その日火焔猫燐は、珍しくにこにことしていた。
二本の尻尾をゆらゆら揺らし、何を言うでもなくただ満面に笑みを湛えて。
そんな燐を不審に思いつつ、地霊殿の主古明地さとりはその前を素通りして自分の部屋に入った後、燐の笑顔の理由を理解した。
それを知ると共に自分にもこんな声が出せるのか、と自身が驚く程大きな金切り声を発し、そしてどたどたと乱暴に足音を立てながら来た道を引き返す。
地霊殿全体が震えるような怒気を全身に纏いながら、さとりは燐の姿を再度見つけると一気に詰め寄った。
そして涙交じりに問う。
「り、り、燐! いいい一体あの惨状は何なの!? 説明しなさい!」
「嫌だなぁさとり様。そんな泣く程のものじゃないですよ。幾ら嬉しくったってオーバー過ぎですって」
そう言って胸を張る。
一方さとりは嬉しいぃぃっ!? と半ば裏返った声で叫んだ。
「あれの何が嬉しいのよ!? そんな……そんな、死体を飾り立てるだなんて、そんな悪趣味なもの!」
そう。
さとりの言う通り、彼女の部屋のそこには無数の死体が並べ立てられていたのである。
しかもご丁寧にショーケースにまで入れられて。
日頃のペットたちの不可解な言動にはもうすっかり慣れていた筈のさとりだったが、しかしここまでのものは流石に初めてであった。
何をどう考えても性質の悪い悪戯なのに、それを咎められても構わず寧ろ嬉しそうにする彼女の心情が、さとりにはどうしても理解できない。
本当にどういうつもりなのか測りかねていたところ、ふとさとりの頭に猫のある特殊な習性が思い浮かんだ。
――猫は飼い主の元へ、どうしてか虫や小動物の死骸を持ってくる。
その理由は諸説あったが、さとりの知っているのは褒めて貰うため、という理由だ。自分はこんなのを獲ってきたんだよー、凄いでしょー、褒めて褒めてー、と。
そして燐の瞳には、そんな期待の籠った輝きが秘められていた。
ぞっとする。
価値観倫理観が違っていることは分かっていても、やはりどうしても受け入れられない。ましてや人間の死体ばかりなのだ。人を日常的に食らうような妖怪ならまだしも、覚りは精神を食らうまだ人間的側面の多い妖怪なのだ。そうでなくとも死体ばかりぞろぞろと並べられては気持ち悪い。この価値観のずればかりは、流石にどうにもならなかった。
またあれだけの死体を運んでいるのなら、間違いなく他の地底の妖怪たちにその姿を見られているだろう。元より地霊殿に妖望などなかったが、だからといってさらに悪い噂をバラまかれてもたまらない。余計悪いイメージを広めてどうするのだ。動物はそんなことも分からないから困る
さとりは酷く苛立った声で燐に静かに告げた。
「……今すぐ片付けなさい。今すぐによ」
「え? なんでですか?」
期待に満ちた瞳が、やや失望の色に染まる。
「なんでですって? あんな気味の悪いモノ、持って来られる方が迷惑よ。私が喜ぶとでも思ってるの? 全く、変な思い違いをして……」
そころでさとりは言葉を切り、ふと燐の方を見る。
燐は顔を紅潮させ、ぷるぷると震えていた。
目には涙まで浮かべている。
そして、
「――さとり様の馬鹿ぁっ!!」
そう叫ぶなり、玄関へと駆け出す。
燐の足は速い。さとりでは幾ら頑張っても追い付けないくらい。
見る見るうちに燐の黒い体は、豆粒のように小さくなっていった。
地上へ出てきた燐は、しかし行く当てもなくただ途方に暮れていた。
何も考えずに勢いだけで飛びだしてきたのだ。そうなるのも必然である。
「……神社にでも、行こうかな」
一人呟く。
山の麓の博麗神社。以前燐がお空を助けたいがために怨霊を地上に送り出した件で、異変解決のエキスパート博麗霊夢と繋がりができたのだ。それ以来たまに餌を貰いに行くこともあった。
あそこだったら、事情を話さずとも数日くらいは匿ってくれるかもしれない。
というより、他のツテがなかったのだ。地上との繋がりは元々薄く、知り合いと言えばその巫女の他に黒白の魔女ぐらい。更に後者の家がどこにあるかは知らず、必然的に巫女のところへ転がり込むしかなかった。
最終手段は地霊殿に戻ることだが、やはりあんなことを言った手前戻ることは難しい。何より燐自身がまださとりを許せなかったのだ。
そりゃ私が悪いかもしれないけどさ、だからってあんなに怒ることないじゃないの。悪気もあったわけじゃない。寧ろ好意でやったんだ。なのに、あんな言われ方されちゃ流石の私だって怒るよ。
思い出すだけでも頭が沸騰しそうだ、と慌てて他のことに考えを移し、オーバーヒートしかけた頭を冷却する。
「ま、まずは行くだけ行ってみるかな」
気分を真っ新にし、鼻歌を歌いながら燐はのんびりと博麗神社へ向かった。
「理由は?」
「あ、やっぱりそれは聞くんだ」
座布団の上にちょこんと正座し、尖った耳を萎れさせ、上目遣いで燐は尋ねた。
霊夢は煎餅をバリっと一口含んでから言う。
「別に言わなくても良いけどね。一応よ一応」
「うん。そう言ってくれると助かるよ」
お茶を啜る燐。
しかしまだ熱かったようで、慌てて湯呑を卓袱台の上に戻した。
苦々しげな顔をして、舌を少しだけ出している。
それを見た霊夢は、頭の片隅でやっぱり猫は猫舌なのかななどとどうでもいいことばかり考えていた。
そして霊夢はよっこらせと立ち上がり、部屋の隅に畳んで置いてあった割烹着を手に持つと燐の方に振り返る。
「ご飯食べてくでしょ? いつも通り残飯? それとも普通のお夕飯?」
「んー……そだね、折角だから普通のご飯を頂くよ。お姉さんの手料理、美味しいしね」
「図々しいわね」
そう言って台所の方へ向かう。なら聞くなよと心中で突っ込む燐であったが、わざわざ贅沢な方を選んだのは確かなので文句は言えない。燐は元来猫であり、体躯相応の餌でも満足はできるのだ。そこをわざわざ人間形態を取って御馳走になろうと言うのだから、これは確かに頭が上がらない。
しかし霊夢の料理が美味であることは事実。できることなら量一杯に頬張りたいと思わせられる出来だ。故に燐がその選択を取るのも無理はなかった。
と、燐は勝手に頭の中で結論付けた。
部屋の中に一人だけになった燐は暇を持て余し、周囲をじろじろと挙動不審なくらいに見る。
殺風景なことこの上ない。座布団と、箪笥と、それと幾つかの生活用品が転がっているくらいか。年頃の少女が生活している部屋にしては、あまりにも簡素であった。
せめて読み物でもあれば多少の暇は潰せるのだけれど、と尚も見回していると、ふと一部の新聞が乱雑に置かれているのが目に留まった。
ずずと膝行し、それを拾い上げ上部に大きく書かれている文字を読む。
「ぶんぶん……まる、しんぶん?」
文々。新聞。
初見では読み辛いことこの上ないが、紙上ではちゃんと振り仮名が振ってあったので燐にも読むことができた。
無論最速の天狗、射命丸文の発行している新聞である。不定期に発行されるこの新聞は、いつもいつの間にやら文が神社の中へと投げ込んで行くのだ。霊夢もそう細部まで読むことはなく、軽く目を通す程度に留めて後は適当に投げ捨てる。料理の後片付けの際、油取りとして使えるので捨てずに取っておいてあるだけだ。
しかし今の燐には、暇をマッシュするための恰好の道具であった。
文字を一つ一つ、たどたどしくも確実に読んで呑み込む。
内容はどうしようもなく下らない。例えば氷精が里で冷凍サービスを始めたとか、古明地こいしちゃんファンクラブ設立とか、河童が川で溺れたとか。中には下世話なものまである。如何にも娯楽のために書かれたような記事であった。
今まで本と言えば「お魚図鑑」ぐらいしか読んでこなかった燐にとって、この新聞は新鮮な衝撃だった。写真も幾らか載ってはいるが、それを呑み込む程の圧倒的な文量。これだけの文字を、一体何に費やしているのかと思えばそこに書かれているのは小咄染みた小さな実話の集合体。しかも面白くないわけでもないため、暇潰しを忘れて次第に熱中してしまうのも無理はなかった。
そうして読み進めている途中のこと。
「……ん?」
見慣れぬ横文字が、ふと燐の目に飛び込んできた。
燐の興味はすぐにそちらに移り、見出しへと視線の先を向ける。
「――アイドル、アルティメイト……?」
聞いたことのない響き。
一体何なのだろう。その答えはきっと先にある筈。そう思い急ごうとした時、
「こんにちはー」
縁側から聞こえてきた声に、燐は手を止めざるを得なかった。
さらさらとした金色のショートカットに、ビスクドールのように端正な顔立ち。耳に心地良いその声は、美しくどこまでも透き通っている。
七色の魔法使いアリス・マーガトロイドは、とめどなく流れる汗を手巾で拭いながら愚痴を零した。
「全く……何だってこんなに暑いのかしらね。夏なんてなければ良いのに」
「その服のせいじゃない? 如何にも暑苦しそうだし」
「家にいる時は何ともないのよ。だからそのまま来たんだけど……迂闊だったわね」
ぱたぱたと手で仰ぐ。
アリスの家は魔法の森にある。魔力に満たされたそこに入ると、ひんやり肌寒くすらある。そんなところに毎日住んでいても、自然と体は順応する。故に夕方になり健康的な生活を送っている霊夢たちには過ごしやすい気温になっても、アリスにとってはまだ暑く感じられてしまうのだ。
無論、その人形のような装飾にこだわった服装も原因の一つではある。
「で?」
「何が?」
「あんたがここにわざわざ来るなんて珍しい。何か理由があるんでしょ? さっさと本題に戻りなさい」
霊夢の問いにアリスはこくりと頷き、すっかり冷め切ったお茶を一口飲んでから言った。
「じゃ言うけど……例の大会、参加者の数が合わなくてね。あと一人見つかれば足りるんだけど、なかなか誰も……。シードを入れても良いけど、折角なんだしなるべくそういうのは少なくしたくて。あんたはどう?」
「あぁ、それね。今年もやるのかとは思ってたけど……あんまり関心はないわ。悪いけどパスで」
「まぁ、そんなことだろうと思ってたけど……仕方ないか。
そっちの猫さんはどう?」
びくりと燐は体を跳ねさせる。まさか自分の方に話が来るとは思っていなかったからだ。
それよりも、アリスとは面識がなかったのに話し掛けられたことの方が驚きだったのだが。
「何の話なのかはよく分からないけど……それより、私はお姉さんの名前の方が知りたいな」
「あら? 名乗ってなかったかしら。ごめんなさい。
私はアリス・マーガトロイド。魔理沙の持ってた人形で通信していたから、貴女のことは知っているわ。
えーっと……お燐、さん?」
燐はこくりと頷く。
人形で通信、辺りの件はよく分からなかったが、人形を持っていたこと自体は記憶に残っている。恐らくそれでどうにかして自分のことを見ていたのだろう、と燐は解釈した。何より自分のあだ名を知っているのだ。疑う必要もあるまい。
燐も改めて名乗り、互いに本名を知った後で燐は再度何の大会なのかを尋ねた。
「えーっとねぇ……簡単に言えば、人形を使って演技をするのよ。内容は何でも良いわ。人形劇をするでも良し、人形を美しく着飾らせて観客を魅了するも良し。とにかく人形の魅力を引き出してくれれば、後は何をしても構わない。ただ、貴女の技術とセンスが問われるわ。
主催は私で、名前は“アイドルアルティメイト”っていうんだけど……知らない?」
燐は耳をピンと立たせる。
それまでは話半分に聞いていたが、一気に興味が湧いてきた。燐は名前だけなら、と首を縦に振り先を話すよう促した。
燐の態度の豹変ぶりに少々気圧されながら、アリスは話を続ける。
「それで、大会の形式はトーナメント制。一対一でどちらの演技がより素晴らしかったかを観客に判定して貰って、得票数の多かった方が勝ち。勿論ずっと同じ内容だと皆も飽きるでしょうから、その都度内容も変えなきゃいけない。他の参加者と内容は被っても良いけど、でもそれなら相手より更に素晴らしい演技をせざるを得なくなる。それも考えものね。
そうして勝ち進み、優勝を手にした者――その人こそが、たった一人のアイ(され)ド(ー)ルマスターの称号を手にすることができるの!」
アリスは感極まって立ち上がり、すっかり陶酔した声で歌うように高らかに宣言した。
二人はドン引きである。
しかし、と燐は考える。さとりは燐の大事なゾンビのことを気持ち悪いと評した。だがそのゾンビでもし、この大会を勝ち抜き優勝することができるのであれば、それこそゾンビであっても好かれることはできるということの証拠足り得るのではないか。未だに腹の虫はおさまっていない。たった一度でも謝ってくれれば、認めてさえくれれば、それで全ては丸く収まるかもしれないが、きっとそれはないだろう。なら、否が応でも認めざるを得ない確固たる証拠を突き付ければそれも叶うのではないか。優勝することはつまり、その人形=ゾンビを皆が好きになってくれたということなのだから。
面白い。やってやろうじゃないか。
燐は立ち上がり、くるくると回っているアリスの手を握り、しっかりと目を見つめて言った。
「分かった。私も参加するよ!」
「本当!? なら決まりね。
駒は出揃った! 貴女の健闘を期待しているわ!」
ぎゅっとアリスは燐の手を握り返す。
燐は更に握る力を強めることで、そのアリスの行動に返した。
一見熱い友情が芽生えたかのようなこの場面を、霊夢はただ一人横目で冷ややかに見る。
――そう言えばこの子、人形なんて持ってたかしら。
そんな疑問を頭の内に持ちながら。
事実燐はそんなものは所持していなく、お得意のゾンビを用いて出場しようとしていたのだが、それがアリスに分かるのはもう少し先のことである。
一方地霊殿。
平時とは明らかに違って焦燥した様子のさとりが、どういうわけか忙しなく部屋の中をぐるぐると回り続けていた。尋常ではない。
心配に思ったペットたちは外からさとりに呼び掛けてみるも、全く反応は返ってこない。それもその筈、今のさとりの脳内には燐のことが溢れ出る程に一杯詰まっていたのだから。
そう、他のことなんか考えていられない程さとりは燐のことで思いつめていた。何しろ今日のような喧嘩を、ペットとすること自体が初めてなのだ。結果燐は飛び出して、もう遅い時間だと言うのに全く帰ってくる気配がない。正真正銘の家出だ。
今までも何日も帰って来なかったことはあったが、今回のような喧嘩別れでは決してない。それだけに常に不安が付きまとっていた。
あぁ、こんな思いをするなら当たり散らすんじゃなかった、とさとりは後悔する。
あの時は無性にむしゃくしゃしていたのだ。その上初めてのこと。平然を装ってはいたが、内心はかなり動揺していた。
そんな時に追い打ちをかけるような燐の行為。いつもなら笑って済ませる程度のことなのに、どうしてか激昂してしまった。思い出すだけでも赤面してしまう。
今すぐ探しに行きたいが、しかしさとりには他のペットたちもいる。皆を放って燐のことだけを気に掛けている暇はないのだ。会って色々言いたいのは山々だったが、環境がそれを許さなかった。
と、そこで扉の向こう側の数々の動物たちの声が耳に入る。さとりは慌てて扉を開き、主人たらんと凛とした声で告げる。
「ごめんなさい、少し考えごとをしていて……すぐにご飯を作りますからね。後もう少しだけ待って頂戴」
そして、頬を少し赤らめると、
「今日のお夕飯は、赤飯ですよ」
そう付け加えた。
次の日。
ぽかぽかとした陽気の中で惰眠を貪ろうとしていた燐は、霊夢から今日が大会当日だと聞くと驚き眠気が全て吹き飛んでしまった。
しかし考えてみよう。開催まで日がなかったからアリスは焦っていたのだとすれば極々自然ではないか。寧ろいつ開かれるのかを聞いていなかった燐の方が注意が足りなかったとすら言えよう。
まぁ、翌日だと言うのにそのことを伝えなかったアリスの方に非があると考える方が妥当だが。
燐は急いで白飯と焼き鮭をかっ込む。時折むせながらも、水で喉につっかえたものを流し込んで無理やり詰める。
五分も掛からずに全て平らげ、ごちそうさまと挨拶をすると燐はすぐに神社を飛び出した。
まるで台風のようだ。
てってこてってこと走り去る燐の後ろ姿を、霊夢は呆れ顔で見送る。
「朝から元気だこと……さて、私はいつも通りにお勤めね」
やや欠伸混じりに、一人呟いた。
燐は走る。
先程食べた朝食がリバースしそうな気がしないでもないが、そんなことで休んではいられない。頭上に昇った太陽は遥か彼方。夜が明けてから大分時間が経っているのが分かる。
結局何時から始まるのかも燐は聞いていなかったため、のんびりしていると時間切れにより不戦敗になってしまうかもしれないのだ。折角出場するのだからそれだけは何としても避けたい。ましてや、寝過しただなんて間抜けた理由なのだから。
会場は人間の里。目的は人間たちにもっと人形のことを知って貰い、愛して貰おうというものだから妥当ではある。アリスの説明からすると、大会の現状はその目的からはやや外れているような気がしないでもないが、一応興味を持って貰ってはいるようだからまぁそう問題視することもないだろう。
となるとゾンビはギリギリどころか完全にアウトと思われるが、そんなことは全く燐は考えていなかった。猫も鳥に負けず劣らす、考え自体は浅いのである。
さて、息を切らした燐が里に入ると、大通りの一角が人人人の人だかり。どこでやるのか詳しい場所は知らずとも、一目で分かる盛況ぶりだ。
その勢いに燐は危うく呑まれ掛けるが、何とか自分を見失わずに、気後れせずに人ごみの中に飛び込んだ。
前後左右あらゆる角度から押され揉まれて潰される。窒息しそうな空間の中で、それでも燐は前へと進む。
我慢が限界点に触れようとした時、漸く燐は人山から抜け出すことができた。
「ふぃー……予想以上の人気だね。死ぬかと思った」
息を大きく吐き安堵する。
しかし休んでばかりもいられない。きょろきょろと辺りを見回し、何やらおろおろと落ち着かない様子のアリスを見つけると、燐は迷わず駆け出した。
向かう途中でアリスも燐に気付いたようで、ぱぁっと顔を輝かせて燐を出迎える。
「あぁ、良かった! どこを探してもいないから心配したわ。もう貴女の番なのよ、ほら」
言ってアリスは横にあるステージを指差す。観客全員が注目しているその先には、アリス同様柔らかそうな金色の髪を持った可愛らしい少女が、スカートの両裾をつまみ上げてぺこりとお辞儀していた。
「かっ、可愛い……っ!」
燐は両手を赤く染まった頬に当て、感嘆を込めて言う。
生憎と地底にはあのような小動物的可愛らしさを持った存在は少ない。少女趣味を持っていたとしても、その欲望を満たし発散させる機会が決定的に不足しているのだ。そんな中での彼女との出会いは、燐にとって運命というべき必然性を感じさせた。
アリスも深く頷き、燐の言葉に賛同する。比較的大して動じていないように見えるが、瞳だけはきらきらと輝いている。恐らく初対面の時には燐と同等、もしくはそれ以上の感動を彼女に与えたであろうことが微かに感じ取れた。
しかし、すっとアリスは目を瞑って、でも、と続ける。
「あの子、人形よ。その上貴女の対戦相手」
「…………え?」
燐の動きがぴたりと止まる。
「言ったでしょう? 貴女の番はもうすぐだって。はいスタンバイ。壇上に上がって。応援してるわ」
そっけなく一気にまくし立てるとアリスはぷいと横を向く。
「ちょ、そんな、あんなのに勝てるわけないじゃないのさ!? 本人が人形だってんでしょ? 無理無理無理無理カタツムリ!」
「なら、不戦敗?」
アリスの言葉に、冷たい響きが混じる。
「出場するからには優勝を狙う。貴女もそのつもりじゃなかったの? だからここまで息を切らしてまで、必死に走って来たんじゃないの?
貴女が寝過したことくらい、その焦った表情を見れば誰でも分かるわ。それだけやる気があるって言うのに、もう諦めるわけ?
馬鹿にしないで。そんな軽い気持ちで、私は貴女を誘ったわけじゃない。それは貴女も同じの筈。なのに、もう心変わりするって言うなら……今すぐ帰って。そんな奴に、この大会に参加する資格はない」
「っ…………」
「……辛く当ってごめんなさい。でも、私たちは真剣なの。人形を愛するがこそ、それだけ必死になれるのよ。
だから、貴女も必死になって。もし勝てないと思ったとしても――絶対に、無理だなんて言わないで」
それは、アリスの本心だった。
人形を愛すればこそ、愛するが故に自らの生涯を懸けて人形道を究めんとしているのだ。その情熱は並々ならぬもの。だから、自分以外の誰かが人形を貶めるような――どうでもいいと投げ捨てるような態度が、どうしても許せない。
自分の価値観を他人に押し付けてはいけないと、アリス自身も分かっている。だからこそ平時は抑えているのだが、今日のような祭典に、それも出場者自身が気弱な発言をしているのを聞いて、どうしても抑え切れなかったのだ。
それが燐にもひしひしと感じられる。この上ない悲しみが、心を覆っていくのが分かる。
そんな心情を知ってしまった後で、どうして引き下がることができようか。
燐は意を決し、顔をスッと上げアリスの瞳を覗いた。
青い青い、瑠璃玉のように透き通った瞳だった。
「――分かった。一度決めた以上、私もベストを尽くすよ。それに優勝しなきゃならない理由もあるしね。一回戦なんかで負けてらんない。
……じゃ、行ってくるよ」
それだけ言うとステージの方を向いて、一度も振り向くことなく壇上へと続く階段へ向かう。
その後ろ姿を見て、アリスは懐からマイクを取り出し小指を軽く立てて言った。
『――さぁ! 甘い毒香、メディスン・メランコリーでした! 思わず言葉を失ってしまう程の可愛らしい演技でしたね!
さて、第一予選トリを務めるのは土壇場での飛び入り参加、火焔猫燐! 彼女はいったいどのような世界を私たちに魅せてくれるのでしょうか?
それではどうぞ!』
観客からの拍手の渦の中で、燐は一段、また一段とゆっくり階段を上る。
たった数段しかないその階段を、拍手の鳴り止まぬ内に上り切り、体をぐるんと回して里人たちがいる方へ向いた。
見渡す限りの人の山。黒い点が密集しているのを見て、燐は初めて自分がどこに立っているのかを自覚し赤面する。
柄にもなく上がっていた。
それを自分でも分かっているから尚更恥ずかしい。ますます赤くなり、今にも倒れてしまいそうになる。しかしそこを持ち前の精神力で何とか意識を保っていた。
じっとこらえ、集中する。
――あそこにいるのは人じゃないみんなみんなカボチャだカボチャカボチャカボチャカボチャぁぁぁあああっ!!
自己暗示だった。
しかし効果は覿面だったようで、ふらついていた足元が安定性を取り戻し、しっかり地面を踏みしめることができるようになる。
これなら、いける。
燐は左手の人差し指だけを立て、手の甲を見せつけるように天高く掲げる。
そう、さながら彼女の親友霊烏路空のように。
そして、
「カッモーン! 私の愛しいお人形さん!」
宣言した。
すると、里中の地面がみしみしと軋み始める。
何が起こっているのか分からない里人たちは右往左往するが、燐は至って動じていない。いつものことだからだ。
地鳴りが響き、地面がひび割れ、鼓動する大地。最早一帯はパニック状態である。
そうしてすぐに全ての現象が収まり始め、得体の知れない力が縮小すると、突然、
ボゴォッ!
と、一斉に地面の中から何かが飛び出した。
肉はすっかりこそげ落ち、ところどころ骨が見え、ほんのり腐臭をまき散らす。
それでも外見は正しく妖精。
つまり、ゾンビフェアリーであった。
燐は勝ち残った。
一体何が起こったのか、本人でさえ分からなかった。途中で気分が高揚した結果悪ノリし、何人かの観客に襲い掛かりさえしたと言うのに、だ。その上大差がついていた。
嬉しく思う以前に、どうにもおかしいと首を傾げる燐であった。
里人にホラー好きが多かったのか、それともネクロフィリアの類が多くいたのか。
一番尤もらしい理由は、里人たちは刺激を求めていた、というもの。確かにあり得ない話ではないが、明確な答えが出る筈もない。
一体どういう理由で彼女に投票したのかは定かではないが、折角勝ち残ったのだしと取り敢えず良しとして燐はその勝利を快く享受した。
最も問題があるかのように思われた、“ゾンビが人形であるか否か”は主催者のアリスによって良しとされた。
実際人形がどうこうという話は既に形骸化しており、それ程重要視はされていないらしい。人形さえ用いれば大概のことは見逃される。また、主催者の意見次第で大会ルールも引っ繰り返ってしまうことすらあるらしい。何とも杜撰な“ルール”だったが、そのユルさ加減も醍醐味の一つか。
ではゾンビはどうなのかというと、確かに倫理上に些か問題はあれども、人の手によって操られあたかも意志を持っているかのように見せる行為は人形遣いのそれと何ら変わりない。多少腐っているがまぁ外見的にも人形とそう大した差はない。自立行動を取らず、他者の意思によって操られる人の形を模した有機物。そう考えると、このゾンビフェアリーも確かに人形なのだ。
最終的に“そっちの方が面白そう”というアリスの一言で、全ての議論は終決した。
さて、予選が終わったところで一度昼食休みとして大会は中断され、参加者には弁当が配られた。アリスが人数分、せっせと丹精込めて作ったもののようで、彼女らしい細やかな気配りがそこに見られる。
その弁当を食べようと、控室とは名ばかりの、単なる舞台装置の裏の暗がりで燐は骨格の木材に腰掛け包みを広げた。
「お、おおう……」
思わず声を上げる。
というのも、中に詰まっていたのは人形を模ったおかずだったからだ。食材の持つ天然の色を上手に活かし、且つ食べ合わせが悪くならないよう見栄えばかりでなくその組み合わせにも工夫が見られる。一体どれだけの手間がかかったのか、想像するだに恐ろしい。
諸々の背景を鑑みると、気が遠くなりそうだった。
しかしそれだけ人形のことが好きなわけで、そうでもなければこんなことはとてもではないが面倒臭くてできないだろう。加えて自費である。
アリスの深い愛情に燐は感謝しながら、右手に箸を持って元気良くいただきますと挨拶した。
はもはもと白飯を頬張っていると、ふとこんな会話が耳に入った。
「……だからさ、こう、もうちょっと写真とかさぁ」
「どうやって? 普通じゃ撮れないんだぜ。こっちが虚を突くなんて殆ど無理な話だし」
何の話だろう?
燐は耳をそばだてる。
「あー! くそっ、こんな思いするならあん時子供らしく素直に付き合ってりゃ良かった!」
「お前ガキん頃からロリコンかよ……真性じゃねえか」
「てめーに言われたくねー」
あぁ、なんだ、ただの危ない人たちか。
結論付けて、昼食に戻ろうとする。
その時だった。
突然、どちらかと言えば冷静な方の男が叫び出したのは。
「うあぁぁぁぁ! こいしちゃんとちゅっちゅしたいよぉぉぉぉぉ!」
「うわバカ、こんなところで発作起こすなよ!」
「こいしちゃーん! こ、こーっ、コイイーッ!! コイーッ!!」
その場にしゃがみ込み、駄々をこねるように手足をジタバタとさせて喚く。
もう一方の男は、錯乱状態の男を担いで走り出した。
妙な奇声は段々と遠ざかって行く。恐らくあの新聞に書いてあった、“古明地こいしちゃんファンクラブ”なるものの会員の方々だろう。言動が如何にも、というかそのままであった。
だが、燐は。
体をぶるぶると震わせ、首を横にイヤイヤと振っていた。
……何でだろう、何故か、
嫌な予感がする。
もしかしたら――
――ううん、そんなことない。もしそうだったら、きっと先に気付いている筈だもん。そうだよ、気のせいだって。
自分を励まそうとするが、依然として唇は震えたまま止まることはない。
全身に怖気が走る。
それを打ち消すために、燐はご飯を食べることに全力を注ぐことにした。
一気に白飯を口の中に詰め込む。
「……ゲホッ! ゴホッ!」
むせた。
弁当を食べ終わり後半戦。燐は何とか勝ち続けていた。
ここからは休憩なしにすぐに次の試合に移るので、勝ち上がる毎に休める時間が短くなる。しかもその中で次の自分の演技の構成も考えないといけないので、これがまた大変なのである。
燐も一度ならず時間切れとなり考えが纏まらない内に壇上に上がったことがあった。しかしそこで持ち前の機転を駆使し、切れ味の冴え渡るアドリブで切り抜けたのだ。
徐々に高まる会場のボルテージ。それに煽られアリスの実況もヒートアップする。そうなれば自然と参加者のテンションも上がるわけで、燐などはもう次の自分の出番が待ち遠しくて仕方がなかった。
ああ、次はどんなお人形さんが出るんだろう。楽しみだな、ワクワクするなぁ。早く私の番にならないかな、ドキドキ。
そう胸を高鳴らせていると、スタッフの一人が彼女を呼び出した。
はて、と燐は首を傾げる。
現在の大会の状況は準決勝第二試合前半。つまり燐の対戦相手がステージに上がっている筈なのだ。まだ私の出番ではない、とそう説明すると、スタッフも困った顔をしてこう返した。
「と、言われましても……その貴女の対戦相手が、貴女を名指しで呼んでいるんです。火焔猫燐を連れて来い、と」
ますます意味が分からない。
確かに勝ち進んではいるが、それは相手も同じである。それに一回戦こそ大量に票を獲得したが、二回戦以降はそうでもない。寧ろギリギリなくらいである。危険視される覚えもない。先に相手をじっくり見極めておこう、という考えはどう考えてもなかった。そもそもそんなことを考えるのであれば、出番の来る前に燐を観察している筈である。よってこの線はない。
となれば個人的な理由くらいか。そう、例えば知り合いとか。
しかし燐の記憶が正しければ、見覚えのあるような顔はアリス以外にはいなかった。ならばこの線もなくなるが、ならどういう意味なのだろうか。燐には判断がつかなかった。
眉を八の字にして待っていたスタッフに声を掛け、こくりと頷く。
分からない。分からないのなら聞くまでだ。行けば分かる、なら行こうじゃないか。
燐はセットの暗がりから出て、ゆっくりと階段へ向かう。
端の観客が燐に気付き、どうしたのだろうと首を傾げる。その疑問はまるで伝染するかのように、燐が段を上る度に右から左へとどんどん広がって行った。
台本を確認していたアリスはそこで漸く異常に気付き、慌てて足を進める燐に駆け寄る。
『……お、お燐……さん? まだ貴女の出番じゃ……』
「あ、来た来た。こっちこっちー!」
が、その声を壇上にいる対戦相手がかき消す。
燐はびくんと肩を震わせた。
「……その声、は」
「ん、何? よく聞こえない」
またも言葉を遮る。どうやら自分の言いたいことを先に言う癖があるらしい。
その癖が、余計彼女を思い出させる。
こつこつと靴音を鳴らし、対戦相手は燐の方へ近付いてくる。
「ほら、早く。こっち来てよ」
まただ。
あまり長くは待つことができない、如何にも子供っぽい悪い癖。
何故、と思う前に、彼女の頭の中は混濁していた。
ほら、と尚も急かす声。嫌な汗が背中を伝う。呼吸が荒くなり、瞬きの回数が増える。
そして燐は徐に、伏せていた顔を正面に向けた。
視線の先には。
「やっほー。元気してた? 奇遇だねー、私もびっくりだよ」
「なんで……ここ、に……、っ」
愕然とする。
そこにいたのは、やはり予想通りの人物だったからだ。
「……こいし、様」
やっとの思いで燐は喉から声を絞り出す。
彼女の言葉に応えるように、古明地こいしはにこっと笑った。
古明地こいしと火焔猫燐の確執は、凡そ七十年に渡る。
そう、燐が火車となり地底へ封じられた頃からの話だ。
人間に疎まれることで心が荒み切っていた燐は、さとりに拾われてもなかなか懐けずに独りで過ごしていることが多かった。
そんな時のことだ。
さとりの妹、第三の瞳を閉じた覚りならぬ覚り古明地こいしと出会ったのは。
彼女は人見知りすることがない。どちらかというと自分から進んで関わろうとするタイプの性格で、それは常に単独で行動する燐に対しても同じだった。
「ねぇねぇ貴女」
「…………なんだいアンタ。私に話し掛けるんじゃないよ」
ぞんざいに返す燐。
それに対してこいしは、笑顔で燐の頭を全力で引っ叩いた。
カクンと項垂れ意識を失った燐の体を、こいしはずりずりと引きずりながら自分の部屋へと連れて帰るのだった。
それから始まった、辛く長い日常。
こいしはただの触れ合いだと言うが、燐自身にはどうしても折檻だとしか思えなかった。付き合えば一時間後には間違いなく地に伏している。遊ぼうと呼び掛けられる度に身をビクンと震わせ、逃げ出そうとするも敢え無く捕まり毎回同じように酷い目に遭わされるのだ。
無邪気な子供の、残酷な一面であった。
その体験は彼女のトラウマとなるには充分で、いつでも燐の心を蝕み侵して行く。
そうして摩耗して行くばかりの燐にいつでも優しく接し、受け入れてくれたのが古明地さとり。自然と燐も彼女に懐き、以来地霊殿の仲間として日々を過ごしているのだが――
しかし、こいしだけはどうにも受け入れ難かった。
過去の行為が恐怖として彼女の脳髄に刻み込まれているからなのか、こいしが幾分成長し無理に遊ぼうと言わなくなった今でも拒否感は薄らぐことがない。今も逃げ出したい気持ちでいっぱいである。ただ足が竦み腰も抜けそうになって動けないだけなのだ。そういう状況に置かれなければ、燐はすぐにでもそこから逃亡していた。
天敵を前に生唾をごくりと飲み、そこではたと気付く。
どうして、こいし様がここにいるって気付かなかったんだろう?
こいしがベスト4の内の一人なら、必ず一度は目にしている筈。なのに燐は気付かず、こうしてここまでのこのこと上ってきてしまったのだ。知ってさえいればそんな誘いには、いやそもそもとうに逃げ出してその場から姿を消していたことだろう。無条件敗退は惜しいが、自分の身の方が余程大事である。背に腹は代えられない。
そんな疑問が頭を支配していると、こいしが何かに気付いたようにあぁ、と小さく呟いた。
「それはね、お燐。貴女が私に気付かないよう、意識と無意識の境界をちょいちょいっと弄っていたのだよ」
「弄って、って……な、何のためにですか?」
「お燐をびっくりさせるために」
そりゃびっくりだ。
確かに驚いた。これ以上なく、全く予想もしていなかった形で彼女と出会うとは。
気分は最悪である。
しかし燐は気付いているべきだった。注意深くしていれば、自分の他のもう三人の内の一人の顔を、はっきりと思い出せないことが分かった筈。そして燐はこいしの能力を熟知しており、こいしがよく地霊殿を抜け出し地上へ遊びに出掛けていることも知っていたのだ。この二つの接点さえ分かっていれば、自ずと答えは見えてくる。疑う余地は十分にあるにせよ、見抜ける機会が幾度とあったのにそれを全て見逃した自分が恨めしい。
燐は自らの愚かさを呪った。
そしてはっと気付く。
「……もしかして、こいし様。……貴女、私が勝つように仕組んでませんでしたか?」
「あれ。知ってたの?」
極々当然のことのように返すこいし。しかし周囲の者は違った。
知ってたって? それじゃ本当に、あの子がそんな不正をしたってこと? 何だとそりゃいかん、今すぐやり直せ。成程確かにおかしいと思ってたのよね、あんなに票が入るなんて。何やら知り合いみたいだし、もしかしてグルだったんじゃない? そうだそうだ、それにあの子も同じ手で勝ち上がってきたんだろう。汚いなさすがこいしきたない
観客の疑念は膨らみ、次第に二人を貶める内容へと発展して行く。が、そんな数々の声に待ったが掛かった。
いや待てこいしちゃんがそんなことするわけなかろう。きっと何かの間違いだよ、うん。第一お前らだって見ただろう、あのこいしちゃんの素晴らしい演技の数々を! おう! 見た見た! 不正なんかあるもんか! こいしちゃんこそ正義、こいしちゃんこそ真理! うおおおおこいしちゃんバンザイ、こいしちゃんバンザーイ!
古明地こいしちゃんファンクラブの方々であった。
両者の間に確執が生まれ、今にも暴動が起きそうな雰囲気が漂う。それをアリスが必死に宥めようとするが、あまり意味はないように見えた。
そんな周りの騒ぎにもまるで目をくれず、更にこいしは続ける。
「いやぁ、やっぱりお燐と戦ってみたかったしね。でもお燐、人形とか持ってなかったでしょ? それじゃ一回戦も勝てないと思って、ちょっと細工をしようと、ね。
……でも、そんなのは杞憂だった。貴女の演技を見て確信したわ。私の能力なんか行使せずとも、きっとお燐ならここまで勝ってくれるって。結果はほら、私の期待通り貴女は勝ち残ってくれた。本当に素晴らしいわ。
あ、勿論私は普通に自分の実力だよ。だって負けないと思ってたし。ま、それがどんなものかはこれから見て貰うとして……
というわけでー、私は何にもやってませーん! 心配掛けてごめんねー!」
こいしはくるっと振り返って、観客席の方へ向き叫ぶ。
その言葉に呼応するかのように、うおおおおお! とか俺はこいしちゃんを信じてたよー! などの声があちこちからこいしに向けられる。
まるでアイドルだ。
結局不正は行われていないと分かり、疑っていた人々も殺気立った雰囲気を抑える。それまで必死に暴動を未然に防ごうとしていたアリスは、群衆の怒りの熱がすっと引いていったのを感じふうと額の汗を拭った。
そしてこいしは燐の方に向き直り、不敵に笑いながら言う。
「それじゃあ、お燐には特等席――私の隣で相手をして貰うよ。私がどんな演技をするか、しっかりその目で見て、それから――
ちゃんと付いてきてね」
言うが早いがこいしは燐の手を取り、強引に引っ張る。
急な動きに対応できず、燐は体のバランスを崩し掛け大きく前につんのめった。
が、倒れる前にこいしがその華奢な体を抱き止め、どこか妖艶な雰囲気を伴った笑みを浮かべて耳元で優しく告げた。
「おっと危ない。さぁ、私のリードに身を任せて――余計な力は入れないで、行くよお嬢さん」
その言葉を切っ掛けに、こいしの演技は突然始まったのである。
一歩右に踏み出し、たたん。
一歩後ろに退いて、たたん。
動きは決して鈍重ではなく、しかし速いわけでもない。ゆったりとした体重の移動に、燐は全く力を入れることなくただ身を任せていた。
こいしは目を瞑り、まるで風に流されるが如く体を揺らし踊っている。
音楽なんて流れていないのに、まるでクラシックをバックに踊っているかのような優雅な動き。
一緒に踊っていながらも、しかし燐はこいしの身のこなしに見蕩れ心酔していた。
ふわふわした感覚。自分なのに自分のようでなく、どこか他人事のような、それこそ観客席から演技を見ているような、そんな気分。
それも間近で見られる、特別扱いの招待席で。
――やがてこいしの動きは緩慢になり、呼応するかの如く燐の意識も夢見心地から段階的に醒めて行く。
そして、ピタリと。
こいしは動きを止めた。
燐と絡めていた手を解き、観客の方へ向き直ると大仰に手を広げ頭を下げる。
と、同時に割れるような拍手の嵐。
爆弾でも投下されたかのような音の破裂に、未だぼぅっとしていたアリスははっと我に返った。
『――はっ!? お、おぉぉっ!?
……た、大変失礼致しました! 不肖アリス・マーガトロイド、すっかり見蕩れてしまいました!
筆舌に尽くし難い演技、どうもありがとうございました! 無意識の真髄、古明地こいし! 皆様、もう一度大きな拍手をお願いします!!』
鳴り止まぬ喝采が、更に音量と勢いを増す。
それに笑顔で礼として返す。止め処なく振り撒かれる愛嬌は人々を魅了し、投げキッスをする度に何人かがあらゆる穴から血を垂れ流し地に伏した。
鼓膜を震わす轟音に、燐はただただ圧倒されるばかり。恐らく殆ど、いや全ての里人が賞賛の拍手を送っているに違いない。そう思わせる程の威圧感だった。
観客全員を魅了し、味方につけたこいし。
孤立無援の状況から、逆転しなければならない燐。
――こんなの、勝てるわけ、ないじゃない。
たった数分で水平だった勝率の天秤は、今やこいしの方にすっかり傾いている。
動かし難い事実。何か画期的なアイデアでもない限り、そしてそれが受け入れられぬ限り、引っ繰り返すことは難しいだろう。
――でも。
お姉さんに言われたもんね。諦めるな、って。
燐の心に、小さな闘志の炎が小さく灯る。
そうさ、やる前から諦めてどうすんのさ。ここまで来たら、もう後は優勝を目指すだけじゃない。あと少しで手が届くんだ。なら、
徐に顔を上げ、彼女は主の妹を見据える。
すると視線に気付いたのか、こいしは燐の方に振り返り、屈託のない笑顔を向けて言った。
「ごめんねお燐。ちょっと利用しちゃった」
「……はい?」
首を傾げて問い返す。
「だからさ、さっきの演技はお燐を人形に見立ててたんだよ。『私に身を任せて』っていうのは貴女の深層心理に訴え掛けてたの。分かる?」
「はぁ……まぁ、なんとか」
言って燐は記憶を辿る。成程確かに何の抵抗もできずに――せずに――身を預けることしかできず、そしてしなかった。あの時の私は、観客から見ればまるでお人形さんのようだったことだろう。
こいし様が操っていたのは、火焔猫燐という名の人形。
そう言う意味で利用、か。
「……あれ? ってことはこいし様、今までどんな風に勝ち上がってきたんですか?」
人形があるなら、わざわざそんな趣向を凝らさずとも演技はできる。マンネリから脱するための行為だと解釈することもできるが、燐が変に身を捩ったりすればその計画も全ておじゃんである。果たしてそんな不確定要素を、大事な準決勝戦の演技に組み込むだろうか?
燐の疑問も尤もであった。
「ん? えっとねぇ……こうやって」
言って同時に、こいしの瞳が虚ろになる。
手もだらんと下がり、それまで全身に満ちていた生気はふっとどこかへ霧散してしまった。
所謂、無意識の状態である。
――ゆらり。
体を左右に、ぐらりと傾ける。
そんな、一見規則的でその実不規則性を持つ、反復運動。振子時計を想起させる動きだ。
足元は覚束なく、今にも倒れてしまいそうで見ていて危なっかしい。その動きはそのまま今のこいしの状態を表していて、すぐにでも消え入りそうな儚い印象を見ている者に与える。
そうか、と燐は気付く。
これはつまり、自分を人形に見立てることで……自分の無意識を前面に押し出すことで、無機質な冷たい印象を観客に与えているんだ。
凍りつくような冷たさを纏った感覚は、こいし自身の美貌と相俟ってどこか壊れてしまいそうな雰囲気に変質する。
白磁器でできた、小さなドール。ゆらりゆらりと左右に揺らめき、一秒間隔で首を傾ける。
さながら、時計の上で回り続ける人形のように。
確かに、これは――人形だ。
口にするだけならまだ疑うことは出来る。しかし、実際に目にしてしまった今、誰が否定することなどできようか。今この瞬間、こいしは確かに白磁器人形であった。
程なくして、こいしは反復動作をぴたりと止める。そして目を瞑り、ゆっくりと瞼を開くとそこには既に光が宿っていた。
頬には赤みが差し、白くぴんと張り詰めていた肌は瑞々しさを取り戻す。人形古明地こいしは、完全に妖怪古明地こいしに戻った。
予期しないパフォーマンスに観客は一層沸き立ち、拍手喝采を彼女らに浴びせる。しかしそれは両者の決定的な差を見せつける形となり、逆に彼女を責め苛む罵倒にすら、燐には感じられてしまった。
「……と、いったような感じに、幾つかの種類のダンスも交えて。
どうだった?」
一点の曇りもない笑顔を向けるこいし。
対して燐も、晴れ晴れとした爽やかな笑みを浮かべて返した。
「ええ、素晴らしかったです。とても。
というわけで、貴女様にはまだ壇上に上がっていて貰うことにしました」
「――え?」
どこか間抜けた声をこいしは上げる。
――なら、私だって利用してやるさ。
窮地に追い込まれた筈の燐は、今にも猫を噛もうとしていた。
ざわつく会場。
もう既にこいしの余興も終わり、次は燐の出番の筈。だというのに、前者はステージから下りようともせず、また後者もそれを促そうともしない。二人ともそこに留まったままである。
何も知らない観客でも、いや何も知らない観客だからこそ、不審に思うのも当然だ。
そのことを指摘し大会を円滑に進めるか、それとも口を挟まず傍観し続けるか、アリスは決めかねていた。運営サイドとしては進行を選ぶべきなのだろう。が、彼女には一つ思うところがあった。
この二人はただの知り合いなんて間柄ではない。有り体に言えば家族なのだ。今更心を許していないなどということはないだろう。
なのに、この妙な雰囲気はなんなのだ。二人の間には見えない壁があるようにすら感じられる。
二人に何があったのか、二人に何かあったのかさえ分からない。しかしだからこそ、アリスは待ったを掛けられずにいたのだ。そこに必要性を見出してしまっていたから。
スタッフの一人が心配そうな顔をして彼女に駆け寄る。恐らく早く判断を下せと伝えに来たのだろう。そんなことは分かり切っている。
アリスは手で彼を制し、ぼそりと呟いた。
「……ごめんなさい、ちょっと待ってくれないかしら? 後もう少しだけで良いから」
困惑した表情を作るスタッフ。まさか容認するような言葉が返ってくるとは思っていなかったのだろう。しかし最高責任者の判断である。逆らうことなど到底できない。戸惑いながら頷き、自分の持ち場へと戻って行った。
そちらの方には微塵も視線をくれてやらずに、じっと壇上を見つめ続けるアリス。
そこでは、漸く燐が動き出そうとしていた。
「さぁ、出番だよ!」
燐がパチンと指を鳴らすと、地面がぐるっと一周ステージを回り囲むようにボコボコ音を立てながら盛り上がる。
初めの位置に戻ると同時に、屍蝋化した妖精たちが土くれを散らしながら飛び出した。
それを見たこいしは、僅かに眉を顰める。
「……何? 私と戦うつもりなの?」
「いえいえ全く滅相もない。ただ遊ぼうとしているだけです」
「遊ぶ?」
更に首を傾げる。
確かにゾンビフェアリーたちは燐の良い遊び相手だが、それは暇潰しに近い一人遊びなのだ。今この状況で“遊ぶ”のはおかしい。
そんなことは微塵も考えていなかったが、直感的にこいしは不思議に思ったのだった。
その問いに燐ははい、と頷く。
「敵だ相手だなんて馬鹿馬鹿しい。私たちは“家族”ですよ? ましてや、敬愛する主人の妹様と敵対するなんて、心苦しいにも程があります。
それと何より、久し振りにこいし様と遊びたいなぁ、って」
そう言って、顔を綻ばせる。
しかしこいしの表情は対照的に暗くなり、少し俯きがちになった。
「……でも、お燐は私と遊ぶの、嫌だったんでしょ?
無理しなくても良いよ。きっとまたお燐を嫌な気分にさせちゃう」
おや、と燐は思う。
もう既に忘れているかと思っていたが、きちんと覚えていたようだ。その上悔悟の念すら匂わせている。あの頃は最中も、終わった後ですら悪びれもせずに心底面白がっていたように思えるが、今はそうでもないように見えるから驚きだ。
或いは、成長か。
この間コンマ数秒。燐はニッと笑い答える。
「そんな昔の話、もう覚えちゃいないです。私は今を生きていますからね。それだけでもう手一杯です。
だから私は今を楽しみたい。そして楽しむ時には、一人より二人の方がずっと楽しい。だから楽しみましょう? こいし様」
黙し、顎に指を当てて考え込むこいし。
やがて顔を上げると、何かを振り切ったような清々しい笑顔で言った。
「――うん!」
――そこに広がるのは、幻想郷のどこであっても似つかわしくない程幻想的な風景。
それを見た誰もが、圧倒的な神秘性に目を見開き息を呑む。
自分はいつの間にこんなところに迷い込んでしまったのだ、ここは一体どこなのだ? 自分は里にいた筈ではなかったのか?
しかしそんな自問すらも、目の前に厳然と存在する絵画には風に吹かれた霞のようにいとも簡単に掻き消えてしまう。
そう、絵画。まるで美術品のよう。
確かに生きた妖怪の、しかもただの遊んでいる風景だというのに、それなのにどうしてか近寄り難い雰囲気すら醸し出している。
「さぁこいし様、行きますよ……それっ」
燐の手の中から、どろどろに腐敗した妖精の死体が宙に投げ出される。
勢いは弱く、ふわりと浮かぶように軌跡を描き、距離を置いて向かい合っているこいしの胸元にそれは飛び込んだ。
そして二人は、柔らかな微笑みを交わし合う。
簡素な作りのステージの上にいるにも関わらず、二人の周囲には花畑が広がっているような錯覚すら覚えさせられる。人はいつの間にかその“作品”に魅入られ、すっかり取り込まれてしまっていた。
こいしの周囲にはゾンビフェアリーたちが飛び交い、時折彼女の頬をつんと突いたり頭の上をぐるぐる回ったりしては遊んでいる。くすぐったそうな表情で燐に止めるように言うが、その度に悪戯は余計頻度を増して行く。
やん、とこいしが思わず漏らすと、ええのんか、ここがええのんかとばかりに妖精は彼女に群がりぷにぷにとした肌を突っつき回った。
額、頬、鼻、顎、首、鎖骨、肩、二の腕、手の甲、平、指、胸、お腹、臍、肩甲骨、背中、背骨、肋骨、尻、尾骨、恥骨、太腿、脹脛、踵、踝、足の甲、平、指の一本一本全ての柔らかな肉を。
突然の猛攻に耐え切れず楽しげな笑い声が零れ出し、映像には更に色が加わる。
歓喜に満ち満ちた景色。柔らかな日差しに包まれた二人を絵という形で表わすのならば、それはきっと淡く優しいパステルカラーで描かれることだろう。
見る者全ての心をふわりと包み込む絵画。暖色のみで温かく彩られた一つの作品。
少女の無邪気な戯れを、人はこう呼んだ。
――キャッキャウフフ、と。
観客の誰もが言葉を失い、目の前の動く芸術に見蕩れている。
その時、すっと燐は立ち上がった。
それから未だ夢から覚めないままのぼんやりとした表情でいる観客たちに向き直り、大きく一礼する。
瞬間、その場の全員の意識がはっと目覚めた。
やがて、自分の置かれている状況を思い出した者が一人、また一人とたどたどしくも手を打ち鳴らす。
一。
十。
百。
千、……まではいかないにしても。
一人一人の疎らな拍手が、次第にその数を増やし密度を高めて行く。
盛大な、心からの賛美が音となり会場を包み込んだ。
それを目の当たりにして、初めてこいしは自分が利用されていたことに気が付いた。
一瞬だけ呆気に取られ、直後腹の奥底から湧き出る笑いを抑えることができずに吹き出してしまう。
「ぷっ……あはははは! そうか、そういうこと! まんまと騙されちゃったってワケだ!」
「これが私なりの意趣返し、ということで。こいし様と同じく、私も貴女を利用させて頂きました」
意趣返し。
仕返し。
何とも子供臭い論理。しかしそうすることで、燐は過去の自分から脱却した。嫌なことを嫌と突き返すことのできる、自分の気持ちを臆することなく表現できる彼女へと進んだのだ。
通過儀礼的だが、それでも確かに彼女は成長した。それは今の彼女の表情を見ても分かる。
どことなくすっきりした精悍な顔つき。それまではこいしを前にすると陰りが差していた表情に、今はもうそんな陰はない。
どころか悠然としていて、どこか挑戦的な雰囲気すら漂わせている。心に余裕がある証拠だ。
「良い顔してるね。スッキリした?」
「そりゃもう。あのこいし様を出し抜くことができたんですから。今なら誰が相手でも死体にできそうな気分です」
「あははっ。そりゃ良かった。試しに私でも運んでみる?」
「ご冗談を。流石に貴女に敵う気はしませんよ。精々がさっきのように出し抜くぐらいです。……それに」
「それに?」
「……それに、やっぱりこいし様は“家族”ですから。勿論死んでしまっても構いませんが、できれば死体よりは生身の貴女と遊びたいですね」
ふっ、と、会話が途切れる。
それまですぐに軽口を返していたこいしが、突然黙ってしまったからだ。
瞳はきょろきょろと忙しなく動き回り、彼女の動揺を表していた。
何度も喋ろうとするがその度に言葉が詰まり、言いたいことを口にできない。金魚のように口をぱくぱくとさせるが、そこから漏れ出るのは空気のみ。
繰り返し繰り返し、やっとの思いで苦しげな表情を浮かべながらこいしは言う。
「……っ、で、でもっ! ……私のことが嫌いなんでしょ? 人の気も知らないで楽しそうに笑いながら貴女を苛める私のことが、嫌で嫌で仕方がなかったんでしょっ!?」
「はい。私はこいし様が大嫌いです」
言い捨てるようなこいしの口調に、燐はにこやかに返す。
しかし内容は決して柔らかくはなく、相手をどんと突き放すような言葉。顔では笑っていつつも真黒な毒を吐く彼女に、こいしはまた何も言えずにいた。
すかさず燐はでも、と続ける。
「先程の時間が楽しかったということは、嘘でも何でもありません。正真正銘心の底からそう感じました。もしかしたら、お空やさとり様と遊んでいる時よりも、ずっと、ずっと。
そう感じられたから、私は貴女のことがほんのちょっぴりだけれども、好きになれたのかもしれません」
座ったままのこいしに、一歩近付く。
「……お燐は優しいね。私だったら、多分そうは思えない。恨んで恨んで恨み切って、ついでに舌も噛み切っちゃうかも」
「そこまで貴女は強くも弱くもありませんよ。きっと私と同じように、ひたすら我慢し続ける筈です。きっと」
「だとしても、ほんの少しだけでも好きになったなんて私には言えない。憎くて憎くて仕方がない筈だもの。自分に勇気さえあれば、って喉を絞める想像ばっかりしてるかも」
「あぁ、分かります。こいし様ならやりかねない」
「何それ。酷いなー」
はは、と笑う燐。釣られてこいしも笑い出す。
一見すると何の変哲もない日常の一場面であったが、その笑いはどこか乾いて干からびていた。
ぴたりと笑うのを止め、こいしは眉を八の字に曲げて問う。
「どうして? どうして私を責めないの? あんなに酷いことしたじゃない! わざと踏ん付けたり、尻尾を無理やり引っ張ったり、高いところから落としたりしたこともあった。時々怪我までさせて、一回だけだったけど殺し掛けたことまであった! なのに、なんで笑ってるの!? どうして笑ってくれるの!? そんなの、私耐えられない! 叱ってよ、責めてよ、詰ってよ! そうでないと、私――」
「許す許さない、の問題じゃないってことです」
言葉を遮り、燐は断じるかのように言った。
こいしは顔を上げ、涙を湛えた瞳でじっと彼女を見つめる。
「そりゃ怖いし恐ろしいし今すぐにでも逃げ出したいくらいで――いや嘘ですごめんなさい今はもう何とも思っていません! ……でも、確かにそれぐらいのトラウマは植え付けられましたよ。ええ、植え付けられましたとも。
でもね、そいつとこいつは別問題なんだ。こいし様はただ遊んでいただけ。私もそれに付き合っていただけ。表面をなぞればたったそれだけのことなんです。ただ、それに付随してくる問題が問題だったってだけのことで。
そのことに対しては少しばかり不満はある。トラウマになってるぐらいだからね、自分で言うのもなんだが結構心の傷も深い。ちっとやそっとのことじゃ治らない、そう思ってた。
けどそれは違った。こいし様、私はこの耳ではっきりと聞いたよ。“無理しなくても良い”、って、私を気遣ってくれる、心優しいご主人様の言葉をね」
にかっと歯を見せて笑う。
二歩。
「そん時気付いたんです。心の中の蟠りが、全部すーっと消えて行くのにね。ありゃ気持ち良かったなぁ、何しろ今までの恨み辛みといったもんが全部消えてしまったんですから。
驚きましたよこいし様。そんな昔のことは、それこそ私以外誰も覚えていないと思ってた。けど――貴女は覚えていた。自分のしたことを悔いていた。それが私にとっては、何より嬉しかったんです」
息を呑み、目を見開くこいし。
しかし首をいやいやと横に振り、また顔を下に向けてしまう。
「そんなの……贖罪にもならない。あの時は子供だったし今だって子供だけど、それでも多少の分別は付くようになった。だから分かるの。貴女がどんなに苦しく嫌な思いをしたか、私がどんなに嫌な奴だったのかって。典型的ないじめっ子じゃない。嫌われて当然よ。
……だから、お燐は優しいね、って言ったんだ。自己中心的な性格は今でもそう変ってはいないのに、それでも貴女は私のことを“ご主人様”と呼び慕ってくれた。嬉しくて嬉しくて、もう泣きそうだよ」
「ちっちっ。そりゃあ違うね」
三歩、歩み寄る。
両手を広げ、膝を折る。
もう、これで逃がさない。
背中に腕を回して、優しくぐいっと引き寄せた。
――ほら、捕まえた。
鼻を赤くさせ余り気味の袖でごしごしと目を擦っていたこいしの体を、しっかり逃がさぬよう包み込む。
突然のことにこいしはひっと小さく悲鳴を上げ、目を白黒とさせる。しかし決して放さない。今にも壊れてしまいそうな華奢な体を、抱きかかえたまま耳元で囁く。
「こいし様が子供だって? そんなの最初から分かってることさ。だから大抵のことに私らは目を瞑って付き合って上げなければいけない。そうでなかったとしても、求められていると知ればすぐに飛んで行くのがペットの務め。こいし様が責任感を感じることなんか、ないってことなんですよ」
「だからって、謝らなくて良い理由にはならない。そうでしょ?」
「はぁ……まぁ、そうですけどねぇ。私としては――こう言っちゃなんですが、もうどうでも良いというか」
「もう! そういうことじゃないの! 何かしなきゃ私の気が済まないって言ってるのよ!」
ぷりぷりと怒り始めるこいし。
いきなり耳元で叫ばれたせいで、頭の奥でキーンと甲高い声が響き渡って燐の頭の中で暴れ回っていた。こめかみの辺りを押さえると頭痛はやや緩和されたが、未だ耳のすぐ傍で叫ばれているような感覚のままである。
――しかし。
ふむ、と燐は考え込む。問題は彼女自身がどうこうというわけではなく、こいしが満足しなければいけないということらしい。振り回される方は割と迷惑なこと極まりないのだが、それで気が済むのなら何とかしてやりたいと思うのが親心というものだ。
ふと、閃く。
ああ、なんだ。
「そんなの、単純なことじゃないですか」
「単純って?」
「私に謝れば良いんです。それで丸く収まります」
燐の言葉にきょとんとするこいし。あまりにも単純明快だったので、頭の理解がまだ追いついていないらしい。
数秒後、思わず吹き出してしまう。
「あはは! そうね、確かに順序が逆だったわね。うん、最初に言うべきだったわ。あっはははは!」
笑いは止まらず、転げ回ってしまいたい衝動に駆られる。しかし何とかその欲望は押し留め、抑え付けることに成功した。
やがて黄色い笑いも収まり、こほんと一つ咳払いをしてこいしは口を開いた。
「さてと。それでは、改めまして。
……ごめんなさい。お燐には色々迷惑を掛けました。幾ら謝っても足りないと思うけど、でも私にはこれぐらいしかすることができません。
本当に、ごめんなさい」
「はい。それでは許してあげましょう。自分勝手なこいし様は嫌いですが、優しいこいし様は大好きですし。
これからも、いっぱいいっぱい遊びましょうね」
肩に預けられたこいしの頭を、燐は優しく撫でる。
そんな二人の姿は、暖かな慈愛に満ちていた。
まるで、姉と妹のそれのようだった。
『さぁ! 集計も終わり、見事決勝へと勝ち進んだのはどちらなのか! 運命を分かつ、結果発表です!』
スピーカーから大音量でティンパニの叩く音が、初めは小さく、次第に大きく。宝くじの当選番号発表なんかでよく耳にするアレである。
そんな爆音に負けず劣らず、アリスは声を張り上げる。
『その差僅か三票! どちらが勝ってもおかしくない演技の勝敗は、そのたった三票によって明暗を分けられたのです! かくいう私も非常に甲乙付け難く、優劣を決めなければいけないこのルールを呪いさえ――』
と、そこで脇で作業をしていたスタッフがアリスの肩をつんつんと突く。
指摘されて初めて話が脱線し掛けていたことに気付き、アリスは赤面して咳払いする。
『……えー、まぁ、それはさておき。
発表します! 準決勝第二回戦勝者は――
火焔猫燐! 厳しい戦いを制したのは、神々しくすらある美術品を我々の目の前で作り上げた、火焔猫燐でした!
しかし惜しくも、本当に惜しくも敗れてしまった古明地こいしもまた素晴らしい演技を披露してくれました。これは私見ですが、これまでの大会の中でも一際輝く素晴らしい一戦だったと思います!
会場の皆様、どうか、もう一度盛大な拍手を!』
アリスの煽動に観客は沸き立ち、惜しみない賛美の拍手を二人に向ける。
今までより一層大きな拍手の音。誰かが調子に乗って吹く指笛すらも、絶え間なく訪れる音の波に掻き消されてしまう。だがしかしそれは、二人の演技がそれだけ観客を魅了したという証明でもあるのだ。
彼女らを称える喝采は、きっと人里全体に響き渡っていることだろう。心なしか人の数も増えているように見える。
というか増えていた。
里の一角で、衰える気配を見せないばかりか高まり続け止まる事を知らないボルテージに魅かれたのか、観衆の数は明らかに増加していた。ステージの上から見ればそれが余計によく分かる。もしかすれば、里の人間の全てがここに集まっているのではないか。
と、その中であちらこちらにやや俯きがちな者が点在していることに燐は気が付いた。
周囲の者が皆諸手を振って拍手をしているものだから、微妙な陰気さはより克明に浮かび上がり目につくのだ。
よくよく見れば、最前列の者ですら顔を地面に向けているではないか。何かあったのだろうか。陽気な歓声の中で燐は聴覚を研ぎ澄ませ、辛うじて聞こえる前列のその者らの会話に傾注する。
「……こいしちゃん、負けちまったなぁ……」
「あぁ……でも、可愛かったから良くね……?」
「勝ったらもっと良かったけどな」
「それを言うなよ……はぁ、なんだか真白に燃え尽きちまった気分だ」
「僕のフジヤマもヴォルケイノしそうで真白に燃え尽きそうです><」
「黙れ」
「死ね」
「……ウジウジしてても仕方ねえ! よーしお前ら、今から俺ん家に来い!
突発こいしちゃん祭りを開催するぞ!」
「お、いいねぇ!」
「気に入っちゃったよオレ!」
「撮った写真も早速現像だ! フヒッ!」
「ももチラ! ももチラ!」
「俺たちの戦いは、まだ始まったばかりだ!」
それまですっかりお通夜モードだった彼らは突然生気を取り戻し、周囲の熱気に負けないくらい爆発的に盛り上がる。
瞬く間に人ごみの中から抜け出し、全速力で里のどこかへと走り去って行った。
うげ、と燐は思わず漏らしてしまう。
言うまでもないだろう。心の底からこいしちゃんが好きだ! といつでもどこでも叫ぶくらいはできる、というか寧ろ日課だと事も無げに言い放つことのできる者しか入会が許されない、あのファンクラブの一派である。
目的のアイドルも敗退し、もう見るものなど何もない。仲間同士で慰め合い、人がごった返す会場から出てとぼとぼと歩いて行く後ろ姿は、一種の悲壮感すら漂わせていた。
そうして改めて全景を見渡すと、何やら観客がいきなりごっそり減ったように見える。ぎゃあぎゃあ騒ぎ立てる奴らとは別に、伏兵がかなりの数いたようだ。改めて人里でのこいしの人気を知り、ほとほと感心する燐であった。
ただ、何となくおぞましくは思うが。
ふと横を見る。
するとこいしも同じように、自分の顔を見ていたことに気付いた。
「おめでとう、燐。やっぱり私の目に狂いはなかったわね」
「いえいえ、こいし様のお陰ですよ。貴女のファンを上手く利用したから勝てたようなもんです」
「ファン? そんなのいるの?」
冗談にしては無理がありますよ、と返そうとした。
が、彼女の瞳には一点の曇りもない。
何の冗談でもない。本当に純粋に、そうこいし自身は思っているという証拠だった。
まさかとは思ったが、嘘を吐いている風でもない。どうやら本当らしいという結論に至り、燐ははぁと深く溜息を吐いた。
「……まぁいいですけど。知らない方が良いこともありますし」
「そう? ならいいけど。
ま、私も観客に戻るとしましょうか。応援してるからね。頑張ってね!」
「勝てるかどうかは分かりませんけどね。実際、人形の扱いは素人同然ですし。折角だからやるだけはやってみますけど」
「そうだよ! 絶対優勝しよう。お姉ちゃんにも良いお土産話ができると思うんだ」
こいしは満面に笑みを湛えて言う。
が、燐は表情を強張らせていた。
――さとり様、か。
最初は、何としてでも認めさせようと思っていた。そのためにこの大会に出場することを決め、ここまで何とか勝ち残って来た。
でも、もう、いいかもしれない。
怒りなんてすっかり消えている。私が悪いということも自覚している。あの子たちが気持ち悪いと外見で判断されても、それはまぁ仕方のないことだし、何をどうしたって生理的に受け付けない人はいる。それを否定することはできない。
きっとさとり様も、同じだったんだろう。
優勝なんてどうでもいい。優勝したところで、何が変わるわけでもない。当たり前だ。それは私の自己満足でしかないのだから。
今頃さとり様はどうしてるんだろう。勝手に家を飛び出したりしたし、怒っているかもしれない。……なんだか怒らせてばっかりだなぁ、私は駄目なペットだね。ペット失格だね。
でも、今は取り敢えず目の前のことに集中しなくちゃ。早く終わらせて、地霊殿に帰って、そしたらさとり様にこう言うんだ。『ごめんなさい』、って。
許してくれないかもしれない。もっと怒って出て行けと言われるかもしれない。だけど、それが謝らなくて良い理由にはならない。こいし様はそれを教えてくれた。
だから、私は、――
首を横に振り、振り切るように燐は言った。
「……そうですね。さとり様、喜んでくれるかなぁ」
「うん。きっと喜んでくれるよ。だってお燐は私たちの大切なペット……いえ、家族ですもの!」
「分かりました。この火焔猫燐、何が何でも優勝をもぎ取りますよ!」
「その意気その意気! お燐ならきっとできるよ。きっとね!」
こいしは笑う。
釣られて燐も笑ってしまう。
言えるだろうか。
いや、言わなければいけないんだ。
小さな決意を心に秘めて、燐は空を仰ぎ見る。
雲一つない快晴。太陽の光が目に痛い。
晴れた視界と同様に、彼女の心も青く澄み渡っていた。
「はぁ!? いない!?」
突然素っ頓狂な声を上げるアリス。何人かの観客が驚き、思わずびくりと体を跳ねさせた。
しかしそれも仕方のないことなのかもしれない。何しろ燐の相手、決勝に残った最後の人形遣いがいなくなったというのだから。
いざ決勝戦を始めようとしたものの、燐はともかくもう一人の決勝進出者の姿が見当たらない。はてどこに行ったのだろうか、お手洗いにも行っているのだろうかと暫し待つも帰ってこない。
はてどうしたのだろうかと首を捻っていたところ、たまたま日除けのための麦藁帽子を被ったスタッフが視界に入った。確か彼女には出場者の管理を任せていた筈。丁度良い、尋ねてみようとアリスはもう一人の決勝進出者がどこにいるか知らないかを問い質した。
すると、驚くべき言葉が返ってきたのだ。
「あぁ、あの厄神のことか? あいつならどっか行ったぜ。確か……里の中で急に禍々しい厄が集まり始めたとか何とか。いてもたってもいられない、つってな」
「な、何ですって!? なんて勝手な真似を!」
慌ただしい二人の会話を横で話半分に聞いていた燐は、あぁあいつらか、と思い至る。
何をしてるか知らないが、どうせ如何わしいことに決まっている。こいし様も可哀想に。本人は知らないから良しとしても、知っている立場からすると不憫でならない。
しかし禍々しいまでと評されるとは。成程確かに厄いねぇ。思わず吹き出してしまいそうになるのを、必死に堪える燐であった。
「……本当に、どういうつもりなのかしら。決勝はどうする気なの?」
「棄権扱いで結構、だそうだ。まぁ仕方ないな」
肩を竦めてみせる。
でも、と言い掛けてアリスは考える。確かにあの方は神様なわけだし、厄を集めるのが本職である以上それを止めることなどできない。何で呼び止めなかったのかと思っていたけど、うん――黙って見送るのが一番だったわけか。
しかしだからと言って別の誰かが代理で出てくるわけでもない。まさかまさかの欠場に、アリスは眉を顰めて右往左往する。
「……なら、準決勝第一試合敗者のあの子は? 確か普通の花屋の娘だった筈だけど」
「いや、今は寺子屋で勉強してる筈だぜ。家の手伝いと勉強尽くめでまず無理だな。負けたらすぐに帰ったし」
「そう……なら、再戦みたいな形になるけど、あの子に頼むしかないかしら」
そう言ってアリスは、観客に交じって暇を持て余しているこいしの方を見る。順当に辿れば彼女の出番、というわけだ。
しかしそこで燐が口を挟む。
「こいし様は多分やらないと思うけどねぇ。無駄だよきっと」
「駄目で元々よ。聞くだけ聞いてみるわ」
言うが早いがアリスはこいしのところへ向かう。歩く速度も妙に早く、外見からは分かり辛いがかなり焦っているのが行動の端々から見て取れる。
燐とスタッフこと麦藁帽子は顔を見合せ、苦々しげな顔をして肩を竦めた。
話を終えて戻ってきたアリスは依然として表情が暗く、首を横に振って相談の結果を二人に伝えた。
流石にこれ以上ランクを引き下げると、決勝戦としてどうなのか、という問題にまで発展しかねない。観客の期待も最高潮に達しているこの時に、わざわざ水を差すような真似もしたくはない。どうしようかと悩んでいると、突然あー面倒だ! と軽薄な態度の麦藁が大声を上げた。
「もう優勝はお前で良いだろ。皆納得すると思うぜ?」
そして燐を指さす。
いきなり話が飛んで戸惑っている彼女を尻目に、アリスが反論する。
「ちょっと、勝手なこと言わないでよ。そんなことしたら――あぁっ! か、返しなさい!」
ぶつぶつと小言を言っている隙に、実力行使で麦藁帽子が彼女の懐に収まっていたマイクを掠め取ったようだ。
アリスの顔は急に青ざめ、何が何でも取り返そうと必死になっている。はて、どうしてそんなに慌てているのだろうかと燐は訝しがったが、その理由はすぐに分かった。
『……あー、あー、本日ハ晴天ナリ、本日は晴天ナリ。只今マイクのテスト中ー……よし、大丈夫みたいだな。
あー、おほん。さて、いよいよ大詰めとなった今大会ですが、決勝を前にして準決勝第一回戦勝者、鍵山雛がいなくなってしまいました。
しかしこのまま大会の進行を遅れさせるわけにもいきません。本人からも棄権扱いで良いという言付けを預かっています。よって!
決勝戦は火焔猫燐の不戦勝! 今大会優勝者は、火焔猫燐と決まりました!』
しーん、と、一瞬だけ静まる会場。
余りのことに、燐も言葉を失ってしまった。
けれどもすぐに今アナウンスされた内容の意味を理解し、口々に疑問を言葉にしざわつき始める。
スタッフもそれは予測済みだったようで、続けてマイクを通じて話を続ける。
『従って優勝の栄冠を手にした彼女に、新アイドルマスターの称号を贈りたい……ところだが。
しかし、これじゃああんまりにも単純過ぎだ。つまらないとは思わないか? 私は思うぜ、こんな幕引きがあってたまるか、ってな。
そこで今回、エキシビションマッチとして新旧アイドルマスターの対決を行いたいと思う!』
更にざわつく会場。予想外の急展開に、誰もが戸惑っていた。
それは勿論燐とアリスも同様で、驚きに目を見開き詰め寄るが、それを片手で制し更に言葉を続けた。
『ご紹介しよう。現アイドルマスター、アリス・マーガトロイド! 前大会優勝者且つ今大会責任者の彼女に、この大会の大トリを務めて貰おうと思う!
ルールは単純明快。これまでの演技とは違って、二人には人形を用いて戦って貰う。勿論相手を倒せばそこで決着の一本勝負だ。
勝負に勝った方が新たなアイドルマスターとなる! 実力者共の世紀の対決を、一秒たりとも見逃すな!
さぁお前ら――準備はいいか!』
麦藁の煽動に、観衆は雄叫びを上げて応える。
それを聞くと満足気に彼女はうんうんと頷き、続けて被った麦藁帽子を取り、金色に輝く髪を風になびかせる。
もうその正体はお分かりだろう。
『というわけで、だ。
司会者はこの私、霧雨魔理沙!
果たして真のアイドルマスターはどちらなのか! 今が雌雄を決する時、だぜ!』
会場がわっと歓声に包まれる。
一方燐とアリスの二人は対照的に、暗くじめじめとした表情になっていた。
燐がアリスの様子を窺い見ると、彼女は溜め息を吐いて言った。
「……やりましょう。あの馬鹿が上手に盛り上げてくれたお陰で、もう引き下がることなんかできなくなったし。
さぁ、ステージに上がりましょう」
やや諦めの混じった、悲壮な色を伴った声だった。
数百の瞳が見つめる中、二人は壇上で向かい合い毅然として立っていた。
アリスの方は既に覚悟を決めているようで、完全に戦闘モードに入っている。好戦的な性格も影響しているのかもしれない。
一方燐は未だ踏ん切りが付いていないらしく、表情からはやや気後れしているのが読み取れる。対照的な立ち位置であった。
心身共に充実し、今にも攻撃してきそうなアリスに燐はおずおずと話し掛ける。
「……あの……お姉さん、本当にやるのかい? あんまり気が乗らないんだけどさぁ……」
「勿論よ、お燐……さん。魔理沙のせいで、わざわざ戦う羽目になってしまったけど……よく考えればそれは私にとっても好都合だったわ。
それぞれが人形を用いるこの戦いは、どちらがより優れたドールマスターかをはっきりさせることのできる最も単純明快な方法。この大会の締め括りとしてもぴったりだと思う。
でも、それとは別に理由がある」
「……人形?」
「ええ。私は他の誰よりも人形を愛しているという矜持を持っている。だから私がアイドルマスターとなったのは必然だし、そうでなければならないと私自身も思っている。
そして貴女は私同様大会に勝ち残り、新アイドルマスターの称号を得ようとしている。でも、私と同じくらい人形を愛しているかどうかは分からない。人形に愛され、人形を愛し、そしてその人形の主人たる資格があるかどうか。私自身が……見極めたい」
終始真面目な顔で、アリスは淡々と語る。
と言われても、返答に困るのが事実であった。人形は好きには好きだが、熱中しているという程でもない。人形を愛しているかと問われても、素直に頷けないのが本音だったのだ。
しかしそんなことをぶっちゃけたところで相手の怒りを買うだけだろう。取り敢えず燐は相手に話を合わせることにした。
「成程。お姉さんの気持ちはよく分かった。そう思っても不思議じゃないよ。
でもね、私は思うんだよ、人と人、人形と人形が争っても何の意味もない。戦いは何も生まないんだ、ってね」
「悟った風なことを言っても無駄よ。私をごまかそうなんて思わないことね」
「あら、バレてた」
「ご託はいいわ。さぁ、もう始めましょう。早く貴女の友人たちを喚びなさい。時間が勿体ないわ」
言ってアリスは右手を広げ地面と水平に伸ばし、燐の方へと真っ直ぐ向ける。
一瞬躊躇ってから、燐は小さく呟いた。
「……出てきな、お前たち」
すると燐の周囲に、ボウと青白い炎が幾つも浮かび上がった。
燐火だ。
数々の燐火はゆっくりと引力に引き寄せられるかのように高度を下げて行き、最終的には地面の中へと潜り込んでしまった。
しかし程なくして、火光の沈んで行った場所がぼこりぼこりとせり上がり、やがてそれまでと同じようにゾンビフェアリー達が一斉に姿を現した。
お燐特製ゾンビフェアリー、三分間クッキングである。
「ふぅん……そうやって今まで死体を操っていたのね。となるとあの青いのは怨霊かしら?」
「さて、なんだろうね。見てくれがそうだからって怨霊かどうかは分からないし、理屈がどうだとかはさっぱりだ。聞いたところで分かりゃしないよ」
「……意地悪ね。少し興味があったんだけど」
「ま、自立人形を作るのは自分一人で頑張りなよ。黒白のお姉さんから聞いたよ? 私の術を使ったところで、それは多分お姉さんの望むものにはならないと思うけど」
「分かってるわよ。だから興味本位だって。
……ひぃ、ふぅ、みぃ……二十体ぐらいかしら。丁度良い数ね」
そう言うのと同時にアリスは燐に向けた右手をくいっと手繰るように曲げる。各指に幾重にも巻き付けられた銀糸が太陽の光を反射するのが見えると、次の瞬間には彼女の周囲にまるで護衛でもするかのように様々な種類の人形が展開されていた。
「『ドールズウォー』、改良版。私の作った中でも力作の人形たちが、あの手この手で貴女に襲い掛かるわ。
私のドールマスターとしての誇り、しかとその眼に焼き付けなさい!」
凛とした声が響く。
それを合図にして、アリスの人形たちは燐に小さな牙を剥いた。
次々に振り下ろされる剣。
高々人形程度の一撃と侮ってはいけない。同じ人形なら体の一部を壊すことだってできるし、人間が相手だったとしても打ち身ぐらいさせることはできるのだ。それがたったの一体の人形から繰り出されるのだから、二十体も集まればかなりの戦力となる。
案の定燐のゾンビフェアリー達は統率された無駄のない動きに対応しきれず、一体ずつ、しかし確実に仕留められ地に墜ちて行く。無論ゾンビなので何度やられても復活できるが、その分耐久力は低く悉く一撃で倒れてしまうため足止めにもなっていない。哀愁のようなものすら漂わせていた。
『現アイドルマスターの猛攻に、防戦一方の火焔猫燐! 既に劣勢を強いられ厳しい状況が続いているが、何か考えでもあるのだろうか!?
どう思いますか、コメンテーターのこいしさん?』
『そうですね、多分何も考えていないんじゃないんでしょうか』
「ちょぉぉぉこいし様ぁぁぁぁっ!? 何やってんですかあんたぁぁァァァッ!!」
ふわふわとした声が耳に入り、思わず突っ込んでしまう燐。
しかし次の瞬間に頬を掠めた刃の切っ先に、一度逸らした意識をまた元に戻す。
「余所見をしてはいけないわ。目の前のことに集中しなさい」
語調はやや荒い。怒りが混じっている、と形容した方が正しいかもしれない。油断されたのが許せないのだろうか。
いずれにしろ今ので一度負けたも同然だ。アリスが遠慮なく攻撃していたら、現時点でもうこうして立ってはいなかっただろう。彼女の言葉をしっかり心に刻みつけ、改めて気合いを入れ直す。
「……よし。死体たち! 一か所に固まるんだ!」
燐がそう言うと、それまで二三体で集まり八つ程の小グループを作っていたゾンビフェアリーが、文字通り一か所に壁のように固まった。
幾ら無限に復活するとはいっても、他の死体がやられている間に復活し、を繰り返しているだけではいつまで経っても堂々巡り。それでも隙はできるから、先程のように一瞬の間を狙った攻撃を受けるかもしれない。それなら厚い壁を作り、反撃のチャンスを見つけようと燐は考えたのだ。
そんな彼女の策を、アリスはただの時間稼ぎだと鼻でせせら笑う。
「私たちの人形が、隙など見せる筈もない! 『ストロードールカミカゼ』!」
そう宣言すると剣と楯を手に持った人形たちが今度は一斉に燐に迫る。
玩具の剣ではあるが、加速がつけば威力も馬鹿にはできないだろう。ひらりと身を翻し、危なげもなく簡単に避ける。
ほっと息を吐くのも束の間、視界の端に方向転換した人形たちが、またも自分の方へ向かってくるのを捉えた。
おおっと、と慌ててまた逃げようとする燐。しかし気を緩めたあの一瞬で緊張の続いていた筋肉も弛緩してしまっていたようで、力が入らない状態になっていたのだ。
しまったと思った時にはもう目前まで迫って来ていた。咄嗟にゾンビフェアリーたちを呼び寄せ壁の役割をして貰う。
体が柔いからすぐに破られてしまうが、そうして障害物に阻められていたためほんの僅かに速度が落ちる。そのたった数瞬の間に燐は無理やり体を動かし、紙一重で何とか暴走する列車をかわした。
アリスは一旦攻撃を止め、涼しげな顔で燐に尋ねる。
「あらあら……気を抜くな、と言ったでしょう? 貴女の可愛いゾンビさんたち、人形に轢かれてしまったわよ」
彼女の言う通り、燐のゾンビフェアリーは壁役を務めたせいで直線上にいた者は皆どこかしら体を欠損していた。今は死んだようにピクリとも動かないがそれでもやがては復活するだろうし、大した問題でもないのだが、如何せん元が見れるものであっただけに目も当てられない状態になっていた。
『呪符「ストロードールカミカゼ」……お人形さんを飛ばして相手に攻撃する、まさに“カミカゼ”な技。ストロードールっていうのは藁人形のことなんだけど、今回は違う種類のお人形さんみたいね。武装してる分攻撃力は上がってるから、さっきと同じように改良版って言えるかも。
慣れれば簡単に避けられるけど、見た目のインパクトが強いから初見じゃ驚いちゃう人もいるかな?』
『点も集まりゃ線になり、最後は幕にだってなる。アリスにしては珍しい、パワーで押し切るタイプの……ちょっと待て。お前、アリスのスペルとか見たことあったっけ?』
『ふっふっふー。お姉さん、私は覚りだよ? お姉ちゃんと同じく想起だってできるのだよ』
『お前さんは第三の目を閉じていたんじゃなかったか?』
『あれ? 人間って瞬きしたり寝る時目を瞑ったりしないの?』
『……オーケー。聞かなかったことにするぜ。
さぁーて! 間一髪で危機から逃れた火焔猫燐! 圧倒的な力の差を見せつけられたが、ここらで一つ挽回してほしいもんだぜ!』
魔理沙の言葉は、逆に燐を責め立てる。
何か秘策があるわけでもない。真っ向からの勝負で、これ程自分が何もできないと思い知らされるとは思ってもみなかった。それだけアリスの人形に対する情熱が強いということなのだが、しかしそれでももう少しぐらいは善戦できると思っていたのだ。
思って、いたんだ。
悔しさに、ギリ、と奥歯を噛んだ。
ふと、考える。
才能でも技術でも信念で相手に下回っている時に、どうやって相手を打ち負かせば良いのか、その方法を。
迷っていればじりじりと追い詰められて行くし、相手によっては一撃で勝負から退くのを強要されることだろう。幸いにして今回は前者だったようなので、未だにステージ上にいることができているのだが。
かと言って、自分が絶対的に不利なのは変わらない。勝負に於いてこの三要素が足りないとなると致命的なことこの上ない。
ただ、絶望的な状況を簡単に引っ繰り返すことのできる方法があることも燐は知っていた。
それは機転を利かせること。純粋な実力で敵わないのなら、他の部分で出し抜けば良いのだ。要は発想力の問題だ、というわけである。
しかし何が不幸だったかというと、燐にはその利かせるべき機転を考える頭を持ち合わせていなかった、ということだった。
何だかんだいって猫である。計算ができるわけでもなければ字を書くことさえもできない。彼女の行き当たりばったりな行動は本能やらその場の適当な判断やら故のものが多かったのだ。
だから彼女の行動は、結局この一言に集約された。
――えーい面倒臭い、取り敢えず攻撃すればいいや!
銀色の糸が宙を舞う。
弛ませ張り詰め緩急をつけ、蛇を思わせるかのような動き。
しかしあっちへこっちへと跳ね回り、そこには作為的な思考が見えない。無計画にただ弄んでいるかのようであった。
人形を操るための糸。人形の動きを支配する意図。それが乱れているということは、それまでの冷静さを失っていることに等しい。
事実、アリスは焦っていた。手を抜いた覚えはない。全部の力を出し切りはしないが、それでも十分に自分のやるべきことはやった。なのに、なのに。
縺れていく思考の糸。彼女の意図は既に雁字搦めになっており、解くのには長い時間を費やさねばならないだろう。
だが、そんな余裕も時間も彼女にはなかった。
気が付くと目の前に燐がいたのだ。
直後、驚く間もなく衝撃に体の芯を揺さ振られる。
急速に遠退いて行く世界。視界は段階的に狭まり、思考力も同様に衰えて行くのが分かる。
「あ、ちょ、ちょっとお姉さん!?」
燐の焦る声が聞こえる。
でも、もうどうでも良かった。
今はこのまま、消え行く意識に身を任せていたい。
ああ、――――
プツリ。
全てを繋ぎ止める最も重要な線が切れる。
電源を落とした機械のように、アリスは力なく地に崩れ落ちた。
燐は右手を上げて高らかに、
「散開っ!」
と宣言した。
すると同時に壁のように固まっていたゾンビフェアリーが、突如一体一体てんでバラバラな方向へと散らばって行ったのだ。
復活するだけが取り柄だった筈なのに、一体どういうつもりなの?
そうアリスは訝しがるが、しかし罠だとしても負ける要素はどこにも見つからない。寧ろ先程のように固まっていない分だけ対処はしやすくなった。
ここは一つ、罠にハマるふりをして様子を見よう。そうアリスは心の中で決めて、同じ数だけいる自分の人形を同じように一体一体ゾンビの傍に配置した。
こうすれば何か動きがあってもすぐに対処できる。疑わしき芽は早々に潰しておいた方が良い。そんな考えから来た判断だった。
しかし、それがいけなかった。
燐はにやりと口角を上げ、自らの足が速いという特性を活かしあれよあれよと言う間にアリスの懐に潜り込む。
アリスは途中で彼女の行動の意味に気付いたが、現在人形たちは燐のゾンビたちを警戒していて散らばっている。今近くに寄せようとしてもまず間に合わないだろう。
そう、燐はこの瞬間を狙っていたのだ。攻守の万全なアリスの人形。ゾンビ二十体が束になって掛かっても、たった一体の人形に蹴散らされてしまうのは目に見えている。
かと言って自分が出ようにも、統率の取れた軍隊の防衛線を破れるとも思えない。攻勢に出る機会を窺おうとしても先に潰されるのがオチだろう。現状のままでは二進も三進も行かないままに、負けてしまうのは確実であった。
それなら、隊列を崩せば良い。
疑い深いアリスのことだ。壁役に徹して貰っているゾンビたちを散らせば何かしら策があるのだろうと勝手に考えてくれる筈。当然人形で先に潰してくるだろうが、一体一体の距離を離せば自然とその人形の距離も離れてしまう。
その間、相手の守りは絶対に薄くなっている。
半分は賭けだった。しかし時間が過ぎても勝機が訪れるとも到底思えない。半ば強いられた形で、その思い付きを実践するしかなかったのだ。
そして燐の試みは、見事に成功したのだった。
「お姉さん、失敗したね! 猫の足の速さを甘く見ちゃあいけないよ!
食らえ! 猫パンチ!」
ただの右ストレート。
けれども見事に鳩尾に入ったようで、大きく見開かれた瞳の焦点がブレ始めたと思ったら、
倒れた。
「……あ、ちょ、ちょっとお姉さん!? だ、大丈夫かい?!」
慌てて燐は倒れ伏した彼女の肩を揺さ振り声を掛けるが、全く反応は返ってこない。
まさかそんな、一撃で倒れてしまうなんて。
燐は知らなかったのだ。アリスの尋常ではない打たれ弱さを。
重心を掛けただけのパンチ一発で、意識を失ってしまうくらいの彼女の脆さを。
人形遣いの頂上決戦は、予想だにしない形で終わりを迎えた。
アリスが目覚めると、そこは燐の膝の上だった。
周囲は薄暗く、また自身も日陰の中にいる。どうやらステージの上ではなく、選手控室もとい舞台装置の裏にいるようだ。
うぅ、と呻きながら体を起こそうとすると、意識を取り戻したことに気付いた燐が慌てて押し止める。
「あぁ、だめだよ無理しちゃ。もうちょっと寝てて」
「いえ、でも、まだ戦いは……」
「もう終わったよ。お姉さんが気絶しちゃったからね。それどころじゃなかった」
頭を押さえ、アリスは自分が気を失う直前のことを思い出す。
――そうか。あのまま私、意識が飛んじゃって……。
そりゃ戦闘が続く筈もない、か。突然のことで皆驚いたでしょうに。申し訳ないことをしたわ。
顔を顰め回想している彼女の表情を見て、燐は心配そうな顔で言う。
「大丈夫……かい? どっか痛いとかない? いや本当、いきなり倒れちゃったからさ、何かまずいことになってやしないかと」
「ああ、大丈夫よ。少し……打たれたところが痛む程度。多分打ち身になってるぐらいだから気にしないで」
「そう? なら良いんだけどさ……。
……黒白のお姉さんから聞いたよ。体がそんなに強くないんだって? そうならそうと言ってくれれば良いのに。知ってれば大元を叩くなんて短絡的な行動、しなかったかもしれないのにさ。
ま、無事なら良かったよ。これで一先ず安心、だね」
「……それで、私たちの戦いは? 一応でも決着はつけたのかしら」
「エキシビジョンマッチってあんまり勝ち負けは付けないって聞いてるけどね。まぁどっちにしろお姉さんが気絶しちゃったから同じことだよ」
にこりと燐は笑う。つまりそのまま打ち切りになってしまったということなのだろう。試合の再開も、今の言い草では望めなさそうだ。
何とも尻すぼみな結末である。
「なら、責任を取らなくちゃね……これじゃ盛り上げてくれた皆に申し訳ないし」
そう言って立ち上がろうとするアリスを、再度燐は止めようとする。しかし今度はその手を払い除け、よろよろとしながらも自分の足で立ち上がった。
「お姉さん! まだだめだよ、休んでなって!」
「いいえ。私には……責任者として、前回優勝者として、この大会を成功させる義務がある。だからお願い、私の好きにさせてくれないかしら」
断定するような言葉の強さに、燐は思わず怯んでしまう。
止めようとしない燐の行動を肯定と受け取ったのか、アリスはやや覚束ない足取りで司会者席――いつの間にかできていた――の方に真っ直ぐ向かった。
本当ならば大事を取って無理やりにでも休ませるべきだったが、如何せん燐には彼女を故意ではないにしろ気絶させたという負い目がある。その彼女が責任を取るためだ、と言っているのだ。止められる筈もない。
「……何するつもりなんだろ、お姉さん」
心臓の鼓動が段々と速くなるのを感じつつ、燐は一人不安を口にした。
何を考えているのやら、司会者席で何故かこいしと楽しく談笑していた魔理沙の頭を張り倒して強引にマイクを奪い取る。しかもマイクの電源は既に入っていたため、余計何を考えていたのか分からない。時間稼ぎでもしていたのだろうか。
兎も角それで公開談話は強制的に打ち切られたわけで、そうなれば自然と何が起こったのかと殆どの者が観客席に目を向けてしまう。そこで初めて、気絶していた筈のアリスがそこにいるのに皆が気付くのだ。
魔理沙も暢気な声でおうアリス、もう起きたのかなどと惚けたことを言っている。それを当然の如くアリスは無視して、足早に無人のステージへと向かった。
かつん、かつん、かつんと足音を立てながら壇上に続く階段を上る。小さな小さなひそひそ声が途中で聞こえることもあったが、それ以外には誰も口を開くことなくただ彼女の姿を見つめていた。
そしてステージの中央に立つと、深々と一礼して息を吸った。
『――まずは謝罪を。皆様、申し訳ありませんでした。私の不注意のせいで、多大なるご迷惑をお掛けしたと存じております。本当に、申し訳ありませんでした』
再度頭を下げる。次第に会場にざわめきが広がり、やがて元のような喧騒を取り戻した。
顔を上げて、アリスはまたマイクを口元に近付ける。
『この通り後遺症もなく、多少体は痛みますが意識も戻り概ね健康です。まぁ、まだ休んでいた方が良いには良いらしいのですが。
けれど休んではいられない、と思い私はここに来ました。けじめを付けるべきだと思ったのです』
突然言葉に纏う雰囲気が変わり、自然と会場の空気も重くなる。
それまで下らないことを思い思いのままに口にしていた人々は、いつの間にか言葉を発するのを止めていた。
しん、と静まった会場の中、アリスは更に続ける。
『今回のエキシビジョンマッチ――と司会者代理は言いましたでしょうか。私はそれに真摯な態度で、現アイドルマスターとして全く気を緩めることなく望みました。勿論意識を失うその直前まで、一瞬たりとも。
ですが今回の優勝者火焔猫燐は、その私の覚悟を見事打ち砕きました。自らの使役する妖精たちを囮にし、操作している私本人を直接攻撃するという、大会の趣旨からすると奇抜なことこの上ない策を弄したのです。
手足に太刀打ちできないなら脳を叩けば良い。基本的な戦術ではありますが、人形を用いて戦うという前提を含めて考えると思い付きはしても中々実行は出来ないと思います。けれども彼女はやった。そんな思い込みを嘲笑うかのように、見事互いの誇りと矜持を掛けた戦いに終止符を打ったのです。
これに異を唱える方々も勿論いるでしょう。人形を使っていないのならば、それはルール違反ではないか? と。そもそも大会自体にルールがあってないようなものなのですからその指摘もどうかとは思いますが、私個人としてはこうも思うのです。
アイドルマスター、全てのドールを愛し、またドールたちからも愛される所持者。この“ドールを愛する”という部分には、ドールたちを自分の身を挺しても守る、という意味合いも含まれているのではないのでしょうか。
つまり、幾ら人形を愛していようが、幾ら人形を作る腕が良かろうが、幾ら人形を操る技術が高かろうが、そのドールたちをどんな攻撃からも守ってみせる力を有していなければ、アイドルマスター足り得ないと私は思ったのです。
彼女は私を素手で倒した。それは即ち私より身体的に強いということ。純粋な強さがあれば如何なる事態にも対応できます。私には強さがなかった。彼女にはそれがあった。その違いが、両者の格差を決定付けた、と。
また彼女には人を出し抜く機転、知略もある。誰からも見向きもされない“人形”を愛し慈しむ心も持っている。これ程までにドールマスターたらんとする者が、彼女を措いて他に誰がいるでしょうか。
断言します。彼女が、彼女こそが、真にアイドルマスター足り得る資格を有しているのだと。認めましょう。彼女こそが、新しい――真アイドルマスターです!』
歓喜の声に包まれる会場。それは今までのどんな演技にも、どんな試合にも見られなかった程の大きさを伴っていた。
賛美が具現化したのかと、そんな錯覚すら抱かせるくらいの感情のうねり。仮に世界が爆発したのなら、この光景はそれとかなり近いように思える。
『――燐! 隠れていないで出てきなさい。改めて、新しきアイドルマスターの顔を皆に覚えて貰いましょう!』
未だ暗がりにいるであろう彼女に呼び掛けると、燃えるように真っ赤なお下げを揺らしてひょっこりと顔を出した。そして肩を上げて縮こまるようにしながら小走りでステージ上まで駆け上がり、アリスの横に立つ。
差し出されたマイクを受け取ると、燐は少しおどおどとしながら喋り始めた。
『え、えーと……あんまりこういうのは慣れてないし、こうして皆の前に立つのも結構恥ずかしいから、上手く言えないんだけど……。
多分、私が優勝できてアイドルマスターなんて仰々しい称号まで貰えたのは、きっと皆のお陰なんだと思う。皆が私の演技を見てくれた後にわざとらしく気持ち悪そうな顔をする人なんか誰もいなくて、それどころかちゃんと拍手までしてくれた。
死体趣味なんて理解されなくて当然だと思ってたし、今日もそうなるだろうなーってぼんやり考えてたんだ。でもそんな私の予想は裏切られた。嬉しかったよ、凄く。ああ、皆私のゾンビフェアリーたちを認めてくれたんだな、って、胸がすかっとするような気分だった。
だから頑張れた。私のことを、私たちのことを応援してくれる人のために最後まで頑張れた。私の気持ちが皆に通じた時には、嬉しくて嬉しくて泣きそうにまでなっちゃった。でも今はもっと嬉しい。こうして皆が喜んでくれるんだからね。この上ない幸せだよ。
勿論こいし様にも感謝してる。貴女のお陰で考え方が変わった。今すぐにでも飛んで行って、あの人に謝りたいくらい。でもそれはまた後だね。
黒白のお姉さんだってそうさ。緊急事態の時に上手く場を繋いでくれた。突然対戦しろって言われた時にはそりゃびっくりしたけど、今はお互いのことがよく知れたから良かったなぁ、って思うね。何より勝てたし。その機会を与えてくれたお姉さんには感謝感謝。
それとお姉さんも、だよ』
くるりと横を向き、アリスの顔をしっかりと見る。
アリスも視線を外さずに、どこか優しげな表情で燐の言葉を待った。
『お姉さんはこの大会を通じて、物事に対して真摯に接することが大事なんだってことを教えてくれた。……今だから話せるんだけどね、私、今ご主人様と喧嘩中なんだ。それで家を飛び出して来て、あれよあれよと言う間にこんなところまで来ちまったってわけさ。
でも、今はもう違う。何事に対しても、真面目な態度で接すれば相手に気持ちは伝わるんだってお姉さんが教えてくれたから。逃げてばっかりじゃ何も進みはしないって、お姉さんが教えてくれたから。だから私はもう逃げない。真っ直ぐ帰って、会ったらすぐにでもこう言うんだ。
“ごめんなさい”、って。
本当にありがとうお姉さん。私、お姉さんがいなかったらそんな簡単なこともできなかったと思う。全部全部、お姉さんのお陰だよ』
「どういたしまして。……アリスで良いわよ。お姉さんお姉さんって、なんだかややこしいじゃない」
「なら私もお燐って呼んでよ。いちいち“さん”付けする人なんて、あんた以外にゃいやしないよ」
「あらそう? なら改めて。……お燐、握手、してくれるかしら?」
「勿論。アリスとなら何回でも、何十何百だって喜んでするよ」
アリスの差し出した手を、燐はぎゅっと握り返す。
一つの戦いを通じて芽生えた友情。それは全く混じりっけのない、純粋で透明な結晶のような関係に見えた。
と、その時であった。
「――――燐!」
静まり返った会場で、突如彼女の名前は呼ばれた。
か細くも透き通るような凛とした声色。燐はその声に、確かに聞き覚えがあった。
何気なく声のした方を振り向き、そして驚愕に目を見開く。
「……こんなところにいたのね。全く、どこにいるのかと思ったわ」
呟き一歩、また一歩とゆっくり足を進め近付いてくる。
やはり、想像通りの人物。
「…………さとり、様?」
唖然として燐は言う。
視線の先では、彼女の主古明地さとりが悠然と歩み寄りつつあった。
壇上で二人は対峙する。
ああ、何から言えば良いだろう。
様々な事柄がごちゃごちゃにかき混ぜられて全く判然としない。
最初は謝ろうと思っていた。けれど、いざ目の前にすると混乱してその決意さえ揺らいでしまう。
いっそのこと、このまま謝らないでいようか。いや、それはだめだ。素直になるって決めたんだ。言わなかったら、絶対に後悔することになる。
そうだとは分かっていても、一歩踏み出す勇気が出ない。ごめんなさい、そのたった一言でさえ、口にするのが怖くなる。
唇を噛み締め、ぎゅっと目を瞑る。そして喉の奥から絞り出すようにして、漸く初めて声が出た。
「さ、……さとり、様」
掠れた音。
喉がからからに乾いて、ちゃんと声を出せないのだ。喉に何かが張り付いたような感覚。息を吸うのにも一苦労。
顔を上げて相手の目を見ることもできない。それでも必死に無理やり口をこじ開け、か細い声で燐は言う。
「そ、そのっ! ……あの、えっと、私……」
だけど考えがまとまっていないのに、どうして何かを言葉にすることができようか。いや、できる筈もない。
結局口にできたのは、何の意味も持たない感嘆詞。
はぁと溜息を吐き肩を落とし、ゆっくりとさとりは燐に近付く。
そしてさとりの足が燐の視界に入った辺りの場所で立ち止まり、すぅ、と息を吸うと、
――ぱしん。
乾いた音が響く。
鈍い痛みを伴った頬に手を恐る恐る当てると、僅かに熱が感じられた。
ゆっくりと顔を上げる。
視線の先には、眉を顰めて自分を睨みつける主人の顔。
「な、んで――」
「何でですって? 理由は貴女の胸に聞いてみなさい。自ずと答えは出てくるでしょう。
……貴女、どういうつもりなの? 勝手に飛び出して、何も連絡しないで……他のペットたちにも迷惑が掛かっているのよ。それを分かっているの?」
「…………っ」
何の遠慮もなく発される辛辣な言葉。
今自分は何を耳にしたのだろうか。自分の思い描いていた未来図とは違う。もっと、もっと優しく包み込んでくれるように迎え入れてくれる。そう思っていた。
確かに怒らせているだろうな、とぼんやりながらも考えたことはある。しかし、この仕打ちは何なのだろうか。あまりにも刺々しい言葉。一つ一つが的確なだけに、燐の心はざっくりと抉られた。
真っ先に謝ろうと思っていた真っ直ぐな感情は、今はもう襤褸切れのように穴だらけになっている。あれ程固く誓った思いは、嘲り笑うかのように完膚なきまでに踏み潰された。
「……あっ、貴女ねぇっ……!」
見かねたアリスが、さとりに抗議しようとする。
が、それを燐は手で静止した。
代わりに火が点いたのは、純粋な憎悪。
心の奥で静かに横たわっていたそれは、沸々と沸き上がる熱気に煽られゆっくりと体を起こす。
マグマのようにぐつぐつと、煮え立った腹の底の感情。
それが暴れ出しそうになった瞬間、燐は自分の理解の範疇を超えた光景を見た。
さとりはゆっくりと腰を折り、体を前に傾ける。
そう、それはまるで、頭を下げているかのように。
突然の行動に怒りを忘れ唖然としている燐を尻目に、さとりは落ち着いた口調で喋り出す。
「――それと、ごめんなさい。
貴女の気持ちをちっとも考えないで、頭ごなしに怒鳴りつけてしまった。貴女自身は好意からやってくれたことなのにね。
実を言うとあの時、別のことで頭がいっぱいで、何も考えられなかったんだけど――いえ、そんなことは関係ないわね。貴女を傷付けてしまったことには変わりない。本当に後悔してるわ。飼い主失格ね」
哀しそうに笑うさとり。
そんな彼女に、燐はそんなことはないと首を横に振る。そして目には涙さえ薄らと浮かべてさとりの言葉を否定した。
一度燃え上がり掛けた悪意は、既に身を潜めていた。
「それを言うなら私だって……私だって、謝ることはたくさんあります! さとり様のことを全く何も考えずに勝手なことをして自己満足して悦に浸って、それを否定されたからって勝手に家を飛び出して……。
かと言って反省するわけでもなく、いつまでもさとり様の悪口を頭の中でずーっと考えてて私は絶対に悪くないって思い込んでたんです! そんな私こそペット失格です!!」
一気にまくし立てる燐。
自らに襲いかかる言葉の波に唖然としていたさとりだったが、すぐに目尻を下げてくすりと笑う。
「燐ってば、面白いことを言うのね。それ、あんまり励ましになってないわよ」
「え? ……あぅ、うー……」
さとりの指摘に縮こまる燐。自分の方がずっと悪いという意味で喋っていたが、内容をよくよく考えてみると反省してないと表明していたりどころか自分の主を貶していたりと碌でもない。
そんな燐の様子を見て、さとりはふふ、と口に手を当てて笑った。
「……でも、やっぱり燐は良い子ね。お陰で私も罪の意識が軽くなりました。どうもありがとう」
言ってさとりは手を広げる。
たまらず燐はその中へ飛び込んだ。
ぎゅうっと抱き締められる感触。
優しい温もりに包まれ、揺れていた心も次第に振れ方が小さくなる。
そして燐は気付く。
これが、さとりなりの躾け方なのだと。
自分にも非があることは自覚している。けれどだからと言って、悪いことを悪いと言わないまま有耶無耶にしては良くない。まずは燐の行為を咎め反省させ、そうしてから自分にも悪いところがあったと認める。そこまでひっくるめて初めて綺麗に丸く収まるのだ。
やや刺激的な方法ではあるが、その後自分から謝ることがクッションの役割を果たしている。叱られる側のことも考えられた、さとりの優しさがよく伝わってくるやり方だった。
「……こんなに簡単に打ち解けられるのなら、最初から謝っておけば良かった。こいしに言ったこと、最初から実行してればこんな大事にならずに済んだのに」
「同感です。……って、さとり様がこいし様に助言したんですか? 随分昔のことだったのに覚えてて驚きましたよ」
「ええ、私が人生の先達として、ね。……でも、最初に相談してきたのはこいしからよ。だからあの子自身がずっと気に掛けてたんじゃないのかしら。あれで中々生真面目なのよ」
「へぇ……そですか。なら良かった」
くつくつと笑う燐。
やはり覚えていてくれたということが嬉しかったのだろう。
それだけ彼女にとっても、自分が大きな存在だったということの裏返しでもあるからだ。
さて、と突然さとりが呟く。
「どうせ二人とも自分が悪い、と主張しているのだから、いっそのこと一緒に謝らない?」
「お、良いですねそれ。じゃあせーので合わせましょうか」
「分かりました。それじゃあ……せーのっ」
さとりの掛け声で、二人は同時に息を吸う。
……が。
どちらも、口を開かなかった。
ぷはっと息を吐き、二人とも同時に笑い出す。
「もう! どうして言わないんですかさとり様ぁ!」
「そっちこそ! 私にだけ言わせようったって、そうはいかないわ!」
結局どちらも、相手から言い出すのを待っていたというオチだ。
まるで子供である。
しかし、言葉などもういらないことは二人とも重々承知だった。
だって、そんなものなどなくとも。
二人の心は、確かに繋がっていたのだから。
里に笑い声がこだまする。
夕焼けの広がる空は、どこか郷愁を誘っていて。
「……帰りましょう、燐」
「……はい」
主の問いに、小さく頷く。
――こうして燐の二日間に渡る家出は、幕を閉じたのであった。
数日後。
博麗神社に遊びに来た魔理沙は、先日の顛末を霊夢に面白おかしく装飾を施して語っていた。
とは言ってもノリノリなのは魔理沙だけで、肝心な霊夢は特に興味を示すこともなく暇潰し程度に聞き流していただけだったが。
「……と、まぁこんな感じで」
「へぇ。とんだ三文芝居ね」
ずず、と茶を啜って霊夢は言う。
「きっついなぁ。そう言うなよ、一緒に見てた私たちは結構感動したんだぞ?」
「って言われてもねぇ……見てないから分かんないし。結局ただの家族喧嘩だったんでしょ? ま、丸く収まったんならそれで良いじゃない。
それより私はあんたがどうしてそんな面倒な仕事の手伝いなんか引き受けたのか、そっちの方が疑問なんだけど」
「あぁ? そりゃこれだよこれ」
魔理沙は横に放り投げてあった帽子を持って来て中をごそごそと探る。
やがてお目当てのものを見つけたのか、お、と小さく呟くと勢いよく右手を高く掲げた。
その手に握られていたのは、紫地に白のマーブル模様の見るからに怪しげなキノコ。
「……何それ?」
「なんだ知らないのか。このキノコは“チョウゴウダケ”っつってな、薬剤やら丹やら、その他諸々を調合する時に必要なもんなんだよ。魔法使いの必須アイテムだな。
だから幾らあっても困らない、寧ろ足りないぐらいなんだが、今回スタッフを引き受けると上質の調合ダケをくれるっつーんでな。快く引き受けたよ。
正直今思い返せば必要以上に働き過ぎた面もあるが、まぁ割と楽しかったしトントンってとこだな。報酬も貰ったし何も言うことはないぜ。
あぁ名前の通り調合“だけ”で食用じゃないし不味いからな。食べようとか言いだすなよ」
「言わないわよ。失礼ね」
魔理沙が帽子の中に再びキノコをしまいながらそんなことを言うものだから、霊夢は少し機嫌を損ねて憮然として言う。
しかしそれ程気に障ってもいないようで、あ、そうだとまた口を開いた。
「そう言えば……最近アリスの姿を見ないわね。あの子どっか行ったの?」
霊夢の疑問も尤もであった。三日に一度は里までやってきて“人形劇”を催すアリス。霊夢もよく里へは買い出しに出掛けるためそんな彼女の姿をよく目にするのだが、その大会以来とんと見掛けなくなってしまったのだ。
ただ時間が合わなかっただけかもしれないが、不思議には不思議だったので霊夢は尋ねたのだった。
すると心当たりがあったようで、魔理沙はああ、と頷く。
「それがなぁ……燐に負けたからっていきなり体を鍛えるって言い出してな。あの日から猛特訓中だそうだ。
ついでに言っとくと私もあいつの姿は見てないぜ。本当にずっと引き籠って鍛えてるみたいだ。体に良いんだか悪いんだかって感じだな」
へぇ、と霊夢が相槌を打つ。
そして少しの間をおいて、
「無理ね」
「無理だな」
全会一致。
どうせ続くわけがない。アリスの貧弱さは筋金入りである。
ともすれば、あの紫もやしぐらいには。
三日坊主で終わるのが、どうせオチになるに決まってる。
はんと鼻で笑い飛ばして、また別の話題に移る二人であった。
一方その頃地霊殿。
「よーし! でっきたー!」
燐が陽気な声を上げる。
なんだなんだと集まってみれば、なんとこれはさとりの人形ではないか。
見た目は少々不細工だったが、それでも細かいことは苦手と日頃公言していた彼女にしてはかなり努力した方ではないか。凄い凄いと口々に褒められて、照れ隠しに頭をぽりぽりと掻く。
その時少し遅れて、何があったのかとさとり当人がやって来た。
慌てて燐が人形を後ろに隠すと、同時にさとりが中心にいる彼女の姿を見つける。
「何ですか燐、この騒ぎは?」
困惑して眉を八の字に曲げるさとり。よもや自分の人形を作って貰っていたとは、一体誰が予想できるだろうか。
首を捻ってばかりいるさとりとは対照的に、燐は満面に笑みを湛えていた。
「えへへ……じゃじゃーん! はいさとり様!」
期待に胸を膨らませ、満を持して燐は手に持っていた人形を差し出す。
なんですか、と言い掛けて、さとりは目を見開いて驚いた。
「燐……こ、これ、貴女が……?」
「はい! お姉さ……じゃなかった、アリスに本を借りて真似して作ってみたんです。どうですか?」
「ふーむ……なかなか……初めて作ったにしては上手ですね」
手に取りしげしげと眺めるさとり。好評価を貰った燐は、嬉しさに顔を綻ばせている。
そして元気良く、大きく口を開いて言った。
「さとり様にそれ、上げます!」
「え? ……良いの、こんな力作を?」
「勿論! なんてったってそのために作ったんですから!」
ふむ、とさとりは顎に手を当てて考える。
「……なら、こちらもお礼をしなくてはいけませんね。……はい、どうぞ」
懐をごそごそと何やら探って、取り出されたそれは。
「――あぁっ!? わ、私のお人形さん!?」
やや赤みがかった毛を持つ黒猫を模した、小さな小さなお人形。
お世辞にも上手いとは言えない、燐のそれと同じような程度の出来だったが、それとこれとは話が別である。
「私もこっそり勉強してまして。代わりにそれを上げましょう。……今まであまりこういった細々とした作業をしたことがなかったもので、形も良いとは言えないけれど」
「そ、そんな! 私のお人形を作って下さるなんて、その、あの、ううう嬉し過ぎて鼻血が出そうです!」
「出さないでね」
やんわりと窘めるさとり。
周囲の動物たちが一斉に笑い出す。
燐も笑う。
さとりも笑った。
そうしてふとさとりの手を見ると、幾つもの箇所に貼られた絆創膏が目に入った。
目立たないように上手に細工されている。ペットたちに心配を掛けさせまいという心遣いからだろう。
そしてそんな風に指を怪我したのは、確かではないけれどほぼ確実に慣れない裁縫を始めたからで――
涙が零れそうになるのをギリギリで堪え、ポンと猫状態に変化すると燐はさとりに飛び付いた。
「わっ!? ちょ、ちょっと燐……」
「ありがとうございますさとり様! ずっと、ずーっと大事にしますね!」
何とか抱き止めることに成功するさとり。腕の中で、燐はすりすりと顔を彼女の体に擦り付ける。
その目からは、嬉し涙が止め処なく流れていた。
飛び付く際に、ほんの少しだけ零れてしまった涙。
それは宙できらきらと輝く。
まるで、宝石のようだった。
素敵なお話ありがとうございました。
ただ、お燐の台詞はもう少しバカっぽい方がカワイイんじゃないかと思いました。
所詮猫だし。
途中面倒になってブラウザを閉じかけた
正解な気はしませんが、個人的には「さとり⇔燐⇔こいし」の間の家族愛的な物をバッチリ描くには短く(連作とかにするべき?)、『休憩』と言う題で思うようにほわんとさせるにしては中身の質・量共に多すぎるんじゃないでしょうか?
素人の意見ですので惑わされ過ぎず書きたいものを書いていってもらいたいですけどもw これからも頑張ってくださーい。