Coolier - 新生・東方創想話

真昼の虹を追いかけて

2009/07/10 23:53:13
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      一

 恩田陸でどの作品が好きか、と問われれば、私は迷わず『三月は深き紅の淵を』を挙げる。
 実在するのかどうかもはっきりしない幻の本、『三月は深き紅の淵を』を巡る四つの物語。作中で語られる稀覯本と、現実の『三月は深き紅の淵を』は完全には重ならず、けれどすれ違うように呼応しあい、読者と作者、現実と幻想の枠を超えて溶け合っていく。
 結末のはっきりしない話があまり好きではない私は、恩田陸はどちらかと言えば苦手な作家だ。この作品もそういう意味では私の苦手な部類に入る。実際、第三章まではともかく第四章はどうにもよく解らない。ただそれを差し引いても、屋敷に隠された一冊の本を探し求める第一章、その本の作者を探して編集者ふたりが議論を交わしながら旅する第二章は掛け値なしに素晴らしいと思う。傑作ではない、けれど心に残って離れない幻の本をめぐって交わされる会話のひとつひとつが響く、本好きにはたまらないミステリだ。

「いやいやメリー、あの作品はむしろ第四章こそが素晴らしいんじゃない」

 いつもの《喫茶 月時計》のテーブル席。宇佐見蓮子はガトーショコラをフォークで切り崩しながら、ちっちっ、と人差し指を振った。

「あれが恩田陸の最高傑作だっていうのには私も同意するけど」
「蓮子は好きそうね、恩田陸。《よくわからない話》好きなんでしょう?」
「うーん、まあ好きだけどね」

 フォークについたホイップクリームを舐めながら、蓮子はひとつ唸る。

「恩田陸って、自分の想像力に敗北し続けてる作家、ってイメージがどうしてもね」
「……ああ、なんとなく解る気がするわ」

 私は頷きつつコーヒーを口にした。ミルクと砂糖の柔らかな甘味が心地よい。

「たとえば『Q&A』なんかその典型よね。あれも読み始めたときには、漠然としたとてつもないイメージが広がって物凄くわくわくするのに、最後まで読むと《え? こんな話になっちゃうの?》ってガッカリする。序盤で広がるイマジネーションの魅力に、作品が常に追いつけない。『夜のピクニック』みたいなシンプルな話ならそういうこともないんだけどね」
「ああ、『夜のピクニック』はいいわね。『蛇行する川のほとり』とかも」
「素人の想像だけど、本人も常に書きながら戸惑い続けてたんじゃないかしら。もっと凄い話だったはずなのに、どうしてこんな結末になってしまうんだろう、って。『月の裏側』とか明らかにラストが蛇足なんだけど、あれを書いてしまうあたりが作者の煩悶の現れに見えるのよ、私には」

 私は『月の裏側』は読んでいないので、それについてはコメントできなかったけれど、蓮子の言いたいことはよく解る。私が読んだ他の作品もだいたいそういうイメージだからだ。

「そういう意味でも、やっぱり最高傑作は『三月』よね」
「そう? 私はやっぱり尻すぼみだと思うわ」

『三月は深き紅の淵を』の第四章「回転木馬」は、今まさに「回転木馬」という章題の小説を書き始めようとしている作家の《私》、それから出雲へ旅する《彼女》、そして《理瀬》――これはその後に発表された『麦の海に沈む果実』のパラレル的な物語だ――の三つの物語がバラバラに語られ、収斂することなく何だかよく解らないままに終わる。それまでの三章の、端正であり蠱惑的でもあるミステリぶりからすると、突き放したようなその結末に、私はどうにも据わりの悪さを感じてしまうのだが。

「いやいや、収束しないからこそあの第四章が素晴らしいんじゃない。恩田陸という作家の最大の魅力は何? そのイマジネーションよ。『六番目の小夜子』の得体の知れない恐怖、『Q&A』の事件に見える壮大な物語の気配。読み始めたときに目の前に広がる、《この本はとんでもなく面白い作品なんじゃないか》という、ときめきにも似た胸の高鳴り。まあ、だからこそラストでいつもガッカリさせられちゃうんだけど――」

 身ぶり手振りを交えて、蓮子は身を乗り出して熱弁を始める。ああ、スイッチが入ってしまった。こうなるとしばらくは語らせておくしかない。

「『三月』はそのイマジネーションが、今まさに広がり始めるところで本が終わる。ある意味反則技だけれど、だからこそあの第四章は、子供の頃の、通ったことのない道に足を踏み入れるときの微かな畏れと、その先にある未知への期待に胸を膨らませる感覚を思い起こさせるのよ。恩田陸に《ノスタルジアの魔術師》という呼び名をつけた人はよく解ってるわ。子供の頃、何でもないことの後ろに何か壮大な秘密があるような気がして、理由もなくわくわくしていたその感覚に近いのよ、彼女の作品は。タネが解っちゃうとガッカリするという意味では、魔術師というより奇術師だけど」
「そんなこと言ったら、泡坂妻夫に怒られるわよ」
「泡坂妻夫は『11枚のとらんぷ』しか読んでないのよねえ」

 私の言葉にひと息ついて、蓮子はコーヒーをすすった。

「まあ、《理瀬》のパートはちょっと書きすぎてる感じはするけどね。だけど《私》と《彼女》のパートは素晴らしいじゃない。特に《彼女》のパートのラスト。それまでの三章に小さく姿を見せていた《あの人物》が目の前に現れて《彼女》を《さあ、行こうか》と誘うあの瞬間。ぞくぞくするわ。ねえ、彼は《彼女》をどこへ連れていこうとしているの? それは石榴のモチーフが散りばめられた物語の中? それとも《三月の国》? あるいはもっと別の――。そして《私》が物語を書き始めようとするところで本は閉じられる。そこで書かれる《物語》はどこにあるの? 今この本を読んでいる私は、今それを読んでいるのか、それともこれからどこかでその《物語》に出会えるのか――こんなにわくわくすることって無いじゃない! 決して矮小化されることなく、読んでいる私たちの中でそのイマジネーションはふくらみ続けるの。ねえ、結局自分にとって一番面白い物語は、自分の中にしか存在しないのよ?」

 再びそこまで一息に語って、蓮子は幸せそうなため息をついた。
 普段の理路整然とした蓮子の喋りに比べて、どこか憑かれたような語りに私は少々面食らいつつ、少し冷めてきたコーヒーに口をつける。

「……蓮子、『麦の海に沈む果実』とか『黒と茶の幻想』とかは読んだ?」
「読んでないわ。絶対に読まないって心に決めてるから」

 予想通りの答えに、私は小さく苦笑した。

「『三月』をあそこで終えて、けれど『麦の海に沈む果実』や『黒と茶の幻想』を書かずにいられないのは、きっと作家としての性なんでしょうね。語らないからこそ美しい物語を、しかし語らずにはいられない。もちろんそれを語るからこそ彼女は作家なんでしょうけど、そう考えると本当に因果な商売よね、作家って」

 蓮子が喫煙者なら、ここで煙草でも吹かすところなのだろうが、私も蓮子もどちらかといえば嫌煙家だった。なので蓮子は、切り崩したガトーショコラを頬張っている。

「また、はっきり結末を書かないとメリーみたいな読者が怒るしね」
「怒るわけじゃないわよ。ただ趣味じゃないだけで」
「ま、だから私は『三月』とリンクしてる他の作品は読まないことに決めてるのよ。そりゃ、読んでみたいかどうかで聞かれれば読みたいわよ。あの作中で語られる『三月は深き紅の淵を』が実在するならね。――でも、第一章で会長が言ってたじゃない。『記憶の中にある本、かつて読んだ本ほど面白いものはない』って。忘却に洗い流された記憶の中で、微かに残る断片から飛躍するイメージ。実物が目の前に現れてしまえば、その幻想が壊されてしまいそうで恐ろしいわ。百年の恋も冷めるような現実の本より、夢の中の理想の一冊。そんな一冊のイメージを私に差し出してくれた素敵な本なのよ、『三月は深き紅の淵を』は。私はせっかくだから、そのイメージは墓まで持っていくつもりよ」
「頑固ねえ」
「というわけでメリーは『三月』を再読のこと。私とメリーで好きな本が被るなんて割と珍しいんだから、どうせならメリーにもあの第四章の素晴らしさを理解してほしいわね」
「……まあ、気が向いたらね」

 そう答えたところで「楽しそうですね」と店員の赤井さんがこちらへやってきた。半端に残っていたグラスにお冷やを注いでくれる。他にお客さんも居なくて暇なのだろう。

「赤井さんは本とか読みます?」
「いえ、私はあんまり……サクヤさ、マスターはよくお客さんの居ない時間に文庫本を開いてたりしますけれど」

 カウンターにいるマスターの皆月さんを振り返って、赤井さんは苦笑する。

「へえ、どんなの読んでるんだろう」
「イメージ的には翻訳ものかしら。早川書房の海外ミステリとか」
「自分がミステリ読みだからって他人まで勝手にミステリ好きに設定するのはどうかと思うわよ、メリー」
「別にそんなつもりじゃ……エラリィ・クイーンとか似合いそうだと思っただけ」
「そういえば、カウンターの後ろに『そして誰もいなくなった』があったわね」

 蓮子の言葉に、私は目を見開いた。

「本当?」
「ほら、カップが並んでる戸棚の下の方」

 蓮子が指す方に目を向けてみるけれど、ここからだとよく解らなかった。

「気付かなかったわ」
「まあ、いつもこの席だしね。カウンターに座れば解るわよ」

 そこでドアベルが鳴り、新しいお客さんが来たようだった。赤井さんがぱたぱたとそちらへ向かう。それを見送って、「ああ、そうそう」といきなり蓮子は手を打った。

「せっかくメリーを呼び出したのに、肝心の用件を言い忘れるところだったわ」

 そこで私もようやく思い出した。そういえば、ここに来たのは蓮子の呼び出しだった。そして蓮子の呼び出しとは即ち、秘封倶楽部の活動計画の立案に他ならない。

「はいはい、今度はどこへ行くの? また博麗神社? 蓮台野? それとも別?」

 私が訊ねると、「いやいや、今日は別よ」と蓮子は首を振った。

「別?」
「秘封倶楽部としてじゃなく、宇佐見蓮子個人としてのお誘い。有り体に言えば――」

 と、鞄から蓮子はおもむろに二枚のチケットを取り出して。
 全く臆面のない笑みのままに言い放った。

「メリー、今度の土曜日、私とデートしない?」





      二

 今のご時世、流行歌という概念は既に廃れて久しかった。
 それこそ昭和という時代、音楽を配信する媒体がテレビとラジオしか無かった頃には、誰でも知っている流行歌というものが毎年必ず存在したという。メディアの少なさゆえ、みんなそれ以外に聴くものが無かった時代。ある意味平和な時代である。その頃にはヒットチャート番組というものがお茶の間を賑わせていたらしい。
 娯楽の選択肢が爆発的に増加し、趣味の多様化によって「国民的○○」という概念が滅びた平成の時代を経て、最近はまた古びた娯楽への回帰が流行りではある。国産ミステリの復刊ブームもその流れのひとつではあるだろう。しかしこと音楽にかけては、細分化された人々の趣味は収束されず、ひとつの楽曲が爆発的なブームを呼ぶことは滅多に無くなっていた。
 そんなご時世に音楽で身を立てようとするのは、おおよそ並大抵のことではない。趣味としての歌、演奏、バンド活動はもちろん生き残っているし、もちろんプロもいくらでもいるのだが、少なくとも音楽という媒体で、昭和的な「スター」は生まれないのが今の時代だった。そうすると、音楽もやはり同好の士へ向けて、深く狭く潜っていくものになっていくわけである。
 ――というわけで。

「今どき、デートにライブっていうのも無いんじゃない? しかもアマチュアの」
「まあまあ、いいじゃない。どうせチケットはタダなんだし」

 土曜の夕方、いつも通り三分ほど遅れてきた蓮子に連れられて、私はライブハウスへと向かっていた。ライブハウスなんて行くのは生まれて初めてである。というか、そもそもこの京都にそんなものが生き残っていたこと自体が驚きだが。
 蓮子が私を誘ったのは、アマチュアバンドのライブだった。蓮子の知り合いがやっているバンドらしい。相変わらず、よく解らない交友範囲の広さである。

「ええと……トリップリズム?」
「三人組のちょっと変わったバンドよ。身贔屓抜きにしても一聴の価値はあるわよ?」

 チケットに書かれたバンド名は《TRIP-RHYTHM》。意味はよく解らない。トリップするようなテンションの高い音楽なのだとしたら、ちょっと苦手な世界だ。

「そういえば、蓮子と音楽について話したことってあんまり無いわね」
「音楽的素養は無いのよね、私。民族音楽とか聴くのは好きだけど、趣味って呼べるほど聞き込んでるわけじゃないし」
「民族音楽って、ケルトとか? よく知らないけど」
「まあ、そういうのかな。知り合いに勧められたZABADAKが最近お気に入り」

 聞いたこともない。かく言う私もあまり音楽に興味は無かった。本を読んでいるときは静かな方がいいし、音楽を聴きながらじっとしていると音を消して本を読みたくなるのである。

「ここよ」

 人通りの少ない路地の隅に、ひっそりと地下へ通じる階段があった。薄暗い階段の下にあるドアの向こう側は、私の知らない世界。逡巡するように立ち止まった私の手を、蓮子が掴む。

「ほら、メリー」

 ――そうやっていつも、宇佐見蓮子は私を引っ張り回すのだ。
 ため息をつきつつ、それに付き合っている私も、結局は楽しんでいるのかも知れない。
 薄暗い階段を下り、ドアを開ける。音の洪水が流れ込んでくるのかと思ったが、中から聞こえてきたのは開演前の独特のざわめきだった。

「お二人ね。ドリンクは?」

 入り口に立っていたスタッフがチケットを確認して訊ねてくる。なんとも前時代的だ。

「ジンジャエールと、メリーは?」
「……ノンアルコールなら何でも」
「じゃあ、ジンジャエールふたつで」

 はいどうぞ、と安っぽいプラスチックのカップを渡されて、私たちは中に足を踏み入れた。照明の落とされたステージの前には、既に人だかりが出来ている。ステージから少し離れた場所にあるテーブル席もだいたい埋まっているようだった。

「人気なのね」
「前にプロの誘いもあったらしいわ。その頃とは方向性も変わってるらしいけど」

 それがどのくらい凄いことなのかは、私にはよく解らなかったので曖昧に頷いておく。

「それで、結局どんなバンドなの? あんまりうるさいのは苦手なんだけど」
「んー、それが何とも説明しづらいのよね。とりあえず、インスト系バンドなんだけど」
「インストって、歌無し?」
「そう、曲だけ」

 それは意外だった。というか、そんなバンドが存在すること自体が。普通バンドというのはヴォーカルがいるものではないのか?

「とにかく、変わった音楽が聴けるわよ」
「あんまり前衛的なのも、私はついていけないわよ」
「大丈夫、曲自体は解りやすいから」

 いまいち要領を得ない蓮子の発言に、私は首を傾げる。一体どんなものが出てくるのやら。
 そろそろね、と蓮子が懐中時計を見て言った。その次の瞬間、ふっと照明が暗くなる。周囲を包んでいたざわめきがふっと消えた。一瞬の、張り詰めたような静寂。――そして。
 凛としたピアノの音が、糸を断ち切るナイフのように駆け巡った。
 どこか緊迫感を孕んだピアノソロが、駆けるように静寂の中を響き渡る。それに静かに重ねられた音に、私は驚いて目を見開いた。ギターでもドラムでも無い、バイオリンの音。
 ダン、とピアノが叩きつけるように一度音を途切れさせた。沈黙、そして。
 第三の音――軽快なトランペットとともに、ステージに華やかな照明が灯る。
 わっ、と観衆が沸いた。ステージの上、その音色を奏でるのは三人の少女たち。バイオリン、トランペット、そしてキーボード。なるほど、蓮子が《変わった音楽》と評したのはこういうことか。キーボードはともかく、どう考えても一般的なバンドの使う楽器ではない。
 しかし不思議なことに、その明らかに噛み合わせの悪そうな三つの楽器が奏でる音は、奇妙な違和感を孕みながらも軽快に絡み合って、テンポのいい旋律を刻んでいく。
 別の生き物のように踊る、キーボードの少女の両手。どれだけの肺活量があるのか、複雑な旋律をさらりと吹きこなすトランペットの少女。そしてそのハイテンションなメロディを静かに支えるバイオリンの旋律――。
 私も音楽的素養は無いから、彼女たちの演奏技術がどの程度のレベルなのかは判断がつかなかった。しかし、ただひとつ確かなことは、

「ね、面白いでしょ?」
「……ええ」

 蓮子の言葉がどこか遠く感じる。気付けば私は身体でその旋律に合わせてリズムを取っていた。目の前の観衆がそうするように。
 スポットライトに照らされて、汗を弾けさせてそれぞれの楽器をかき鳴らす三人の少女。
 その姿はとても楽しそうで、私は息を飲んでそれを見つめて――、
 キーボードが和音を叩いて、そこで曲は終わった。歓声に少女たちはそれぞれぺこりと頭を下げ、それからバイオリンを手にしていた少女が目の前のマイクを取る。

『皆さん、今日も私たち《TRIP-RHYTHM》のライブへようこそ。時間まで目一杯楽しんでいってくださいね!』

 歓声を受けて、彼女は後ろの二人を振り返る。頷き合い、キーボードの少女がマイクを取る。

『はーい、お次は《ファントム・アンサンブル》!! 盛り上がっていこー!』

 少女の言葉に沸く観衆。そして再び流れ出すキーボードの旋律。
 始まるのは、陽気で軽快で脳天気なピアノとバイオリンとトランペットの三重奏。
 沸き上がる観衆の中で、だけど私は不意に立ちつくした。

「メリー?」

 隣でリズムを取っていた蓮子が、不意に私の方を振り向いた。
 盛り上がりの中に取り残されたように、私はぼんやりとステージを見つめる。

「……こういうの苦手だった?」

 小声の蓮子の問いかけに、私はゆっくり首を振った。
 曲も音も嫌いなわけではない。いい曲だと思う。そう思うのだが――どうしてだろう。
 こんなに陽気で楽しい曲なのに、何故だかその旋律がひどく物悲しく聞こえたのだ。
 この場でこんなことを感じているのは私だけなのだろう。みんな盛り上がっている。
 単に、このバンドの曲を初めて聴くから、というだけなのかもしれないが――。
 ただ私だけが、何か噛み合わないものを覚えて立ちつくしていた。



 結局、次の曲からは私も、前の曲の印象を忘れて盛り上がった。
 一時間ほどライブは続き、最後にアンコールで《天空の花の都》という曲を演奏して終わった。闇の中、ステージだけが照らされている状態から、照明が元に戻る。それは祭の熱気から、現実へとスイッチが切り替わる瞬間でもあった。

「んー、久しぶりに聴いたけどやっぱり良いわね。メリーはどうだった?」
「そうね、楽しかったわ。こういう音楽もあるのね」

 ざわめきの中、ひとつ大きく伸びをする蓮子に、私は頷く。ライブと聞いて正直尻込みするものがあったのだが、演奏するバンドと一緒になって盛り上がるこの時間はなるほど楽しい。

「それは何より。――ところで」

 と、空いたカップを捨てつつ蓮子はステージの方を見やった。既にステージは無人だ。

「これから、メンバーに会いに行くんだけど、メリーも来る?」
「……え?」

 私は目をしばたたかせた。そんなの聞いていない。

「知り合いのバンドだって言ったじゃない。せっかくの京都ライブだからって招待されたのよ。その挨拶に行こうと思って」
「……それ、私がついて行っていいのかしら?」
「友達か恋人でも誘ってって二枚チケット寄越したのは向こうだしね」

 蓮子の言葉に、私は小さく肩を竦めた。

「それに、初めての人の感想は向こうも喜ぶと思うわよ」
「……まあ、蓮子がそう言うなら」
「おっけー」

 じゃあ行こう、と蓮子はいつものように私の手を取った。
 ――そうやって蓮子はいつも、私を知らない世界へ引っぱっていくのだ。





      三

「え、蓮子さんの彼女?」

 キーボードの人が、私を見るなり開口一番そんなことを言った。

「違います」

 とりあえず私はそう即答しておく。「えー」とそれに不満げな声を上げたのは当の蓮子だ。

「ノリが悪いわよメリー」
「ノリって……」

 ため息をつく私の傍らで、「蓮子、久々っ♪」とトランペットの人が蓮子とハイタッチを交わしていた。「来てくれてありがとう」と礼儀正しく頭を下げたのはバイオリンの人。どうやらバイオリンの人がまとめ役らしい。
 場所は楽屋裏の控え室。もちろんこんなところに足を踏み入れるのも初めてだ。簡素なテーブルとロッカーのあるその部屋で、三人は蓮子を待っていたようだった。

「しかし、まさか京都まで出張とは、相変わらず人気者ねえ」
「ここのオーナーが東京でライブ聴いてくれたらしくて、是非うちでもライブをやってくれって言われたの。旅費出してくれるっていうから卯酉東海道に乗ってきたわ」

 卯酉東海道。京都と東京を結ぶ大動脈の地下新幹線だ。ということはやはり、彼女たちは蓮子の東京時代の知り合いらしい。

「あ、紹介するわね。こちらメリー、私のサークル仲間」
「……マエリベリー・ハーンです。はじめまして」

 頭を下げた私に、バイオリンの人が「メリーさん、でいいかしら」と微笑んで手を差し出す。

「私が《TRIP-RHYTHM》リーダーのルナ。本名は如月翼。よろしくね」

 きさらぎ。二月のことだ。《月》が入っているから《ルナ》か、と納得する。

「私はメル。トランペット担当~。本名は陽下蘭。よろしく~♪」

 トランペットの人は、その奏でる音の通り陽気な調子で、巻き毛気味の髪をくるくると指に巻き付けながら笑った。

「で、そっちがキーボードのリカ。本名は星野里佳」
「どもっ」

 並んで立ってみると、キーボードの人が一番小柄だった。ぴっと敬礼をひとつして、彼女はそれから私と蓮子を見比べて、どこか底意地の悪そうな笑みを浮かべた。

「メリーさん、蓮子の友達なんて大変でしょう?」

 苦笑混じりに肩を竦めた如月さんに、私は曖昧に笑って返す。まあ確かに、色々と大変な目には何度か遭っているけれども。

「如月さんは、蓮子とは?」
「高校の同級生。私たちが《TRIP-RHYTHM》になって最初のライブにたまたま来ててね、それ以来贔屓にしてもらってるのよ」
「引き取ってあげたチケット代の出世払いの約束は忘れてないわよ、翼」
「解ってるってば」

 笑って言う蓮子に、如月さんが気安い様子でその肩を叩く。その仕草に、私の知らない東京での蓮子の生活を垣間見たような気がした。
 蓮子の人脈は驚くほど広い。あのぶしつけなほどの行動力と、マイペースながらどこか人なつっこいところが、彼女に人との繋がりを呼ぶのだろう。私にはなかなか、真似はできない。

「メリーさんは、私たちの曲を聴くのは初めてかしら~?」

 と、トランペットの陽下さんが私に声をかけてくる。

「ええと、はい。何だか不思議な音楽でした。こういうのもあるんだなぁ、って」
「不思議、ね」

 鍵盤を叩くようにテーブルを指で鳴らしながら、星野さんが呟く。

「五曲目が特に好きな感じでした、ええと――」
「《遠野幻想物語》? そうね~、初めて聴く人にはあのへん人気よね~」

 陽下さんがそのメロディを鼻歌で奏でる。その曲です、と私は頷いた。

「使ってる楽器のわりに、曲がなんだか和風でしょ? その違和感が癖になるのよね」

 違和感。蓮子の使った単語に、まとまらなかった感想がすとんと腑に落ちた気がした。なるほど、違和感か。使っている楽器の違和感、その奏でる音と曲調の違和感。そのズレが引っかかって、何だか不思議な印象を残すのだ。
 ――ただ、私の感じた違和感は、それだけでもなかったのだが。

「ところで、打ち上げどーするの?」

 星野さんが声をあげ、ああ、と如月さんが頷く。

「オーナーが店を取ってくれてるから、そこに行こう。蓮子とメリーさんも、よければ」

 突然話を振られて、私は面食らう。楽屋裏に連れてこられただけでも予想外の展開なのに、打ち上げにまで連行されるなんて全く聞いていない。

「あれ、言ってなかったっけ?」
「聞いてないわよ」
「まあいいじゃない。どうせ暇人でしょ、のんびり屋のメリーは」

 全く悪びれず蓮子は笑う。私は盛大にため息を漏らした。





      四

「それじゃ、乾杯」
『かんぱーい!』

 結局、成り行きで私は蓮子とともに《TRIP-RHYTHM》の打ち上げに紛れ込んでいた。場所はライブハウスの近くの居酒屋。土曜の夜とあって、店の中は賑わっていた。日曜を前に、思い思いの夜を過ごす人々のざわめきが、狭く薄暗い店内に響き渡っている。

「改めて、メルもリカもお疲れ様」

 乾杯の音頭を取った如月さんがそう言うけれど、陽下さんと星野さんは構わず前菜をぱくついていた。やれやれと肩を竦める如月さんに、「相変わらずこのふたりのお守りは大変そうね」と蓮子が笑う。その手のジョッキは既に半分ほど空になっていた。私はテーブルの隅でノンアルコールカクテルを口にしながら、なんとなしにその様子を眺める。

「ルナ姉、これ美味しいよ、このたこわさ」
「リカ、私がわさび苦手なの知ってて言ってるでしょう」
「すみません~、シーザーサラダと串焼き盛り合わせお願いします~」
「あ、こっちビールで。あと鶏軟骨」
「じゃあ私は湯豆腐を」
「ルナ姉、また年寄りくさいものばっかり食べて、老けるよ?」
「うるさいな。リカこそ脂っこいもの食べてるとお肌に良くないわよ?」
「私はルナ姉と違って若いから平気だもんねー」
「ひとつしか違わないのにね~」

 がやがやと騒がしいテーブルに、私はここにいていいのだろうか、と思う。
 主役の三人と、昔からの知り合いの蓮子はいい。だけど私は部外者だ。
 ……やっぱり、こういう飲み会の場というのは苦手なのだ。どういう立ち位置を取ればいいのか、その場で判断がつけられない。

「メリーさんは何か食べる?」

 星野さんに声をかけられ、はっと私はメニューに目を落とした。

「ええと……じゃあ、だし巻き卵を」

 何も頼まないのも失礼な気がして、ぱっと目に付いたメニューを咄嗟に口走った。だし巻き卵なら当たり障りがなくていい。私も好きだし。

「そういえば三人とも、明日は?」

 不意に蓮子が訊ね、如月さんが運ばれてきた砂肝を口にしながら頷いた。

「適当に京都観光してから帰る予定。私とメルはともかく、リカは学校あるしね」
「勤勉な学生は平日は学業に従事なのであります」
「まあ、私もバイトあるしね~。今月も金欠だわ~」

 星野さんが何故か敬礼して答え、陽下さんが苦笑する。わざわざ京都まで呼ばれるような人気バンドでも、やはりそれだけで食べていくというのは難しいのだろう。

「あの、《TRIP-RHYTHM》ってどういう意味なんですが?」

 ずっと黙っているのもまずい気がして、会話に間隙が生じたタイミングで私は適当な問いを発した。何しろ音楽の知識なんて無いものだから、そのへんの突っ込んだ話は聞くに聞けない。そうなるとそのぐらいしか話題のタネも思いつかなかった。我ながらコミュニケーション能力が貧困である。

「ん? ――意味、ね」

 と、不意にメンバー三人が、一瞬目配せを交わしたように私には見えた。そこに生じた微かな緊張は、だけど元からそんなものは存在しなかったかのように、居酒屋の喧噪の中に溶けて消える。

「言葉通りよ~。トリップするようなハイテンションなリズムを奏でる、そんな意味~」

 陽下さんが答え、如月さんと星野さんも頷いた。

「ついでに言えば、《TRIPLE-ISM》でもあるんだけどね。そんなダブルミーニング」

 三人組だから《トリプルイズム》か。ははぁ、と私は頷いた。よく考えられたものだ。

「実際、ライブだとトリップしちゃって倒れる客とか出てるんでしょ?」
「たまにそういうこともあるってだけよ」

 蓮子の言葉に、如月さんが苦笑した。

「ずっと三人で?」

 私は続けて問いかける。口にしてから、バンド名が《TRIPLE-ISM》という意味なら当然三人か、と気付いてしまった。間抜けな問いである。恥ずかしくなって俯くと、

「……いや、昔はもうひとりいたんだけどね」

 小さく如月さんがそう呟いて、一瞬なんだかひどく気まずい沈黙が落ちた。
 ――何か、触れてはいけないことに触れてしまったのか。私はどうしていいか解らず、蓮子の方を振り返る。けれど蓮子も意外そうに目をしばたたかせていて、

「お待たせしました、湯豆腐とだし巻き卵です」

 その空気を破ったのは、料理を運んできた店員だった。僅かに緊張した空気がたちまち弛緩し、「おお、美味しそう」と星野さんが目を輝かせた。
 結局、空気が変わったのはそれだけで、その後は陽下さんと星野さんがはしゃぎ、如月さんと蓮子が思い出話に花を咲かせ、私は隅でちびちびとノンアルコールを口にするという構図のままに飲み会は進んでいった。
 居心地が悪い、というわけではなかった。大人数でお酒を飲んではしゃぐのは元々あまり得手でないから、隅でちびちびやっているぐらいはかえって性に合っている。
 ――ただ、私が問いを発したときに感じた、僅かな緊張と気まずい沈黙。
 そのことが何か、私の意識にこびりついて離れなかった。





      五

 飲み会が終わり、蓮子とも別れて部屋に戻ったときには、日付も変わろうかという時間になっていた。そのまま寝てしまおうかとも思ったが、気付けば私はPCを起動していた。彼女たちについて、もう少しちゃんと調べてみたくなったのだ。
 検索をかけてみれば、《TRIP-RHYTHM》の情報は簡単に手に入った。結成は二年前。東京を中心に活動するインスト系アマチュアバンド――というのが公式サイトでの紹介。ライブ情報の掲載や楽曲配信も行っているようだった。
 公式サイト以外の情報も探してみる。総合音楽情報系のサイトでの特集記事もあった。独自性の強い楽曲とサウンドで、インスト系バンドとしては異例のカリスマ的人気を誇るバンドである云々。思った以上に、その筋では有名なバンドだったらしい。
 さらに深く検索網を潜っていくが、だいたいは公式で見た情報ばかりがヒットした。そんなものか、とブラウザを閉じようとして――ふと、あるページが目に留まった。
 とある掲示板のログだった。東京のアマチュアバンド全般を語る掲示板らしい。その中に、《TRIP-RHYTHM》の名前が挙がっている。それはいいのだが――。

 結局、幽霊時代は黒歴史なのか?

 公式で何も触れられてないってことはそうなんだろ。

 レイラ好きだったんだけどなぁ。なんで脱退したんだろ。


 明らかに《TRIP-RHYTHM》についての話の流れで、そんな会話が為されていた。
 幽霊時代、レイラ、脱退。――如月さんの言葉を思い出す。

『……いや、昔はもうひとりいたんだけどね』

 ゴシップ的な興味であることは自覚しつつも、私は検索ワードを追加する。「TRIP-RHYTHM 幽霊 レイラ」。――検索。
 情報は、あっという間に手に入った。

「《RIVER'S GHOST》……」

 それは、明らかに《TRIP-RHYTHM》の前身と言うべきバンドだった。メンバーはルナ、メル、リカの三人に――もうひとり。レイラ、という名前の少女がいた。
 調べた限り、レイラはヴォーカルだったらしい。ヴォーカルのレイラが二年前に脱退したことで《RIVER'S GHOST》は一旦解散し、インスト系バンド《TRIP-RHYTHM》として再結成された、という流れのようだった。
 けれど、調べられたのはそこまでだった。脱退したレイラというヴォーカリストについては、検索をかけてもそれ以上のことは解らない。少なくとも《RIVER'S GHOST》脱退後は音楽活動はしていないようだ。

「…………」

 ブラウザを閉じてベッドに倒れ伏し、私はため息をついた。全く、こんなことを調べてどうしようというのか。公式サイトに記載していない過去の活動。飲み会のときのあの反応を見れば、彼女たちにとってはあまり触れられたくないことなのだろう。

「……蓮子の悪影響ね、本当に」

 全く、そう。好奇心だけで色々なことに首を突っ込む彼女の影響なのだ。
 そういうことにして、私は目を閉じる。
 どうせ、明日になれば彼女たちは東京に戻る。そうすればもう会うこともないのだ――。
 ふと起きあがり、もう一度PCに向かう。公式サイトで配信楽曲を確認すると、リストの中にちゃんとあの曲はあった。今日のライブの二曲目、《ファントム・アンサンブル》。
 クリックすると、その曲が流れ出した。ライブの生音と、PCの安物なスピーカーから流れる音では迫力に大きな差があったが――けれども。
 やはり私には、ピアノとトランペットとバイオリンが奏でるその軽快なサウンドが、どこか物悲しく聞こえるのだ。こんなに陽気で明るい曲なのに。
 どうしてだろう、と目を細めた私は、不意にその曲の楽曲情報に気付く。
 曲データの片隅に、小さく記されているのは、作曲者の名前。

 ――composed by Layla.





      六

 翌日の日曜日はあいにくの雨模様だった。
 さしあたっての課題やレポートも無かったので、今日は読者の日と決め込むことにして、私は『三月は深き紅の淵を』を再読していた。蓮子に言われたから、というわけでもないが、蓮子との会話がきっかけではある。
 初めて読んだのは三、四年前のことだったと思う。読み返してみて、思った以上に自分の中であの第四章の不可解さが印象に残っていたのだなぁ、と思う。第一章や第二章がとても面白かったことは覚えていたが、細部は記憶からするりと抜け落ちていた。それでいくと、第四章は色々と細部のイメージが鮮烈に残っている。蓮子の語りで思い出した、という面もあるが。

「あたしさあ、子供の頃、本読んでても、誰々作、って意味が分からなかったの。本に作者ってものがいるってことに気付かなかったのね。どの本にも表紙に『××さく・え』って書いてあるじゃない? これはなんのことだろうってずいぶん長い間悩んでたわ」
「じゃあ、本はどうやって作られると思ってたんですか?」
「さあねー。どこかで筍みたいに、自然発生的にぼこぼこ生えてくると思ってたみたいね、今にして思えば。小学校三年生ぐらいだよ、本というものが、誰かが考えて書いたものだということを悟ったのって」


 これは第二章「出雲夜想曲」で、寝台列車に乗って出雲に向かう編集者ふたりが交わす会話だ。確かに本を読んでいると、これは本当に人が考えた物語なのか、と信じられない気持ちになる作品というのはある。この世には《本の生る木》がどこかにあるのではないか――書店に並ぶ膨大な本にそんなイメージを重ねてみると、それはひどく魅惑的に思えた。
 この第二章は、幻の本『三月は深き紅の淵を』の作者は誰なのか、を編集者ふたりが推理する話なのだが、初めて読んだときにはその推理の過程に魅せられて、こういうやり取りにはあまり注目していなかった。再読はこういうことがあるから面白い。自分の変化に合わせて、作品の見方も変わる。最初に読んだときには見えなかったものが見えてくる。
 第三章「虹と雲と鳥と」を半ばまで読みかけたところで、モバイルが通話の着信を告げた。栞を挟んで文庫本を閉じ、私は携帯電話を取り出す。

『あ、メリー、今ヒマ?』

 ぶしつけな声は蓮子のものだった。私はため息をついて時計を見る。お昼前だった。時間を認識すると、急に空腹が襲ってくる。

「あいにく、読書で忙しいわ」
『オッケー。ヒマならご飯食べに行かない?』

 人の話など全く聞いていない。いや、聞いた上でのことか、蓮子の場合は。

「この雨の中?」
『ん? 大丈夫、小降りになってるし、予報だと午後から晴れるっていうし』

 窓を見やる。雨は降り続いているようだが、雲の切れ間から光は射していた。

「……まあ、いいけど。どこに行くの?」
『そうね、とりあえず駅で合流してから考えましょ。あ、あの三人も一緒だから』
「え? ちょっと――」
『じゃあ、十二時に西改札前の本屋でね』

 一方的にそう告げて、蓮子は電話を切ってしまう。沈黙した携帯電話を見下ろして、私は深くため息をついた。いつも通りといえばいつも通りだが。
 あの三人――《TRIP-RHYTHM》の三人のことだろう。京都観光をするとか言っていたから、蓮子が案内役でもしているのかもしれない。
 ぐう、とお腹が鳴った。十二時に駅集合なら、もうあまり時間がない。こうやって蓮子に振り回されることに慣れきった自分に小さく呆れつつ、私は外出の支度をする。読みかけの『三月』は一応鞄に入れていくことにした。
 傘を片手にマンションを出ると、蓮子の言う通り外は小雨になっていた。風上を見やれば晴れ間が覗いている。予報の通り、この後は晴れるのだろう。傘は邪魔になるかもしれない。
 邪魔になったら、呼び出した蓮子に持たせることにしよう。
 そんなことを思いながら、私は駅に向かって歩道のタイルの上を歩き出した。



「お待たせ、メリー」

 いつものことだが、呼び出しておきながら蓮子は遅れて姿を現した。

「三分十二秒遅刻」

 手に取っていた米澤穂信『氷菓』を棚に戻して、私は蓮子を振り返る。後ろには昨日見た三人の姿があった。私はぺこりと頭を下げる。

「で、どこ食べに行こうか?」

 いつもならふたりで書店に入れば、好き勝手に読みたい本を探し歩いて三十分は軽く潰してしまうのだが、連れがいるせいか蓮子はさっさと切り出した。後ろでは星野さんが「うぇー」となんだが居心地悪そうな声をあげている。

「京都まで来て東京にもあるチェーン店っていうのも味気ないし」
「そういう穴場的な店は蓮子の方が詳しいんじゃないの?」

 書店を出てあてもなく歩きながら、蓮子はきょろきょろと視線を彷徨わせる。

「別に何でもいいわよ、私たちは」
「あんまりお高い店じゃなければね~」
「そーそー。どうせジャンクフードに慣らされた貧乏舌ですから」

 後ろの三人はそんなことを言い、蓮子が「『何でもいい』はデートの禁句じゃなかった?」と言い返す。「どーせ相手なんていませんよー」と星野さんがぼやいて、如月さんと陽下さんが苦笑した。



 そんなわけで、駅前にある蕎麦屋が妥協点になった。

「しかし、せっかく観光しようと思ったのに雨じゃあね。それでも金閣は見てきたけど」
「悪趣味な建物だよねー」
「いつの時代も権力って見栄で出来てるのね~っていう見本じゃない~?」

 それぞれてんでバラバラに注文をしつつ、三人はがやがやと楽しげに話している。

「帰りの予定はいつなんですか?」
「夕方。京都から東京までより、卯東京駅着いてから家に帰るまでの方が時間がかかるっていうのはちょっと理不尽な話よね……」

 腕を組んで如月さんが唸った。東京―京都間が五十三分で結ばれても、都市部を結ぶ鉄道網はそこまで速くは走れないという話である。

「蓮子、京都の観光案内なら私じゃなく阿希を呼ぶべきじゃない?」
「姫田さん? あー、それもそうだったわね」

 私の幼なじみの姫田阿希は、歴史オタクが高じて今は日本史研究室所属の学生をしている。彼女を呼べばあちこちで色々と歴史上の与太話が聞けるだろう。

「ま、いいじゃない。メリーもせっかくの縁だし、付き合わない? どうせヒマでしょ?」
「……どこに行くかにもよりけりだけど」
「とりあえず、ここから近いし三十三間堂でも行く? あと清水。ちょっと歩くけど」
「私はそれでいいけど」

 蓮子の言葉に、だけど頷いたのは如月さんだけだった。

「うぇー、またお寺? もうちょっと若々しいところ行こうよ、ルナ姉」
「京都にそんな若々しい娯楽があるのかは知らないけどね~」

 星野さんが不満げな声をあげ、陽下さんが隣で苦笑する。

「東京と違って、テーマパーク的なものは無いのよね、京都」

 蓮子の言葉に、私はひとつ鼻を鳴らす。狭いテーマパークとか、ショッピングモールとか、そういう旧くて庶民的な娯楽施設は京都にはほとんどない。

「庶民的ねえ、東京って。私は行ったことないけど」
「そりゃま、京都に比べたら田舎だもの」
「へーへー、田舎者ですよーだ」

 私と蓮子の会話に、ふて腐れたように星野さんが呟いた。



 結局、他に面白そうな場所もない、という理由で如月さん希望のお寺巡りに落ち着いた。「たまにはリカも仏像でも拝んでみたら? 落ち着くわよ」という如月さんに、「あーやだやだ、歳はとりたくないねー」と星野さんは聞く耳持たず。仲が良さそうで何よりである。
 そうして三十三間堂を出る頃には、雨はほぼ止みかけていた。一応傘をさしているのは私だけで、他の四人は気にする風もない。なんだか間抜けで、結局私も途中で傘を閉じた。

「雨上がりっていいわよね~。うきうきするわ~」
「メル姉はいつもそんなテンションじゃん」
「明るく楽しくハッピーラッキーよ~」

 星野さんの手を引いて、陽下さんはスキップするように先を駆けていく。
 その様子をやれやれと見つめていた如月さんが、不意にこちらを振り向いた。

「メリーさんは、ずっと京都の人?」
「あ、いえ……少しちょっと、父方の国の方に何年か」

 生まれは京都だが、大学に入るまで私は数年この国を離れ、父方の母国に戻っていた。家族はまだそちらに住んでいるので、今はひとり暮らしである。

「そうか……ええと」

 と、如月さんはポケットから何かを取り出して、私へと差し出す。

「……この子を、見たことはないかな」

 それは一枚の写真だった。並んで写っているのは四人の少女。今よりも少し幼い印象の如月さん、陽下さん、星野さんがもみ合うように顔を寄せ合う、その中心にもうひとり。
 長い髪の少女が、儚げな微笑を浮かべていた。

「……レイラさん?」

 思わず私が口走った名前に、如月さんが僅かに顔をしかめる。

「あ……知ってた?」

 その言葉に、私は目をしばたたかせる。
 写真の中の少女は、《RIVER'S GHOST》のヴォーカリスト、レイラに違いなかった。
 しかし、その写真を見せて「見たことない?」とはどういうことなのか。参ったな、という様子で頭を掻いた如月さんは、写真を仕舞うとひとつ息を吐き出した。

「私たちが《TRIP-RHYTHM》になる前のことは」
「ええと、ちょっと調べたら出てきたので……すみません」
「いや、隠してるってわけじゃないしね。調べればすぐ解ることだから」

 やはりまずかったのか、と身を縮こまらせた私に、如月さんは苦笑する。

「一応確認するけど……実際に会ったことは?」
「無い、と思います」

 だよね、と如月さんは頷く。人の写真を見せて、「見たことない?」と聞く――その意味は、人捜し以外に考えられない。しかし、それはどういうことなのだ?

「……そうだね、レイラのことを知ってるなら、これだけ聞いておしまいってわけにもいかないよね」
「あ、いえ……別にそんな、詮索するつもりは」

 疑念が顔に出すぎたらしい。慌てて首を振った私に、如月さんは「いいよ」と笑う。

「――二年前まで、私たちは四人でバンドをやってた。《RIVER'S GHOST》っていう名前でね。レイラ――雨宮怜香は、そのヴォーカルだった」

 前をはしゃいで歩く陽下さんと星野さん、それと一緒になって笑っている蓮子を見やりながら、如月さんはどこか遠い目で話し始めた。
 雲間から顔を出していた陽射しがまたすっと翳り、ほの暗さが周囲を包んだ。





      七

 私と蘭、里佳、そして怜香の四人は幼なじみで、昔から何をするのも一緒だった。今では私がまとめ役をやってるけど、元々リーダーは怜香だったんだ。怜香は里佳と同い年だったんだけど、何というか、華があった。人を惹き付ける雰囲気がね。いつも怜香を中心に集まって、四人でわいわい騒いで過ごしていたんだ。
 本人は至っておっとりした性格だったけど、いざというときの決断力はしっかりしていて、判断もいつも的確だった。年上の私や蘭も、怜香の言うことならって従ってたんだ。

 私はバイオリン、里佳はピアノを子供の頃からやってて、蘭がトランペットを始めたのもその影響だった。なんでトランペットを選んだのかはよく解らないんだけどね。怜香だけは楽器は特にやっていなかったんだけど、怜香は歌は上手かった。里佳のピアノに合わせてよく、小学校の音楽室で歌っていたりした。ただもちろん、みんなあくまで趣味――というか、私と里佳は習い事としてやっていただけだった。最初はね。

 怜香が「バンドをやりましょう」と言い出したのは中学のときだった。最初は私たちも面食らったよ。ドラムやギターなんて出来ないって私が言ったら、怜香は「翼にはバイオリンがあるじゃない。蘭にはトランペットが」って言うんだ。
 ピアノとバイオリンとトランペットのバンド。そんなの聞いたこともないから、何の冗談かと最初は思ったよ。でも怜香はニコニコしながら、「三人でできる曲を考えてみたの」って楽譜まで作ってきてたんだ。
 その曲が、昨日のコンサートのアンコールでやった《天空の花の都》だった。
 一番びっくりしたのは私たちだよ。ピアノとバイオリンとトランペットなんて組み合わせで、あんな曲が生まれるんだから。セッションしてみた私たちの演奏を聴いて、怜香は満面の笑顔で言ったよ。「ほら、素敵でしょう?」って。
 だけど怜香は曲を作っただけで、自分が歌うことは考えてなかったみたいで。「あとはヴォーカルを見つければ完璧ね」なんて言うから、三人でずっこけたよ、あの時は。「怜香がいるじゃん!」って里佳が叫んでも、怜香はきょとんとしてた。どうしてか、言い出しっぺは怜香なのに、怜香をヴォーカルに起用するために私たちが説得するなんてことになってた。

 まあ、そんなこんなで《RIVER'S GHOST》は結成されたんだ。名付け親はこれも怜香。私たちの家が川沿いにあったのと、幽霊みたいにこっそり活動するバンド、って意味だった。そういえば怜香は英語が苦手で、《リバーズゴースト》のスペルを最初《REVERS GHOST》って書いたりしたっけ。それじゃひっくり返っちゃうよ、ってあの時は三人で大笑いしたなぁ。
 最初は本当に趣味だけのバンドで、放課後に空き教室でこっそり練習しているだけだったんだけど……学園祭でライブをやったら思った以上にうけてね。他のバンドに誘われて、そこから本格的にバンド活動にハマっていったんだ。

 それからはあっという間だった。怜香はどんどんいろんな曲を作って、歌詞は私と蘭が書いた。ライブハウスで演奏を繰り返すうちにだんだん口コミで人が集まってくるようになって、気が付いたら私たちはあのあたりのアマチュアバンドでも指折りの人気バンドになってた。
 楽しかった。色んな人が怜香の歌を、曲を、私たちの演奏を気に入ってくれて、聴いてくれる人が増えて。プロになろうなんてことは全然考えてなくて、ただ楽しかったから夢中になってライブを繰り返した。……あの頃は本当に幸せだったんだ。
 だけど、ね。――プロでやってみないか、という誘いが来てから、何かがおかしくなった。

 今、音楽で食べていくなんて大変なことだ。私たちは本気でプロを目指してたわけでもない。ただ怜香の作る曲を演奏するのが楽しくて、それに合わせて歌う怜香の声が聴きたくて、ずっとバンドをやってきただけだったから――悩んだよ。みんなまだ高校生だったしね。
 積極的だったのは蘭で、私は消極的だった。里佳は「どっちでもいいよ」って態度。あとは怜香がどうするか――結局はそれだった。怜香がプロになりたいといえばプロ。アマチュアのままでいいなら今のまま。私たちはそのつもりだった。
 だけど、そのことがかえって怜香を思い詰めさせてしまったんだと思う。

 怜香がどうしたかったのかは、結局最後まで怜香自身は喋らなかったから解らない。ただ、怜香はすごく悩んでいた。そのせいかは解らないけれど、声が掠れてライブの途中で歌えなくなってしまったことさえあった。あまり怜香が思い詰めたような様子でいるから、三人でやっぱりプロの話は断ろうと決めて、そう怜香に伝えたこともあった。だけど怜香は「そうじゃないの、そうじゃないの――」って言うばかりで、だけど結局何も言ってくれないままで。
 そうして、怜香はある日突然、私たちの前から姿を消した。

 怜香は元々物心つくまえに両親を亡くしていて、おばあさんと二人暮らしだった。そのおばあさんが亡くなって、親戚に引き取られた――学校からはそういう説明だった。
 私たちには、何も言わないままだった。
 そう、まるで幽霊のようにふっつりと消えてしまったんだ。

 怜香が居なくなって、プロの話も立ち消えになった。ヴォーカルを失い、《RIVER'S GHOST》も活動を休止せざるを得なくなった。ぽっかりと、急に時間が止まってしまったような気分だったよ。今まで四人で夢中に過ごしていた時間が、急に空白になってしまったようだった。
 そのままだったら、きっと私たちは音楽そのものも止めていたと思う。
 だけど……そんなある日、私の家に封筒が届いたんだ。
 差出人の名前は無かった。封筒の中にはメモリースティックと、小さな便箋が入っていた。便箋を開いて、私は息を飲んだ。そこには見慣れた怜香の文字があったんだ。

 ごめんなさい。
 私はもう歌えないけど、みんなの演奏はずっと聴いていたかった。それは、本当です。
 もし、信じてくれるなら、勝手に消えた幽霊のわがままを、ひとつだけ聞いてください。
 《TRIPLISM》という名前で、どうかバンドを三人で続けてください。
 私は、そこにいます。
 ――レイラより、私の宝物の光たちへ。


 そして、メモリースティックの中には、怜香が書きためてた曲のデータが入っていた。
 その数は、今までに私たちが《RIVER'S GHOST》としてやった曲の倍近くもあった。
 ――今、私たちが演奏しているのも、ほとんど全部がそのとき怜香が残した曲なんだ。

 昨日、メリーさんがバンド名の意味を聞いたけど、本来の意味はきっと《TRIPLE-ISM》の方なんだと思う。それを《TRIP-RHYTHM》に変えたのは里佳の発案だった。《トリプリズム》じゃ語呂が悪い、って名目だったけど――《トリプルイズム》じゃ《三人》ってイメージが強すぎるっていう思いがあったから。私たちはやっぱり、四人でバンドをやっていたかったんだ。

 実際のところ、怜香がどんな意味をそこに込めたのかは、未だにわかっていない。「私は、そこにいます」という言葉の意味も。そして、怜香がどこにいるのかも。
 だから私たちは、ライブをしながらいつも探しているんだ。あちこちライブで駆け回っていれば、そのうち怜香が私たちのライブを聴きにくるんじゃないかって。
 そのとき、怜香の残した曲を彼女に聴かせてあげたくて、私たちはバンドを続けているんだ。
 私たちは消えた幽霊が帰ってくるのを、あの頃のまま待ってるんだって――。





      八

 話が終わる頃には、清水寺へ続く坂道の途中、その建物が見えてくるあたりにさしかかっていた。「つまらない話でごめんね」と如月さんは首を振る。私は何と答えて良いか解らず、相変わらず元気に前を行く陽下さんと星野さんを見やる。

「メリー、どしたの?」

 蓮子に唐突に声をかけられ、私はびくりと身を竦めた。

「べ、別に何でもないわ」
「そう? なんか翼と話し込んでたけど、気でも合った?」
「彼女は取らないから安心していいわよ、蓮子」
「だから違いますっ」

 苦笑しながら言う如月さんに、私は思わず声をあげる。

「ま、いいけどね」

 くるりと帽子の向きを変えて、また蓮子はすたすたと歩き出す。
 私はその背中を見つめながら、小さく息をついた。

「……今の話、蓮子は?」
「知らないはず、言ってないから。怜香のこと自体は知ってると思うけど」

 私は目をしばたたかせた。旧友の蓮子も知らないような話を、昨日まで全くの無関係だった私が聞いてしまって良かったのだろうか。

「聞いてこないから言ってないだけ。気にしないで」

 如月さんはそう言うが、私は蓮子の背中に思わず目を細めた。
 ――あの好奇心の塊の蓮子が?

「メリーさん。もしどこかで怜香を見かけることがあったら、良かったら教えて。せめてどうして何も言わずに消えたのか、《トリプリズム》が本当はどういう意味なのか――それが解らない限りは、私たちはバンドを止めたくても止められないもの」

 如月さんはそう言って、どこか儚げに笑った。
 かげっていた陽射しが、再び雲間から顔を出し、午後の陽射しがあたりを照らし出した。



「お~、絶景かな絶景かな~」
「メル姉、危ないって」

 清水の舞台から飛び降りる覚悟、とはよく言うけれど、確かにこうして見下ろしてみると高い。建物の低かった昔なら尚更、この高さは遥かなものに思えたのだろう。

「でも、ここから飛び降りても樹に引っかかって助かりそうよね」

 舞台の下を覗きこんで、蓮子がそんなことを言う。

「だからこそじゃない? リスクを冒して飛び込んで、運が良ければ何とかなるって」
「それだと、たまたま助かったってだけで飛び降りるメリットは何も無いじゃない」
「言われてみればそうね」

 相変わらずの益体もない会話に、隣で聞いていた如月さんが噴き出した。
 雨がほぼ上がったこともあってか、観光客の姿も多い。修学旅行の学生と思しき集団がぞろぞろと歩いていく姿もあった。静謐な神仏の世界には遠い雑多な喧噪。
 その喧噪の中で、「あ」と誰かが声をあげた。その声につられるように人々が視線を上げる。思い思いに人々が空を指さす。思わず私たちも空を見上げて、声をあげた。
 雨上がりだからだろう、空にぼんやりと虹がかかっていたのだ。

「おー、きれー」
「清水の舞台から虹を見るなんて、オツなものね~」

 星野さんと陽下さんが声をあげる。赤から紫へ連なる、七色のプリズム。雨上がり、空に浮かぶ弓――レインボウと名付けた人が誰なのかは知らないが、英単語にしては随分と日本語的な表現で、私は気に入っている。

「そういえば、虹の色数って確か文化圏によって違うのよね。アメリカだと六色よ、確か」
「そうなの?」
「藍色が無いんだって。ま、確かにちょっと見分けづらいわよね」

 薄ぼんやりとした虹に目を細めて、私はふと『三月は深き紅の淵を』の第三章を思い出した。

 「虹と雲と鳥と、どれがいい?」

 第三章の章題である「虹と雲と鳥と」のフレーズが登場する場面。生まれ変わったらその三つのどれになりたいか、という問いに、その章のヒロインである篠田美佐緒は答える。

「虹か雲かで迷ったんだけど、虹」
「虹?」
「いいじゃない。いつのまにか現れて、またすうっと消える。おいしいとこだけ持っていけるでしょ。綺麗だし、謎めいてるし、後腐れないし」


 そう答えた彼女が崖から転落死した場面から第三章は始まり、彼女の周囲の人たちがその死の謎を追いかけていく。恩田陸の《少女小説》趣味的な部分が強く出ている章で、初読のとき私はどこか《怖い》というイメージを覚えた。何が怖かったのかよく解らないが。
 ともかく――朧な虹は次第に薄れていった。脳天気な陽光にかき消されるように、その光のプリズムは景色の中に溶けていく。すうっと、後腐れなく。
 光の、プリズム。
 私ははっと顔を上げた。如月さんの語りが、頭の中に蘇る。
 幽霊のように消えた少女。残されたメッセージ。《TRIPLISM》。――《トリプリズム》。

「……ねえ、蓮子」
「ん?」
「虹って、太陽の光が空気中の水分に分解されて出来るのよね?」
「実際はもうちょっと複雑だけど、まあそういう理解でいいかな」
「じゃあ――例えば、月の光や星の光でも、虹は出来たりするの?」

 私の問いかけに、蓮子は目をしばたたかせる。

「月光での虹は実際に出るわよ。ムーンボウね。星の光じゃ、さすがに人間の目に見える虹は出ないけど。でも宇宙で亜光速飛行すれば、ドップラー偏倚で星の虹が見えるって話は随分昔から言われてるわね」

 ムーンボウ、スターボウ。――レインボウ。

「ありがとう」

 私が言うと、蓮子はきょとんと目をしばたたかせる。私は構わず、如月さんに駆け寄った。

「あの、如月さん」
「なに?」
「――レイラ、怜香さんの苗字って、雨宮、でしたよね?」
「そうだけど」

 如月さんの答えに、私は虹の消えた空を仰いだ。――ああ、なんだ、そういうことか。

「メリーさん?」

 訝しげに目を細めた如月さんに、私は小さく首を振った。

「……ええと、私には怜香さんがどうして何も言わずに居なくなったのかは解りません。けれど、《TRIPLISM》の意味は、解った気がします」
「え?」

 如月さんが目を見開く。私の声が聞こえたか、近くにいた陽下さんと星野さんも振り向いた。
 そう、手紙の文面の中にちゃんとヒントはあったのだ。
 ――私の宝物の光たちへ、と。レイラさんはちゃんとヒントを残していた。

「如月、陽下、星野――月と太陽と星。三人とも、光の名前が苗字に入ってるんですよね」

 三人は顔を見合わせ、それからはっと気付いて空を見上げた。虹はもう、そこにはない。

「そして、怜香さんの苗字は雨宮。三つの光と、雨が重なれば――虹がかかる」

 それは三人の演奏が、怜香さんの歌声と重なりあって奏でる音のように。
 虹の七色が、ドレミの音階と重ねられているように。
 七つの色、七つの音。――三人の音と一人の歌が描く、三つの虹。

「《トリプルイズム》でも、《トリップリズム》でもないんです。――《トリプル・プリズム》だったんだと、私は思います」

 きっとスペルが《TRIPRISM》だったら、きっともっと解りやすかっただろう。
 それを《TRIPLISM》にした理由は解らない。単なるスペルミスかもしれない。

「三つの、虹……」

 呆然と、如月さんは天を仰いだまま呟いて。
 そして、「――何よそれ、もう、怜香の馬鹿!」と叫んだ。

「ルナ姉?」
「メル、リカ、行くわよ!」
「い、行くってどこへ~?」
「決まってるじゃない――レイラを探しに、三つの虹があったあの場所へよ!」

 如月さんの言葉に、「あー!」と星野さんと陽下さんが顔を見合わせて叫んだ。

「そっか、そういうことか! 何でこんな簡単なのに気付かなかったんだろ――」
「私はそこにいますって、じゃあレイラは――」
「そうよ、あそこにいるのよ! 二年も待ちぼうけさせたなんて――馬鹿みたい、本当」

 嘆くように顔を覆いつつも、如月さんの口元からは笑みがこぼれていた。
 そう、《探さないでください》なんて手紙は、探してほしいという意味に決まっている。

「蓮子、ごめん! 先に帰ることにするわ!」
「え? 翼、ちょっとどうしたの?」
「どうしたもこうしたもないの! ――また今度、次は四人で会いに来るから!」

 ひとりだけ話の輪から外れていた蓮子は、ぽかんと口を開けたまま、足早に去っていく三人の姿を見送った。その間抜けな姿に、私は思わず噴き出した。
 いつも蓮子は、世界の仕組みなんて何でも見えているような顔をしているけれど。
 たまには私が出し抜いて、秘密を解き明かしてしまうのも、悪くない。





      九

「……なーるほど。あのバンド名にそんな深い事情があったなんてねえ」

 結局、私たちはその後、いつもの《喫茶 月時計》で顔を突き合わせていた。何があったのか、としつこく問い詰める蓮子に、隠しておくつもりだった私も結局は喋ってしまったのである。まあ、初対面の私が知っている事情を、彼女たちと付き合いの深い蓮子が知らないというのもアンバランスな話だ。

「蓮子、本当に何も知らなかったの? 知ってて黙ってるのかと思ったわ」
「いやいや、翼が説明してくれてたら私がとっくに同じ答えを教えてたわよ。酷いなあ、私には教えてくれなかったのをメリーには語っちゃうなんて」
「人徳というものですわ」

 私が笑って言うと、「はいはい偉い偉い」と蓮子はコーヒーを口にする。

「まあ、メリーの推理に付け加えるなら、怜香さんは声帯ポリープか何かで声が出なくなってたのかもね。ライブの途中で歌えなくなったとか、手紙の中の《私はもう歌えない》っていう一文とか――プロの話と、ポリープと、おばあさんが亡くなったのと。それだけ重なれば、そりゃあ色々と思い詰めるでしょうね。便箋を使って回りくどい伝言を残したのは、ポリープが治ってまた一緒に歌えるようになるまでの時間稼ぎだった――としたら、二年も気付かなかった翼たちが情けないわよねえ、ちょっと」

 苦笑して言う蓮子に、私は肩を竦めて、それから窓の方を見やる。
 雨の気配はすっかり流れ去って、傾き始めた陽射しが街並みに落ちている。
 三つの虹という言葉が、あの三人にとってどういう意味かは私には解らない。ただきっと、その場所で三人は、待ちくたびれた怜香さんを見つけるだろう。そしていつか、三人ではなく四人で彼女たちが音を奏でる日が来たら――卯酉東海道に乗って聴きに行くのもいいかもしれない、なんて思う。
 それはきっと虹のように幻想的な音色なのだろう――と、思う。

「ね、蓮子」

 不意に私は持ち上げかけたカップを置いて、蓮子を見つめた。

「――虹と雲と鳥と、どれがいい?」

 私の問いかけに、蓮子は目をしばたたかせる。そして、ふっと目を細めた。

「お、『三月』を再読した?」
「まだ途中だけどね。――蓮子は、鳥がお似合いかしら?」

 んー、と蓮子はひとつ首を捻って、「鳥か雲ね。どっちでもいいわ」と肩を竦めた。

「あら、虹は嫌なの?」
「私は刹那主義者じゃないもの。いっそ不老不死になってしまいたいぐらいよ」
「へえ、意外」
「だってね、この世の不思議を探し尽くすには、人間の一生なんて短すぎるもの」

 なるほど、その言い分は蓮子らしい。私は笑みを漏らす。

「メリーは? のんびり屋のメリーには、雲がお似合いだと思うけど」

 蓮子に問い返されて、私は息をついた。
 答えは決まっている。たぶん、ずっと変わらない。

「私は、虹がいいわね」

 もう一度虹が見えないだろうか、と私は窓を見やりながら思う。
 晴れと雨の境界にかかる橋は、あるいは彼岸と此岸にかかる橋なのかもしれない。

「だって蓮子。虹の根元には宝物が埋まってるのよ」
「あら、随分ロマンチックなフレーズを持ち出してきたわね」

 ――あの三人は、虹の根元にある宝物を見つけられただろうか。
 そして、私の宝物は――。

「自分が虹になれば、その宝物を、ずっとすぐ近くに置いておけるわ」

 私は蓮子を見つめて、ふっと笑った。
 蓮子は少し照れくさそうにカップに口をつけて、「ロマンチストねえ」と呟いた。
北村薫や加納朋子が好きなので、ああいうのを書いてみたかったのです。
あと『三月は深き紅の淵を』は恩田陸の最高傑作だと思います。

次はもう少し蓮子とメリーの絡みを書きたいですね。
初投稿でいきなり変な作品でお目汚し失礼致しました。では。

※追記
致命的なミスが一箇所あったので修正しました。すみません……orz

※追記2
字が詰まりすぎで読み辛いので行間空け。
こんな画面の黒い話を読んでくださった方ありがとうございます本当に。
浅木原忍
[email protected]
http://r-f21.jugem.jp/
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コメント



0.4380点簡易評価
3.100点暁 削除
 作品に流れる良い雰囲気と、方向性が非常に好みの作品でした。
 連載物として次の作品が読みたくなりました。
 オリキャラにはニヤリとさせられたので、良かったです。
 なるほどなって感じです。
6.100点名前が無い程度の能力 削除
すごく面白そうな世界観。
「次」に期待せざるを得ません。
7.100点名前が無い程度の能力 削除
こういったキャラ設定好き。
10.80点名前が無い程度の能力 削除
三月は名作ですよね!
幻想郷の人々を想起させる面々が素敵でした
この世界観はいいですね~
11.100点名前が無い程度の能力 削除
なんか上手く表現出来ないけど良かった
13.90点名前が無い程度の能力 削除
良い味出てます。
設定といい、話の作り方といい、凄く好きな形。
14.100点名前が無い程度の能力 削除
雰囲気や話のつくりが、素直に面白いと感じました。
16.100点名前が無い程度の能力 削除
純粋に面白いと思いました
次回を楽しみにしています
17.100点名前が無い程度の能力 削除
話の雰囲気、キャラクター達の動き、どれも美しかったです。

惜しむらくは作中の本を私が知らないことだけですね。読んでみなければ……
19.100点名前が無い程度の能力 削除
最後のメリーと蓮子の掛け合いが最高です。
最初の蓮子の恩田陸『三月』の書評も作品に対する興味をかき立てられました。
『三月』を読んでからまた改めてこのSSを読んでみます。
30.100点名前が無い程度の能力 削除
いいなあ、これ。
現代舞台なのによく纏まってるし、読み物単体としても魅力的。

>「《遠野幻想物語》? そうね~、初めて聴く人にはあのへん人気よね~」
某所のゲーム知らない人アンケートで一位だったなあ、そう言えば。
32.100点名前が無い程度の能力 削除
秘封の二人らしい、すばらしい話でした。
38.100点名前が無い程度の能力 削除
ヤバい、こういう作品大好きです。
39.90点名前が無い程度の能力 削除
うむ、うまい。味わい深いですね。
それにしても、遠野幻想物語、良い曲ですよね
41.90点月兎 削除
良い話ですた
ちょっと含みを持たせた感じの終わらせ方、大好きですw
44.100点名前が無い程度の能力 削除
文庫を買ってからこちらを読みに来ました
オリキャラというタグで敬遠した昔の自分を殴ってやりたい
51.90点名前が無い程度の能力 削除
すごい楽しめました!
ありがとうございます。
61.100点名前が無い程度の能力 削除
蓮子とメリーの二人の距離というか、雰囲気が良く出ていて
楽しく読ませて頂きました。

関係無いですが、ライブのシーンでクライズラー&カンパニー
の曲が脳内再生されました。
64.100点名前が無い程度の能力 削除
「三月は深き紅の淵を」の書評、蓮子とメリーのかけ合い、「虹」姉妹の謎かけ、
どれをとっても面白かったです。
「三月は深き紅の淵を」を再読したくなる作品でした。
69.100点名前が無い程度の能力 削除
なぜかないた
70.100点名前が無い程度の能力 削除
良い話でした
73.100点名前が無い程度の能力 削除
えぇ。とってもいい話でした!
77.100点名前が無い程度の能力 削除
面白かったです。
78.100点名前が無い程度の能力 削除
今更ながらこの作品を知りました。
「秘封倶楽部の世界観の中に、どこかの幻想で見た事のあるようなキャラが出てくる」
こういうのツボすぎます。
設定もさることながらキャラのやり取りがああもう上手い言葉が見つからない!
とにかく素晴らしい!
85.100点名前が無い程度の能力 削除
これはいいものを読ませてもらった。
87.100点名前が無い程度の能力 削除
謎掛けの巧みさに、「すげぇ……」と思わず声に出してしまいました。
秘封の作品は色々と探して読んでいたはずなのに、この作品や、これに関連する作品を見逃していたことが悔やまれます。
ということで、ノンストップで読んできます!
93.100点名前が無い程度の能力 削除
文庫を買ってからよませていただいてますが、
本当に面白いです。
101.100点名前が無い程度の能力 削除
ぐれいと
102.100点名前が無い程度の能力 削除
これもっとpoint高くてもいいって。
いや、評価が全てじゃないんだけれども。
こんな作品があるからそそわ巡りを終われないんだよw
107.100点dai 削除
こんな世界観大好きです。
123.100点名前が無い程度の能力 削除
15年ぶりに再読しましたが、恩田陸もZABADAKもこの作品の影響でハマったことを思い出しました。中学生だった当時、本作の蓮子とメリーの会話に本当に惹かれました。何年ぶりに読んでもやはり名作です。