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分厚い本のページをめくりながら、傍に置かれた湯呑みに口をつけ、女はそこでようやく湯呑みが空である事を思い出した。
顔を上げると、机を挟んで向かい側に座っていた男と目が合う。
「…随分と、熱心に読んでいたもので、声をかけづらくて。」
微笑を浮かべながら男がそう口を開くと、
「だからって、黙って見ていたの?随分と趣味が悪いわね。」
と、言葉とは裏腹に穏やかに彼女は言った。ひょっとして、夢中で読んでいた所をずっと眺めていたのかと、思わず苦笑を漏らす。
「お茶をもう一杯いかがです?」
「…ありがとう、頂くわ。」
湯呑みを渡そうとして、そこで彼女の手が止まる。
実は、お茶を淹れ直してもらうのは三回目ということを思い出した──ではなくて、もっと大事なことを思い出したのだ。
急に可笑しくなり、声を上げて笑い出す。
「…大事なことを忘れていたわ。私、あなたの名前を聞いていなかったのよ。」
男は急須を持った手を止めて、鳩が豆鉄砲を食ったかのような表情を浮かべる。そして吹き出すと、一緒になって笑い出した。
「それは気がつかなかった。…いや、申し訳ない。──僕は、この香霖堂の店主、森近霖之助です。」
「…私は、八意永琳よ。」
ひとしきり笑った後、急に畏まって挨拶した霖之助に対して、永琳の自己紹介は笑いながらも素っ気のないものだった。
ひょっとして、素性をあまり人に教えたくないのだろうかと霖之助は思ったが、まあ、初対面の人間に自分のことを話したがる人間もそういないだろうと考え直す。
霖之助は別段気を悪くした様子も無く、微笑を浮かべた。
「いい名前だ。永琳さん、と呼んだほうがいいですか。」
「…”さん”をつけて呼ばれると、姓も名も、どうにも韻が悪くていけないのよ。永琳で構わないわ。」
永琳はやはり素っ気無くそう言うと、大きな音を立てて本を閉じる。本当はもう少し何か言いたいのに、あえて言葉を飲み込んでいるような、そんな印象を受ける。
外はもうとっくに日が落ち、すっかり暗くなってしまっていた。霖之助に勧められるまま、お茶を飲みながら本を見せてもらうことになったのだが、随分と長い間読みふけっていたらしい。
何時の間にか、天井から階段状に吊り下げられたランプには、火が灯されている。
「迷惑だったかしら、長居してしまって。…ところでこの本だけど、気に入ったわ。譲っては頂けないかしら?」
永琳が小首を傾げてそう尋ねると、
「いやぁ…実はこの本は非売品なんですよ。興味があったようなので、ご覧に入れるだけでもと…。今更こんなこと言うのも悪いんですが。」
と、申し訳なさそうに霖之助は答えた。実のところ、ここ香霖堂の店内にある本は彼が趣味で集めたもので、その大半が非売品だったりするのだが。
「そうなの?──それは残念と言いたいところだけど…。駄目なのかしら、どうしても?」
女性からの頼み事には弱いその性格を、まるで見透かしているような永琳の言い方に、霖之助は困ったように頬を掻いて視線を逸らした。
それから目を閉じ、腕組みをして暫く考え込む。
自分の専門分野とは毛色が異なるとはいうものの、資料的にも一級品の価値がある本だし、手元に置いておきたいというのが本音といえば本音である。
が、仮にもここは商店だし、店にあるものは売り物だ。客が欲しいと言っているのを売らないなんて、店として問題ではないのか。
霖之助がそんなことを考えていると、
「…お金では譲れない、とでも言いたげね。…それなら、代価としてこれでどうかしら。」
と、永琳は懐から飾り気の無い黒い鞘に収まった一本のナイフを取り出して机に置いた。
霖之助が僅かに眉を上げる。そんな提案をしてくるとは、予想外である。
が、物々交換そのものは、この店ではよくある取引方法だ。
特に、霊夢や魔理沙はささやかな労働力と引き換えに頼み事をしてくることが多く、そうでなくとも、価値観のずれた客が多い香霖堂では、お金で商品を売ることのほうが少ないようにも思われる。客が少ないので、統計標本としては参考にならないと言われればそこまでなのだが。
さらに言えば、霖之助自身に商才が無いというか、どちらかというと店を構えているのは道楽に近いものがあるので、それも致し方ないだろう。
霖之助はナイフを手にした途端、何かに気づいたように驚いた表情を垣間見せた。そして、永琳が無言で自分の言葉を待っているのに気が付くと、ゆっくり鞘から引き抜く。
黒光りする刃がそこにはあった。
銀色の輝きではない。金属のように見えるが、何かの鉱物の原石を削ったようにも見え、黒色に金銀を散りばめたような不思議な輝きだ。
霖之助は暫く食い入るようにその不思議な刃を見つめていたが、やがて顔を上げると、
「──驚いた。これは、幻想郷で採れる金属ではない。」
と、呟くように言った。
驚いたの永琳だ。ずっと、どこか人を食ったような表情や仕草ばかりを見せていた彼女は、目を丸くして心底驚いている風だった。
まさか、それが分かる人間がいるとは思ってもみなかった。
「…大した炯眼ね、恐れ入ったわ。私の故郷では、あまり珍しくないものだけど…。」
自嘲めいた笑いを浮かべて、小馬鹿にするような永琳。
「それは不思議な話だ。この金属は、少なくとも地上で採れるものではないはず…。」
ナイフをしげしげと見つめ、少し難しい表情をしながらそう言いかけた途端、霖之助を異様な感覚が襲った。
殺気。
明確な殺気が、目の前の女性から叩きつけるように襲いかかって来たのだ。
思わず後退ると、表情が殺がれ、射るような視線を向けた永琳と目が合った。
「誰?…あなたは何者?」
抑揚のない声。感情の消えた瞳。
先ほどまでと同一人物だとは、到底思えない。
永琳は外套の下から腕を出すと、ゆっくりと霖之助に向かってその腕を上げた。
唾を飲み込んで、大きく息を吐き出す霖之助。揉め事が苦手な彼は、こういった場面にまったくと言っていいほど慣れていない。これ程の殺気を向けられて、動くことなどできるわけがなかった。
「──地上の人間が、なぜそれが地上の物ではないと分かる?」
もう一度、詰問するように問い質す永琳。
その指先には、一枚のカード。
見知った者たちが持っている物とは意匠が異なるが、それは間違いなくスペルカードだった。
-9-
突然、勢いよくドアが開いた。
肩でドアを押し開けて転がり込むように、小柄な人影がふたつ、店の中へと入ってくる。いや、倒れ込んできたという表現のほうが正解なのかもしれない。
そのお陰で、二人の間に流れていた剣呑な空気が薄れ、永琳も霖之助もそちらを振り向いた。
「──霖之助っっ!!」
悲痛な叫び声。
その声の主に憶えがあった霖之助は、驚いて入り口のほうへと駆け寄る。
魔法の森に住む者はとても少ない。その、魔法の森のすぐそばに建っている香霖堂だから、森の住人が用事もなく立ち寄ることもしばしばあり、結果的に霖之助は魔法の森の住人達の大半と顔見知りだった。
その声の主──森の奥にある、洒落た洋館でたくさんの人形に囲まれて暮らす少女とも、当然面識がある。
「アリス、アリスなのか?──一体どうし……うっ…!!」
アリスの元に駆け寄るや、彼女に肩を抱かれるようにしてぐったりとしている魔理沙の姿が目に入り、霖之助は言葉を失った。
鉄の匂い。
人間の血の匂いがする。
「ま、魔理沙?!…一体何があったんだ、アリス!」
「そんなことはいいから!魔理沙を…魔理沙を助けてあげて!!」
生気を失い、真っ青な顔の魔理沙の身体を抱きかかえる霖之助。その襟元を引っ掴んで、アリスは泣き叫んだ。
それまで見たことがない、剥き出しの感情で哀願する彼女に面食らいながらも、霖之助は素早く事の重大さを認識すると、
「とりあえず血を止めないと!待ってろ!」
と言い残して、奥の間に駆け出そうとした。
──駆け出そうとしたのだが、その足が止まる。
先程の殺気は消えてはいたものの、無表情のままの永琳が、何時の間にか立ち塞がるようにそこに立っていたのだ。
アリスが驚いて声を上げる。
「…永琳?!」
「お久しぶりね、アリス。」
霖之助は驚いて永琳とアリスの顔を交互に見比べ、知り合いかと尋ねようとして止めた。少なくとも、今はそれどころではない。
そのまま、永琳の横を通り過ぎようとしたその時、彼女はまるで蔑むような目で霖之助を見やると、冷笑を浮かべて言い放つ。
「血止めですって?そんなものが何の役に立つと言うの。」
突き刺さるような一言。びくっ、と身体を震わす霖之助。
永琳の感情を欠いた無機質な声、そしてその言葉に、彼は今度こそ完全に立ち止まって、ゆっくりと向き直った。
「その子の腕をご覧なさい──刺された、斬られたといった、傷なんて呼べるものではないわ。普通の人間なら、痛みとショックで絶命していてもおかしくない程よ。」
冷たい目と、それ以上に冷ややかな口調が残酷な事実を告げる。
魔理沙の腕は、もともと細いものがさらに半分近くの細さしかなくなっていた。白っぽく見えるのはまさか腕の骨なのか、肩から肘までの腕の肉が完全に削ぎ取られている。
流れた血で指先まで真っ赤に染まり、それで繋がっているのが不思議に思えるほど、正視に耐えない酷い有様だ。
「…癒しの術でも、失った肉まで取り戻すなど聞いたことがない。その子を助けたければ…霖之助、聡明なあなたなら、分からない筈がないわよね?」
何かに耐えるように、霖之助は歯を食いしばった。
額から嫌な汗が頬に伝う。
アリスが途方に暮れたような眼差しを向けると、永琳はそれを見下すように一瞥した。
そして、もう一度あの氷のような笑いを浮かべて告げる。
「…肩から腕を切り落として、傷口を焼くしかないわね。さもないと、その子はあと四半刻と持たないわよ。」
「そんな…っ…!!」
絶句するアリス。
今度はすがるように霖之助を見たが、立ち尽くす彼の表情は、普段の温厚な古道具屋の店主のそれではなく、これ以上無い程に険しく厳しいものだった。
何も言わず、ただ下唇を噛み締める。それが、永琳の言葉を肯定していることに他ならなかった。
「り、霖之助!あなたも魔法の心得があるんでしょ?!なら、応急処置でも──」
「無駄よ。…さっきも言ったけど、応急処置をしてその後は?癒しの魔法で治せる領分なんて、とっくに逸脱しているのよ。切られたらまた生えてくる下等生物じゃあるまいし。」
「で、でも…!!」
「…アリス、あなたは魔法を過信しているようね。…それに、その子は人間よ。自分の尺度で物事を推し量るのはやめなさい。」
アリスは、膝の上の魔理沙の顔を覗き込むように見つめた。
そこに、いつもの不敵な笑みはない。
魔法への過信。魔理沙は人間で、アリスは違う。永琳の言っていることは、全てが事実で否定しようもない。
床にできた血溜まりが大きくなっていき、もう時間が残されていないことを示している。
アリスの目から涙が零れ、魔理沙の頬にぽたぽたと落ちた。
「…なぜ、その子を助けたいのかしら。」
静かに永琳が尋ねると、アリスは首を振った。
「…わからない。…でも、あなたに言っても、多分理解してもらえないと思う。」
呟くような声。
「それは興味深い指摘だけど、ゆっくり聞いている暇はなさそうね。」
そう言うと、永琳は二人のそばに歩み寄った。
「…その子の為に何もできないのなら、そこをどきなさい。──私がやるわ。」
その一言に、弾かれたように見上げたアリスの目に入ったものは、横たわる魔理沙を見下ろす永琳の姿。口を開きかけて、アリスは思い留まった。と言うよりも、むしろ言い淀んだのだ。
永琳の顔には、先ほどまでの冷淡な表情はもう無かった。
かわりに、ひどく寂しげな、物悲しげな表情が、そこには浮かんでいた。
(つづく)
また、霖之助も何やら良い味を出していてナイスですな。
しかし氏の文は抑揚が心地良い。
次回も、当たり前のように期待してしまいますよぅ。
彼女の表情まで分かるような…そんな気がしました。
そして前半の穏やかな展開と、永琳の一言から発する後半の緊迫した展開。
そのメリハリが良く付いていて読んでいて、自然と惹きつけられてしまいましたよ。
終わり方も非常に気になる展開で、次回作にも期待させていただきます。
もちろん、前回のマリス砲を題材にしてしまうところも着眼点(というかネタとして)が凄かったのですが、永琳×霖之助という組み合わせの斬新さもさることながら、アリス×魔理沙のコンビに絡める切り口は新鮮な印象を受けました。
そして、ここで引きを入れてしまうあたりも(笑)。まるで一昔前のアニメのようで、ここまで続くと、これは話をいいところで切って投稿しているのではなく、最初からこういう形を狙って構成をお考えだったのでは?と思うのですがどうなのでしょうか。
次回にも俄然期待致します。
表に出さない恐怖というのか、その静かな表情が場を引き締めていてとても良い。
展開が非常に気になる・・・
この後の話にも期待ですね。
一瞬にして修羅場とかしそうな雰囲気にこっちの方がたじたじしました。
話の展開がいつもながら流れる、と言うのか奥にいくほどどんどん先の展開に興味がわいていく文章構成はずばらしいです。
この後どうなるのか楽しみに待たせてもらいます。
一つ気になったのは、この本は非売iなんですよの非売の後のiはなんでしょうか?
作者様の意図的なものなのなら申し訳ないです。
そう人に聞かれたら、私は色んな事を考えつつ次の事を言うでしょう。
「初読よりも二読目、二読目よりも三読目が面白く、そして何度も読める話」
相変わらずの、最早そろそろ嫉妬したくなる位上手いこの独特の文章回し。
永琳だろうことは私も予想してましたが、この瞬時の空気の変わり方。
イメージが私の中で凄く微妙というかあやふやなキャラ何ですよ、永琳って(東方キャラの中で唯一、永琳だけは私描けないです。キャラ像が作れないので)
それをこれだけのレベルで判断して描くのは驚きです。さらには、普段と全く違うアリス。いかにこの状態が危険で緊急か、アリスの態度だけで伝わってきますね。二読目でここはガッツリと心に命中しました。
しかし30分持たないとは……はわわわわ。凄い上手い引きを使われて、緊張しつつ次回を待ちたいと思います。