「よっ。くっ。ほっ」
魔理沙は必死に手を伸ばす。
「んぎっ。く。あとちょい……」
彼女の震える指の先には、一冊の本が見える。
あと二、三センチといったくらいだろうか。
届きそうなのに、届かない。
足元を見れば、懸命の爪先立ち。
ふくらはぎがぷるぷると震えている。
魔理沙は左手を本棚の三段目に掛け、右手を最上段へと伸ばしている状態だ。
しかし、この僅かな距離がなかなか縮まらない。
最終手段として、「飛ぶ」という手もあるのだが、普段、室内でその能力を使うことはまずないということもあり、今の魔理沙には思い至らないようだ。
「もうちょい、なのに……」
魔理沙の頬を、一筋の汗が伝う。
――そのとき、ひょいと、白く細い腕が、魔理沙の頭上をよぎった。
「あ」
魔理沙が声を漏らすのと同時、その手は魔理沙の目標物をあっさり掴むと、それを本棚から抜き取った。
行き場を失った右手を中空に漂わせつつ、魔理沙は不満げに、その腕の主を見やる。
「ごめんね。魔理沙」
その視線の先で、アリスが少し気まずそうな笑みを浮かべていた。
「…………」
魔理沙は本棚から離れ、元の身長に戻った。
じとっとした目で、頭一つ分低い位置からアリスを睨む。
「あー……」
明らかにご機嫌斜めな魔理沙を前に、さてどうしたものかと、アリスは考える。
本を取ってくれと頼んだのは自分なのに、結局は自分で取ってしまった。
どうやらそれが、魔理沙のプライドを傷つけてしまったらしい。
でもあのまま待ってても魔理沙には取れそうになかったしなあ、なんてことを考えていると。
「……どうせ」
「えっ?」
「……どうせ、私はチビだよ。悪かったな、こんな本一冊取れなくて」
それはアリスにとって相当に唐突だった。
それゆえ一瞬、反応が遅れた。
「え、あ」
アリスがまごついていると。
「……今日はもう帰る」
魔理沙はくるっと背を向けると、すたすたと歩き出し、そのまま家を出て行ってしまった。
「…………」
後に残されたアリスは、事態を整理し、理解するのに若干の時間を要した。
「……いや、今回は悪くないよね? 私」
それがアリスの結論だった。
今までにも、自分の不用意な言動で魔理沙を怒らせてしまったことは何度かあったが、流石に今回ばかりは、自分に落ち度はないはずだ。
背の低さに少なからぬコンプレックスを抱いている魔理沙が、アリスとの身長差を目の当たりにし、一人で勝手に拗ねただけ。
ただ、それだけのことだ。
アリスは確認するように、一人で何度も頷く。
だがそもそも、最初から魔理沙に頼まず、自分で本を取っていれば、魔理沙が拗ねずに済んだというのも事実だ。
普段、自分なら難なく届くような距離も、魔理沙にとっては遠い距離だった。
そこまで考えなかった自分が、浅はかだったのかもしれない。
「でも、だからって……」
そんなに拗ねるようなことでもないだろう。
それが、アリスの実直な感想だった。
それに、魔理沙はまだ成長期だ。
背だってこれから先、もっと伸びるに違いない。
「……でもそれは、大人の言い訳かしらね」
アリスは溜め息を一つ吐くと、人形に留守を命じて家を出た。
せっかく魔理沙が遊びに来たのに、こんな形で別れるなんて残念すぎる。
魔理沙の大好きなブルーベリーパイも、まだ作っていないというのに。
そんなことを考えながら、アリスは魔法の森を歩いた。
ほどなくして、目的の影が目に入る。
「やっぱりここだったわね」
アリスの家から、ほど近くにある大きなクスノキ。
その木陰で魔理沙がよく昼寝をしているのを、アリスは知っていた。
いわゆるお気に入りの場所というやつだ。
魔理沙はそこで、三角座りをしていた。
「…………」
魔理沙は一度だけ顔を上げてアリスを見るも、またすぐに顔を伏せた。
仕方のない子ねと、アリスは心の中で呟く。
流石の魔理沙も、今回ばかりは、自分が一方的に拗ねているだけだと、分かっているはずだ。
しかし頭では分かっていても、感情ではそれを認められない。
これぐらいの年頃の子どもには、よくあることだ。
そんな場合に、どうすればいいか。
アリスは経験則で知っていた。
「ほら、魔理沙」
アリスは魔理沙の両脇に手を入れると、少し強く力を入れ、立ち上がらせた。
魔理沙は特に抵抗もせず、それに従う。
「…………」
しかし魔理沙は立ち上がっても、無言で俯いたまま。
アリスは魔理沙を見下ろしながら、やっぱりまだまだ小さいな、とは思うものの、流石にそれを口に出すようなことはしない。
「魔理沙」
アリスはそっと、魔理沙の顎に手を添え、上を向かせる。
やはり魔理沙は抵抗せず、それに従う。
魔理沙はアリスを見上げる形になった。
その瞳は、少し揺らいでいるように見えた。
そんな魔理沙を見つめながら、アリスは優しく呟く。
「ほら、魔理沙。お家に帰りましょう」
「…………」
魔理沙は黙ったまま、じっとアリスを見上げている。
頬が少し紅くなっていた。
こういう場合、魔理沙が無条件に折れることはない。
いや、できないのだ。
仮にも自分の意思で飛び出しておいて、あっさりまた戻るというようなことは、多分、魔理沙なりの沽券とか、プライドのようなものに関るのだろう。
たとえそれがエゴだと、分かっていても。
そして、それを解決するために必要なのは、理由、もとい、口実だ。
自分が譲歩することもやむなしと思えるような口実が、魔理沙には必要なのだ。
アリスはそれを、経験則で知っていた。
そして次に、魔理沙が口にするであろう言葉も。
「……キス」
「ん?」
聞えたけれど、あえてアリスは聞き返す。
すると魔理沙は、一層顔を紅くしながら、言った。
「……キスしてくれたら、戻ってやる」
……まったく、仕方のない子ね。
アリスはまたも心の中で呟きつつ、でもそれを決して口には出さずに――。
そっと。
魔理沙の唇に、自分の唇を重ね合わせた。
ただそれだけの、子どもと子どもがするような、キス。
でもこれこそが、魔理沙にとっての『キス』であるということを、アリスは身を以って知っていた。
かつて一度だけ、アリスは、いわゆる『大人のキス』を魔理沙にしようとしたことがあった。
すると魔理沙は、凄まじいまでの勢いで、アリスを拒絶した。
この変態魔法使い、色魔、強制ワイセツ犯、と。
それはもう、アリスの名誉と人格権を根源から否定するような罵詈雑言を浴びせ掛けて。
挙句、その後二週間ほど、魔理沙はアリスとまともに口を聞こうとしなかった。
自分からキスをせがんでおいてそれはないだろうと、アリスは頭痛が痛くなるほどに頭を痛めたものだ。
でも、今となっては、魔理沙の気持ちもよく分かる。
大人の世界を覗いてみたいと思う反面、でもまだ暫くの間は子どものままでい続けたい。
魔理沙もまだ、そんなお年頃の女の子だったというだけの話だ。
だからアリスは、『キス』をする。
それが今の魔理沙にとって、そして自分にとって、最適のものだと知っているから。
綺麗に重なったままの、唇と唇。
まるで世界の時間が止まったように、二人は動かない。
「…………」
「…………」
互いの鼻息が、こそばゆい。
けれどもそれが、心地良くて。
永遠とも思える時間の後、アリスが唇をそっと離すと、魔理沙の表情は、すっかり穏やかなものに変わっていた。
魔理沙はそのまま何も言わず、ぎゅっとアリスの腰に抱きつく。
アリスの胸に顔を埋め、腰に回した手は強く。
アリスは、思う。
時が流れ、魔理沙が心身ともに大人になり、恋の酸いも甘いも知るようになったら――。
それでも、自分達は、今のままでいられるのだろうか?
恋人同士のようでもあり、友達同士のようでもあり。
はたまた姉妹のようでもあり、親子のようですらある。
これほどまでに曖昧で、しかしだからこそ心地良い、こんな都合のいい関係を……ずっと、ずっと、続けていくことが、できるのだろうか?
不安は、尽きない。
考えれば考えるほど、答えのない迷路にはまり込んでいくような。
そんな、得体の知れない感覚を覚える。
「……アリス」
呟くように自分を呼ぶ声に、アリスはふと我に返る。
見ると、魔理沙が不安げな表情で自分の顔を見上げていた。
「ひょっとして……怒ってる?」
「え?」
きょとんとするアリス。
「……怒ってないわよ。というか、なんで私が怒らなくちゃいけないの?」
「だって……」
もじもじと、恥ずかしそうに魔理沙は言う。
「……抱きしめ返して、くれないから」
「ああ……」
アリスは優しく溜め息を吐く。
「ごめんごめん」
そして、魔理沙を抱きしめる。
「ちょっと、考え事してたのよ」
そっと、優しく、抱きしめる。
「考え事?」
「ええ」
「何、考えてたんだ?」
「……ナイショ」
「ちぇっ」
「魔理沙が大きくなったら、教えてあげるわ」
「……子ども扱い、するなよ」
「はいはい。ごめんごめん」
アリスは帽子越しに、魔理沙の頭を撫でる。
優しく、そして、いとおしそうに。
「……ふん。すぐに大人になって、アリスなんか、追い越してやるからな」
ちょっぴり拗ねたような口調で言う魔理沙。
だがその表情は、また穏やかなものへと戻っていた。
アリスは、思う。
いくら考えを巡らせたところで、結局、先のことなど、誰にも分かりはしない。
それならば、見えない不安に怯えるよりも、今ある幸せを噛み締めた方が、何倍もいいに決まっている。
だから。
そう、だから。
今はまだ、このままで――。
ある、晴れた日の昼下がり。
木洩れ日が、いつまでも優しく、二人の影を包んでいた。
了
魔理沙とアリスの身長差…自分は昔とある動画見た頃からアリス160くらい 魔理沙140~145くらいのイメージができてしまったました。
皆それぞれ違うジャスティスな身長差があるだろうけど、氏の身長差は自分のイメージに近かったからニヤニヤがとまらんかったですw
よい
こういうの、大好きです。