楽しい時間はあっという間に過ぎていく。
大盛況の後にお開き。幽霊たちは一人、二人と家路に就き、そして最後の一人が暇を告げた。
この広い部屋に、今は私たち数人が残っているだけ。
乱雑に散らかった酒瓶や食器だけが、つい先程までの宴の名残。
私はそんな中から、ひとつのお銚子を手に取った。底にわずかに残った液体がゆれる。
ああ。こんなところにも取り残されたままの者がいた。
…そんなことを考えてしまうのは、今日が今日だからなのだろうか。
ぽっかりと何かが欠けてしまった。そんな喪失感。
私はそんな寂しさから逃げだそうとしている。
だから、ひとつ、またひとつと片付けていく。
名残を残さないために。
-1-
「少し、休憩にしませんか」
そんな声が外から聞こえてきたのは、折りよくこの部屋の片付けも後少しという時だった。
部屋を見回すとお膳が数台。頑張れば一度で持ち出せそうな感じだ。
縁側から部屋を覗き込んできた少女に答える。
「ああ、これが終わったらそうする」
そう言ってお膳を重ねて持ち上げる。ちょっと上のほうのバランスが危うい。
「無理しなくてもいいですよ。半分よこしてください」
大丈夫と言おうかと思ったが、崩してしまっては掃除のやり直しになる。
ここは素直に彼女の申し出を受けることにする。
「すまない」
「何言ってるんですか。謝らなければいけないのはこっちです。手伝わせてしまってすみません」
「構わないさ」
「しかし…」
お膳を床に下ろす。顔を上げると少女と目が合った。
真っ直ぐで綺麗な目だった。
そこには一筋の迷いも、一片の悩みもないように見えた。
実際にはそんなことはないだろう。
けれども、彼女ならどんなことがあってもその目を逸らすことなく、真っ直ぐ見つめて乗り越えていくのだろうと思う。
現に今…その瞳にちょっとだけ困ったような光を浮かべながら、その眼差しが私から逸らされることはない。
そんな彼女の強さが眩しく見えた。
「性分なんだ。片付けは嫌いじゃない。それに…」
そう言って部屋の片隅に視線を向ける。
彼女も私に倣った。
「世話になってるのはお互い様さ」
妹たちはお互いにもたれあいながら、ぐっすりと寝入っていた。
二人にかけられている毛布は、彼女が出してくれたものだ。
宴会の間中、二番目と三番目に騒がしかった二人も、こうなってはさすがにおとなしいものだった。
それでも、洩れ聞こえてきた寝言から察するに、夢の中ではまだまだ宴の真っ最中らしいが。
私たちはまた顔を見合わせた。
どちらからともなく笑いがこぼれる。
だんだん可笑しくなってきて、後は二人で大笑いした。
「あははは…はぁ。でも、やっぱりこれだけは言わせてください」
「何だ」
「ありがとうございます。おかげで助かりました」
「ん、どういたしまして」
・
・
・
私は縁側に腰掛けていた。
彼女がお茶を淹れて戻ってきて、私の隣に腰掛ける。
「粗茶ですが」
「いえいえ」
こんな決まり文句は、言葉遊びのようなもの。
二人、またくすりと笑みを交わす。
少し熱そうだったので、軽く吹いてから口に運んだ。
「…どうですか」
「…おいしい。正直日本茶は苦手だと思っていたが」
「よかった。ここにはこれしかなくて。口に合わなかったらどうしようかと」
口調からするに、よほど慎重に葉を選んだのだろう。
ほっとした気配が夜風を通して伝わってきた。
二人は並んでお茶を飲む。
交わす言葉は少なかったが、そこには何か暖かいものがあった。
「ご馳走様。おいしかった。お茶を入れるの、上手なんだな」
彼女は照れたようにして、頭を掻いた。
「ありがとうございます。でも、なかなか幽々子様のようにはいかなくて」
「そんなことは…」
「そんなことはないわ」
私の言葉をさえぎったのは、その幽々子嬢だった。
「お茶は心で淹れるもの。相手がおいしいと感じたなら、それはあなたの心が通じたから」
彼女の声には不思議な魅力があった。その声で紡がれる言葉は、洗練された音楽のように私たちをとらえるのだった。
「だから、私を引き合いに出すのは彼女に失礼よ…お邪魔だったかしら、二人とも」
そんなことはないと告げると、彼女もまた私の隣に腰を下ろした。
二人に挟まれる格好となったが、一人が「お茶を淹れなおしてきますね」と席を立ったので、
また二人になった。
時間がゆっくりと流れていく。
何か話があるのかと思ったが、別にそういう訳でもないらしい。
何となく話しかけるきっかけがつかめず、彼女を横目で見ると、彼女はぼんやりと空を眺めていた。
それに倣って空を見上げると、白く輝く月があった。
そういえば、今日はお月見だったっけと思い出す。
世界を煌々と照らす丸い月。
けれどその月は、ほんの僅か、欠けている様にも見えた。
「綺麗ね」
唐突だったこと。そして、全く飾りのない言葉だったこと。
私に向けた言葉だと悟るのに、数秒を要した。
「綺麗ですね」
呆けた頭は気の利いた言葉など紡いではくれなかった。
「綺麗だわ」
「綺麗だ」
傍から見たら、今の私たちはどう見えるのだろうか。
「綺麗よね」
「綺麗だ…けど」
「けど?」
少し体がこわばった。
「…ほんの少し、欠けて見える」
「あなたにはそう見えるの?」
やはり…私の思い違いだろうか。
「どういう意味ですか」
けれど、彼女はそれっきり何も言わず、何かを思案しているように見えた。
くしゃみが出そうで出ないようなもどかしさを感じながら、月へと視線を戻した。
月は変わらずそこに在り、丸く、綺麗だった。
しかし、どうしても、見れば見るほど欠けているように思えてしまうのだった。
どれくらいそうしていたのか。
沈黙は、やはり唐突に破られた。
「ねぇ」
「はい」
「一杯いかがかしら」
「はい?」
見ると、彼女の傍らにはお銚子が一本と杯が二つ、丸いお盆の上に載っていた。
「…どこから」
「野暮は言いっこなしよ」
そう言いながら、彼女は二人の杯に酒を注いだ。
杯に注がれた酒は、月の光を受けてきらきらと光っている。
「こうやって、月を映しながら飲むのよ」
なるほど、月見酒…ということか。
く、と杯を空ける彼女の姿を、素直に美しいと思った。
「では、いただきましょう」
見よう見まねで口に含んだ。
「!!!!!?」
「駄目よ。最後までちゃんと飲む」
口が熱い。のどが熱い。胃が熱い。熱湯のような血が全身を巡って、火を噴きそうなくらい。
げほげほとむせ返る。全身から冷や汗が出る。
差し出されたハンカチを口に当て、涙目で彼女をにらみつける。
彼女は事もなさげに「どうかしら」などとのたまった。
「ごほっ、ごほっ。どう も、こうも、ない。なんだこれは」
「お酒」
それはそうだろうが。
「そういう意味ではなく…」
「月が欠けて見えるのは」
また、私の言葉はさえぎられた。
彼女は私を見て続ける。
「月が欠けて見えるのは、あなたの心に隙間があるから」
声は大きくも、鋭くもなかった。
けれど、私は否定の言葉を搾り出すのが精一杯だった。
「そんなことは…ない」
「そうかしら」
彼女は視線を月に向け、それっきり何も語ろうとはしなかった。
私も黙りこくったまま月を見上げた。
月は相変わらず綺麗で、丸くて
でも少しだけ欠けていた。
-2-
ずいぶんと長く見上げていたような気がする。
その間二人は互いに口を開かなかったし、あの少女もまだ戻らなかった。
その時、月を何かの影がよぎった。
ん? と久しぶりに声を出した。
「なぁ、今…」
あれ以来、初めて彼女に声をかける。
しかし、返事はなかった。
彼女はそこにいなかった。
いつの間に…
それとも、気づかないうちに寝ていた?
あまりぴんとこなかった。
それに、仮にそうだったとして彼女が私を放置するだろうか。とも思う。
あるいは、寝てしまったのはほんの僅かで、その間にちょっと席を立ったのかもしれない。
これ位なら、まだ現実味がありそうだった。
しばらくぼんやりとしていたが、結局誰もやってこなかった。
そして、一人ではかなり手持ち無沙汰である事に気づいた。
話し相手がいるわけでもなく、
家に帰るなら妹たちを起こさなければならない。
しかし、せっかくぐっすりと眠っているだろうに、それを起こすのも悪い気がした。
結局、一人月を見上げるしかなかった。
そういえば、さっきのあれは何だったんだろう。
一瞬のことだったし、もしかしなくても気のせいかもしれない。
そう考えると、何となくどうでもいいことに思えてきた。
そういえば、私も寝るという選択肢もあったな。
まずまずの案に思えた。
部屋に戻ろうと立ち上がり、それでももう一度夜空を見上げた。
やはり、特に変わった様子はなかった。
けれど、諦めて踵を返したときに、視界の端で何かが動いた。
今度は気のせいではなかった。同時に、拍子抜けもした。
わかってしまえば何ということもなく、そこにいたのは一匹の人魂だった。
興味を無くして部屋に入ろうとすると、人魂が私の前に立ちふさがった。
丁度私の目の高さくらい。
「どうかしたのか」
無駄だろうとは思いつつ声をかけたが、やはり人魂が答えることはなかった。
「悪いが今日はもう休もうと思う。用があるなら明日にしてくれ」
そう告げて、横を通り抜けようとすると、その人魂はまたも私の前に移動して止まった。
もう一度、今度は逆を抜けようとしたが、やはり私の前にやってきた。
そして、いやいやをするみたいに頭を左右に振る。
「行くな。と、言っているのか」
今度は頭を上下に振る。どうやら正解らしい。
次いで、私の周りを飛び回り始めた。
私の興味を引こうとしているかのように、くるくる、くるくると。
「わかったわかった。一体何の用だ」
それを聞いて、人魂は庭に出る。
そして、私から少し離れたところで振り向いた。
こちらが一歩近付くと、同じ距離だけ離れる。
ついてこい。ということだろうな。
受ける理由はなく、断る理由はあった。
それでも…
「行こうか」
そう言って庭に下りると、人魂は何処かに向かって進みだした。
・
・
・
ずいぶん遠くまで行く…。
白玉楼を出てすぐに、人魂は結構な速度で飛び始めた。
私もそれに従ってから、もうずいぶんと経っている。
いつも通る道とは大きく離れていて、この辺りの事はよくわからかった。
ひたすら追っていくと、いつの間にか眼下には森が広がっていた。
人魂は徐々に速度と高度を下げ、あるところで木々の間に消えた。
私はゆっくりとそれに従い、服を引っ掛けないように気をつけながら森の中に降りた。
上からは鬱蒼と茂っているように見えたが、意外とそれほどでもなく
ところどころから零れ落ちる月の光が、ぼんやりと見回せる程度には辺りを照らしていた。
人魂の姿はなかった。
けれど、ここが目的地というには、辺りに何もなかった。
しばらく待ってみても人魂は戻ってこなかったので、一人で歩き始めた。
夜の森だというのに不安はなかった。
何故か自然に足が動く。まるでこの森を知っているみたいに。
いや、実際何となく見覚えがあった。
そして、それはすぐに確信へと変わる。
「そう、ここから真っ直ぐ行って、あの木を曲がれば…」
予想通りの光景が目の前にあった。
そこだけぽっかりと空いた木々の梢。
月のスポットライトに照らされて、白く浮かび上がる一つの墓石。
よく見知った光景だった。
どこか夢見心地でその前に立つ。
間違えるはずもない。ここに名を刻んだのは私なのだから。
私の記憶と違うことが一つだけ。
今日、私はここに花を供えた。その花が無い。
かさりと背後で物音がした。
ゆっくりと振り返る。
両手に見覚えのある花束を抱えた少女がいた。
少女は昔と変わらない、懐かしい声で言った。
「ひさしぶりだね……お姉ちゃん」
-3-
未練がましいということは分かっていた。
それでも、もしかしたらという思いはあった。
冥界。死者の住む世界。もしかしたら
会えるかもしれない………。
「レイラ…なのか」
「うん」
「元気…だったか」
「うん。死んでるけど」
もしも会うことができたら。
よく、そんなことを考えていた。
言いたいことも聞きたいこともたくさんあった。
けれども、ずっと考えていた事は言葉にはならなかった。
言葉になったのは、それとは全然違うこと。
「その花は」
「うん。お姉ちゃんが供えてくれたお花、ちゃんと届いてるんだよ。いつもありがとう」
私は何を言ってるんだろう。言いたいことは他にあるのに。
言葉を交わすたびに湧き上がる懐かしさ、そして言いようのないもどかしさ。
「ずっと立ち話ってのもなんだから、家に来ない」
「家?」
「すぐそこだよ。ついてきて」
そう言うと、彼女は背を向けて歩き出した。
また置いていかれてしまうような気がして、私はあわてて後を追った。
・
・
・
彼女はトントンと軽い足取りで森を歩いていく。
それについて歩いていくと、確かにすぐに道にでた。
森の真ん中を通る一本道。飛んでいるときには気付かなかった。
周りを見回しながら、彼女に遅れないようにと気持ち早足で歩いていく。
初めて通るはずの道に、なぜか懐かしさを覚えた。
先ほどとは違って、ぼんやりとしてはっきりしない。
心の片隅に埋もれた、遠い、遠い記憶。
それを探して、いつしか自分の世界に入っていた。
「着いたよ。お姉ちゃん」
そして、不意に現実に引き戻される。
「え?」
「着いたよ。もう、大丈夫? しっかりしてよね」
「あ、ああ。すまない」
顔を上げると、そこにはよく知った洋館があった。
「これは…」
「そう。これが私の家。私たちの家」
「不思議な気分だな。こんなところで自分の家を見るというのも」
「そうだね。さあ、どうぞ」
玄関で私を待つ彼女。
二人一緒にドアをくぐった。
「懐かしいな」
「え?」
「昔…レイラが小さい頃は、よくこうやって二人でドアをくぐったなと思ってな」
「…そうだね」
よく見慣れた、けれど今とは少しだけ違う家。
毎日見ているはずの光景が、なぜかとても懐かしく思えた。
まだレイラがいた頃の家。それともちょっと違う気がした。
「お茶を淹れるから、私の部屋で待ってて……って、私の部屋覚えてる?」
「忘れるわけないだろう。だが、お茶なら私が…」
「いいから。先に行ってて」
押し切られて、部屋で待つことになった。
この部屋で一人になると、昔のいろいろなことが思い出される。
木の椅子に腰掛けて物思いにふけった。
今の家にもこの部屋はそのまま残っている。
別に片付ける必要がなかったというのも確かだが、多分それは言い訳なんだろうと気付いていた。
テーブルの上に置いた自分の腕の中に、顔を伏せた。
結局のところ、踏ん切りがつかないだけなのだ。
結局のところ、私は……
黙って座っていると気が滅入りそうだった。
椅子を立ち、使い慣れたバイオリンを手にした。
思うままに音を紡いでいく。
明るいはずの旋律が、心なしか空虚に響いた。
「ひどい…音だな……」
「そんなことないよ」
キイと小さな音を立ててドアが開き、レイラが入ってきた。
「聞いていたのか」
「うん。ごめんね」
「いいさ」
カップに注がれた紅茶が温かい湯気を上げた。
柔らかな香りがふわりと鼻をくすぐる。
二人並んで座って紅茶を飲む。
どちらもあまり言葉はなかった。
最初にカップを置いたのは彼女だった。
ポツリともらす。
「お姉ちゃんはさ…」
「ん…」
私は私で生返事を返す。
「今でも…お姉ちゃんなんだよね」
「なんだ、それ」
「ううん…ちょっといいかな」
そう言うと、足元に立てかけたバイオリンを見た。
私が頷くと、バイオリンを手にとって仔細に見回す。
「大事にしてくれてるんだね」
目を瞑って、いとおしむ様に腕の中に抱いた。
「もちろんだ」
「でも…」
目を開き、どこか遠いところを見つめる。
その視線が再びバイオリンへとへと落ちた。
少し間が空いた。
「でも、これがお姉ちゃんを縛ってる」
「なに」
「お姉ちゃんは、あの日からずっと立ち止まったまま」
紅茶の残り少なくなったカップを置く。
乾いた音が鳴った。
「そんなことはない。急にどうしたんだ」
「…今だってそう。心配させないようにって、無理してる」
彼女の口調には、珍しく責めるような響きがあった。
バイオリンに目を落としたまま、初めつぶやくように
「ずっと見てたんだよ。あっちにいる時も、こっちに来てからも…」
そして徐々に声が大きくなる。
「こんなのがあるから…こんなものが無ければ…」
「やめろ…」
「私がこんなもの作らなければっ」
「やめてくれ!」
思いのほか大きな声が出た。感情に任せた生の声。
彼女は竦むように口をつぐんだ。
「すまない…だが、そんなことを言わないでくれ」
悲しかった。自分が彼女を傷つけてしまっていることも、それをどうにもできないことも。
けれどそれ以上に、二人の絆を否定されたような気がして、悲しかった。
いや、彼女にそうさせてしまったのは自分だ。
いままで無意識に、あるいは意識的に目を逸らしてきたこと。
それに向き合わなければならない時が来たのかもしれない。
あの頃…彼女がいた頃を忘れることもできず、
いなくなってしまったことを受け止めることもできないでいる自分に。
「確かに、私は囚われているんだろうな…」
私の言葉は半分は彼女に、そしてもう半分は私自身に向けられていた。
「どうしても受け入れられなくて、忘れようとしたこともあった。
けど、そんなことできるわけなかった」
彼女は何も言わず、私の話を聞いている。
「わからないんだ…。私はどうしたらいいのか。私はどうしたいのか。自分でも」
けれど、一つだけ…。
「ただ、勘違いしないでくれ。これはレイラのせいでも、バイオリンのせいでもないんだ」
絶対に譲れないこと。
「不安だった。人間でない私が一緒にうまくやっていけるのか。
だからこれをもらったとき、本当に嬉しかった。嬉しかったんだ。」
そこで一呼吸置いた。
「だから…作らなければよかったなんて、そんな悲しいことを言わないでくれ」
長い間沈黙があって、彼女はただ一言「ごめん」とだけ言った。
最後の紅茶はすっかり冷たくなっていた。
-4-
自室に戻った私は、ぼんやりと視線をさまよわせていた。
あの後レイラは、すぐに戻るからと言って、どこかに出かけていた。
人気のない館は驚くほど静かだった。
ふと、焦点の定まらなかった視線が、あるものを中心に像を結んだ。
それは一つの、私のものとは違う古びたバイオリンだった。
何でこんなものが私の部屋に…。
手に持ってみると、不思議なほどよく手に馴染んだ。
まただ。知らないはずなのに、ひどく懐かしい気がする。
知らない…はず、なのに…。
何とはなしに裏返してみる。
別に何と言うこともない、ただの…。
隅のほうに小さく記された文字に目が留った。
『ルナサ』と幼い文字で書かれていた。
それを見た瞬間に、今まで漠然と感じていた違和感と、いわれのない懐かしさの理由に気付いた。
ここは、私が生まれる前…幻想郷に来る前の館なのだと。
懐かしさの理由は私の記憶ではなく、私の奥底に眠るレイラの記憶なのだと。
そしてそれは、今や私の記憶として鮮明になってきていた。
そう。私はここで生まれ育った。
私とレイラの共通の思い出が、私の中に渦巻いていた。
部屋を出ると、そこにはやはり幼い日の記憶があふれていた。
壁の汚れ、手すりについた傷、床のくぼみ。それら一つ一つが、何かを語りかける。
私の中に、私とは違う私が形作られていく。
幼き日の館をめぐる。
応接間。裏庭。図書室に食堂。悪戯をして叱られた使用人の部屋。
いや、あれは私のせいじゃないと思い返す。
大広間を通って、最後は……
そのドアを開けると、私がいた。
その私は私に向かって…いや、レイラに向かって微笑んだ。
少しでも彼女の不安を取り除こうと。
私は私に向かって心配そうに大丈夫かと問い、
私は笑って大丈夫と答える。
幾度もそれを繰り返して、最期に二人ぎゅっと抱きしめあって
そして、私は私に背を向けた。
何度も、何度も振り返りながら、
常緑樹の緑が美しい、見慣れたあの道を歩いていった。
視界が暗転する。
真っ暗な闇の中、私はぼんやりと考える。
そう、この後、私が生まれる…。
・
・
・
その光景は予想したものとは違った。
ドアがあった。私がいて二人の小さな妹がいて、そして大きな男の人がいた。
男の人は手を固く握って何かを祈るような表情。
二人の妹たちも同じように手を合わせている。真似をしているだけにも見える。
不意に、ドアの奥から大きな泣き声が響いた。
ドアから誰かが出てきて、男の人に何かを告げる。
男の人はほっとした表情で笑みを浮かべ、私たちに向かっていった。
みんな、新しい家族のこと、よろしくな。
私たちはそろってうなずいた。
暗転。
目の前にはドア。
手を握り締めて祈っている男の人。それと妹が一人だけ。
ドアが開いて、慌てた様子で誰かが出てくる。
早口で何かを告げると、男の人は顔面を蒼白にして詰め寄った。
助けてくれ。とか、何でもするから。などと言いながら。
暗転。
同じドア。同じように祈っている男の人。
その側には私だけ。
ドアの奥から泣き声がして、また誰かが出てくる。
男の人は顔を綻ばせて言った。
ルナサ、今日からお姉ちゃんだな。妹のこと、面倒見てやるんだぞ。
私は力強くうなずいた。
そう、私はあの時から『お姉ちゃん』になった。
それからずっと、私はお姉ちゃんだった。
じゃあ…
じゃあ、その前は……?
暗転。
ドアがあって、男の人がいた。
その側には誰もいなかった。
男の人は今までよりもずっとずっと手を固く握り締めて、一心に祈っていた。
一際大きな泣き声が響いた。
男の人はそれを聞くと、ドアを蹴破らんばかりの勢いで開けて、部屋の中に飛び込んだ。
部屋の中には、落ち着いてと言って男の人をなだめる誰かと、
ちょっと疲れた様子の、だけどとても優しそうな女の人と、
その腕の中で大きな泣き声をあげている、赤ちゃんが一人。
女の人が、男の人に話しかけた。
元気な女の子よ。と。
男の人はぐしゃぐしゃになった顔でうなずいた。
女の人がまた話しかける。
この子の名前、どうします?
顔を袖でぬぐって男の人が答えた。
ずっと考えてたんだ。男の子だったら、女の子だったらって。
ええ。それで、女の子だったら?
男の人は一つ呼吸を置いて言った。
ルナサ。はどうかな。
女の人は、それをしばらく反芻するようにしていた。
男の人は固唾を飲んで見つめている。
二人はお互い見つめあうと、大きくうなずいた。
ルナサ。いい名前だわ…。お誕生日おめでとう。ルナサ。
おめでとう、ルナサ。ようこそ私たちの世界へ。
もう一度だけ、暗転。
いつの間にか私はその部屋にいた。
あの女の人のように、ベットの中で上半身だけを起こして。
私のものではない私の記憶の中には、私の知らない私がいた。
そして、私のものではない私の記憶の中にすらない、誰かの記憶の中では、
私はただの幼い少女だった。
体をひねって、足をベットの外に出す。
素足が触れた石造りの床は、ひんやりと冷たかった。
少ししわのよったシーツをそっとなでる。
この部屋は、今見た光景と何も変わっていなかった。
私はこの部屋で生まれた。
みんなこの部屋で生まれた。
この部屋は何も変わっていない。
けれど、
私をこの世に送り出してくれた母も
少し頼りなげだけど、いつも私たちのことを見守ってくれた父も
最後まで私たちのことを心配していた妹も
今は…もういない。
何かが手に落ちた。
一滴、二滴と滴るそれは、手の甲を滑り落ちてシーツにかすかな染みを作った。
私は手を握り締める。
いけない…
零れ落ちる滴は止まらない。
こんなことじゃ…
止まらない。
こんなことじゃ………
止めようとしても、何度手でぬぐっても
あふれる滴は次から次へと…。
「だめ…私は、わたしは……」
「私は…なんだい」
背後から声をかけられた。
「私は…なあに」
ゆっくりと振り向きながら答える。
「わた…しは、お姉ちゃん……だから」
「お姉ちゃんだから?」
「だから…わたしが、みんなをまもるの。だから、わたしは、泣いちゃいけないのっ」
「そうか」
「そうなの」
私はしゃくりあげながらうなずく。
もう、声は出なかった。
「だけど」
「でもね」
「みんな、立派に成長してくれた」
「あなたが守ってくれたから、みんな元気に育ってくれた」
「「だから」」
「もう、泣いてもいいんだ」
「もう、泣いてもいいの」
私の中で張り詰めていたもの。
それが、プチンと音を立てて切れた。
何も見えなかったし、何も聞こえなかった。
自分が何を言っているのかもわからなかった。
でも、自分が泣いているんだということだけはわかった。
ある日
騒霊として、姉として生まれ
ある時
失い、それでも姉であろうとした私は
幼い日々をすごしたこの家で
初めて生を受けたこの部屋で
記憶の彼方に辛うじて、しかし、決して消えることなく残っていた両親の腕の中で
私は、ただの一人の女の子に戻った。
-5-
「もう、行っちゃうの」
そう言ったのは、両親の間に挟まれたレイラだった。
それには冗談めかして答える
「ああ。どうした、寂しいか」
けれども帰ってきた答えはまっすぐだった。
「寂しいよ…お姉ちゃんは寂しくないの」
私は少し考えてからゆっくり答えた。
「寂しいさ。けど、私には私の、みんなにはみんなの生きる場所がある」
境目はずいぶん曖昧だけどな。と付け加えると、彼女はくすくすと笑った。
両親はその様子を見ながら微笑んでいた。
「さて、と。話しているときりがないな」
「そうだね」
「行く前に一つだけ聞いてくれるか」
そう言って、私はいつものバイオリンを構えた。
葬送『愛する妹のための葬送曲』
奏でられるメロディは、多分普通の葬送曲とは違う。
悲哀に沈む旋律はなく、死者を悼むものでもない。
ただ新たな旅立ちを祝福し、幸多からんことを祈る。
あの時、彼女がいなくなった時、私はこの曲を弾けなかった。
でも、今なら弾ける気がした。
夜明けの近づいた空に、彼女に宛てた最後の曲が響いた。
その余韻はかすかに名残を惜しみながら、徐々に白み始めた闇の中に溶けて消えた。
「…ありがとう。すごく、元気になれる。もう寂しくないよ」
「そうか。よかった」
本当にお礼を言いたいのは私のほうだった。
そして、思いのほか素直にその言葉は出た。
「ありがとう。」
きょとんとして見返す彼女に言葉を継ぐ。
「もし、レイラがいなかったら、ずっと悩んだままだったと思う。
みんなを守っているつもりで、逆に守られてもいる事ってに気付かなかった。けど、もう大丈夫だ」
私の言葉を聞いて、彼女は最高の笑顔を浮かべた。
もう、心残りは何もなかった。
じゃあ、と言って発とうとすると、
待って、と、彼女が引きとめた。
「私からも、お姉ちゃんに贈り物があります。
騒送『大好きなお姉ちゃんへの応援歌』 みんな、お願いっ! 」
それを合図にして、今まで静かだった館が急に騒がしくなった。
ドアと窓が開いて、飛び出してくるたくさんの幽霊たち。
レイラが得意そうに叫ぶ。
「今日はね、みんな、いっぱい集まってくれたの!」
思い思いに鳴らされる統制も何もない音の中から、
よく知った音色が飛び出す。その音にあわせて、ばらばらだった音が少しずつまとまり
結果いっそう騒がしくなってあたりに響く。
その中心には父がいて、母がいて、成長した姿の二人の妹と、私がいた。
みんなと目が合って、お互いにうなずきあう。それだけで私たちは通じ合っていた。
輪の中にレイラが加わって、大きな声で歌った。
いつも私を元気付けてくれた声が、今この世界を満たしている。
その時、山の稜線から太陽が顔を出した。
朝日を受けた世界はよりいっそう強く光り輝き、そして次第にその輪郭を失う。
私の意識も光の中に飲み込まれ、真っ白に染まっていった。
真っ白な意識の中で、私はこんなことを考えていた。
夜が明ける。魔法が解ける。
でも、それは終わりでなく始まり。
次にどこで目覚めるのかわからないけれど、
それがどこであっても大丈夫。
それがどこであっても、私は前を見て歩いていける。
姉ではなく、一人の少女としてのルナサが非常に魅力的に映りました。
ルナサの想いも、レイラの想いも、お互いに充分に伝わったかと思います。
ご自身もあとがきで書かれているように、前半と後半の展開が唐突な気はしますが、それはそれでいい雰囲気が出ていると個人的には感じました。
姉であるという事と共に、ルナサは一人の女の子でもある。
これからは、姉でもあり、何より一人の少女でもある“ルナサ”として、前を見て歩いていって欲しいですね。
姉想いの健気なレイラも、印象的でした。