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湖の孤島に建つ洋館──紅魔館は、いつ建てられたのかは誰も知らない。
その館の主人であるところのレミリア・スカーレットは、もうかれこれ五百年ばかり生きているのだが、少なくとも彼女が生まれる以前から建っているという点は間違いない。
だが、レミリア以前の所有者が居たとすれば、余程裕福な者か権力者だったに違いない。
なにしろ、紅魔館は住人の数と比すると無駄に広いのだ。
となれば、その富を、あるいはその権勢を誇示する為に、無駄に広く作ったのだろう。いつの時代、どこの世界でも、金持ちと権力者は無駄と贅沢が好きなのである。
余程の大家族だったのかもしれないが。
あるいは、レミリアの両親が建てたのかもしれない。だが、彼女は幼い頃のことを曖昧にしか憶えていないので定かではない。
レミリアにとってはどうでもいいことだ。
幼い姿のまま、永遠に近い退屈な時間を無為に過ごす彼女は、生死という概念が希薄である。自分が誰から生まれ、そして自分の先に誰がその血を継ぐのかということは、まるで無頓着なのだ。
無頓着というか、たぶん考えたこともないのだろう。
ベッドに横たわっていたレミリアは、気怠そうに上体を起こした。
別に惰眠を貪っていた訳でもなければ、殊更に体調が優れないという訳でもない。
館の中で忙しく動き回る大勢のメイド達とは違い、レミリア自身には別にこれといってやらなければならないという事は何一つないのである。
強いて挙げれば、この退屈な時間と戦わねばならないことか。
だがそれは、夜の世界に生きる者の運命に抗うことと同義であり、例え今この時間が有意義な時間に変わったとしても、それは悠々と流れる大河に生まれたほんの僅かな淀みのようなものだ。
それはやがて、大きな時の流れの中に飲み込まれて消え行き、結局はまた空虚な時間が流れ続けることに何ら変わりは無い。
半地下にあるレミリアの自室は、館の主人の部屋なだけあってとりわけ広い造りになっている。さらに、部屋の中は様々な調度品で飾られ、そのどれを取ってみてもたいへんな価値があるものばかりだ。
入口の扉とは別の隅にある続き扉の向こうには、メイドの控えの部屋があるのだが、レミリアの体調が悪い時などを除いて普段は誰も居ない。
大昔には直属のメイド兼護衛が常時待機していたのだが、
「監視されているようでなんかイヤ。」
とレミリアが言い出し、随分と前に誰も置かないようになってしまったのである。
春先に侵入者があったことを契機に、メイド長である十六夜咲夜は自分が常駐すると進言してきたのだが、
「やだ。」
と、レミリアお嬢様は一言で却下している。
その代わりに、ベッドの傍の小机にはメイドを呼ぶ為のチャイムが置かれていた。金色の小さなチャイムだが、これを鳴らすと、邸内の者はどこに居てもこのチャイムの音が聞こえるという凄い魔法がかかった品物だ。
こんな限定的な効果をもたらす都合の良い魔法の品がそうそうあるわけはなく、なんでも咲夜が道具作りの名人に無理を言って作ってもらったとかなんとか。
だが、誰でも聞こえるために融通が利かないという欠点があり、何人ものメイドが一度に来ることが多い。
特に──レミリア自身が最も信頼を寄せるメイドである咲夜は、ものの数秒で扉の前に立つ。腕利きのメイド達の中でも超腕利きのメイド長・咲夜は、間違いなくこの館で最も有能な従者だ。
そして彼女は、主であるレミリアを決して待たせたりはしないのである。
だが、それが少しだけ疎ましく思える時がある。
まあ、それが今というわけなのだが。
レミリアは軽く嘆息してベッドから降り、クローゼットの隣にある鏡の前に立つと、ちょっとだけ乱れた髪を手で直す。
その姿は、生まれた時から周りの全ての者に傅かれて育った者だけが持ちえる、ある種の超然とした雰囲気を漂わせている。たとえ、見知らぬ者であっても、彼女が高貴な血の持ち主であることは容易に察することができよう。
「…ま、手空きで暇している者のひとりくらいはいるかしらね。」
誰ともなく独りごちるレミリア。
咲夜に限らず、レミリアが呼べばメイド達は仕事の手を止めてその元に参じるだろう。レミリアの意思は紅魔館では最優先されるべきものであり、それは彼女自身もよく分かっている。
しかし、忙しいメイド達を何も無理に呼びつけることもない。用向きがあるなら、こちらから出向いても構わないのだ。
レミリアは優雅な動きで扉を開け、静かに閉めて出て行く。
生粋のお嬢様の筈のレミリアなのだが、実のところどこか微妙にずれている。本当に、生まれた時から人に奉仕されるのが当然の身分であれば、そのような考え方はしない。
まして、レミリアはそれほど──というか、まったく──自覚はないとはいえ、本来ならば幻想郷じゅうの夜の眷族を統べる身なのだ。
それは、この紅魔館が異質な場所であることも端的に表している。
メイド達はそのほとんど全員が人間なのだから、夜魔の姫にとっては糧食程度にしか映らない筈。
それを、”忙しいところを無理に呼びつけることはない”などとは、ずれているどころか、決定的に間違った感覚だ。
少なくとも、人外の者としては。
レミリアはそれに気が付かない。
どうして、ヴァンパイアである彼女の元に大勢の人間が長く仕えているのか、それを疑問に思わない。
割とアクティブでポジティブでオプティミスティックな夜の眷族のお姫様は、人間ではないのに、なぜだかどうして人間の子供っぽい。
そのずれた感覚が、ほとんど全員が人間で構成されているメイド達に慕われている理由であることを、レミリアは知らなかった。
人と、人でない者が仲良く平和に暮らしている紅魔館は、幻想郷において異質な場所である同時に、ある意味で理想の場所と言えるかもしれない。
-2-
メイド服姿の少女は、皿を拭いていた手を止めると深く溜息をついた。
急に思い出したように辺りを見渡したが、食事の時間が過ぎ、その後片付けも終わって、広い厨房には彼女ひとりだけ。
事実上、この館で働く者の制服とも言えるエプロンドレスは、もちろん他のメイドと全く同じデザインだったが、この館に来て日が浅いせいか着こなし方がどこかぎこちない。
度重なる失敗にも、新人教育担当のメイド長は「慣れていないだけだから、気にしなくていいのよ。」と微笑みながら優しく言ってくれたが、それがかえって少女にとっては重荷だった。
簡単な仕事ですら、満足にこなせない自分に嫌気がさす。
長身で美しく、聡明で、颯爽という言葉を体現しているかのようなメイド長──十六夜咲夜は、どこからどう見ても完璧な女性のように思える。
自分とのあまりの違いと、埋めがたい差の大きさを思い、また大きな溜息をつくと、少女は再び手を動かし始めた。
常に慢性的人手不足に悩まされているとは言うものの、紅魔館では働く人間を募集しているわけではない。
大体、事実とは若干の──見方次第では相当な──相違があるものの、巷では紅い悪魔の館とか呼ばれて恐れられているのである。
当然、人間はもとより妖怪ですら、興味本位で近寄ったりする所ではない。
大半の人間は、不幸な境遇の終着点として、ここ紅魔館に連れて来られた者ばかりなのだ。
有り体に言えば、人身御供──人間達がヴァンパイアの女王に捧げた生贄である。
さらに、生贄に選ばれる人間は年端も行かない少女と相場が決まっていて、不幸な身の上というのがお約束だ。
食い扶持を減らすための口実であったり、あるいは天涯孤独の身だから生贄にしても後腐れがないからとか、ひどく独善的な判断基準に基づいて、一方的に押し付けられた不条理な不幸。
レミリアも、そうして送られてくる者を追い返したりはしない。
彼女は、夜の住人達を統率するという役目自体にはまったく興味も自覚もその気もないが、とりあえず夜の住人達の王として威厳を保つという点だけには執心しているからだ。
殊更に近隣の里に何かを要求したりはしないが、献上される品々があるということは、それだけ畏れられている証でもある。そのまま無事に帰したりすれば、人間達に甘く見られるかもしれない。
ある意味、レミリアの我侭とも受け取れるのだが、そのおかげで広大な屋敷の管理・維持を容易にできるし、紅魔館の一切合切を取り仕切っている咲夜としても都合のいい話ではある。
咲夜本人は、帰りたい者は帰してもいいと思っており、実際にメイドとして迎え入れる前に、例外なくそう尋ねているのだ。
だが、実際に帰った者は今までのところ一人もいない。
言うまでもないことだが、どちらにしても彼女たちには、もう帰るべき場所など、どこにもないのである。
少女も、そんな事情によって今ここにいる。
最初は、もう自分は死ぬんだと覚悟していたのに、ここ紅魔館の人達は暖かく迎えてくれた。そのまま帰ってもいいと言われたのだが、邪魔者扱いされてきた故郷に今更戻る気にはなれなかったし、未練もない。
ほかのみんなもどうやら一緒らしく、それならここでずっと働くのも悪くないかもしれない。
少女は少しだけ笑みを浮かべた。
暖かい人達に囲まれて、ここ紅魔館のメイドとして必要とされることに、今まで味わったことのない充足感を感じる。
「よし!頑張ろっ!」
少女は急に力強く宣言すると、両頬を叩いた。
と、顔を上げてようやく、厨房の入口のドアが開いていることに気が付く。
誰かいる。
少女は表情を凍りつかせると、息を呑んだ。
白磁のような白い肌に、青みがかった銀色の髪、背中には漆黒の翼。
ドアの影から、館の主の深紅の双眸が、様子を伺うように少女を見据えていることに、ようやくのことで気が付いたのだ。
「レ、レミリア様…。」
少女が震える声で半ば絞り出すようにその名を口にすると、レミリアは薄く笑いを浮かべ、厨房に入ると後ろ手にドアを閉め、少女の元へと歩み寄る。
レミリアは小柄なので、長身でスタイルも抜群の咲夜と並ぶと小さく見えていただけ──と、メイドの少女は思っていたのだが、レミリアは本当に小さな身体だった。
初めて会ったときも、これが噂に聞く恐ろしい悪魔だとはとても思えなかったほどである。
だが、しかし。
自分が仕えるべき主のとても愛らしい姿と、周りの人たちの優しさに安堵していたが、やはりそれは間違いだったのだ。
ただ近寄っただけだというのに、急に空気が張り詰め、周りの温度が下がったような錯覚に陥る。
畏怖を抱かせる程の美しさの中に潜む、その体躯とは全く不釣り合いな威圧感。
人間では持ち得ない、圧倒的な存在感と、身体にまとわりつくような重圧。
まるで獲物を狙う猛禽類のように、レミリアの赤い瞳は間違いなく自分に狙いを定めたということを、少女は感じ取っていた。
(つづく)
確かに、「自分を必要としない故郷より、必要としてくれる悪魔の館」と言うのは非常に説得力を感じます。
要するに、それだけMUIさんの文章表現が巧みであると言う事ですが。
で、作中どれだけ穏やかな空気であっても、レミリアのカリスマ性は揺るぎもしないと言う事を確信しました(苦笑
これからの話も期待しております。
あと・・・
>まったり、ほのぼのと自堕落に生きたいものです。
心の底から同意します(w
なのに、1人のメイドの少女が早速その毒牙にかかってしまいそうだとは(笑)。
その血を吸うのか? 吸っちゃうのかレミリア様?
……すんません、大人しく続きを待ちます。
人間とは、自分に無い物に憧れる生き物です(何)
ああ。もう美術館など行く必要はありません、この表現こそまさに芸術。
文章から滲み出るレミリアの退屈さなど、今回もまた秀逸の一言に尽きます。無限とも思える生を歩くレミリアの感情を、どうしてここまで会話文に頼らずに(これ重要)表現できるのか。
嫉妬のラインをとっくに超えてます(笑)
なおレミリアって、私は紅魔郷と永夜抄でかなりイメージが変わったキャラです。
彼女の持つ2つのイメージ(高貴で典雅&子供っぽさ)を、これほど上手く融合させて描くMUIさんの技術に、今回も脱帽。
>レミリアの意思は紅魔館では最優先されるべきものであり
「バーン様の意思は、全てに優先される」とか思い出しましたw
>メイド~♪
どどど、ドジっ娘ですか!? ドジっ娘ですねっ!! す、素晴らしいっ!!(帰れ)
赤い瞳のレミリア様に微笑まれて寄られる……ああ、何か色々とヤバイ妄想が頭の中でぐるぐると。くそぅこれはMUIさんの計略だ、嵌っちゃいけない……って無理だしー!(汗)
ドキドキドキドキ……(ぉ)