屋台で腕を振るうとき、ミスティアはなるべく心がけていることがある。
それは、昔話をしないこと。無論、ここでいう昔話とは桃を切ったら中の人が死んでいたり、竹を切ったら中の人が死んでいたりする類のものではない。ミスティア自身の過去のお話だ。
ミスティアの昔話は、どれもこれも湿っぽいものばかり。客は皆、鰻の味に期待して屋台へ足を運んできてくれる。それなのにつまらない昔話を聞かせていたら、せっかくの鰻が台無しだ。
だからなるべくミスティアは柱のように立っていることだけに徹し、時折客の話へ耳を傾けることにしていた。
それでも、中には変わり種の客だっている。ミスティアの過去を進んで聞こうとする者もいるのだ。
そこで無碍に断るのも空気を悪くするし、ミスティアとて話すのが嫌なわけではない。聞きたいと言うなら、是非とも聞いて貰いたいと思っていた。
だから、そういう客には話している。ミスティア・ローレライの、滅多に語られることのない過去のお話を。
出だしはいつだって、同じ文句から始まる。
「そう、あれは私がまだ」
鰻に特製のタレを塗りながら、遠い目で夜空の月を見上げた。
「ミスティア・ロー狙いと呼ばれていた時のことです」
幻想郷で武術を齧った者ならば、ミスティア・ロー狙いの名前を必ずと言っていいほど知っている。それほどまでにその実力は知れ渡っており、かの紅魔館の門番を勤める紅美鈴ですら、シエスタは一日一度までと語るほどだ。
だからこそ、それは当然の処置だったと言えよう。かつてのミスティアの足には、まるで囚人のような足枷がはめられていた。鎖の先についた黒く丸くて大きなくせにやたらと軽い鉄球を、日がな恨みがましく睨み付けたものである。
「そう、あなたのローキックは危険すぎる。無闇に能力を封じたくはありませんが、その足を自由にしておくことはできません。理解してください」
足枷をはめさせた閻魔は、そんなことを言っていた。だが、それで理解できるほどミスティアの器は大きくない。
黒く丸くて大きなくせに何故か軽い鉄球を抱えて、連日のように酒屋へ入り浸った。
どうして、私だけがこんな拘束を受けなければならないのか。
他にもっと、封じるべき能力を持った奴らがいるというのに。
知っているだけでも、ミスティアよりも危険な奴らはごまんといる。例えば八雲紫、あるいはレミリア・スカーレット。そして地下には、心を読める妖怪も居ると噂に聞いたことがある。どれもこれも、ミスティアのローキックよりも遙かに危険な連中だ。
それなのに、どうして私だけが!
テーブルに突っ伏し、木目の上に涙の川を流す。嗚咽も漏れていたかもしれない。だけど、それがどうした。今更、人の目など気にしていられるか。
酒瓶を片手に泣きくれるその姿を見て、それが噂のミスティア・ロー狙いだと気付ける者などいるわけもない。どう見てもただの荒れた妖怪であり、周りの人間達も我関せずとばかりに距離をおいている。
唯一、彼女に近づける者がいるとすれば、
「また飲んでる。いい加減にしなよ、まったく」
心配と呆れが半々に混ざった声の主が、無造作にミスティアの隣へ腰を降ろした。顔をあげずとも、誰だか分かっていた。
リグル・ナイトバグ。ミスティアの親友だ。
「そりゃあ枷を付けられたら私だって悔しいけどさ、だからって酒に逃げるような真似はしないよ。みすちーだって、元々はそういう妖怪じゃないでしょ」
「……うるさいなあ」
お節介が鼻につく。普段ならば軽く聞き流せるような言葉でも、酒と苛立ちが入り交じった状態では真正面から受け止めてしまう。
「いいじゃない、私が何したって。どうせ何もできやしないんだから、お酒ぐらい好きに飲ませてよ」
そう言って乱暴に空のグラスを置いた。古びた木製の机が揺れ、妙な軽さの鉄球が床の上で転がる。ちなみに枷が足を締めつけて痛かったので今は外していた。
「この枷が私を縛る限りローキックは使えない」
店が傾いているせいか、鉄球は鎖を引きずりながら壁際へと転がっていく。
「ローの無いミスティアなんて、ただの夜雀。こうして酒に溺れるのがお似合いな、哀れで悲しいただの妖怪」
自らを嘲るような笑みが、グラスに反射して歪んでいる。
いつのまに注文したのか。運ばれてきた野菜スティックを齧り、リグルは視線を合わさずに口を開いた。
「まぁ、そうやって好きなだけ悲しめばいいよ。自分に酔うのも、そういう時だけの特権だし」
どこか棘のある物言いに、思わず顔をあげる。相変わらず素知らぬ顔で、リグルは二本目の人参に手を伸ばしたところだった。
「自分に酔うってどういうことよ」
「だってそうでしょ。悲しんでる自分に同情して、哀れんで、それで悲劇のヒロインを気取ってる。しかもそれを免罪符に好き勝手やってるんだから、悪酔いも良いところだよね」
怒りが喉元まで湧き上がってきても、それが口から飛びだすことはない。ミスティアとて、リグルの言葉が全て悪意から来るものでないことは知っている。そして、それが真実であることも。
だから怒りは爆発することもなく、ただただ睨み付けることしかできない。
「私の知ってるミスティアだったら、こういう時はそーなのかーって脳天気な返事をしながら、それでも立ち上がろうと必死に藻掻いてたはずだよ」
「当たり前でしょ。それ、私じゃなくてルーミアだもん」
「名前なんて関係ない。要はあなたが本当は何をしたいか、よ」
上手くはないが誤魔化された。いや、誤魔化されたことにしようと思った。
いつまでも同じ所に立ち止まっているわけにはいかない。
その言葉を切っ掛けにして、前へと進むことを始めよう。そう決めたのだ。
ミスティアはリグルの告げた一文字一句を心に刻もうとして、忘れたことに気が付く。仕方ない。何かそれっぽい言葉で代用することにした。
名前なんて関係ない。要はあなたが死体かよ。
なかなかに意味深な文章が誕生した。
「どうやら、ようやく目が覚めたようね」
気合いがアルコールを飛ばしたのか、胡乱だったミスティアの目つきがかつての輝きを取り戻す。
言葉はいらない。リグルはそれだけで、ミスティア・ロー狙いの復調を悟ったのだ。
「情けない話ね。盲目的になってたのは、私の方だったみたい」
「見えるようになった目で、あなたは何を見ようと言うの?」
「世界を」
右足を上げ、景気よく叩いた。
「この足で」
リグルは満足そうに笑い、野菜スティックの最後の一本を口の中へと収めた。みずみずしいキュウリの割れる音が、薄汚い店の中に響き渡る。
「意味は分からないけど、今のあなたは格好いいわよ」
無言で指を立て、ミスティアは店を飛びだした。目覚めた彼女の足は、まるで枷が外れたかのように軽やかだ。
店の片隅では、ボール代わりに遊んでいた子供達によって鉄球が粉砕されているところだった。
彼は急いでいた。普段の彼を知る者ならば、その形相に誰もが驚いただろう。
背後から棍棒を持った鬼が追いかけてくる人だって、もう少し穏やかな顔をしている。
妹の結婚式があるのだ。今日、これから。
両親を亡くした兄妹にとって、互いの存在は無くてはならないものになっていた。無論、そこに恋愛感情などない。あるとすれば、ただの家族愛。あるいは恋愛感情よりも、結びつきは強い。
目に入れても痛くないほど大事に育ててきた妹。その妹が結婚すると聞いた時は、怒りと共に驚きを、そして時間の流れを感じたものだ。よっぽど反対してやろうかと思ったが、それは妹の決めた道。兄如きが軽々しく口を挟めるようなものではない。
相手にも不満など無かった。自分なんかよりも、遙かに立派な男だった。この男になら、妹も任せられる。
結婚式には必ず来てねと念を押されていた。だから細心の注意を払っていたというのに。
どうしても外せない仕事が入ったのだ。
彼は急ぐ、遅れを取り戻すように。
仕事は終わった。後は妹の結婚式に出て、思う存分泣くだけだ。
その焦りが忘れさせていたのだろう。彼の通っている道が、どれほど危険だったのかということを。
かつて、この道を通る者は全くいなかった。
この道に出るのは、ただの妖怪ではない。名前を聞くだけで誰もが震え上がる、大妖怪でもないのに恐ろしい妖怪がここを根城にしていたのだ。
ミスティア・ロー狙い。そのローキックを食らった者は、例外なく残機を一減らす。
彼もその噂は聞いていた。その度に小心者の彼は怯え、絶対にあの道は通らないでおこうと決めたのだ。妹は心配しすぎだよと笑っていたが、用心するに超したことはない。風の噂では閻魔に能力を封じられたと聞くが、真偽のほどは定かではなかった。
そんな臆病者の彼を遮るように、一つの影が飛びだしてくる。
邪魔をするな。そう叫びたくなる気持ちは、その影が誰だか分かって引っ込んだ。
ミスティアだ。ミスティア・ロー狙いだ。
彼は嘆いた。
おお、神よ。どうして、よりにもよって今日なのです。
あなたはそんなにも、私を妹の結婚式に行かせたくないのですか。
ちなみにその頃、守矢が一柱、八坂神奈子は手についたガムテープが取れずにのたうち回っていたらタンスに頭をぶつけて失神していた。
「あなたには悪いけど、私の餌食になってもらうよ」
ミスティアが、自信に満ちあふれた顔で言う。
「封じられたローキックを、どこまで再現できるか。私はそれを知りたいんだ」
なんということだ。そんなものの為に、妹の結婚式に出席できないというのか。
相手は妖怪。話して通じる相手でもない。
だけど、それでも。彼は言わずにはいられなかった。
ふざけるな、と。
ミスティアは驚いたように目を丸くし、そして初めて彼の姿を視界に捉えた。
不思議なことに、ミスティアはがっくりと膝をついた。まるで敗北を認めるかのように、頭も項垂れる。
どうしたというのか。しかし、これはチャンスだ。
注意が逸れている間に、彼はミスティアの脇を通り抜けていった。
何があったのかは知らない。ただこれで、妹の結婚式に出ることができる。
彼は喜びと感動に包まれながら、遅れを取り戻すように全速力で飛んでいった。
背後で呟いたミスティアの言葉は、そんな彼には届かない。
「毛玉じゃん……」
鰻をひっくり返し、香ばしい匂いが屋台中に広がる。照れたような笑みを浮かべて、ミスティアはタレを塗りつけた。
「それからですね。私がミスティア・ロー狙いではなくミスティア・ローレライとして生きるようになったのは」
「いやいやいや挫折早すぎますから! 次に通った奴を狙えばいいじゃないですか!」
巫女としては些か物騒な発言だけど、そう思うのも無理はない。早苗の鋭い指摘に、ミスティアは頭を掻いた。
「そう、なんですけどね。どうにも高まった感情が冷めてしまいまして、ああもう面倒だから良いかなって」
「ローキックが全てだ、みたいな風に私は感じたんですが」
「いえ、あの頃から私は歌一筋でしたよ。最近は、その傍らにこうして屋台もやっていますが」
早苗は首を傾げた。そんな描写、あっただろうか。
「毛玉の妹さんの結婚式で歌って、全員を感涙させたってのはさすがに言い過ぎたかと思いましたけどね」
「初耳ですが。というか、あなたも出席したんですか」
「ええ、まぁ。悔しかったんで、逃げる彼の後を追ったんです」
なんという八つ当たり。それで追われる毛玉も可哀想である。
「それで結局結婚式に?」
「そうです。歌い終わった後にちゃんとハイキックで葬り去っておきました」
「むごっ!」
「峰打ちですよ」
毛玉相手に峰も何もあったものじゃない。どっちにしろ消滅する。
「それにローキックはどうしたんですか!」
タレの色が染みこんだ鰻に、味付けの為にもう一度タレを塗る。甘い醤油の香りが、食欲をそそった。
後は焼くだけなのか、ミスティアは鰻から目を離した。その目が見つめるのは、遙か遠い夜空の星。
「私はその時思ったんです」
彼女の言いたいことが、早苗には何となく分かった。酷く歪な話だが、一つだけ学ぶべきことはある。
常識に囚われないこと。
ローキックに拘るあまり、彼女は倒せない敵を作ってしまった。だけどローだけでなくハイにも目を向ければ、彼女の強さはより一層と増す。
人生だって同じこと。一つの事に拘るのも結構だが、たまには他の事にも目を向けないと自らで壁を作ってしまうことになるのだ。
夜空から早苗へ視線を戻し、諭すような笑顔で彼女は言った。
「あの枷、意味無かったなあと」
早苗は呟いた。
今更ですか。
てっきりトランプのハイローかと思いましたw
”当たり前でしょ。それ、私じゃなくてルーミアだもん”に吹いたwww
どんだけしょぼいんだよ!
そして笑ったw
笑うところが多すぎてもうどこで笑ったのかわからねぇwww
早苗さんが幻想郷の皆と和解した後って事は、これ昔話って程昔の話ではないですよね。
永夜で霊夢等と出合った頃はロー狙い全盛期くらいですか、そうですか。
あなたはもう本当に人の腹筋を壊すことにかけては天下一です。