高度50。
天候は晴天。
南東から微風。
視界は良好。
風は粘度を極限まで高め、強靭な刃を振るう。
防御壁が無ければ箒の上から弾き飛ばされる暴風の中、霧雨魔理沙は弾丸となって直進する。
それは横にしたロケットが突進しているかのような光景、飛行機雲さえ後方に量産しながら常識外れの速度で空を穿つ。
その騒音は対空魔法壁の中であっても絶え難い。
ゴーグルと一体化した耳当てが無ければ難聴になっていたことだろう。
つまり、それだけの速度だ。
「チッ」
それでも、魔理沙には不満だ。
箒の先に設置した時計が見えていた。
紐だけで吊るされた懐中時計は兎のように跳びはねるが、発達した視神経を持つ彼女は充分視認が可能だった。
デジタルとアナログと砂時計を同時に表示する自家製の時計は、残り時間が後わずかであることを示し、魔理沙の焦燥を容赦なく煽る。
秒針は既にレッドゾーンへと突入し、真銀の砂時計もあと少しだけ、デジタル表示の変化はまるで時限爆弾のタイマーのようだ。
「のこり25秒。マズイぜ」
言う間にも時間は過ぎる。
下方を流れる森が途切れ、整備された田舎道が現れ、それですら高速で流れ去る。
魔理沙は重心を前へ移動させ、スパート前のジョッキーのような体勢になった。黒い魔法防御壁の形状を鋭角なものへと変え、箒から噴出する魔力光を数倍以上に膨れ上げさせた。
圧縮された空気が水蒸気化し、円状の衝撃波となって魔理沙の後方に置き去りにされる。
目標地点が近いにも関わらずスピードアップ、否、最高速へのシフトを行う。
無茶である。
無謀である。
止まることなど考えていない速度で、疾く、速く、捷く、魔理沙は飛び行く。
地上では藁葺き屋根が壊滅し、人が空を舞い、湖が擬似モーゼ化し、タンポポの綿毛が最長不倒距離をマークするが、そんなのは魔理沙の知ったことではない。
「見えた!」
博麗神社がその相貌をあらわにした。
小高い山の紅葉は燃えるようであり、低温であることが不可思議に思えるような万華鏡色の『あか』、ただそれだけで埋めつくされている。
秋という季節特有の落着いた狂乱。長い冬を前にした仇花だ。
だが、魔理沙はそんな光景を一顧だにせず、むしろ蹴散らしながら飛び登る。
数秒間だけその急激な上昇運動は上手くゆく、だが、慣性の法則を魔力で殺すにも限度というものがある。
ほどなく黒い防御壁と石段は接触し、火花と不気味な破砕音を撒き散らした。
「くっ!」
縦回転からのでんぐり返し×100をしたがる箒を力尽くでねじ伏せ、膨大な量の魔力をつぎ込み、失った操縦を取り戻そうと尚あがく。
石段を右へ左へとピンボールのように『弾き上がり』ながらも魔理沙は目標地点を睨みつけた。
最高点である鳥居の中では、博麗霊夢が唖然とした顔で魔理沙を見ていた。
いつもと同じ、紅白しか共通項のないフリル付きの『自称巫女服』を着用し、単純かつ安価な魔力を通さない箒で掃除をしてた。
――目と目が合う。
魔理沙はニヤリと笑った。
獲物を発見した狩猟動物の笑みだ。
それぞれに箒を持った両者は、すさまじい速度で近づこうとした。
相対距離は瞬く間に消え去り、魔理沙はスピードを『緩めることなく』、口の端を上げたまま、むしろスピードを上げて霊夢へと突っ込んだ。
「わ、わわ!?」
慌て、混乱しつつも霊夢が結界を張れたのは、ここが博麗神社内であったからに他ならない。
あらゆる手順をすっ飛ばし、印を結ぶだけで境界壁を作り出した。
符も口上も宣言もありはしない、神社中に満ちる力を凝縮させ結界となす。
黒い防護壁で囲まれた魔理沙は、そこへ躊躇なくカミカゼを決行した。
膨大な速度エネルギーと結界が数瞬だけ拮抗し、その後、秋空に似つかわしくない衝突音と塵芥が噴出した。
境内の一角が吹き飛ばされる。
ダイナマイトを2・3本ほど着火して放り込んだのと同じ様相だった。
「けほっ、けほっ」
霊夢は手にした箒でその粉塵を払った。
袖で口を覆い簡易マスクにしている。衝突の余波による土煙は、目の前すらよく見えなくさせていた。
霊夢が無傷でいられたのは、ある意味、奇跡に近い。
なにせ最高速で突入する暴走魔女を前に、『煙で前が良く見えない』程度の被害で済んだのだ。
それはスカッドミサイルを咄嗟に防いでみせたようなものだった。
「な……一体、なんなのよ、もう」
目がしばしばとした。
涙は絶え間なく、見るのも開けるのも辛い。
薄くなってゆく煙の向こうでは、誰かが仁王立ちしていた。
腰に手を当て時計を覗き込んでいるシルエットは、この上なく満足そうだった。
「ジャスト4秒前、間に合ったぜ」
言ってゴーグルを乱暴に外し、ガンマンが拳銃を収めるような流麗さで時計をしまった。
同時に逆手から大仰な仕草で何かを取り出し、
「霊夢、お届けものだ」
おっとこ前の、何かを成し遂げた顔で手紙を渡してきた。
+++
「いってえなあ、ひどいぜ、霊夢」
箒の柄で思いっきり叩かれた頭を片手で押さえ、霧雨魔理沙は涙目で文句を言う。
その顔にはデカデカと『不本意だ』と書かれていた。
「どこがなにがだれが酷いのよ。あんたの自爆攻撃のお陰で掃除を台無しにされたんだから、この程度の報復は当然でしょうが」
逆に霊夢は腕を組んだまま、半眼で言う。
『そうされて当然』と身体全体で表現していた。
「仕事に従事してる善良な人間に対して、この仕打ちはないぜ?」
「……ツッコミどころ満載のセリフね、とりあえず仕事ってどういうこと? あんたが生産的な行動をするなんて珍しいどころの話じゃないわ。夕立代わりにレーザー光線でも降ってくるんじゃないかしら」
「おお、それだ!」
わが意を得たりとばかりに魔理沙は指を突きつけた。
「な、なによ?」
「仕事の話だよ。まあ、聞いてくれ」
「う、うん」
言いながらも霊夢は後ずさる。
文句を言ったのに、いつもの皮肉が返ってこない。それどころかテンションはやけに高く、満面の笑みを浮かべている――
ひょっとして、何かまたおかしな自作薬でも誤爆したのかと疑ったのだ。
あの時の被害の酷さは、いまだ霊夢の脳裏に灼きついている。
注意するのは当然だった。
だが、魔理沙は真剣な表情で真摯に告げた。
「どうもな、魔女は仕事をしないと一人前になれないらしいんだよ」
「は? 聞いた事もないわよ、そんなこと」
「パチュリーの所に行って確かめたことだからな、間違いない」
「……本当なの?」
初耳もいいところだった。
「ああ、独り立ちするためにはどこか知らない場所に行って、自分ひとりの力で生きてゆく必要があるそうだ」
「…………?」
何か聞いた憶えのある話だ。
「薬を作ったり占いをしたりで生計を立てる場合もあるみたいだが、やっぱり基本は宅急便だな」
うんうんと納得してる。
「……魔理沙、それってひょっとして『魔女の宅急――」
某有名アニメ映画の名を言おうとするが、
「おおっと、そうだ! さっさと手紙受け取ってくれよ」
叫ぶ彼女に遮られた。
霊夢の目の前にまで手紙が差し出される。
「…………まあ、いいけどね」
色々と不審なものを感じたが、あえて追求せずに手紙をはがし、中の簡素な紙を取り出す。
上質な紙であることが触感だけでわかった。
ふわりと軽く、余白は目にまぶしいほどだ。
紙の中央には流麗な筆跡で、
雨って嫌ね。
とだけ書かれていた。
隅にはレミリア・スカーレットの署名がある。
「…………」
上下左右から見てみるが、他には何も書かれていない。
透かしも暗号もあぶり出しも無さそうだ。
雨は嫌であるという意味以外の言葉は書かれていない。
高く冷たい秋空の下、禅問答なのだろうかと疑いつつ、手紙を子細に検討するが、まったくもってサッパリだった。
(なんだろ? 私の勘は『手紙そのものは重要じゃない』って言ってるけど――――ううん?)
意味不明だった。
吸血姫の思惑がつかめない。
こんなの、挨拶以外に何かあるのだろうか?
「…………」
霊夢は何となく魔理沙を見てみた。
呑気に大欠伸しながら箒で肩を軽く叩いていた。
何ものにも囚われない、規格・規律の外に身を置く彼女らしい仕草だ。
(あ――そういうことね)
唐突に、霊夢は合点がいった。
そう、たしかにこのところ続く長雨のため外出することが少なくなっている。
紅魔館にも、ここ2週間ばかり行っていない。
その上での『魔理沙を使って寄越した』この手紙。
(――うん。これ、嫌がらせだ)
決定的だった。
目を閉じ優雅に紅茶を飲みながら、その上で苛立たしげにテーブルを指で叩くレミリアの姿が思い浮かぶようだった。
あの吸血姫はわがままで自分勝手なくせに、それを表に出すことを良しとしない部分がある。
こうした迂遠な方法での『嫌がらせ』はいかにもしそうだ。
だが、何かの間違いということもあるかもしれない。
万が一、兆が一の可能性で、『ただ手紙を渡したかっただけ』という場合もある。
霊夢は確かめることにした。
「魔理沙?」
「ん、なんだ」
「ここに来る前、紅魔館に行ったのよね」
「ああ、そうだぜ」
「良かったら今日、他にはどこ行ったか教えてくれる?」
「ん? ああ別に構わないぜ」
『博麗霊夢が霧雨魔理沙に頼みごとをする』という事態に少しばかり驚きながらも、指折り数えるようにして思い出す。
朝早くにパチュリーと一緒にビデオを見たことや、朝食は鯵の開きだったとか、その他は端折り、必要と思われる要点だけを述べた。
「えーと、まず幽々子んところで何か届け物は無いか押しかけただろ」
――スピード出しすぎて、二百由旬の庭がかなり散った事とかは言わなくていいよな――
「まあ、そこで色んなゴタゴタがあったんだが、郵便の仕事を貰って紅魔館に行って」
――妖夢が半泣きで斬りかかって来たから急いで逃げたっけかな――
「中国とか咲夜とかといつものやりとりをしてだ」
――ちょっとだけ今回は『派手』だったかもな――
「無事に届けたら届けたで、あのレミリアから更に手紙を頼まれてな、そんで今に至るってとこだな」
――帰る時には館が半分壊れてた気がするな、なんでだ?――
『どうだ』とばかりに胸を張る。
「…………なーんか、その微妙な間が気になるんだけど?」
「気にするな、気にするとハゲるぜ? ハゲ巫女は流石に様にならんだろ」
「失礼ね、この黒髪が見えないの?」
「最近、本の読みすぎで目が悪いんだよ、あまりよく見えないな」
「あっそう、もう良いわよ、確かに受け取ったからとっとと帰りなさいよ」
「なんだつれないな、ほれ、なんと名刺まで作ったんだぜ」
「……あんたも暇ね、他にすることは無いの?」
「乙女の嗜みだ」
「なによそれ」
文句を言いつつ、自慢気に差し出す名刺を受けとった。
通常よりも一回り大きい紙、そこには画面いっぱいを使い、
≪霧雨魔理沙の宅急便≫
あー、秋の夕日は釣瓶落とし?
まあ、時節の句はどうでもいいや。
私の手にかかれば宅急なんざ楽勝だ。
距離も障害も雨も敵じゃない、気もする。
どんな物でも五分以内に届けるぜ?
と書かれていた。
名刺というよりも、チラシのビラか手紙のようだった。
「…………」
霊夢は一瞬、意識が遠くなるのを自覚した。
これは、絶対に明らかに何かを間違えていると思考する。
普通、運送業には『安全』とか『確実』などの言葉が使われるはずだ。
だが、どうしてかそれらの文言は使われず、『楽勝』などという言葉だけがある奇々怪々さ。
これでは『宅急便』ではなく『運び屋』だ。
正道ではなく裏道をひたすらに驀進する魔理沙らしいといえば魔理沙らしいのだろうが……
「……まあ、良いわ、分かったわ」
頭痛がしてきた。
額を指で押さる。
レミリアの嫌がらせ説が確定した。
彼の吸血姫はこれを見てから『霊夢に届け物をする』という行動に出たに違いない。
ひょっとすると、嫌がらせどころか報復攻撃だったのかもしれない。
博麗霊夢ため息を吐き、周囲を見渡した。
あれだけ咲き誇っていた紅葉が、石段の左右だけ吹き飛ばされていた。
足元の玉砂利は炸け飛び、軽いクレーター状になっている。
只でさえ鄙びた神社は先ほどの突風で軋み、心なしかうな垂れてるようにさえ見える。
霊夢は心中、こっそり頷く。
(――とっとと出ていって貰おう)
伊達に長い付き合いではない、これはまだ『序の口』だった。このまま魔理沙に居座られると、被害は増す一方であることが霊夢には分かっていた。
例えば悔し涙を浮かべた庭師とか血相を変えたメイドなどが、ここに出現する確率はかなり高そうだ。
そうなれば最悪、博麗神社は壊滅するかもしれない。
早急な解決策が必要だった。
霊夢は普段、弾幕戦用に使用してる符を取り出し、さらさらっと筆で書き込む、ついでに頼まれ事も、この際なので入れ込んでしまう。
「ん? なんだ」
「魔理沙、まだ仕事をする時間内?」
「ああ。日が沈むまではやろうって思ってる」
「なら、これを永遠亭の輝夜にまで届けてくれる?」
「お! 珍しいな、お前が私に頼みごと。それも1日に2回もなんて」
「届けてくれるんでしょ? 5分以内だったかしら」
「うーん、こっから永遠亭までかぁ……」
ちょっとばかり考える。
かなり難度の高い仕事だった。
永遠亭へは野を越え山を越えれば着くというものではない。
あれが或るのは『異世界』なのだ。
ドーピング強化した兎の群れも鬱陶しいが、それ以上に場所の特定が難しかった。
「――少しばかり厳しいが、他ならぬ霊夢の頼みだ。分かったぜ、届けてやる!」
魔理沙は『ニッ』っと快活な笑みをひとつ浮かべ、取り出した自家製の時計のボタンを押した。
デジタル表示が動き出し、砂時計が流れ、秒針が動き出す。
「それじゃ、行ってくるぜ!」
言葉を打ち消すように大気が炸裂し、純然たる魔力光が霊夢の頬を撫でる。
直視すれば目を焼かれるその光を、彼女はとっさに巫女服の袖で防いだ。
簡単な防護処理が施してあるこの服ならば、直接狙っていない攻撃程度は防御可能だ。
目を開け、顔を上げると、そこにはもう遥か彼方の点として魔理沙はいた。
すさまじい速度であり早技だった。
後姿がキラリキラリと輝いてた。
断続的に、更に速度を上げているのだ。
ほどなくその形は見えなくなった。
「ふう……」
やれやれ、やっかい払いが出来たと霊夢は肩をすくめ、被害を広げた境内を面倒臭そうに見る。
「……枯葉、また集めないとね」
懐の芋を叩いて呟いた。
彼女にとって秋とは即ち『食欲の秋』なのだった。
+++
――手に魔力を集める。
爪の白い部分にまで満タンに。
細胞のひとつひとつにまで魔の法力が満ち、骨は悲鳴を上げはじめる。
だが、更に魔力を注ぎ込む。
『魔力を伝える』という作業を、このままではできないからだ。染み出す余剰は光となり、自然ではありえない輝きを放ち始める。
魔力が溢れる手で箒を握り、『箒との縁を繋げる』。
これにより式陣が起動し、魔理沙の手と箒が接着。滅多なことでは離れなくなる。同時に重力は無効化され、常識や慣性などという野暮から乖離した理を得る。
これが『魔女が空を飛ぶ』ということだ。
魔の理によって現世法則を書き換える。
無理を通せば道理が引っ込むというのに似ているかもしれない。
魔理沙が境内で行ったこともコレだった。
『箒を手で持つ』。
この動作だけで、霊木内に記述した魔術陣を起動させ枝葉にまでその流れを伝えさせる。『今』を変え『空』を変え、望むがままの永遠起動を保持者として獲得したのだ。
片手でゴーグルをはめなおしながら魔理沙は空を行く、口には変わることのない不敵な笑みが浮かんでいた。
(博麗神社から永遠亭まで5分――――無茶苦茶だな)
難攻不落の難題だった。
99%まで不可能と同義である。
だが、闘志は衰えなかった。
むしろ生まれながらの天の邪鬼である彼女の心に火をつけた。
向かう先は永遠亭。
つい先ごろまで幻想郷以上の隔離結界内に在った『異世界』。
その門は開放されたとはいえ、いまだ遠い場所だ。
霊夢の要望は、言ってみれば「隣の大陸まで5分以内にこの手紙を届けて」と言ったも同然だった。
異世界同士の結界接続が上手くいってないので場所さえ不確か、つい先ごろ南の方に門があったなあ、と思えば次の日には消えている。
行くには魔力探知を行いながら一日がかりで捜さねばならなかった。
「ふはっ!」
そこに5分以内に到着しろと言う!
彼女は爆笑しそうになる口を閉じ、耐えた。
腹の底で笑いがこだまし、行き場を失ったエネルギーが咽と腹を震わせ、口の両端は自然に吊り上がる。
背骨を冷たい魔力が歓喜しながら流動してた。
――こんな仕事、霧雨魔理沙以外の誰にできる?
幻想郷最速の宅急便屋は、瞳に狂気さえ湛えながら一直線に空を流れた。