はどうなの」
話を振ると、彼女は、んーと唸って「別に」と返す。面白くない答えである。
「別にって何よ」
「だから、いつもどおりってことよ。特に何も起こらないし、起こってもまあなんとかなるし、たまに騒いで、美味しい物食べて、お酒飲んで、ごろごろして、お茶飲んで、うん、そんなもん」
そんなもん。
きっと、彼女は気付いていない。そう言う彼女の顔は、とても楽しそうなのだ。その様子から、彼女が今の暮らしを気に入っていることが容易に知れた。
「猫を飼い始めたって言ってたじゃない。ちゃんと世話してるの?」
「別に飼ってるわけじゃないわよ。うちは野良もたくさん来るから、それにたまたま飼い猫が混じってるだけ。だいたいごろごろしてるわよ。最近は勝手にうちのコタツに潜り込んで寝てるわね。まあ、普通の猫じゃないから、悪さしてないかだけはちゃんと見張ってる」
「もう、そんなこと訊いてるんじゃなくてね。エサなんかきちんとあげてる? 構ってあげてる?」
「他の猫ならともかく、あいつは少しくらいエサ食べなくたって死にゃしないわよ。ていうか、あいつご飯の時は人型でしれっとお膳に付いてたりするわ。わざわざ地下からマイ茶碗とマイ箸持ってきてるの。食われっぱなしも癪だから、私もあいつの飼い主んとこ行ってご飯食べてきたりするけど」
それじゃあなたも猫と同じだわ、と思ったが、言わないでおく。
このように、訊けば彼女はいろいろと勝手に喋ってくれるのである。本人は意識してないようだが、これはなかなかに可愛い。
その後もいろいろな話をした。彼女の毎日には何かしら話題のネタが転がっているようで、とにかく聞いていて飽きない。
耳を疑う話もちらほらと出る。特によく聞くのは、誰かしらと戦う話である。それも、聞く度に相手が違う。
「大丈夫よ」と、彼女は平然としたものである。
「そりゃ、弾に当たればちょっとは痛いけど、見た目ほど大したもんじゃないんだから」
「そうはいうけどねえ」
聞く側としては気が気じゃないのだ。話をしていて思うのだが、彼女はなかなかに自信家である。勝負にこだわらないように見えるが、それでいて、負けたり大怪我したりということは露ほども考えていない節がある。いつかそれで痛い目に遭うんじゃないかと、私の方がはらはらするのだ。
だが、彼女に言わせれば、そんなことは杞憂らしい。「ケンカもするけど、みんなでお酒飲んで騒いだらどうでもよくなっちゃう」とは彼女の弁である。
つまるところ、平和、なのだろう。
そう指摘すると、彼女はつまらなさそうに口を尖らせた。
「平和すぎて、最近はちょっと物足りないくらいだわ」
その口ぶりがおかしくて、私は吹き出した。これでは玩具を欲しがる子どもである。笑う私に、彼女は頬を紅くしてむっとした。その姿がまた微笑ましくて、私はなおも笑って言った。
「私は平和な方が良いわね。お転婆も程ほどになさいな」
彼女は、一口お茶を飲んで空を見上げた。そのまま、しばしの間を置いて、ふわっと笑い、頷く。
「うん、平和が一番よね」
素敵な笑顔だった。
ああ、こんなに素敵に笑う彼女は、なんて眩しいのだろう。なんて幸せそうなんだろう。
いつもなら、私はここで満足する。
このまま、彼女との語らいを楽しみ、散る桜を愛で、ただただ過ぎる時をのんびりと、ゆっくりと、たゆたうように味わい尽くして、やがて至福に浸ったまま夢から醒めるのだ。
だが、今日の私は、満足できなかった。
普段なら私の心を暖かく満たすはずの彼女の笑顔が、私の影を浮き上がらせる。不安を掻き立てる。
夢から醒めたくない。ずっと彼女といたい。
その思いが、身を捩るほどの焦燥感が、私の胸の奥を炙る。
だから、私に魔が差した。
「寂しくない?」
彼女は「は?」と首をかしげて、「寂しい? なんで?」と不思議そうに問い返した。
「ええっと、例えばだけど、一人でご飯食べたりしてる時とか、夜中にふっと目が覚めちゃった時とか、そういう時にね、誰かに傍にいてほしいな、とか思わない?」
私の問いに、彼女は眉をひそめた。それを見て、私はたちまちに気付いて悔いる。
彼女が、気付いてしまった。
私が、気付かせてしまった。
「ごめんなさい、今の忘れてちょうだい」
私は、彼女から視線を外して俯いた。目を落とした先の自分の湯飲みが、己の心を映し出すように微かに揺れる。
自分がしでかしてしまったことに、震え、おののいて、唇を噛んだ。
彼女は鋭い。あの一言がどういう意味なのか、きっとわかったはずだ。
彼女は、自分が一人であることに気付いた。
自らの裡に潜む寂しさに気付いてしまった。
その証拠に、彼女は無言だった。私の言葉に何も返さなかった。
返せないのだ。
それほどに、彼女は傷付いた。彼女の裡を、私は深く抉ってしまったのだ。
あの問いがいかに残酷なものであったか、それを私は知っていたはずなのに!
ごめんなさい。
私は、後悔に身を灼きながらも、その言葉を口に出せずに泣いた。
先ほどまでの、有り余るほどの幸福感は、しなしなと萎んだ。せっかくの夢なのに。せっかくの幸せなのに。私と彼女は、ここでしか、こうやって話せないというのに!
心地よい春風はとっくに消え去り、いまや、二人の間を吹き抜けるのは立ち枯れて細った木々を揺らす冬の木枯らし。沈黙は底なし沼に似てどこまでも私を絡め取り、声を奪った。
そんな自分が情けなくて、そんなことで、彼女と過ごすかけがえのない時間をフイにしてしまった自分に腹が立って、私は湯飲みを握りながら涙をこぼす。
なぜ私はおこがましくもこんなことを彼女に訊いてしまったのか!
この私に、そんなことを訊く権利なんて無いはずなのに!
どうしたらあの素敵な時間を取り戻せるだろうか。
どうしたらあの彼女の笑顔を取り戻せるだろうか。
自らへの憤りと、救いを求めて彷徨う想いが、いつまでもいつまでも無為に回り続けた。それは、ぎざぎざの丸鋸のように、回る度に私の心を削っていく。
今日は、もう帰ろう。
そう思った。
それが逃げであることは自分でもわかっていたが、これ以上ここに留まるのは辛すぎたのだ。
お別れを告げようと、みっともなく手の甲で拭ったその時だった。
「寂しくなんかないわよ」
彼女は、口を開いた。
「私んとこ、わりと誰かしらよく訪ねてくるのよ。一人でご飯食べたくても、さっきの猫におかずが取られることなんかしょっちゅうよ。昼寝しようとしたらスキマ妖怪が勝手に毛布にくるまってるし、夜は夜で、布団に入ろうとしたら小鬼が丸まってるし、夜中に起きたら寝顔を覗き撮ろうとした天狗がニヤニヤしてカメラ持ってたりするのよ。魔理沙なんて三日にいっぺんくらい泊まりに来るし、宴会になったらみんなその辺で雑魚寝だしね。寂しいなんて感じる余裕、ありゃしないわよ」
一息にそこまで言って、彼女はやれやれ、という様子で肩をすくめた。そして、私を見て、悪戯っぽく笑う。
どこかで見覚えのある彼女のその目元が、図らずも私を癒した。
吹き出した。
彼女が笑う。
私が笑う。
二人の笑いが桜の花びらを巻き上げて、そのまま優しい春風となって私達の髪を梳く。いつしか、私の冷たい涙は、熱く、温かい別の滴となって私の頬を流れた。
心の底から、二人で笑いに笑って、落ち着いた頃に、彼女は言った。
だから、寂しくなんかない。心配しなくっても大丈夫だよ。
その言葉の優しさに、私は強く打たれた。
「あなた、私のこと」
そう問うと、彼女は少し恥ずかしそうに、うん、と頷いた。
「まあね。多分そうかなって。勘だけど」
「そう」
私は、ふう、と息を吐いて天を仰ぐ。
彼女は、知っていたのだ。
私の心の影に。
私が彼女へずっと抱えていた引け目に。
しかし、知られてしまったことについては、不思議と何のわだかまりも無かった。
私は、安堵してしまったのだ。
思えば、初めて彼女とこの夢の中で会ってからずっと、自分の中で繋がる何かをずっと怖れていた。だからこそ、私は彼女の寂しさをも怖れたのだ。そのことを知った彼女が、私を責めるのではないかと。私をなじるのではないかと。
だが、そんなことがあるわけなかった。
まったく、なんて聡い子なんだろう。
なんて、優しい子なんだろう。
寂しくないだって? そんなわけないじゃないか。きっと、もっとずっと幼い頃、彼女は少なからず一人で泣いた夜があったはずなのだ。
それなのに、どうして彼女はこんなにも。
「バカね。泣くこと無いでしょ。寂しくなんかないわよ。あんたとだって、こうしてここで会えてるじゃない」
そんな優しい言葉をかけないでほしかった。
だって、そんなことを言われたら困るじゃないか。
「やだ、ほら、だから泣かないでってば。あんたが泣くから私までつられちゃうじゃないの。ね、ねえったら、泣かないで、泣かないでってば」
顔をぐしゃぐしゃにする彼女を抱いて、私は、うんうんと頷く。強くしがみついてくる彼女を、私はどこまでも深く受け止めて、二人で互いの温もりを感じながら、二人で思いっきり心の底から泣く。
それは、悲しくて泣くのではない。
寂しくて泣くのではない。
あまりにも温かくて、あまりにも優しくて。
あまりにも互いが不器用すぎて、泣くのだ。
いつまでもいつまでも、私達は春の夢の中で抱き合う。
二人の涙が、儚い桜色の中で融けてゆくまで。
おい、と肩を揺すられて目が覚めた。
大丈夫か、泣いていたよ。
彼は案じた目で私を見ていた。
「目元、そっくりだわ」
なんのことだい、と彼は困惑して眉を寄せる。なんでもない、と返して、私は暗く高い天井の梁を見た。
また夢を見たのかい。
ええ、また夢を見たわ。
悲しい夢だったのかい。
いいえ、そんなことないわ。とってもとっても楽しい夢。楽しくて楽しくて楽しすぎて、このままずっと醒めなければいいのに、と思ってしまうくらい素敵な夢。
それは困るな、と彼は苦笑する。
僕は朝が弱いんだ。君がいなきゃ誰が僕を起こしてくれるんだい?
そうね、ごめんなさい、と私は軽く彼にキスをする。
もう大丈夫よ。だから、あなたもゆっくり休んで。明日も早いんでしょう?
ちょっぴり不満げに口を尖らせる彼。もっと自分を頼ってくれ、とその顔に書いてあった。しかし、彼は決して自分からずかずかと踏み込んでは来ない。その不器用な優しさに甘えて、私は再び目を閉じる。
全身を粘い怠さが覆っていた。少し熱があるのかもしれない。きっと、このままどろどろとして起き上がれぬまま、朝を迎えることになるだろう。
私の狸寝入りに、彼はうまく騙されてくれたようだった。もぞもぞと布団に入り直す衣擦れの後、いくらかの時計の針の音を経て、彼の規則正しい寝息が聞こえ出す。羨ましいくらい寝付きが良いのだ。
こうして、私は、私だけの夜を得る。
そして、声を押し殺して泣いた。
もう二度と、あの夢を見ることはあるまい。
それがわかって、泣いた。
あの夢は、春宵が見せたひとときのまぼろし。千金でも購えぬひとときの奇跡。
私が彼女とあのように話すことは、この現実の中では決して一切起こりえないのだ。
私も彼女も、そのことを知っていた。だからこそ、私達はそのかりそめの絆を互いに確かめ合い、例え一夜で露と消えようともその一瞬を永遠と信じて分かち合ったのだ。
そして、それゆえに、この現実がどれほど残酷なのかをこれでもかと思い知らされるのだ。
あれは、そんな罪作りの夢。
だが、私はきっと幸せ者だ。
だって、私は、彼女が彼女であることを知ることができたのだから。
たとえ夢の中であっても、私は確かに彼女と話し、彼女と笑い、彼女と泣き、彼女をこの手に抱くことができたのだから。
だから、決めた。
私は、あの夢を残すことに決めた。
そっと自らのお腹を撫でながら、
これから生まれてくる娘の名前を、決めた。
――命名、霊夢。
最初は、視界が一面桜色に染まるのだ。それも、くっきりした色合いじゃなくて、とても淡い、いまにも融けて消えてしまいそうなくらいに儚くて、柔らかくて、けぶるような優しい色。
やがて、それが大量の桜の花びらだとわかると、今度はふうっと吐息のように暖かくて心地よい風が頬を撫でる。
そうだ、この夢の中ではいつだって春なんだ。
それを思い出す頃、桜の群舞が途切れて、いつものように彼女に出会う。
「なんだ、また来たの」
彼女はいつものように素っ気なかった。
「ええ、また来たわ」
私は、そのいつもどおりが嬉しくて、つい声を弾ませる。私は知ってるのだ。彼女の素っ気なさは、裏表の無い証。初めて会ったときからずっとこの調子だが、きっと十年ぶりに会ったって変わらないに違いない。
まだ匂いも真新しい白木の長椅子に座る彼女は、湯飲みから一口、美味しそうにお茶をすする。この姿もまたいつもどおりで、この夢の中で、彼女はこうして湯飲みを傾けるのが常だ。
遠慮せず、彼女の隣に座る。椅子の上の盆には、当たり前のように私の分の湯飲みがあって、急須を傾けると程よく熱いお茶が出てくる。このお茶がまた私好みの味加減。やや濃いめの良い色合いである。
こうして、二人並んで、ただゆっくりお茶を飲む。これは、そんな夢である。
ただ、それだけである。
それだけなのに、これが良いのだ。
彼女の傍でお茶を飲むだけで、自分の中で凝り固まった色々なものが融け出て行くような心地になる。次第に頬が緩んでいくのが自分でもはっきりわかるし、ほうっと息を吐けば、どんな不安も怖れも消えて、ただ緩やかな安堵だけがいつまでもとろとろと残るのだ。
では、隣の彼女はどうかというと、これが私と同じか私以上に緩みきっているのである。私が横にいることすら忘れてるんじゃないかと思うくらい、ほんとに素のままの彼女。
そんな彼女を見ていると、むくむくと悪戯心がわき起こる。
仕掛けるのは、いつも私の方からである。
「最近はどうなの」
話を振ると、彼女は、んーと唸って「別に」と返す。面白くない答えである。
「別にって何よ」
「だから、いつもどおりってことよ。特に何も起こらないし、起こってもまあなんとかなるし、たまに騒いで、美味しい物食べて、お酒飲んで、ごろごろして、お茶飲んで、うん、そんなもん」
そんなもん。
きっと、彼女は気付いていない。そう言う彼女の顔は、とても楽しそうなのだ。その様子から、彼女が今の暮らしを気に入っていることが容易に知れた。
「猫を飼い始めたって言ってたじゃない。ちゃんと世話してるの?」
「別に飼ってるわけじゃないわよ。うちは野良もたくさん来るから、それにたまたま飼い猫が混じってるだけ。だいたいごろごろしてるわよ。最近は勝手にうちのコタツに潜り込んで寝てるわね。まあ、普通の猫じゃないから、悪さしてないかだけはちゃんと見張ってる」
「もう、そんなこと訊いてるんじゃなくてね。エサなんかきちんとあげてる? 構ってあげてる?」
「他の猫ならともかく、あいつは少しくらいエサ食べなくたって死にゃしないわよ。ていうか、あいつご飯の時は人型でしれっとお膳に付いてたりするわ。わざわざ地下からマイ茶碗とマイ箸持ってきてるの。食われっぱなしも癪だから、私もあいつの飼い主んとこ行ってご飯食べてきたりするけど」
それじゃあなたも猫と同じだわ、と思ったが、言わないでおく。
このように、訊けば彼女はいろいろと勝手に喋ってくれるのである。本人は意識してないようだが、これはなかなかに可愛い。
その後もいろいろな話をした。彼女の毎日には何かしら話題のネタが転がっているようで、とにかく聞いていて飽きない。
耳を疑う話もちらほらと出る。特によく聞くのは、誰かしらと戦う話である。それも、聞く度に相手が違う。
「大丈夫よ」と、彼女は平然としたものである。
「そりゃ、弾に当たればちょっとは痛いけど、見た目ほど大したもんじゃないんだから」
「そうはいうけどねえ」
聞く側としては気が気じゃないのだ。話をしていて思うのだが、彼女はなかなかに自信家である。勝負にこだわらないように見えるが、それでいて、負けたり大怪我したりということは露ほども考えていない節がある。いつかそれで痛い目に遭うんじゃないかと、私の方がはらはらするのだ。
だが、彼女に言わせれば、そんなことは杞憂らしい。「ケンカもするけど、みんなでお酒飲んで騒いだらどうでもよくなっちゃう」とは彼女の弁である。
つまるところ、平和、なのだろう。
そう指摘すると、彼女はつまらなさそうに口を尖らせた。
「平和すぎて、最近はちょっと物足りないくらいだわ」
その口ぶりがおかしくて、私は吹き出した。これでは玩具を欲しがる子どもである。笑う私に、彼女は頬を紅くしてむっとした。その姿がまた微笑ましくて、私はなおも笑って言った。
「私は平和な方が良いわね。お転婆も程ほどになさいな」
彼女は、一口お茶を飲んで空を見上げた。そのまま、しばしの間を置いて、ふわっと笑い、頷く。
「うん、平和が一番よね」
素敵な笑顔だった。
ああ、こんなに素敵に笑う彼女は、なんて眩しいのだろう。なんて幸せそうなんだろう。
いつもなら、私はここで満足する。
このまま、彼女との語らいを楽しみ、散る桜を愛で、ただただ過ぎる時をのんびりと、ゆっくりと、たゆたうように味わい尽くして、やがて至福に浸ったまま夢から醒めるのだ。
だが、今日の私は、満足できなかった。
普段なら私の心を暖かく満たすはずの彼女の笑顔が、私の影を浮き上がらせる。不安を掻き立てる。
夢から醒めたくない。ずっと彼女といたい。
その思いが、身を捩るほどの焦燥感が、私の胸の奥を炙る。
だから、私に魔が差した。
「寂しくない?」
彼女は「は?」と首をかしげて、「寂しい? なんで?」と不思議そうに問い返した。
「ええっと、例えばだけど、一人でご飯食べたりしてる時とか、夜中にふっと目が覚めちゃった時とか、そういう時にね、誰かに傍にいてほしいな、とか思わない?」
私の問いに、彼女は眉をひそめた。それを見て、私はたちまちに気付いて悔いる。
彼女が、気付いてしまった。
私が、気付かせてしまった。
「ごめんなさい、今の忘れてちょうだい」
私は、彼女から視線を外して俯いた。目を落とした先の自分の湯飲みが、己の心を映し出すように微かに揺れる。
自分がしでかしてしまったことに、震え、おののいて、唇を噛んだ。
彼女は鋭い。あの一言がどういう意味なのか、きっとわかったはずだ。
彼女は、自分が一人であることに気付いた。
自らの裡に潜む寂しさに気付いてしまった。
その証拠に、彼女は無言だった。私の言葉に何も返さなかった。
返せないのだ。
それほどに、彼女は傷付いた。彼女の裡を、私は深く抉ってしまったのだ。
あの問いがいかに残酷なものであったか、それを私は知っていたはずなのに!
ごめんなさい。
私は、後悔に身を灼きながらも、その言葉を口に出せずに泣いた。
先ほどまでの、有り余るほどの幸福感は、しなしなと萎んだ。せっかくの夢なのに。せっかくの幸せなのに。私と彼女は、ここでしか、こうやって話せないというのに!
心地よい春風はとっくに消え去り、いまや、二人の間を吹き抜けるのは立ち枯れて細った木々を揺らす冬の木枯らし。沈黙は底なし沼に似てどこまでも私を絡め取り、声を奪った。
そんな自分が情けなくて、そんなことで、彼女と過ごすかけがえのない時間をフイにしてしまった自分に腹が立って、私は湯飲みを握りながら涙をこぼす。
なぜ私はおこがましくもこんなことを彼女に訊いてしまったのか!
この私に、そんなことを訊く権利なんて無いはずなのに!
どうしたらあの素敵な時間を取り戻せるだろうか。
どうしたらあの彼女の笑顔を取り戻せるだろうか。
自らへの憤りと、救いを求めて彷徨う想いが、いつまでもいつまでも無為に回り続けた。それは、ぎざぎざの丸鋸のように、回る度に私の心を削っていく。
今日は、もう帰ろう。
そう思った。
それが逃げであることは自分でもわかっていたが、これ以上ここに留まるのは辛すぎたのだ。
お別れを告げようと、みっともなく手の甲で拭ったその時だった。
「寂しくなんかないわよ」
彼女は、口を開いた。
「私んとこ、わりと誰かしらよく訪ねてくるのよ。一人でご飯食べたくても、さっきの猫におかずが取られることなんかしょっちゅうよ。昼寝しようとしたらスキマ妖怪が勝手に毛布にくるまってるし、夜は夜で、布団に入ろうとしたら小鬼が丸まってるし、夜中に起きたら寝顔を覗き撮ろうとした天狗がニヤニヤしてカメラ持ってたりするのよ。魔理沙なんて三日にいっぺんくらい泊まりに来るし、宴会になったらみんなその辺で雑魚寝だしね。寂しいなんて感じる余裕、ありゃしないわよ」
一息にそこまで言って、彼女はやれやれ、という様子で肩をすくめた。そして、私を見て、悪戯っぽく笑う。
どこかで見覚えのある彼女のその目元が、図らずも私を癒した。
吹き出した。
彼女が笑う。
私が笑う。
二人の笑いが桜の花びらを巻き上げて、そのまま優しい春風となって私達の髪を梳く。いつしか、私の冷たい涙は、熱く、温かい別の滴となって私の頬を流れた。
心の底から、二人で笑いに笑って、落ち着いた頃に、彼女は言った。
だから、寂しくなんかない。心配しなくっても大丈夫だよ。
その言葉の優しさに、私は強く打たれた。
「あなた、私のこと」
そう問うと、彼女は少し恥ずかしそうに、うん、と頷いた。
「まあね。多分そうかなって。勘だけど」
「そう」
私は、ふう、と息を吐いて天を仰ぐ。
彼女は、知っていたのだ。
私の心の影に。
私が彼女へずっと抱えていた引け目に。
しかし、知られてしまったことについては、不思議と何のわだかまりも無かった。
私は、安堵してしまったのだ。
思えば、初めて彼女とこの夢の中で会ってからずっと、自分の中で繋がる何かをずっと怖れていた。だからこそ、私は彼女の寂しさをも怖れたのだ。そのことを知った彼女が、私を責めるのではないかと。私をなじるのではないかと。
だが、そんなことがあるわけなかった。
まったく、なんて聡い子なんだろう。
なんて、優しい子なんだろう。
寂しくないだって? そんなわけないじゃないか。きっと、もっとずっと幼い頃、彼女は少なからず一人で泣いた夜があったはずなのだ。
それなのに、どうして彼女はこんなにも。
「バカね。泣くこと無いでしょ。寂しくなんかないわよ。あんたとだって、こうしてここで会えてるじゃない」
そんな優しい言葉をかけないでほしかった。
だって、そんなことを言われたら困るじゃないか。
「やだ、ほら、だから泣かないでってば。あんたが泣くから私までつられちゃうじゃないの。ね、ねえったら、泣かないで、泣かないでってば」
顔をぐしゃぐしゃにする彼女を抱いて、私は、うんうんと頷く。強くしがみついてくる彼女を、私はどこまでも深く受け止めて、二人で互いの温もりを感じながら、二人で思いっきり心の底から泣く。
それは、悲しくて泣くのではない。
寂しくて泣くのではない。
あまりにも温かくて、あまりにも優しくて。
あまりにも互いが不器用すぎて、泣くのだ。
いつまでもいつまでも、私達は春の夢の中で抱き合う。
二人の涙が、儚い桜色の中で融けてゆくまで。
おい、と肩を揺すられて目が覚めた。
大丈夫か、泣いていたよ。
彼は案じた目で私を見ていた。
「目元、そっくりだわ」
なんのことだい、と彼は困惑して眉を寄せる。なんでもない、と返して、私は暗く高い天井の梁を見た。
また夢を見たのかい。
ええ、また夢を見たわ。
悲しい夢だったのかい。
いいえ、そんなことないわ。とってもとっても楽しい夢。楽しくて楽しくて楽しすぎて、このままずっと醒めなければいいのに、と思ってしまうくらい素敵な夢。
それは困るな、と彼は苦笑する。
僕は朝が弱いんだ。君がいなきゃ誰が僕を起こしてくれるんだい?
そうね、ごめんなさい、と私は軽く彼にキスをする。
もう大丈夫よ。だから、あなたもゆっくり休んで。明日も早いんでしょう?
ちょっぴり不満げに口を尖らせる彼。もっと自分を頼ってくれ、とその顔に書いてあった。しかし、彼は決して自分からずかずかと踏み込んでは来ない。その不器用な優しさに甘えて、私は再び目を閉じる。
全身を粘い怠さが覆っていた。少し熱があるのかもしれない。きっと、このままどろどろとして起き上がれぬまま、朝を迎えることになるだろう。
私の狸寝入りに、彼はうまく騙されてくれたようだった。もぞもぞと布団に入り直す衣擦れの後、いくらかの時計の針の音を経て、彼の規則正しい寝息が聞こえ出す。羨ましいくらい寝付きが良いのだ。
こうして、私は、私だけの夜を得る。
そして、声を押し殺して泣いた。
もう二度と、あの夢を見ることはあるまい。
それがわかって、泣いた。
あの夢は、春宵が見せたひとときのまぼろし。千金でも購えぬひとときの奇跡。
私が彼女とあのように話すことは、この現実の中では決して一切起こりえないのだ。
私も彼女も、そのことを知っていた。だからこそ、私達はそのかりそめの絆を互いに確かめ合い、例え一夜で露と消えようともその一瞬を永遠と信じて分かち合ったのだ。
そして、それゆえに、この現実がどれほど残酷なのかをこれでもかと思い知らされるのだ。
あれは、そんな罪作りの夢。
だが、私はきっと幸せ者だ。
だって、私は、彼女が彼女であることを知ることができたのだから。
たとえ夢の中であっても、私は確かに彼女と話し、彼女と笑い、彼女と泣き、彼女をこの手に抱くことができたのだから。
だから、決めた。
私は、あの夢を残すことに決めた。
そっと自らのお腹を撫でながら、
これから生まれてくる娘の名前を、決めた。
――命名、霊夢。
3回読み返してしまいました。
良いお話でした。ありがとうございました。
やはり母娘のお話は良い。
素敵なお話ありがとうございました!
夢と繋がる彼女との記憶、しかと堪能いたしました
流れるような筆致は元より、こんなお話が書いてみたい……ありがとうございました!
美しく切ない夢をありがとうございます。
私は家族愛をテーマにした話が好きです。それはもう、ベタなのが大好きです。
家族が持つ絆の強さや暖かさ、そういったものを、このお話で少しでも感じていただければ幸いです。
>>神仏のお告げがある不思議な夢。
ああ……いい名だ……。