見慣れた家が違って見える、そんな感覚を不死身の蓬莱人、藤原妹紅は味わっていた。味のある木造建築。ところどころ崩れかけている土壁。伝統ある茅葺き屋根。それら全てを妹紅は良く知っていて、だけどやはり違って見えて。
そんな感覚を振り払うように、彼女は玄関扉を強引に引き開けた。建築年数からして乱暴すぎる開け方だが、彼女はコツをわきまえている。何せ長年の付き合いがある扉だ。
「ただいま」
そしてそれと同じぐらいに付き合いのある友人に対してそう言葉を投げかけ・・・・・・少しだけ複雑そうな表情をする。その顔は、自分が何を言っているのか分からないといったものだった。
そのまま気だるそうに室内へと足を踏み入れ、後ろ手に扉を閉める。
「おかえり、妹紅」
何時もと同じように、返事は返ってきた。
「だからぁ、そういうのは私の専門外だって」
深い竹林の奥、永遠亭の庭を望む縁側に三人の姿があった。藤原妹紅と、永遠亭の主である蓬莱山輝夜、そして八意永琳。縁側に座る妹紅、畳に座る輝夜、その中間に位置する永琳。
三人に共通しているのはめいめいが酒を持っていることだろうか・・・・・・永琳は一升
瓶ごとだったが。
珍しく酔っ払っているのか、どこか延びた語尾で返事を返す――というより絡んできた永琳を面倒くさそうに妹紅は払いのけた、お猪口の酒を零さないように。その態度が不服だったのか年甲斐もなく頬を膨らませながら永琳は輝夜に抱きついた。よしよし、と頭を撫でる輝夜の表情が嬉しそうなのもまた酒のせいだろうか。
三人以外は誰も邪魔をしない、静かな宴。虫ですらも空気を読んでいるのか、時折吹き抜ける風が揺らす笹だけが自己主張をしていた。
「分かってはいるけどさぁ、一応聞いてみようと思ったんだよ」
「あらあら、それにかこつけて惚気? それとも自慢? 全く羨ましい限りね」
永琳にしては珍しく本気で突っかかってくる様子に妹紅と輝夜は苦笑する。この三人の中で永琳だけが酔っ払っていた。アルコールも蓬莱の薬の効果範囲に含まれるのではないだろうか、という遥か昔の問いかけを妹紅は思い出していた。
天才薬師曰く、「気分次第よ」だそうだ。不安定すぎる。
「まぁ確かに羨ましいとは思うけどね」
「お前までそう言うか」
どこか拗ねたような口調の輝夜に妹紅は頭を抱えたくなる。良き友人ではあるこの二人を敵に回したくはない、主に実力的な意味で。もちろんそんなことになる可能性は皆無といえるだろう。
(どうせ面白がってるんだろうし)
その考えには憎しみも哀しみもない。ただ、ここが――幻想郷がそういう場所だというだけのことで。『楽しくなければ幻想じゃない!』とは酔っ払った紫の言葉。
もちろん妹紅もその言葉を最大限に体現していた。
それが最近はご無沙汰になっている輝夜との殺し愛・・・・・・ではなく殺し合いだった。
「だいたいそれならぁ、もっといい専門家が居るじゃないのっ」
「いやまぁそうだけどさぁ」
輝夜に言われるまでもなくそれは分かっていた。医者よりはよっぽど詳しいといえる存在。自分と同じように、長い時を生きる存在。彼女なら、この状況を解決してくれるかもしれない。
それでも、いやだからこそ、妹紅はその選択肢を躊躇っていた。
「・・・・・・呑まないの?」
「ん――」
心配そうな輝夜の言葉に、妹紅は笑ってお猪口を飲み干す。
それはどこか淋しそうな笑顔だった。
そして、“あの日”から一ヶ月が経った。
「それでさぁ、今日は学校に呼ばれてるんだよ」
「そうか・・・・・・ふふっ、妹紅が先生というのも面白いな」
「別にそんなんじゃないよ」
上白沢慧音宅の居間に、二人は居た。
戸口に立っている慧音と、畳に座って机に突っ伏している妹紅。何やらぐでーっとしている妹紅を慧音は微笑みながら見つめていた。
ずっと前から二人の関係はこんなものだった。
「良いじゃないか、妹紅の人生経験を生徒に教えてやってくれ」
「無理だよぉ、私の人生は十八歳未満お断り」
「うむ・・・・・・確かにそうだな」
色恋沙汰から殺人事件、それから長く辛い放浪の旅。ようやく安住の地を手に入れたかと思えば今度は宿敵との終わらない殺し合い。
どう考えても子供に話せるものではない。それは良く分かっているから、慧音も苦笑いする。
「しかし、まさか何を話すかも決めてないんじゃないだろうな?」
「う・・・・・・」
妹紅がピクリと反応する。その様子に思わず慧音は溜め息をついていた。長く共に生きているためにお互いの性格は把握しつくしているが、性格の困った部分というのはどれだけ共に居ようと“困った部分”のままでしかない。
子供達の前で話すという経験がないから仕方がないか、と慧音は諦めた。
「慧音ぇぇ、何かネタくれよぉ」
「無茶を言うな無茶を」
そう返事をしながら、慧音は戸口に立ち尽くしたまま腕を組んで考え始める。何言おうと、目の前で机に突っ伏し困っているのは自分の最も大切な人なのだから。
だからこそ、慧音は考える。子供達に相応しい内容。妹紅が話すべきこと。自らのもっていた歴史を踏まえて考えに考える。
一分後。
「頑張れ妹紅!」
出た結論がこれだった。
「・・・・・・役立たず」
「う・・・・・・」
図らずも先ほどの妹紅と同じ台詞を吐くことになる。とはいえ今回の仕事を引き受けたのは妹紅自身であり、別に慧音が悪いわけではないのだが。
「あー、もういいや。そろそろ行く」
「そうか、頑張れ妹紅!」
「はいはいりょーかい」
どこか生返事で手を振りながら、妹紅は慧音の脇を通り抜けて玄関へと歩いていく。その顔はどこか下を向いていて、どのような表情をしているのか慧音からは見えなか
った。
玄関までずっとその調子だったから、少し傾いた梁が妹紅の頭を直撃したのは偶然ではなく必然である。
「しっかしでかくなったよなぁ」
見慣れた学校ではあるが、立派な門の前で立ち止まった妹紅は思わずそんな感想を漏らしていた。
ちょっと前まで――といっても蓬莱人である妹紅の感覚で、だが――『寺子屋』と呼称されていたそこの面影は、もうない。外の世界から入ってきた建築技術により造られた建物は、白い壁が特徴的である。
なぜこんな風に近代的になったかというと、人里の人口が増えたことに由来する。必然的に子供の数も増え、前までのような『寺子屋』ではやっていけなくなったのだ。そのために建てられたのがこの『学校』である。
今では大きくなった慧音の教え子が、教師として何人か属している。
「ほんと、変わったもんだ」
何時か勢いあまってぶち破った襖も、子供達とじゃれあった畳の間も、そこには無い。
だが、変わらないものもある。
「あ、もっこすだー」
「もっこす言うな!」
感慨深げに立ち尽くしていた妹紅の脇を、授業に遅れまいと走る子供達が抜かしていく。その内の一人から投げ掛けられた呼称に反論しながら、妹紅は微笑んでいた。
例え学び舎が変わろうと、元気な子供達というのは変わらない。
だが、変わらないのは、それだけではない。
「・・・・・・そろそろ行くか」
チャイムが遠くで鳴っている。
ソファに座った妹紅の前には、一人の女性。
間に挟まれたテーブルには、湯気の立つ湯飲みが二つ。
「ようこそ藤原さん」
「妹紅で良いよ妹紅で」
『寺子屋』の時には無かった職員室で、若い女性の教員に妹紅は挨拶していた。彼女も昔、慧音に教えられていた生徒である。もちろん彼女以外の教員も同様だ。慧音に教えられた人間が教える側になり、そんな人間から教えられた子供が大きくなって教える側になる。
それは途切れることのない系譜。
「そうも行きませんよ。慧音様のご友人なんですから」
「堅苦しいのは苦手なんだけどねぇ」
ぽりぽりと頭をかきながら、照れくさそうに妹紅が言う。この『学校』がまだ『寺子屋』だった頃から、頑張っていたのは慧音だった。妹紅はその手助けをしたに過ぎないし、それをする気になったのも慧音という存在が居たからだ。別段、人間が好きだったわけでも恩義を感じていたわけでもない。
それでも、こんな風に言われて悪い気がしないのは、どういうことだろうか。
(・・・・・・・変わらないものがある、だけど――)
変わることだってある。そういうことなのかもしれない。
あの月の異変が起こった頃・・・・・・遥か昔より改善されてきたとはいえ、まだ妖怪に対する偏見は残っていた。それは畏怖や敬意といったものとは程遠いところにある、文字通りの『偏見』だった。
そんな中、人里を護ってきたとはいえ慧音に対する風当たりが全く無かったわけではない。謂れなき中傷、心無い仕打ち。妹紅が出会った時がそうだったのだ、それより昔に、どれだけのことがあったのか。それは計り知れないことだ。
だというのに、今はどうだ。
妖怪と人は、まさに共存していた。それは馴れ合いなどではない。もはや幻想となった、妖怪と人との正しい関係がここにはあった。
人を食わなくなったわけではない、人間が強くなったわけではない。
ただ、古よりある自然の掟が浸透した、ただそれだけのこと。
時折扉が開き、人が出入りする。
その中には、明らかに人ではない存在も居た。角が生えた者、巨大な尻尾を抱えた者。姿も種族もバラバラだ。
こんな光景も、昔の幻想郷では有り得なかった。
(・・・・・・確かに、ここは楽園だな)
笑顔で妹紅に話しかけてくれる教員を見ながら、そんなことを考える。
蓬莱人という、人から外れた存在である彼女もまた、さまざまな中傷を受けてきた――そんなものにはもう慣れきっていたが。
だというのに、そんな記憶も今は遠い。
「・・・・・・妹紅さん? 大丈夫ですか」
「ん・・・・・・ああ、何ともないが。ちょっとぼーっとしてただけだよ」
「そうですか・・・・・・そろそろ時間なんで、お願いします」
本当に心配そうな表情に妹紅は苦笑する。
彼女もまた知っているのだ、ちょっとずれた夢のような今の現状を。
「分かった。今日は無理を言ってすまないね」
「そんなことありませんよ」
今の幻想郷――この『学校』という存在。それは、慧音が望んでいたであろう理想郷。
妹紅は、そんな気がした。
長い廊下を歩いている間、妹紅は考え続けていた。
今日、彼女がここに来たのは、子供達に話をするためだった。
特に意味があるわけでもなく、差し迫った状況というわけでもなく、ただそうすることが正しい気がしたから。
だというのに、彼女はまだどういった話をするか、ちゃんと考えていない。
「こちらです」
そうこうしている間にも、一際大きな扉の前にたどり着いた。この先は講堂で、全ての生徒が集まっているはずだ。
緊張感はない。だからこそ、妹紅は躊躇いなく扉を開ける。
両開きの扉に隙間が開いた時、中からはざわめき声が響いてきた。だが扉が開き切る頃には、静寂が広い講堂を支配している。床に体育座りをしている子供達が、扉の方に視線をやっている。
しっかりとした教育に、妹紅は感嘆した。
(そういや・・・・・・昔、あんまり騒ぎ立てた子供に慧音が頭突きしてたなぁ)
そんな懐かしい思いに囚われながら、妹紅は足を踏み入れる。
何時もと変わらない、ずっと昔から変わらない、独特のセンスをした妹紅の服装に目を奪われている子供が居る。だが大半は、彼女の知った顔であり、彼女を知っている子供だった。
用意された演台に、妹紅は立つ。
じっと、静かに、幾百もの子供達の目が、妹紅に向けられていた。
緊張感はないが、焦りはある。
「あー・・・・・・みんな、こんにちは。今日はわざわざ私のために集まってくれて、ありがとう」
そんな語り出しで、妹紅は内心頭を抱えたくなる。これではまるで舞台に上がりたての歌手だ。長い時を生きているというのにまだ慣れないことがあるんだなと、新鮮な驚きを妹紅は感じる。
さて、語りだしたはいいがここからが続かない。気のせいた子供達が身体を揺らし始めている。
(焦りすぎたかな・・・・・・)
進展しない状況にイライラして、こんな行動に出たことを妹紅は後悔し始めていた。間違っていたのかも、遅すぎたのかも、さまざまな思いが妹紅に去来する。
いたたまれなくなって視線をやった先、窓の外、そこに見慣れた帽子があった。
(・・・・・・慧音?)
今、そこには居ないはずの存在に思わず妹紅は身を乗り出す。だが瞬きをした間に、その姿は消えていた。
(そうだ、話すべきことは――決まっているじゃないか)
視線を子供達に戻す。妹紅の動きに訝しがっていた子供達が、またしっかりとした視線を彼女に向けてきた。
自然と、言葉が口から出てくる。
「今日、皆に話したいのは――この学校を建てた人の話だ」
「それって大工さん?」
「間違ってないが間違ってる」
誰か分からないが空気の読めないボケをかました子供にツッコミと鋭い視線を送ってから。
妹紅は、穏やかな微笑みで続ける。
「この学校を建てるために、傷ついて、苦しんで、哀しんで――そして完成した時、誰よりも喜んでいた人の話だ」
その女性の写真は、職員室に飾られていた。
この学校に居る教員ならば、誰も知らない者は居ない存在。だが子供達の中には彼女を知らない者もあり、そういう子供は不思議そうに写真を指差しては教員達に昔話を(ほぼ強制的に)聞かされてきた。
この学校を始めたその女性の頭には、奇妙な形をした帽子が鎮座していた。
日も暮れて、慧音宅。
「・・・・・・ただいま」
玄関の扉を開けて上がりこむ――前に少し身をかがめることを忘れない。同じ失敗は二度繰り返さないのが基本だ。
「お帰り。どうだった?」
「疲れたよ~。ほとんど即興で話してたし」
家を出る前とまったく同じ位置に立っている慧音の脇をすりぬけて、妹紅は机の前に胡坐をかく。ほんの少し座り位置を前後させるのは尻が痛いから。死なないからといって無駄に傷を作る必要もない。
朝と同じような、二人の位置関係。
「お疲れ様」
「あ・・・・・・ああ、ありがと」
慧音の労いの言葉に、少し呆けてから妹紅は返事を返す。まさかそんな言葉をかけられるとは思っていなかった。本来、かけられるべきは慧音の方だというのに。
釈然としない気持ち。
「それで妹紅――どんな話をしたんだ?」
「ん~、内緒」
慧音の質問に対しては照れ隠しで答えない。即興で話していたためかいろいろと恥ずかしい過去を暴露した記憶も蘇ってくる。
あとでその過去だけ慧音に食ってもらおうか、そんなことを考えて妹紅は被りを振る。そんなこと、できるはずがない。恥ずかしかろうとなんだろうと、それは大切な過去だからであり、そして――
「しかし・・・・・・なんで急に子供達に話を聞かせたくなったんだ?」
妹紅の心の中の葛藤を知らず、慧音はそんな質問をした。
「それは・・・・・・」
答えようとして、妹紅は言葉に詰まる。
別段、理由があったわけではない。義務もない。やるべき意味も、なかったかもしれない。少なくとも、話したところで満足感は感じなかった、今のところは。
敢えて、敢えて理由をつけるなら、
「区切り、かな」
「・・・・・・そうか」
複雑そうな表情をする慧音。背を向けている妹紅にそれは見えなかったが、声の調子から慧音がどんな表情をしているか、すぐに分かった。
それほど、二人の関係は長かった。
「――慧音」
本当に、長かった。
「ん、どうしたんだ?」
「これからさ・・・・・・世代が、子供達の顔ぶれが代わるたびに、私は話そうと思うんだ――今日話したことを。上白沢慧音という存在のことを」
照れ隠しももう必要ない。
人間の生は短い。妖怪とは比べ物にならないほどのその短さ。
今日話したことは、学校の教員も良く知っていることだった。彼らも同じようなことを生徒に話していたのだろう。それは子供達の反応から読み取れた。
だが、世代が変われば?
数十年、数百年と経てば人間の顔ぶれは一気に変わる。妖怪もまた、不死でない限りその波から逃れることはできない。
「私なら、その役目を負える」
「・・・・・・・・・・・・」
だからこそ、不死である妹紅なら、語り継ぐことが出来る。
妹紅が記憶している限り、人間の系譜が途絶えない限り、文字通り一生語り継いでいくことが出来る。人間を愛し、里を愛した一人の半妖の人生を。
人々の記憶が薄れ、書物が劣化しようと、妹紅なら語り継ぐことが出来る。
「・・・・・・義務じゃない、ただ話したいんだ。子供達に」
黙って、黙って慧音は話を聞いている。言葉から感情を読み取ることが出来なくても、沈黙からそれをすることは容易ではない。
だから、妹紅は立ち上がり振り返り、向き直った。
どこまでもお人よしで、どこまでも頑固者で――どこまでも頑張りやだった慧音に。
慧音は――微笑んでいた。
「だから、だからもういいんだ慧音――慧音の教えは受け継がれる、私が受け継がせる。何があっても、忘れられないように――私が忘れないようにしてやる・・・・・・絶対に、この記憶を失くしたりなんてしない!」
後半になって、抑え切れない感情が噴き出してくる。それを妹紅は止めようとしない。止められないことが分かっているからだ。それほど・・・・・・長かったのだ。
「だから慧音――お疲れ様、いままで・・・・・・ありがとう」
心からの労いと、感謝の言葉。
人々が変わったように、妹紅もまた慧音と出会って変わったから。
もし出会っていなければ――そんなこと、もう考えることすらできない。
そんな妹紅の言葉に対して慧音は、
「・・・・・・そうか、そうなんだな」
微笑んだまま頷いていた。
「慧音、本当に・・・・・・本当に今まで――っ」
まだ続けようとする妹紅が瞬きをした時・・・・・・慧音は消えていた。
先ほどまで立っていた戸口に、もうその姿はない。気配も、存在も、全てが消えていた。
残ったのは妹紅と――ぼろぼろになった民家だけだった。
その日の夜。
妹紅の呼びかけに集まった里の人々が、主を亡くして一ヶ月経った慧音宅に集まっていた。男達は家に入り使えそうなものや書物を持ち出していく。女達はそんな彼らを見守っていた。中には泣き出す者も居る。
この後、旧くなりすぎたこの家は解体――いや、燃やすことになる。
「あら妹紅――終わったの?」
その火種に対して、輝夜は声をかけた。お供として永琳を連れながら。
「ん・・・・・・終わったよ。もう――全部終わったさ」
平坦な声と、哀しげな表情。そして――達観したような雰囲気。
出会った頃、殺し合いをしていた頃、それらとは違う妹紅の雰囲気に輝夜は空を見上げた。妹紅をそんな風に変えた存在、今はもう居ない存在――そしてこの真夏の夜の夢のような幻想の元凶に対して、
「ほんと、罪作りよね」
そう感想を漏らした。
全ては一ヶ月前に起こったこと。
人間も妖怪も――そして半妖も、寿命からは逃れられない。
もちろんそれは慧音も同様だった。
「慧音・・・・・・」
座り込む自分の前、布団に横たわる彼女を見て、妹紅は呆然と呟いていた。
悲しみも何もわいてこなかった。それはもう何度も味わっているから。不死である以上、周りの存在との別れはもう慣れっこだったから。
慧音の最期に立ち会うために集まった里の人々の中に居ることが、逆にいたたまれなくなって――彼女は診療所を出た。
思えばこの診療所も、慧音のおかげで充実した設備となったのだ。協力者は永琳だったが、渡りをつけたのが慧音だった。
診療所だけではない、人々のために慧音はさまざまな場所で働いた。
そんな思い出ばかりが詰まった里にも居づらくて・・・・・・妹紅は里の外れに位置する慧音宅に逃げるようにして飛んでいった。
見慣れた家が違って見える、そんな感覚を妹紅は味わっていた。味のある木造建築。ところどころ崩れかけている土壁。伝統ある茅葺き屋根。それら全てを彼女は良く知っていて、だけどやはり違って見えて。
そんな感覚を振り払うように、彼女は玄関扉を強引に引き開けた。建築年数からして乱暴すぎる開け方だが、彼女はコツをわきまえている。何せ長年の付き合いがある扉だ。
「ただいま」
そしてそれと同じぐらいに付き合いのある友人に対してそう言葉を投げかけ・・・・・・少しだけ複雑そうな表情をする。その顔は、自分が何を言っているのか分からないといったものだった。
もう、慧音は居ないというのに。今まさに、死に目に立ち会ったばかりだというのに。
(・・・・・・何も、言えなかったな)
慧音の手を代わる代わる握っていった里の人々に遠慮してか、妹紅は僅か離れた場所に座っていたから――最期まで、何もいえなかった。
いや、近くに居たとしても何か言えただろうか?
そのまま気だるそうに室内へと足を踏み入れ、後ろ手に扉を閉める。
「おかえり、妹紅」
何時もと同じように、返事は返ってきた。
その時の驚きを、妹紅は一生忘れないだろう。
「だから私の専門外だって言ったでしょ・・・・・・幽霊の成仏のさせ方なんて分かるわけがないじゃない」
どこか口を尖らせている永琳の言葉を妹紅は黙って聞いていた。
確かにその通りだ。成仏させてやりたいなら、それこそ亡霊の姫君にでも会った方が話は早い。少し言葉はおかしいが彼女は専門家なのだから。
(私は――慧音に執着していたのだろうか)
一ヶ月前なら思いもしなかった考え。
幽霊だろうと何だろうと、目の前で微笑んでいる慧音が居たから。
(だから私は、何もしなかったんだろうか)
もちろん、そんなことが何時までも許されるはずがない。
仮に魂が残っていたのなら、そのまま留め置いて良いことは何ひとつない。
それでも――妹紅が決心するまでに、一ヶ月という時間がかかった。
「ほんと羨ましいわね・・・・・・イナバ達はあっさりと逝ったっていうのに」
「そうですね――それで良かったのかもしれませんが」
何やらぶちぶち言っている主従を妹紅は敢えて無視する。今回のことで永遠亭の二人が不満なのはそこだった――手を焼かせた弟子も散々世話になった詐欺兎も、もうこの世には居ない。もちろん、幽霊として現れることもなかった。
だが、死に際ぐらいあっさりとしている方が良い。幽霊というのは、時に害をもたらす存在にもなる。それは慧音も良く分かっていることのはず。
(ならば何故――)
慧音は現世に留まってしまったのか。
その理由を考え――るまでもない。
薄々分かっていたことだ・・・・・・原因は、妹紅自身にある。
(・・・・・・認めたくなかったんだろうか、慧音の死を)
自らを人として認めてくれた存在。暖かく見守ってくれた存在。全てを包み込んでくれた存在。
そんな慧音の死を認めたくなかったから、慧音は留まったのだろうか。
いや、それとも執着したからこそ――妹紅だけでなく里の人々も――幻を見たのだろうか。
もしかすると、慧音の持っていた能力に関係しているのだろうか。
「終わったみたいね」
思考の闇を彷徨っていた妹紅を、輝夜の言葉が現実に引き戻す。見ると、運び出しはあらかた終わったようだ。男達が大切そうに抱えている書物等は、学校に寄付され大切に保管されることになっている。
本当は家も残しておきたい。だが、もう耐用年数なんてとっくに過ぎたそこは、保存するには危険すぎた。
「そうだな――終わったんだな」
だからこそ、妹紅は家へと向かった。
あの慧音は、果たして何だったのだろうか。
そんなことはどうでもいい。
一ヶ月前に言えなかった言葉を――ようやく言えたのだから。
里に一筋の煙が立ち昇った。
老若男女、集まった人々がそれを見上げている。
「さよなら、慧音」
呟きは煙と共に空へと昇り、そして消えていった。
慧音の死に対して区切りをつける決心をした妹紅や、彼女と話をする永遠亭の二人、
そして妹紅と慧音の会話など、とても良いお話でした。
妹紅の覚悟が良かった。良いお話を有難う。
僕達のよく知る人妖達もいなくなっているのでしょうね…
そして僕達の知らない人妖達が新たな幻想史(ネクストヒストリー)を紡いでいるのでしょう
と厨っぽく言ってみる
でも実際にそんなことを感じました
世代の移り変わりというものがとても印象に残る作品でした
ただ優しいお話でしたね…
良いお話をありがとうございます。
時代が変わっても、永遠の少女が次代に語り継ぐ先生の歴史。素晴らしいお話でした。