――彼らは月人だと自称する。
それは恐らく真実なのだろうが、その理由には瑕疵があると思う。
輝夜が月を出た理由も、師匠が輝夜に忠誠を誓っている理由もまったく知らない。
二人の関係がどんなものかは私の想像の埒外だし、過去に何があったのかも、
彼女達が何を行い何故今の境遇に或るのかも、何から逃げているのかも、知らないし聞いてもいない。
興味は無いし、それ以上に――
少なくとも、月の歴史には彼女達の名前はまったく記載されていなかった。
特に、師匠の八意の字は、その自称が真実なら月でも指折りの学者の家系だが――
――永琳の名はそこにはなかったように思う。
蓬莱山輝夜などという名は、字すら無い。家ごと消されたのか――それについて、残されたモノは何一つない。
彼女達は抹消された存在だ。地上からも、天上からも、歴史からも。
それは咎人の罰にして誇り高き民の恥。
恐らく彼女達は、月から見捨てられた罪人なのだろう。
罪業があまりにも深すぎて、記憶から捨て去るしかないほどの。
そんなものを、私は想像すら出来ない。
その罪業から逃げているのか、その罪業を追求する月の民から逃げているのか――。
それすらも想像がつかない。彼女達は抹消された。それだけの話。
そんな彼らを。
永遠を逃走し、現実を放棄し、幻想に浸って生きてきた彼女達の想いや思考を。
たかだか100年足らずしか生きていない兎に理解は出来まい。
――露骨に言えば、そんなものを絶対に理解したくはない。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「うどんげ、貴方は月にまだ帰りたい?」
師匠が唐突にそんなことを聞いてきたのは、仲秋の名月も天高く、随分と涼しくなってきた秋の事だった。
「……師匠?」
はたから見れば私は随分と面食らった表情をしていたのだろう、師匠は苦笑する。
「大丈夫。前のように大騒ぎを起こしたりしないわ。境界は越えられないのだし」
師匠はしきりに月を気にする様子を見せる。
久々の綺麗な満月で、以前の騒ぎを思い出したのか。
その事の発端となった問いを、また私に投げかけたのだ。
「――……」
私は、とっさに返事を返すことが出来なかった。
月からの波動は、未だに私の耳に届く。
私個人への呼びかけではない。もはや月の民は私が死んだとでも思ったのか、
もう以前のような呼びかけはなくなった。
替わりに、彼らの声が、流れ弾のように。
『――サンスラ3、そっちに…………のウチュウ船が…………迎撃しろ!』
勇ましき声が、
『こちら、静かの海第三中隊……………近づいてき………撤退…………求む!』
恐れる声が、
『ライゼ、やられる――』
絶望の声が、途切れ途切れに私に届く。
――月人は穢き地上人から戦いを学んだ。愚かにも戦いを仕掛けてくる地上人達へ反抗する為、
その知恵を結集して、彼らの技術を、経験を、知識を盗み、必死になって月人なりの軍隊を仕立て上げた。
それ以外に、月を我が物顔で侵略してくる、地上の鉄塊に対抗する術がなかったから。
月人にも、地上人にも、戦いを回避するような知恵などあるわけもなく。
月人は愚かにも地上人と同じ土俵へ登った。
そして、以来数十年。月人と地上人の終わり無き大戦争は未だに続いている。
先日の大侵攻はどうにか撃退したというのは、漏れ伝わってくる波動の中の情報から判断出来た。
カガクという力を用いて戦う地上人と、幻想の力を用いて戦う月人。
頑迷な亀と狡猾な兎の泥沼の争いは、ただ人を殺すだけでなく、お互いの星を焼け野原に変えてしまっても、まだ尚続いている。
お互い全てを殺戮してもまだ飽き足らぬという風に、月はカガクを学び、地上は幻想を学び、お互いを取り込みつつ憎しみ合った。
……戦争はいつからか、幻想を駆るカガクが、カガクを操る幻想に牙をむく異形の光景と化した。
どちらが何を司っていたかを忘れたかのように、境界をあやふやにしてなお憎しみ合う。
地上も月も我を忘れ、狂気のキメラと化し、死の舞踏を踏みつづける。ただ互いを貪り喰らう為に。
……それを異形と呼ばずに、狂気と呼ばずに何と呼ぶ?
だけど、それも時間の問題。
そのうち、どちらかが、或いは両方が――人的に、物的に、精神的に――息切れを起こし、ぶっつりと終わる。
戦争というもののルールだ。
人が総力を賭けた戦争は、ソレを行う構成体が経済的、政治的に破綻するか、
もしくは、どちらかの集団が完膚無きまでに殺戮され蹂躪され尽くすかにおいて終焉する。
その変化は唐突で、防ぎようのない運命だ。地上の歴史はまさにその繰り返しだったのだ。
それが月にまで拡張されただけのことにすぎない。
もう数十年も続いているのだから……何れかの破局は、いつ訪れても不思議ではなかった。
どちらかが、もしくは両方が。
狂い狂って狂った挙句、何もかもを巻き添えにして破滅する。
「……正直、解らないんです」
戻らなければいけない、と思う。月を、故郷を護らなければいけない。
その為に『私は造られた』のだから。
だけど戻るのは――怖い。戦うのは怖い。
地上人の無機質な鉄の塊が、幻想の光を浴び、脆くも弾け飛ぶのを。
月の兎達が、鉛玉を浴びてバタバタと倒れ臥していくのを。
見るのは怖い。二度と見たくない。
あの地獄に、壊れに壊れた世界の中に舞い戻るのかと問われれば。
――結論を出すことは出来ないのだ。
私は臆病者だ。出来そこないの故障品の兎。
「そう」
師匠は、頷く。何に納得したのかは、解らない。
一度は戻ると決意したのだ。方法は解らないけど、何とかして戻ろうと思ったのだ。
……それで、その事を上申したら、あの騒ぎになってしまった。
まあ、騒ぎは騒ぎでそれなりに楽しんでは見たが――そのせいで、月に行く決意は随分と鈍ってしまった。
何よりあの隙間妖怪の言葉が、私に重く圧し掛かっている。
彼女は言った。
そこそこ楽しんで陰謀を巡らせた私達を、それ以上の陰謀を巡らせ存分に痛めつけた後。
心からの嘲笑を込め、紅白の巫女に叩きのめされた私を見下ろして、そう言ったのだ。
『あら? なら最初からこんなことを――』
『幻想郷を構成する結界は、少なくともこの千年間……まともな生き物は一切合財有象無象、寸分も隙無くシャットアウトしてきたわ。態々こんな馬鹿げた式を張らなくても――元々、向こうからも此方からも、触れる事すらできないのよ?』
――違う。
そんな言葉で諦めた訳ではない。そんな言葉で折れる程私は弱くはない。
姫のように飽きたからでも、師匠のように気づいたからでもなく。
私が恐れるのは――その言葉の意味。その嘘の意味だった。
その言葉は大嘘だ。嘘すぎて嘘をついた本人もわからない程の、
大嘘過ぎる大嘘で思わず笑って泣き出しそうになるぐらいの巨大嘘だ。
冗談のにしてもあまりにもタチが悪く、真面目にしてはあまりにもありえなさすぎた。
そんな馬鹿げた事があるものか――!
私は、そう怒鳴りつけるのを懸命に堪えなければならなかった。
そう。
ならば何故、私はここに或る?
――月暦5284年、地上暦2076年にはるか天空の月に生まれしこの化け兎が、何故幻想郷に存在する!?
私は誰にも言っていない。
数十年前に、『幻想郷の外』から来た、ということを。
ただ『月から来た』とだけ言って。皆は私を千年以上を生きた妖怪を思い込んでいるのだ。
幸いにも私にはその力もあったし、幻想郷の人々は――とても良い人達ばかりで、私を疑おうともしない。
寿命も十分にあるようで――人のように老化等はしないようだ。
お陰で、私は妖怪として振舞っている。否、幻想郷の定義では私のようなモノこそ妖怪なのかもしれない。
――どちらにしろ、私はとても運が良い。
私は妖怪でも人間でもなく、狂ったカガクと幻想の合いの子でしかないというのに、そのことを見破る者は誰もいないのだから。
*
「――雨、か」
あの後師匠は何も言わず、自分の工房に戻っていった。
いくつかの言伝を残して――相変わらず、あの方の考えはまるで理解出来ない。
その一つ、ちょっとした買い出しをしに、私は永遠亭から出て、深い森の上空を飛んでいる。
困ったな。頼まれたモノのいくつかは、濡れたら困るモノがある。
「帰るのは明日になるな……」
西の空は、どんよりとした雲が目一杯のさばっており、向こう一日は、彼らが雨を降らすのは確実と思われた。
いくつか積乱雲も混じっており、雷精が数少ない活躍の機会に張り切っているようだった。
少し速度を上げ、私は目的地に急いだ。
その場所の名前は香霖堂という。しなびた建物にしなびた主人のいる骨董屋だ。
最近、私はそこのお得意様……というより相談役になっている。
色んな理由があるのだが……最大の理由は、矢張り私が幻想郷の向こうの知識を持っているからだろう。
越えられないはずの結界を越えて、幻想郷には向こうのモノが沢山落ちてくる。
まさに、月も地上も関係なく、様々なモノが。下手をすると未来や過去すら関係ないのかもしれない。
そんな出鱈目な骨董屋の膨大なガラクタを、私は大体大雑把にではあるが、理解が出来た。
――そんな私を物好きな店主が放っておく訳も無く。
私も何となく居心地がいいので、最近は殆ど店員紛いな状態になってしまった。ああごめんなさい師匠。
そういった、私にとっては懐かしく、幻想においてはただガラクタにすぎないモノを
取り扱っているのが、香霖堂という店だった。
――郷愁がないといえば嘘になるだろう。
そこは、私にとって遠き故郷を懐かしむ事の出来る唯一の場所なのだから。