私は目覚めた。
なんだか眠り足りない――そんな感覚を振り払うように身を起こす。
恐らくは錯覚だろう。氷の精霊は春に眠りにつき冬に目を覚ます。一年の半分以上も眠っていれば、むしろ起き足りないというところだ。
太陽の光を求めて空を仰ぐと、おかしな所に気づた。
頭上には濃い霧が広がっている。低くを流れるその霧は、どちらかと言うと雲の様な厚さを持つほどだ。
こんな霧を見た記憶は、私にはなかった。
遠くの山々に目をやれば、冬の筈だというのに豊かな緑を湛えている。
もしかして常緑樹林の近くで眠ってしまったのだろうかと思ったが、そんな覚えも私には無かった。
違和感はそれだけではない。そもそもこの気温はどうしたことだろう。
太陽が出ていないのであれば、湖の水が凍ってもおかしくない筈だ。だというのに、周りの空気はそこまで冷たくない。
これではまるで夏のようではないか。
今までこんなことがあっただろうか。必死に思い出そうとしたが、結局は徒労に終わった。
私はそんな経験をしたことはないのだ。
――と、そこでもっと不自然な点に気が付く。
どうして私は、生まれたばかりの子供の様に、記憶というものが無いのだろう?
やはり眠り足りなかったのだ。
氷精が夏に目覚めることなどあっていい訳がない――そう思いたかったが、なにしろ記憶がすっかり抜け落ちてしまっているのである。それがありえないことであると確信することも出来なかった。
出来る事といえば、こうして霧に覆われた夏の湖を眺めるくらいである。
「はぁ……」
ため息が漏れるのも仕方がないだろう。
何しろ思い出せることといえば自分が氷精であることと、本来ならば冬に目覚めるべきであることと、自分の名前くらいである。
他にあったであろう大切なことを忘れてしまっている自分が情けなかった。
その残った記憶からすると、私はチルノという名前らしい。
恐らく湖で冬の到来を待っていたのだろうけど、この濃い霧で覆われた夏の気温があまりに低かったため、目を覚ましてしまったというところか。
当然、辺りを見回しても仲間達はいない。この寒い夏に漂っている氷精は、私一人だけのようだ…。
記憶はなくとも感情は残っている。
自分が一人残されたような淋しさは拭えるものではなかった。
夏に目覚めてしまった私は、きっととても場違いな存在なのだろう。
私はこの季節を求めていないし、この季節も私を必要としていない。
だからといって眠りに付くには、この夏はあまりに惜しかった。
だから、せめて。
私はこの夏を足掻こう。
そう思って湖のほとりを歩いていると、一匹の雨蛙を見つけた。
もしかしたら私と反対に、冬眠しそこねたのかもしれない。そう思うと、雨蛙に細やかな親近感が湧いた。
ふと思い立つ。雨蛙は言葉を話せただろうか――それも覚えていない。
誰か話し相手になって欲しい気持ちがそうさせたのだろう。私は目の前の相手に話しかけようと、一歩前に進んだ。
そうすると雨蛙は表情を変えずに飛び跳ねた。そのまま二度三度と弧を描いて私から遠ざかっていく。
これではまた独りになってしまう。脅迫に似た感情は、咄嗟に手を伸ばさせた。
すると触れた瞬間、雨蛙は氷漬けになってしまった。
一瞬の間、唖然とする。
冷気の力の使い方を忘れてしまったために、こんな事になったのだと気付くのには少しの間が必要だった。
とりあえずこのまま冷凍させるのは夢見が悪い。
湖の水に雨蛙を浸すと、みるみる内に氷が融けていった。
雨蛙は何事もなかったかのように湖の彼方へ泳いでいく。
結局、話相手は見つからない。
私はまた独りになった。
再び孤独に耐え切れなくなりそうになった頃、二色の色をした人間がやって来た。
目覚めて以来、初めて言葉が通じそうな相手である。私は声をかけてみることにした。
どうやら二色の人間は道に迷っているようだ。
親切心から道を教えてあげようとしたら、どうも話が噛み合わない。もしかして言葉の記憶まで一緒に失ってしまったのだろうか。
しかしこちらの言う事が伝わっていないというわけでもなさそうである。もしかしたら一方的に話しかけられているのかもしれない。
そんなことをしていたら、いきなり弾幕で撃たれた。
わからない、何故撃たれなければならなのだろう。
筋違いの氷精はヒトにとっても無用な存在だとでもいうのだろうか。
湖の中心まで逃げた頃には、もう飛ぶ力も残っていなかった。
降る雪の様にゆらゆらと水面へ落ちてゆく。
湖の水はとても冷たかった。だけどそれが私には心地良い。
最早この夏を足掻くことも出来ない。やはり夏に目覚めた私は消えてゆくのが正しいのだろう。
そう思いながら霧の空を見つめていると、白い雪が一つ舞い降りてきた。
ああ、これはきっと私の涙だ。何故かそんな確信があった。
雪に触れる。白く柔らかい結晶は、冷たい私の体に吸い込まれるように消えた。
――瞬間、私の心に何かが灯る。
誰かの記憶。ずっと隣にいてくれた、大切な誰か。
おかしな話だ。氷の精霊に温かみを感じることがあるなんて。
しかしその感情は決して否定できない。
その誰かにまた会うことは出来るだろうか。冬に目覚めればまた隣にいてくれる誰かに。
会えると信じている。この冷たい心に宿る熱は、決して氷り付いたりしないのだから。
そして私は再び眠りにつく。
次の冬には此の夏の匂いを包み込んで目覚めたい――。
なんだか眠り足りない――そんな感覚を振り払うように身を起こす。
恐らくは錯覚だろう。氷の精霊は春に眠りにつき冬に目を覚ます。一年の半分以上も眠っていれば、むしろ起き足りないというところだ。
太陽の光を求めて空を仰ぐと、おかしな所に気づた。
頭上には濃い霧が広がっている。低くを流れるその霧は、どちらかと言うと雲の様な厚さを持つほどだ。
こんな霧を見た記憶は、私にはなかった。
遠くの山々に目をやれば、冬の筈だというのに豊かな緑を湛えている。
もしかして常緑樹林の近くで眠ってしまったのだろうかと思ったが、そんな覚えも私には無かった。
違和感はそれだけではない。そもそもこの気温はどうしたことだろう。
太陽が出ていないのであれば、湖の水が凍ってもおかしくない筈だ。だというのに、周りの空気はそこまで冷たくない。
これではまるで夏のようではないか。
今までこんなことがあっただろうか。必死に思い出そうとしたが、結局は徒労に終わった。
私はそんな経験をしたことはないのだ。
――と、そこでもっと不自然な点に気が付く。
どうして私は、生まれたばかりの子供の様に、記憶というものが無いのだろう?
やはり眠り足りなかったのだ。
氷精が夏に目覚めることなどあっていい訳がない――そう思いたかったが、なにしろ記憶がすっかり抜け落ちてしまっているのである。それがありえないことであると確信することも出来なかった。
出来る事といえば、こうして霧に覆われた夏の湖を眺めるくらいである。
「はぁ……」
ため息が漏れるのも仕方がないだろう。
何しろ思い出せることといえば自分が氷精であることと、本来ならば冬に目覚めるべきであることと、自分の名前くらいである。
他にあったであろう大切なことを忘れてしまっている自分が情けなかった。
その残った記憶からすると、私はチルノという名前らしい。
恐らく湖で冬の到来を待っていたのだろうけど、この濃い霧で覆われた夏の気温があまりに低かったため、目を覚ましてしまったというところか。
当然、辺りを見回しても仲間達はいない。この寒い夏に漂っている氷精は、私一人だけのようだ…。
記憶はなくとも感情は残っている。
自分が一人残されたような淋しさは拭えるものではなかった。
夏に目覚めてしまった私は、きっととても場違いな存在なのだろう。
私はこの季節を求めていないし、この季節も私を必要としていない。
だからといって眠りに付くには、この夏はあまりに惜しかった。
だから、せめて。
私はこの夏を足掻こう。
そう思って湖のほとりを歩いていると、一匹の雨蛙を見つけた。
もしかしたら私と反対に、冬眠しそこねたのかもしれない。そう思うと、雨蛙に細やかな親近感が湧いた。
ふと思い立つ。雨蛙は言葉を話せただろうか――それも覚えていない。
誰か話し相手になって欲しい気持ちがそうさせたのだろう。私は目の前の相手に話しかけようと、一歩前に進んだ。
そうすると雨蛙は表情を変えずに飛び跳ねた。そのまま二度三度と弧を描いて私から遠ざかっていく。
これではまた独りになってしまう。脅迫に似た感情は、咄嗟に手を伸ばさせた。
すると触れた瞬間、雨蛙は氷漬けになってしまった。
一瞬の間、唖然とする。
冷気の力の使い方を忘れてしまったために、こんな事になったのだと気付くのには少しの間が必要だった。
とりあえずこのまま冷凍させるのは夢見が悪い。
湖の水に雨蛙を浸すと、みるみる内に氷が融けていった。
雨蛙は何事もなかったかのように湖の彼方へ泳いでいく。
結局、話相手は見つからない。
私はまた独りになった。
再び孤独に耐え切れなくなりそうになった頃、二色の色をした人間がやって来た。
目覚めて以来、初めて言葉が通じそうな相手である。私は声をかけてみることにした。
どうやら二色の人間は道に迷っているようだ。
親切心から道を教えてあげようとしたら、どうも話が噛み合わない。もしかして言葉の記憶まで一緒に失ってしまったのだろうか。
しかしこちらの言う事が伝わっていないというわけでもなさそうである。もしかしたら一方的に話しかけられているのかもしれない。
そんなことをしていたら、いきなり弾幕で撃たれた。
わからない、何故撃たれなければならなのだろう。
筋違いの氷精はヒトにとっても無用な存在だとでもいうのだろうか。
湖の中心まで逃げた頃には、もう飛ぶ力も残っていなかった。
降る雪の様にゆらゆらと水面へ落ちてゆく。
湖の水はとても冷たかった。だけどそれが私には心地良い。
最早この夏を足掻くことも出来ない。やはり夏に目覚めた私は消えてゆくのが正しいのだろう。
そう思いながら霧の空を見つめていると、白い雪が一つ舞い降りてきた。
ああ、これはきっと私の涙だ。何故かそんな確信があった。
雪に触れる。白く柔らかい結晶は、冷たい私の体に吸い込まれるように消えた。
――瞬間、私の心に何かが灯る。
誰かの記憶。ずっと隣にいてくれた、大切な誰か。
おかしな話だ。氷の精霊に温かみを感じることがあるなんて。
しかしその感情は決して否定できない。
その誰かにまた会うことは出来るだろうか。冬に目覚めればまた隣にいてくれる誰かに。
会えると信じている。この冷たい心に宿る熱は、決して氷り付いたりしないのだから。
そして私は再び眠りにつく。
次の冬には此の夏の匂いを包み込んで目覚めたい――。