たゆまぬ修練に、怠らないシエスタ。厳しさと優しさを適度に調整しながら、体調管理を万全に整えていたと思ったのに。くしゃみ一つで、それが脆くも崩れ去る。
美鈴はベッドの上で寝ていた。外はとっくに明るくなり、平時なら門の前で侵入者に睨みをきかせている時間。だというのに、身体はいまだ布団にくるまれている。寝過ごしたわけではない。
「っくしゅん!」
くしゃみ、鼻づまり、頭痛、発熱、喉の痛み。ここまで完璧に症状が出ると、素人目にも何の病気だが一目瞭然である。
美鈴は風邪をひいたのだ。妖怪なのに。
風邪なんてのは、人間だけがひくものだと思っていた。それも修練が足りないような、不摂生な奴ほどひきやすい。妖怪で、しかも身体を鍛えているこの私に風邪などという単語は最もかけ離れたもの。
と、昨日まで思っていた。
ティッシュで鼻水を回収し、丸めてゴミ箱に投げ捨てる。放物線を描いて、それは見事にゴミ箱の縁に当たって弾かれた。拾いに行くのも面倒なので、そのままにしておく。ゴミ箱の周りには、丸めたティッシュが雪山のように積もっている。
「あー、うー」
いがらっぽい喉の調子を確かめるように、どこぞで聞き覚えのあるフレーズが漏れだした。丁度その頃、守矢の神社では諏訪子が絶賛二度寝中だったので「守矢神社の神ですけど……」などと言いながら著作権侵害の制裁に来ることはなかった。
芋虫のように布団にくるまりながら、わくわくと寝返りをうつ。もとい、ゴロリと横になる。
窓の外には青々と茂った木々が見え、庭の彩りを緑に染めてあげていた。あの葉が落ちれば私の命も尽きるのかなあ、などと呟いてみる。しかし夏も本番を迎えようというこの時期。早々に樹木が丸裸になることはない。
「死にたいなら、別に止めはしないわよ」
漏らした呟きに返ってくる、予期せぬ言葉。首だけ動かして振り向くと、先程まで部屋の中に居なかったはずの人物が、苦々しい顔で扉の前に仁王立ちしていた。
「さ、咲夜さん!」
「何でそんなに驚いてるのよ。ああ、私なんかが来たら迷惑ってわけね。いいわ、出て行くから」
来て早々に、引き返そうとする。
「違いますよ! ちょっと、いきなり現れたんで驚いただけです」
「私が時間を止めて現れるのは前からよくある事でしょ。いい加減慣れなさいよ、まったく」
言葉と同じぐらい、咲夜の視線は冷たく厳しい。どうにもかなり機嫌が悪いようだ。こういう時の咲夜には近づかない事をお勧めしたいのだが、生憎と美鈴は動けるような状況ではない。
苦笑いを浮かべて、すいませんと謝ることしか出来なかった。
「別に謝る必要なんてないわ。それよりほら、頭あげなさい」
言われるがままに頭をあげる。後頭部と首筋を、ひんやりと凍るような感触が襲った。
氷枕を用意してくれたらしい。しかも丁寧に、タオルか何かで巻いてある。冷たくはあるが、肌に痛いほどではなかった。
そして咲夜は、美鈴の前髪を掻き上げる。何をするのか直ぐに分かった。
「あの、咲夜さん。その計り方、ちょっと恥ずかしいんですけど……」
「五月蠅い。いいからじっとしてなさい」
「はい……」
叱られた子供のように大人しくなった美鈴の額に、咲夜の額がピッタリと張り付く。手でしてくれたら良いものを、これではまるでキスをしようかというようで逆に体温が上がってしまうように思えた。
羞恥心に耐えていると、やがて咲夜が顔をあげる。
「やっぱり、まだ熱があるようね」
「そりゃあ風邪をひき始めたのが今朝ですから。まだまだ熱が引くには早いですよ」
「そんなこと言われなくても分かってるわ。何でまた、あなたはこういう時期に風邪をひくのかしら、ねえ!」
なかなかに荒々しい語尾。こんな時期にと言われても、ひいたものはしょうがない。美鈴だって別に好きで風邪になったわけではないのだ。そんなに怒られても困る。
隠れるように布団をたぐり寄せ、顔の半分を覆う。いっそ全てを隠してしまいたかったが、そんな真似をすれば咲夜は怒るだろう。やましいことでもあるのかと。そこそこ長い付き合いの二人、これぐらいの推測は容易にできる。
「とにかく、気合い入れて早く治しなさいよ」
「そんな無茶な」
「無茶でも飲茶でもどっちでも良いから、とっとと元気になること。それが今日のあなたの仕事。それじゃあまた来るから、大人しくしてなさいね。鍛錬とかしてたら、裸にして外に放り出すから」
最後に恐ろしい言葉を残し、咲夜は部屋を出て行った。なんだろう。確かに厳しいところもあるけれど、ああも刺々しい人じゃなかったのに。何か今日は妙に機嫌が悪かった。
不愉快な事でもあったのだろうか。いくら付き合いが長いとて、全てを見通せるわけではない。
何でだろうなあ、と呟きながら天井を仰ぎ見る。思考が程よい催眠剤となり、美鈴はいつのまにか夢の世界への片道切符を手に入れていた。
風邪をひいても武人の端くれ。妖怪だけれど武を志す者。
美鈴の反応速度は素早く、一切の躊躇いも見せずにベッドから飛び降りた。そのまま床を転がり、壁に背中をつけたところで室内の状況を確認する。
扉にパチュリーと小悪魔。窓際にフランドール。そしてベッドの脇にはマジックペンを持ったレミリアの姿があった。敵襲ではなかったものの、美鈴の判断は間違っていなかった。
機敏な動きにフランドールは感心したような声をあげ、レミリアは悔しげに舌打ちをする。対照的な姉妹の反応に、思わず苦笑いが零れた。
「何するんですか、お嬢様」
「仕方ないじゃない。お見舞いにきたら必ず顔に落書きをしなければならないって、スカーレット家の家訓には書いてあるんだもの」
当人すら信じていない戯れ言を弄び、マジックペンはとりあえずの休眠に入った。しかし油断はできないので、しばらくは警戒を続けるとしよう。また咲夜に怒られるかもしれないが、顔に落書きされるよりマシである。
乱れた寝間着を整えて、のっそりとベッドに潜る。対応は満点だったけれど、後先を全く考えていなかった部分は減点対象だ。心なしか熱が上がったように思える。
「ほらレミィが馬鹿な事をするから、また体調が悪化してるじゃない」
さすが病気慣れしているだけあって、パチュリーはそれを一目で見抜いた。友人から責められ、多少は罪悪感もあったのか、そっぽを向きながら申し訳なさそうに悪かったわね、とだけ呟く。
ともすれば不遜な態度にも捉えられるが、美鈴の目には最大の謝辞にしか見えなかった。矜持の高いレミリアにとって、そもそも謝るという行為自体が我慢ならないものなのだ。
「そういえば、皆さんどうしたんですか?」
「さっきも言ったでしょ。お見舞いよ、お見舞いよ」
お見舞い。そう呟いて、四人をそれぞれ見渡した。
何も一度に来なくても。ただでさえ狭い部屋が、より一層窮屈に感じられる。
だが、同時に嬉しくもあった。病気の時は変に心細くなるものである。例えどんな相手だろうと、側にいてくれるのなら心が満たされてしまうのだ。
「何? 来たら駄目だったのかしら?」
「いえ! ただ、皆さんが一度に来られたんで驚いていたんです。それにお嬢様やパチュリー様もお見舞いに来てくれるだなんて」
小悪魔やフランドールなら、様子見ぐらいには来てくれるのではないかと思っていた。二人とも美鈴に悪い印象を持っているわけでもないし、病気が移るからと恐れるような奴でもない。
だが、レミリアとパチュリーが訪れたのは完全に予想外のことだった。
レミリアは君主たろうとして、従者の体調を気にかけようとしない。上に立つものは常にどっしりと構え、下々の者になど目もくれないのが主たる象徴なのだと言っていた。その割には下々の者が食べるお菓子を好んでいるし、咲夜が転んだ時など心配そうに見つめていたのを美鈴は知っている。
ただ美鈴が相手となると、どういうわけかレミリアは突き放したような態度を見せるのだ。いや、正確には放任主義と言った方が良いか。いずれにせよ、風邪をひいたからといって見舞いに来てくれるとは思っていなかった。
パチュリーなど、来るという現実が間違っているのではないかと思うぐらいだ。出不精を固めて人型にしたような魔女で、図書館の外にいるのを目撃したらその日は幸せとおまじないにされるぐらいの引きこもり。たかが門番の風邪ぐらいで、外に出てくるとは思えない。
どうしてこの二人がやってきたのか、今更ながらに驚きが増幅される。パチュリーは肩をすくめ、レミリアは面白そうに口の端を歪めた。
「そりゃあ、来るでしょうね。ええ、当然だわ。咲夜だって、此処に来たんでしょ?」
「ええ、看病しに来てくれました」
何が面白かったのか、押し殺そうとしながらもレミリアは笑う。
「機嫌は悪かった?」
「そうなんですよね、なんでなんでしょう。咲夜さん、凄く不機嫌だったんですよ」
「あっはははははははは!」
とうとう堪えきれずに、レミリアは腹を抱えて大笑いする。フランドールは馬鹿笑いしていないものの、愉しそうに美鈴を見ていた。パチュリーは呆れ顔で、小悪魔は苦笑している。
どうやら何も気付いていないのは、美鈴だけらしい。何に気付いていないのかさえ、分からないわけだが。
「んふふ、やっぱり美鈴は美鈴だったね」
意味不明な事を言いながら、布団の上に飛び乗ってくるフランドール。衝撃がお腹に優しくないので、今後は改めて欲しいところ。もはや言っても聞かないので諦めているが、いずれは止めさせたいものだ。
風邪のせいか飛び乗られたせいか、咳き込みながら愉しげな姉妹を交互に見遣る。
「っくく、そりゃあ咲夜も怒るでしょうね。当人がこれだもの」
「まぁ、それはそうかもしれないわね。誰よりも張り切っていたのは、あの子だもの」
「美鈴さんが悪いわけでも……ないのかなぁ」
「風邪ひいたのは悪くないよ。でも、悪いのは美鈴」
それぞれから謎を出されながら、しかしおそらく根本的な所では繋がっているのだろう。頭を捻ってみたものの、ついぞ答えは出てこなかった。五里霧中もいいところだ。なにせ、何処へ向かって走ればいいのかすら分からないのだから。
熱のせいでもあるまいし、うんうんと唸る美鈴を見て、またレミリアの顔が歪む。誰よりも子供っぽい当主様は、人が苦しんでいる姿を見るのが好きらしい。
「ああ、そういえば忘れたわ。はい、美鈴」
急に表情を変え、懐から小さな紙袋を取り出して投げる。咄嗟に手を伸ばして、それを受け取った。風邪薬を包むような紙袋に似ている。
「……これは?」
「さぁ? 竹林の医師に作らせたから、私にも何か分からないわ。まぁ、きっと風邪に効く薬なんでしょう」
実に恐ろしい話だ。せめて効用ぐらいは聞いておいて欲しかった。
せっかく貰ってきたものだけれど、これは厳重に封印しておくことにしよう。
「あっ、私からはコレです」
タイミングを見計らっていたのか、小悪魔がとてとてと駆け寄ってきて額に何かを張った。触ってみれば、グミのような感触が楽しい。
「外の世界のものらしいんですけど、これを張れば熱が下がるんだって道具屋の店主が言ってました。冷えピタシートとかいう名前だそうです」
こちらも実に妖しい物だったが、少なくとも薬よりかは安心感も大きい。そもそも、なかなかに効き目があるではないか。張られた瞬間から、ひんやりと心地よい温度が額から熱を奪っていく。
「これ、置いていくわね」
そう言ってパチュリーが幾つかの果物を小机に置き、
「じゃあ私が切るねー」
フランドールがレーヴァテインのスペルカードを取り出した。無論、皆が一斉に飛びかかったのは言うまでもない。こんな狭い部屋でそんなものを振り回されたら、風邪が悪化していないのに再起不能となってしまう。
酷く不満顔のフランドールは、仕方なくただのナイフで林檎を剥いてくれることを見舞いの品にしたようだ。あれで案外手先は器用なのだから、天は二物も三物も与えすぎである。
「それを剥いたら、大人しく出て行くわよ。フラン」
突然な姉の横暴に、口を尖らせるフランドール。レミリアは意に介した風もなく、妹が切った林檎の欠片を口に運んだ。
「えー、もっと美鈴と遊びたい!」
「邪魔しないの。機嫌の悪い咲夜と一緒にいたくないでしょ。ああいうものは、遠くから眺めるのが一番よ」
まるで愛玩動物扱いだ。しかし当人がそれを嫌がることはないだろう。なんであれ、レミリアに仕える事を至上の喜びとする咲夜。例え主に何と思われようと、その忠誠は揺るがない。
美鈴などは愛玩動物扱いされようものなら確実に怒り、などと考えたところで所詮自分も怒れないのだなあ、と再確認してしまった。
風邪をひいてしまったとはいえ、そこは妖怪の端くれ。しばらく寝ているうちに、段々体調は回復してきた。このぶんだと、明日の朝からは業務に戻れる。妖精達に任せておくには、些か不安材料が多すぎた。
布団から顔を出し、溜息をつく。咲夜やレミリアが訪れた時は以外は、殆ど寝ていた。さすがにそれだけ寝ると睡魔も呆れて逃げ帰る。これで夕方も寝ようものなら、確実に夜は不眠との戦いに明け暮れるだろう。
起きていても退屈なだけだが、徹夜で明日を迎えるわけにもいかない。窓から見える空は橙色に焼けようとして美しくはあるのだが、はてさていつまで飽きずにいられるか。溜息の回数が自然と増える。
「あなたに幸せなんて、残ってなさそうね」
本日二度目ともなれば、いきなり部屋に姿を現しても驚きの声は出ない。
「……出来れば扉から入ってきて欲しいんですけど」
「入ってきたわよ。時間を止めて」
それでは何の意味もない。咲夜とて分かっているはずなのに、一体今日はどうしたというのか。
レミリア達は何か知っていそうではあったが、結局何も教えてくれなかった。自分で考えるしかないわけだが、退屈な時間がどれだけ過ぎ去ろうと答えが見つかる気はしない。自分に怒っているんだろうという事は間違いないものの、どうして怒っているのかは皆目検討もつかなかった。
分からなかったら人に訊く。どこぞの黒猫の台詞だが、ここは有り難く参考にさせて貰うとしよう。
「あの、咲夜さん」
「何?」
刺々しい雰囲気にも負けず、額に張られた温いシートを取り替えようとする咲夜に尋ねた。
「機嫌、悪いですよね?」
作業の手が一瞬止まる。しかしそこは瀟洒な従者。すぐに何事もなかったかのように再開した。
「門番が風邪をひいたんだから、それは機嫌だって悪くなるでしょ」
「でも、それにしては悪すぎですよね」
「……どうかしら。ただ一つだけ確実なことがあるとすれば」
冷えピタシートの消えた額を包み込むように、咲夜の手のひらが押しつけられた。ベッドに頭を埋められているようで、正直痛い。
顔は笑いながら目は無感情という器用な表情で、咲夜は口を開いた。
「今のあなたの質問で、私の機嫌は更に悪くなったわ」
「い、痛たたたたっ! 痛いです! 痛いですって!」
「痛くしてるんだから当たり前でしょ」
「割れる! 割れる!」
「大丈夫。妖怪の頭ってのは押したぐらいで割れるほど柔に出来てないの。多分」
恐ろしい台詞を吐きながら、それでも咲夜は力を抜かない。どうやら本当に怒らせてしまったらしい。相変わらず、その原因は定かではないのだけれど。
ベッドの上で暴れる美鈴。押さえつけるように力をこめる咲夜の懐から、不意に小さな箱が転がり落ちた。慌てて咲夜はそれを回収したけれど、美鈴はしっかりと見てしまった。 赤と緑のストライプで包まれた箱にくっついた、『Happy Birthday』のアルファベットを。
懐を押さえたまま、咲夜は責めるようにこちらを睨む。
「見た?」
「見ました」
「カードも?」
「カードも」
悔しげに、しかし恥ずかしそうに顔をそらす。仄かに赤く染まった頬が可愛らしなと思った瞬間には、濡れタオル代わりのナイフが額に深く突き刺さっていた。照れ隠しは結構だけれど、こんなことを普通の人間にやったら確実に死ぬ。
のけぞった顔が戻ってきた時、そこには咲夜の姿がなかった。ただ開け放たれた扉が、所在なさげにブラブラと揺れている。
「そういえば、そうでしたね……」
咲夜の怒りも、不自然なお見舞いも、これで全てが説明できる。
おそらく咲夜のことだ。今日という日に供えて、豪華な食事も用意していたのだろう。プレゼントも万全だったのに、肝心の主役が風邪をひいてダウン。全てを台無しにされた怒りが、その当人に向いた。
レミリア達がお見舞いにきたのも、誕生日パーティーが中止になったから。あの品物の数々は、きっと風邪をひいた美鈴に対するプレゼントなのだろう。
「うむ、ようやく気付いたかね」
声のする方へ振り向いて、そちらが窓なのだと思い出す。
「紅魔館の方々は、素直に扉から入ってきてくれないんでしょうか?」
「入る人だっているでしょ。ほら、あなたとか」
遠慮無く窓を開け、窓際に腰を降ろすレミリア。考えてみれば彼女は当主なのだから、遠慮など必要ない。ただ当主という立場にいる者として、窓から入って来るのはどうだろうと疑問に思うぐらいだ。
「楽しそうですね、お嬢様」
「ええ、楽しいわね。不器用な人間のやりとりを見ていると、こちらまで楽しくなってくるのよ」
実に趣味が悪い。これが吸血鬼の娯楽なのだとしたら、是非とも読書かスポーツに鞍替えすることをお勧めしたい。
「別に誰に強制されたわけでもないのに今日という日に向かって張り切って、それが台無しになったものだから祝うべき対象に怒りをぶつけているメイドと、そんなメイドの気遣いどころか自分の誕生日も忘れて風邪をひいてしまった門番。ちょっとした喜劇ぐらいにならなると、私は思うんだけど?」
「それで、仲直りの為に私が髪を切って時計をあげると?」
「咲夜はもう時計を持ってるじゃない。まぁ、あなたにかんざしは似合うかもしれないけど」
いずれにせよ、どちらも馬鹿であることに変わりはない。
だがせめて、美鈴が自分の誕生日に気付いていれば。もっと咲夜に気を使った対処が出来たかもしれない。悔やんでも仕方ないことは分かっているが、後悔とはそういうものだ。蓋をして押しとどめられるものではない。
両手が布団を握りしめる。いつのまにか整っていたシーツの海に、新しい波が刻み込まれた。
「ただ、そんな二人を見ているのもいいけど誕生日パーティが潰れたのは私も不愉快ね。張り切った咲夜の料理なんて、そうそう食べられるものじゃないし。この日のために極上のワインも用意してたって言ってたから、私自身も楽しみにしてたのよ」
「申し訳ありません、お嬢様」
「別に謝らなくていいわ。それよりもあなたは、早く風邪を治すことに専念なさい」
気遣うような発言に、レミリアもまた心配しているのだと知る。もっともレミリアの場合は、食事やワインを重視しての言葉だろうけど。それでも嬉しいことに変わりはない。
「だけど、どんなに安静にしていても完治するには明日まで掛かるでしょうね。せっかくの誕生日。どうせ祝うなら、今日祝った方がいいとは思わない?」
「まぁ、それはそうですけど……」
待ってましたとばかりに、レミリアはベッド脇の机を指さした。昼間、レミリア達がお見舞いに来たときに渡されたものがそこには置かれている。
「八意永琳から無理を言って貰ってきた薬。それを飲めば、たちどころにあなたの風邪は治るわよ」
俄には信じがたい言葉でも、永琳のと付ければ大概の事には説明がつく。風邪の特効薬などノーベル賞ものだが、あの天才は人間の作った枠に収まらない。それぐらいの大発明なら、鼻歌混じりにこなすだろう。だから風邪を治すという言葉に疑いはない。ないのだが。
「副作用とか、大丈夫なんですか?」
「さぁ? 彼女自身もどこまで効くのか試してないから分からないって言ってたわ。でも、治る確率は高いそうよ」
要するに薬を貰う代わりに、被験者になれということか。胡散臭くとも、天才は天才。そうそうに大失敗をするとは思えないが、軽はずみに飲み干せるものでもない。
躊躇う美鈴に、レミリアが告げる。
「どうしても今日中にパーティーをしたい。咲夜を悲しませたくないというのなら、その薬を飲んで風邪を治せばいい。でも怖いから飲まないというのなら、パーティーは明日に延期ね。まぁ、私としてはどちらでもいいわ。ワインの味は変わらないもの」
それだけ言い残し、窓から飛び立ったレミリア。引っかき回すだけ引っ掻き回して、後は美鈴に決めなさいというのも酷な話だ。正論だけれど、正論だからといって心が楽になるわけでもない。
妖しげな薬。でも、風邪を治してくれるかもしれない薬。
今は怒っている咲夜も、そのうち悲しくなるだろう。勿論、誰も見ていないところで。
自分の為に。自分のせいで。
その悲しみを解消する手段が風邪の完治しかないのだとしたら、美鈴のすべきことはただ一つ。
永琳の薬に手が伸びた。
今泣いた烏がもう笑う。
元気になった美鈴を見た瞬間からの手際の良さは、やはり瀟洒な従者という単語が相応しい。少しだけ夜も更けてしまったけれど、それはそこ紅魔館。吸血鬼たる主が支配する館なのだから、むしろ相応しい時間帯だと解釈することができよう。
ホールに並べられたテーブルの上に、咲夜お手製の料理が次々と運ばれてくる。妖精メイドも今日ばかりは仕事の手を休め、いつも休んでいるだろうとツッコミも無視して騒ぐだけ騒ぐ。妖精達にとってみれば、とにかく騒ぐ口実があればいいだけで、何のためのパーティーなのか理解している者は殆どいない。
「どうやら、プレゼントを用意してたのは私たちぐらいのようね」
レミリアの言葉に目を丸くする。
「え、でも、プレゼントは昼間に……」
「はぁ? あれは単なる見舞いの品よ。プレゼントはちゃんと別に用意してあるわ。ねえ」
「まぁ、レミィがどうしてもというから用意はしたわ」
「へぇ、美鈴が気に入ってくれるかどうか、私に相談しに来たパチェは幻だったのかしら?」
「幻覚ね」
「ああ怖い。吸血鬼も健康に気を使う時代なのね」
無表情に徹するパチュリーと、それをからかうレミリア。ひとしきり噛みつき合ったところで、おもむろにレミリアが背後に回ってきた。そして喧噪に紛れるような小さな声で、問いかける。
「あの薬、効いたようね?」
頬を掻きながら、美鈴は答えた。
「どうなんでしょうか。飲んでないので分かりません」
「飲んでないって……じゃあ、あなたどうやって風邪を治したのよ?」
言ったら笑われるだろう。レミリアはそういう吸血鬼なのだ。
でも言わなければ機嫌を損ねる。仕方なく、重い口を開いた。
「妖しげな薬に頼るのも嫌でしたんで、とりあえず気合いで治しました」
「き、気合い!?」
病は気からという諺を信じ、駄目もとでの挑戦だったが見事に成功した。万が一の場合は薬という手段も考慮していたが、やはり自分の手で病は克服したい。その気持ちが美鈴の身体からウィルスを追い出しのだと解釈するのは、些かメルヘンが過ぎるか。
なんにせよ、風邪が治ったのは間違いようのない事実だ。
「相変わらず、無茶の上を行く奴ね。だからこそ、あなたは面白い」
あどけなく大人びた、矛盾を孕む笑みを浮かべる。そして手に持っていた拳ほどの大きさの箱を手渡した。
「だけど、終始そのままなのは頂けないわ。あなただって女なのだから、時には着飾ることも覚えなさい」
まるで指輪を収めておくような形の箱を開けてみる。中に入っていたのは、涙の形をした半透明な宝石だった。
「竜の涙と呼ばれているそうよ。それを加工して、ネックレスかピアスにでもするといいわ」
見るからに高価な物なれど、ここで贈り物を拒否するわけにもいかない。主の好意を無碍にするなんて、従者としても門番としても失格だ。
美鈴は心を込めて頭をさげて、感謝の言葉を口にした。レミリアは照れくさそうに視線を彷徨わせ、ワインが足りないわ、などと言って姿をくらませる。
「素直じゃないんだから、レミィは」
「えー、パチュリーも似たようなものじゃない。お姉様とどっちが素直じゃないか、いい勝負だと私は思うけど」
「あ、私も同意見です」
「……小悪魔、後で覚えておきなさいよ」
「何で私だけ!?」
涙目の小悪魔とジト目のパチュリーをよそに、小走りで駆け寄ってくるフランドール。彼女の手に握りしめられた紙の束が、無造作に美鈴へと手渡される。
「はい美鈴、誕生日プレゼント!」
「妹様もありがとうございます」
これは何なのだろうと視線を下に向けてみれば、そこに書かれていたのは『フランドールと一日遊ぶ権利』。果たしてこれはプレゼントなのか、それとも罰ゲームなのか判断に苦しむ。しかし好意は素直に受け取った。
「美鈴さん。私からはこれです」
小悪魔のプレゼントは、古びた表紙の本だった。題名は見たこともない文字で、試しに開いてみれば象形文字のような不思議な図形がページいっぱいに並んでいる。
「あの、これ何語です?」
「ふふん、それは何語でもないんですよ。でも、見ているうちに不思議と内容が頭に入ってくるんです。しかも文字よりも鮮明に」
本当だろうかと試してみれば、確かに何となくだが伝えたいことが頭に入ってくる。しかもそれは文字としてではなく、一つの風景としてまるで映画を見ているかのように、網膜に映し出されるのだ。
もっとも見えるのは風景だけで、音も匂いも感じられはしないけど。それでも珍しい本であることに間違いはない。
「ついでに、私のも受け取っておきなさい」
ビー玉のような、青くて丸い不思議な物体を渡される。宝石でないのは分かるが、さりとてガラス玉というわけでもなさそうだ。
「それを握りしめてる間は冷気が身体を纏う。暑いときはそれでも握って涼むといいわ」
これからの時期を思えば、暑さこそ門番の大敵と言えよう。パチュリーのプレゼントは、そいつらと戦う上で非常に有効なサポートをしてくれそうだ。
プレゼントを抱きしめ、美鈴はまた頭をさげる。
「じゃあ最後は私からのプレゼント」
「え?」
下げた頭に何かが乗せられる。落ちないように気を付けながら、美鈴は後頭部の上のものをつかみ取った。そして顔をあげて、汗だくの咲夜が目の前に立っていることに気がつく。さしもの咲夜も、この量の料理を汗一つ掻かずに作るのは無理があったらしい。
それだけでも嬉しく思う美鈴の手に、握られたのは緑色の帽子。
いつも被っているものは、ちゃんと頭の上にある。だからこれは、咲夜からのプレゼント。
「年中同じものを被ってるようだけど、夏場はそれ暑いでしょ。だから夏用に生地の薄いもので似たようなものを作ってみたわ」
早速、帽子を取り替える。言われてみた通り、確かにこちらの方が涼しくて風通しが良い。夏場は重宝しそうだな帽子だ。
「あの、咲夜さん、本当に、その、ありがとうございます!」
「いいのよ、別に。暑そうにしてるあなたを見ると、こっちまで暑くなるんですもの。だからこれは、私の為でもあるわけ」
そう言って踵を返す咲夜を、咄嗟に美鈴は引き留めた。彼女には、お礼だけではなく他の言葉も伝えないといけない。
「あのっ、今日は本当に……」
出ようとした言葉が、そのまま引っ込む。何かを察知した咲夜が、また時間を止めたのだろう。瞬時に距離を詰めて、額と額をピッタリと合わせた。突然姿を現すのはこれで三度目だが、三度目が一番驚いたのは間違いない。
言葉もなく、酸欠状態の魚のようにパクパクと口を開く。
「熱はもう無いんだから、それ以上の台詞はいらないわ」
額を離して、咲夜は言った。
「せっかくのパーティーなんですもの。無粋なことは言いっこなしよ」
今悲しんでいたメイドがもう笑う。
だから美鈴も自然と笑う。
皆からの贈り物を胸に抱えて、紅美鈴は今日も笑った。
そして翌日風邪がぶり返した。治ったと思ったのは、どうやら一時的な撤退戦だったようで。戦力を整えたウィルスは、翌日に大攻勢へ打って出たのだ。
美鈴はそれに見事な敗北。再びベッドの上での生活を余儀なくされた。
だが寂しくはない。だって、隣には同じように顔を赤らめて瞳を潤ませるメイドがいるのだから。
「なんで、私が……」
恨めしそうにこちらを見られても困る。寝返りをうって、視線から逃げた。
逆方向には楽しげなレミリアが、咲夜のナイフで林檎の皮を剥いていた。
「普通こういう場合、美鈴以外の奴が風邪をひいて終わりってパターンが多いけれど、こういうのも有りと言えば有りね」
意味不明な事を呟きつつ、向いた林檎を割って齧り付く。自分たちの為に剥いてくれたわけではないようだ。
「でも、何で私達二人だけなんですか」
「お嬢様にも風邪ひけって言うの!」
「いや、そういうわけじゃないですけど……」
ベッド脇から伸びた足が、蹴り落とそうとするように美鈴の背中を押す。痛い痛いと抵抗する美鈴を見て、レミリアがまた楽しそうに林檎を口へと運ぶ。
そうして丸々一つ食べ終えたところで、
「昔から言うじゃない」
レミリアはじゃれあう二人に言った。
「夏風邪は、馬鹿がひくものだって」
無知でもなく、無垢でもない。
ただ素直な馬鹿二人が、不思議そうな目でレミリアを見上げていた。
まぁそれはそれとして、よい紅魔館でした。
面白かった。甘かった。
気合で治すな美鈴www
嗚呼、確かに馬鹿(ップル)…
額でごっつんも狙い過ぎな感が。
八重さんの作品だからこう当たり前の話に萌え狙いを混ぜたいかにも
高得点が稼げそう、ってのじゃなくて、他の人が書けないような
落ちを持ってくるに違いない、と勝手に期待しすぎたせいもあるけど。
多彩になればなるほど氏の作品を読むのが楽しみになりますしね。
:脱字報告
>>諏訪子が絶賛二度寝中だったで →だったので かな?
しかし、そこが良い
いぢわるレミィが美鈴と咲夜をからかいながらも二人のあいだを取り持っていて、さすが暇人吸血鬼の面目躍如と言ったところでしょうか。
大人気ない咲夜や照れ屋のパチュリーがとっても可愛らしくて読めて得した気分です。
さくめーもだけど、お嬢様がいい味出してました。
脱字が三つほどありました。
ところで
>わくわくと寝返りをうつ。もとい、ゴロリと横になる。
無駄に言葉遊びすんあww