夢にまで割り込んでくる気だるさを感じて、妹紅は目を覚ました。ぼんやりと、穴が開いた家の天井が映る。
最初はぱちりと目を開いただけ。
まだ眠いのか、閉じた。また目を開ける。しばらく経っても目は閉じられない。やっと、目を覚ましたみたいだ。いや、目だけが覚めたみたいだ。
声を漏らす。水の中で聞く音のように、自分の声が頼りない。
頭がまだ起きていない。まだ起きる時間じゃない、寝たいんだと言っている。
もう一度目を閉じようと思った。
どうも気が進まない。
だるい日はとことんだるい。のんびり寝ていたいのだ。でも、そんな日はもう何十年と続いている。
続いているのだから、もう一度目を閉じたって眠れないことを知っている。熟睡なんて自分にはありえないのだ。
あの日から、ずっと。ずっと、妹紅は真夜中の時間を生きている。
朝が来ても終わらない、永遠の真夜中の時間を。
【待ち合わせの時間、夜明けの時間】
古びた機械の悲鳴にも似た、骨と筋肉が働く音。二つの音よりもすこし遅れた妹紅のうめき声。
三つの音は混ざり合い、目覚ましとなる。妹紅の頭をはっきりと目覚めさせるための、だ。
自分の声で起きるという妙な経験も、もう慣れてしまった。
一度慧音の授業を受けたとき、同じような経験をした覚えがある。
ちゃんと眠れていないとこういう経験をする。気づいたのは一体いつのことだったか。
十分に眠れていない、か。
別にたいしたことじゃない。食べる必要も、トイレに行く必要も、寝る必要もない体をしているのだから。
空腹はあの日から感じていないから気にならない。
トイレなんてもっとどうでもいい。気づいたらもらしていた、なんてこともないからどうでもいい。どうせ体がどうにかしたんだろう。
寝る必要――やっぱり必要ない。だけどおとなしくしていたら自然と寝ている。何もしなくてもできることなのだから、これだけは欠かしたことがない。
ずっと眠っていられば、どれほどたのしいだろうか。目を覚ますことなく、ずっと、ずっと。
よければ私に、眠りの魔法をかけてくれないかな。王子様のキスなんていらないから、死体のように放っておいてほしい。
願っても時間は許してくれない。毎日決まった時間だけ私を眠らし、決まった時間になったら味のない日常に放り出す。
『生きてるってすばらしい!』
昔、大声で宣言してるやつがいた。
そう、じゃあ代わってよ。何日か私と状況を交換しただけで、生きることの味気なさがわかるはずだよ。
家の外で、鳥がたのしそうに鳴いている。もううっすらとしか覚えていないほど昔、鳥の声の美しさを歌にしたことがある。貴族をやめてからやらなくなった。
かわりに、歌声に耳を澄ませては鼻歌を重ね、鳥たちとの合唱をたのしんだものだ。
ところが、あの日――。あの日から、私は持っていたすべての風流心を失ってしまった。
鳥の声なんて雑音でしかない。夜に聞こえる虫の声だって、もう子守唄じゃなかった。
「ああ、うるさいなあ……」
むしろ、鬱な私に対する嫌味にも感じるくらいだ。
気にしてしまうと余計に気になって、もはや無視できない。うっとうしくてうっとうしくて、妹紅は扉を蹴破るように開いた。灰色の曇り空が映る。
「うるさい!」
扉の音と入れ替わりに翼の音が耳に刺さり、やがて聞こえなくなった。なぜか、すこし物足りない気持ちになった。
だけれど、またすぐに不機嫌になる。
――ぴー、ぴー。
「はあ……」
かなり遠いところにいるのに、ふしぎと耳に届く。
すうっと息を吸い込む。久しぶりに森の空気が肺の中を満たした。そしてもうひとつ、人里から流れてきたと思われる昼食のにおいが。
「焼き鳥にするぞッ!」
自然の音とはほど遠い声。鳥はまだ鳴く。まるで妹紅をバカにするかのように。
もう一声叫ぼうとする妹紅。
ところが、『焼き鳥』という自分自身の声がいけなかった。しばらく眠っていたお腹が、ぴくりと反応する。
うつらうつらしていたお腹は、人里からのにおいで飛び起きたのだった。
――くう……。
居眠りしたぶんを取り戻すかのように、訳のわからないまま鳴り続けるお腹。「黙れ」と言ってお腹を押さえる。抵抗するかのように、余計にうるさくなった。
物足りないような、吐き気のような――。不快にしか思えない何かがせりあがってきた。
家に戻って食べ物を漁りはじめる。
しかし食べ物はどこにもなく、食べ物あふれる自然に飛び出す勇気もなかった。
消去法で森や川が消えた今、人里しか残っていない。
どこでもいいから食べ物屋に寄って、さっさと帰ろう。
何年――もしかすると何十年――ぶりに、妹紅は人里へと歩き出した。
まだ慧音とよく行った、あの蕎麦屋は残っているだろうか。
◇
「私はな、教育がとても大事だと思うんだよ。だけど誰も集まらないんだ。
いつかきっと、里に住む――いや、幻想郷に住む人妖すべてに教育を受けさせたいんだが」
「言葉とか理解できないやつはどうするの? いきなり食われるかもしれないよ?」
「それはだな――!
……それは、えーっと……」
「とにかく!」と慧音はコップをたたきつけ、
「教育は大事なんだ!」
と怒鳴り散らした。口からお酒が飛び、妹紅は降水確率が低いところに移動する。
「まあまあ。里の人たちに理解されないのはわかるけど、ちょっと落ち着きなよ。
生徒たちがこんな先生の姿、見たらどう思う?」
「む……」
慧音はもういっぱい頼もうとしたお酒をキャンセル。代わりに水を注文した。
不完全燃焼の慧音は、すこし機嫌が悪かった。
◆
「お姉ちゃんお姉ちゃん」
「ん、何?」
急に話しかけてきた子どもたち。珍しいこともあるものだ。
「これなんて読むのー?」
子どもたちは妹紅を囲み、持っていた本の一ページ目を開いた。
「今は昔、竹取の翁というものありけり」
「じゃあつぎは、つぎは?」
妹紅は見つめていた文章から目を離し、本全体を眺めた。行間の詰まった文字が、狭そうに這いずりまわっている。
「……もしかして、全部読ませようとしてる?」
「うん!」
子どもたちは悪気はないのだろう。しかし、これはやりすぎだ。
「あー……あのね、ここからまっすぐ行ってあの家を右に曲がったところ。あそこに髪の毛の白いお姉さんの家があるでしょ?
あの人に教えてもらいな、私よりずっと詳しいから。きっと読み書きができるようになるよ」
「僕たちでもできるの?」
子どもは聞く。疑っているのか、純粋に疑問なのか。
どちらにしろ、妹紅には「うん」と答えるしかない。
「まちがいない。一日だけでもいいから、行ってごらん」
「うん、ありがとうお姉ちゃん!」
子どもたちは、妹紅の言うとおり、まっすぐ行って右に――曲がらなかった。
「おーい、そっちは左だ! 右は反対!」
子どもたちは群れをなして、右へと回っていった。
集団が去ってから、妹紅は小さくため息をつく。
「うまくやってよ、慧音」
あの子たち、きっと手ごわいからね。
◆
「なあ妹紅、最近寺子屋に結構子どもたちが集まるんだ。
すばらしいことだとは思わないか?」
「あ、うん、そうだね」
ずるずると蕎麦をすすりながらの一言。慧音は何か注意をしようとしたように見える。だけど口を閉じて、表情をほころばせた。
「あのな妹紅、子どもたちが言ってたんだ。
寺子屋を教えてくれたのは――」
「私は子どもに物語してやるのが面倒だった。だから慧音に押し付けただけだ。
何か文句ある?」
慧音にはしゃべらせない。しゃべらせると、真っ赤になってしまうから。
「む……そうか。
今日は、私のおごりだからな」
相手が拒むことを、無理してやる必要はない。むしろ失礼になるかも。
だから慧音は言いかけたことを、蕎麦といっしょに飲み込んだ。
お礼はけっきょく、おごりという形で消化された。
◇
「ごちそうさま」
まさか言葉が重なるとは思わなかった。
妹紅は「えっ?」と横を向く。同じように妹紅を見る女性がいた。
同じタイミングで「ごちそうさま」といった二人の女性は、しばらくお互いを見つめていた。
女性がどういうつもりだったのか、わからない。だけど妹紅には、女性を見つめる確かな理由がある。
「……慧音?」
長い白髪。雪の大地に走る川のような青い髪。
意味不明なことを妹紅が言ったときのような、ぽかんとした表情。
何十年前かの慧音そのものだ。
相手に失礼だとか、もう考えられなかった。
「あの?」
女性が、「宿題を忘れた」と言われた慧音のような顔になった。幻の時間が終わる。妹紅は慌てて渇いた口を動かした。
「あ、ご、ごめん。何でもない」
女性は妹紅に「そうですか」と言って、くすりと笑った。この笑顔は、二人でいっしょに蕎麦を食べたときの笑顔そのもの。
だけど声がちがう。雰囲気がすこしだけちがう。
この二つだけで、慧音じゃないということがわかる。
やっぱり、いないんだな。
『お前が人間と仲良くしてくれる限り、ずっと私は一緒にいるからな』
無理してウソつくなって。
私はもう、大丈夫だから。
でももうすこしだけ、慧音が愛した里を見て回りたい。
寺子屋はまだ残ってるかな。生徒たちがよく遊んでいた公園は?
お金を払い、妹紅は蕎麦屋を出て行った。
慧音の家をまわって、公園へ行こう。
◇
横になって布団をかぶる慧音に、妹紅は水を手渡した。慧音はお礼を言って受け取り、一杯飲んだ。
「惜しいな、あと少しで100回生だったんだが」
「そんなこと言うなって、ちゃんと100回生まで教えてあげなよ」
「な?」と言って慧音の肩をたたく妹紅。慧音は力なく微笑む。
いつもは続く会話なのに、なぜか今日だけは凍った川のように動かない。
動かす唇すら、凍りついてしまうような寒さが続く。
重く寒い時間の流れ。凍っているのに流れている、ふしぎな時間。
時間を先にとかせたのは、慧音のほうだった。
「なあ妹紅、寺子屋の――」
「先生にはならない。めんどくさい」
慧音にとっては、臨終間際に伸ばした手にも等しい。だというのに、妹紅はその手を払った。
「ちゃんと、お前が教えてやれ。寺子屋も教鞭も頭突きも、慧音だけのものだ。他のやつが持っていいわけない」
「頭突きはもう止めたって言ったじゃないか……」
慧音が苦笑い。もうすぐいなくなるなんて信じられない。
「残りが二つになっても、その二つは慧音だけのもの。たとえお前が拒否しても私が認めない」
慧音は今度こそあきらめたようだ。何も言わず、ただ力を抜いた微笑みを浮かべている。
「妹紅、ちゃんと里の人と仲良くしてやってくれよ?」
「慧音がいる限りね」
意地悪を言ってみる。いつもは黙る慧音だけど、今日だけはなぜか口が達者だ。寺子屋の件の復習だろうか。
「お前が人間と仲良くしてくれる限り、ずっと私は一緒にいるからな」
どっちかが破ると壊れてしまう。ただし、どちらかが守り続ける限り生きる。
不安定だけど、あたたかみのある連鎖的な約束。
「妹紅、必ず帰ってくるからな」
「いいって、私は大丈夫。暇つぶしに輝夜だっているし、人里でも結構知られてるから」
慧音はまた笑う。
「……さてと、悪いけどそろそろ帰ってもらえるか? 私も眠いからな」
「泊まっちゃダメかな。ダメっつったら殺すけど」
「なるほど、選択肢はないわけだな。いいぞ、押入れの中に布団はいってるから」
本当にダメなら、こんなにあっさり引き下がらない。もしかすると慧音も、妹紅が一晩いっしょにいることを望んだのかもしれない。
きっと、そうだよね。
確かめるまでもない質問を、空中の中に浮かべてみた。
◆
「……妹紅」
小さな声だったのに、すべての音が慧音の声を優先する。妹紅の耳には、慧音の声しか聞こえなかった。
「どうした」
「えっとな、迎えの時間が来たかもしれない」
「そういうことってさ、泣きそうな顔で言うもんじゃない?」
何で本人がこんなに緊張感ないのさ。
何笑ってるんだよ。泣いてよ。泣いて別れを惜しみなよ。それがふつうだろ?
「じっとしてて、今水持ってくるから」
「待っててくれ。私は必ず、戻ってくるから」
妹紅は抜け出そうとした布団に戻り、慧音のほうを向く。
暗いけど慧音の顔がうっすらと見える。もうすこし経つと、はっきりするだろう。
うっすらと見える表情は、力強くはない。だけど頼りがいのある笑顔。この顔でウソをついた慧音は今まで誰も見たことがない。
妹紅はちゃんと知っている。慧音がこの顔を見せるときは、揺れることのない未来を見ているときだと。
こんなときにまで、無理しなくてもいいのに。
「無理するなって、言ってるだろッ!」
ついつい乱暴な声が出てしまう。本心とは反対だからか、のどに引っかかって涙声になった。
「無理なんかしてないよ。帰ってくるなって言うほうが無理だ」
「うるさいな、はやく寝ろよ!」
子どもが、わがままを言うときの声に似た声だった。
もうすぐ会話ができなくなる。なのに二人の間をつなぐのは、ふしぎと弛んだ糸だった。ぴんと張り詰めると、すぐに切れてしまうからかもしれない。
「必ず、帰ってくるからな。結構待たせるかもしれないが、先行くなよ?」
「……遅刻は頭突きだからな」
「私の寺子屋の罰を使うのか。先生はやらないんだろう?」
慧音が弱々しく、なのに勝ち誇ったように笑う。
「いいところだけは使うんだよ」
「だが妹紅の頭じゃ、私に勝てないんじゃないか?」
さっきよりももっと、勝ち誇ったように笑う慧音。いや、本当に勝ち誇っているのか。
「……ゆっくり休んで来い。私は、それからでいいから」
「ん、わかった」
慧音は「おやすみ」と一言。妹紅も同じ言葉を返す。
妹紅の長い、長い夜。
今、はじまった。
◇
慧音の家からすぐ近く。里の真ん中よりちょっと東のところに、小さな公園がある。
あったと言わないといけないかと思っていた。だけど、小さいくせにふしぎと残っていた。昔はよく寺子屋の子どもたちと、ここで遊んだものだ。
なつかしい公園をしっかりと眺める。
公園っていうのはふしぎだ。時代が変わっても、遊ぶ子どもたちは絶えることがない。いつの時代に覗いても、交代でつぎの子どもたちが遊ぶ。決して途切れずに巡っていく。まるで、運命みたいだ。
今の時代も、やっぱり遊ぶ子どもはいる。
今公園にいるのは、小さい子どもが五人ほど。あと一人、たぶん他の子より年上と思われる少女がいる。
「……あれ?」
少女がまたしても誰かとかぶって、妹紅は一歩近寄る。
少女は何やら本を持っている。加えて、口をパクパクさせている。少女を囲む子どもたち。
読み聞かせしてるのかな?
妹紅はまた一歩近寄った。そろそろ不審者の範囲かもしれない。
風に流れて、少女の声が聞こえてくる。
リズムのよい文章が心にしみる。物語を読んでいるみたいだ。
少女の声に飾られた物語が耳を通る。物語は少女の声だけを落とし、反対の耳から抜けていった。
残った音が、形を持つ。人の形になり、見覚えのある顔を作り出した。
「慧……音?」
なぜこのタイミングで慧音が現れるのだろう。
物語と、何の接点があるわけでもないのに。
また一歩、砂を踏みしめる。やわらかい砂なのに、妹紅をしっかりと受け止めた。まるで、砂もまた先に進むことを応援するかのように。
少女が顔を上げた。妹紅の目をじっと見つめている。フラッシュバックのように慧音のいくつもの顔が現れ、重なっていった。
「あ、ほら、えっと……」
言葉が結びつかない。文章にならない。でも、かまわないような気がした。
「どうかしましたか?」
うしろからの声におどろき、妹紅は振り返る。さっき蕎麦屋で会った女性だった。
「私の娘に、何かご用でしょうか?」
『私に何かご用ですか?』
女性の声と、かつての慧音の声が重なった。心の深いところに流れていき、しびれるような感覚に包まれる。
「あー……ははは」
空を見上げる。雲は別れて、太陽の光が差してきた。夜明けの時間は、とっくにすぎていた。
ああ、しまったなあ……。
妹紅は軽い失敗をしたときのように、自分を責める。
慧音がウソをつくはずがないんだ。何で疑ってしまったんだろう。
最初からこうなることなんてわかっていた。なのに、勝手にカン違いした。ありえない、と勝手に割り切った。
奇跡は、たしかに存在したのに。
あーあ、遅刻は頭突きだったかな。まあ、しかたないか。
待たせすぎたんだから。
でもその前に。頭を差し出す前に、やることがある。
ちゃんと、言うべきことはあるだろう。
ほら、言わないと。二人が、怒り出す前に。待ち合わせの時間は、とっくに過ぎているんだから。
最初はぱちりと目を開いただけ。
まだ眠いのか、閉じた。また目を開ける。しばらく経っても目は閉じられない。やっと、目を覚ましたみたいだ。いや、目だけが覚めたみたいだ。
声を漏らす。水の中で聞く音のように、自分の声が頼りない。
頭がまだ起きていない。まだ起きる時間じゃない、寝たいんだと言っている。
もう一度目を閉じようと思った。
どうも気が進まない。
だるい日はとことんだるい。のんびり寝ていたいのだ。でも、そんな日はもう何十年と続いている。
続いているのだから、もう一度目を閉じたって眠れないことを知っている。熟睡なんて自分にはありえないのだ。
あの日から、ずっと。ずっと、妹紅は真夜中の時間を生きている。
朝が来ても終わらない、永遠の真夜中の時間を。
【待ち合わせの時間、夜明けの時間】
古びた機械の悲鳴にも似た、骨と筋肉が働く音。二つの音よりもすこし遅れた妹紅のうめき声。
三つの音は混ざり合い、目覚ましとなる。妹紅の頭をはっきりと目覚めさせるための、だ。
自分の声で起きるという妙な経験も、もう慣れてしまった。
一度慧音の授業を受けたとき、同じような経験をした覚えがある。
ちゃんと眠れていないとこういう経験をする。気づいたのは一体いつのことだったか。
十分に眠れていない、か。
別にたいしたことじゃない。食べる必要も、トイレに行く必要も、寝る必要もない体をしているのだから。
空腹はあの日から感じていないから気にならない。
トイレなんてもっとどうでもいい。気づいたらもらしていた、なんてこともないからどうでもいい。どうせ体がどうにかしたんだろう。
寝る必要――やっぱり必要ない。だけどおとなしくしていたら自然と寝ている。何もしなくてもできることなのだから、これだけは欠かしたことがない。
ずっと眠っていられば、どれほどたのしいだろうか。目を覚ますことなく、ずっと、ずっと。
よければ私に、眠りの魔法をかけてくれないかな。王子様のキスなんていらないから、死体のように放っておいてほしい。
願っても時間は許してくれない。毎日決まった時間だけ私を眠らし、決まった時間になったら味のない日常に放り出す。
『生きてるってすばらしい!』
昔、大声で宣言してるやつがいた。
そう、じゃあ代わってよ。何日か私と状況を交換しただけで、生きることの味気なさがわかるはずだよ。
家の外で、鳥がたのしそうに鳴いている。もううっすらとしか覚えていないほど昔、鳥の声の美しさを歌にしたことがある。貴族をやめてからやらなくなった。
かわりに、歌声に耳を澄ませては鼻歌を重ね、鳥たちとの合唱をたのしんだものだ。
ところが、あの日――。あの日から、私は持っていたすべての風流心を失ってしまった。
鳥の声なんて雑音でしかない。夜に聞こえる虫の声だって、もう子守唄じゃなかった。
「ああ、うるさいなあ……」
むしろ、鬱な私に対する嫌味にも感じるくらいだ。
気にしてしまうと余計に気になって、もはや無視できない。うっとうしくてうっとうしくて、妹紅は扉を蹴破るように開いた。灰色の曇り空が映る。
「うるさい!」
扉の音と入れ替わりに翼の音が耳に刺さり、やがて聞こえなくなった。なぜか、すこし物足りない気持ちになった。
だけれど、またすぐに不機嫌になる。
――ぴー、ぴー。
「はあ……」
かなり遠いところにいるのに、ふしぎと耳に届く。
すうっと息を吸い込む。久しぶりに森の空気が肺の中を満たした。そしてもうひとつ、人里から流れてきたと思われる昼食のにおいが。
「焼き鳥にするぞッ!」
自然の音とはほど遠い声。鳥はまだ鳴く。まるで妹紅をバカにするかのように。
もう一声叫ぼうとする妹紅。
ところが、『焼き鳥』という自分自身の声がいけなかった。しばらく眠っていたお腹が、ぴくりと反応する。
うつらうつらしていたお腹は、人里からのにおいで飛び起きたのだった。
――くう……。
居眠りしたぶんを取り戻すかのように、訳のわからないまま鳴り続けるお腹。「黙れ」と言ってお腹を押さえる。抵抗するかのように、余計にうるさくなった。
物足りないような、吐き気のような――。不快にしか思えない何かがせりあがってきた。
家に戻って食べ物を漁りはじめる。
しかし食べ物はどこにもなく、食べ物あふれる自然に飛び出す勇気もなかった。
消去法で森や川が消えた今、人里しか残っていない。
どこでもいいから食べ物屋に寄って、さっさと帰ろう。
何年――もしかすると何十年――ぶりに、妹紅は人里へと歩き出した。
まだ慧音とよく行った、あの蕎麦屋は残っているだろうか。
◇
「私はな、教育がとても大事だと思うんだよ。だけど誰も集まらないんだ。
いつかきっと、里に住む――いや、幻想郷に住む人妖すべてに教育を受けさせたいんだが」
「言葉とか理解できないやつはどうするの? いきなり食われるかもしれないよ?」
「それはだな――!
……それは、えーっと……」
「とにかく!」と慧音はコップをたたきつけ、
「教育は大事なんだ!」
と怒鳴り散らした。口からお酒が飛び、妹紅は降水確率が低いところに移動する。
「まあまあ。里の人たちに理解されないのはわかるけど、ちょっと落ち着きなよ。
生徒たちがこんな先生の姿、見たらどう思う?」
「む……」
慧音はもういっぱい頼もうとしたお酒をキャンセル。代わりに水を注文した。
不完全燃焼の慧音は、すこし機嫌が悪かった。
◆
「お姉ちゃんお姉ちゃん」
「ん、何?」
急に話しかけてきた子どもたち。珍しいこともあるものだ。
「これなんて読むのー?」
子どもたちは妹紅を囲み、持っていた本の一ページ目を開いた。
「今は昔、竹取の翁というものありけり」
「じゃあつぎは、つぎは?」
妹紅は見つめていた文章から目を離し、本全体を眺めた。行間の詰まった文字が、狭そうに這いずりまわっている。
「……もしかして、全部読ませようとしてる?」
「うん!」
子どもたちは悪気はないのだろう。しかし、これはやりすぎだ。
「あー……あのね、ここからまっすぐ行ってあの家を右に曲がったところ。あそこに髪の毛の白いお姉さんの家があるでしょ?
あの人に教えてもらいな、私よりずっと詳しいから。きっと読み書きができるようになるよ」
「僕たちでもできるの?」
子どもは聞く。疑っているのか、純粋に疑問なのか。
どちらにしろ、妹紅には「うん」と答えるしかない。
「まちがいない。一日だけでもいいから、行ってごらん」
「うん、ありがとうお姉ちゃん!」
子どもたちは、妹紅の言うとおり、まっすぐ行って右に――曲がらなかった。
「おーい、そっちは左だ! 右は反対!」
子どもたちは群れをなして、右へと回っていった。
集団が去ってから、妹紅は小さくため息をつく。
「うまくやってよ、慧音」
あの子たち、きっと手ごわいからね。
◆
「なあ妹紅、最近寺子屋に結構子どもたちが集まるんだ。
すばらしいことだとは思わないか?」
「あ、うん、そうだね」
ずるずると蕎麦をすすりながらの一言。慧音は何か注意をしようとしたように見える。だけど口を閉じて、表情をほころばせた。
「あのな妹紅、子どもたちが言ってたんだ。
寺子屋を教えてくれたのは――」
「私は子どもに物語してやるのが面倒だった。だから慧音に押し付けただけだ。
何か文句ある?」
慧音にはしゃべらせない。しゃべらせると、真っ赤になってしまうから。
「む……そうか。
今日は、私のおごりだからな」
相手が拒むことを、無理してやる必要はない。むしろ失礼になるかも。
だから慧音は言いかけたことを、蕎麦といっしょに飲み込んだ。
お礼はけっきょく、おごりという形で消化された。
◇
「ごちそうさま」
まさか言葉が重なるとは思わなかった。
妹紅は「えっ?」と横を向く。同じように妹紅を見る女性がいた。
同じタイミングで「ごちそうさま」といった二人の女性は、しばらくお互いを見つめていた。
女性がどういうつもりだったのか、わからない。だけど妹紅には、女性を見つめる確かな理由がある。
「……慧音?」
長い白髪。雪の大地に走る川のような青い髪。
意味不明なことを妹紅が言ったときのような、ぽかんとした表情。
何十年前かの慧音そのものだ。
相手に失礼だとか、もう考えられなかった。
「あの?」
女性が、「宿題を忘れた」と言われた慧音のような顔になった。幻の時間が終わる。妹紅は慌てて渇いた口を動かした。
「あ、ご、ごめん。何でもない」
女性は妹紅に「そうですか」と言って、くすりと笑った。この笑顔は、二人でいっしょに蕎麦を食べたときの笑顔そのもの。
だけど声がちがう。雰囲気がすこしだけちがう。
この二つだけで、慧音じゃないということがわかる。
やっぱり、いないんだな。
『お前が人間と仲良くしてくれる限り、ずっと私は一緒にいるからな』
無理してウソつくなって。
私はもう、大丈夫だから。
でももうすこしだけ、慧音が愛した里を見て回りたい。
寺子屋はまだ残ってるかな。生徒たちがよく遊んでいた公園は?
お金を払い、妹紅は蕎麦屋を出て行った。
慧音の家をまわって、公園へ行こう。
◇
横になって布団をかぶる慧音に、妹紅は水を手渡した。慧音はお礼を言って受け取り、一杯飲んだ。
「惜しいな、あと少しで100回生だったんだが」
「そんなこと言うなって、ちゃんと100回生まで教えてあげなよ」
「な?」と言って慧音の肩をたたく妹紅。慧音は力なく微笑む。
いつもは続く会話なのに、なぜか今日だけは凍った川のように動かない。
動かす唇すら、凍りついてしまうような寒さが続く。
重く寒い時間の流れ。凍っているのに流れている、ふしぎな時間。
時間を先にとかせたのは、慧音のほうだった。
「なあ妹紅、寺子屋の――」
「先生にはならない。めんどくさい」
慧音にとっては、臨終間際に伸ばした手にも等しい。だというのに、妹紅はその手を払った。
「ちゃんと、お前が教えてやれ。寺子屋も教鞭も頭突きも、慧音だけのものだ。他のやつが持っていいわけない」
「頭突きはもう止めたって言ったじゃないか……」
慧音が苦笑い。もうすぐいなくなるなんて信じられない。
「残りが二つになっても、その二つは慧音だけのもの。たとえお前が拒否しても私が認めない」
慧音は今度こそあきらめたようだ。何も言わず、ただ力を抜いた微笑みを浮かべている。
「妹紅、ちゃんと里の人と仲良くしてやってくれよ?」
「慧音がいる限りね」
意地悪を言ってみる。いつもは黙る慧音だけど、今日だけはなぜか口が達者だ。寺子屋の件の復習だろうか。
「お前が人間と仲良くしてくれる限り、ずっと私は一緒にいるからな」
どっちかが破ると壊れてしまう。ただし、どちらかが守り続ける限り生きる。
不安定だけど、あたたかみのある連鎖的な約束。
「妹紅、必ず帰ってくるからな」
「いいって、私は大丈夫。暇つぶしに輝夜だっているし、人里でも結構知られてるから」
慧音はまた笑う。
「……さてと、悪いけどそろそろ帰ってもらえるか? 私も眠いからな」
「泊まっちゃダメかな。ダメっつったら殺すけど」
「なるほど、選択肢はないわけだな。いいぞ、押入れの中に布団はいってるから」
本当にダメなら、こんなにあっさり引き下がらない。もしかすると慧音も、妹紅が一晩いっしょにいることを望んだのかもしれない。
きっと、そうだよね。
確かめるまでもない質問を、空中の中に浮かべてみた。
◆
「……妹紅」
小さな声だったのに、すべての音が慧音の声を優先する。妹紅の耳には、慧音の声しか聞こえなかった。
「どうした」
「えっとな、迎えの時間が来たかもしれない」
「そういうことってさ、泣きそうな顔で言うもんじゃない?」
何で本人がこんなに緊張感ないのさ。
何笑ってるんだよ。泣いてよ。泣いて別れを惜しみなよ。それがふつうだろ?
「じっとしてて、今水持ってくるから」
「待っててくれ。私は必ず、戻ってくるから」
妹紅は抜け出そうとした布団に戻り、慧音のほうを向く。
暗いけど慧音の顔がうっすらと見える。もうすこし経つと、はっきりするだろう。
うっすらと見える表情は、力強くはない。だけど頼りがいのある笑顔。この顔でウソをついた慧音は今まで誰も見たことがない。
妹紅はちゃんと知っている。慧音がこの顔を見せるときは、揺れることのない未来を見ているときだと。
こんなときにまで、無理しなくてもいいのに。
「無理するなって、言ってるだろッ!」
ついつい乱暴な声が出てしまう。本心とは反対だからか、のどに引っかかって涙声になった。
「無理なんかしてないよ。帰ってくるなって言うほうが無理だ」
「うるさいな、はやく寝ろよ!」
子どもが、わがままを言うときの声に似た声だった。
もうすぐ会話ができなくなる。なのに二人の間をつなぐのは、ふしぎと弛んだ糸だった。ぴんと張り詰めると、すぐに切れてしまうからかもしれない。
「必ず、帰ってくるからな。結構待たせるかもしれないが、先行くなよ?」
「……遅刻は頭突きだからな」
「私の寺子屋の罰を使うのか。先生はやらないんだろう?」
慧音が弱々しく、なのに勝ち誇ったように笑う。
「いいところだけは使うんだよ」
「だが妹紅の頭じゃ、私に勝てないんじゃないか?」
さっきよりももっと、勝ち誇ったように笑う慧音。いや、本当に勝ち誇っているのか。
「……ゆっくり休んで来い。私は、それからでいいから」
「ん、わかった」
慧音は「おやすみ」と一言。妹紅も同じ言葉を返す。
妹紅の長い、長い夜。
今、はじまった。
◇
慧音の家からすぐ近く。里の真ん中よりちょっと東のところに、小さな公園がある。
あったと言わないといけないかと思っていた。だけど、小さいくせにふしぎと残っていた。昔はよく寺子屋の子どもたちと、ここで遊んだものだ。
なつかしい公園をしっかりと眺める。
公園っていうのはふしぎだ。時代が変わっても、遊ぶ子どもたちは絶えることがない。いつの時代に覗いても、交代でつぎの子どもたちが遊ぶ。決して途切れずに巡っていく。まるで、運命みたいだ。
今の時代も、やっぱり遊ぶ子どもはいる。
今公園にいるのは、小さい子どもが五人ほど。あと一人、たぶん他の子より年上と思われる少女がいる。
「……あれ?」
少女がまたしても誰かとかぶって、妹紅は一歩近寄る。
少女は何やら本を持っている。加えて、口をパクパクさせている。少女を囲む子どもたち。
読み聞かせしてるのかな?
妹紅はまた一歩近寄った。そろそろ不審者の範囲かもしれない。
風に流れて、少女の声が聞こえてくる。
リズムのよい文章が心にしみる。物語を読んでいるみたいだ。
少女の声に飾られた物語が耳を通る。物語は少女の声だけを落とし、反対の耳から抜けていった。
残った音が、形を持つ。人の形になり、見覚えのある顔を作り出した。
「慧……音?」
なぜこのタイミングで慧音が現れるのだろう。
物語と、何の接点があるわけでもないのに。
また一歩、砂を踏みしめる。やわらかい砂なのに、妹紅をしっかりと受け止めた。まるで、砂もまた先に進むことを応援するかのように。
少女が顔を上げた。妹紅の目をじっと見つめている。フラッシュバックのように慧音のいくつもの顔が現れ、重なっていった。
「あ、ほら、えっと……」
言葉が結びつかない。文章にならない。でも、かまわないような気がした。
「どうかしましたか?」
うしろからの声におどろき、妹紅は振り返る。さっき蕎麦屋で会った女性だった。
「私の娘に、何かご用でしょうか?」
『私に何かご用ですか?』
女性の声と、かつての慧音の声が重なった。心の深いところに流れていき、しびれるような感覚に包まれる。
「あー……ははは」
空を見上げる。雲は別れて、太陽の光が差してきた。夜明けの時間は、とっくにすぎていた。
ああ、しまったなあ……。
妹紅は軽い失敗をしたときのように、自分を責める。
慧音がウソをつくはずがないんだ。何で疑ってしまったんだろう。
最初からこうなることなんてわかっていた。なのに、勝手にカン違いした。ありえない、と勝手に割り切った。
奇跡は、たしかに存在したのに。
あーあ、遅刻は頭突きだったかな。まあ、しかたないか。
待たせすぎたんだから。
でもその前に。頭を差し出す前に、やることがある。
ちゃんと、言うべきことはあるだろう。
ほら、言わないと。二人が、怒り出す前に。待ち合わせの時間は、とっくに過ぎているんだから。
良いですね。感情が良く伝わってきました。