清々しい朝というのは、健康にも影響があるのではないかと神奈子は思っていた。どんよりと曇った天気だと心なしか身体も重くなる。
目覚めてすぐに、神奈子は境内へと足を運んだ。まだ朝も明けたばかりの早朝。うっすらと白み始めた空は、雲がまばらにある程度の晴天で、神奈子の気持ちを同じように晴れ渡らせる。
こういう日は決まって、何か良いことがあるものだ。期待に胸を膨らませながら、神奈子は家へと戻ろうとして、その音を聞いた。土や壁を叩くような、不思議な音を。
何だろうと思い、境内の端に目を移す。
河童が御柱に張り手をかましていた。
「ふんぬっ! ふんぬっ!」
神奈子は走った。
走って転けて空を見たら、諏訪子が良い笑顔で親指を立てていた。実に腹立たしい演出である。
しかし、そんな事に腹を立てている場合ではない。御柱の危機なのだ。
すぐさま立ち上がり、張り手を止めない河童を羽交い締めにする。
「ヒューイ!?」
何人だ。奇怪な叫びをあげるにとりは最初こそ抵抗していたものの、やがて無駄だと悟って大人しくなった。
腕の中でぐったりとする河童を見て、神奈子は解放してやる。山に優しいキャッチ&リリース。
「ふんぬっ! ふんぬっ!」
そしてリピート。
再び羽交い締めにしたのは当然の処置と言えよう。
心が広い方だと自称している神奈子でも、さすがに自分の御柱でてっぽうをかまされたら止める。
にとりは羽交い締めにされた瞬間に、すぐさま抵抗を止めた。潔いというべきか、捕まり慣れたと言うべきか。
とりあえず、しばらくは離さないでおこう。どうせ解放したら、同じ事の繰り返す。
「何するんですか、神奈子さん」
ぐったりとしながら、不満そうな声をあげるにとり。
「それはこっちの台詞だよ。朝っぱらから、人の御柱で何してるんだい」
「見て分からないんですか?」
「いやまぁ、そりゃ分かるけどさ……」
「将棋の特訓ですよ」
聞いたら分からなくなった。
相撲の稽古ならいざしらず、何故に御柱に張り手をかますことが将棋の特訓になるのか。
想像もできない。
「今度、妖怪の山主催の将棋大会が開かれるのは知ってますよね?」
「ああ、そういえばそんな話もあったね。早苗も出場するんだって、張り切ってたよ」
もっとも、出たところで一回戦突破が関の山だろう。妖怪の山にいる連中はどいつもこいつも将棋の腕に長けており、早苗の腕では到底優勝など夢のまた夢だ。
「私もそれに出場してるんですけど、その一回戦の相手が椛なんです!」
神奈子の記憶が確かなら、にとりと椛は良き将棋仲間だったはず。大抵は大将棋ばかりしているけど、普通の将棋もしていたのか。
「大将棋なら五分五分ですけど、普通の将棋なら若干椛の方が勝率は上。このままだと、私が負ける可能性の高いんです!」
「あんたの気持ちは理解できるけどさ、それがどうしてあれに繋がるのさ」
「椛に勝つ為には、ああいう練習をするしかなかったんですよ!」
ああいう練習をしたところで何か意味あるのか。甚だ疑問だ。
「犬走椛、彼女の将棋はまさに自由奔放。その王将の動きは誰にも予測できません」
「そりゃ普通に反則だ」
詰んでもいないのに勝てるだろう。
「だから私もこの張り手を極めて、いざという時は盤ごと叩き割れるようになりたいんです!」
堂々たる反則宣言。
思わず手が緩みそうになるほど、それは勇ましく雄々しき言葉であったが反則は反則だ。
「まぁ落ち着け。あんたはちょっと頭に血がのぼって、自分が見えていないんだ」
「そんなことはないです。鍛えれば、角だってワープぐらいします」
近未来の将棋ならともかく、現代の角行は斜めにしか動けない。
「歩だって努力すれば金のように動けるんです! 飛車だって頑張れば、香車並に進化できてもおかしくない!」
「退化してるじゃないか」
「してませんよ。香車なんて、その気になれば対戦相手の心臓を貫けるんですよ」
盤面に恐ろしい凶器が潜んでいた。にとり達は普段、どんな将棋をしているんだろう。
「だから冷静になれっての。そうだ、ここは一つ私と対局してみないかい?」
「神奈子様と?」
苦し紛れの提案だったが、思いの外食い付いてきた。
「あんたは自分を弱いと思ってるようだけど、本当のところはどれぐらいか理解してないんだと思うのよ。実際、椛以外の奴と対局した回数だって少ないでしょ。だから、ここは私と勝負して、己の力量を見直してみたら何か新しい発想が閃くんじゃないかね」
有無を言わさぬ量の言葉をぶつけ、反論を封じる。にとりは気圧されたように黙りこくり、最後には分かりましたと首を縦に振った。
後は勝負をしておいて、鼻差で負ければにとりも自信をつけるだろう。神奈子も神奈子でそれなりの自信を持っており、少なくとも河童や天狗には負ける気がしない。
ただ、ここで変に勝ってしまうと後々が面倒なことになる。負けておくのが、どちらにとっても最良の判断だ。
鬼あたりなら手を抜くなと怒るかもしれないが、相手は河童。見抜かれる心配もあるまいて。
「それじゃ用意してくるから。ここで待ってな」
ようやく解放されたにとりは頷き、そして御柱に張り手を始めた。
背中から蹴り飛ばした事は、言うまでもない。
対局開始から僅か五分後。神奈子の唸る回数は、始めた時に比べて圧倒的に増えていた。
指せば指せほど追いつめられ、固めた守りはいつのまにか崩され。鼻差で負けてやろうとか言っていた自分は、いつのまにか追い出されて本気の神奈子が対局に挑んでいる。
「まだですか?」
「もうちょっと待って!」
にとりの催促を聞き流し、あの手この手を考える。しかしどこに打ったところで、最早逃げ道は無いように思われた。いわゆる、詰みである。
外の世界では負け知らずだった自分が、こんなにあっさりと敗北するなんて。
井の中の蛙を目指させてやろうとしたら、自分の方が蛙だった事に気付いた。
これ以上の遅延は意味がない。項垂れ、神奈子は負けを認めた。
対照的に、にとりの表情は明るい。少なくとも、当初の神奈子の目論見は成功したようだ。自信を取り戻したかのようにガッツポーズを一つとり、頭をさげる。
「ありがとうございました。おかげで椛にも勝てそうです」
「え、あ、そうだね。そりゃあ良かった」
照れくさそうに鼻の下をさすり、したり顔でにとりは続けた。
「だから、今度は本気で勝負してくださいね」
「は?」
「分かってるんですよ。私に自信をつけさせる為に、わざと負けてくれたんでしょ。それで自信つけちゃう私も単純ですけど、神様も神様ですよ。こんな露骨に負けたんじゃ、私じゃなくても気付きますって」
言うまでもなく、神奈子は本気だった。
しかし、ここで真実を告げるわけにはいかない。曲がりなりとも神奈子はこの山の神。むやみやたらに信仰を失うような事を言えば、早苗によって夕ご飯を抜かれてしまう。あと、存在が危ぶまれる可能性だってあった。
心の中で涙を流しつつ、さも当然とばかりに神奈子は胸を張る。
「いやあ、ばれたか。もうちょっと上手くやるつもりだったんだけど、思ったよりあんたが強かったからね。ついつい手を抜きすぎた」
「やっぱり。だけど、今度は本気で勝負しましょうね。今日の対局じゃ、いくらなんでも歯ごたえがなさすぎですし」
「はははははは」
心なしか、笑いは乾いていた。
「それじゃあ、私は行きますね。大会の為に、もっと多くの人と対局するつもりなんで」
「ははは」
「ありがとうございました、神奈子様!」
「ははは」
笑顔で手を振りながら、にとりの姿が見えなくなった所でガクリと膝をつく。
雨も降らぬ晴天の日。石畳の上に、ぽつぽつと水が零れ落ちたのを知るのは、八坂神奈子ただ一柱である。
二度寝は人のみならず、神様にも与えられた極上の特権だと諏訪子は思っていた。特に平日の皆が忙しく働いている中での二度寝は、何とも言えない背徳感を生みだし、悦楽を二倍にも三倍にも増してくれる。
そんな諏訪子の二度寝を邪魔しくさってくれたのは、無粋に響く音。寝ぼけ眼を擦りながら、ちょいと文句でも言ってやろうかと境内へ足を運んだ。
神奈子が御柱に張り手をかましていた。
「ふんぬっ! ふんぬっ!」
それも泣きながら。しばし硬直し、目の前の光景の意味を探る。
神事、儀式、そこに御柱があったから、などの理由が浮かびあがるけれど納得させてくれるようなものは一つも思いつけない。
恐る恐る相方の神様に近づてみる。目尻から涙を流しつつ、必死な形相で御柱に張り手をかましていた。
「ねぇ、神奈子」
「なに!」
怒鳴られて多少怯むが、それよりもこの行動の意味が気になる。好奇心が後押しして、諏訪子に言葉を続けさせた。
「何してるの?」
しばらくてっぽうを続けた後に、神奈子は真面目な顔で言った。
「将棋の特訓」
諏訪子は納得する振りだけ見せて、二度寝に戻る。
きっと夏の暑さが悪いんだ。そう結論づけて、夢の世界へと逃げた。
境内からは、変わらぬ神奈子の雄叫びが聞こえてくる。
にとりもつええなオイw
>角将
角行の誤字ですね。あと将棋は「指す」だったり。
いやいや、ねーよ
ってか、香車の攻撃力高すぎw
wwwwwwwwwwwwwwwww
掴みからオチまでニヤつかせていただきました。
....ハッ
諏訪子の立場は?
あぁ切ないなぁ
ごく自然な流れです
いかん、パンデミックが起こるぞ……!
ああ……太陽が一杯だ……
なんだこれ