※俺設定が多いです。
※それなりに長いので、お時間のあるときにお好きな飲み物などを用意してのんびりと読んでください。
それではどうぞ。
1. 三段の調(しらべ)
ふと夜空を見上げると、月は見えない。雲に遮られ、その姿はすっかり隠れてしまっている。ただ月光だけが、僅かな雲の切れ間から降り注ぐ。月は更待月というところだろうか。数日前には望月だった。
夏も終わりに差し掛かっている。じきに虫の音も聞こえ始めるだろう。まだ外では時々ひゅうひゅうと風の鳴る音と、笹の葉の幹に当たってさらさらという音が聞こえるばかりだ。
手元は箏(こと)の絃(いと)の感触に集中しているけれど、視線はふらふらと外の景色に惹かれ彷徨う。
傍には月のイナバが座って耳を澄ませているけれど、曲を分かって聞いている風ではない。
曲も終りに差し掛かり、ふと気が緩んだか微妙に指先が乱れてしまった。
「音が乱れていますよ」
「あら永琳、聞いていたの。いいのよ。手すさびに弄っていただけなのだから」
「調弦も気持ちばかりずれていますね」
「そうね。随分久しぶりに引っ張り出してきたものだから、絃も緩んでいるわ」
「琴柱(ことじ)はいかがですか?」
「こちらは問題なさそうよ。象牙はやはり品質のいいものに限るわね」
「そうですか。絃は明日にでも兎達に張り直させましょう」
「いいわ。久しぶりに私がやるわよ。これからまた暫くは、お箏で時間を潰すことにしたの。まずは手入れから、ね」
「では、ご随意に」
「明日は久しぶりに外出してみようかしら。小物など売っているといいのだけれど」
「では森の近くの古道具屋などいかがでしょう。噂では、なかなか風変わりなものを扱っているようですよ」
「そうね。楽しみだわ」
「ウドンゲをお供に付けますが、くれぐれも用心してくださいね。いいわね、ウドンゲ」
「はい」
「大丈夫よ。滅多なことでは死ねないから」
「そういう問題じゃありません」
「わかってるわよ。心配しなくても大丈夫」
「では、お休みなさいませ」
「ええ、お休み」
来た時と同じように、足音一つ立てずに永琳は立ち去る。
襖を開けておいた私も私だが、立ち聞きとはあまり行儀がよくない。
聞かれて困るようなものでもないけれど。
かなり昔に弾いたきりだったので不安だったが、曲は手が覚えていた。
押しの感覚も鈍ってはいない。
慣れればまた元通りに弾けるだろう。
それよりも、今は箏を張り直すのが楽しみで仕方ない。
あれは、それなりに大変だけれど、楽しい作業でもあるのだ。
仕上げに少し手の速い曲を弾いていると、突然七の絃がばちんと音をたてて切れてしまった。
「姫様、お怪我は!」
「大丈夫よ。古くなっていたのかしらね。張り替えて大分経つから仕方ないのだけれど」
今日中に六段の調もさらっておきたかったのだけれど、絃が切れてはそれも叶わない。
折角だから箏を一面張り替えた方がよさそうだ。
もう遅いので、イナバをさがらせて床に入ることにした。
■□■□■
私の持っているお箏は、特別な謂れがあるようなものではない。
何の変哲もない、ただのお箏だ。
特別な材質で出来ているわけでもなければ、なにか神秘的な力が秘められているわけでもない。
桐の胴に絹の絃が張ってあるだけ。琴柱は良いものだけれど、ありふれている。
上質ではあるけれどありきたりな造りで、音も良いけれど何か力を持っているわけでもない。
けれど、楽器というのはそれでいい。
これは難題でも何でもない。ただ暇を潰す為だけに手に入れたものだ。
十三本の絃が奏でる音の連なりを作り出すのは、単純なようでなかなか奥が深い。
単純に音を並べただけでは曲にはならない。
音の強弱、拍子の緩急が一つの曲を作り出す。
それをいかに自然に作り出すかは、演奏者の腕前にかかっている。
自分が心地よいように弾いているだけでよいのなら、これ以上に気楽な娯楽もないだろう。
自分しかいない閉じた世界で、気ままに音を生み出すばかりで済んでしまう。
ところが、ある程度慣れてくるとそれでは済まなくなってくる。
誰かに聞かせたくなるのだ。
そうなると、自分の好きに弾くだけでは済まない。
自分以外の誰かが聞いてもいいものだと思わせたくなるのは人の性というものだろう。
そこで必要なのは離見の見だ。
自分以外の人間からはどう聞こえているのか、知らなければならない。
その上で、自分なりに曲を奏でる。
ところが、今の状況ではそれは恐らく叶わないに違いない。
生憎と永琳は管絃の楽にあまり興味が無いようだし、最年長の因幡は民謡などの謡には明るいようだけれど、何か楽器を嗜むわけではないようだ。この永遠亭において私の他に演奏を娯楽とする者はいない。
今回の外出では、永遠亭以外の場所でお箏を嗜みそうな人物を探すのが目的の一つだ。
楽器に必要なものを扱っている店でなら、そういう情報も手に入るのではないかと目論んでいる。
もう竹林を抜けて、しばらく歩くと人里に着くころだろう。
件の店は人里を抜けてさらに魔法の森のあたりまで行かなければいけないらしい。
それにしても。
「イナバ、歩くのが速いわ。もう少しゆっくり歩いて頂戴」
「ああ、すみません。ちょっと遠くまで気を配っていたもので」
「そんなことはいいから、もっと私に気を配って。大体、今更私を襲うような輩なんかいないわよ。一人しか」
「失礼しました」
このイナバはまだどこか頭が固い。大体、私は殺したって死なないのだから偶の外出くらいに考えればいいのに。
ペットなのだから、私に愛でられるのが第一だということを忘れてはいけない。
物見遊山程度で気を張っていては、色々ともたないのだ。
「ところでイナバ。あなた、楽器は何かやらないの?」
「そうですね。姫様のなさるような楽器は弾けません。そういうのはあまり得意ではなくて。ハーモニカなら吹けますけど」
「そう。ハーモニカってあの、四角い箱で篳篥(ひちりき)みたいな音の鳴る、妙な楽器ね」
「はい。持ち運びも簡単ですし丈夫でいいですよ」
「私はパスね。笛みたいなものは得意じゃないの」
龍笛も篳篥も笙も尺八も、一通り音は出せるし曲も吹けるけれど、ああいう楽器は趣味に合わなかった。
三絃や箏といった絃をつまびく感じが、私には丁度いい。
なにより、笛を吹いていたら歌えないもの。
「あ、ギターも弾けますよ。今は持ってませんけど」
「ギター?」
「えっと、三味線の絃が六本になったみたいな楽器です」
「そう。それは三絃というよりも琵琶に近そうね」
「あ、そうですね。琵琶みたいな感じです」
琵琶か。あれは遊女か法師の持ち物だと思っているから、触ったことはない。
うん。そのギターとやらは少し面白そうだ。
「それにしても姫様、なぜ急にお箏など?」
「急でもないわよ。以前、暇つぶしに覚えたことがあったの。で、この前蔵を整理してたら出てきたものだから」
「綺麗な曲ですよね。お箏の音って素敵だと思います」
「それはそうね。琴線に触れるって言うくらいだもの」
きっと心のどこかに絃が張ってあって、感動する事があると何かがその絃に触れるのだろう。
心中に澄んだ音が響くように感じるのは心地良い。
例えば今、目の前を妹紅が通り過ぎた時のように。
いやいやいやいや。
「輝夜っ!」
「……今日は厄日だわ」
「奇遇だね。私もそう思ったとこさ」
「ひ、姫様」
「イナバは屋敷に戻りなさい。外出はまたの機会にお預けよ」
「ですが」
「いいから。あなたじゃ敵わないでしょう。ペットは主人の言うことを聞くものよ」
「は、はい」
脱兎の如く駆け出すイナバ。まあ、イナバだし。
それにしてもなんて久しぶりの妹紅だろう。
実際は精々がところ数か月だけれど、会わない時間はそれだけで想いを募らせるもので。
妹紅はモンペのポケットに両手を入れたまま、それでも油断なく身構えている。
「やる気か?」
「私にその気が無くっても、あなたは準備万端じゃない」
なんて空々しい会話だろうと思わないわけではないけれど、前口上は欠かせない。
それがあくまで形式上のものであることも互いに承知の上。
その証拠に、ポケットから出して構えたその手には、もう炎を纏っている。
「そっちこそ、その手にあるのはなんだ」
「私の物を私が持っていたらおかしいかしら」
「玉の枝は持ち歩くようなもんじゃないだろう」
「そうね。日も高いうちからやりあうのは非常に不本意なのだけれど」
「そうだな。こう明るくちゃ、お前を燃やしても薪代わりにも出来やしない」
「あら、鳥が七色の弾幕に貫かれるのは夜空にこそ映えるという意味で言ったのよ」
「口の減らない奴だ。火だるまになる覚悟はいいな」
「やっぱり日も高いうちから出歩くものではなかったかしらね。化鳥を射るのは夜と相場が決まっているのに」
一触即発の空気が周囲に満ちる。
互いに動けばそれが開始の合図。
と、妹紅の手に、スペルカードが現れる。
流石は妹紅。実によく分かっている。
そう思いつつも、あくまで口上は白々しく。
「前座も無しに真打なんて、ちょっと急ぎすぎなのではない?」
「一秒だってお前と同じ空気を吸っていたくないからね」
「あら、つれないのね。久方振りの逢瀬なのだから、もっとじっくり楽しみましょうよ。弾幕ごっこは遊戯なのよ?」
「私やお前にとっては、弾幕ごっこも殺し合いも大差ないだろう」
「それもそうね。じゃあ、久方ぶりの殺し合いを心行くまで楽しみましょうか」
私もスペルカードを取り出し、見せつけるように捧げ持つ。
妹紅の笑みが、深くなる。
私も、すっと目を細める。
殺し合いの開始だ。
妹紅がスペルカード宣言するのに重ねて、私も宣言する。
スペルカードルールからすると意味のない行為にも見えるけれど、こういった事柄は何より見栄えが重要だ。
相手が真打を出してくるのにこちらが前座でかわすなんて、興が削がれようというもの。
大技には大技を。
それが華。
不死「火の鳥 -鳳翼天翔-」
難題「蓬莱の弾の枝 -虹色の弾幕-」
そして妹紅の火の鳥を模した弾幕が、私の虹色の弾幕とぶつかり相殺し合う。
華々しく散っていく弾幕のかげから、妹紅がこちらへと突っ込んでくる気配がした。
いつもの手だ。目くらましと足止めに弾幕を放つけれど、本命は己の腕。
足止めと目くらましに弾幕を使われるのは確かに脅威だけれど、何度もやられていれば打ち込みの呼吸や狙ってくる場所くらい読める。
迎え撃つために、予測に従い左足を前に半身に構える。
読み通りの位置に現れた妹紅は、驚いた表情も見せずに拳を振るった。
当然だろう。欠伸が出てしまうほどにやり尽くした動きだ。
この先の動きも同じ。
炎を纏った拳が間一髪で身をかわした私の鼻先すれすれをかすめる。
交差するように貫手を出すけれど、妹紅の白い顔に触れるか触れないかのあたりで空を切る。
当たればただでは済まない打撃も単なる挨拶に過ぎない。
まずは小手調べ。軽い手合わせ程度のものだ。
そして、妹紅と私は悔しいくらいに手が合う。
打てば響くの例えの通り、たとえ不意打ちだろうと即応する。
どんな攻撃も捌ききり、いかなる防御も崩して倒す。
それは互いについて言えることで、戦績は現在に至るまで拮抗している。
つまりは相性ばっちり。
というわけでお互い初手では決まらずに、一旦間合いを取って仕切り直す。
それにしても、だ。
久方ぶりの殺し合いに、頭は全てを理解しても身体が付いてきていない。
先程の読みがもう少しでもずれていたら、今頃は酷い火傷を負っていたに違いない。
それほどまでに身体の動きが重かった。
それは向こうも分かっているだろう。
「鈍ってるな。反応がいつもより悪いぞ」
「あんたこそ、毎度パターンを読まれているのによくも飽きないこと。なんとかの一つ覚えとはこのことね」
「言ってろ! 燃やし尽くしてやる」
「ほら、またいつものパターン」
言いながら、妹紅が手にカードを構える。
私も遅れないようにカードを取り出すと、事前に取り決めてでもあったかのように同時にスペルカード宣言する。
蓬莱「凱風快晴 -フジヤマヴォルケイノ-」
難題「火鼠の皮衣 -焦れぬ心-」
そして再び弾幕が交差し相殺し合う刹那――
空間がぬるりと歪み、空間の裂け目から胡散臭いモノが現れた。
境符「四重結界」
突然現れたソレは、スペルカード宣言をすると私たちの弾幕を綺麗さっぱり消し去る。そのまま胡散臭い仕草でゆるゆると歩くと、丁度私と妹紅の中間で立ち止まった。
以前見た時も感じたけれど、やはり気味の良い存在ではない。胡散臭さを体現したと言うに相応しい佇まいは否応無しに見る者を身構えさせる。
時間にして数秒程度の静寂の後、扇子で口元を隠しながら八雲紫はゆっくりと話し始める。張りのあって通る声質でもないくせにいやに耳に残る声だ。まるで絡みついてくるようで、これもまた気味のいいものではない。
「そこまでにしていただけないかしら。弾幕ごっこならまだしも、昼間からこんな処で殺し合いをされては迷惑ですわ」
「あら、妖怪の賢者殿が仲裁かしら?」
「いいえ、警告よ。あなた方の殺し合いに割って入るつもりは毛頭ありませんけど、昼間は人間たちの時間ですもの。人間以外が大っぴらに殺し合いをしてもいいのは、夜になって人が寝静まってからですわ」
「だ、そうだけど」
「……ふん。そうだね、またの機会に殺すとするか」
あっさりと火の鳥を納めると、妹紅は不貞腐れたように竹林へ帰って行った。
小さく手を振ってみるけれど、きっと気付いていないだろう。
それにしても……。
「ご無沙汰していますわね、永遠亭の姫。日も高いうちからどちらへ?」
「随分と早起きなのね、妖怪の賢者ともあろう方が。お箏の小物など買いに行こうかと思っただけよ」
「こういう騒ぎは今日限りにしてほしいものですわね。おかげで眠くて仕方がないですわ。それにしても、お箏が趣味なんですのね」
「嗜む程度だけれどね。暫くぶりに弾いてみようか思って。箏爪も新しいものが欲しいと思っていたところだし、新しい曲も弾いてみたいもの」
「そうですか。それはそれは。私の友人もお箏を弾くのが趣味ですの」
「それは、白玉楼の亡霊嬢のことかしら。成程、いい趣味ね」
「ええ、そうですわ。月に一度、私や私の式などと一緒に」
「そう」
「ただ、偶には私たち以外とも弾いてみたいと言い出しますのよ」
「……面白そうね。その集まりに呼ばれてみたいものだわ」
「それなら是非いらして下さいな。ご招待致しますから。友人にも伝えておきますわ」
「それは楽しみね。ところで、箏の絃を一面分都合してもらえないかしら。今日は結局こういう事情で外出がとりやめになってしまったものだから」
「では、後程私の式に届けさせますわね。演奏会は次の満月ですの。友人共々お待ちしてますわ。では御機嫌よう」
そう言うと、八雲紫はぬるりとスキマに入って消えた。
結局、外出の目的は達せられたことになる。まるで誰かが仕向けたかのように順調にことが運んでいく。その誰かというのは、勿論あの八雲紫以外の何物でもないのだが。
だからといってどうこうするわけでもない。あれの企みが何であれ、私の目的は達せられるのだから。
とは言っても、掌の上で踊らされている気分にならないわけでもない。
そこまで考えてから、軽く溜息をついて永遠亭へと戻ろうと振り返る。
すると、帰ったはずのイナバがそこにいた。
「何をしているの。戻っていなさいと言ったでしょう」
「あのままでは、どちらかが行動不能になるまで終わらないと思いました。姫様が勝った場合も、その後自力でお帰りになるのは難しいだろうと判断しましたので」
「まったく。巻き込まれでもしたらどうするつもりだったのよ。私たちとは違ってイナバは限りあるものなのだから、我が身を大事にしなければならないわ。でも、ありがとう。さ、帰りましょうか」
「はい」
礼を言われたのが嬉しいのか、イナバの表情が少し柔らかくなる。
そういう表情をいつもしていればもっと可愛げも出るだろうに、なぜいつもあんなに硬い表情なのだろう。
ペットは可愛げがなければいけない。
■□■□■
永遠亭への帰り道で、先程の事を振り返る。
妹紅は興が醒めてしまったようだから、しばらくは突っかかって来ないだろう。勿体無い。
永遠を生きる身には時間の感覚などそれほど重要な意味をもたないとは言え、数か月振りの逢瀬と張り切っていたところだっただけに残念だ。
私はそもそも殆ど外出しない。妹紅は道案内などで時々訪れるようだけれど、広い永遠亭の奥の間と玄関とあっては出会うこともない。なにより、永遠亭の中で殺し合いなどしたところで永琳に叱られるのが関の山だ。
向こうもわざわざ敵地で戦うほど愚かではないのだし、考えてみると殺し合いなんてしたのは数カ月どころではなく前になる。会って早々に問答無用で喧嘩を吹っ掛けるのも無理からぬ話だ。
きっと妹紅も溜まっていたんでしょう。色々と。
納得したところでどうというわけでもない。ただ、数少ない自分と同じような存在のことはどうしても気にかかる。
「人間以外」とは言え、人間のような心情くらい持ち合わせているのだし。
確かに私たちは人間では無い。殺されても死なないというのはすでに生物ですらない。なまじ人型をしているがゆえに意識していないのも無理からぬ事とは言え、人という在り方から逸脱してしまっているのは動かしがたい事実だ。
昼日中から軽々しく殺し合いなどやっていい身分では無い。
分は弁えなければならないだろうが、ただそれだけ。
八雲紫も、そのあたりのことは重々承知だろう。
殺し合いと言っても竹林を抜けたばかりで人里から遠く、万が一にも私たち以外に被害が出るような事態にはならない。
あそこまで強硬に止めるような切羽詰まった状況ではなかった筈だ。
だから、あれはきっと気まぐれに介入してきたに過ぎないのだと思う。勿論幻想郷を維持する上で看過できない事態ではあったのだろうけれど。
ただ、八雲紫の思考を追うのは無為に思える。あれも「人型をした人間以外」である以上、人間や私たちと同じように思考するかは定かではない。そもそも思考なんてものがあるのかないのかも定かではないようなものなのだし。
気づくと、イナバが心配そうに私の顔を覗き込んでいた。
「どうしたの?」
「いえ、なにか悩んでいらっしゃるようでしたので」
「なんでもないわ。さっきの事を思い出していただけよ。それにしても、久しぶりに出歩くと疲れるわね」
「多分、出歩いたからじゃないと思いますけど」
「そうね。久方ぶりに妹紅と会ってしまったし。やはり日も高いうちから出歩くものではないわ」
「それは……」
「冗談よ。それにしても、折角の外出が駄目になってしまったわね。あの妹紅」
「まあまあ。でも、絃はどうにかなるんですよね」
「ええ。八雲紫の言葉を信じるならだけれど。まあ、こんなことで約定を違えたりはしないでしょう」
「式と言っていましたけど、あの狐が来るのでしょうか」
「でしょうね」
「あの妖怪は、苦手です。綺麗ですけど」
「そうね。狐は古来より人を化かすものだし、陰の気が強いから」
「それもありますけど、なんだか……」
「勿論、あの式もイナバより数段格上の存在ですもの。苦手意識を持っても仕方ないわよ」
「そう、ですか」
「あまり深く考えないことね。考えてどうなる事でもないでしょう」
「そうですね。それにしても、本当によく働くものですね」
「それは勿論、式だもの。式を十全に使いこなすのが主の技量なのだし、あの八雲紫なら造作もないことでしょう」
「そうですよね……」
そんな事を話していると、もう永遠亭が視界に入る。
竹の緑の中にぽつりと、黄金色のかたまりがあるのが見える。
例の九尾だろう。白地に青の道士風の衣装から豊かな尻尾が品よく覗く。
曼荼羅を背負っているようにも見えるそれは、しかし決して威圧的でない。むしろ埋まりたい。一日でいいから貸し出してくれないだろうか。
あれに包まれて日がな一日惰眠をむさぼるのはこの世の極楽浄土に違いない。
「そんなに物欲しそうな眼をされても、こちらは差し上げられませんよ」
知らず、尻尾を凝視してしまっていたらしい。苦笑交じりにやんわりと視線から外される。
「あらごめんなさい。思わず目を見張るくらいの上物だったものだから」
「ありがとうございます。蓬莱山輝夜殿におかれてはご機嫌麗しく」
「堅苦しいのはよして。適当にフランクな感じで頼むわ」
「はい、では。こちら、主から預かった箏絃一式でございます。箏爪は流派が分からないとのことで一揃えずつ持ってまいりました。他に、差し出がましいとも思いましたが新しい箏も一面」
「あら、絃だけで良かったのに」
「今度の集まりでは六段の調を演奏したいのだそうです。新しい箏ですが、こちらには絹でなくナイロンでできた箏絃が張ってあります。こちらは絹糸よりも大きな音が出ますので、合奏の時に音量が合う方が良いかと思いまして」
「そうなの。お気遣いありがとう」
「それと、三絃も嗜まれるかと思いましてこちらも絃をお持ちしました」
「何から何まで至れり尽くせりね。怖いくらいだわ」
「主も主の友人も大変に喜んでおられました。お祝いと思ってお納めください。また、お持ちの楽器に不具合など御座いましたら、お申し付け下されば修繕いたします」
「ありがとう。楽器は今のところ問題なさそうよ。数々のご厚意に感謝すると伝えて下さるかしら」
「畏まりました。では、次の満月の晩にお迎えに上がります。失礼致します」
完璧に礼に適ったお辞儀をすると、八雲の式は優雅に飛び去った。
「……はぁ」
「どうしたの、イナバ」
「いえ、傾国の美女が二人並ぶと、なんというか、……迫力が」
「そうかしら。そうでもないわよ。私はただ求婚されても断り続けただけだもの。比べてあちらは本当に国を傾けているのよ。比べるべくもないわ」
「いえ、そういうわけではなくて……」
もごもごと何か言っているようだったけれど、それほど大事でもないだろう。
意識を八雲の式が持ってきた品に向ける。
腹が立つくらい上物を揃えてきたものだ。
別に文句をつける気はさらさらないけれど、これほどに隙が無いと可愛げもない。
尤も、あの八雲に可愛げを求めていたわけでもない。ないのだが。
何故だか気分の落ち着きが悪い。
有体に言ってしまうと、少々の苛立ちを感じる。
それは八雲のせいというより自分自身の問題なので致し方ないことではある。
「さて、ではお箏を張り替えてしまいましょうか。荷物は私の部屋に運んでおいて頂戴」
まずは、お箏を張り替えてしまおう。細かいことは後に回してしまうにかぎる。
なにせ、時間は無限にあるのだ。
2. Axis
姫様に言われた通り届けられた荷物を部屋に運び込んでみると、やっぱりかなりの量があった。
普段は姫様が書画などを嗜まれる部屋なのに、今は三絃が二竿とお箏が二面、それに諸々の道具まで置いてある。
部屋の半分は荷物だ。八畳ある部屋もあれやこれやと作業するには十分でもないらしい。
気を取り直してお箏を張り替えにかかる。
まずは今張ってある絃を全て取ってしまうことから始まった。
「姫様、私は」
「イナバは、外した糸をまとめておいてくれるかしら。あと、手順を覚えておいてね。いつかやってもらうこともあるかもしれないし」
「はい。わかりました」
「じゃあ、糸を外すわね。長さの余った絃をまとめてある部分をほどいて……」
「お箏って、螺子で絃を巻き取って張る訳じゃないんですね」
「そうね。三絃みたいに糸を巻き取って張るお箏もあるらしいけれど、これは違うわ。そもそも、調絃の方法がお箏と三絃では全く違うのだし」
「そのようですね。これはどうやって糸を張っているんですか?」
「思いきり張って、絃同士を巻きつけて摩擦で止めているだけ。大して難しいことはしてないのよ。簡単に言ってしまえば、板の両端に穴を開けて絃を張っているだけだもの」
「なんていうか、単純なんですね」
「楽器なんてそんなものよ。三絃だって箱にくっついた棒に絃が張ってあるだけじゃない。難しくもなんともない」
「はあ」
私と会話しながらも、姫様の手はくるくると絃をほどいていく。
あっという間に一本また一本と外されてく箏絃。
13本の絃、いや1本切れてるから12本だけど、それらをさもないような手つきであっという間に外し終えてしまった。
「まあ、演奏する技術はまた別物だけれど。さ、ほどき終わったわ。張るのはイナバにやってもらおうかしら」
「え、そんな」
「大丈夫。手順は説明してあげるから。まずは筒状に丸めた和紙を用意して、胴に開いている穴に絃を通したら和紙に結びつけて引っ張って固定する。裁縫でいう玉結びの役割ね。で、胴に糸を張り渡して、反対側に開いている穴を通して裏を回してその穴のところまで絃を持ってくるの。そうそう。で、引っ張る。壊しちゃだめよ。普通の人間よりも力があるのだから」
「あの、どうやってこれを止めるんですか?」
「今持ってる絃を、張ってある部分に巻きつけるの。三回くらいでいいかしら。そしたら、くるっとやって巻きつけた部分の下に絃を入れてあげれば勝手に止まるわよ」
「とまりません……」
「もっと引っ張らないと駄目ね。ぎゅっと」
「こわいですよ。壊しそうで」
「そう。じゃあ仕方ないわね。絃締め機をつかいましょう」
「便利な機械があるんじゃないですか」
「手でも締められなくはないのだけれど、イナバはまだ加減が分からないから仕方ないわね。初めてだからしょうがないとしましょう」
「あ、ギアで巻き取るんですね」
「あくまで補助よ。そう。十分に張ったら巻いて、止める」
「できました」
「その調子であと十二本お願いね」
「え、全部私がやるんですか?」
「ええ。習うより慣れろというでしょう。その間に私は頂き物のお箏の調子を見ているから」
「……わかりました」
「壊しちゃ駄目よ」
そう言うと姫様は新しく贈られた箏に柱を立てて調弦し始めた。
どこに箏柱を立てるかで音が変わるので、調絃の速さと正確さも腕の内だそうだ。
私は調子笛が無いと出来ないのだけれど、姫様はすいすいと箏柱を動かしては調弦を進めていく。
あの音の並びは平調子とか言ってたっけ。
「ほらイナバ、手を動かしなさい」
「あ、はい」
あっという間に調弦を終えた姫様が、こちらを見て呆れたような表情で言う。
ついついみとれてしまってたのも悪いんだけど、慣れない作業だからなかなか進まない。
四苦八苦しつつ絃を一本張り終える頃には、姫様はもう一曲弾き終えていた。
「あら、一本張り終えたの。意外と早かったのね」
「ギターの弦を張り替えるよりも大変ですよ、これ」
「でしょうね。ギターというのが三絃みたいなものだとすれば、張り替える手間は段違い」
「お箏ってよくこんなことするんですか?」
「いいえ。滅多にしないわね。大体普通に弾いていたら絃なんて切れないもの」
「ですよねぇ」
目の前のお箏を見る。
全部で絃が13本。終わったのが2本。
残りは11本。簡単な計算だ。
簡単すぎて計算するまでもなく答えが見えてとても嫌な感じ。
ぶっちゃけ面倒。
まあ、そうも言っていらんないから次の絃を張る作業に戻る。
「ああ、イナバ。残りは私がやるわ」
「え?」
「そのお箏は私が弾くものだから。イナバは三絃でも弄っていなさいな」
「いいんですか?」
「いいのよ。あちらのお箏は鳴るけれど音が硬いわ。ひとりで弾く分にはこちらの方がよさそう」
「では」
「ええ。絃はそこに置いてあるでしょう。それを三味線についている三つの輪っかにそれぞれ結んで、ゆるめに張る。駒をはさんで。あとはそう、巻き取って音を調節する」
「えっと、これってチューニングはどうするんですか」
「一般的に本調子はハ、ツ、ハね。八寸管が多いかしら。二上がりは二の絃を上げて三下がりは三の絃を下げる」
「八寸管って?」
「ああ、尺八のことよ。えっと、ド、ファ、ドって言えば通じるかしら」
「はい、分かりました」
「あ、壊しては駄目よ。お箏より丈夫じゃないんだから」
「気を付けます」
言われたとおりにチューニングしたはいいけど、これは指で弾くのかな。
「姫様、あの、ピックは……」
「ピック?」
「えっと、爪くらいの大きさのもので、ギターとかはそれを使って弾くんですけど」
「ああ、撥ね。そこの箱に入っているわよ」
「これですか? ……ずいぶん大きいんですね」
「そう? それでも小さい方だけれど」
「そうなんですか……」
「人差し指、中指、薬指で持って、小指と親指で手前から押さえるの。そうそう」
「窮屈なんですけど」
「そういう持ち方なのだから仕方ないわ。で、撥の尖っているところでひっかけるように弾くの」
「難しいですね」
「ああ、胴を前腕と腿とで挟むように押さえて固定するのよ。手首を上手く使って弾く」
「こう、ですか? あの、すごく弾きにくいです」
「最初はそんなものよ。それは勘所の目印が付けてあるから、始めは押さえるときにそこを見ながら弾いてみなさい」
「はあ、がんばります」
なんとなくもうギターを持ち出してかき鳴らしたい気分になったけど、こらえて弾いてみる。
ぺちぺちと、なんだか思ったように音が出せない。音程は合ってるけど音が奇麗に出ないっていうか。
以前姫様が弾いてた時はもっと張りがあって通る音だったような気がする。
やっぱりギターとは勝手が違う。
それでもなんとか渡された楽譜を一通り弾いてみた。
記譜法も五線譜とは違うから戸惑ったけれど、曲自体は知っているものだったのでなんとか弾ける。
「さくら」くらい軽く弾けると思ったのに、ギターと違ってスケールが弾ける楽器じゃないからなかなか苦労した。
あと、途中で絃がゆるんできて音がずれるのも困る。一~二曲弾くともう調弦がずれてしまう。
長い曲なんかはどうするんだろう。
かれこれ半刻ばかり弾いていると、姫様は作業を終えたようで私の正面に座った。
「調弦がずれるのはあまり気にかけなくていいわよ。絃を張ってから暫くは絃が伸びてしょっちゅう音がずれるのだから。そのうち安定するから気長にね。弾きながら調弦出来ればいいのだけれど、初めのうちはなかなか」
「あ、はい。分かりました」
「少しは慣れたかしら」
「はあ、難しいです」
「まあ今日初めて触るものを簡単に弾きこねせるわけもなし。たどたどしいけれど、音は合っているみたいね」
「フレットが無いので分かりにくいですけど、なんとなくわかります」
「フレット?」
「あ、ギターには半音刻みに出っ張りがついてるんです。そこを目安に弾くんですけど」
「ああ、琵琶にもあるわね」
「ええ、それがもっと細かくついてるんです。やっぱり勝手が違いますね」
「違う楽器だもの。今弾いてるのは三絃でしょう。何もかも同じというわけにはいかないわ」
「ですよね」
「さ、構えて」
「え?」
「独学では上達しないわよ」
「あ、はい。えっと、よろしくお願いします」
「はい。じゃあまず弾く時の姿勢からね」
それからみっちり一刻ほど、姫様に三味線の弾き方を教わった。
なんだが手首が腱鞘炎になりそうな気がする。
しかし、姫様は楽しそうだった。よしとしよう。
実は私も楽しかったし。
■□■□■
「というわけで、それから時々姫様について三味線を習っているんだけれど」
「お三味は難しいですよね。私も幽々子様のを触らせてもらったことがあるけど」
「うん。慣れればそれなりに弾けるんだけど、どうもね」
白玉楼の縁側で、妖夢と世間話に興じる。
今は姫様とここの主、それと八雲紫が集まってお箏を弾いている。
何度目かの演奏会だ。
姫様のお供で来たのだけれど、演奏中は邪魔だからと部屋には入れてもらえない。
待っている間お茶とお饅頭を食べながら、妖夢とさもないことを話すのが演奏会の恒例になってた。
「妖夢は、何か楽器は?」
「尺八を」
「そういえば、初めての時に一緒に演奏していたっけ」
「ええ、まあ。散々だったけれど」
「そうなの?」
「幽々子様から後で、息というものが全然分かっていないと言われた」
「そう。難しいのね」
「弾く人ごとに癖があるから。幽々子様や紫様とは時々合わせたりもしていたのだけれど」
「難しいのね、和楽器。音とかも全然違うし。一緒に弾いていても私の音が聞こえないくらい」
「私もお師匠様から尺八を習ったのだけれど、自分は本当に吹いているんだろうかって思うくらい自分の音が聞こえなかった。鳴りが全然違う」
「鳴り、ね。音の質なのかな。張りっていうか。一つの音が違うっていうか。同じ音を弾いているのに同じ音じゃないっていうか」
「甲(かん)の音は絹を劈(つんざ)くように鳴り、乙(おつ)の音はみつしりと詰まって太く響く。そんな音が出せたらと思いながら吹いてはいるのだけれど、ね」
「甲とか乙って?」
「えっと、紫様は”一オクターブ違うことよ”って言ってたけど。おくたーぶって何か分かる?」
「あ、うん。大丈夫」
「いや、あの、出来れば私に分かるように説明してもらえると」
「オクターブって知らない?」
「うん」
「楽譜読める?」
「縦譜なら」
「縦譜って?」
「尺八の楽譜。本当は口伝なのだけれど、独習用に運指と拍を書いたものがあって」
「どんなの?」
「えっと……」
そう言って妖夢はスカートのポケットをごそごそとやる。
取りだされたのは折り畳まれた和紙で、開いてみると何やらカタカナとその横に傍線が書き込まれている。
「……暗号文かしら」
「それが楽譜」
「随分可愛らしい文字ね」
「それはお祖父様……、お師匠様の縦譜を私が書き写したものだから。普段唄譜(しょうふ)の時に使うからそれでも十分」
「唄譜?」
「お師匠様曰く、尺八は吹くのではなく唄うものだそうだから。尺八を吹けないときは唄って練習するの。お三味でも口三味線って言うくらいだからやったりするでしょ?」
「あー、まあ。練習と思ってやったことはないけれど」
「仕事をしながらでも出来るし、便利ですよ。ただまあ音色の方は一音入定とはいかないけれど」
「何それ」
「これは禅宗の尺八に近い考えです。芸能じゃなくて修行になるのだけれど。一つの音を吹くことで入定、つまり悟入する。尺八を吹くことも修行と考えるのです。元々尺八は修行用だったらしいですけど。虚無僧とか」
「ああ、よく道端にいて辻斬りする」
「それは違う」
苦笑しながらお茶を飲む妖夢。
私よりもちょっと背の低い彼女は、横に座っていても自然私が見下ろす形になる。
銀色の髪にリボンが映えて可愛らしい。
反対に彼女は私を少し見上げることになる。
なるのだけれど、彼女の視線はどうも私の耳に注がれてることが多い。
「耳が気になる?」
「え? あ、いえ」
「気にしなくていいよ。慣れてるから」
「いや、というか背が高くていいな、と」
「別にそれほどでもないわよ。多分これのせいでそう見えるだけ」
「……そう。刀を扱うからなのか、相手の上背がどうも気になって。ごめんなさい」
「別に謝らなくても」
すまなそうに眼を伏せる妖夢は可愛い。
とても素直で真面目なのだ。
それは不器用ということでもあるのだけれど、同時にいびつさがないことでもある。
悪く言えば愚直、良く言えば真摯ってことかな。
「綺麗な庭よね。妖夢が手入れしてるんだったっけ?」
「ええ。尤も、お師匠様の言いつけどおりに整えているだけだけれど」
「こういうのって枯山水って言うんだったっけ。岩と砂と樹が少し」
「そうみたい。庭の作り方の勉強もしているのだけれど、なかなか」
「姫様も庭いじりが好きみたいでよくやってるの。あと盆栽ね」
「どんな庭?」
「池があって、山があって、木が植えてあって。山には岩が置いてあって、よく兎達が遊んでる」
「池泉回遊式、かな」
「よく分からないけれど。時々姫様もそこを散歩してるわね」
「じゃあ多分そうですね。枯山水はこうして屋敷から眺めて楽しむもの。池泉回遊式は庭を歩きまわって、様々な場所から景色の違いを楽しむものです。本当はもっと込み入った内容なのだけれど、大まかな理解としては」
「余計なものが無いのね、この庭」
「余計なもの、とは?」
「うーん。雑多な感じがしないっていうか、整い過ぎているって言うか。過剰な生命力を感じないのよね」
「だってここは冥界だもの。それに枯山水は見立ての庭。植物を育てるのではなく景観を整えるのが肝要」
「見立てる?」
「お団子を月に見立てて雨月を楽しむ、ってことらしいです。幽々子様曰く」
「庭をどう見立てるの? 岩は岩、砂は砂でしょう」
「砂は水。まっ平ではなく態々波打たせてあるのはそのため。岩は島。砂の海に浮かぶ島。そして浜には松。そう言う見立てだそうです」
「なるほどねぇ。人の想像力ってすごいねってことかしら」
「私は半分人じゃないですけどね」
「そんなこと言ったら私なんか全部人じゃないわ」
ふふっと軽く微笑み合う。
冗談を笑い合える間柄っていうのはありがたい。
てゐは悪戯ばかりで一方的にからかわれているだけだし、他の兎達とそんなに気安い間柄にあるわけでもない。
師匠や姫様とは、畏れ多くてとてもではないけれど冗談なんて。
その点妖夢とは気軽に色々な事を話せるし冗談も言い合える。
だからかもしれない。最近では演奏会のお供で白玉楼を訪ねるのが楽しみになってた。
「一口に枯山水と言っても色々な題材があるんですよ。例えば蓬莱山とか」
「……姫様?」
「……あ、ごめんなさい。えっと、蓬莱の玉の枝があると言われる島で、蓬莱の玉の枝って知ってます? 優曇華の花のことで……。ってああ、ごめんなさいまた」
「いや、大丈夫。ていうか気にし過ぎ」
「そう? ありがとう。まあ、そういう想像上の景色とか、あとは名勝と言われるような場所の景色を見立ててあるものとかが有名みたい。松島とか瀬戸内海とか、そういう景色」
「想像力の世界ね」
「盆栽も想像力の遊びですよ。根本は庭と変わりません。育っていく樹木の枝を切って整え、針金で枝を矯正する。そうやって思い描く形を作って行くのです」
「盆栽もやるの?」
「お師匠様のに手を加える程度ですけど。木をいじるのは好き」
「妖夢はお師匠様のことが大事なのね」
「いや、その……。まあ」
「おじいさま、だったっけ」
「ええ」
「大好きなんだ。どんな人だったの?」
「まあ、まあ」
「あー、……ごめんね。忘れて」
祖父の話になると、妖夢の表情が変わる。
曇るという感じじゃなくて、何も考えない様にしてるみたいな。
作ってる。
装ってる。
まるで仮面を付けたみたいな、顔。
「いい月ですね」
「え? ああ。そう、ね」
「あ、……ごめんなさい」
「いや、気にしてないし」
「じゃあ、私も気にしてません。気を遣わせちゃいましたね」
「あー、やめよ。この話」
「そうですね。ごめんなさい」
「何で謝るの」
「いえ、なんとなく」
「悪くないんだから謝らないの。むしろ無神経に聞いた私が悪いんだから」
「そんなこと」
妖夢の波長が見える。
それは規則正しく、ある意味で理想的なまでに整ってる。
もっと言うと、整えられてる。
行住坐臥全てに、修行と言う意図が張り巡らされて。
張り詰めてるのが日常になって、それなのに無理を見せないのはもう修行が彼女と一体になってしまっているから。
魂魄妖夢は、そういう風に出来上がってしまっている。
日本人形と言うよりも、ビスクドールというか。
陶器で出来た人形みたいにきれいな形をしているから、脆い。
形も色も綺麗なのに、そこから変化することが無い。
だって陶器は変形しないから。
無理に力を加えたら壊れてしまう。
なんていうか、危うい。
人間らしくない。
その辺は、半分幽霊だからかも。
人間が人間らしくあるためには、変わらなければいけない。
もっと波長に揺らぎが無ければ生きていけない。
生きるということは変化し続けるということ。
そういう意味では姫様も変化し続けているので生きてはいる。
起伏は激しくないけれど、揺らぎを持っている。
変化しなくなったとき。それは死ぬときだ。
妖夢の主人は変化しない。
亡霊は変化しない。
死んだら変化しない。
じゃあ、妖夢は?
変化しないことを目指してる。そう装っている。
それは死のうとしているってこと?
違う。
生き生きとしていないということ。
白玉楼の庭を整えるのが仕事だから。
過剰な生気を刈り取る生き方をしているから。
「ねえ妖夢」
「はい?」
「私達も、合奏してみない?」
「え?」
「歌ものなら、三味線と尺八だけでもできるでしょう」
「え、ええ」
「じゃあ、決まりね。姫様に相談して曲を決めてもらうわ」
「あ、私もお師匠様の楽譜から探してみますね」
「うん。楽しみね」
「そうですね。じゃあ、優曇華さん」
「レイセン」
「あ、はい。宜しくお願いします、……レイセン」
手を差し出してくる妖夢。
握った掌は、刀を使うからだろう。ざらざらしていた。
私も銃を扱っていたから、人の事を言えたもんじゃないけど。
「イナバ、帰るわよ」
「あ、はい。只今」
「じゃあ、また来月」
「そうね。楽しみにしてる。じゃあまた」
「うん。またね、レイセン」
そう言って立ち上がる。
私は姫様の元へ、妖夢も自分の主の元へ。
帰り際に見た妖夢の波長は、さっきよりも乱れていた。
3.雨
刀は正宗、尺八は古鏡。そんな言葉を聞いたのはいつだったか。幽々子様からか、それともお師匠様からか。
楼観剣の手入れをしながらふと思いを馳せる。
そうだ、確かお師匠様だった。
あの時も確かこうして刀の手入れをしながら、「刀は正宗、尺八は古鏡と言うが、儂は正宗も古鏡も使いたいとは思わん。確かによく切れる刀であるし、良く鳴る竹だ。だが、畢竟それまで」と言ったのだ。
何故かと問うたが、「生半に教えるものではない」と言われてそれきり。
結局教えてもらう機会が来ないまま、お師匠様は突然姿を消してしまった。
今はなんとなく分かる。
私も、正宗と楼観剣が目の前にあったら迷わず楼観剣を手に取る。
正宗には歴史が無い。
魂魄代々に受け継がれ、妖怪を切り伏せてきたという物語が無い。
道具に寄せる信頼が無い。
だから、いくら切れ味が冴えていようと選ばない。
尤も、この楼観剣が切れ味で劣るとも思っていないけれど。
「ようむー、おやつの時間よー」
「あ、はい。只今参ります」
手入れを急いで済ませると、お勝手に寄ってお茶の支度をする。
今日のお茶請けは里で評判のおかきだ。お醤油の香りがたまらない。
「お待たせいたしました」
「おそいわー」
幽々子様はいつものようにご自分のお部屋で寛いでおられた。
普段よりいくらか簡単な造りの袷を着て、書画を見るともなしに眺めて。
今日は梅の気分らしい。
「寒い季節は梅なのよ。寒梅という言葉もあって、香を楽しむならこれね」
「でも気が早すぎませんか。初雪もまだですよ」
「だからよ。それに、今日明日あたりには降るでしょう」
「はあ」
「そもそも春の花といえば桜より梅」
「そうですね。今年の梅酒が出来あがる頃には花も咲くでしょう」
「それでは西瓜に砂糖ね。梅酒は梅酒、梅は梅で楽しむものよ」
「では幽々子様はお召し上がりにならないのですね」
「それとこれとは話が別。ちょっと味見しようかしら」
「まだ二ヶ月程度ですから美味しくありませんよ」
「分かっているわ。今日は絵姿で香を楽しむとしましょう」
「見立て、ですね」
「風情が無いわね」
呆れられたようだ。わざわざ言うことでは無かったかもしれない。
風情や風流と言ったものは難しい。
お師匠様は色々と分かっていたみたいだけれど、そのようになれるのはいつになることか。
なぞっていれば分かるかもしれないと必死で真似てみても、形ばかりで実になっていない。
だからといって自己流に走っては成るものも成らないわけでもあるし。
己の未熟さを恥じるばかりで成長出来ていない。
なんというか……。
そんな考えに浸っていると、しゅんしゅんと湯気の音がする。
火鉢に五徳を置いてかけた鉄瓶がいい具合に沸いてきたようだ。
湧いた湯を湯ざましにとり、急須に移す。
湯呑に急須から湯を注ぎ温めて、空いた急須に茶葉を入れる。
二人分と、急須の分。
湯呑から急須に湯を戻し、煙管で一服する程の時間を置いて湯呑に注ぐ。
「お茶を淹れるのは上手なのにねぇ」
「躾けられましたから」
「本当に、どこに行ったのやら」
「ご存知なのではないのですか」
「さあ」
お師匠様の話になると、決まって逸らされてしまう。
紫様や幽々子様がご存知ないはずがないと思うのだけれど、言わない理由があるのだろう。
幽々子様はそのままおかきをつまみながらお茶を召し上がる。
「あらおいしい」
「評判のお店らしいです」
「またそのうち食べたいわね」
「では、明日にでも」
「そんなに毎日いらないわ」
「いえ、丁度買い出しの日ですので」
「もうそんな時期なのね」
「じきに年末ですから、支度もありますし」
「大晦日は合わぬ算用とも言うわね。丁度雪の日だったかしら」
「ツケなんかありませんよ。支払いを渋ると心証もよくありませんから」
「そうねぇ。昔のようにはいかないもの」
「あまり適当でも困ります」
「何でもはっきりさせればいいってものではないのよ。薄墨で引いた線がいい時だってある」
「はぁ」
「ところで妖夢、お茶がもう一杯恐いわ」
「はい、只今」
お茶を注ぎながら考える。
薄墨で、ということは書画のことだろうか。
いや、もちろん何かの譬えだということは分かるのだけれど。
難しい。わからない。
はっきりさせる、というのは当然だ。
剣を扱う以上、勝負に負けることは死を意味する。次こそは勝つ、なんて考え方は出来ない。
というか、次などないのだ。
負けたらそこまで。
これ以上無いくらいにはっきりとしている。
切れば分かるとはそういうこと。
勿論、弾幕ごっこみたいな遊びでそこまで思いつめることはない。
遊戯と勝負は違うのだから。
でもどこまでもはっきり、きっちり。そう思ってやってきた。
「妖夢、溢れるわよ」
「え? あ、すみません!」
「悩み事かしら」
「いえ、そんな大したことでは」
「今は悩む時間ではないわねぇ」
「すみません」
「それにしても寒いわぁ。本当に雪でも降りそうね」
「そうですね。積もるでしょうか」
「どうかしら。すぐ溶けてしまうでしょうから、積もっても朝にうっすら残るくらいね」
「初雪や二の字二の字の下駄の跡、とはいきませんか」
「二じゃなくて一かもしれないわね」
「天狗でも歩いたのですか。一本歯は歩きにくいと思うのですが」
「山道を歩くなら天狗の下駄の方が楽ね。場所によって道具の価値は変わるものよ。道具には、作りだされた理由があるわ。理由も知らずにその道具の価値は決められない」
「そうですね。そう思います」
「理由を知らなければ、本当にその道具を使いこなすことはできない。当然ね」
「ええ。刀を知らなければ刀は使えません。体を知らなければ体を使えません。そういうことですね」
「そうね。妖夢も半分は分かっているのよねぇ」
「何がですか?」
「久方振りに妖夢の舞が見たいわ」
「え? そんな。舞なんて」
「それでも芸事なら舞が一番見られるわね。笛はまだまだ」
「そんな……」
最近練習していたのを聞かれていたのだろうか。
レイセンと合奏するからと、時間を見つけては練習に励んでいたのだけれど。
「尺八はまだ駄目ですか」
「そうね。一人で吹いているもの」
「それは、幽々子様にお付き合いいただくわけにも」
「そういうことではないのよ。あなたの吹き方は一人で吹くための吹き方。誰かと合わせるのにそれでは」
「そう言われましても」
「息を知らなければ息を使いこなすことは出来ない、と」
「息、ですか」
「息の理由よ。呼吸の価値」
「それは、……」
「さておき、一刺しお願いね」
「はあ」
言われて渋々乍らも扇を支度する。
舞は不得手だ。
動作の決め、重心の維持、足の踏み出し。
所作をさらい、身体をどう動かすかと気を張る。
舞いながらも、こなれていないと自分でも分かる。
それでも動きは乱さない。
動きをなぞるのではなく、染みついた動きを整えていく感じ。
一瞬たりとも気は抜けない。
どの刹那を切り取っても絵になっていなければならない。
そういう心づもりで舞うように教えられた。
「舞はねぇ。妖忌仕込みだものね」
「……はい」
「芸事が人一倍好きだったくせに、妙なところで無骨だったのよ」
「そうでしたね」
「妖夢はそうでもないみたいだし」
「いえ、別にそういう訳では」
「無骨なところばかり似ても、ねぇ」
「そうですか……」
「そうですわ」
いきなり声がした。
続いて幽々子様の横にスキマが開く。
そこにちょこんと腰かけて、紫様が薄く微笑まれる。
紫を基調としたいつもの豪奢なドレス姿だ。
「相変わらず唐突ですね」
「そういう妖夢こそ、相変わらずお堅い舞ね」
「すみません……」
「別に責めたわけではないのだから、謝られてもね」
「はあ」
「幽々子もそう思わない?」
「これはこれでいいものよ。妖夢らしいもの」
「物は言いようね」
うふふ、と扇子で口元を隠して笑う紫様。
この方は相変わらずなんというか、こう……。
苦手だ。
「紫は派手好きだから」
「そんなこと無いわよ」
「ねえ妖夢」
「はあ、まあ。妖しいですから」
「ひどいわ」
「いや、妖怪ですし」
「そうねぇ。妖怪だものねぇ」
「亡霊が何を言うのよ」
「あら、私だけ?」
「妖夢はほら、半分人間ですわ」
「でも全部見たら人間じゃないでしょう」
「確かに私は半分幽霊ですけど……」
「ああ妖夢、私もお茶が怖いわ」
「あ、失礼しました。只今お持ちします」
「丁度いいわ。やっぱり寒いから炭を足してくれるかしら」
「はい、では持ってまいります」
幽々子様のお部屋を出て、お勝手から炭を熾して持ってくることにした。
この時間なら炊事係の幽霊がいるのでまだ竈の火は落としていない筈だ。
お勝手で鉄瓶に水を足し、茶筒と熾きた炭を用意する。
ふと庭を見やると、ちらほらと雪が降ってきていた。
道理で冷え込むわけだ。
気持ち早足で部屋へと戻る。
「失礼します」
襖を開けると、幽々子様が踊っている最中だった。
思わず見とれてしまう。
仰々しさの無い簡素で俗な手踊りだけれど、私のなどとは比べるのも失礼なほどに華がある。
ふわふわと、風が吹けば飛ばされてしまいそうなほどに柔らかに見えるけれど、どのように動いても重心がぶれることがない。
しなやかで芯の通った身のこなしはいつ見ても見事と言うよりない。
「妖夢、寒いから早く入りなさい」
「あ、はい。失礼しました」
紫様に声をかけられるまで、襖を開けたままぼーっとしていたらしい。
幽々子様にように踊れるのはいつの日になることだろう。
襖を閉め、火鉢に炭を入れて五徳の上に鉄瓶をかける。
お湯が沸くまで、再び幽々子様の踊りを観ることにした。
今は扇を手元でくるくると回している。
ちょっとした装飾程度の動きだけれど、それがあると無いとでは締まりが違う。
見ている者の視線を意図したとおりに動かし、見せたい部分を見せ隠したいところは隠す。
虚と実とでも言うのだろうか。見ている側に常に刺激を与える踊りだ。
それは魅せ方を分かっているということであり、とりもなおさずその舞が魅力的であるという証拠にもなる。
やがて全体的にゆっくりとした動きになり、ぱちんと音をたてて扇が閉じられ踊りが終わった。
「相変わらずね、幽々子の踊りは」
「そうねぇ。代り映えはないでしょう」
「というよりも、変わりようがないのかしら」
「かもしれないわ」
「見事なものよね」
「お褒めに預かり光栄です、妖怪の賢者様」
「まあ、意地が悪い」
「紫様がそれを言いますか」
「妖夢まで。ああ、ここはアウェーだわ。らーん、私を助けてー」
「こんなことで式神を呼ばない」
「紫様、お茶が入りました」
「あら、ありがとう」
お茶を差し出すと、とたんに元に戻る。
この方の本心は一体どこにあるのだろう。
「そういえば、雪が降ってまいりました」
「あら、やっぱり。藍に支度をさせておいて正解だったかしら」
「何の支度ですか?」
「冬眠。また春までしばしのお別れよ」
「あら、寂しくなるわね」
「嘘ばっかり」
「そうねぇ。じゃあ、また来年。よいお年を」
「ああ、薄情ですわ」
「紫様、よいお年を」
「やっぱりここはアウェーなのね。それでは、また来年」
よよよ、と泣く振りをしながら紫様はスキマに消えた。
やっぱり胡散臭い方だ。
毎年、今くらいの時期になると決まって現れる。
しばしの別れを告げに来ているのかもしれない。
勿論本当に冬眠するとは思っていないけれど、滅多に姿を見かけなるのは本当だ。
何か事情があるのだろう。
「妖夢、尺八を持ってきなさいな。久しぶりに合わせましょう」
「はい、分かりました。何を」
「“雨”、かしらね」
「外は雪ですよ」
「だからこそよ。雪が降るにはまだ早いわ」
「かしこまりました」
毎年、初雪の日には決まって雨を演奏する。
幽々子様なりに別れを惜しんでいるのだと、私は思っている。
4.麗韻
庭の桜はじきに盛り。
幽霊たちが宴の支度に飛びまわっている。
妖夢もそれに交じってあれこれと指示を出している。
今日は花見を兼ねて、演奏会を庭でやることになった。
白玉楼総出で支度にかかっている。
私はと言えば、縁側に腰かけてお茶をすすっているだけの御身分なのだけれど。
それにしても妖夢はお茶を淹れるのが上手い。
口に含んでコクリと飲み込み、ホゥと息を吐く。
お茶の香りが口に広がり鼻に抜ける頃、おかきを一つ頬張る。
そうしてお醤油の香ばしさと餅の歯ざわりを楽しんだら、またお茶を飲む。
止まらない。
こんなに幸せにして、妖夢は私をどうしようというのかしら。
「どうもしませんよ。それより支度はよろしいのですか?」
「妖夢はサトリ妖怪だったかしら」
「声が出てました」
「あら、そう。よくないわね」
「それで御支度は?」
「着付けも終わったしお箏はいつも通り。紫が起きていればそろそろ来ると思うのだけれど」
「寝坊でしょうか」
「多分そうね。ほら」
庭の向こうから、金色の塊がこちらに向かってすごい速さで飛んでくる。
紫の式だ。相当焦っているのだろう。
こちらに近づくにつれ、徐々に速度を落としている。
私の目の前に着くころには、すっかり外面を取り繕っていた。
「ご無沙汰しております、西行寺様」
「遅れる、と?」
「はい。申し訳ありません。時間までには着くように致しますので」
「まるで保護者ね」
「はは、本来ならば逆であってほしいのですが」
「今はどうなってるの?」
「目を覚まして、湯浴みを」
「そう。間に合うのなら構わないわ。貴方も支度があるんでしょう」
「はい。では、失礼致します」
言うと、来た時と同じようにすごい速さで飛んでいく。
連絡ぐらいスキマで済ませればいいようなものだけれど、寝起きとあってはそうもいかないのだろう。
紫の寝起きはとにかく酷い。主に容姿が。
寝癖で髪がはね放題だし、頬には涎の跡が二、三本ついていたりする。
海棠の眠り未だ足らず、という風情ではない。
そう言えばよく美人を譬えて、立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花とも言う。
紫は花に譬えるなら柘榴かしら。
毒々しくも鮮やか。
流石に本人の前では言えないけれど。
美人といえば、沈魚落雁閉月羞花とも言ったわね。
「藍さんですか? 確かに美しい方ですよね」
「あら、また?」
「ええ、また」
「よくないわね。独り言は寂しい老人のすることだもの」
「寂しくはないですからね」
「そうね。何か含みを感じるけれど。ところで妖夢、あなたも多分誤解をしていると思うのだけれど」
「何をですか?」
「沈魚落雁というのは、いかに美しい人間であろうと魚や鳥は逃げてしまうということ。人間にとっての美しさは、魚や鳥には何の関係もないということよ。転じて美人の形容に用いられることになったのだけれど」
「そうなのですか。確かに美醜は畜生に理解できないこととは思いますが」
「そうではなくて、いかなる価値も絶対ではないということね」
「はあ」
「ところで妖夢、あなたその格好はどうしたの」
「え、いや、正装をと思いまして」
「それで何で裃なのよ。緑の振袖があったでしょう」
「いや、振袖よりはこちらの方がらしいですし」
「らしくないわね。全然らしくないわ。いいから着替えていらっしゃい」
「しかし、人前で演奏するのですからそれなりの格好を……」
「だからこそよ。女の子が紋付羽織袴だなんて」
「いや、女の子という年では」
「年なんか関係無いでしょう。大体年齢の事を言ったら私や紫はどうなるの。行き遅れの大年増どころか何回も転生を繰り返さないといけないじゃない」
「でも、その桜色の振袖はとてもお似合いですよ」
「それはいいから。着替えていらっしゃい」
「はあ。ですが、振袖は自分で着たことが」
「じゃあ着せてあげましょう。さあ、いらっしゃいな」
「え、ああ、はい、ってそんな引っ張らないでくださいよう」
渋る妖夢を無理矢理に部屋に引きずり込む。
別にいけない事をしているわけではない。
着飾るなら可愛い方がいいに決まっているじゃない。
「ほら、脱ぎなさい」
「自分で脱げますよ。その前に振袖を取って参りますから」
「そう? じゃあ、急いでね」
なんだか、そそくさと部屋を出ていく妖夢を見ていると悪い事をしている気分になる。
いや、間違ったことはしていない。
妖夢を可愛らしく飾り立てることの何が間違っているというのか。
きっと妖忌も草葉の陰で喜んでいることでしょう。
「いや、まだ死んでませんわ」
「あら、また?」
「何が『また』なのかしら?」
閉め切っていたはずの部屋なのに、いつの間にやら紫がいた。
明るい紫の振袖を着ている。
やっぱり私ももう振袖を着るような年ではないのかもしれないわねぇ。
「それは、誰を見てそう思ったのかしらね」
「別に。独り言よ」
「年を重ねると増えるみたいですわね、独り言」
「あら、そうなの。紫も大変ねぇ」
「ええ。気ばかり若い友人を持つと苦労が絶えませんわ」
「……」
「……」
紫はにっこりと微笑んでいる。
とても珍しい。
いつもならニヤニヤとほくそ笑んでるのに。
そして胸元からカードを取り出す。
どこからどう見てもスペルカードに見える。
どうしたのかしら。
「幽々子、背中に扇が出てるわ。それに風見幽香みたいな笑顔よ」
「紫こそ、スキマをそんなに開いてどうしたのかしら」
「ええ、ちょっと」
「そう。じゃあ私も、ちょっと」
「……誰が振袖着るなら何回も転生しなきゃいけないくらいの大年増ですって?」
「あら、聞いていたのね。紫のことだけじゃないから気にしないで」
「まあ、幽々子も大概ですものね」
「うふふ」
「花びらが舞ってますわよ。落ち着きなさいな」
「紫こそ、スキマから何か出てるわよ」
「あらやだ、はしたない」
「あらあらうふふ」
「うふふふふ」
今、この部屋は一種異様な光景が広がっている。
至る所にスキマが開き、桜の花びらが舞い。
ひときわ大きなスキマを背負って、紫の髪が風もないのに蠢いている。
尤も、紫曰く私の笑顔も花の妖怪みたいなものらしいからお互い様かもしれない。
そのまま互いに微笑みながら、妙な雰囲気を醸し出し続けていた。
と、廊下を歩く足音が聞こえてくる。
まるで何もなかったかのように、部屋の雰囲気は元に戻った。
二人して苦笑しながら顔を見合わせる。
「お待たせしました。ってあれ、紫様もいらしていたのですか。早かったのですね」
「まあ、移動に時間がかかるでなし」
「そうよねぇ。ずるいわよね」
「はあ。あ、紫様のお着物、とてもよくお似合いですね」
「あら、ありがとう。嬉しい事言ってくれるじゃない」
「むう」
「勿論幽々子様もお似合いですよ。お二人が並ぶと、非常に艶やかです」
「あらまあ、お世辞を言うようになっちゃって。どうなのよ、幽々子」
「いいことじゃないかしら。社交性は大事よ」
「そんな、お世辞じゃありませんよ」
「はいはい。それはそうとして、用意をなさいな。妖夢は現場を仕切らなければいけないのだから」
「ええ。だから裃のほうが動きやすかったのですけれど」
「実利ばかり求めてはいけないわ。女の子なのだから」
「まあ、確かに男ではありませんが」
「そういうことじゃないの。とにかくその堅苦しい格好は早く脱いでしまいなさい」
「わかりました。わかりましたからにじり寄ってこないで下さいよぅ」
引きつった顔をしながら、妖夢が後ずさる。
そんなに怯えなくてもいいのに……。
「いや、今の幽々子はちょっと怖かったわ」
「あら、また」
「もう。しっかりして下さい」
「はいはい。じゃ、着付けを済ませてしまいましょう」
襦袢を着せて振袖を着せて、丈をはしょって下帯を留める。
帯は流石に妖夢一人では結べないようなので、紫と二人がかりでうんと派手に仕立て上げる。
仕上げに薄く白粉を塗って、髪を結い簪を飾る。
「やっぱり動きにくいですね」
「振袖だもの。当り前よ」
「うふふ。七五三を思い出すわねぇ」
「ゆ、幽々子様」
「冗談よ。とっても可愛いわ、妖夢。さ、残りの支度を片づけていらっしゃい」
「はい。では行って参ります」
そう言うと、妖夢は障子を開けて出て行った。
歩きにくそうにしているのが微笑ましいわ。
「それにしても、お祭りみたいね」
「ええ、白玉楼を挙げての宴だもの」
「やっぱり冥界が賑やかなのは珍しいですわね」
「そうねぇ。本来は生気に溢れていていいような場所ではないから。どういう風の吹きまわしかしら」
「それは、春ですもの。陽の気が満ち始める季節だから、冥界も少しくらい陽に傾くのも無理無いわ」
「毎年そうなら珍しくないのだけれどね。白々しいわ、仕向けたくせに」
「私はただバランスを取っているだけよ。他意なんて無いわ」
「でしょうね。紫の本意は他意と変わらないもの」
「あら、嫌な言い方」
障子一枚隔てた庭では、今もがやがやと支度が続いている。
緋毛氈(ひもうせん)を敷いて舞台を仕立て、茣蓙(ござ)を引いて客席に見立てる。
料理を設え、御酒を整え、始末をつける。
まるで人里のお祭りの様に。
「危ういわねぇ。年に一度くらいならいいのだけれど」
「心配かしら? 大丈夫よ、均衡が大きく崩れるような事なら止めているわ」
「勿論紫を信じているから心配はしていないけれど」
「けれど?」
「陽の気に当てられそう」
「それもいいものですわ。幽々子は陰が強すぎるから」
「だから冥界にいるのよ。ここにしかいられないのだし」
「人里の祭りもいいものよ」
「本当に意地悪ね。私が人里に下りたらどうなるかくらい、誰よりもよく分かっているくせに」
「そうねぇ」
「特にお祭りなんて」
「そうよねぇ。成仏しかねないもの」
「だから私はここでいいのよ。それが均衡を保ち調和を重んじる紫の望みでしょう」
「……ごめんなさいね」
「何を謝るの」
「いえ」
「今回の事、妖夢にとっては良い仕合わせだわ」
「そうなってほしいものね」
「もっと人間の女の子らしく、と思うのだけれど」
「あの子は冥界、白玉楼で純粋培養された子だから。振れ幅とゆらぎに欠けるきらいが、どうしても」
「今回の妖夢の事も、あなたの本意であり他意でもあるわけよね」
「あの月の兎はいい刺激になったようだし、思っていたよりも」
「そうねぇ。ちょっと妬けるかしら」
「あらあらまあまあ」
「そして、可哀想かもしれないけれど」
「そうね。でも、固まってしまったものを壊さなければ、上達はできないものだから」
「上手に壊れてくれるかしらね」
「今のところ、順調に罅は入っているみたいよ。あまり心配しなくても大丈夫」
「作り上げては壊して、またそれを繰り返す。そうやって変化し成長できるのは、人間だからよね」
「幽々子……」
「あの子は、妖夢は間違いなく人間なのよね」
「……ええ」
「次からは自分で壊せるようになるといいのだけれど」
「できるんじゃないかしら。あの子は半分とはいえ人間なのだから」
外の騒ぎもじきに止むでしょう。
障子一枚を挟んだだけで、音は随分ぼやけてしまう。
そのぼんやりした音を聞きながら、宴の騒がしさに思いを馳せる。
そういう楽しみ方が、私には合っているのかもしれないわね。
そう思いながら、そっと耳を澄ます。
紫はどこかに行ったようだ。
今、この部屋に、私が、ひとり。
無粋ですが、「神→髪」、「世→様」の変換間違いがありましたので報告をば。
扱いにくいキャラなのに見事です。
やっぱり東方には和風成分ですよねぇ。
各々のキャラもとてもよく描かれていて良いです。
後半に期待。
取り合えず後半も読もうかと思います