雨が嫌いになったのはいつからだろう。
紅魔館で師匠である永琳から頼まれた用事をこなした後、帰る途中に急な雨に見舞われた鈴仙・優曇華院・イナバは、激しい雨に打たれながらそんなことを考えていた。
かつて、月に住んでいた頃は、雨の音を聞くのが好きだった。
雨に直接打たれるのも嫌いではなかった。
ザー…………
雨がますます強く降りしきる。それにつれ、雨のカーテンは視界を急速に悪くしていく。
この辺りの地理にあまり明るくない鈴仙は不安になってきた。
(どうしよう、今なら紅魔館に戻れるかな……)
濡れた服が身体にまとわりつく。その感覚がさらに気持ちを落ち込ませていく。
(あの日もそうだったっけ……)
(私が月から……)
(戦いが怖くて……逃げて……)
自分の感情がどんどん乱れていくのがわかる。
感情の波長のコントロールがうまくできない。
ザー…………
雨の音が心をかき乱す。
(初めて幻想郷に降りたあの日もこんな雨で……)
(全てを捨てたあの日……)
何も見えない。
自分がどこにいるのか、前に進んでいるのか、それとも進んでいないのか。
ザー…………
雨の音はまるでノイズのごとく。
だんだんと鈴仙の意識が遠のいていく。
(あ……まずい……)
意識が完全に消えようとしたそのとき、遠くから何かの音が聞こえてきた。
(これは……?)
弦楽器のかすかな音色が鈴仙の耳に届く。
(これは……ヴァイオリン?)
いつしか、鈴仙は雨の音が気にならなくなっていた。ただ、その耳に届くヴァイオリンの音色だけに集中して、音が聞こえてくる方向へと向かう。
やがて、古びた洋館が視界に入ってきた。
そして、鈴仙は迷わずその洋館へと向かうのであった。
ルナサ・プリズムリバーは雨が嫌いだ。
ヴァイオリンは湿気の影響を受けやすい。少し湿度が上がるだけで音色が変わる。特に、雨の日のように高い湿度のもとでは音の響きも弱くなってしまう。
だからこそ、雨の日はいつも以上にヴァイオリンを弾いた。
楽器は奏でれば奏でるほど響きを増していく。
妹二人が留守の今日は、一人で思いのまま練習するよい機会だ。
ザー…………
降りしきる雨の音などルナサには関係ない。
ただ、思うがままに自分の音色を奏でる。それが騒霊たる彼女の存在意義だ。
(…………)
しばらくしてから、ルナサは何匹かの妖怪が自分のソロを鑑賞していることに気づいた。この洋館がプリズムリバー姉妹の住居であることを求聞史紀に書かれてからよくある光景だ。彼女自身は洋館に姿を現さず、ただ彼女の奏でる音色だけが聞こえる。それでも、プリズムリバーファンは機会を見つけては訪れるのだ。
別に迷惑ではない。観客がいる方がやりがいがあるというものだ。
しかし……。
「俺は、俺はなんてダメダメな奴なんだー!?」
「ごめんなさい……生きていて、ごめんなさい……」
「そうさ、俺はミミズ以下の存在なんだ。いや、ミミズさんは土を肥やしてくれるだけ俺よりずっと立派だよ、ははは……」
その誰もが1時間としないうちに去っていく。
ルナサの音色を聴いた者は、誰もがテンションが下がっていき、やがて自分を責め始め、いずこかへと去っていく。彼女の欝の音色はそれだけ相手の精神に影響を与えるのだ。よって、彼女のソロ演奏をまともな精神で最後まで聞ける者は、妹たち以外に存在しない。力の強い者ならば心を乱すほどの影響を受けないのだが、そのような者はわざわざここに訪れない。
他人の心を揺さぶることのできない音楽は音楽ではない。
それは彼女の信念だ。
しかし……。
(誰も私の演奏を受け止めてくれない……)
(リリカの能力によってまとめられたものではない、生の私の演奏を……)
(いいえ、そんな我儘なことを考えてはダメ)
(私はただ演奏することができるだけで十分満足なんだから……)
ルナサは心の中に生まれ始めた雑念を振り払うように、さらに演奏に熱中する。
そのときだった。
洋館の扉が開いたのは。
鈴仙は吸い寄せられるようにその洋館の中へと入って行った。
いつもの彼女ならば、このような不用心なことは決してしなかったであろう。だが、どうしても鈴仙はそのヴァイオリンの音色の正体を知りたかったのだ。
(これは……位相がずれてる?)
廃屋と言ってさしつかえのない洋館の内部に別の空間を鈴仙は感じ取った。彼女の能力は「狂気を操る程度の能力」であるが、その正体は波に干渉する力である。
振幅を極端に減らされた波の中にこの洋館の真実の姿がある。鈴仙は無意識にそれを感じ取ると、館の真の内部へと足を進めていた。
ルナサは驚いた。先ほど入ってきた妖怪兎が、自分たちの真の住居である館にあっさりと入ってきたからだ。
いつもならばそのことに対して危機感を抱き、臨戦態勢に入っていただろう。
しかし、その妖怪兎の表情があまりにはかないもので、一瞬芽生えかけた戦意は見る見るうちに消えていった。そして、彼女がやることは、やはり演奏を続けることであった。
鈴仙はいつしかその場に座りこんでルナサの演奏を聴いていた。
彼女の欝の音色の波長に鈴仙は深い悲しみを感じた。なぜその音色に悲しみが含まれているのか分からない。
しかし、鈴仙は直感的に、それはルナサが心のどこかで悲しんでいるからだと感じ取っていた。そんなルナサの想いが溢れている。鈴仙は気づくと泣いていた。声を出さずに泣いていた。ずぶ濡れの髪から垂れる雨水よりも大きな涙の粒が次から次へと溢れ出す。
ルナサは、最初はいつものことだと思っていた。彼女の演奏を聴いた者が示す反応そのものだと思った。そして、そのことに軽い失望を覚えている自分に気づいてルナサは戸惑っていた。
(わ、私は何をがっかりしているんだ……)
しかし、鈴仙は他の妖怪たちのように途中でいなくなるようなことはなかった。ただ涙を流しながらじっとルナサの演奏を見ている。そのことに違和感を感じたルナサは、鈴仙の視線が自分に向けられていることに気づいて動揺した。鈴仙の流す涙とその瞳は、ルナサの音色にあてられた者のそれと違って見えたからだ。
(あの妖怪兎は私の音色だけではなく、音色を通して私自身を見ている……?)
音楽に特別興味を持っていたわけではなかった。どちらかというと、教養だからと言われて、無理やり色々な音楽を聞かされた苦い思い出があるぐらいだ。
しかし、彼女の奏でる音色は鈴仙の心を強く揺さぶっていた。
(なんて悲しい音なんだろう……)
(波長の影響は関係ない。あの人の心が私に触れる……)
(たぶん、あの人と私は、どこか似ているんだ……)
鈴仙は涙を流しながらルナサを見つめ、いつしか……
(笑っている……!?)
ルナサは衝撃を受けた。自分の演奏を聴いている鈴仙が、涙を流しながら、しかし確かに微かな笑みを浮かべていたのだ。
それは、ルナサのソロ演奏を聴く者が彼女に向けることのなかったもの。
(この子は……)
ルナサは、ますます感情を込めて演奏を続ける。
雨が激しく降りしきる洋館で、一人の少女の演奏を、一人の少女がただ涙を流しながら聞いていた。
それは、まるで一枚絵の魔法。
永遠にこの瞬間が続くかと思えた。
ザー…………
ルナサの演奏が終わり、雨音が再びその勢いを増して周囲に響く。
一枚絵の魔法は解け、二人の少女は互いに見つめ合っていた。
「あなたは……?」
ルナサはただ一言、小さな声で尋ねた。
「鈴仙。鈴仙・優曇華院・イナバ……。あなたは……?」
「ルナサ。ルナサ・プリズムリバー」
それだけ言葉をかわすと、二人はまた黙りこんでただ見つめあう。
数瞬後、鈴仙は涙をぬぐいながら、何かに気づいたような表情になり、慌てて拍手をした。
その瞬間、ルナサの瞳が揺れる。
「ルナサさん、とても……とてもいい演奏でした。私、感動しました……」
「あ、ありがとう、えっと……」
「鈴仙でいいですよ」
「じゃあ……鈴仙」
ルナサは、鈴仙の名前を心を込めて言った。
「私もルナサでいい。そして、普段通りの言葉遣いでいいから」
「分かった、ルナサ。あなたがあの有名なプリズムリバー楽団の騒霊なのね。私、音楽のことよく分からないけど、あなたの演奏が心にとっても響いたの」
「私のソロ演奏、最後まで聴いてくれたの、あなたが初めてよ、鈴仙」
その言葉を聞いて鈴仙は驚いた。
「何で!? あんなに素敵な演奏なのに……」
「私のソロ演奏は精神に影響を与えるの。皆、欝になってどこかへと去っていくわ」
ルナサは寂しそうに言う。そして、まだ座ったままの鈴仙の前でしゃがむ。
「あなたは何で私の演奏の影響を受けなかったの?」
「私は精神に干渉する能力の持ち主だから、そのテの影響は無意識で防御するわ。だからじゃないかな?」
「じゃあ、何であなたは……泣いていたの?」
鈴仙は目を伏せる。ルナサはハッとした表情になって、慌てて鈴仙に言葉をかける。
「ご、ごめんなさい! わ、私ったら無神経で。私、私のソロ演奏を最後まで聴いてくれたことがとっても嬉しくて、すごく嬉しくて、そんなあなたを傷つけるようなこと……えっと……どうしよう……」
ルナサの目尻に涙が浮かぶ。
「さっきの拍手、本当に、本当に嬉しかったの! 私、私、こんなこと初めてで……!」
そこまで言ってルナサは言葉を失った。鈴仙がルナサの手を握ったからだ。
「私が泣いていたのは、最初は私が弱かったから。でも、あなたの演奏を聴いていて、切なくなって涙が出た。でも、最後は違う」
鈴仙は言葉を選びながら一生懸命言った。
「何て言えばいいのか分からないし、たぶん間違っているんだろうけど、あなたの演奏を聴いていてあなたの心に触れたような気がしたの。そして、私とあなたが、どこか似ているところがあると思って……」
そこまで一気に言ってから、鈴仙は顔を赤くしてうつむいた。
「ごめん、勝手なことばかり言って……」
それを聞いたルナサは微笑みながら首をゆっくり横に振った。
「音楽は演奏する者の心を映すものなの。ありがとう、私の演奏をそこまで聴いてくれて……。そして、私のことを分かってくれて……」
いつしか雨音は聞こえなくなっていた。
そして、これが鈴仙・優曇華院・イナバとルナサ・プリズムリバーの出会いだった。
「ねえ、鈴仙、このアクセサリーどうかな? 似合う?」
「うーん、ルナサにはちょっと派手じゃないかな?」
「むう……」
膨れるルナサを見て、鈴仙はにやーっと笑う。
「そんなルナサにはこれをあげよう!」
そう言って取り出したのはルナサのシンボルカラーである黒色を基調としたアクセサリーだ。
「私が作ったのよ!」
弾幕少女たちの中ではある方の胸をそらしながら自慢げに言う。ほとんどてゐや兎たちに手伝ってもらったのだが、デザインをしたのは自分だからと自信満々である。
それを見たルナサは、さっき見せた不機嫌はどこへやら、パッと笑顔を浮かべた。
「わあ、これ綺麗! ありがとう、鈴仙……」
「ルナサが喜んでくれてよかった……」
二人はそのまま見つめあったりなどする。
「ねえ、リリカ、あれ何?」
ひどく不機嫌な表情でメルランはルナサと鈴仙の方を睨んでいる。
「ん? ルナサ姉さんと鈴仙じゃん」
対して、リリカはさして興味ない表情でキーボードを掃除している。
「そうじゃなくて! あの二人がかもしだす何ともいえない空気は何よ!」
「仲よくていいんじゃない?」
「仲よすぎよ! なんでまた姉さんはあんな兎なんかと……」
「ルナサ姉さんのソロ演奏を普通に聴くことができるみたいよ」
リリカのその言葉にメルランは驚いたようだ。
「姉さんの音を聞いて普通でいられるなんて!? なるほど、ちょっとは音楽が分かるみたいね。ならば……」
メルランは何かを思いついたように、自分のトランペットを取り出した。
「私の演奏を聴けば、きっとルナサ姉さんにだけベタベタするようなことはなくなるわ! さあ、私の音楽を聴いてハッピーになりなさい!」
そして、メルランは高らかにトランペットを吹き始めた。
躁のメロディーが周囲に吹き荒れる。普通ならハイテンションになって騒ぎ出すはずなのだが、鈴仙は半眼になって冷たく言った。「メルラン、うるさい」
「分かってない! あの兎、音楽のこと全然分かってないよ!!」
そのまま泣きながらメルランは走り去る。リリカはやれやれといった表情を浮かべると、傷心の姉を追いかけていく。
ルナサも心配そうな表情で立ち上がりかけるが、鈴仙が止める。
「今、ルナサが行っても逆効果よ」
「もう! 鈴仙、あなたのせいだからね!」
「ごめんごめん、後でちゃんとメルランに謝るわ。あの子の演奏、嫌いじゃないし」
鈴仙は少し照れくさそうに言った。
「もう、そういうことはきちんとあの子に言ってあげてね」
「うん、分かってる」
そして、二人は何とはなしに窓から外を見た。
太陽が高くのぼり、二人をやわらかに照らしている。
「いい天気ねー。ルナサ、これから散歩でもしない?」
「いいわね。でも、まずは私の演奏を聴いてくれる?」
ルナサはヴァイオリンを手に取った。
「もちろん!」
鈴仙はにっこりと笑った。
そして、ヴァイオリンの音色が響き始める。
常にルナサは音楽と共にある。今までも。そして、これからも。
ただ今までと違うのは、そんな彼女のすぐ傍らに一匹の妖怪兎がいることだ。
紅魔館で師匠である永琳から頼まれた用事をこなした後、帰る途中に急な雨に見舞われた鈴仙・優曇華院・イナバは、激しい雨に打たれながらそんなことを考えていた。
かつて、月に住んでいた頃は、雨の音を聞くのが好きだった。
雨に直接打たれるのも嫌いではなかった。
ザー…………
雨がますます強く降りしきる。それにつれ、雨のカーテンは視界を急速に悪くしていく。
この辺りの地理にあまり明るくない鈴仙は不安になってきた。
(どうしよう、今なら紅魔館に戻れるかな……)
濡れた服が身体にまとわりつく。その感覚がさらに気持ちを落ち込ませていく。
(あの日もそうだったっけ……)
(私が月から……)
(戦いが怖くて……逃げて……)
自分の感情がどんどん乱れていくのがわかる。
感情の波長のコントロールがうまくできない。
ザー…………
雨の音が心をかき乱す。
(初めて幻想郷に降りたあの日もこんな雨で……)
(全てを捨てたあの日……)
何も見えない。
自分がどこにいるのか、前に進んでいるのか、それとも進んでいないのか。
ザー…………
雨の音はまるでノイズのごとく。
だんだんと鈴仙の意識が遠のいていく。
(あ……まずい……)
意識が完全に消えようとしたそのとき、遠くから何かの音が聞こえてきた。
(これは……?)
弦楽器のかすかな音色が鈴仙の耳に届く。
(これは……ヴァイオリン?)
いつしか、鈴仙は雨の音が気にならなくなっていた。ただ、その耳に届くヴァイオリンの音色だけに集中して、音が聞こえてくる方向へと向かう。
やがて、古びた洋館が視界に入ってきた。
そして、鈴仙は迷わずその洋館へと向かうのであった。
ルナサ・プリズムリバーは雨が嫌いだ。
ヴァイオリンは湿気の影響を受けやすい。少し湿度が上がるだけで音色が変わる。特に、雨の日のように高い湿度のもとでは音の響きも弱くなってしまう。
だからこそ、雨の日はいつも以上にヴァイオリンを弾いた。
楽器は奏でれば奏でるほど響きを増していく。
妹二人が留守の今日は、一人で思いのまま練習するよい機会だ。
ザー…………
降りしきる雨の音などルナサには関係ない。
ただ、思うがままに自分の音色を奏でる。それが騒霊たる彼女の存在意義だ。
(…………)
しばらくしてから、ルナサは何匹かの妖怪が自分のソロを鑑賞していることに気づいた。この洋館がプリズムリバー姉妹の住居であることを求聞史紀に書かれてからよくある光景だ。彼女自身は洋館に姿を現さず、ただ彼女の奏でる音色だけが聞こえる。それでも、プリズムリバーファンは機会を見つけては訪れるのだ。
別に迷惑ではない。観客がいる方がやりがいがあるというものだ。
しかし……。
「俺は、俺はなんてダメダメな奴なんだー!?」
「ごめんなさい……生きていて、ごめんなさい……」
「そうさ、俺はミミズ以下の存在なんだ。いや、ミミズさんは土を肥やしてくれるだけ俺よりずっと立派だよ、ははは……」
その誰もが1時間としないうちに去っていく。
ルナサの音色を聴いた者は、誰もがテンションが下がっていき、やがて自分を責め始め、いずこかへと去っていく。彼女の欝の音色はそれだけ相手の精神に影響を与えるのだ。よって、彼女のソロ演奏をまともな精神で最後まで聞ける者は、妹たち以外に存在しない。力の強い者ならば心を乱すほどの影響を受けないのだが、そのような者はわざわざここに訪れない。
他人の心を揺さぶることのできない音楽は音楽ではない。
それは彼女の信念だ。
しかし……。
(誰も私の演奏を受け止めてくれない……)
(リリカの能力によってまとめられたものではない、生の私の演奏を……)
(いいえ、そんな我儘なことを考えてはダメ)
(私はただ演奏することができるだけで十分満足なんだから……)
ルナサは心の中に生まれ始めた雑念を振り払うように、さらに演奏に熱中する。
そのときだった。
洋館の扉が開いたのは。
鈴仙は吸い寄せられるようにその洋館の中へと入って行った。
いつもの彼女ならば、このような不用心なことは決してしなかったであろう。だが、どうしても鈴仙はそのヴァイオリンの音色の正体を知りたかったのだ。
(これは……位相がずれてる?)
廃屋と言ってさしつかえのない洋館の内部に別の空間を鈴仙は感じ取った。彼女の能力は「狂気を操る程度の能力」であるが、その正体は波に干渉する力である。
振幅を極端に減らされた波の中にこの洋館の真実の姿がある。鈴仙は無意識にそれを感じ取ると、館の真の内部へと足を進めていた。
ルナサは驚いた。先ほど入ってきた妖怪兎が、自分たちの真の住居である館にあっさりと入ってきたからだ。
いつもならばそのことに対して危機感を抱き、臨戦態勢に入っていただろう。
しかし、その妖怪兎の表情があまりにはかないもので、一瞬芽生えかけた戦意は見る見るうちに消えていった。そして、彼女がやることは、やはり演奏を続けることであった。
鈴仙はいつしかその場に座りこんでルナサの演奏を聴いていた。
彼女の欝の音色の波長に鈴仙は深い悲しみを感じた。なぜその音色に悲しみが含まれているのか分からない。
しかし、鈴仙は直感的に、それはルナサが心のどこかで悲しんでいるからだと感じ取っていた。そんなルナサの想いが溢れている。鈴仙は気づくと泣いていた。声を出さずに泣いていた。ずぶ濡れの髪から垂れる雨水よりも大きな涙の粒が次から次へと溢れ出す。
ルナサは、最初はいつものことだと思っていた。彼女の演奏を聴いた者が示す反応そのものだと思った。そして、そのことに軽い失望を覚えている自分に気づいてルナサは戸惑っていた。
(わ、私は何をがっかりしているんだ……)
しかし、鈴仙は他の妖怪たちのように途中でいなくなるようなことはなかった。ただ涙を流しながらじっとルナサの演奏を見ている。そのことに違和感を感じたルナサは、鈴仙の視線が自分に向けられていることに気づいて動揺した。鈴仙の流す涙とその瞳は、ルナサの音色にあてられた者のそれと違って見えたからだ。
(あの妖怪兎は私の音色だけではなく、音色を通して私自身を見ている……?)
音楽に特別興味を持っていたわけではなかった。どちらかというと、教養だからと言われて、無理やり色々な音楽を聞かされた苦い思い出があるぐらいだ。
しかし、彼女の奏でる音色は鈴仙の心を強く揺さぶっていた。
(なんて悲しい音なんだろう……)
(波長の影響は関係ない。あの人の心が私に触れる……)
(たぶん、あの人と私は、どこか似ているんだ……)
鈴仙は涙を流しながらルナサを見つめ、いつしか……
(笑っている……!?)
ルナサは衝撃を受けた。自分の演奏を聴いている鈴仙が、涙を流しながら、しかし確かに微かな笑みを浮かべていたのだ。
それは、ルナサのソロ演奏を聴く者が彼女に向けることのなかったもの。
(この子は……)
ルナサは、ますます感情を込めて演奏を続ける。
雨が激しく降りしきる洋館で、一人の少女の演奏を、一人の少女がただ涙を流しながら聞いていた。
それは、まるで一枚絵の魔法。
永遠にこの瞬間が続くかと思えた。
ザー…………
ルナサの演奏が終わり、雨音が再びその勢いを増して周囲に響く。
一枚絵の魔法は解け、二人の少女は互いに見つめ合っていた。
「あなたは……?」
ルナサはただ一言、小さな声で尋ねた。
「鈴仙。鈴仙・優曇華院・イナバ……。あなたは……?」
「ルナサ。ルナサ・プリズムリバー」
それだけ言葉をかわすと、二人はまた黙りこんでただ見つめあう。
数瞬後、鈴仙は涙をぬぐいながら、何かに気づいたような表情になり、慌てて拍手をした。
その瞬間、ルナサの瞳が揺れる。
「ルナサさん、とても……とてもいい演奏でした。私、感動しました……」
「あ、ありがとう、えっと……」
「鈴仙でいいですよ」
「じゃあ……鈴仙」
ルナサは、鈴仙の名前を心を込めて言った。
「私もルナサでいい。そして、普段通りの言葉遣いでいいから」
「分かった、ルナサ。あなたがあの有名なプリズムリバー楽団の騒霊なのね。私、音楽のことよく分からないけど、あなたの演奏が心にとっても響いたの」
「私のソロ演奏、最後まで聴いてくれたの、あなたが初めてよ、鈴仙」
その言葉を聞いて鈴仙は驚いた。
「何で!? あんなに素敵な演奏なのに……」
「私のソロ演奏は精神に影響を与えるの。皆、欝になってどこかへと去っていくわ」
ルナサは寂しそうに言う。そして、まだ座ったままの鈴仙の前でしゃがむ。
「あなたは何で私の演奏の影響を受けなかったの?」
「私は精神に干渉する能力の持ち主だから、そのテの影響は無意識で防御するわ。だからじゃないかな?」
「じゃあ、何であなたは……泣いていたの?」
鈴仙は目を伏せる。ルナサはハッとした表情になって、慌てて鈴仙に言葉をかける。
「ご、ごめんなさい! わ、私ったら無神経で。私、私のソロ演奏を最後まで聴いてくれたことがとっても嬉しくて、すごく嬉しくて、そんなあなたを傷つけるようなこと……えっと……どうしよう……」
ルナサの目尻に涙が浮かぶ。
「さっきの拍手、本当に、本当に嬉しかったの! 私、私、こんなこと初めてで……!」
そこまで言ってルナサは言葉を失った。鈴仙がルナサの手を握ったからだ。
「私が泣いていたのは、最初は私が弱かったから。でも、あなたの演奏を聴いていて、切なくなって涙が出た。でも、最後は違う」
鈴仙は言葉を選びながら一生懸命言った。
「何て言えばいいのか分からないし、たぶん間違っているんだろうけど、あなたの演奏を聴いていてあなたの心に触れたような気がしたの。そして、私とあなたが、どこか似ているところがあると思って……」
そこまで一気に言ってから、鈴仙は顔を赤くしてうつむいた。
「ごめん、勝手なことばかり言って……」
それを聞いたルナサは微笑みながら首をゆっくり横に振った。
「音楽は演奏する者の心を映すものなの。ありがとう、私の演奏をそこまで聴いてくれて……。そして、私のことを分かってくれて……」
いつしか雨音は聞こえなくなっていた。
そして、これが鈴仙・優曇華院・イナバとルナサ・プリズムリバーの出会いだった。
「ねえ、鈴仙、このアクセサリーどうかな? 似合う?」
「うーん、ルナサにはちょっと派手じゃないかな?」
「むう……」
膨れるルナサを見て、鈴仙はにやーっと笑う。
「そんなルナサにはこれをあげよう!」
そう言って取り出したのはルナサのシンボルカラーである黒色を基調としたアクセサリーだ。
「私が作ったのよ!」
弾幕少女たちの中ではある方の胸をそらしながら自慢げに言う。ほとんどてゐや兎たちに手伝ってもらったのだが、デザインをしたのは自分だからと自信満々である。
それを見たルナサは、さっき見せた不機嫌はどこへやら、パッと笑顔を浮かべた。
「わあ、これ綺麗! ありがとう、鈴仙……」
「ルナサが喜んでくれてよかった……」
二人はそのまま見つめあったりなどする。
「ねえ、リリカ、あれ何?」
ひどく不機嫌な表情でメルランはルナサと鈴仙の方を睨んでいる。
「ん? ルナサ姉さんと鈴仙じゃん」
対して、リリカはさして興味ない表情でキーボードを掃除している。
「そうじゃなくて! あの二人がかもしだす何ともいえない空気は何よ!」
「仲よくていいんじゃない?」
「仲よすぎよ! なんでまた姉さんはあんな兎なんかと……」
「ルナサ姉さんのソロ演奏を普通に聴くことができるみたいよ」
リリカのその言葉にメルランは驚いたようだ。
「姉さんの音を聞いて普通でいられるなんて!? なるほど、ちょっとは音楽が分かるみたいね。ならば……」
メルランは何かを思いついたように、自分のトランペットを取り出した。
「私の演奏を聴けば、きっとルナサ姉さんにだけベタベタするようなことはなくなるわ! さあ、私の音楽を聴いてハッピーになりなさい!」
そして、メルランは高らかにトランペットを吹き始めた。
躁のメロディーが周囲に吹き荒れる。普通ならハイテンションになって騒ぎ出すはずなのだが、鈴仙は半眼になって冷たく言った。「メルラン、うるさい」
「分かってない! あの兎、音楽のこと全然分かってないよ!!」
そのまま泣きながらメルランは走り去る。リリカはやれやれといった表情を浮かべると、傷心の姉を追いかけていく。
ルナサも心配そうな表情で立ち上がりかけるが、鈴仙が止める。
「今、ルナサが行っても逆効果よ」
「もう! 鈴仙、あなたのせいだからね!」
「ごめんごめん、後でちゃんとメルランに謝るわ。あの子の演奏、嫌いじゃないし」
鈴仙は少し照れくさそうに言った。
「もう、そういうことはきちんとあの子に言ってあげてね」
「うん、分かってる」
そして、二人は何とはなしに窓から外を見た。
太陽が高くのぼり、二人をやわらかに照らしている。
「いい天気ねー。ルナサ、これから散歩でもしない?」
「いいわね。でも、まずは私の演奏を聴いてくれる?」
ルナサはヴァイオリンを手に取った。
「もちろん!」
鈴仙はにっこりと笑った。
そして、ヴァイオリンの音色が響き始める。
常にルナサは音楽と共にある。今までも。そして、これからも。
ただ今までと違うのは、そんな彼女のすぐ傍らに一匹の妖怪兎がいることだ。
地味な話ですが、こういう感傷的な話も好きなので書いてみました。
感傷的になる鈴仙や、自分の演奏が好きになれないルナサがすごく自分の好み。
こういう温かい空気に包まれた話は大好きです、有難うございます。
気にかかる点は、出会いのシーンでの二人の視点がコロコロ変わる点でしょうか。
ホームビデオでカメラが大きく左右に振れて目が疲れるように、読者側としては疲れるかもしれません。
どちらに感情移入していいか、迷ってしまうのです。
後は、出会いのシーンから唐突に時間軸が移る点でしょうか。
間にもう少し、文章やエピソードが欲しかったです。
偉そうな事を言いましたが、とてもおもしろかったです。
-10pと言う事で、90点を入れさせて頂きます。
鈴仙のほうはなにを感じたのかよくわからないし
最初のとっかかりがルナサ方面だからしかたないのかもしれないけどせっかくだから鈴仙の方ももっと欲しかった
だからこの点数で
至らない所のご指摘、ありがとうございました。
今後に生かしていきたいと思います。
ちょっと鈴仙サイドに物足りなさを感じたかもしれません。
面白かったです。
って思うぐらい、好きです。それぞれの感情も、文章から察することが出来るような文章で、とても魅力的だと思います。これからも頑張ってください!