※はじめに
お読み下さり、有難う御座います。
当作品は、作品集74『Merlin Wind Orchestra』の設定を多少引き継いだ部分や描写が御座います。
しかし、一応作中で簡単な説明を入れているので未読でも問題は無いかと思われます。
それでは、どうぞ。
-----------------------------------------------------------------------------------------------------------
―――青空の下に響き渡る、管楽器の音色。
色とりどりの旋律と、躍動感溢れる指揮が織り成す、力強い演奏。
やがて演奏が終わると、観客達は惜しげもなく拍手を贈る。
それに対し、両手を振りつつ笑顔で応える指揮者―――メルラン・プリズムリバー。
心の底から楽しそうなその笑顔は、見る人々を自然と明るい気分にさせる。
そんな妹の雄姿を間近で見ていた、姉―――ルナサ・プリズムリバー。
拍手を贈りつつ、彼女は奏者達を見渡す。メルランを含め、全部で八人。どの顔も、演奏を終えた充実感と達成感に満ち溢れている。
天性の明るさを持つメルランだからこそ、これだけ多くの人の心を掴んでいるのかもしれない―――そんな事を考えたりもした。
そして今、ルナサの胸中を巡る想い。それは―――
(―――いいなぁ)
―――羨望。楽しそうだなぁ。自分もやってみたい。そんな、憧れにも似た想い。
―――これは、ちょっぴり内向的な騒霊ヴァイオリニストと、人見知りな女の子のお話。
・
・
・
・
・
・
・
・
・
「あ~、疲れたぁ~」
幻想郷のややはずれにある、プリズムリバー邸。帰宅するなり、メルランはそう言ってリビングのソファに寝転がった。
「もう、そこは私が寝るとこなんだからどいてよ~」
言いながらメルランをソファから引き剥がそうとするのは、その妹、リリカ・プリズムリバー。
寝るのが大好きな彼女は、リビングで寝る時の『指定席』をとられたのが不満らしい。
「やだ~。疲れてもう動けないよぉ」
しかし、メルランは間延びした口調で言い返しつつ、ソファにしがみ付いて離れようとしない。
業を煮やしたリリカは、ソファでうつ伏せになるメルランの背中に、同じくうつ伏せに寝転がる。
「じゃ、いいも~ん。私はメル姉さんをベッドにするから」
「こら~、お~り~ろ~」
「やだ~」
メルランは背にのっかるリリカを振り落とそうとしたが、リリカはしがみついて離れない。親亀の上に子亀状態。
帰宅して早々じゃれ合う二人を、ルナサは苦笑いで見つめていた。
「もう、さっさと自分の荷物を部屋に置いて来なさい。領土争いはそれからね」
「は~い」
のそのそと起き上がり、ソファの脇に転がしていた自分の荷物を持って廊下へ消える二人。
時刻はもう夜九時を過ぎている。三人は、メルランの楽団の演奏を観に行って(指揮者をやって)帰ってきた所だ。
―――今から一年以上前。ひょんな事から、メルランは楽器に興味を持ってくれた数人の仲間を集めて自らが指揮する楽団を結成。
身内でやるつもりだったのが、何故か有名になってしまう。そして、現在も幻想郷のあちこちから演奏依頼が舞い込むのだ。
依頼されてやる事もあれば、時にはゲリラで演奏する事もあった。
何とも破天荒だが、これは三姉妹が顕界で活動するきっかけにもなった出来事であった。
三姉妹揃っての演奏は、スケジュール調整がし易いので演奏機会はメルランの楽団より格段に多い。
妹達がいなくなって、一人リビングに残されたルナサはぼんやりと、昼間の演奏会に思いを馳せる。
(楽団、か……)
メルランがいつの間にか楽団を作り上げていたという事を知った時、心底驚いたのを覚えている。そして、その人気ぶりにも。
そして、その音色が人々を魅了していくその様を間近で見てきて、ルナサは思う。
(……ちょっと、羨ましいな)
―――羨ましい、と。騒霊として、音楽家として。たくさんの仲間と一緒に音楽を作り上げる楽しみ。それを知るメルランが羨ましかった。
(私、暗いからな……)
鬱の音色を操るだけあって、自らが明るいとは言い難いのをルナサは自分でもよく分かっている。思考が後ろ向きと言う訳では無いが、静かでちょっと内向的。
そんな自分とは違い、明るく社交的なメルランだからこそ、見ず知らずの筈であった楽団メンバーの皆と心を通わせ、あれだけ多くの人々を感動させる演奏が出来るのではないだろうか。
そうは考えたが、やはり諦めきれない思いがルナサの中で燻る。悩んだ末、彼女はある事を決意した。
(―――よし……私も……)
と、その時。部屋に戻っていたメルランとリリカが同時にリビングへ帰ってきた。
「よっしゃ!もらった~!!」
そして戻るなり、リリカが素早くソファに飛び込み、陣取る。
「あっ、ずるい!」
メルランもまた、リリカを押しのけてソファに寝転がろうとする。
「メル姉さんはさっき寝たでしょ!今度は私!」
「私は指揮者やって疲れてるんだから労わってよ~!」
「だめ~!」
「お姉ちゃんに譲ろうという気持ちはないの~?」
「そっちこそ、可愛い妹のために身を引く優しさはどこへやったのよ~」
言い合いながら、互いの体を外へ押し出そうとする二人。
少女二人が寝るにはかなり狭いソファの上で繰り広げられるドタバタ騒ぎに、ルナサの思考は完全に中断されてしまった。
(まったく、もう)
さっきまで、その明るさで人の心を掴む凄い妹だと思っていたのに、家に帰ればこれだ。
(……まあ、そこが可愛いんだけどね)
口には出さず、ルナサは再び苦笑い。それから二人を仲裁するべく二人に近付く。
プリズムリバー邸で繰り広げられる、いつもの休日夜の風景。今日もまた、一日が終わる。
・
・
・
・
・
翌朝。朝食を終えた三姉妹は思い思いの時間を過ごす。
メルランはリビングで写真の整理。大抵は知り合いに撮ってもらった物で、姉妹で写っているもの、楽団メンバーと一緒のものなど様々だ。
アルバムを積むメルランの作業を、リリカがその横で見ている。時折、写真を見ながらメルランと思い出話。
昨日の演奏を区切りに、暫くはオフ。久しぶりの休日だったので、時間が無ければ出来ないような事をするつもりらしかった。
そんな妹達に、ルナサは声を掛ける。
「ちょっと出かけてくるから、留守番お願いね。夕方には帰ると思う」
それを聞いた二人は、作りかけのアルバムから顔を上げた。
「りょ~かい。ところで、どこ行くの?」
メルランに尋ねられ一瞬返答に詰まったルナサだったが、足元に置いていたヴァイオリンケースを持ち上げながら答えた。
「え、えと。ちょっと外で練習してくるの。いい天気だし」
焦りを悟られぬよう返答したつもりであったが、どうやら妹達は特に不審がることも無かったようだ。
「お休みなのに熱心だねぇ。いってらっしゃい」
「気をつけてね~」
感心するメルランと、ひらひら手を振るリリカ。
そんな二人に見送られ、ルナサは静かに玄関のドアを開け、外へ出た。
・
・
・
・
穏やかな陽光。心地よいそよ風。それらを身に受けながら、ルナサは湖の上を飛ぶ。
湖面が陽光を反射してキラキラと眩しく、思わず目を細めた。
(たしか、こっち……)
記憶を頼りに、ルナサは『ある場所』を目指していた。
湖を越えると、やがて広い草原に出る。そして、見つけた。
草原の中で、まるでステージのように少し盛り上がった丘。
ここは楽団結成の少し前、メルランが一人でトランペットを吹いていた場所。
そして、楽団の仲間達と出会った場所であり、仲間達と何度も練習を重ねた場所。初めて、その演奏を多くの人に披露した場所。
何より、三姉妹が顕界で初めて演奏した場所でもある。
ルナサは丘に登り、その上でヴァイオリンケースを開ける。
(ここで演奏すれば、もしかしたら……)
この日、彼女がここを訪れたのはまさにその為であった。
メルランのように、沢山の人と音楽を通じて心を通わせたい。けど、性格上人に声を掛けて回るのは自信が無い。
ならば、メルランと同じ事をしてみてはどうか。
(誰かが、私の演奏を聴いてくれたら……)
そうすれば。もし誰かが彼女の演奏を聴きつけて、来てくれたら。
実際、メルランはそうやって仲間を見つけ、楽団を結成するにまで至ったのだ。自分にも、出来るかもしれない。
勿論、そのままその理由を言うのはあまりに恥ずかしかったので、妹達には内緒にしてしまった。
(……けど、メルランも最初は秘密にしてた。おあいこよね)
そしてルナサはヴァイオリンを肩に乗せ、構える。優劣を競った事は無いし、するつもりもないが、メルランに負けない演奏をする自信はある。
楽器は違えど、心に響く演奏が出来たのならそれは関係ない。
一抹の期待と不安を胸に、ルナサは軽くヴァイオリンを鳴らし、調子を確かめる。
いつも通りの、緩やかな音色。悪くない。
(誰か、聴いてくれるかしら……)
大きく深呼吸して高鳴る胸を押さえつけ、ルナサは目を閉じる。
それから弓を弦にあてがい、腕を押し込むようにしてヴァイオリンを鳴らし始める。
曲は、プリズムリバー三姉妹の定番曲『幽霊楽団 ~ Phantom Ensemble』。イントロからヴァイオリンソロだ。
奇しくも、一年前のメルランと同じ選曲。
本来ならトランペットが担当するメインフレーズも、ヴァイオリンで弾き鳴らす。普段の彼女は大抵補助的役割なだけに、この日は自然と音量も大きくなる。
サビに入ってからは本来の役割で、副旋律を普段の倍近い音量でひたすら弾いた。腕にも力が篭り、瞼を閉じる力も強くなる。
その演奏は、普段のルナサ・プリズムリバーのイメージからは想像も出来ないような、力強く、激しい演奏だった。
・
・
・
・
どれぐらい演奏していたのかも分からないくらい、ルナサは演奏に熱中していた。
ようやくサビのラスト一音をビブラートをかけつつ伸ばし、演奏を終了。
ヴァイオリンを弾いている間、ここへ来た本来の目的だとか、誰か聴いてくれてるだろうかとか、そんな事は彼女の頭の中から綺麗さっぱり消し飛んでいた。
それに気付いた時彼女は、やはり自分は音楽が好きなんだなぁ、と実感するのだ。
弦から弓を離し、一息ついてから、ルナサは目を開ける。若干の期待を込めて。
「……ま、そうよね」
けど、やっぱり誰もいない。諦めのような言葉を思わず呟いてしまう。額の汗を軽く拭い、再び彼女はヴァイオリンを構える。
(一回の演奏で誰かが聞きつけてくれるなんて思ってないし、演奏自体が楽しいから別にいいか……)
そんな事を考えつつ、次の曲を頭の中で決める。
(……『亡き王女の為のセプテット』)
曲が決定するや否や、昼間の丘に流れ始めるヴァイオリンの音色。イントロから徐々に激しくなるその演奏は、風に運ばれてどこへやら。
再び演奏に没頭していくルナサを、真昼の太陽だけが見つめてる。
この日、観客不在の彼女のソロライブは、日が暮れるまで続いた。
・
・
・
・
「ただいま」
「おかえり、お疲れ様!」
日が暮れてから帰宅したルナサを、笑顔で出迎えるメルラン。
「お腹すいたでしょ?もうちょっとでご飯出来るから待っててね」
「……ええ、ありがとう」
言いながらリビングのソファに腰掛けたルナサ。すると、メルランはその顔を覗き込みながら尋ねた。
「……姉さん、何だか元気ないよ?どうしたの?」
「……えっ?」
驚いてルナサが顔を上げると、メルランは尚も心配そうな表情で彼女の顔を覗き込んでいる。
「そ、そうかしら。私の元気が無いのはいつものことじゃない?」
確かに、一日中丘で演奏を続けたにも関わらず、誰も来てくれなかったのは少しショックではある。
管楽器と違って弦楽器は音が通り難く、屋外での演奏には向かない等の要因もあるにはあるが、それでもちょっと悲しい。
だがそれを、顔を合わせて十数秒で妹に見透かされるとは思ってもみず。ルナサは焦り、取り繕うように笑顔を向けた。
しかし、メルランは首を傾げる。何年も一緒に過ごした姉妹なのだから、些細な事でも気付くものだ。
「そうかなぁ……」
そして、姉を心配するのは妹として当然であり。メルランの疑念は消えないようだ。
予想外の彼女の鋭さに更なる焦りを覚え、とりあえずルナサはこの場を逃げる事に。
「そ、そうだ。これ置いてくるわね」
慌てて立ち上がり、ヴァイオリンケースを引っ掴んで足早に廊下へ消える。
リビングに残されたメルランは暫し首を傾げていたが、
「メル姉さ~ん!何か鍋から煙がすごいよ~!?」
台所からのリリカの大声で我に返る。
「あっ、やば!」
鍋を火にかけたままルナサを出迎えたらしい。
姉の心配はとりあえず後回しにして、メルランは大急ぎで台所へ飛び込んでいくのであった。
・
・
・
・
・
『―――あの子、最近外へ出てるって本当?』
『そうみたいです』
『そう……いきなり叱るのもアレだから、私からそれとなく言ってみるわ』
『わかりました』
・
・
・
・
・
―――翌日、正午過ぎ。
昼食後、二人で一冊の本を読んでいる妹達にルナサは声を掛ける。
「またちょっと出かけてくるわ。昨日と同じくらいには帰るから」
二人は同時に本から顔を上げた。
「頑張るねぇ、さすが姉さん。いってらっしゃい」
「暑いからバテないようにね~」
見送りの言葉をかける二人に頷いて見せ、ルナサは足元のヴァイオリンケースを持ち上げる。再び本に戻る二人。
「リリカ、ページめくるの早いよ。ちょっと待って」
「あ、ごめんごめん」
そんな妹達の会話をBGMにしつつ、ルナサは玄関のドアを静かに開けた。
・
・
・
・
迷いの無い足取りで、再び丘へ向かうルナサ。
到着した時、やはり周りには誰もいない。安心したような、残念なような微妙な気持ちを抱え、彼女はヴァイオリンを取り出す。
昨日と同じように軽く鳴らして調子を確かめ、彼女は再び辺りを見渡してみる。
丘は静かで、人の気配は無い。
(誰かが来る可能性は低い……わかってても、期待しちゃうわね)
元々その為に来ているのだが、誰も来なかった時のショックを和らげるためにも、ルナサはなるべく期待しない事にした。
ヴァイオリンを構えなおし、ルナサは目を閉じる。
(……もう一度、『幽霊楽団』でも弾こうかな)
彼女の握る弓が、弦の上を滑りだす。流れてくるメロディは『幽霊楽団』のもの。
やはりこの曲が一番好きだったし、演奏していて夢中になれる。
奏でていく内に、どんどん演奏へのめり込んでいくルナサ。
演奏がサビへ突入し、ただひたすら弾く事に夢中になる彼女には、周りの景色も、風の音も、入り込む余地が無かった。
・
・
・
・
熱中する余り、何回も演奏をループさせていたルナサだったが、ようやく区切りをつける。
イントロのラスト一音をやはりビブラートと共に伸ばす。昨日はサビで切ったのだが、気分の問題だ。
どれぐらい演奏していたのかは自分でも分からないが数分やそこらでは無かった気はする。十分かもしれないし、一時間と言われれば納得してしまいそうだ。
とにかく、それぐらい彼女は演奏に夢中だったのだ。
ヴァイオリンを下ろしながらゆっくり目を開けるルナサ。やはり気になってしまう。
が、視界には誰の姿も映らない。少し肩を落とし、彼女は辺りを軽く見渡す。
(……やっぱりね。誰もいるわけな……)
そう考えかけ、彼女の思考は突如として凍結した。その視線は一点に注がれている。
丘には数本の木が立っている。その中でも最も大きくて太い木。その影に―――
(―――誰か、いる!?)
彼女がその木へ視線を向けた時、確かに人影が見えた。
その人影は小さく、あまり背が高くないルナサよりも明らかに低いとわかる。
目が合ったかと思うと、素早く木陰に引っ込んでしまったが、確かに誰かがいる。そして、
(私の演奏を、聴いてくれてた……)
それは間違いない。
と、その時。恐る恐る、といった体で再び人影が木陰から顔を覗かせた。
しかし、ルナサがまだ視線をそちらへ向けていると分かると、やはり素早く引っ込んでしまった。
一瞬見えたその瞳の色は、ルビーのような赤色。髪の色は黄色か、金色か―――太陽光の反射もあり、そこまではよく見えなかった。
だが、いくつかの事はわかる。ショートヘアで、髪を片方だけ括っていた。
(多分、女の子かしら)
帽子のようなものを被っていた気もするが、髪型がはっきり見えたのでルナサはそう判断した。
それから、注意深く観察を続けていたルナサは、ある事に気付く。
(あれ?何か木からはみ出してる……何かしら。羽?)
小さくてよく見えないが、綺麗な色をした羽のようなものが木から少しはみ出ている。木が太いとは言え、そこまでは隠し切れないようだ。
どうやら、人間ではないらしい。妖怪の類だろうか。
(……初めて、誰かが来てくれた。私の演奏を聴いて……)
だが、そんなのはルナサにとっては些細な問題だ。それよりも、自らのソロ演奏が、名も知らぬ少女を惹きつける事が出来た。それがたまらなく嬉しい。
彼女は例の木から視線を外す。すると、視界の端で、再びその少女が顔を覗かせるのが分かった。
自分と同じで、引っ込み思案なのだろうか。恐らく再び顔を向ければ、また引っ込んでしまうだろう。
だからルナサはあえてそれには反応せず、再びヴァイオリンを構えた。
(……初めまして、お嬢さん。今日は貴方のためだけに、ルナサ・プリズムリバーソロライブをお届けするわ)
心の中で語りかけ、彼女はヴァイオリンを奏で始める。その様子を、一心不乱に見つめ続ける少女。
こうして、たった一人の為のソロライブは、やはり夕暮れまで続くのであった。
・
・
・
・
―――日が暮れ、ルナサは帰宅した。
「ただいま」
「おかえり~。ちゃんと言った通りの時間に帰ってきたね、えらいぞ~」
出迎えたリリカは何故かえっへんと胸を張ってお姉さんぶるので、ルナサは思わず吹き出してしまう。
「もう、何いばってるのよ」
「いいじゃん、たまにはさ。妹も時にはお姉さんになりたいのさ」
そんな会話を交わしながらリビングへ入った二人。と、不意にリリカがその顔を覗き込む。
「……?どうしたの?」
不審に思ったルナサが尋ねると、リリカは笑って言った。
「ルナ姉さん、何かいいことあった?」
「へ?」
思いも寄らぬ質問に思わず聞き返すルナサだったが、リリカは笑顔を崩さずに続ける。
「だって、何か嬉しそうだよ?」
ルナサは姉妹の中ではあまり感情を表に出さないタイプだが、昨日のメルラン同様、やはり妹には分かるものなのだろう。
言われて、すぐにルナサの脳裏には昼間の光景が蘇る。
何曲も続けてヴァイオリンを弾くルナサと、じっとその様子を見つめる、名も知らぬ少女。
拍手も何も無いけれど、自分の演奏を楽しんで聴いてくれている事は分かる。だからこそ、演奏にも熱が入る。
だが、日が暮れかけ、ルナサがヴァイオリンを片付け始めたその時、
―――パチパチパチ……
小さく手を叩く音。拍手だと気付いたルナサは、木の方を見やる。
すると、少女は恥ずかしそうに顔を隠したかと思うと、慌てて背を向け立ち去る所だった。
赤い服のその少女は、逃げるように去ってしまった。だが、ルナサの胸は感謝で一杯だった。また聴きに来て欲しい。
あの子の為なら、何曲だって弾いてみせる。
一瞬の内にそれだけの光景が脳裏を駆け巡り、ルナサは少しの間硬直。それから、リリカがニヤニヤと笑ってるのを見て、顔を赤らめる。
「もう、からかわないで」
「またまた~。顔赤いよ~?」
尚もルナサに付き纏うリリカだったが、
「ちょっとリリカ~!?フライパンからなんか凄い煙が……げほっ、げほっ!」
台所からのメルランの大声を聞いて、慌てて台所へすっ飛んでいく。また火にかけっぱなしでのお出迎えだったようだ。
「うわ、焦げそ……げほっ!」
「もう、何やってるのよ~……ちょっ、黒っ!」
台所から聞こえてくる大騒ぎに、ルナサは苦笑いして肩を竦める。
(……どうやら、今日のおかずも軽く焦げてそうね)
それからヴァイオリンケースを戻す為に自室へ。
廊下を歩くルナサの脳裏には、再びあの少女の顔が浮かぶ。可愛い女の子だった。
最後にしてくれた拍手の音は、きっと一生忘れられない。
思わず天井を仰ぎ、ルナサはぽつりと呟いた。
「……また、聴きに来てくれるかしら……」
・
・
・
・
その翌日も、ルナサは丘へ向かう。
「またちょっと出かけるわね」
リビングで昨日と同じ本を二人で読む妹達に声を掛けると、
「姉さん、何だか楽しそうだね。いってらっしゃい」
メルランにそう言われて若干驚く。先日から、メルランは妙に鋭い。
到着したのは午後二時くらいだっただろうか。木陰を見やるが、少女の姿は無い。
一抹の寂しさを覚えつつも、ルナサはヴァイオリンの調子を確かめ、構える。
適当に曲を決め、彼女はヴァイオリンを弾き始めた。
初夏の少し強い日差しと、流れるヴァイオリンの旋律。
この時ルナサは、自分が普段の演奏よりも遥かに強い力でヴァイオリンを弾いている事に気付く。
理由はすぐに分かった。
―――この演奏が、あの子の耳に届いて欲しい。気付いて欲しい。またここへ来て、私の演奏を聴いて欲しい。
その想いが、彼女のヴァイオリンの音色をより一層大きく響かせる。
ただひたすら、強く、強く。例えどんなに離れていようとも、伝えて欲しい。
激しくも美しい、そのルナサの演奏は、丘に吹く風の音と溶け合って流れていく。
・
・
・
最初の曲を弾き終え、ルナサはふぅ、と一息つく。
そして、木の方を見やると―――
(―――いた!)
赤い服の少女は、今日もそこにいた。顔は隠れているが、羽がしっかり見えている。
顔をこちらへ覗かせるか、覗かせまいかと悩んでいるのか、顔の端がちらちら。
慌ててルナサは顔を別方向へ向ける。何故かは分からないが、気付いてない振りをした方が良いような気がしたのだ。
そのままヴァイオリンを再び構え、次の曲を決める。そんな彼女の視界の端で、少女が顔を覗かせるのが見えた。
本当は今すぐにでも少女の下へ駆け寄り、その小さな手を握り締めたい。一言でいいから『ありがとう』と言いたい。
だが、そんな事をすればきっと彼女は驚くだろう。今はただ、演奏を聴いてもらえるだけで満足だった。
程無くして、ルナサは演奏を始めた。滑らかに弦の上を弓が滑る度、少女の耳へ届けられるヴァイオリンの音色。
少女は一心不乱に耳を傾ける。顔を覗かせ、隠れていた事も忘れてしまうくらいにルナサの演奏する姿を見つめている。
ヴァイオリンの旋律が溢れる丘の上には、鬱の音を操るヴァイオリニストと、人見知りの少女の二人だけ。
日が暮れるまで、曲の合間の僅かな時間を除き、ヴァイオリンの音が途切れる事は無かった。
・
・
・
・
『また外へ出てたみたいね、あの子』
『そのようですね……』
『自由に歩き回っていいのはこの館の中だけって言ったのに……ま、解らなくは無いけど』
『いかがされますか?』
『……もうちょっと様子を見るわ』
・
・
・
・
翌日も、その翌日も、ルナサは丘へ足を運んだ。
幸いにもここ数日は天候も良く、演奏に支障が出るような事は無かった。
当の少女はというと、やはり欠かさずにルナサの演奏を聴きに来た。
最初から待っているというような事は無かったが、ルナサが演奏をしているといつの間にか木陰にいて、やはり恥ずかしそうにこちらの様子を伺っていた。
そして、当たり前のようにルナサは演奏をし、少女はそれに耳を傾ける。二人きりだが、そこには確かに”奏者”と”観客”の関係があった。
ステージでの公演ならば、一曲演奏し終える度に拍手や歓声が起こるのだが、このソロライブではそのようなレスポンスは帰って来ない。
だが、去り際に少女が必ず残していくささやかな拍手は、ルナサの中では万雷の拍手に等しい輝きを持っていた。
そのささやかな拍手と、目には見えないし耳にも聞こえないが、少女の心に”何か”を残す為に、ルナサは毎日丘へ通った。
そんな日々が数日続き、二人が出会ってから一週間以上経ったある日の事。
(……あれから毎日、あの子は来てくれている……)
ヴァイオリンを弾きながらルナサは思う。
初めて会ったその日から、一日も欠かす事無く彼女の演奏を聴きに丘までやって来る少女。
互いに何らかのアクションを起こす事も無いが、これではっきりした事がある。
それは、少女は間違い無く、ルナサの演奏を楽しみにして来てくれているという事。
偶然聞きつけての興味本位だけなら、最初の日以降は来てくれないだろう。だが、あれから毎日だ。
名も知らぬ少女に演奏を聴かせて家に帰る度に、家でルナサが笑顔を見せる時間が増えた。
本人に自覚は無かったが、夕食の席でメルランに、
『最近、姉さんがよく笑うようになって嬉しいよ』
と言われて気付く。鏡を見れば、自然と笑顔になっている自分の顔が映っている。
毎日演奏を聴きに来てくれているという嬉しさと、明日も来てくれるだろうかという期待。
まるで、メルランと音色を交換してしまったかのようだ。
そんな日々を送っていたルナサ。彼女は忍耐強く、自制が効く方だと自分で思っていたし、事実そうであった。
―――だがこの日、ついに彼女の我慢は限界を超える。
曲を演奏し終えたルナサは、少女が隠れる木の方へ顔を向ける。
それに気付き、少女は咄嗟に木の後ろへ隠れた。今までなら、ルナサはそのまま気付かぬ振りをして演奏を続けた。
だがこの日は違った。彼女はおもむろに、少女が隠れる木の方へ向かって歩き出した。
それに気付いた少女は慌てるが、逃げ出そうとはせず木の後ろに隠れたままだ。というよりは、緊張で逃げることを忘れているのかも知れない。
とうとう木のまん前まで来たルナサは、暫し目の前に立つ木を見つめていた。まるで、その向こう側を見透かそうとするように。
だが、生憎騒霊には透視能力は備わっていなかった。
ルナサが耳を澄ませると、少女のものらしき荒い息遣いが聞こえてきた。緊張しているのだろうか。
彼女は一つ大きく深呼吸すると、意を決して木の裏側へ足を踏み入れた。
・
・
・
「―――!!!!」
初めて、少女と目が合った。赤い瞳が、緊張と驚きで揺れている。
間近で見てみると、ルナサが遠目で見た印象は正しかった事が分かる。
服は上下とも赤を基調としており、帽子からは片方だけ括った金髪が覗いている。
その背中にはやはり、色とりどりでまるで飾り物のように綺麗な羽。
互いに目を逸らさず、無言の時が流れる。
ルナサは何か言おうと思った。だが、言葉が喉で引っかかって出てこない。声まで引っ込み思案にならなくてもいいのに。
初めまして、と挨拶するべきか。名乗るべきか。あなたのお名前は?と尋ねるべきか。いつも来てくれてありがとう、とお礼を言うべきか。
色々な情報や考えが頭の中で絡み合う中、何故かルナサは唐突に、メルランが楽団を作った話を思い出す。
反射的に、口が開いた。
「―――あなたも、やってみる?」
そう言って、ルナサは手にしていたヴァイオリンを少女へ差し出した。
挨拶も何もかもすっ飛ばし、何故楽器のお誘いなのかとルナサは自分でも驚いたが、もっと驚いたのは少女の方だ。
初めて言葉をかけられた事に加えてヴァイオリンを差し出され、少女は驚きの余り一瞬身を竦ませた。
そして、ルナサの顔と差し出されたヴァイオリンを交互に見ていたが、
「あ……あの、その……えっと……」
しどろもどろに呟いたかと思うと、みるみる顔が赤くなり、俯いてしまう。今までの様子から見ても、相当な人見知りらしい。
ルナサは無理に何かを言う事はせず、そんな少女の様子を見つめている。というより、こちらも緊張して次の言葉が出ない。
少女は顔を真っ赤にして暫くもじもじとしていたが、
「―――っ!」
とうとう恥ずかしさが臨界点を超えたらしく、両手で顔を隠すようにして、ルナサに背を向けて走り出した。
「あ、ちょっと!」
ルナサは慌てて呼び止めようとしたが、少女はそのまま走り去ろうとした。
だが、木陰から出て暫く走った後、『あちっ!』と小さく悲鳴を上げたかと思うと、慌てて日傘を取り出して差し、低空飛行で飛び去ってしまった。
「……行っちゃった……」
残されたルナサは暫し呆然としていたが、少女が去った事によってこの場に留まる理由が無くなったので、ヴァイオリンを片付け始めた。
演奏時間は普段の半分程度だったが、彼女の胸は充実感で一杯だった。
まともな会話は出来なかったとは言え、ずっと見に来てくれた少女に初めて声を掛けることが出来たのだ。
明日また来てくれたら、ちゃんと挨拶をしよう。そして、言うのだ。
―――『いつも私の演奏を聴きに来てくれてありがとう』と。
・
・
・
・
『―――また、か。昨日もさりげなく言ったのに』
『最近は毎日、外へ出ていらっしゃるご様子です』
『そうなの……可哀想だけど、ちょっとお仕置きする必要があるかしら』
『どのような?』
『―――また暫くの間、あの子にはもう一度、地下室に篭ってもらうわ。外は色々刺激が強いもの、まだあの子には早い』
『かしこまりました』
・
・
・
・
―――翌日、昼過ぎ。ルナサは今日も、意気揚々と丘へ向かう。
行く道すがら、ルナサは早くも少女との会話の事で頭が一杯だった。
(会えたら、何を話そう?まずは自己紹介とお礼。それに、あの子の名前も……)
珍しく鼻歌など歌いつつ丘に辿り着き、半ばルーティンワークと化したヴァイオリンの準備。
気合十分、といった体でルナサは演奏を始めた。丘には誰もいないが、彼女は気にしない。もうすぐ、観客はやって来てくれるのだから。
ここ最近のソロライブのお陰で、彼女はすっかりヴァイオリンの音量を大きくする事が出来るようになった。
これなら姉妹で演奏する時も、トランペットの音色に掻き消されてしまう事も無いだろう。
一曲目の演奏を終え、ルナサは木陰を見やる。もしかしたら、もういるかも知れない。
だが、木陰に人の姿は無かった。それどころか、丘全体に人の気配は無い。
そんなにすぐには来ないかと思い、ルナサは次の曲の演奏を始める。調弦がしっかりなされたヴァイオリンの音色には、歪みも淀みも無い。
二曲目の演奏も終わったが、少女の姿はまだ見えない。
短い曲だからあまり時間が経過していなかったのだろうか?
そう考えたルナサは、三曲目は少し長い曲をセレクトした。そして再び一心不乱に演奏に戻る。
あの子はいつ来るだろうか、という期待に胸をときめかせながら。
―――しかしこの日、少女はついに姿を現さなかった。
(……今日は何か用事であったのかしら。明日はきっと来てくれるわよね)
片付けをするルナサはそう思い、あまり深くは考えなかった。こんな日もあるだろう。
その翌日も、彼女は丘で演奏をした。
一音一音に心を込め、大観衆の前で演奏するかのような気持ちでルナサはヴァイオリンを弾く。
あの少女に聴かせる演奏が、自らが出せる最高の音色であって欲しかった。
今日は来てくれるだろう、と思いながらひたすらに孤独なソロライブを続けるルナサ。
―――だが、この日も少女は来なかった。
(……曲が気に入らなかったのかしら?)
ここまで毎日来てくれていたのに、二日連続で姿を現さない少女に、ルナサは若干の焦りのようなものを感じ始めていた。
この日演奏した曲が、少女の趣味に合わなかったのかも知れない。だから、途中で帰ってしまったのだろうか。
そう考えたルナサは、さらに翌日の演奏では、昨日と曲目をガラリと変えた。
普段はあまり演奏しないような曲も引っ張り出し、ルナサはヴァイオリンを奏でる。
思いはただ一つ―――
(―――あの子に会いたい―――)
―――しかし、この日も少女はその姿を見せない。
(……どうして……?)
言いようのない焦りを覚え、ルナサは戸惑った。
流石に三日連続で来ないとなると、彼女の心にも負のイメージが浮かび始める。
(飽きちゃったのかしら、私の演奏に……)
帰路に着きながらそんな考えが脳裏を過ぎり、ルナサは思わずかぶりを振って否定した。
(毎日来てくれたんだもの。きっと、きっと明日こそは……)
無理矢理そう自分自身を説得し、翌日も、その翌日も、そのまた翌日も―――ルナサは丘へ通い、演奏を続けた。
ヴァイオリンを変えてみたり、曲目をもっと変えてみたり、彼女なりに様々な努力をしてみた。
帰ってからの時間は全て調弦に費やし、ただひたすらに、もう一度少女が現れるその時を待った。
再び現れた少女を最高の音色で迎え、何でもいい、今度こそ話がしたい。
―――だがとうとう、あの少女がルナサの前に姿を現す事は、無かった。
・
・
・
・
幻想郷のややはずれにある、プリズムリバー邸。
夜、そのリビングでルナサはソファに座り、視線を宙に彷徨わせながら、嘆息。
(私、嫌われたのかしら……)
少女が姿を見せなくなって、六日。本来の彼女の音色である”鬱”そのもののような思考が、ルナサの頭を支配していた。
あれだけ毎日来てくれていた少女が、一切その姿を見せなくなった。そのショックは大きく、今のルナサには到底好意的な解釈など出来はしない。
嫌われたとして、何が原因なのだろう。毎日ヴァイオリンしか弾かなかった事か。曲目か。いきなり声を掛け、驚かせた事か。
いや、それよりも―――
(あの子が私の演奏を楽しんでくれてたなんて保障はどこにもない―――)
根本の部分で、自分は勘違いをしていたのだろうか。単なる思い込みに過ぎなかったのか。
ひょっとしたら、あの少女は誰かに自分の演奏を聴いて欲しかった己が作り出した幻覚だったのか、なんて事まで浮かんでくる。
考えても答えは見つからない。見つからないから、余計に深みへはまっていく。
泥沼のようなマイナス思考に溺れかけたルナサ。
しかし―――
「姉さん……姉さん!」
頭の上から突如降りかかった聞き慣れた声により、ルナサは泥沼から引き上げられた。
慌てて顔を上げると、心配そうな表情のメルラン。以前もこんなシチュエーションがあったかも知れない。
「どうしたの?なんか凄い顔してたけど大丈夫?」
「……え?」
思わず聞き返すルナサの肩に、メルランはそっと手を置く。
「ここ最近、また姉さんの顔が暗いから……何かあったの?私、心配だよ」
傍から見ても、明らかに暗い表情をしていたらしい。あれだけのマイナス思考に漬かっていたのだから無理も無いだろうが。
その気遣いが嬉しくて、ルナサは肩に乗せられた手に自らの手をそっと重ねる。
「……ありがとう。でも、大した事じゃないから心配しないで」
「でも……」
「いいから。私は大丈夫。それより、何か用があったんじゃないの?」
まだこの事は自らの胸中にしまい込んでおきたくて。尚も心配するメルランを制し、ルナサは話題を変えようとした。精一杯の明るい表情を作って。
すると他に用があるのは本当だったらしく、メルランは思い出したような顔。
「あ、そうそう」
そのまま彼女は、壁にかけられたカレンダーを指差した。
「ほら、五日後にライブの予定が入ってるよ。外で練習するのもいいけど、そろそろ本格的に合わせなきゃかなって」
合わせるというのは無論セッションの事であり。
ルナサもライブ予定を思い出す。ここ最近はあの少女の事で頭が一杯で、すっかり忘れていた。
カレンダーを見直し、ルナサも頷く。
「……そうね。明日からはちゃんと練習しましょうか」
「了解~。……それと、姉さん」
「何?」
去り際に、メルランは再びルナサを向いた。
「嫌な事があったなら、私でもリリカでもいいから話してね。姉さんが暗い顔ばっかしてるの、見てると悲しくなるの」
最後まで気遣う事を忘れない優しさに、傷心のルナサは不覚にも泣きそうになった。が、妹の手前、それだけは何とか堪える。
「……ありがとう」
それだけ返し、ルナサは天井を見上げる。それから、再び嘆息。
これから本番までは毎日練習だろう。当然、丘へソロライブに行く暇は無い。
ライブが終わった後に行っても、数日の空きがあった後だ。また少女が来てくれる可能性は、限りなく低い。
ルナサが目を閉じると、顔を赤らめたあの少女の顔が浮かんでくる。
もう会えないかもしれないその可愛らしい少女の姿を、ルナサは忘れぬよう胸に刻もうとする。
(―――メルランのようには、いかないわね……)
最後にそれだけ考え、ルナサはソファに座ったまま、意識を手放した。
・
・
・
・
『あの子の様子はどう?』
『それが……こう申して良いのかは分からないのですが……少し、変なんです』
『どういうこと?』
『あれから、毎日泣いておられます』
『それは聞いたわ』
『ですが、何か呟いておられるのを聞いて……』
『何て?』
『―――”お姉ちゃん”と、泣きながら』
『”お姉ちゃん”?私の事は、”お姉様”って呼ぶのに?』
『はい、だから不思議で……』
『―――もしかしてあの子、誰かに会っていたのかしら?』
・
・
・
・
―――ライブ前日を迎えた。
この数日間、来る本番に向けてひたすら最後の練習を重ねた三姉妹。
中でも、ルナサの気合の入りようは半端ではなかった。
「ね、姉さん……ちょっと休憩しない?」
息を切らせながらのメルランの発言は、六曲連続で通し練習をした後のものだ。
普段は一曲か二曲くらい毎に楽器の調整や譜面確認等を兼ねた軽い休憩を挟むのだが、今回の練習はルナサが殆ど休もうとせず、連続でのセッションとなった。
そんな中でのメルランの発言を聞き、疲れの色がありありと見える妹の顔を見てルナサは頷いた。
「そうね、少し休みましょう」
「やったー、疲れた~」
許しを得るなり、練習用の部屋の隅に置かれた椅子へ体を投げ出すように腰を下ろすリリカ。
メルランもそれに倣ったが、休むと言った当の本人であるルナサはそうせず、再びヴァイオリンを一人で弾き始める。
「休まないの?」
リリカの問いに、顔だけそちらへ向けて彼女は答えた。
「私は大丈夫だから……」
その間もヴァイオリンの音色は止まない。
それを見たメルランは、ため息と共にぽつりと言った。
「すっごい気合入ってるね、姉さん……」
傍から見れば、そう見えるだろう。
ルナサは休まなかった―――否、休めなかった。
ひたすらヴァイオリンを弾くことに集中する彼女は、雑念が混じる事を恐れていた。
少しでも他の事を考えようものなら、すぐにあの日々を思い出すから。再びあの子に会いたくなってしまうから。
下手な期待を持って引きずるくらいなら、いっそ忘れたい。
だけど、名も知らぬ少女の為だけに演奏を披露したあの日々は、既にルナサの中で消せない程の輝きを纏っている。きっと、一生忘れえぬ思い出。
だったら、思い出せないくらいに何かに没頭すればいい。明日に控えたライブの練習は、それにうってつけだった。
そんな姉の心模様など知る由も無く、妹達は練習熱心だと関心するばかり。
「ところで、ライブ会場はどこなんだっけ?」
「えっと……ほら、あそこ。湖の近くの、紅いお屋敷の前。特設ステージ作ってくれるらしくて、結構人集まりそうだよ」
そんな二人の会話も、今のルナサの耳には届きそうにない。
・
・
・
・
―――あっという間に、ライブ当日。
ライブは夜七時から。夕暮れ時になって家を出た三人は、湖の向こうを目指す。
湖の傍にある森の中。今回の会場―――紅魔館が見えた。
館の前には既にステージが組まれており、早くも人妖問わない多くの観客が詰め掛けている。
ライブ開始までまだ一時間くらいあるのだがこの集まりよう。三姉妹の人気を顕著に表している。
「人多いなぁ」
舞台裏で緊張気味のリリカと、
「いいじゃん、多いほうが盛り上がるって」
あくまで笑顔のメルラン。
そんな二人の脇で、ルナサは少し遠くの方をぼんやり眺めている。
視線の先には、湖から少し離れた広い草原が遠くに見える。
(……あの辺よね、丘……)
どうしても気になってしまう。確かに、ルナサが少女に演奏を聴かせていたあの丘は紅魔館から割と近い。
今駆けつければあの少女がいるのだろうか、等と考えてしまってから、ルナサは慌てて視線を戻す。
(……今はこっちに集中しなくちゃ)
気分を紛らわす目的も含めて、ルナサはヴァイオリンを取り出し、調弦を始める。
弦を繰るその指先は、少し震えていた。
・
・
・
やがて、太陽が西の空に大分沈みかけた頃。
「そろそろじゃない?」
リリカが腕時計を見て言う。短針はそろそろ7を指そうとしていた。
「よっしゃ、行きますか~!」
気合十分なメルランの号令で、三姉妹はステージ袖から勢いよく飛び出した。
その瞬間、待ってましたとばかりに大歓声が会場を包み込む。
飛び交う声援の中、リリカは大きく手を振ってそれに応える。
メルランは早くもテンションが上がってきたらしく、ピョンピョンと飛び跳ねながら手を振る。
その横で、ルナサは控えめに手を振って歓声に応えながら、観客席を素早く見渡していた。
(……いない、か。期待しない事にしてたのにね)
あの少女はいない。殆ど諦めのような気持ちを抱えかけたルナサだったが、すぐに気持ちを切り替える。
観客を楽しませる立場の者が、暗い気分になってはいけない。今はとにかくライブを楽しみ、盛り上げるのみだ。
吹っ切れた表情のルナサを見て、メルラン、リリカも頷き一つ、楽器を構える。
観客が静かになったのを見て、リリカの指が動き始めた。
―――曲は、『幽霊楽団 ~ Phantom Ensemble』。
・
・
・
・
・
演奏が始まった、まさにその頃。
紅魔館内の、地下室への扉前廊下。
「咲夜、演奏始まっちゃったわよ?早く行きましょ」
館の主、レミリア・スカーレットはそう言って、従者である十六夜咲夜を急かす。
咲夜は地下室の様子を見に行って、今戻った所だった。
紅魔館の住人達は皆この日のライブを楽しみにしていたが、中でもレミリアは特に興奮している様子だ。
「はい、少々お待ちを」
答えながら咲夜は地下室へ通じる大きな扉を閉めると、古びた南京錠を取り出した。普段はこれでしっかりと施錠している。
彼女は扉に錠を引っ掛け、施錠しようとする。しかし、
「あ、あれ……?」
錠前そのものが古いせいか、中々上手くいかない。よく見ればその錠前は所々錆びており、そろそろ取り替える必要性がありそうだ。
頑固にも施錠させようとしない南京錠に悪戦苦闘する咲夜だったが、そんな彼女の背中に声が掛かる。
「さ~く~や~。置いてくわよ~」
見れば、レミリアは早くも一人で玄関へ向かっている。待ち切れないといった体で腕を振り、咲夜を呼ぶ。
「わ、わかりました!」
主人を待たせる訳にはいかないと、咲夜は施錠を諦めた。古びた南京錠を扉から外し、ポケットへ入れる。
(まあ、大丈夫よね)
楽観的に自らを納得させ、咲夜はレミリアを追って玄関へと向かった。
・
・
・
・
・
―――少女は、泣いていた。
光の差さない薄暗い地下室で、ひたすら泣いていた。
―――これからは、館の中なら、自由に歩き回っていい。
今まで長い事生きてきて、そんな許しを得たのは初めてだった。
だから、少し調子に乗ってしまった。
館を歩き回るのも飽きてきて、他の住民達の目を盗み、鍵の開いた玄関から日傘を片手に飛び出したあの日。
ずっとずっと、薄暗い地下で生活してきたその少女にとって、外の世界は何もかもが輝いて見えた。
大きな大きな水溜りを飛び越える事に躍起になっていた少女の耳に突如聞こえてきた、それは美しい”音”。
何かの楽器の音だろうか、でも何かは分からない。
吸い寄せられるように向かった先の丘の上。そこで見た光景に、少女は息を呑む。
こちらにも一人の少女。大人びた雰囲気の彼女は、ヴァイオリンを弾いていた。
誰かが楽器を演奏する姿など見たこと無かったが、ヴァイオリンを弾く彼女の姿は本当に美しくて。
思わず穴が開くほど彼女の横顔を見つめていた少女は、近くにあった太い木の陰からその様子を伺った。
館の住民以外の者と接する機会が滅多に無かった少女は、すっかり人見知りになっていた。
演奏が一旦終了し、ヴァイオリニストがこっちを向いた。少女は慌てて隠れる。恥ずかしかった。
暫くすると、またヴァイオリンの音色が聞こえてくる。すると少女は再び顔を出し、その光景を眺める。演奏に耳を傾ける。
ヴァイオリン一挺だけなのに、その演奏は少女の心を奪い去るのに十分過ぎるほどに魅力的であった。
時間も忘れて演奏を楽しむ内、日が暮れてきた。そろそろ帰らないと、外へ出た事に気付かれてしまうかもしれない。
丁度演奏も終わり、あのヴァイオリニストも帰ろうとしている。
少女は、黙って帰りたくはなかった。恥ずかしいけれど、素晴らしい演奏を聴かせてくれた事に対する感謝を、何とかして伝えたかった。
だから、手を叩いた。拍手と言うにもささやか過ぎるかもしれないが、これが少女の精一杯だった。
気付かれそうになったので、慌てて逃げた。本当はきちんと会ってみたい。けど、やっぱり恥ずかしい。
それからは毎日、こっそり館を抜け出して丘へ向かった少女。
まるで待っていてくれたかのように、今日もヴァイオリニストはそこにいて、演奏をしている。
時折こっちを向くので、慌てて木陰へ隠れる。暫くしたら顔を出し、また彼女の横顔を見つめる。その繰り返し。
同じ楽器なのに、何故か全く飽きの来ないその演奏。何だか自分の為にライブをしてくれているような気がして、嬉しくなった。
演奏を聴きに―――そして、彼女に会う為に、毎日丘へ通っていた、そんなある日。
いつものように演奏していた曲の合間、突然ヴァイオリニストがこちらへ向かってくるのが見えた。
明らかに自分に気付いていると分かった少女は途端に恥ずかしさがこみ上げて、木陰に隠れる。
そのまま見逃して欲しいと思う傍ら、何か話が出来るかも、という淡い期待。
そして、彼女が目の前に現れた。間近で見ると、まずはその美しさに圧倒されそうになる。
彼女は、ヴァイオリンを差し出した。
『あなたも、やってみる?』
とても嬉しい誘いだったが、今の少女にはそれに答えるどころか、まともに言葉を発する事もままならない。
目と目が合っただけで顔が熱くなり、頭がくらくらした。恥ずかしい。逃げ出したい。けど、こんなチャンスはもう無いかもしれない。
しかし、恥ずかしさが勝った少女は走ってその場から逃げ出してしまった。
日傘を差すことも忘れて走り、熱さを感じて慌てて傘を差して、飛ぶ。
帰る道すがら、少女は恥ずかしさで逃げてしまった自分を責めた。せっかく声をかけてくれたのに。
明日も行こう。今度は勇気を出して、自分から声をかけてみよう。今日の事を謝るのはもちろん、あの人の名前も聞きたい。
来る翌日に全てを託す事にして、少女は家へ帰った。明日が楽しみだった。
―――しかし。館へ帰った少女は、有無を言わさずに地下室へ戻されてしまった。
館を抜け出してこっそり外へ出ていた事など、とっくにバレていたのだ。
罰として暫くそこにいなさい、と言われた少女は少しの間、呆然と立ち尽くしていた。自分の身に起きた事が信じられなかった。
しかし、扉の外から冷たい鍵の音が聞こえた瞬間、少女の中で何かが切れた気がした。
初めて、素敵な音楽を聴かせてくれた。音を楽しむ喜びを教えてくれた。そして、言いつけを破ってまで、会いたい人が出来た。
今までは遠くから眺めることしか出来なかった。でも、今日、ついに声をかけてもらえた。
今日は恥ずかしくて逃げてしまったけど、明日には自分から声をかけよう。そして、色々な事を話したい。そう思っていた。
けど、もう会えない。扉一枚隔てた向こうへ行く事も許されず、再び薄暗い地下で暮らさねばならない。
その事実を認識した瞬間、少女は堰を切ったように泣き出した。ひたすら涙を流し、声を上げた。慟哭した。
どんなに泣こうが状況は変わらないと分かっていても、泣かずにはいられなかった。
もう声を上げる元気すら無くなっても、涙は止まらなかった。このままでは自身が枯れてしまうかもしれない。それでもいい。
けど、枯れてしまう前にもう一度、あの人に会いたい。あのヴァイオリンの音色が聴きたい。
どれくらい泣いていただろう。一週間くらいか。或いはもっとか。
少し泣き疲れていた少女は、外が何だか騒がしい事に気付いた。
そういえば、館の皆が何か話していたような気がする。今日、館の外で何かあるらしい。
気になった少女は涙を拭くと、階段を上がる。薄暗い部屋に響く、固い足音。
階段を上がると大きな扉がある。この向こうは、館の廊下だ。
と、扉の向こうから声が聞こえてきた。
「さ~く~や~。置いてくわよ~」
「わ、わかりました!」
聞き慣れた声だ。やがて、二人分の足音が遠ざかっていく。
足音が聞こえなくなった事を確認し、少女は扉に近付く。
開かないとは分かっていても、扉のノブに手をかけて、力を込める。開いたらいいな。
―――ガチャリ。
「えっ?」
少女は思わず声を上げる。扉が、開いた。鍵はかかっていなかった。
恐る恐る扉から顔を出すと、遥か廊下の奥に、レミリアと咲夜の背中。二人は玄関のドアを開け、外へ出ようとしていた。
扉が開くと、外の音が少しだけ聞こえる。それを聞いた瞬間、少女は驚きに身を震わせた。
楽しげなピアノやトランペットの音色。それらを繋ぐように聴こえてきた、ヴァイオリンの音色。
少女は悟った。聴き間違うはずも無い、あのヴァイオリンの音色だ。
次の瞬間、少女は施錠はされていない事も忘れて、扉を蹴破った。
・
・
・
少女は走った。ひたすらに、廊下を疾走した。廊下は静かに歩くよう躾けられてきたが、今はそんな事言っていられない。
長い廊下の果てに見える、玄関のドア。無駄に広い館の構造を恨めしく思う余裕も無く、少女は走った。
しかしその時、玄関のドアが突然開いた。さっ、と少女は血の気が引くのを覚えた。廊下では、身を隠す場所も無い。
館内に戻って来たのは、紅魔館門番の紅美鈴だった。忘れ物でもしたのだろうか。
そして当然の如く、こちらへ向かって全力疾走して来る少女と目が合う。
「あっ、妹様!?まだお外へ出てはいけないはずでは……?」
驚いた様子の美鈴だったが、少女自身はそれに答える余裕も無い。
「どいてっ!」
それだけ言って、足を止める事無く走り続ける。
次第に狭まる二人の距離。美鈴は一瞬迷ったが、主の言いつけが最優先だと思い、少女の前に立ち塞がろうとする。
彼女が道を譲る気が無いと解った少女は、その小さな右手を固め、力を込める。
すると、次第に少女の右手は発光を始めた。走るのを止める事無く、少女はこれから突き出すぞ、と言わんばかりに右手を引く。
「スターボウ……!」
「えっ、えっ!?」
少女が弾幕を放とうとしている事を知り、慌てて美鈴は腕で顔を庇うように防御姿勢をとる。咄嗟の判断だ。
しかし、少女はその隙に美鈴の脇をすり抜けていった。
「あ、あれ……あっ!お待ち下さい!」
一瞬呆気に取られた美鈴は、弾幕がフェイクであった事を理解。慌てて少女の背中を追った。
・
・
・
一方、紅魔館外の特設ステージ。太陽は沈み、空がオレンジと濃紺のグラデーションを描く。
まさに今、三姉妹は一曲目の演奏を終えた所であった。
観客席から巻き起こる拍手に笑顔で応え、次の演奏の準備に取り掛かる三人。
観客達も皆満足げな表情で、一曲目だというのにテンションはうなぎ上りだ。一般の観客席の少し後ろで、紅魔館の住民達も拍手を贈っている。
拍手が止み、インターバルという事もあって観客席がざわつき始めたその時。
バァン!!
凄まじい勢いで、紅魔館の玄関のドアが開いた。
そしてそのままの勢いで、あの少女が外へ飛び出してきた。しかし、ざわつきのせいか誰も気付いた様子は無い。
少女の目に映ったのは、まず沢山の観客達。その手前の、見慣れた住民達。
視線を少し上へ上げると、大掛かりなステージ。そこには手にそれぞれ楽器を持った三人。
そして、その真ん中の少女―――ヴァイオリニストを目で捉えた。
その瞬間、体が震えた。驚きか、興奮か。解らないが、とにかく体が震えた。
瞬時に脳裏を過ぎるあの日々。たった数日間だったけれど、これ以上無く満たされていた日々。
何かが頭の中を満たしていくような感覚。胸が熱い。呼吸が止まる。
遠目でも分かる。もう、会えないと思ってた。
少女はパニックを起こしかけた頭を押さえつけ、大きく、大きく息を吸い込んだ。空を仰いだ。喉が震えた。
「お姉ちゃん!!!!!!!!」
・
・
・
・
刹那、会場が静まり返った。夜空に響き渡った少女の渾身の叫びは、確かに届いた。
全ての人々の視線が、少女に注がれた。特に、紅魔館の一同は唖然といった表情。
地下室にいる筈の少女が何故ここにいるのか。それを問おうにも、脳内での処理が追いつかず、言葉を発する事が出来ない。
だが、少女自身はそんな周囲の反応はお構いなしだった。
今まで生きてきて一度も出した事の無いような大声を発したから、喉が少し痛い。だが、今の少女はそれを感じない。
「妹様、やっと追いつきま……あれ?」
ここでようやく美鈴が登場。しかし、しんと静まり返った会場に違和感を覚え、立ち尽くしてしまう。
そんな彼女の登場にも少女は気付かない。
「……お姉ちゃん!!」
もう一度叫び、少女はステージへ向けて走り出した。
観客席を迂回するのももどかしい。少女は地を蹴り、舞い上がる。
一方ステージ上では、一直線にこちらへ向かってくる見知らぬ少女の姿に、メルランもリリカも呆然とするばかり。
しかし、ルナサは違った。
(あの子が……どうしてここに……)
脳内で様々な思考が絡み合い、上手く考えられない。
何故、あの子がここにいるのか。
何故、あの子が紅魔館から出てきたのか。
―――何故、あんなにも笑顔なのか。
答えなど当然思いつかないが、目の前の事実は認識出来る。
一直線に飛んできた少女を、ルナサは精一杯の力で抱き止めた。一瞬よろけるが、体勢をすぐに立て直す。
「お姉ちゃん!やっと、やっと会えた!!」
ルナサに抱きついたまま飛び跳ねる少女と、それを何とか支えてやるルナサ。
混乱していた頭が段々と落ち着きを取り戻してきた。そして気付く。少女がこの上なく、嬉しそうに笑っている事を。
人見知りによる恥じらいの表情こそ見てきたが、笑顔を見るのは初めてだった。
自分が一方的に気にしているだけだと思っていた。嫌われているとすら思っていた。
そんな暗い思考の数々を、少女の笑顔が全て吹き飛ばしてくれた。
毎日演奏を聴きに来てくれた、楽しみにしてくれた事は、嘘では無かった。
今まさに目の前で見つめている少女の輝かんばかりの笑顔が、それを何よりも物語っている。
ルナサは口を開いた。あの日の続きだ。
「……自己紹介、してなかったわね。私はルナサ・プリズムリバー。騒霊よ。
―――あなたのお名前、聞かせてくれるかしら?」
あの日は、喉がつかえて碌に喋れなかった。けど今は、人見知りの事など忘れたかのように喉がすっきりしていた。
初めての、”会話”。少女は少し恥ずかしそうながらも、口を開いた。
「―――フランドール。フランドール・スカーレットだよ」
少女は―――フランドールは、それだけ答えると、急に恥ずかしくなったのか下を向いてしまった。
事情がまだ飲み込めないままに横で自己紹介を聞いたリリカは、驚きで目を見開いた。
「えっ!フランドールって、あの”悪魔の妹”って……」
「しーっ!」
見れば、メルランが人差し指を口に当てて、”静かに”のポーズ。そして彼女は微笑み一つ。
余計な口出しは無用と悟り、リリカも黙って見守る事にした。
観客席がざわつき始めた。それはそうだろう。見ず知らずの少女が突然、ステージ上に飛び出してきたのだから。
ここでようやくフランドールは、自らが大勢の人々の視線に晒されている事に気付き、人見知り再発。ルナサの後ろに隠れてしまう。
彼女は、観客席の後ろに座る姉―――レミリアの顔を見る。勢いとは言え、再び言いつけを破って飛び出してきてしまった。
もっと叱られるに違いないと、彼女は恐る恐るといった体だ。
だが、レミリアは何かを察したらしく。優しい顔で頷いただけだった。
『―――あなたの、好きなようになさい』
無言でそう言われ、フランドールは少し戸惑った。何せ、ここはステージの上だ。演奏の邪魔をする訳にはいかない。
かといって今から降りるのは、人々の好奇の目線に晒される事を意味し、やはり恥ずかしい。
ざわめく観客席に、メルランが声を張った。
「は~い、そろそろ始めますよ~!」
すると、観客席のどよめきは瞬時に万雷の拍手へと変わった。
どっちつかずな上に恥ずかしさここに極まれりなフランドールはルナサの後ろから動けない。
と、そんな彼女にリリカが何かを持って近付いた。
彼女が手にしていたのは、赤いプラスチック製のタンバリン。
リリカはそれを一瞬、そのままフランドールに差し出そうとして止め、笑ってルナサに渡す。
驚いたルナサがリリカの顔を見たが、彼女は笑顔のまま頷く。
ルナサは少し屈んでフランドールと目線を合わせると、タンバリンをそっと差し出した。
ルナサとフランドール。二人の脳内に、共通の景色が蘇る。
ヴァイオリンを差し出す。差し出される。楽器は違うけど、あの時と同じ。
「―――あなたも、やってみる?」
驚きの表情を浮かべたフランドールに、ルナサは笑って見せた。メルランにも負けないくらいの最高の笑顔だった。
心の中の”何か”が融けた気がした。フランドールは小さな手で、タンバリンを受け取った。
「―――うん!!」
―――演奏は再開された。
キーボードの音色で楽曲の骨組みを支えるリリカ。
メルランのパワフルなトランペットの音は、聴く人の鼓膜を突き破るかのような勢い。
それらの音色を綺麗に調和させ、纏め上げるルナサのヴァイオリン。
そしてこの日は、パーカッションがいつもより元気だ。
音楽のリズムに合わせ、ルナサの横で元気にタンバリンを叩くフランドール。楽器の経験は無いけれど、不思議と演奏にピッタリと合っている。
一夜限りの四人組となったプリズムリバー楽団。仰げば一杯に広がる夜空を押し返すくらいに激しく、美しく、楽しげな演奏は、まだまだ終わらない。
音を楽しむと書いて、『音楽』。その本質を、この日集まった人々は垣間見る事が出来たのだろう。
・
・
・
・
・
・
・
・
―――真夜中まで続いた熱狂的なライブが終わり、一週間後。
紅魔館のライブと、それに続いた博麗神社ライブも無事終わり、再びオフ。
この日、メルランは朝からバタバタと忙しそうだった。
「どうしたの、そんなに慌てて」
リリカが尋ねると、メルランは走り回りながら答えた。
「また楽団のみんなと練習する予定だったんだけど、遅れる~!!!」
少し寝坊したらしい彼女はトランペットケースに楽譜、指揮棒を詰め終えると、
「じゃ、いってきま~す!!」
猛ダッシュで玄関から飛び出していった。
「指揮者も大変だねぇ」
メルランが散らかした物を拾い集めながら、苦笑するリリカ。
ルナサもそれに倣いつつ、時計を窺う。
片付けも終わり、リリカはソファで読書。先日メルランと二人で読んでいたあの本では無い所を見ると、あれは無事読み終えたらしい。
ルナサはと言うと、その向かいでヴァイオリンの調弦。ただし、ヴァイオリンの数は二挺。
「あれ、二つ?」
リリカが尋ねると、ルナサは俯き加減になって答えた。
「ええ、ちょっと……」
首を傾げたリリカだったが、再び話を振る。
「あ、そうそう。ヴァイオリン二つでちょっと思ったんだけどさ」
「何?」
「ルナ姉さんは、楽団とか作らないの?」
「えっ?」
意外な質問に驚くルナサ。すると、リリカはちょっと笑って続けた。
「ふふ。ほら、メル姉さんみたいにさ。ルナ姉さんだって人集めて、作れそうな気がするんだけどなぁ」
それに答えを返すべく、ルナサが口を開きかけたその時。
ピンポ~ン!
突如響くチャイムの音が、来客を告げた。
慌ててルナサが立ち上がり、玄関へ足早に向かう。リリカはその様子に首を傾げつつも、その後を追った。
ルナサが玄関を開けると、そこには―――
「こ、こんにちは……」
日傘片手のフランドールの姿があった。人見知りは直っていないらしく、どこか恥ずかしそうだ。
・
・
・
―――あの夜。
ライブ終了後、フランドールはまず、レミリアの下へ謝りに行った。
前々から言いつけを守らずに外へ出ていた事と、今回の事。自分にも責任があるような気がして、ルナサも一緒に頭を下げた。
するとレミリアはとりあえず、といった体でフランドールを軽く叱った後、驚くべきような発言をした。
それは、『屋敷内の自由徘徊の再許可』ともう一つ、『ルナサにだけは会いに行ってもよい』というものだった。
ライブのステージ上でのやり取りを見ただけで全てを察したレミリアは、驚く二人に対しても黙って笑い、頷くだけであった。五百年の時を生きた妖怪の実力は伊達では無い。
それから暫くはまだライブ予定があったので直接会いには行けなかったが、ライブを見に行く事は許されたので、観客として。
そして今日、ようやくオフの日を向かえ、フランドールは直接ルナサへと会いに来たというわけだ。
「もしかして、あのヴァイオリンは……」
言いながらリリカは、調弦のなされた二つのヴァイオリンをちらりと見やる。
「そうよ。この子が習いたいって」
すると、顔を赤らめたままフランドールはこくりと頷く。
ずっと憧れていたルナサと、そのヴァイオリンの音色。そしてあの日、一緒にやろうと誘ってくれた事。
約束を果たすべく、ルナサはこれから暇あらばフランドールを招き、ヴァイオリンを教えていくらしい。
ついでに、他の人―――ルナサやメルラン、リリカに接する事で、少しでも人見知りが直れば、とレミリアは言っていた。
勿論それは建前で、彼女は妹が家族以外の誰かに心を開いた事が純粋に嬉しかったようだ。
「それとね、リリカ。さっきの質問だけれど」
言われたリリカがルナサの顔を見ると、彼女は肩を竦める。
「私はメルランみたいに明るくもないし、社交性にも欠けるわ。だから―――」
ルナサはフランドールの頭をそっと撫でながら、はにかんだ笑顔を向けた。
「――― 一人だけで、十分よ」
・
・
・
・
プリズムリバー邸の一室。そこには、ヴァイオリンを持つルナサと、椅子に座ったフランドールの二人だけ。
「いきなり弾き始めるのも難しいでしょうし、まずは私がお手本を見せるわね」
頷くフランドールの様子を見て、ルナサは彼女へ尋ねる。
「じゃ、早速やるけど……何か、リクエストとかあるかしら?」
するとフランドールは、少し顔を赤らめて言った。
「―――初めて聴かせてくれた、あの曲がいいな……」
小さな呟きだったが、確かに聞き取った。ルナサは笑顔で頷き、ヴァイオリンを構える。
「了解よ。それじゃあ―――」
演奏を始める直前、ルナサはフランドールに向けてウィンク一つ。
「心行くまで楽しんでね。貴方の為だけの、ルナサ・プリズムリバーソロライブよ」
流れ出す、優しいヴァイオリンの音色。
部屋から溢れ出し、屋敷を覆い尽くすその旋律は、遥か大空までも響き渡る。
―――しかし、この素敵な演奏はただ一人―――
―――そう、どこまでも人見知りで純粋な、フランドール・スカーレットという名の少女の為だけのソロライブ。
第五の姉妹"フランドール・プリズムリバー"として(四番目はレイラだから欠番という意味で)
話自体はいいと思いました
次の作品を心待ちにしていますね。ではでは。
みなさん。「内気なフランの会」に入りませんか?
今更過ぎますが、コメントを。
雰囲気がとても好みで、スムーズに読めました。紅魔館のライブの描写ではまるでその場にいる様で、読後もライブ終了後の興奮が冷めない感覚にとらわれました。
心癒される良い話をありがとうございました。
読んで下さる皆様には感謝してもし切れません。
>>3様
そのアイディア頂いていいですか?w
ただ、性まで変えちゃうとお嬢様がイジけちゃいそうで少々怖ひ……。
レイラは忘れちゃあいけません。
>>7様
自分の考えた物語(とは言っても二次創作ですが)がそういって頂けると本当に嬉しく思います。
ありがたやありがたや。
>>14様
めっちゃ痛いトコを突かれましたorz
全体の流れや雰囲気、結末を重視するあまり途中に若干の違和感というか、ご都合主義みたいな感じになってしまうのは自分の悪い癖です。
以後気をつけます、ご指摘有難う御座いました。
>>15様
連続で痛いところをグリグリとorz
これも悪い癖です。雰囲気を出す為に重要な台詞なんかは思いっきり行間を空けて目立たせているのですが、それが悪い方向に。申し訳御座いません。
お話そのものを評価して頂けたのはもう救いとしか。ご指摘有難う御座いました。
>>アクセス様
いつも有難う御座います。
ルナ姉さんは鬱の音色=落ち着く=癒しというコトですね。
メルランの音色で元気になるとかそんな事を書いた記憶があるので、姉さんは癒しで。自分も癒されたいです。
>>20様
落ち着きがある長女、活発な次女、変わり者の三女って完璧なバランスだと思うのです。ですよね?
姉はやはりいかなる時も落ち着きを失わず、妹達を安心させてあげないと、というイメージが。
>>21様
日向に置いたアイスクリームの如くほのぼの、のんびりとした作品にしたかったのでそう言って頂けるともうたまらんのです。
ルナ姉さんの音色で、疲れた現代人にマターリを……。
>>23様
今更だなんて、そんな事はありませぬ。読んで頂けただけでも嬉しいのに、評価どころかコメントまで頂けたらもう。
こちらこそ、本当に有難う御座いました。
>>感動する程度の能力様
長い時間が経てば人は変わるもの……とは言え、あんまり変えちゃったらあんた誰になっちゃうので匙加減が難しい。
けど受け入れて頂けたようで嬉しいです。
>内気なフランの会
わぁいはいるぅ~!!
>>31様
みんなルナ姉好きだねェ。自分も好きですが。
可愛くて優しくて切ない、そんな”MOTHER”シリーズのような世界観を目指しております。これからも頑張るよ!
>>38様
わ、何だか恐れ多いコメントの嵐。どうも有難う御座います。
プリズムリバーものは何本か書きましたが、いずれもライブ描写が入っております。書いてて楽しい。少しでもその熱量を感じて頂けたのであれば大成功です。
創想話を巡っていると、時折見落としていた素敵な作品に出会えるのが嬉しいのですが、まさか自分の作品にそのスポットが当たろうとは。
次に読んで頂けた方にもそう言って頂ける様、これからも頑張ります。