Coolier - 新生・東方創想話

初夏

2009/07/02 16:02:19
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 森近霖之助は、奇人である。

 地面が煮え、空気が燃えだしそうな猛暑の日、彼は猛然と穴を掘っていた。
巨大なスコップで土を跳ね上げ、石を穿ち、黙々と穴を掘っていた。
服の汗は絞ればぼとぼとと滴るほどで、故に肩に掛けた手拭いは最早何の役にも立ちはしない。
しつこく喚き立てる蝉の声が聴覚を麻痺させる。
ともすれば頭の中まで茹で上がってしまいそうな、そんな暑い日だった。
休憩やら読書やらを途中に挟んでいたためか、大凡半刻ばかり、この男は穴を掘っていたことになる。いくら森近霖之助が奇人であれ、このような行動は珍しい。

「そして君は、大凡半刻ばかり、その男を観察し続けていたことになるわけだ」

「暇なんだよ」

 頭の上にちっぽけな赤い頭巾(ときん)を乗っけた少女もあまりの暑さにげんなりとした様子で返す。
いつもはふわふわと柔らかそうな銀髪も、今ではなんだかしなしなと元気がない。
形の良い顎を伝い、ぽたぽたと汗が滴っていた。少女の名前は犬走椛。妖怪の山に住む下っ端哨戒天狗である。
今日、彼女はとても暇だった。天狗は皆暇を持て余しているのだが、この日の椛はことさら暇だったらしい。
つい先日、長きにわたる大将棋の決着が付いたこともあって、やることが何もなかったのだ。
そんな時、仕方がないので九天の滝の近くで水浴びをしていたところ、目を爛々と輝かせて穴を掘る霖之助の姿が目に入ったそうである。
椛は彼の奇行が目に入った当初は、いつものように訳の分からんことをしているなと無視していたのだが、
いつまでたってもそれを止めないので、穴に青いテカテカとした布を被せたあたりから気になって気になって仕方が無くなり、こうしてふらふらと飛んできてしまったのである。
つくづく、天狗というものは好奇心の強い妖怪であった。

 それで、と椛は問う。

「お前はいったい何をしていたんだ」

 見て分からないのかい、と彼は背を古ぼけた店の壁に預け、問い返す。
むわっ、とした熱気から逃れる術はなく、彼は手拭いを絞り、ぜえぜえと荒い息を吐いていた。
散々掘り返したためか、濃厚な土の匂いが漂っている。まるで畑おこしだな、と椛は思った。こんもりと盛られた土は、良い色をしている。森のキノコの毒はここまで届きはしないだろう。

「じゃがいもでも植えてみるのか?」

 問いに、まさか、と彼は肩を竦める。

「そんなことをしては芋が瞬く間に駄目になってしまうよ」

 彼は掌でぱたぱたと頬を扇ぐ。

「僕がやろうとしているのは、水の生成だ」

 椛はもう一度穴を見やった。ビニールシートの中央に、石が置いてある。なるほどなあ、と思った。

「外の人間が緊急に行う手法らしくて、穴を掘ってシートを被せるんだそうだ。それだけで純水が得られる。一切の魔力を必要としない、外の人々らしいなんとも合理的な生成手段だ。
しかも、穴と水というのは古来深いつながりがあってね――」

 やはり、そんなことかと椛は深い溜息をついた。穴と水の関係。外法様とも称される天狗、彼の考えはすぐに分かった。
それと同時に、溜息が漏れる。この男の蘊蓄など必要ない。穴を掘り、シートを被せ、中央に石を置く。時間はかかるものの、その手法で真水を得ることは出来る。
そんなことは椛でも知っている。何故森近霖之助ともあろう男がそんなことも知らなかったのだろうかと不思議なくらいだ。
第一、湖に行けば好きなだけ飲めるだろうに、水一杯を得るために穴を掘るバカがどこにいる。
へんなやつだと椛は思った。しかし、彼の言わんとした「深いつながり」とやらを考えると、頬は少しだけ弛む。それだけは、なんとも彼らしくて好感が持てるのだ。

「『真あり。維れ心亨る』だったか。水と穴に関わる言葉といえばこれしかない。どんな危機に陥っても志は変わらず、貫徹する。って意味だったかな。頑固なまでの、愚直なまでの志か」

 椛の言葉に、彼はむむむ、と首を傾げる。
どうやら彼女の言葉とは別に意図するところがあったらしい。ちゃんと蘊蓄を聞いておけば良かったと思う椛に、霖之助は言う。

「そう解釈すると、まるで君自身だな」

「――へっ?」

 椛の体が、ぴんと硬直した。椛も霖之助に対し「まるでお前みたいだな」と言おうとしていたのだ。しかし、考えてみれば、なるほど納得である。
たかが哨戒であり、よっぽどのことがなければ命を賭けて刀を交えることなどないのに、ひたすら修行を続ける天狗と、
非力な半人半妖であるにも関わらず、外に行き、知識を得、それを生かして幻想郷を良くしていこうと考えるこの店主は、ある意味では似たもの同士なのかもしれない。
だが、と椛は息を吐く。この男は性格があまりよろしくない。あくまで気質の一部分が似ているだけである。彼の同類が居るのであれば是非是非教えて頂きたいものだ。

「まあそんなどうでもいい言葉遊びはともかくとして、だ」

 椛は絞り出すように、息を吐く。霖之助も、彼女の言わんとすることを理解してか、首を一度縦に振る。天狗の少女はそれを見て天を仰ぎ、口を開く。

「暑くて死にそうなんだがどうすれば良い?」

 どうしようもないな。ああ、どうしようもない。というらしくもないぶっきらぼうで投げやりな溜息が吐き出される。それは蒸し暑い夏の空気にじわじわ溶けて広がっていくようだった。
幻想郷では近頃緩やかな寒冷化が進んでおり、水を浴びてさっぱりすれば夜もぐっすりと眠れることが多い。
しかし、今日は異常だ。遠景が揺らいでいるように思われるが、あれは錯覚であろうか。遠くもこもこと入道雲が浮いているのが目に入る。

「あの中は氷やら雷やらでいっぱいいっぱいなんだろうなあ」

 まるで届かないものを夢想するかのように語る霖之助に椛は訝しさを覚えたが、当たり前じゃないかととりあえずも答える。

「だけど、入道雲は危なくって仕方がないからね。あんな所を突っ切れるのは私の知っている限り文さんくらいのものだよ」

 へえ、と霖之助は感心したように息を吐く。

「やはり彼女ほどの俊敏さをもってすれば雲の中の雷を避けるのも容易いのだろうか」

 はあ、と椛は首を傾げた。霖之助は賢い男だと彼女は思っている。それだけにちんぷんかんぷんな解答が続くのは不可解だった。

「そうじゃない。あの雲の中の風の流れはおまえだって知ってるだろ? 上昇気流と下降気流がぐちゃぐちゃに入り交じってまるでたちの悪い竜巻だ。私も一回死にかけたよ」

 あの時は大天狗様にこっぴどく叱られたなあ、と苦笑いを浮かべる彼女に、なるほどなあと霖之助は感嘆の息を吐いた。

「僕は空を飛んで雲の中に突っ込んだ経験なんてないからなあ」

 目を細め、空を見上げる彼を見て、あっ、と椛は息を吐いた。今まで会って来た人間たちは大抵当たり前のように空を飛び回っていたので、この男のことを念頭に置いてはいなかったのだ。
霖之助が本当に空を飛べないのかどうかは彼女にも分からない。だが、雲の中に突っ込むなどという愚行を犯す男ではないのは明らかだった。彼は、天狗とは違うのだ。

「龍の住まう場所とは聞いていたが、やはり雲というのはそれだけ危険な場所なのか」

 霖之助はふうむ、と長い息を吐いた。

「ありがとう、勉強になったよ」

 いや、いいよ。と椛は手をぱたぱたと振った。なんだか少しだけきまりが悪かった。

「他にも教えて欲しいことがあったら、なんでも教えてやるぞ」

 その時は是非お願いするよ、と霖之助は言った。しかし、どうやらあまりの暑さに頭の回転も鈍ってしまっているらしい。
額の汗を拭うのは、既に諦めている。手を扇のようにぱたぱたと動かして小さな風を作る。出来る抵抗はせいぜいその程度だった。

「椛、君は山に戻れば良い。あそこの湧き水はきんと冷えていることだろう」

 しばらく経って、思い出したように霖之助がそう言った。太陽のぎらつきは強まり、暑さはいよいよ盛りに向かっている。
申し出に、椛は何故かしばらく言いよどんだ後、頬を掻いて明後日の方向を向いた。

「他の天狗にも水浴びの機会を与えなきゃ駄目だろ?」

「そういえば、君は下っ端だったね」

「黙れ!」

 怒気一喝。しかし上目遣いに唾を飛ばされても恐くはない。それは天に唾することと全くの同義だ。無論、結果的な意味で、である。

「うぐ……唾がっ」

「君はバカだろう」

 呆れを多分に含んだ彼の顔には笑みすらない。この暑さのせいでストレスがたまっているのだろう。それは椛にしても同じ事であった。なんとかこの逼迫状況を解決しなくてはならない。
霖之助はどう思っているのか知れたことではないが、穴を掘って得られるのは温い水である。乾きは癒せても暑さは軽減できない。
氷の妖精などは都合良く誰かに捕まっているのが常であるし、この幻想郷には避暑地があまりにも少ない。
せめて外の世界の夢の道具、クーラーを使うことが出来れば良いのだが、それを扱うには自分は未熟であることを霖之助は自覚していた。

「今年の冬は少し頑張って氷室でも用意しようかな」

 げんなりと息を吐く彼に、椛も額を拭いながら、それが良いかも知れないな、と苦笑いを浮かべた。
新しく何かに挑戦してみるのが好きなこの男のこと、興味さえ失わなければきっと来年の今頃はキンキンに冷えた氷を楽しむことができるだろう。

「――ん?」

椛は首を傾げた。少し、考えてみようではないか。あまりの怠さに水遊びすらしたくはないこの酷暑。乗り切るための氷が存在する場所は本当に無いのか。
こんな暑い日だからこそ、氷を求める者は多いはずだ。なら、人間達はそれを見越して今(まさに今!!)氷を用意しているのではないだろうか。
この暑さの中水遊びをする元気はない。しかし、冷たい飲み物を干しながらぶらぶら散歩をするとなれば話は別だ。
商人たちが狭い通りに、出店を開き、声を張り上げる。その周りには、キラキラと光を放つまるで水晶の如き冷気の結晶が――

「うん、いいな……」

「何がだ」

 日陰に蹲って霖之助がぼやく。

「人里に行けば、冷たい食べ物や飲み物を楽しめるとは思わないか!?」

 だろうね、と彼は頷く。折角乗り気になって右腕を振り上げた椛だったが、気のない返事に手首がへなりと曲がる。
何故乗り気ではないのかと不思議がる椛に向かい、霖之助はひらひらと右手を振った。

「あんまり人里に行くのは好きじゃないんだ。今となっては深い理由はないんだが――」

 昔と少しも変わらぬ姿の自分に、昔と少しも変わらぬ態度で接してくれた、老いた霧雨店の主の姿が目に浮かぶ。
彼は何も意識していなかったのだろうが、霖之助はその時、本当に嬉しく思ったものだった。

「――いや、やっぱり行った方が良いかも知れないな。挨拶しておきたい人もいる」

 うん、それがいい、と椛は笑った。

「人間はすぐに死んでしまうからな。話しておきたいことをそのまま放っておいたら――」

 彼女は鼻の頭を掻いて、笑った。

「後悔することになるぞ」

 白狼天狗とは体毛が白くなるほど長生きした狼が変化したものだと聞く。
椛には、言いたいことを言えずに、友と別れた経験があるのかも知れない。
奇跡の蝉が再び地上に現れるのはいつであろうか。そんなことを考えながら、霖之助はいそいそと外出の準備を始めるのであった。






「お、お前って案外凄い所にお世話になってたんだな」

 霧雨家から出てきた霖之助を見る椛の表情は少しばかり強張っていた。霧雨の名が妖怪の山にまで轟いているのかと思うと、なんだか彼は誇らしかった。
それと同時に、いつかは必ずこの店と双璧を為す名店として成り上がってみせると決意を新たにする。

「親父さんもお元気そうで安心したよ。誘ってくれてありがとう。なかなか一人でここにくる決心がつかなくてね」

「でも蝉がうるさいからって理由でひょっこり顔出したりしたんだろ?」

「あれは洒落になってなかった。妖怪の山に奴らが姿を現したなら、きっと君たちは地底に潜るのも厭わないと思うよ」

「どうだかなあ」

 熱弁する霖之助に、椛はくすくすと笑みを零した。狂ってしまいそうな程うるさい蝉の大合唱を思い出し、霖之助は長い溜息をついた。
やはり夏の風物詩たる蝉の鳴き声は今のように遠いどこかから響いてくる方が良い。
子供達は棒きれを片手にチャンバラごっこに興じていたり、虫取り網を振り回していたりと、実に元気だ。
家業の手伝いや寺子屋での授業から解放された嬉しさが如実に顔に表れているものも居る。
これを見た里の賢者はどう思うであろうか。恐らく、両手を腰にやって、しょうがないやつらめ、なんて苦笑いを浮かべるのだろう。
久しぶりにやって来たが、人里は良いところだ。霖之助はつくづくそう思う。

「しっかし、元気だなあ。子供っていうのはやっぱり得体の知れない不思議な力を持ってるんだろうね」

「君だって、まだまだ少女じゃあないか」

 さすがにああいう元気はないよ、と椛は返す。口許には穏やかな笑みが浮かんでいた。
霖之助は、椛がまんまる頭の赤子を抱いて子守歌を歌う姿を思い浮かべた。案外似合う。
あと三千年くらい経って落ち着きが出てきたら良い保母さんになれそうだと彼はそんなことを思った。

「そういえば、椛」

 思い出したように、霖之助が掌をぱん、と叩く。一体全体どうしたというのだろうか、と首を傾げる彼女に対し、彼はぴんと人差し指を立てる。

「ほら、入道雲について教えてくれると君は言ったろう?」

 ああ、と椛は笑った。やはり覚えていたらしい。霧雨店で冷たい麦茶を飲んで復活したのであろう。椛はそこらの水屋で喉を潤したばかりである。二人とも今は気分が良い。

「なんでも聞いて良いぞ。ただし、あれがどうして出来るのか、なんて話は私にはサッパリ分からないからな」

 それについては自分なりに考えていることがあるから構わない、と言って霖之助は憎たらしいくらい青い空に目を向ける。
入道雲はいまだそこにあった。太く不格好なそれを見上げ、彼は常々疑問に思っていたことを訊ねる。

「入道雲っていうのはどのくらいの大きさなんだろうか」
 
 まるで子供みたいな質問に、ふふっ、と椛は笑った。

「どうしてそんなことを知りたいんだ?」

 霖之助の前に椛はたたっ、と歩み出た。そして体をちょっと前傾させて上目遣いに彼を見上げる。楽しくて仕方がないといった様子だ。
古来天狗は教えたがりな妖怪である。剣術、神通力、様々な秘技を人間は天狗から教わってきたものだ。椛の中にも、そんなお節介焼きな一面があるのかも知れない。
霖之助は子供扱いされているような気がして面白くなかったが、聞かぬは一生の恥と言い聞かせ、問うた。

「幼い頃に一度見たきり、僕は龍神様のお姿を拝んだことがなくてね。どれ程大きいお方なのかよく覚えていないんだ。
それでも、通った跡である虹や川を見ればその巨大さは容易に推して知れる」

 しかしだ、と彼は難しい表情で頭を捻る。

「例えば、あの入道雲に龍神様を覆い隠すほどの大きさはあるのだろうか? いや、勿論あの雲の中に龍神様がいらっしゃると考えている訳ではない。
雲一般の大きさが、僕には今一よく分からなくてね。参考までにあの入道雲の大きさを聞きたい。目測ではとてもとても龍神様の巨躯を包み込めるようには――」

 あはははは、と椛は笑った。言葉を途中で遮られたため霖之助はむっとしたが、いやすまん、と彼女が謝ったため、責めるのは止した。

「そっか。おまえは天の彼方からあの雲を見たことがないんだもんな」

 そうだね、と霖之助は頷いた。

「一度見下ろしてみれば大きさの程が分かるのだろうが」

 そう言うと、椛はまたふきだした。

「見下ろす? 無理だ無理だ。そんなことをしようと思ったら、この地球から飛び出さなくちゃいけなくなるよ。まったく」

 なんだって、と霖之助は入道雲に向けていた金色の目を見開いた。

「入道雲というのは、それほどまでに大きいのか!?」

 当たり前じゃないか、と椛は呆れ果てたように言う。しかし、その口許にはわずかに笑みが浮かんでいた。
やはり酷暑の中とはいえ、体の熱を奪うものがあれば自然と余裕を持つことが出来るというものだ。

「私だって、生まれてこの方入道雲を見下ろしたことなんか無いよ。そりゃまあ有頂天まで行った人たちはその限りじゃないかも知れないけど」

 でも、と彼女は言葉を続ける。

「そんなことが出来るのはほんの限られた人妖だけだ。ここからじゃあ妖怪の山と同じかちょっと大きいくらいにしか見えないかも知れないけど」

 椛は畏敬を込めて、呟く。

「富士山はおろか、世界で一番高い山よりもでっかくなることもあるんだってさ」

 霖之助は、ぐうの音も出ない様子であった。口をぽかんと開けて空に浮かぶそれを見上げていた。

「なんだ。おまえの店の蔵書ならそれくらい書いてありそうなものだったけどな」

 ううむ、と彼も頭を掻いた。

「気象についての研究はまだまだ外の世界でも盛んらしい。なかなか状態の良い本が届かないんだよ」

「なるほどなあ」
 
 いやしかし、と彼は唸る。

「そうか……。となれば妖怪の山より遙かに巨大なものがこの空に浮いているということになるのか」

 はあ、と彼は深い溜息を吐く。

「雲というのは僕が思っていた以上にとんでもないものらしい。最も古い神である雷を内包するだけある」

 もしかしたら、と椛は笑む。

「入道雲というのは巨大な神様のための神殿なのかも知れないな」





 子供達を眺めながら歩を進めていると、古めかしい木造の建物がずらりと並んでいるのが目に入る。
ベーゴマに興じる少年達や、昼から飲んだくれて将棋を指している中年の姿も目に入る。
赤い提灯、安っぽいタレの匂い、客をひくための怒鳴り声。喧噪、笑顔。人里はいつも通りの騒がしさであった。
二人は途中で購入した駄菓子(きなこたっぷりのわらび餅だ)を片手にふらふらと歩いていたのだが、

「あっ、天狗! 文さん以外の天狗が里に来るなんて珍しい」

 自分のことをすっかり棚に上げて、突然椛がそう大きな声をあげた。時代を感じさせる古く黒ずんだ木造建築から視線を移せば、往来のど真ん中で大木のような巨漢と飲み比べをする痩躯の男の姿があった。
ぐびぐびと大杯をあおる彼の口許にはにんまりと笑みが浮かんでいる。対して大男は顔を真っ赤に染めて、今にも倒れ伏しそうだ。

「やれやれ。天狗は勝てそうな相手を見つけるとこれだからな」

 霖之助は苦虫を噛み潰したような表情でそう告げる。さすがに同族を貶されて黙ってはいられないのか、椛がむくれて言う。

「でも意外と憎めない良い奴なんだぞ」

「君が言うな君が。少なくとも酒がらみなら天狗は悪い奴だ」

 むむう、と椛は頬を膨らませた。

「なんだ。悪い思い出でもあるのか?」

「一回天狗と呑んだことがある」

 ふむ、と椛は頷いた。

「地獄だったね」

 あー、と椛の視線があちこちをさまよう。どうやら弁護の言葉が見つからないらしい。
前後不覚になってもなお酒を注ぐ化け物達の笑みを霖之助は今なお明瞭に記憶している。
この店主が天狗たちとの飲み会に参加しないのは、決して騒がしいのが嫌だからではない。
日がな一日本を読んで暮らしているためか、彼を物静かな人間と誤解する者も多いが、決してそんなことはない。
一度は咲き誇った桜の下で大宴会を開いたことすらある。彼が天狗との酒宴を拒むのはひとえにその酒癖の悪さのためである。
ちょうど、大男を下し、目の前で勝ち鬨をあげている彼のように。

「目を合わすなよ。絡まれるぞ」

 椛は霖之助の耳に口を寄せ、警告した。


――しかし、それが失敗だった。


 すっかり出来上がってしまった天狗には、それが恋人同士の睦み合いに見えてしまったようである。
勿論、素面の人間が見れば、そうでないのは一目瞭然。二人は微笑み合うかわりに、不愉快そうに眉根を寄せているのだから。
だが、時既に遅し。やって来た天狗は酒臭い息を霖之助に吹きかけた。

「おおい、若造。その細い体で天狗を連れ回すたあ良い度胸だな」

 今日は厄日かも知れない。椛は面倒だな、くらいの意識しかないようだが、霖之助はたまったものではない。
ここで絡まれて大酒を呑まされてしまえばひっくり返ってしまうのは火を見るより明らかだ。ちらほらと見知った顔もある。潰れた挙げ句に宿酔いの無様を晒すことだけは避けたかった。
天狗の酒だけは避けねばならぬ。戦っても、勝てるはずがない。椛は曲がりなりにも少女である。この子を盾にするのは恥だ。
頭が真っ白になった彼は、とん、と一歩引いて、恭しく頭を下げた。

「やあやあ、外法様を連れ回すなど畏れ多い! 我々があなた方をお慕い申し上げているのをご存じないのですか?」

 ぽかん、と天狗が口を開いた。周囲の野次馬も同じような顔をしている。どくどくと彼は自分の心臓が高鳴るのを感じた。眼鏡の奥で彼の目はぐるぐると回っていた。混乱の境地である。
しくじったら、酒地獄。頭の中は猛回転を続けるも、なんとか商人らしい笑みだけは保っていた。
彼は一歩身を引いて、椛を立てるような位置に立つ。鮮やかな動きだった。
滅多に見られるものではないが、この男が本気で商売をするときの身のこなしと言葉繰りは並の商人のそれではない。
霧雨店の主が独立を許す程の男なのである。
ただ、不要でかさばる在庫の処理が出来そうな時など、それなりの理由がなければ重い腰を上げようとしないのが玉に瑕である。
霖之助が本気で人に物を売りつけようとするのは、せいぜい数年に一度くらいのことなのだ。
加えて、彼は商売以外での人付き合いはあまり得意ではない。周囲には鮮やかに見える動きも、実のところは緊張でやや鈍っているのである。
霧雨店の主がこの様をみれば、落胆するであろうか、激怒するであろうか。

――それとも、霖之助らしいなと苦笑を浮かべるのであろうか?

 緊張すると思考がぶれるもの。先程会話したばかりの師の顔を思い出し、霖之助は顔には笑顔を浮かべたままで、しかし緊張に怯みそうになる心をキッと引き締めた。
不思議と、頭の中が冷却されていく。霧雨の親父さんの住むこの人里にて、弟子たる自分が恥ずかしいところを見せるわけにはいかない。
妙な所で意気をボウボウと燃やす男、それもまた森近霖之助なのである。

「私がこいつと共に居るのは美味い氷菓子の店を案内して貰うためだよ。
人里では神のように称えられることもままあるし、ちょっと壊れかかった建物の修理でも手伝ってやるかな、とは考えていたりもするがな」

 霖之助の考えをくんだのか、椛はやや強張り、演技くささの残る態度、口調でそう告げた。
文なら完璧に立ち回るのだろうが(霖之助の出番など必要ないだろう)、馬鹿正直なこの白狼天狗にそれを望むのは酷というものだ。
霖之助は自身の豹変ぶりに椛は狼狽するかもしれないと思っていたが、心の中で少々評価を改めた。
相手の天狗は、酔いも手伝ってか目を白黒させながら、むむっ、そうなのか、などと頭を捻っている。
ここで論理的に組み伏せようとするのはよろしくない。挑発するより、相手を立てる。引き際こそを、鮮やかにである。

「外法様は訪れるたびに里に幸をもたらしてくれる素晴らしい神通力を持つとお聞きします。あなた様もしばし山での暮らしを忘れ、里の料理に舌鼓を打っては如何でしょうか?」

 それでは、と霖之助は礼を一つ。かつんかつんと靴音を響かせて去っていった。その後ろを、椛がくつくつと笑いをこらえてついて行く。
そう、理路整然と理屈を並べ立てる必要はないのである。何かそれっぽいことを物凄い勢いでまくし立てれば相手は怯むもの。
頭の回らない酔っぱらいなら尚更である。霖之助は、長い長い溜息をついた。見れば、居酒屋の主人がこっそりと親指を立てていた。
霖之助もまた唇の端を歪め、こっそりと親指を立てることで、それに応えるのであった。



 結局、その天狗が自分は担がれたのだと気が付いたのは、日が暮れるまで熱心に少年達に対しベーゴマ講義をした後であった。
しかし、十人を超える少年の輝く視線を受け、コマを回すのは、思ったより悪い気分ではなかった。
他愛もない小技の一つ一つに感心し、すげえ、格好良い、と言われたときには小躍りしたい気分だった。
そんな賞賛の声を聞くのは、心地よかった。
途中で俄雨などのアクシデントはあったものの、帰り際に、また遊びに来てくれよ、と言われたときには、不覚にも涙腺が緩んだ。
またここにきて、こんどはチャンバラでも指導してやるかな、と天狗は思った。
人里は、彼が思っていたよりずっとずっとあたたかい場所であった。






「ん……よし、と。今度からはちゃんと手入れしてやれよ」

「ありがとうございます!!」

 体格の良い男のお辞儀を背にして、頬を煤だらけにした椛がシロップをたっぷり垂らしたかき氷の容器二つと共に、とてとてとこっちに歩いてくる。その表情はご機嫌そのものだ。
先程の天狗をやり過ごしてから半刻ばかり、彼らは気の向くままに出店やら小道具屋やらを冷やかしていた。

「ほら、霖之助。おまえの分!」

 青色のシロップ(ブルーハワイというらしい)のたっぷりかかった、ずしりと重いかき氷を受け取り、霖之助はありがとう、と礼を述べた。

「いやー、しかし。びっくりだな。天狗信仰なんてとっくの昔に廃れてしまったかと思っていたけど」

 照れくさそうに頬を掻き、椛は笑んだ。妖怪の山は閉鎖的な場所だ。天狗の方から人間に手をさしのべることはあれど、人間が天狗に助けを求めることなどもはや無いと思っていたのだろう。
また、先程の天狗や、しばしばここを訪れる文などの変わり者の天狗たちは、たまに俗っぽい一面を見せることもある。
だから椛には今になっても人里の住人たちが天狗を大切にしてくれているとは信じがたかったのかもしれない。

「天狗は今でも外法様と慕われているんだよ。知らなかったのかい?」

 昔はそうだったのは知っているけれど、と彼女は唸る。

「でもまあ、実際に頼りにされると、なんか面映ゆいな」

 お礼にってこんな物まで貰っちゃったぞ、と鉄製の風鈴を揺らす椛を見て、やはりこの子も天狗なのだなあ、と霖之助は思った。
すぐに調子に乗るところも、お節介なところも、実に天狗らしい。見ていて少し微笑ましかった。
可愛い、という語は顔が火照る程恥ずかしい、という意味が転じたものという説があるが、なんともこの少女に似合う言葉ではないか。
かき氷を掬って口に運んでいる間、椛は終始笑顔だった。時々、へへ、とにやけていたりする。喜んでもらえたのが、嬉しくて嬉しくてたまらないのだろう。

 勿論、それは人間に媚びる態度の表れなどではない。
むしろ、しょうがない人間だ、見ていられないから助けてやるか、などという天狗らしい傲慢さから出た行動である。
だがそれでも良いと霖之助は思う。ただの善人との付き合いは、すぐに飽きが来る。
聖人君主ではなく、一癖も二癖もある奇人との付き合いの方が長続きするのは往々にしてあることだ。
人々に好まれる、いわゆる嗜好品も、何かしら癖のあるものが多い。そういった物を嗜むことで、少しずつ人格に深みが出てくるのである。
そう霖之助は考えている。あまりにも深みが出すぎると竹林七賢のように、浮き世を離れてただただひたすら清談にふけることになるのだろうが。
天狗も、そういった癖の強さのために、人間に好まれているのではないだろうか。

「ふふっ……やっぱり暑い日にはかき氷が最高だな!」

「しかし、僕まで頂いてしまっては何だか申し訳ないな」

 何を馬鹿な、と椛は肘で霖之助の腕を小突く。

「おまえは私の案内役だろ? 堂々としてれば良いんだ」

「そういうものかもしれないね」

 ところで、と霖之助は首を傾げる。

「先程の店主、何をあんなに慌てていたんだ?」

 ああ、と椛が腰を叩く。手が塞がっているからとはいえ、変な仕草だった。

「古いからって使われなくなった茶釜がへそ曲げて大騒ぎしていたんだ。かなりの年代物だったからねえ。時々は埃を払ってやれって説教してきたよ」

 おまえを呼んだら話が長くなりそうだから止めといた、と椛は舌を出して悪戯っぽい表情を作る。

「まあ僕の説教云々はともかくとして、確かに道具への敬意は忘れてはいけないね」

「うんうん。おまえの倉庫もたまには片づけろよ? 納屋とかはもっと酷い有り様なんだろうしさ」

「道具には愛を注がねばならない」

「やれやれ。自分のことになると話をそらすんだもんなあ」

「愛をもって接すれば道具にだってきちんと伝わるのだ」

「散々汚しても?」

「ところでブルーハワイという名称の由来はだね」

 椛はぷっ、とふきだした。そう、霖之助は人付き合いや嘘や誤魔化しが苦手なのである。とくに嘘や話のそらし方は下手くそで、たまに客からもからかわれている。
まあいいか、と椛は思う。ブルーハワイを青い羽合に転じるという彼らしくない、明らかに即席で矛盾点だらけの似非蘊蓄を聞き流してやるのも乙なものだ。
くすくすと笑みを堪えながら、天狗と店主が里をゆく。喉を通る氷と清涼な甘さは、夏の熱波を吹き飛ばす爽やかなものだった。









 そんなこんなで歩き続けること二刻あまり。日はだんだんと沈み始め、空にはどろどろと暗雲が広がりはじめていた。あの入道雲がもうここまでやって来たらしい。
そろそろ一雨来そうだな、という椛の直感にしたがって、二人は縁側を貸してくれるという茶屋で一服することにした。

「さっき打ち水をしたばっかりだけれど」

 店の主である老婆が、二人の前にお盆を置いた。出てきたのは最中(もなか)とお茶である。

「天にまします神様は気紛れだからねえ」

 雨が止むまでごゆっくり、と優しい嗄れ声を残して、彼女は店の奥へと消えていった。
程なくして幻想郷を暗雲が覆い尽くし、雷鳴を伴った車軸を流すような大雨が降り注いだ。
突如夜になったかのように辺り一面は暗がりと化し、熱波は瞬く間に駆逐され、からからに乾燥した大地は久方ぶりの水を貪るように吸収しはじめる。
掌を返すような大自然の激変に、最中を囓りながら、霖之助は感嘆の溜息をつく。

「大したものだね。僕には雨が降るだなんてさっぱり予想できなかったけれど」

 ふふ、と椛は笑う。

「老人と年配者は敬え。きっとためになる」

 どうやらそうらしいな、と彼は殊勝に椛の意見を受け止めた。雨を受けても子供達はきゃあきゃあとかえって嬉しそうな悲鳴をあげて駆け回っている。
先程の天狗はどうしているだろうか。まだ飲んだくれているだろうか。それとも山に帰ってしまったのだろうか。
そんなことを考えながら彼はまた一口最中を囓る。中に入っている餡はいたずらに甘く、子供向けであることを匂わせていた。
だが、それもまた良しだと霖之助は思う。きっと今も雨の中で駆け回る少年達の活力源こそが、この胸焼けがするほど甘い菓子なのだ。
あの老婆も、老いた霧雨店の主も、昔はこの甘い菓子を食べて駆け回っている時代があったのだろう。
世界には人間も妖怪も感知し得ない記憶の層というものが存在するという。
そうだとしたら、彼らのそういった歴史もまた、人里にしっかりと根付き、未来への礎となっているのだろう。

 雨が降る。継ぎ接ぎだらけの薄い甚平は少年達の肌にぴったりと張り付いていた。
泥だらけになりながら、へくちっ、とクシャミをして鼻水を垂らしながら、それでも快活に彼らは遊ぶ。良いな、と椛は呟いた。

「私たちなんか、どうやって暇を潰そうかって毎日考えてるくらいなのに。この子達は毎日が充実してそうだ」

 霖之助は手を伸ばした。ぽたぽたと掌を打つ雨は、冷たかった。

「逆に、長く生きたいと思ってもそれが出来ない子も居る。今回からは――きっと何かが変わると僕は信じているけれどね」

 奇跡の蝉について、懇切丁寧に説明してくれた少女の姿を思い出す。彼女はとても満足そうだった。今回からきっと何かが変わる気がする。彼女はそう嬉しそうに語っていた。
「記憶の層」について語ったのも彼女だったか。ふう、と霖之助は長い息を吐く。空の果てまで、真っ黒な雲が覆い尽くしていた。本当に、鮮やかな天変であった。

「入道雲は、すごいな」

 椛がぽつりと呟いた。俯いている霖之助と違い、彼女は空を見上げていた。

「これだけの雨粒と、雷を運んでくるんだ。凄いじゃないか。そんじょそこらの神様だって、こればっかりは真似できないよ」

 ぴかり、と稲光が里を白く照らし出す。わっ、という子供達の楽しげな悲鳴と共に、雷鳴が轟いた。

「もうここまできたらさ、一種の異変みたいなもんじゃないか」

 すごいよな、と椛は感心したように呟く。
霖之助も、顔をあげた。容赦なく雷と雨が降り注ぐ。たまには氷の塊が降ってくることすらある。

「雲は舟だからね」

「舟?」

 聞き返す椛に、そう、と彼は頷いた。

「神のはじまりは、山であり、雷だったんだ。それは君も知っての通りだろう?」

 椛は棒きれを振り回す少年を見た。そして、霖之助に視線を移した。雲を見上げる彼の口許には、はしゃぎ回る彼らと同じ笑みが浮かんでいた。届かない物に手を伸ばす、挑戦的な笑み。

「雲は大地の神々から生み出される。こんなにたくさんの水は必要ない。天に持って帰ってくれという命令を受けてね。
仕方ないから雲は水を従えて天に近い山へ赴く。そしたら今度は山の神様が言うわけさ。雷様が喧しいから持って行ってくれと」

 なんだよそれは、と椛は笑った。いいから聞いてくれ、と霖之助も笑って続ける。

「雲は今度はどうしていいか分からないから水やら雷やらを運んでおろおろするんだが、今度は雷や雨が騒ぎ出すんだ。
こんな暗い所には居たくない。さっさとここから出してくれって。そんなこんなでもうカンカンになった入道雲は」

彼は大空を見上げ、肩を竦めてニヤリと笑みを浮かべた。

「――この通りのご乱心、というわけだ」

 鼻の下を擦り、霖之助は、ずずず、と茶を啜る。

「昔はこういう馬鹿なことを延々考えたりしたものさ」

 懐かしがる彼の膝を、椛はぽんと軽く打った。

「今も、全然変わってないよ」

 そうだろうか、と首を傾げる彼に、そうだよ、と椛は笑顔で言った。
本人が気づいていないことが、なんとも不思議だった。彼のきょとんとした顔を見ていると、何故だかくすりと笑みがこぼれた。



 大地の神と山の神のわがままに逆上した雲の暴動もそろそろ終わりのようで、切れ間から太陽の光が差し込んできている。
光の柱は未だしつこく降り続ける雨のためきらきらと輝いて見えた。

「ふふ。きっともうじき大きな虹がかかるぞ!」

 はしゃぐ椛はまるで子供みたいだな、と霖之助は思った。そろそろと老婆も店から姿を現す。彼女の口許にも、笑みが浮かんでいた。

「おやおや……入道様のお怒りもそろそろ鎮まりなさった頃かのう?」

 そんな彼女の少しだけ意地悪な言葉に、霖之助は赤面して頬を掻くのだった。

「ふぁっふぁっふぁ。良いではないですか。たまには空想を遊ばせるのも、良いことですぞ」

 いやはやお恥ずかしい、と霖之助は俯いてぽりぽりと頭を掻いた。
それでも、こうやってからかわれるのもたまには悪くないかも知れないな、などと心のどこかで思うのだった。
雨はまだ降り止まない。しかし二人は老婆に代金と器を渡し、大きく背伸びを一つして、小さな茶屋を後にするのだった。
日もそろそろ暮れる頃。もう帰らねばならない。光の柱を見上げつつ、霖之助にはそのことが少しだけ淋しく思われたのだった。
恥ずかしさのために火照った頬を、一陣の風がさあっ、と冷ましていった。帰ろう。彼はそう呟いた。




 雲はあらかたどこかへ行ってしまったものの、結局雨は降り止まず、二人はびしょ濡れになりながら香霖堂への帰路についた。
傘を買うという選択肢もあったが、先程の少年達に憧れる二人の浮ついた思いが一致したため、ぴちゃぴちゃと髪から雫を滴らせ、ぬかるんだ道を歩くことになったのだ。
ぺたんと頬に張り付いた髪の毛を払って椛が笑う。

「おまえのもっさり頭もそうやってれば見れんこともないな!」

「ふうむ。水も滴るいい男とはこのことかな?」

 顎に手を当てそう言う彼に、馬鹿だ、馬鹿だと椛が騒ぐ。踊る阿呆がここには二人、されど心は晴れやかだ。どこまでもどこまでも青い空のその果てから、ぱらぱら、ぱらぱらと雨が降る。
熱気に萎れていた草も、今では青く、そして瑞々しく水滴を弾いている。


 とん、とん、ぴちゃっ。とん、とん、ぴちゃっ。


 椛が規則的なステップを踏むたびに、泥が波状の軌跡を描く。はらりはらりと舞う髪の束は、水と光を照り返して輝いた。
大きく伸ばした両腕で、彼女は何を掴もうというのだろうか。顔には、満面の笑みが――まるで子供のような無垢な笑みが浮いていた。
少女だから許されるのだな、と霖之助は苦笑した。自分がこんな顔をしたら笑われてしまうに違いない。だけれど心は彼女と同じく昂揚をおさえることができない。
今なら何でも出来るような、そんな気がした。

 程なくして香霖堂が見えてくる。ちっぽけで、ぼろで、古くさい店だ。そして、そこが彼の家だ。

「よし……っ」

 椛が両膝を叩く。

「おい、霖之助! 香霖堂まで競争するぞ!」

「なんだって?!」

 思わず聞き返そうとする彼に、椛は大笑いして、手を叩く。

「鬼さんこちら、手の鳴る方へ、だっ! 追いつけるもんなら追いついてみろ!」

 泥を跳ね、彼女は勢いよく駆けだした。一瞬ぽかんと息を呑む霖之助だったが、

「良いだろう! ただし追いつけたら天狗の宝をひとつ貰うからな!」

 ほざけっ、という楽しげな怒号がすぐに飛んでくる。ここまで馬鹿にされて負けるわけにはいくまい。霖之助は気合一閃、久しぶりに本気で走った。
地面を蹴って、全速力だ。椛は霖之助に向かい合うようにして、後ろも見ずに囃し立てる。鬼さんこちら、鬼さんこちらと。
体が汚れるのも、雨に打たれるのも、景色を見つめるのもどうでも良かった。
今は頭を真っ白にして、ただただ子供のようにはしゃいでいたい。二人は意味のない罵り合いを繰り返しながら駆けた。

そして、

「うわっ!?」

「ぐあっ!?」

 椛は足を踏み外し、穴の中へと真っ逆さま。つられるように霖之助も、頭から穴に突っ込んだ。
椛は尻の痛みに、霖之助は額の痛みに暫し我を忘れて呆然としていたが、やがて自分たちが何に躓いたのかを理解して、今度こそ、天を揺るがすような笑いを放った。
椛も、霖之助も、腹を捩って、涙を流して大笑いした。

「馬鹿だ、馬鹿だ!」

 二人して、笑う。

 そう、彼らが引っかかったのは朝霖之助がせっせと掘っていたあの穴である。水を生成するのだ、と意気込んで霖之助が掘った大穴である。倒れたコップを持ち上げて、霖之助は叫ぶ。

「一滴も残って無いじゃないか!」

「あははははっ!! おつかれさまでした! おまえの半刻はぜーんぶ無駄だったな!!」

「何ということだ全く!」

 ぺしん、と額を叩き、そしてぶり返した激痛に霖之助はのたうち回る。また椛が馬鹿だ馬鹿だと騒ぎ立てた。
声がかれるその時まで、二人は一緒に転げ回った。服が泥にまみれても、顔が泥にまみれても、降りしきる雨の中、二人は一緒に笑い続けた。






――やがて、雨が止む。二人はぜえ、はあ、と胸を上下させながら、雲一つ無い茜色の空を見上げていた。それは、ずっと昔、見上げた空だった。
記憶にもないほどずっとずっと昔、子供の頃に見上げた空だ。足が棒のようになり、声はガラガラになり、膝小僧を擦り剥くまではしゃいだ後にだけ、見上げることが出来る、そんな空だった。

「ほらな、私の言った通りだったろう」

 べっとりと頬に付いた泥を右手の甲で拭いながら椛が言う。彼女の指さす先には、大きな大きな虹が出来ていた。幻想郷の端から端まで、光の筆が色を塗ったようだった。
カナカナ、カナカナ、と豪雨にかわって降り始めるのはどこか物寂しい蝉時雨。泥の臭い、土の臭い、草の臭い。そして自身の汗の臭い。

――ああ、たくさん遊んだな。

 不思議な気怠さと満足感が、全身を包み込む。ここで眠ることが出来たなら、それはどれほど素晴らしいことだろうか。ほう、と長い溜息を一つ。霖之助は静かに目を閉じた。

「風邪ひくぞ?」

 すぐ近くから、椛のしゃがれ声が聞こえる。あんなにはしゃぐからだ、と霖之助は心の中で呟いた。

「しょうがない奴だな。私はそろそろ帰るからな?」

 問いにも、こくりと頷いた。しばらくは、動きたくなかった。それでも目を開けて、椛が起きあがるのを見やる。
白い服も、自慢の盾と刀も、みんなまとめて泥塗れだ。綺麗な髪も、頭に乗っけた小さな頭巾も。逆光のため、彼女の表情だけが、分からなかった。

 ただ、

「今日は楽しかったな!」

 そう言う彼女の声が、少しだけ震えていたことは、確かだったと霖之助は思う。
日がな一日遊んだ後に、ふと胸に去来する思い。それは、もう子供の頃には戻れないんだな、というそんな当たり前の事実だった。
明日から始まるのは、またいつも通りの日常だ。そのことが何故かどうしようもなく切ない。だから、今は全てを忘れるために、彼は静かに目を閉じる。
カナカナ、カナカナと。日の沈む幻想郷に、遠く蝉時雨が降り注いだ。






 星に手が届きそうなそんな夜。目を覚ました彼の耳元を、甘い匂いのする風が静かに通りすぎていった。
店先でちりんと鳴る、飾った覚えのない風鈴の音に、彼はただただ静かに悟る。




――ああ、今年も夏が来た。
青い草、鳴きやまぬ蝉、そして入道雲。
少年時代には宝であったそれら全てを横目に、今日もまた日暮れのアスファルトを行く。
たまには足の向きを変え、あぜ道に入ってみませんか?
もしかしたら、遠い昔にどこかへ消えた、泥と草の記憶がぽっと蘇るかもしれませんよ。
与吉
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コメント



0.9150簡易評価
3.100名前が無い程度の能力削除
単純に気になったことを一つ。
>休憩やら読書やらを途中に挟んでいたためか、大凡半刻ばかり、この男は穴を掘っていたことになる
一刻=三十分、つまり半刻=十五分。休憩挟んでる割に、ちょっと短すぎやしないでしょうか?

御見それしました、あなた様は間違いなく風流紳士でございます。
……しかしこの霖之助と椛、いいなぁ……ものすごくツボです。ごちそうさまでした。

>椛がまんまる頭の赤子を抱いて子守歌を歌う姿を思い浮かべた。案外似合う。
次は椛の子育て日記ですね?
4.100無在削除
夏だ。夏はいいものだ。たぶんそこそこにいいものだ。いいものは決してなくならない。
ボーイ・ミーツ・ガールではないけれども、もしかすると夏は切ない季節なのかもしれない。
入道雲やかき氷よりも、ひたすらにはしゃぐ椛の姿こそ、夏を象徴してるのかもしれません。
というか、椛可愛すぎでしょう。
私もかき氷が食べたくなりました。
5.100名前が無い程度の能力削除
相変わらず、良い雰囲気の話を書きますね。
7.100名前が無い程度の能力削除
なんという理想的な夏の入りだ。一つの
8.100名前が無い程度の能力削除
普段の理屈に囲まれた棘が無く、ただただ楽しかった。
正直ヤバい……話のテンポが気持ち良過ぎる!!
11.100名前が無い程度の能力削除
どう見てもバカップルです、本当に子宝に恵まれて幸せな家庭を築き
腐れ縁で驥尾された友人達に囲まれ愛する妻と玄孫に看取られて死ねばいいのに


久々の新作に胸を震わせ文字に目を走らせる事四半刻。
心を震わせる詩的な筆遣いに甚だ関心するばかりです。

子供の頃、親の実家の緑が生い茂る田舎へ避暑したあの日
青っ洟を垂らし、薄汚れたTシャツを纏い、満面の笑みで迎えてくれた彼奴
小川にスルメを付けた糸を垂らし、真っ赤なザリガニを釣り上げてくれた彼奴
人を押しのけ、体を捻じ込み、満員電車に揺られながら朧に見える夢は何処にあるのか
12.100名前が無い程度の能力削除
子供のころ思い出した。
雨に濡れながら、友達とはしゃぎながらかえったことを。

次回たのしみにまってます。
18.100名前が無い程度の能力削除
夏ですねぇ
24.100名前が無い程度の能力削除
日常をここまでテンポ良く、かつ軽快に書けるのがすごすぎます
多くの人が頭の中に思い浮かべてる、理想の幻想郷はまさにこれだと感じました

次回を楽しみにしています
26.90名前が無い程度の能力削除
気になったので無作法ながら。
一刻は二時間とするのが一般的のように思います。
一日を十二分割したものなのですから。

なるほど、と唸りたくなるようないい雰囲気でした。
夏らしく爽やかなお話で良かったと思います。
30.100名前が無い程度の能力削除
なんというバカッポゥだ。
31.100名前が無い程度の能力削除
小学生の頃、雨に濡れながら田んぼで蛙を捕ってたの思い出しました。
ノスタルジックでとても素晴らしい作品ご馳走さまでした。
37.100名前が無い程度の能力削除
雰囲気がすごくいいですね。ノスタルジックな気持ちになりました

カップリングとはまた違うんでしょうけど、絡んだ天狗の気持ちがちょっと分かる!
41.90名前が無い程度の能力削除
この霖之助は間違いなく幸せに天寿を迎えられる。
あと、情景が簡単に浮かばされるのでたまらねぇー。
48.100名前が無い程度の能力削除
もはや何も言えませぬ。まさに「文才」という言葉が与吉氏にふさわしい。
心の師匠です。
50.100名前が無い程度の能力削除
良いなぁ、こういう楽しそうなやり取り。
この二人はきっとこれからも良い友達として付き合えるに違いない。
58.100名前が無い程度の能力削除
やべぇ・・・・。
夏だなぁ。 夏が来るんだなぁ。
本当に与吉さんの霖之助はすばらしいです。
夏の匂いと情景が脳内に湧き上がります
60.100名前が無い程度の能力削除
何と言うか、この二人の絶妙な距離感。
そして風景の描写。
見たことも無い物まで脳裏に浮かんでくるのがすごい。
62.100名前が無い程度の能力削除
珍しく素を隠さない霖之助と老成してるのに少女な椛との絡みと、なんて事のない、けれど忘れ難い情景が素晴らしい。
子供の時間って今の自分とは違うなにかな気がしますねえ…。
63.100名前が無い程度の能力削除
素敵すぎてもう...
子供と野球して遊んだ日の気持ちを思い出しました
殻を破る切欠は純粋な心に触れる時間にあるのでしょうね
64.100名前が無い程度の能力削除
遠き日に映る群青を見た心地です。
ありがとうございました!
67.100名前が無い程度の能力削除
夏は少年時代の象徴的な季節だと思います。
この作品を読んで、少年時代の毎日のワクワク感や溢れ出るやる気を思い出しました。
もう、戻れないから美しい。
そんなものってありますよね。
素晴らしい作品、有難う御座いました。
68.100名前が無い程度の能力削除
幻想郷のいつもの一日はこんなにも美しいのだと教えてもらいました。
69.100名前が無い程度の能力削除
与吉さん、待ってました!!
いいですね入道雲。そろそろですね。

次回も期待してます!!
79.80名前が無い程度の能力削除
なんだこのバカップルは。
82.100名前が無い程度の能力削除
天狗が良い味だしてるwww
86.100名前が無い程度の能力削除
今年も夏が来ますねぇ。
しかしこの二人、予想以上にしっくり来てて良いものを見させてもらいました。

いつから外をぶらぶら歩くのも汗びっしょりになりながら走り回るのもやらなくなってしまったんでしょうね、最近まで少年と呼ばれていい年齢だったのに凄く懐かしいことのように思えてしまいます。
87.100名前が無い程度の能力削除
>「いやー、しかし。びっくりだな。天狗信仰なんてとっくの昔に廃れてしまったかと思っていたけど。」
ここだけ。がついてるのねー

ひぐらしの鳴き声っていいよね
日本の夏、キンチョーの夏って感じ
早朝の山だと物凄くうるさいけど('A`)

井戸で冷やしたキュウリとトマト齧ってくる
88.100ネコ輔削除
素晴らしい文章構成力に感服致しました。読み進めている内に存在を忘れていた
冒頭に掘った穴を最後に持ってこられた時は、思わず吹き出してしまいました。
テンポも良くすらすら読めるありがたさに加えて、懐かしい情景に心を打たれました。
とても面白かったです。いい作品をありがとうございました。
89.100名前が無い程度の能力削除
夏ですねぇ
91.100名前が無い程度の能力削除
ドラマチックですね
男の天狗も良い味出してました
100.100名前が無い程度の能力削除
全ての日本の少年の故郷を、ここに見た。感服。
101.100千と二五五削除
天狗と人里の関係がとっても素敵です
椛のキャラ付けも有りだなぁ
103.100名前が無い程度の能力削除
よし、そのままネch(
いやはや素晴らしいSSでした
105.100名前が無い程度の能力削除
相変わらず素晴らしかったです。
お腹いっぱいもういっぱいっ!!
112.100名前が無い程度の能力削除
少年少女している霖之助と椛の長寿二人組がこれほど面白いとは。
夏の暑さ、激しさを感じさせる作品でした。
118.100名前が無い程度の能力削除
暑さが二人に回顧させる、何気ない日常がとても面白かったです。
123.100名前が無い程度の能力削除
雨の中を、ととっ、と走り抜ける椛の弾けるような笑顔と苦笑しながらも浮き立つ足で歩く霖之助。という光景が頭から離れてくれません。
雨でも気持ちが沈まない。梅雨を過ぎた夏の雨ってそんな感じ
なのは私だけでしょうか?
125.100名前が無い程度の能力削除
野郎どもー!
今年も夏が来たぞー!
127.100名前が無い程度の能力削除
ああ、夏が来たんだ。
なんかいいよなぁ、こういうの。
うん、なんか。
128.100名前が無い程度の能力削除
人里の雰囲気が本当に良い味を出してますね。
素晴らしい作品でした。
132.100Taku削除
 泥だらけになってはしゃいで遊んだのはいつの日のことだったか。
 ほんの、ちょっぴりだけ悲しくなりました。
 椛と霖之助の無邪気さが、見ていて心地よかったです。
 良いお話をありがとうございました。
133.100名前が無い程度の能力削除
ああ
もうすぐ夏だなあ
142.100名前が無い程度の能力削除
きた!与吉さんきた!
157.100名前が無い程度の能力削除
こういう雰囲気はやっぱり良い。 夏の暑さも、夏だからこそ感じられるんですよね
160.無評価名前が無い程度の能力削除
  
161.100名前が無い程度の能力削除
ごめん、上のは失敗した
夏ですよ。
167.100名前が無い程度の能力削除
ふたりの掛け合いも面白いですが、人里や自然の風景がすごく良かったです
170.100名前が無い程度の能力削除
そうか、夏、かぁ…………。
172.100名前が無い程度の能力削除
雲は龍みたいだ。だって長くてでっかいし。
そう思ってはいたのだけれど、忘れていたこと
そうか龍神様かリュウグウノツカイか
もうそろそろ雨上がり、秋晴れでなくて何だっけだ
176.100名前が無い程度の能力削除
すばらしい。今まで読んだどんな東方のSSよりも「幻想」が残っていました。
大変すばらしいものを読ませていただきました。ありがとうございます。
198.100090削除
上品な作品でした。そして面白かったです。
209.100名前が無い程度の能力削除
 人里での子供達の描写が個人的には大好きです。
最近、外で遊ぶ子供を見かけることが少なくなってきたなぁなんて思っちゃたりします。
  もう、この二人結婚しちゃえばいいのに
211.100読む程度の能力削除
この作品は心が温まる
確かに自分にもこんな時間があったなぁ、と思わせてくれる
そしてこの二人の組み合わせは素晴らしい
224.100名前が無い程度の能力削除
このコンビは良いなぁ。
225.100名前が無い程度の能力削除
自分の故郷は開発が進んで、こんな風景なくなっちゃったな・・・
しかし、椛可愛いよ、椛。
どうみてもバカップルですw ごちそうさまでした
226.100名前が無い程度の能力削除
早く結婚して幸せに死ねバカッポゥ!!
最高だ!!
227.100名前が無い程度の能力削除
日が暮れるまで公園で遊んだ小学生時代
自分がそんな事に哀愁を感じるようになるなんて思いもしなかった
青春は永遠だと思っていたあの夏
老けたなぁ、俺
228.100名前が無い程度の能力削除
美しいでですね…
236.100名前が無い程度の能力削除
何故か終始もみじがポニテで再生されました。
244.100名前が無い程度の能力削除
夏が近づくと、このSSを思い出して読み返します
与吉さん新作投稿してくれないかなぁ(チラッチラッ
246.100dai削除
こんな夏を過ごしたいなあ…
雨に濡れながら大はしゃぎしたくなります
251.80名前が無い程度の能力削除
引き込まれてしまっていた
場面の移り変わりが素晴らしいです
それはそうとこいつら付き合ってるよね?