部屋の片隅に、月明かりと机の燭火一つで本を読む少女が居る。
細く開けた窓から申し訳程度の風が部屋に入ってくるが、その風でなびいてしまいそうなくらい細く美しい金髪の下に、これまた美しい顔がある。肌の白さは暗がりの部屋によく映えていて、体の線は少女のそれにしては少々起伏が激しい。文字を追う目の運びや、ページを捲る仕草はいちいち艶っぽくも、理知的な色も宿っているのだから何とも悩ましい。
見目麗しいその少女の名は、八雲紫。
少女と呼び難い色香を放つ紫であるが、それもそのはず、彼女は実は齢数百年(本人以外に正確な年齢は分からない)の妖怪であり、また、幻想郷の創造に立ち会った賢者の一人ともされている。
そんな賢者が読む本はさぞ難解なものと思いきや、紫が読んでいるのは割と読みやすい文体をした外界の小説だった。
紫は、暇を持て余すと屋敷にある本を読み漁ることがある。外界の物で溢れる紫の屋敷では日々新しい本が増えてゆくので、ちょうど今夜のような霊夢に相手にしてもらえなかった夜は、未読の本を消化する良い機会だった。
今日、紫はそろそろ日付が変わろうかという時間に目覚めた。彼女は元々夜行性らしいが、日中に活動していることも多々あって、今ひとつ信憑性の無い情報と言える。ただ単に、彼女が不規則な生活をしているだけとも考えられるが、何にせよ、こんな遅い時間に霊夢のもとへ遊びに行けば結果は明々白々である。
台所の作り置きを見て、いささか霊夢のことをからかい過ぎた感があるし、あまつさえ『今から寝るって言うなら、私も一緒に寝てあげる』と食い下っては、要らぬ弾幕バトルを強いられそうになるというものだ。
敢えなく神社から撤退した紫は、屋敷に戻ると、することが無いということで読書を始め、今に至る。小説を三冊読み終えると流石に本の熱も冷めてきて、紫は机の真正面に設えられた窓に目をやった。
東の夜空に、千切れた灰色の雲が幾つも浮かんでいる。時折部屋に入り込むそよ風には冷たさと湿り気があり、日中雨が降っていたことを思わせる。水無月が見せた貴重な晴れ間だが、面白い事が特に無い紫にとっては雨が降っていてもいなくても今日一日の過ごし方に変わりは無かった。
「月も退屈そうね」
高々と懸かった月輪を見て、紫は呟く。
開いたページを片手で押さえながら、物憂げに頬杖を突く。白い頬は月明かりに照らされて砂浜のように煌き、瞳には丸い月を映す。吸い込まれそうな月の妖しげな姿を見ていると、ふと、あの屈辱的な記憶が蘇ってきた。
次はどうやって月の牙城を攻め落としてみせよう──そんな穏やかでない考えが頭に広がってゆくのが分かるくらいに、紫の目つきが老獪な妖怪のそれに変わっていった。しかし紫の理性がそれを制したのか、それともそんな気分じゃないだけなのか、彼女は小さく息を吐くと、首を横に振りながら苦笑いをしてみせた。
やれやれと目線を手元の小説に戻すと、急に紫の動きが止まり、目が見開かれた。顔からは苦い笑みが一瞬で消え、反射的に机から身を乗り出す格好で窓枠に両手をついた。
「何……?」
雲がその場所に留まっていられるくらい穏やかな闇の底で、紫の目は東の雲と月の間あたりを捉えた。そこには何もない。あるのは夜のしじまだけで、強いて言えば、暗順応した目に小さな星が浮かびあがるくらいだ。
しかし、紫が見据えているのは夜空という実態のあるものではなく、博麗大結界という常識と非常識を分ける論理的な結界であった。
「──数は一つ。この調子じゃあ突破することはとても無理みたいね。それよりも、結界に触れることが出来ることのほうがよっぽど問題」
紫は、結界を外から突破しようとする存在を感知したのである。
紫は幻想郷の創造に関わっただけにこの世界を誰よりも愛している。なので、神隠しなどの紫の自発的行為を除き、外部からこの世界に干渉する存在が現れれば、紫は何らかの対応をする必要が出てくる。自身の能力や、博麗大結界に落ち度は無いはずだが、幻想郷の脅威は速やかに排除しなければならない。胡散臭い妖怪のレッテルの裏で、この世界を守ってゆくためにだ。
紫の思ったとおり、結界を破ろうとする者は結界に触れることは出来るものの、破る力や能力は持ち合わせていないようだ。結界に突っ込んでは弾き返され、また突っ込んでは弾き返されを延々と繰り返しているらしい。
その能の無い手段と、単純な思考回路に、紫は結界の外にいる者に害は無いと思った。判断するにはまだ情報不足だが、老猾な妖怪には知識以外にも勘が備わってくる。紫の勘が、害は無いと言っているのだ。
それに、紫は結界に触れることの出来る者に接触する必要があった。接触することで、結界の脆弱性が見えてくるかもしれないからだ。それは幻想郷を守ってゆく上で重要なことだが、紫には接触したいもっと大きな理由が他にあった。
『暇だから』
である。
「害意が無いんだから、何を連れ込もうが誰にも文句言わせないわ」
微笑を湛えながらそう言って、紫は東の夜空に右手をかざした。人差し指と中指を揃えて、裁ちばさみで布を裂くように、さっ、と横一文字を描いた。すると、指の先にある千切れた雲の合間から、白く光る物体が現れた。
まるで太陽が出番を間違えたかのようで、それは月の姿を掻き消すほど激しく夜空を照らしながら、斜め一直線に軌道を描いている。翡翠色の長い尾ひれが空にくっきりと痕をつけ、空を切り裂くように、猛烈な速さで地上へ堕ちてゆく。
その様子を見た紫は最初、隕石が堕ちてきたのか思った。だがすぐに、それはありえないと思った。隕石ならば結界に触れられないし、触れられても何度も突破を試みる訳がないからだ。
隕石のような物体は、地響きのような音を伴って落下を続け、ついに地面に衝突した。衝突した刹那、星が爆発したような一際眩しい光を放ち、数瞬遅れて低い衝撃音が聞こえてきた。さらに遅れて突風が波のように押し寄せ、木々や窓ガラスを騒がせると、最後には地震が起こった。紫の屋敷から相当離れているのにも関わらずに起こったそれらの現象は、衝撃の強さを物語っていた。
揺れと風が収まるのを待ちながら、紫はその物体が墜落した地点を凝視していた。
辺りに静けさが戻ると、呟かずにはいられなかった。
「ふふっ、面白いことになりそうね」
紫は、藍が騒ぎ騒ぎ出す前に発つことにした。
墜落地点である、博麗神社へと。
続く──
細く開けた窓から申し訳程度の風が部屋に入ってくるが、その風でなびいてしまいそうなくらい細く美しい金髪の下に、これまた美しい顔がある。肌の白さは暗がりの部屋によく映えていて、体の線は少女のそれにしては少々起伏が激しい。文字を追う目の運びや、ページを捲る仕草はいちいち艶っぽくも、理知的な色も宿っているのだから何とも悩ましい。
見目麗しいその少女の名は、八雲紫。
少女と呼び難い色香を放つ紫であるが、それもそのはず、彼女は実は齢数百年(本人以外に正確な年齢は分からない)の妖怪であり、また、幻想郷の創造に立ち会った賢者の一人ともされている。
そんな賢者が読む本はさぞ難解なものと思いきや、紫が読んでいるのは割と読みやすい文体をした外界の小説だった。
紫は、暇を持て余すと屋敷にある本を読み漁ることがある。外界の物で溢れる紫の屋敷では日々新しい本が増えてゆくので、ちょうど今夜のような霊夢に相手にしてもらえなかった夜は、未読の本を消化する良い機会だった。
今日、紫はそろそろ日付が変わろうかという時間に目覚めた。彼女は元々夜行性らしいが、日中に活動していることも多々あって、今ひとつ信憑性の無い情報と言える。ただ単に、彼女が不規則な生活をしているだけとも考えられるが、何にせよ、こんな遅い時間に霊夢のもとへ遊びに行けば結果は明々白々である。
台所の作り置きを見て、いささか霊夢のことをからかい過ぎた感があるし、あまつさえ『今から寝るって言うなら、私も一緒に寝てあげる』と食い下っては、要らぬ弾幕バトルを強いられそうになるというものだ。
敢えなく神社から撤退した紫は、屋敷に戻ると、することが無いということで読書を始め、今に至る。小説を三冊読み終えると流石に本の熱も冷めてきて、紫は机の真正面に設えられた窓に目をやった。
東の夜空に、千切れた灰色の雲が幾つも浮かんでいる。時折部屋に入り込むそよ風には冷たさと湿り気があり、日中雨が降っていたことを思わせる。水無月が見せた貴重な晴れ間だが、面白い事が特に無い紫にとっては雨が降っていてもいなくても今日一日の過ごし方に変わりは無かった。
「月も退屈そうね」
高々と懸かった月輪を見て、紫は呟く。
開いたページを片手で押さえながら、物憂げに頬杖を突く。白い頬は月明かりに照らされて砂浜のように煌き、瞳には丸い月を映す。吸い込まれそうな月の妖しげな姿を見ていると、ふと、あの屈辱的な記憶が蘇ってきた。
次はどうやって月の牙城を攻め落としてみせよう──そんな穏やかでない考えが頭に広がってゆくのが分かるくらいに、紫の目つきが老獪な妖怪のそれに変わっていった。しかし紫の理性がそれを制したのか、それともそんな気分じゃないだけなのか、彼女は小さく息を吐くと、首を横に振りながら苦笑いをしてみせた。
やれやれと目線を手元の小説に戻すと、急に紫の動きが止まり、目が見開かれた。顔からは苦い笑みが一瞬で消え、反射的に机から身を乗り出す格好で窓枠に両手をついた。
「何……?」
雲がその場所に留まっていられるくらい穏やかな闇の底で、紫の目は東の雲と月の間あたりを捉えた。そこには何もない。あるのは夜のしじまだけで、強いて言えば、暗順応した目に小さな星が浮かびあがるくらいだ。
しかし、紫が見据えているのは夜空という実態のあるものではなく、博麗大結界という常識と非常識を分ける論理的な結界であった。
「──数は一つ。この調子じゃあ突破することはとても無理みたいね。それよりも、結界に触れることが出来ることのほうがよっぽど問題」
紫は、結界を外から突破しようとする存在を感知したのである。
紫は幻想郷の創造に関わっただけにこの世界を誰よりも愛している。なので、神隠しなどの紫の自発的行為を除き、外部からこの世界に干渉する存在が現れれば、紫は何らかの対応をする必要が出てくる。自身の能力や、博麗大結界に落ち度は無いはずだが、幻想郷の脅威は速やかに排除しなければならない。胡散臭い妖怪のレッテルの裏で、この世界を守ってゆくためにだ。
紫の思ったとおり、結界を破ろうとする者は結界に触れることは出来るものの、破る力や能力は持ち合わせていないようだ。結界に突っ込んでは弾き返され、また突っ込んでは弾き返されを延々と繰り返しているらしい。
その能の無い手段と、単純な思考回路に、紫は結界の外にいる者に害は無いと思った。判断するにはまだ情報不足だが、老猾な妖怪には知識以外にも勘が備わってくる。紫の勘が、害は無いと言っているのだ。
それに、紫は結界に触れることの出来る者に接触する必要があった。接触することで、結界の脆弱性が見えてくるかもしれないからだ。それは幻想郷を守ってゆく上で重要なことだが、紫には接触したいもっと大きな理由が他にあった。
『暇だから』
である。
「害意が無いんだから、何を連れ込もうが誰にも文句言わせないわ」
微笑を湛えながらそう言って、紫は東の夜空に右手をかざした。人差し指と中指を揃えて、裁ちばさみで布を裂くように、さっ、と横一文字を描いた。すると、指の先にある千切れた雲の合間から、白く光る物体が現れた。
まるで太陽が出番を間違えたかのようで、それは月の姿を掻き消すほど激しく夜空を照らしながら、斜め一直線に軌道を描いている。翡翠色の長い尾ひれが空にくっきりと痕をつけ、空を切り裂くように、猛烈な速さで地上へ堕ちてゆく。
その様子を見た紫は最初、隕石が堕ちてきたのか思った。だがすぐに、それはありえないと思った。隕石ならば結界に触れられないし、触れられても何度も突破を試みる訳がないからだ。
隕石のような物体は、地響きのような音を伴って落下を続け、ついに地面に衝突した。衝突した刹那、星が爆発したような一際眩しい光を放ち、数瞬遅れて低い衝撃音が聞こえてきた。さらに遅れて突風が波のように押し寄せ、木々や窓ガラスを騒がせると、最後には地震が起こった。紫の屋敷から相当離れているのにも関わらずに起こったそれらの現象は、衝撃の強さを物語っていた。
揺れと風が収まるのを待ちながら、紫はその物体が墜落した地点を凝視していた。
辺りに静けさが戻ると、呟かずにはいられなかった。
「ふふっ、面白いことになりそうね」
紫は、藍が騒ぎ騒ぎ出す前に発つことにした。
墜落地点である、博麗神社へと。
続く──