珍しく今日は来ないな、と霊夢は湯船に浸かりながら思った。
参拝客のことではない。参拝目的に誰かがこの神社を訪れてくることなら、とうの昔に諦めている。神社に向かう途中のけもの道に妖怪が棲んでいるお陰で、里の人間が神社に近づかないからだ(客が来ない原因を霊夢はそう思っている)。
神社の運営や食っていくためには参拝者の賽銭が必要不可欠だが、それに対する博麗神社の立地条件は最悪で、真面目に社務を行うだけ馬鹿を見る羽目になる。早い段階でそれを悟った霊夢は、境内の掃除すらろくにせず、使用済みの茶葉を天日干しして何回も使い回すようなつましい生活をしながらも、それに甘んじた怠惰な生活を送っていた。
そんな霊夢が今日一日待っていたのは、神を崇めに来る客ではなく、霊夢への客であった。
雨の中にも関わらず、魔理沙や萃香といった常連は相変わらず今日も来ていて、薄い茶に文句をつけながら下らない話をして、日没の雨上がりと同じ頃に帰っていった。
霊夢の待つ客が常連客とタイミングをずらしてくるのはよくあることだが、今日はそれも無く、そうこうするうちに夜が来た。
夕飯時を狙っているのだと思って夕飯を一人分多めに作ったのだが、いつまで経っても来ることは無く、結局霊夢一人で夕飯を済ませ(残った分は明日に回すらしい)、腹も重たいまま風呂に入った。その客は最近顔を見せるのが当たり前だったので、来ない理由をぼんやり考えていたらすっかり長風呂になってしまった。
風呂から上がり、髪の手入れをした後、霊夢は縁側で水を飲みながら涼んだ。
水無月と言えど雨上がりの風は冷たく、長時間涼んでいたら体は簡単に冷えてしまうだろう。霊夢は夜空を見るともなしに見上げていたが、肌寒さを覚え、腕を擦りながら部屋へ戻った。
結局、今日は来なかった。
溜息と共に寝間の障子を閉め、寝間に寝具を広げた。寝る前に鏡の前でもう一度髪をとかしていると、突然、横から髪を撫でる指が鏡に映った。霊夢は驚いて身をすくませた。
「意外にお手入れ好きなのね」
いつの間にか紫が霊夢の左横にいて、霊夢の髪を指に捲きつけたりして遊んでいる。
紫の能力は境界を操る程度の能力であるから、『いつの間にか』という言葉は彼女のためにあるようなもの。紫は霊夢の目の高さに空間の裂け目を作り、そこから上体を出し、霊夢の髪の触り心地を興味深そうに確かめている。
「紫っ」
霊夢は紫の姿を見るなり、自分の髪に絡みつく紫の指を振り払った。
「おはよう、霊夢」
「何がおはようよ。こんな遅くにやって来ておいて。こっちはもう寝るんだけど」
再度伸びてくる紫の手を払いながら、霊夢はツンと不機嫌そうな顔をした。
「あら、今何時かしら」
「そろそろ子の刻。日付、変わるんだけど」
迷惑そうに言って、髪に櫛を通す作業を再開すると、紫は何も聞こえなかったかのように無反応だった。というよりも、霊夢の髪に興味があるらしく、裂け目に両肘を乗せて髪をとかす様をしげしげと観察していた。
最初はそれを無視して自分の髪と格闘していた霊夢だったが、次第に耐え切れなくなった。目の端に紫のにやついた顔があるのだから無理もない。
「……何?」
手を止めて紫のほうを向くと、「ううん」と柔らかい返事だけが返って来た。微笑みながら小首を傾げる仕草がどうにも怪しい。
気にせずに髪をとかしていると、
「霊夢も女の子ねえ」
紫がぽそりと呟いた。
「でも、それだけ入念にとかしても、サラサラの髪とは呼び難いわねぇ」
「うるさい」
「霊夢もシャンプーを使うといいんじゃない? 香霖堂で売ってるわよきっと」
『霊夢も』と言ってシャンプーを勧めるあたり、紫は自分の髪に自信を持っているのだろう。そして、この神社にそんなものを買う余裕が無いことも知ってのことだろう。
霊夢は櫛を鏡の前に乱暴に置くと、紫には目もくれず立ち上がった。
「なんだか今日は機嫌が悪いのねぇ」
紫の言う通り、霊夢は機嫌が悪かった。
原因は髪の事を馬鹿にされたからではない。本当の原因は、日付も変わろうかという時間になってひょっこり現れた紫に対してが半分と、そんな紫のことを今日一日待ち呆けていた自分に対してが半分である。
不機嫌な霊夢の背後で、紫がくつくつと笑いだした。
霊夢が肩越しに振り返ると、紫は口元を手で押さえて笑っていた。目は不敵に霊夢のことを見つめている。
「私が来るの待ってたんでしょ?」
「なっ」
霊夢は弾かれたように体の向きを変えた。
「今日私が来るのが遅かったから、機嫌が悪いんでしょ?」
「なわけないじゃない。馬っ鹿でしょ、あんた」
寝巻きの長袖を指と手の平で掴みながら、霊夢は口調を強くした。今までのそっけない態度から一変した霊夢は、明らかに紫の言葉をいなせていなかった。
「図星?」
「だーかーら、違うって言ってるでしょ。あんたを待ってるほど私は暇でも物好きでもない!」
「酷いわね。私は嗜好家向けってことですか」
「ええそうよ」
「じゃあ霊夢は稀に見る嗜好家ね。嬉しいわ」
「根拠が無い」
「ありますとも」
「なら言ってみなさいよ」
紫は霊夢の口撃を冷静にいなしている。いなしながら、反撃に出ることも忘れない。紫は白々しい笑みを顔に貼り付けて、言った。
「台所」
途端、霊夢の体にぴくり、と電流が流れたのが分かった。
ついで、霊夢の大きめの瞳が四方八方に泳ぎだし、口が酸欠の金魚のように声もなく動き、頬が赤く染まりだした。
台所という脈絡の無い単語に、霊夢の口を封じ込む力があることを紫は知っていた。
何故なら、霊夢の髪を弄りに現れる前に、台所に置いてある夕飯の残りを見たからだ。
一人暮らしの霊夢が二人前以上の量を作るのはおかしいし、誰かと一緒に夕飯を食べた後であっても、綺麗に一人前の量を残すのは不自然。誰かに食べさせるために残しておいたと考えたほうが自然。紫はそう推理した。
「あれ、私の分でしょ?」
「あう……」
「ご飯を作って、私が来るのを待っててくれたんでしょう?」
「ちが……」
「それで、私が来なかったから仕方無しに一人で食べた」
霊夢は絶句して、紫に背を向けた。
分かりやすい霊夢の反応に、紫は目を細めながら霊夢に近づいて、横から顔を覗き込んだ。白い寝巻き姿に茹だったその顔はよく映える。
「私の可愛い可愛い巫女さん。たった今、貴女のもとに帰って来ましたよ」
霊夢は紫と目を合わせると、さっ、と目線を外した。
「か、勘違いしないでよ。あれはただ作り置きしただけよ。明日の朝ご飯よ。朝っぱらからご飯を作るのがかったるいのよ」
紫は、しどろもどろに語尾を『よ』で揃える霊夢の正面に回りこんだ。
「あれやってよあれ。ご飯にする? お風呂にする? それとも私? ってやつ」
霊夢はわなわなと体を震わせると、俯いた顔を上げて叫んだ。半泣きだった。
「死ねっ! このクソすきま!」
悪態をついた霊夢は、下唇を噛みながら寝間の中央に敷いた布団へ向かった。
「女の子が死ねとかクソとか言っちゃだめよ、霊夢」
「もう寝るっ!」
「あらあら、つれないのねぇ。じゃあさっき起きたばかりだけど、霊夢が今から寝るって言うなら私も一緒に寝てあげる」
その言葉に、ゆらり、と振り返った霊夢の顔は、先ほどのような抱き締めたくなる恥じらいの表情ではなく、完全に妖怪退治用のそれになっていた。
「調子に乗るなああああああ!」
霊夢がキレた。
霊夢は両手の指の間に無数の札を挟み、紫に向かって投げつけた。札を投げた直後の霊夢の右手にスペルカードが握られていた。絵柄からして、かなり物騒なレベルのスペルだろう。
札をかわした後、紫は速やかに異空間へと身を投げた。無意味な戦いなどまっぴらだし、色々な意味で、相手が霊夢であれば尚更なのだろう。
「今度は早起きするから、お夕飯食べさせてね」
紫は爽やかに手を振りながら空間の裂け目を閉じた。次の瞬間、牽制用の陰陽玉がそこを通過し、背後の障子を突き倒したのだった。
◆◇◆
明かりを落とした寝間は、先ほどの騒がしさが嘘のように静かだった。
今夜は風が無いらしく、物音一つしない。鎮守の森は衣擦れの音を立てず、社務所の中には霊夢以外誰も居ない。もっとも、境内には幽霊が出るが、音を立てる輩は今夜は出ていないらしい。なので、静かな十畳間には霊夢自身の息遣いが大きいくらいだった。
障子越しに月明かりが畳に落ち、それが燭光となっているためある程度視界が利く。その青白いおぼろげな月光を見ていると、濃密な静寂に身を浸しているのだと思えてくる。
『私も一緒に寝てあげる』
紫の言った台詞が寝間に響く。霊夢がキレた台詞であったが、それだけ霊夢にとって威力のある台詞だった。
霊夢は、その台詞の前後のやり取りを何度も思い返していた。思い返す度に寝返りを打ち、寝返りを打てば打つほど悶々とした。
「紫のバカ」
布団の中に潜り込んだ霊夢は、唇を尖らせぽそりと呟いた。紫本人が寝間に聞き耳を立てている可能性もゼロでは無いし、それに大きな声で言うと余計に意識してしまう気がしたのだ。
──そんなこと、冗談に任せて言わないでよ。
布団に潜ろうが小声で言おうが、どちらにせよ意識せずにはいられない。霊夢の目は冴える一方だった。
気がつけば寝間に差し込む月明かりの向きが変わっていた。時間の感覚はすっかり麻痺していたが、明日は確実に遅寝をするだろうと思いつつ、霊夢はまた寝返りを打った。
すると、右耳に違和感を覚えた。
「何……?」
野犬の唸り声のような低い音が微かに聞こえてくる。床から布団、布団から枕を伝い、枕につけた右耳の鼓膜を震わせる。その音は、次第に獰猛な野獣のそれになり、ついには地底から巨大な悪魔でも出てきそうな地鳴りへと変わった。
障子ががたがたと揺れている。障子だけでなく、床も、柱も、天井も、全てが何かに怯えるように軋みをあげている。
掛け布団を捲り、霊夢は上体を僅かにもたげた。
この間の異常気象の騒ぎが、霊夢の脳裏をよぎる。退屈しのぎというふざけた名目で異変を起こした天人ならこってり懲らしめてやったので、三度目の神社倒壊は無いと思っていた。もし、あの天人が懲りずにまた地震を起こしていたと分かったときには、灸を据えるだけでは済まさない。
地震の最中に後先のことを考えても仕方が無い。霊夢が苦虫を潰したような顔で、天人の仕業かと疑っている間にも揺れは強さを増し、やがて社務所全体が上下に突き上げられだした。
外に避難しないとまずい。二度も倒壊していれば言うまでもないが、社務所は木造のため丈夫ではない。寝間から外に出るには縁側が最短である。霊夢は身を起こしながら縁側に面した障子へ体を向けた。
締め切った障子は、青白い月明かりを透過させているはずだった。
しかし、今、障子の向こうから翡翠色のまばゆい光が放たれているではないか。
「な、なんなのよ、これ!」
この状況では驚かないほうがおかしい。
霊夢は突如現れた強い光を前にして、障子の向こうを見ることをためらった。しかし、このまま寝間に留まっていては社務所の下敷きになってしまうかもしれない。前に崖、後ろにライオンの心持ちの霊夢は、数瞬のためらいの後に前方を選んだ。二枚の障子に手をかけ、ばん、と勢いよく開けて縁側に飛び出した。
すぐに分かった。
東の空から隕石が落ちてきているのが。
それも、神社めがけて落ちてきているのが!
そう理解しつつも、霊夢は呼吸が止まるほど驚愕した。そして、霊夢の呼吸が戻るよりも早く、翡翠色の隕石が目の前を矢のように横切り、鎮守の森の向こうへ消えた。
刹那、森の合間から一際眩しい光が放たれ、霊夢は咄嗟に腕で目を庇った。
同時に、凄まじい衝撃により体が一瞬地を離れ、脳天を打つような強烈な衝撃音が轟いた。
数瞬遅れて巻き起こった突風に、鎮守の森が泡を食ったようにざわめき、もう崩れてたまるかとばかりに、社務所が懸命に揺れに耐えている。
五感のほとんどを奪われて縮こまった霊夢は、その家屋独特の不吉な軋みを微かに耳にしながら、辺りが鎮まるのを待った。
ほどなくして翡翠の光は弱まってゆき、やがて消えた。途端、入れ替わるように闇が辺りを包んだ。地震も治まった。木々のざわめきはまだ止みそうもないが、社務所は何とか無事だ。
そのことに安堵しつつも、心臓の早鐘が鎮まらない霊夢は、翡翠の光が焼きついた目で隕石が落ちた方角を見た。
隕石の軌道からして、落ちた場所は参道の階段付近とみられる。
「ウチに当たらなくて良かったけど……」
どれだけ神社を荒らされれば済むのかしら、という言葉を端折って、寝間まで手燭を取りに戻った。
今度は縁側の履物をちゃんと履いて、落下地点へと急いだ。
境内の表へ回る。
一寸を照らすばかりの手元の小さな明かりでも、表には何ら異常は無いのが分かる。石畳の参道を出口に向かって小走りし、階段へと差し掛かる。
石造りの階段を早足で下りてゆくと、揺れる明かりに照らされて次々と浮かび上がる白い石段が、突然真っ黒に切り変わった。驚いた霊夢は、慌てて己の足に二の足を踏ませた。何とかその場に踏み留まると、階段の欠片がぱらぱらと落ちた。
階段が、途中から消えて無くなっている。
明かりを持っていなかったらそのまま転落していたかもしれない。背中に冷たいものが這うのを感じながら、霊夢は前屈みになり、恐る恐る明かりを下に向けた。
石階段は、等間隔にしつらえた灯篭ごと途中で抉り取られていて、山の地肌が見えてしまっている。灯篭どころか周りの木々をも巻き込んで穿たれた大穴は、隕石落下の衝撃で出来たとしか考えられない。
落下地点は霊夢の予想通りだった。だが、穴の大きさと暗闇も手伝ってか、ここからでは肝心の隕石が見えない。霊夢は好奇心に任せて穴の中に足を降ろすと、中心に向かって斜面を滑り下りていった。
穴の一番深い部分までやって来るも、そこに隕石やそれに準ずるものは見当たらなかった。
その代わりに、妙なものがいた。
「何……、こいつ」
よく見えるようにと、霊夢は手を膝について手燭の明かりをそれに向けた。
明らかに人ではない。
顔は明らかに人の顔だが、これは人ではない。
いくらなんでも、一頭身の人間などいるはずがない。
一頭身。つまり頭だけである。
その表現だとまるで生首だが、それはそんな生臭いものではなく、饅頭のようにまん丸い。もしくは綿を目一杯詰め込んだぬいぐるみのようにも見える。
生き物かどうかも疑わしかったが、それは確かに息をしていた。だが、気を失っているらしく天を仰いだままぴくりとも動かない。
得体の知れない生き物が空から降ってきた。──いや、全く得体の知れない生き物と霊夢には言い切れることが出来なかった。
「どうしてこんな……いや、まさか」
その饅頭のような生き物は、頭に赤いリボンをつけている。リボンはノコギリ状の白線で縁取られていて、普段着の霊夢もそれとそっくりのリボンを頭につけている。それに、セミロングの霊夢より髪はやや短いものの、耳元の髪飾りの筒まで同じで、見れば見るほど霊夢にそっくりだった。
「こんにちは。霊夢」
霊夢は今、最も会いたくない人物に会ってしまった。
明かりを横に向けると、紫の艶っぽい微笑が暗闇に浮かび上がった。またしても、いつの間にか現れた紫が、すきまから顔を出していた。
「なんであんたはこういう時ばっかり……」
早いのよ。
そう言いかけて、霊夢は口をつぐんだ。
「こういう時ってどういう時かしら」
「面倒臭い時よ」
即答するも、紫の目が細まるのを見ていられず、霊夢は饅頭に明かりを戻した。その折に饅頭がわずかに反応した。ゆ、ゆ、とうなされながら、苦しそうに眉根を寄せている。
「その子、どうしたの?」
「私が聞きたいわよ」
「さっき空から落ちてきたのはその子?」
「紫も見てたの?」
「ええ。誰かさんがつれないお陰で、窓辺で本を読んでましたから」
「寝る前にあんなちょっかいを出しに来れば当たり前でしょ。ていうか本を読んでる暇があったら、自分が張った結界くらいちゃんと管理しなさいよ」
「してるからここに来たんじゃない」
「じゃあまた訳の分からないものを連れ込んだってことか。あんたの神隠しもここまで来ると迷惑以外の何物でもないわね」
「そうね。迷惑をかけて悪かったわ」
意外にも、紫は素直に自分の非を認めた──ように見えた。
「でも、結界を破られるくらいなんだから、誰かに迷惑が及ぶのは仕方無いことだとは思うけど。その誰かが、たまたま霊夢だっただけ」
「結界が破られた?」
紫は「そ」と短く返事をしてすきまから這い出ると、饅頭の横で膝を曲げ、それの頭を撫で始めた。
紫に頭を撫でられて表情をわずかに和らげた饅頭を尻目に、霊夢は言った。
「破られることなんてありえるの?」
「だからこの子がいるんじゃない」
まるで、膝の上で眠る飼い猫に向ける眼差しのように、饅頭を見る紫のそれは優しい。
「流石に焦ったわ。今まで結界を突破されることなんて無かったから。大事になる前に事を沈めようと現場に駆けつけたってわけ。幻想郷に土足で上がりこむ輩なんて、絶対許さないもの」
「そう言っている割には、えらくそれがお気に入りのようね」
霊夢が饅頭を顎で指してやると、紫は饅頭のことを抱き上げた。
「だってほら。この子、霊夢にそっくりなんだもの」
言われた。
そもそもこの老獪なすきま妖怪が、それに気が付かないわけがなかった。
「どこがよ」
「すごく似てるわよ」
「リボンとか髪型とかだけでしょ」
「え? 髪型は全く似てないじゃない。似てるのは」
ぐったりした饅頭を霊夢に突き出して、紫は楽しげに言った。
「顔よ顔」
「私、こんな間抜けな顔してないから!」
「いいわね。ここへ来て妹誕生とか」
「勝手にその生き物を私の妹にするな」
「じゃあ霊夢の子供?」
「どうやれば私から一頭身の子供が生まれんのよ」
「試してみる?」
「試す必要ない!」
きっぱり否定しても、紫に対してはぬかに釘、暖簾に腕押しである。
紫は「あらあら」と肩をすくめながら、その豊かな胸元に饅頭を戻すなり、殊更大事そうに饅頭のことを抱き直した。
顔はともかく、身につけているものが自分にそっくりな饅頭のことを可愛がる紫を見ていたら、霊夢は妙な気恥ずかしさを覚えた。
「ちょっと。それ……、こっちに渡しなさいよ」
「あら、やっぱり心当たりが?」
いちいち反応するのも面倒臭く、霊夢は差し出された饅頭を乱暴にひったくった。「優しくしなきゃだめよ」という言葉も当然無視した。
紫が抱きかかているときにも思ったが、饅頭は意外に大きい。
霊夢が抱えると、顎の先からへそ辺りまですっぽりと隠れてしまう。重さも思いのほかあって、三、四キロはあるだろうか。霊夢はその重さから、我が家の米びつの窮迫ぶりを思い出し、少し悲しくなったのだった。
一方の饅頭は、霊夢の腕の中でゆ、ゆ、と言いながら何度か身じろぎして、霊夢の胸へ土に汚れた顔を押し当てている。
それを見た紫が、
「霊夢の薄い胸じゃ物足りないんじゃないかしら」
と悪戯っぽく笑った。
確かに饅頭は紫の胸だと大人しかったので、どうにも反論しづらい。
「あんたがありすぎるの」
「いいじゃない。大は小を兼ねるんだし」
「今日び、大は邪魔になるだけよ」
紫は霊夢に一歩近寄って、失神している饅頭に手を伸ばした。
霊夢は、その手が饅頭に触れないよう体を回した。
「あら、触らせてくれたっていいじゃない」
「駄目。あんたの触り方は何か気に入らない」
一瞬目を丸くした紫は、くつくつと怪しい笑い声を上げた。
「ヒナ鳥を拾った猫の親心ってところかしら。偉いわ霊夢。その子を拾って育てるつもりなのね」
「何でそうなるのよ。これは私が処理するから放っといて頂戴」
「処理するだなんて。可哀想」
「だってこんなの誰かに見られたら、変な噂が立っちゃうじゃない。どうせもう死にそうなんだし」
紫に背を向けて話していると、いつの間にか饅頭を撫でる手が目の前にあった。すきま越しに撫でる紫の手だ。
「そうね。それほどあなたにそっくりな子がいたとなると、周りは黙っていないでしょうねえ。誰それの隠し子! とか言って。特にあのマスコミがね」
聞きながら、霊夢は紫の手を払った。払っても、懲りずに新しいすきまから手が出てくる。
「でももう遅いわ。だってあれほど眩しい光が夜空から落ちてくれば、目撃者は私と霊夢だけで済むはずがないもの。ここに落ちたことも見れば丸分かりだし。そうすると次は落下物に注目が集まって、貴女がこの子を処理しようものなら行方不明の落下物と博麗神社の関連性が疑われる。ロズウェル事件って言ってね、外の世界でも似たようなことがあったのよ」
「……だからその前にこれを」
話を遮ろうとする霊夢の声に、紫がさらにその上から被せる。
「そうすれば後は簡単。マスコミに嗅ぎ回られて霊夢のプライバシーは無くなり、有ること無いこと面白可笑しく記事にされるだけ。参拝客どころじゃなくなるわよ?」
紫の言うマスコミとは、射命丸文のことで間違いないだろう。文は自らの発行する新聞に確証のあることしか書かないポリシーを持つと聞くので、紫が大袈裟な事を言っているにしか過ぎない。
「そ、そんなことある訳ないじゃない。文はデタラメは書かないはずよ」
「そうかしら。最近は冴えない記事ばっかりだし、スクープのためならどう出てくるか分からないわよ。ていうか貴女、妖怪の言うこと信用してたの?」
紫は脅しとも取れるデタラメを言っている。そう思いたいのに、手元の自分そっくりの饅頭のせいで断固否定することが出来ない。あまつさえ自分のことを棚に上げた紫に、「その口が言うか」と言ってやる余裕すら無かった。
ついに反論することが出来ずに黙り込む霊夢を、紫が畳み掛ける。紫は霊夢の背後に近寄ると、耳元で囁いた。
「せめてその子が元気になるまで、匿ってあげなさい」
甘香漂う声音が霊夢の耳をくすぐった。
紫は同じ調子で、二の句を継いだ。
「もちろん私も協力する。私の可愛い霊夢と、ちび霊夢のためだもの」
霊夢は、その悩ましい声に頷くしかなかった。
それを見た紫は「良い子ね」と言って、霊夢の頭を優しく撫でた。
霊夢そっくりの饅頭にそうしたように、優しく、優しく。
「この子は、私と霊夢、二人だけの秘密ね。ふふっ」
紫は嬉しそうに秘密の共有宣言をした。
秘密の共有を宣言することで、霊夢の中に仲間意識を芽生えさせる策略といったところか。その真意を端的に言うと、「もう逃がさない」だろうか。それとも、霊夢との秘密の共有を純粋に喜んでいるだけなのか。本当のところは、紫本人にしか分からない。
一方の霊夢は、頭を撫でる紫の手を払おうとせず、悔しそうにこう呟いた。
「もう。あんたはいっつもそうやって、人のことを丸め込むんだから」
──続く
参拝客のことではない。参拝目的に誰かがこの神社を訪れてくることなら、とうの昔に諦めている。神社に向かう途中のけもの道に妖怪が棲んでいるお陰で、里の人間が神社に近づかないからだ(客が来ない原因を霊夢はそう思っている)。
神社の運営や食っていくためには参拝者の賽銭が必要不可欠だが、それに対する博麗神社の立地条件は最悪で、真面目に社務を行うだけ馬鹿を見る羽目になる。早い段階でそれを悟った霊夢は、境内の掃除すらろくにせず、使用済みの茶葉を天日干しして何回も使い回すようなつましい生活をしながらも、それに甘んじた怠惰な生活を送っていた。
そんな霊夢が今日一日待っていたのは、神を崇めに来る客ではなく、霊夢への客であった。
雨の中にも関わらず、魔理沙や萃香といった常連は相変わらず今日も来ていて、薄い茶に文句をつけながら下らない話をして、日没の雨上がりと同じ頃に帰っていった。
霊夢の待つ客が常連客とタイミングをずらしてくるのはよくあることだが、今日はそれも無く、そうこうするうちに夜が来た。
夕飯時を狙っているのだと思って夕飯を一人分多めに作ったのだが、いつまで経っても来ることは無く、結局霊夢一人で夕飯を済ませ(残った分は明日に回すらしい)、腹も重たいまま風呂に入った。その客は最近顔を見せるのが当たり前だったので、来ない理由をぼんやり考えていたらすっかり長風呂になってしまった。
風呂から上がり、髪の手入れをした後、霊夢は縁側で水を飲みながら涼んだ。
水無月と言えど雨上がりの風は冷たく、長時間涼んでいたら体は簡単に冷えてしまうだろう。霊夢は夜空を見るともなしに見上げていたが、肌寒さを覚え、腕を擦りながら部屋へ戻った。
結局、今日は来なかった。
溜息と共に寝間の障子を閉め、寝間に寝具を広げた。寝る前に鏡の前でもう一度髪をとかしていると、突然、横から髪を撫でる指が鏡に映った。霊夢は驚いて身をすくませた。
「意外にお手入れ好きなのね」
いつの間にか紫が霊夢の左横にいて、霊夢の髪を指に捲きつけたりして遊んでいる。
紫の能力は境界を操る程度の能力であるから、『いつの間にか』という言葉は彼女のためにあるようなもの。紫は霊夢の目の高さに空間の裂け目を作り、そこから上体を出し、霊夢の髪の触り心地を興味深そうに確かめている。
「紫っ」
霊夢は紫の姿を見るなり、自分の髪に絡みつく紫の指を振り払った。
「おはよう、霊夢」
「何がおはようよ。こんな遅くにやって来ておいて。こっちはもう寝るんだけど」
再度伸びてくる紫の手を払いながら、霊夢はツンと不機嫌そうな顔をした。
「あら、今何時かしら」
「そろそろ子の刻。日付、変わるんだけど」
迷惑そうに言って、髪に櫛を通す作業を再開すると、紫は何も聞こえなかったかのように無反応だった。というよりも、霊夢の髪に興味があるらしく、裂け目に両肘を乗せて髪をとかす様をしげしげと観察していた。
最初はそれを無視して自分の髪と格闘していた霊夢だったが、次第に耐え切れなくなった。目の端に紫のにやついた顔があるのだから無理もない。
「……何?」
手を止めて紫のほうを向くと、「ううん」と柔らかい返事だけが返って来た。微笑みながら小首を傾げる仕草がどうにも怪しい。
気にせずに髪をとかしていると、
「霊夢も女の子ねえ」
紫がぽそりと呟いた。
「でも、それだけ入念にとかしても、サラサラの髪とは呼び難いわねぇ」
「うるさい」
「霊夢もシャンプーを使うといいんじゃない? 香霖堂で売ってるわよきっと」
『霊夢も』と言ってシャンプーを勧めるあたり、紫は自分の髪に自信を持っているのだろう。そして、この神社にそんなものを買う余裕が無いことも知ってのことだろう。
霊夢は櫛を鏡の前に乱暴に置くと、紫には目もくれず立ち上がった。
「なんだか今日は機嫌が悪いのねぇ」
紫の言う通り、霊夢は機嫌が悪かった。
原因は髪の事を馬鹿にされたからではない。本当の原因は、日付も変わろうかという時間になってひょっこり現れた紫に対してが半分と、そんな紫のことを今日一日待ち呆けていた自分に対してが半分である。
不機嫌な霊夢の背後で、紫がくつくつと笑いだした。
霊夢が肩越しに振り返ると、紫は口元を手で押さえて笑っていた。目は不敵に霊夢のことを見つめている。
「私が来るの待ってたんでしょ?」
「なっ」
霊夢は弾かれたように体の向きを変えた。
「今日私が来るのが遅かったから、機嫌が悪いんでしょ?」
「なわけないじゃない。馬っ鹿でしょ、あんた」
寝巻きの長袖を指と手の平で掴みながら、霊夢は口調を強くした。今までのそっけない態度から一変した霊夢は、明らかに紫の言葉をいなせていなかった。
「図星?」
「だーかーら、違うって言ってるでしょ。あんたを待ってるほど私は暇でも物好きでもない!」
「酷いわね。私は嗜好家向けってことですか」
「ええそうよ」
「じゃあ霊夢は稀に見る嗜好家ね。嬉しいわ」
「根拠が無い」
「ありますとも」
「なら言ってみなさいよ」
紫は霊夢の口撃を冷静にいなしている。いなしながら、反撃に出ることも忘れない。紫は白々しい笑みを顔に貼り付けて、言った。
「台所」
途端、霊夢の体にぴくり、と電流が流れたのが分かった。
ついで、霊夢の大きめの瞳が四方八方に泳ぎだし、口が酸欠の金魚のように声もなく動き、頬が赤く染まりだした。
台所という脈絡の無い単語に、霊夢の口を封じ込む力があることを紫は知っていた。
何故なら、霊夢の髪を弄りに現れる前に、台所に置いてある夕飯の残りを見たからだ。
一人暮らしの霊夢が二人前以上の量を作るのはおかしいし、誰かと一緒に夕飯を食べた後であっても、綺麗に一人前の量を残すのは不自然。誰かに食べさせるために残しておいたと考えたほうが自然。紫はそう推理した。
「あれ、私の分でしょ?」
「あう……」
「ご飯を作って、私が来るのを待っててくれたんでしょう?」
「ちが……」
「それで、私が来なかったから仕方無しに一人で食べた」
霊夢は絶句して、紫に背を向けた。
分かりやすい霊夢の反応に、紫は目を細めながら霊夢に近づいて、横から顔を覗き込んだ。白い寝巻き姿に茹だったその顔はよく映える。
「私の可愛い可愛い巫女さん。たった今、貴女のもとに帰って来ましたよ」
霊夢は紫と目を合わせると、さっ、と目線を外した。
「か、勘違いしないでよ。あれはただ作り置きしただけよ。明日の朝ご飯よ。朝っぱらからご飯を作るのがかったるいのよ」
紫は、しどろもどろに語尾を『よ』で揃える霊夢の正面に回りこんだ。
「あれやってよあれ。ご飯にする? お風呂にする? それとも私? ってやつ」
霊夢はわなわなと体を震わせると、俯いた顔を上げて叫んだ。半泣きだった。
「死ねっ! このクソすきま!」
悪態をついた霊夢は、下唇を噛みながら寝間の中央に敷いた布団へ向かった。
「女の子が死ねとかクソとか言っちゃだめよ、霊夢」
「もう寝るっ!」
「あらあら、つれないのねぇ。じゃあさっき起きたばかりだけど、霊夢が今から寝るって言うなら私も一緒に寝てあげる」
その言葉に、ゆらり、と振り返った霊夢の顔は、先ほどのような抱き締めたくなる恥じらいの表情ではなく、完全に妖怪退治用のそれになっていた。
「調子に乗るなああああああ!」
霊夢がキレた。
霊夢は両手の指の間に無数の札を挟み、紫に向かって投げつけた。札を投げた直後の霊夢の右手にスペルカードが握られていた。絵柄からして、かなり物騒なレベルのスペルだろう。
札をかわした後、紫は速やかに異空間へと身を投げた。無意味な戦いなどまっぴらだし、色々な意味で、相手が霊夢であれば尚更なのだろう。
「今度は早起きするから、お夕飯食べさせてね」
紫は爽やかに手を振りながら空間の裂け目を閉じた。次の瞬間、牽制用の陰陽玉がそこを通過し、背後の障子を突き倒したのだった。
◆◇◆
明かりを落とした寝間は、先ほどの騒がしさが嘘のように静かだった。
今夜は風が無いらしく、物音一つしない。鎮守の森は衣擦れの音を立てず、社務所の中には霊夢以外誰も居ない。もっとも、境内には幽霊が出るが、音を立てる輩は今夜は出ていないらしい。なので、静かな十畳間には霊夢自身の息遣いが大きいくらいだった。
障子越しに月明かりが畳に落ち、それが燭光となっているためある程度視界が利く。その青白いおぼろげな月光を見ていると、濃密な静寂に身を浸しているのだと思えてくる。
『私も一緒に寝てあげる』
紫の言った台詞が寝間に響く。霊夢がキレた台詞であったが、それだけ霊夢にとって威力のある台詞だった。
霊夢は、その台詞の前後のやり取りを何度も思い返していた。思い返す度に寝返りを打ち、寝返りを打てば打つほど悶々とした。
「紫のバカ」
布団の中に潜り込んだ霊夢は、唇を尖らせぽそりと呟いた。紫本人が寝間に聞き耳を立てている可能性もゼロでは無いし、それに大きな声で言うと余計に意識してしまう気がしたのだ。
──そんなこと、冗談に任せて言わないでよ。
布団に潜ろうが小声で言おうが、どちらにせよ意識せずにはいられない。霊夢の目は冴える一方だった。
気がつけば寝間に差し込む月明かりの向きが変わっていた。時間の感覚はすっかり麻痺していたが、明日は確実に遅寝をするだろうと思いつつ、霊夢はまた寝返りを打った。
すると、右耳に違和感を覚えた。
「何……?」
野犬の唸り声のような低い音が微かに聞こえてくる。床から布団、布団から枕を伝い、枕につけた右耳の鼓膜を震わせる。その音は、次第に獰猛な野獣のそれになり、ついには地底から巨大な悪魔でも出てきそうな地鳴りへと変わった。
障子ががたがたと揺れている。障子だけでなく、床も、柱も、天井も、全てが何かに怯えるように軋みをあげている。
掛け布団を捲り、霊夢は上体を僅かにもたげた。
この間の異常気象の騒ぎが、霊夢の脳裏をよぎる。退屈しのぎというふざけた名目で異変を起こした天人ならこってり懲らしめてやったので、三度目の神社倒壊は無いと思っていた。もし、あの天人が懲りずにまた地震を起こしていたと分かったときには、灸を据えるだけでは済まさない。
地震の最中に後先のことを考えても仕方が無い。霊夢が苦虫を潰したような顔で、天人の仕業かと疑っている間にも揺れは強さを増し、やがて社務所全体が上下に突き上げられだした。
外に避難しないとまずい。二度も倒壊していれば言うまでもないが、社務所は木造のため丈夫ではない。寝間から外に出るには縁側が最短である。霊夢は身を起こしながら縁側に面した障子へ体を向けた。
締め切った障子は、青白い月明かりを透過させているはずだった。
しかし、今、障子の向こうから翡翠色のまばゆい光が放たれているではないか。
「な、なんなのよ、これ!」
この状況では驚かないほうがおかしい。
霊夢は突如現れた強い光を前にして、障子の向こうを見ることをためらった。しかし、このまま寝間に留まっていては社務所の下敷きになってしまうかもしれない。前に崖、後ろにライオンの心持ちの霊夢は、数瞬のためらいの後に前方を選んだ。二枚の障子に手をかけ、ばん、と勢いよく開けて縁側に飛び出した。
すぐに分かった。
東の空から隕石が落ちてきているのが。
それも、神社めがけて落ちてきているのが!
そう理解しつつも、霊夢は呼吸が止まるほど驚愕した。そして、霊夢の呼吸が戻るよりも早く、翡翠色の隕石が目の前を矢のように横切り、鎮守の森の向こうへ消えた。
刹那、森の合間から一際眩しい光が放たれ、霊夢は咄嗟に腕で目を庇った。
同時に、凄まじい衝撃により体が一瞬地を離れ、脳天を打つような強烈な衝撃音が轟いた。
数瞬遅れて巻き起こった突風に、鎮守の森が泡を食ったようにざわめき、もう崩れてたまるかとばかりに、社務所が懸命に揺れに耐えている。
五感のほとんどを奪われて縮こまった霊夢は、その家屋独特の不吉な軋みを微かに耳にしながら、辺りが鎮まるのを待った。
ほどなくして翡翠の光は弱まってゆき、やがて消えた。途端、入れ替わるように闇が辺りを包んだ。地震も治まった。木々のざわめきはまだ止みそうもないが、社務所は何とか無事だ。
そのことに安堵しつつも、心臓の早鐘が鎮まらない霊夢は、翡翠の光が焼きついた目で隕石が落ちた方角を見た。
隕石の軌道からして、落ちた場所は参道の階段付近とみられる。
「ウチに当たらなくて良かったけど……」
どれだけ神社を荒らされれば済むのかしら、という言葉を端折って、寝間まで手燭を取りに戻った。
今度は縁側の履物をちゃんと履いて、落下地点へと急いだ。
境内の表へ回る。
一寸を照らすばかりの手元の小さな明かりでも、表には何ら異常は無いのが分かる。石畳の参道を出口に向かって小走りし、階段へと差し掛かる。
石造りの階段を早足で下りてゆくと、揺れる明かりに照らされて次々と浮かび上がる白い石段が、突然真っ黒に切り変わった。驚いた霊夢は、慌てて己の足に二の足を踏ませた。何とかその場に踏み留まると、階段の欠片がぱらぱらと落ちた。
階段が、途中から消えて無くなっている。
明かりを持っていなかったらそのまま転落していたかもしれない。背中に冷たいものが這うのを感じながら、霊夢は前屈みになり、恐る恐る明かりを下に向けた。
石階段は、等間隔にしつらえた灯篭ごと途中で抉り取られていて、山の地肌が見えてしまっている。灯篭どころか周りの木々をも巻き込んで穿たれた大穴は、隕石落下の衝撃で出来たとしか考えられない。
落下地点は霊夢の予想通りだった。だが、穴の大きさと暗闇も手伝ってか、ここからでは肝心の隕石が見えない。霊夢は好奇心に任せて穴の中に足を降ろすと、中心に向かって斜面を滑り下りていった。
穴の一番深い部分までやって来るも、そこに隕石やそれに準ずるものは見当たらなかった。
その代わりに、妙なものがいた。
「何……、こいつ」
よく見えるようにと、霊夢は手を膝について手燭の明かりをそれに向けた。
明らかに人ではない。
顔は明らかに人の顔だが、これは人ではない。
いくらなんでも、一頭身の人間などいるはずがない。
一頭身。つまり頭だけである。
その表現だとまるで生首だが、それはそんな生臭いものではなく、饅頭のようにまん丸い。もしくは綿を目一杯詰め込んだぬいぐるみのようにも見える。
生き物かどうかも疑わしかったが、それは確かに息をしていた。だが、気を失っているらしく天を仰いだままぴくりとも動かない。
得体の知れない生き物が空から降ってきた。──いや、全く得体の知れない生き物と霊夢には言い切れることが出来なかった。
「どうしてこんな……いや、まさか」
その饅頭のような生き物は、頭に赤いリボンをつけている。リボンはノコギリ状の白線で縁取られていて、普段着の霊夢もそれとそっくりのリボンを頭につけている。それに、セミロングの霊夢より髪はやや短いものの、耳元の髪飾りの筒まで同じで、見れば見るほど霊夢にそっくりだった。
「こんにちは。霊夢」
霊夢は今、最も会いたくない人物に会ってしまった。
明かりを横に向けると、紫の艶っぽい微笑が暗闇に浮かび上がった。またしても、いつの間にか現れた紫が、すきまから顔を出していた。
「なんであんたはこういう時ばっかり……」
早いのよ。
そう言いかけて、霊夢は口をつぐんだ。
「こういう時ってどういう時かしら」
「面倒臭い時よ」
即答するも、紫の目が細まるのを見ていられず、霊夢は饅頭に明かりを戻した。その折に饅頭がわずかに反応した。ゆ、ゆ、とうなされながら、苦しそうに眉根を寄せている。
「その子、どうしたの?」
「私が聞きたいわよ」
「さっき空から落ちてきたのはその子?」
「紫も見てたの?」
「ええ。誰かさんがつれないお陰で、窓辺で本を読んでましたから」
「寝る前にあんなちょっかいを出しに来れば当たり前でしょ。ていうか本を読んでる暇があったら、自分が張った結界くらいちゃんと管理しなさいよ」
「してるからここに来たんじゃない」
「じゃあまた訳の分からないものを連れ込んだってことか。あんたの神隠しもここまで来ると迷惑以外の何物でもないわね」
「そうね。迷惑をかけて悪かったわ」
意外にも、紫は素直に自分の非を認めた──ように見えた。
「でも、結界を破られるくらいなんだから、誰かに迷惑が及ぶのは仕方無いことだとは思うけど。その誰かが、たまたま霊夢だっただけ」
「結界が破られた?」
紫は「そ」と短く返事をしてすきまから這い出ると、饅頭の横で膝を曲げ、それの頭を撫で始めた。
紫に頭を撫でられて表情をわずかに和らげた饅頭を尻目に、霊夢は言った。
「破られることなんてありえるの?」
「だからこの子がいるんじゃない」
まるで、膝の上で眠る飼い猫に向ける眼差しのように、饅頭を見る紫のそれは優しい。
「流石に焦ったわ。今まで結界を突破されることなんて無かったから。大事になる前に事を沈めようと現場に駆けつけたってわけ。幻想郷に土足で上がりこむ輩なんて、絶対許さないもの」
「そう言っている割には、えらくそれがお気に入りのようね」
霊夢が饅頭を顎で指してやると、紫は饅頭のことを抱き上げた。
「だってほら。この子、霊夢にそっくりなんだもの」
言われた。
そもそもこの老獪なすきま妖怪が、それに気が付かないわけがなかった。
「どこがよ」
「すごく似てるわよ」
「リボンとか髪型とかだけでしょ」
「え? 髪型は全く似てないじゃない。似てるのは」
ぐったりした饅頭を霊夢に突き出して、紫は楽しげに言った。
「顔よ顔」
「私、こんな間抜けな顔してないから!」
「いいわね。ここへ来て妹誕生とか」
「勝手にその生き物を私の妹にするな」
「じゃあ霊夢の子供?」
「どうやれば私から一頭身の子供が生まれんのよ」
「試してみる?」
「試す必要ない!」
きっぱり否定しても、紫に対してはぬかに釘、暖簾に腕押しである。
紫は「あらあら」と肩をすくめながら、その豊かな胸元に饅頭を戻すなり、殊更大事そうに饅頭のことを抱き直した。
顔はともかく、身につけているものが自分にそっくりな饅頭のことを可愛がる紫を見ていたら、霊夢は妙な気恥ずかしさを覚えた。
「ちょっと。それ……、こっちに渡しなさいよ」
「あら、やっぱり心当たりが?」
いちいち反応するのも面倒臭く、霊夢は差し出された饅頭を乱暴にひったくった。「優しくしなきゃだめよ」という言葉も当然無視した。
紫が抱きかかているときにも思ったが、饅頭は意外に大きい。
霊夢が抱えると、顎の先からへそ辺りまですっぽりと隠れてしまう。重さも思いのほかあって、三、四キロはあるだろうか。霊夢はその重さから、我が家の米びつの窮迫ぶりを思い出し、少し悲しくなったのだった。
一方の饅頭は、霊夢の腕の中でゆ、ゆ、と言いながら何度か身じろぎして、霊夢の胸へ土に汚れた顔を押し当てている。
それを見た紫が、
「霊夢の薄い胸じゃ物足りないんじゃないかしら」
と悪戯っぽく笑った。
確かに饅頭は紫の胸だと大人しかったので、どうにも反論しづらい。
「あんたがありすぎるの」
「いいじゃない。大は小を兼ねるんだし」
「今日び、大は邪魔になるだけよ」
紫は霊夢に一歩近寄って、失神している饅頭に手を伸ばした。
霊夢は、その手が饅頭に触れないよう体を回した。
「あら、触らせてくれたっていいじゃない」
「駄目。あんたの触り方は何か気に入らない」
一瞬目を丸くした紫は、くつくつと怪しい笑い声を上げた。
「ヒナ鳥を拾った猫の親心ってところかしら。偉いわ霊夢。その子を拾って育てるつもりなのね」
「何でそうなるのよ。これは私が処理するから放っといて頂戴」
「処理するだなんて。可哀想」
「だってこんなの誰かに見られたら、変な噂が立っちゃうじゃない。どうせもう死にそうなんだし」
紫に背を向けて話していると、いつの間にか饅頭を撫でる手が目の前にあった。すきま越しに撫でる紫の手だ。
「そうね。それほどあなたにそっくりな子がいたとなると、周りは黙っていないでしょうねえ。誰それの隠し子! とか言って。特にあのマスコミがね」
聞きながら、霊夢は紫の手を払った。払っても、懲りずに新しいすきまから手が出てくる。
「でももう遅いわ。だってあれほど眩しい光が夜空から落ちてくれば、目撃者は私と霊夢だけで済むはずがないもの。ここに落ちたことも見れば丸分かりだし。そうすると次は落下物に注目が集まって、貴女がこの子を処理しようものなら行方不明の落下物と博麗神社の関連性が疑われる。ロズウェル事件って言ってね、外の世界でも似たようなことがあったのよ」
「……だからその前にこれを」
話を遮ろうとする霊夢の声に、紫がさらにその上から被せる。
「そうすれば後は簡単。マスコミに嗅ぎ回られて霊夢のプライバシーは無くなり、有ること無いこと面白可笑しく記事にされるだけ。参拝客どころじゃなくなるわよ?」
紫の言うマスコミとは、射命丸文のことで間違いないだろう。文は自らの発行する新聞に確証のあることしか書かないポリシーを持つと聞くので、紫が大袈裟な事を言っているにしか過ぎない。
「そ、そんなことある訳ないじゃない。文はデタラメは書かないはずよ」
「そうかしら。最近は冴えない記事ばっかりだし、スクープのためならどう出てくるか分からないわよ。ていうか貴女、妖怪の言うこと信用してたの?」
紫は脅しとも取れるデタラメを言っている。そう思いたいのに、手元の自分そっくりの饅頭のせいで断固否定することが出来ない。あまつさえ自分のことを棚に上げた紫に、「その口が言うか」と言ってやる余裕すら無かった。
ついに反論することが出来ずに黙り込む霊夢を、紫が畳み掛ける。紫は霊夢の背後に近寄ると、耳元で囁いた。
「せめてその子が元気になるまで、匿ってあげなさい」
甘香漂う声音が霊夢の耳をくすぐった。
紫は同じ調子で、二の句を継いだ。
「もちろん私も協力する。私の可愛い霊夢と、ちび霊夢のためだもの」
霊夢は、その悩ましい声に頷くしかなかった。
それを見た紫は「良い子ね」と言って、霊夢の頭を優しく撫でた。
霊夢そっくりの饅頭にそうしたように、優しく、優しく。
「この子は、私と霊夢、二人だけの秘密ね。ふふっ」
紫は嬉しそうに秘密の共有宣言をした。
秘密の共有を宣言することで、霊夢の中に仲間意識を芽生えさせる策略といったところか。その真意を端的に言うと、「もう逃がさない」だろうか。それとも、霊夢との秘密の共有を純粋に喜んでいるだけなのか。本当のところは、紫本人にしか分からない。
一方の霊夢は、頭を撫でる紫の手を払おうとせず、悔しそうにこう呟いた。
「もう。あんたはいっつもそうやって、人のことを丸め込むんだから」
──続く
つまり、ゆっくりは地球外生命体だったんだよ!
な、なんだってー!?>ΩΩΩ