山の遅い春はゆっくりと過ぎ、昨夜は生温かい雨が降った。
ともすれば不気味にも感じさせたそれは、入梅の近さを知らせていた。
六月、か。私は幻想郷には似つかわしくない暦を数える。
雨はよく降るし土日の他に休みもないし。好きになれない月だった。
もっとも私は雨の降りはある程度分かっていたし、ほんの少しだけならば好きにもできた。
昼過ぎから降り出した雨の中、友達ときゃあきゃあ騒ぎながら一本の傘の下で押し合いながら帰ったのを覚えている。
びしょ濡れになった右の袖の感触も、なんとかしてよ早苗、という冗談交じりの言葉も覚えている。
―――だけど。
彼女の顔と名前が、どうしても思い出せない。
別に初めてのことではなかった。
幻想郷に来てからというもの、少しずつ「向こう側」と離れていくのだろうととりあえず納得している。
実際には、口で言うほど簡単ではなかったけれど。
いつかはこの思い出さえも失くしていくのかもしれない。そう考えることはやはり怖い。
ただ同時に、幻想郷に居ようが外の世界に居ようが、思い出というのはそういうものなんだと冷めて考える自分もいた。
そのことがまた怖くもあって―――ああ、やめやめ。
せっかくの雨上がり、気持ちのいい朝。気が沈むようなことばかり思っていても仕方がない。
薄く霞む朝の境内。その空気の中へと私は踏み出した。
「すー・・・すー・・・」
なんか、いる。
傘だ。傘が寝てる。
すんごく趣味の悪い色。夏野菜の旬にはちょっと早いナスの色。
だらーんと長い舌を何の躊躇もなく地面に投げ出して。
なんで一つ目閉じてんの。可愛いつもりなの。
私にどうしろというの。
「・・・あのー、もしもーし」
とりあえずつっつく。素手で触らないように御幣で。
「むにゃ・・・もう・・・そんな・・・うらめせないよう・・・」
なんだその動詞。サ変でしょうか。なんで受験のときの記憶だけは鮮明に残っているのでしょうか。
ともあれうちの神社の前、夢の中であろうとそんな不埒な行いを見過ごすわけにも行きません。うらめす、というのがどういうものかはともかく。
私は今しがたソレをつっついていた御幣を振り上げて、
「風よ!」
空高くへと、小傘さんを舞い上げた。
「あ~びっくりした~」
「それはどうも」
ひらひらと舞った挙句、山を巡る風に乗って戻ってきた小傘さんはお茶を啜ってそう言った。
びっくりしたのは正直こっちも同じなのだけれど、それを言うときっと喜ばれる。それは多分、悔しい。
だから私は興味の無い風を、何事も無かった風を装った。
正直ちょっと飛ばしすぎたっていうのもあるけど。
「で、どうでした?」
「・・・どう、って」
「びっくりしました?」
ああ、ここで聞いてくるんだ。
「そうですね、全然」
「ん~、そっかぁ・・・」
あら、思ったより落ち込まないんですね。
前向きというか、熱意が足りないというか。
・・・まあ、あまり固く考えすぎると恥ずかしい失敗もするものですよね。経験から言いますけど。
「あ、神社にはちゃんとお参りしたよ?」
「そうですか、それはどうも」
「あれー、びっくりしないの?」
「神社に来てお参りをしないって方がびっくりしますよ」
「そっかあ・・・」
物分りが良いというか、諦めが良すぎるというか。
そうそう退治されるほど悪い子ではないんですよね。妖怪だけど。
「あ、じゃあご飯食べに来ただけって言ったら?」
「退治ですねえ」
「そっかぁ・・・」
ぱっと笑顔が開いたり、がっかり顔でしぼんだり。
本当に傘みたいな子だなあと思う。傘なんだけど。
「あ、でも頑張ってるんですよ?」
「はあ」
「こう・・・ですね、もっと・・・"いでおろぎ"を持たないとダメだと思うんです」
「イデオロギーのことですか?」
「そう! 名づけて・・・びっくりさせる主義?」
なんで語尾上げなんですか。
湯呑みを取り落としそうになりながら内心でツッコミを入れる。
「うーん、なんか違うなぁ・・・びっくり・・・驚愕・・・」
ひとりで考え始めてしまった小傘さんを横目に、私は出かける支度を始めることにした。
「恐怖主義?」
「テロリズムですねえ」
「てろりずむ! なんかカッコいい、それで行きます!」
「それは本当にやめた方がいいですねえ」
もう少しこの子を見守って、もとい見張っていた方がいいかもしれません。
放っておいたらこの子にも周囲にも危害が・・・ああ、やっぱり退治しちゃうべき?
「おや早苗、お友達?」
性急な判断を下しそうになったその時、後ろから声が掛けられる。
「いえ、なんというか拾得物です諏訪子さま」
「こ、こんにちは・・・えっと、ばあっ!」
小傘さんは戸惑いがちな挨拶のあと、諏訪子さまに向かって伸び上がった。
「え?」
諏訪子さまは物問いたげに私の方を向いた。
その、なんというか困ります。
「どう? びっくりした?」
「えっと・・・ううん」
「あぁぁ、やっぱりぃ~」
がっくりと五体投地の小傘さんと、ますます説明に困る私を、諏訪子さまは交互に見つめる。
そして何かを納得したように、うんうんと頷いた。
「?」
「どうかなさったんですか?」
「ううん、べっつにぃ♪」
なんとなくだけど、根本的な誤解をされているような気もする。
それを訂正するにも何かが引っかかって言葉にならなかった。
「ほら早苗、この子のことはわたしに任せていいから。そろそろ行ってきたら?」
「え・・・あ、はい」
そうだった。今日は博麗神社の分社のお手入れの日。
ついで・・・そう、あくまでついでに霊夢さんともお話をしてこれ・・・こないと。
そう、これは大事な役目なんだから急いで支度しないと。早く行かないと。
「さな、い・・・さん? えっと」
「早苗です。何ですか」
少しだけイラっとしつつも返事をする。
「帰ってきたらまたお話しましょうね」
「夜までいるつもりなんですか」
そしてまた少しだけ、イラっとした。
そう、少しだけ。
「そりゃ退治でしょ」
彼女の答えは迷いもなく単純なものだった。
「そ、そうです・・・よ、ねえ」
なのに私の答えは歯切れ悪く、言葉とは裏腹の気持ちが混じっていた。
手にした湯呑みがなんだか手持ち無沙汰で、置き場所を迷って傍らに置いた。
「だって悪事しようとしてるんでしょ? 議論の余地もないわ」
別段怒っているようにも見えない。
小学生の足し算や引き算を説明するような、当たり前のことを言ってのけるだけ。
そして実際、それで理屈もまっすぐ通るのだから、私が異論を差し挟む余地はないのだ。
けれど・・・なんだろう。
あんなにも明け透けに接されてしまうと、そうも簡単に割り切っていいものなのか気になって・・・。
「納得、できない?」
言葉を区切ってそう問いかけてくる霊夢さんは、微笑みを浮かべていた。
答えなくても私の気持ちは解っている、とばかりに。
そして私は、はいと言うことも頷くことも出来ない。
「あんた自分で言ってたじゃない。常識には囚われないってね」
「あ、あのそれは、えっと・・・」
つっつかれると少々恥ずかしい。
確かにそんなことを言った挙句、問答無用で弾幕ごっこに持ち込んで・・・うぅ、もう許して。
「アレでいいのよ」
「え?」
予想だにしない言葉に顔を上げる。
霊夢さんは諭すように続けた。
「その妖怪のこと、退治したことあるんでしょ?」
「は、はい・・・でも、それなのにあの子は・・・」
「だから、よ。別に再起不能になるくらい叩きのめしたってわけじゃないでしょ?」
「そ、それは・・・弾幕ごっこですし」
「そう、ごっこ。妖怪が人を脅かすのも、それを退治するのも、ごっこ遊びよ」
「で、でも・・・」
そんなことでいいのだろうか?
この幻想郷という場所では、誰一人として本気では生きていない。そう言われたような気がした。
「そんなの、おかしいです」
「非常識?」
「そうですよ・・・えっ?」
霊夢さんは今度は、くくっと体を震わせて笑った。
「まったくもってその通りね。人間と妖怪が滅ぼし合わずに生活してるんだもの。考えるほどに非常識だわ」
あっさり認められてしまうと、なおのこと何も言えなくなってしまう。
それなら私はどうすればいいのか、どんどん答えが遠ざかってるような気がする。
「ごめんごめん、ちょっと先走っちゃったわね。けど、不思議とこれで上手く回ってるのよね」
「・・・それは、はい。確かに」
常識に囚われない。それは挨拶代わりに弾幕勝負を吹っかけることとは違う。それは解っている・・・つもり。
強いて言うなら・・・誰もが引き際を弁えた上で、本気で立ち会っている。
争うから排除しあうのではなく、共存しているからといって無条件に譲り合うでもない。
誰もが役柄を弁えた、劇場のような関係。
もし霊夢さんが言っているのがそういうことならば、私は―――。
「でも、常識に囚われないっていうんなら・・・この幻想郷の常識だって破ってみるのもいいかもね」
「え、ええっ?」
ぼんやりと掴みかけた答えが、また遠くまで蹴り飛ばされてしまった気分。
霊夢さんはそんな私を見てまた笑うと、その笑みを残したまま言った。
「とにかく、思ったとおりに接しなさい。その子だってそう望んでるわよ」
思ったとおりに。
それは答えとしてはあまりに妥当で、不完全で。
自分がどう「思っている」のかが解らなければ、意味がない。
宙ぶらりんな心のまま、私は帰り道を急ぐ。
接し方が解らないあの子が待っているかもしれないのに急ぐのには理由がある。
重くどんよりした雲が急に空にせり上がって来ている。
雨に濡れる前に帰らないといけない・・・けど、間に合いそうにない。
私が出かけてるんだから、雨を降らせないで下さい―――とは言わないけれど、タイミングは最悪。
里からは離れちゃったし、だけど山頂はまだ遠いし。
そんなところで頬にぽつん、と冷たく雨粒が弾けた。
まずい、急がないと。
そう思ったのはほんの数秒で、間もなく本降りになった。雨宿りを余儀なくされた。
手をかざして気休めの雨よけをしながら、近くの大木の下へと降りる。
葉は鬱蒼と茂って、それでもぽたりと時折水滴が落ちてくる。
雨脚は変わらず、そのうちここにいてもびしょ濡れになってしまうだろう。
かといってどうすることも出来ず、ただぼんやりと水滴を手のひらで受け止めた。
(水も滴るいい女、ってやつ? 早苗、試してみなよ)
不意に記憶の奥底から、彼女の声が蘇った。
呼び水を受けて、私はそっと呟きを返した。
「そう言って・・・傘取らないでよ・・・あずさ」
涙が零れた。
どうして思い出せなかったのか解らないくらい、自然にその名前が口をついた。
私が反対したのに茶色に染めた髪も、それに怒った私の機嫌を伺うように覗き込んでくる顔も、それでも臍を曲げたままの私にむくれる様も、今は鮮明に思い出せる。
私はただ、切り捨てようとしていただけなのかもしれない。
もう二度と戻れないからといって、思い出すことすらしようとしなかっただけ。
思い出から逃げて、忘れてしまった可愛そうな自分を演じていただけ。
―――泣くな、早苗。
ぎゅっと唇を噛み締めて、二粒目の涙を堪えた。
私に泣く資格なんかない。そんな甘えは許されない。
無闇なまでに、そう自分を叱咤した。
なおも零れようとする涙を止めようと、上を向いて梢を仰いだ。
その時。
大量の雨粒が、
「ひゃあああああああああ」
気の抜けるような声と一緒に落ちて来た。
ずぶ濡れ、とまでは行かなくとも服がじっとりと肌に張り付くのは感じている。
ついでに目の前で小傘さんと唐傘が目を回しているのも見えている。
この二点を総合して、大体何が起こったのかも理解している。
「はっ!」
正解!といわんばかりに小傘さんが跳ね起きた。ついでに唐傘も。
辺りをぶんぶんと見回すと、私に気付いてたたっと駆け寄ってくる。そして、
「び、びっくりしたぁ・・・じゃなくて、しましたか?」
懲りずにそんなことを言ってきた。
「・・・ええ、まあ」
あまりの能天気さに、つい口が滑った。
「ほ、ホントですかっ! やったあ!」
喜び爆発とばかり、ぴょんぴょんと飛び跳ねる小傘さん。傘裏返っちゃいますよ。
そんな様子を見ているうちに、私の中に緩んだ気持ちが流れ出すのを感じた。
微かな笑いでそれを受け流して、言う。
「あ、でも雨粒にはびっくりしたけど小傘さんにはあんまり」
「ええっ!?」
着地とジャンプの間の微妙な姿勢で固まる。
その姿が無性におかしくて、今度こそ私は体を震わせて笑った。
何を考えるでもなく、思い出すでもなく。ただひたすらに。
「むぅ、やっぱりさなえさんは意地悪です」
ぷぅ、と頬を膨らませてそっぽを向く。それがとても大切なものに思えた。
胸のうちに頭を持ち上げる悪戯心に従って、そっと近寄る。
そして彼女の手からひょいと唐傘を奪う。
「わっ!? か、返してくださいっ!」
「うふふ、水も滴るいい女っていうでしょ? 小傘さんもやってみません?」
「だ、だめです! その子とわたしはきょーどーたいなんです! こみゅにずむです!」
「いいじゃないですか、ほら行きますよ」
「へっ・・・わひゃっ!?」
片手で小傘さんの手を握り、もう片方の手で傘を持って、私は風に乗る。
傘に容赦なく雨粒が当たって、他の音が聞こえなくなりそう。
「さ、さなえさーんっ! わちきも入れてぇーっ!」
「手が塞がってて上手く飛べないんでーすっ! 傘持ってーっ!」
1メートルもない距離で声を張り上げる。それだけでまた笑いが止まらなくなりそう。
「ひゃああ、まだ濡れるぅーっ! さなえさーんっ、もっとよせてぇーっ!」
「ダメですーっ! これ以上濡れたら私、落ちちゃいまーすっ!」
「ひ、ひえええっ!」
思ったとおりにすること。それはこんなにも簡単なことだった・
自分が何を思っているのかなんて、解らなくていい。
私と誰かが笑えるのなら、それがきっと正しいことなんだ。
悪いことをしたら退治? そんなこと、どうでもいい。そんな常識になんて捕らわれない。
だから、私は彼女とだって―――
「さ、さなえさーんっ!」
「はーいっ?」
「こ、この顔ならみんな、びっくりしてくれるかなっ!?」
・・・ああ、ひどい顔だ。雨に濡れた髪が顔に張り付いてる。だけどきっと私も同じようなものだろう。
「そうですねーっ、ここで退治しましょうかーっ!」
「あ、あれええーっ!?」
ああ、本当に酷い雨。本当に変な子。
茄子みたいな色の変な傘の重さを半分だけ感じながら、呆れるほどに笑いが止まらなかった。
ともすれば不気味にも感じさせたそれは、入梅の近さを知らせていた。
六月、か。私は幻想郷には似つかわしくない暦を数える。
雨はよく降るし土日の他に休みもないし。好きになれない月だった。
もっとも私は雨の降りはある程度分かっていたし、ほんの少しだけならば好きにもできた。
昼過ぎから降り出した雨の中、友達ときゃあきゃあ騒ぎながら一本の傘の下で押し合いながら帰ったのを覚えている。
びしょ濡れになった右の袖の感触も、なんとかしてよ早苗、という冗談交じりの言葉も覚えている。
―――だけど。
彼女の顔と名前が、どうしても思い出せない。
別に初めてのことではなかった。
幻想郷に来てからというもの、少しずつ「向こう側」と離れていくのだろうととりあえず納得している。
実際には、口で言うほど簡単ではなかったけれど。
いつかはこの思い出さえも失くしていくのかもしれない。そう考えることはやはり怖い。
ただ同時に、幻想郷に居ようが外の世界に居ようが、思い出というのはそういうものなんだと冷めて考える自分もいた。
そのことがまた怖くもあって―――ああ、やめやめ。
せっかくの雨上がり、気持ちのいい朝。気が沈むようなことばかり思っていても仕方がない。
薄く霞む朝の境内。その空気の中へと私は踏み出した。
「すー・・・すー・・・」
なんか、いる。
傘だ。傘が寝てる。
すんごく趣味の悪い色。夏野菜の旬にはちょっと早いナスの色。
だらーんと長い舌を何の躊躇もなく地面に投げ出して。
なんで一つ目閉じてんの。可愛いつもりなの。
私にどうしろというの。
「・・・あのー、もしもーし」
とりあえずつっつく。素手で触らないように御幣で。
「むにゃ・・・もう・・・そんな・・・うらめせないよう・・・」
なんだその動詞。サ変でしょうか。なんで受験のときの記憶だけは鮮明に残っているのでしょうか。
ともあれうちの神社の前、夢の中であろうとそんな不埒な行いを見過ごすわけにも行きません。うらめす、というのがどういうものかはともかく。
私は今しがたソレをつっついていた御幣を振り上げて、
「風よ!」
空高くへと、小傘さんを舞い上げた。
「あ~びっくりした~」
「それはどうも」
ひらひらと舞った挙句、山を巡る風に乗って戻ってきた小傘さんはお茶を啜ってそう言った。
びっくりしたのは正直こっちも同じなのだけれど、それを言うときっと喜ばれる。それは多分、悔しい。
だから私は興味の無い風を、何事も無かった風を装った。
正直ちょっと飛ばしすぎたっていうのもあるけど。
「で、どうでした?」
「・・・どう、って」
「びっくりしました?」
ああ、ここで聞いてくるんだ。
「そうですね、全然」
「ん~、そっかぁ・・・」
あら、思ったより落ち込まないんですね。
前向きというか、熱意が足りないというか。
・・・まあ、あまり固く考えすぎると恥ずかしい失敗もするものですよね。経験から言いますけど。
「あ、神社にはちゃんとお参りしたよ?」
「そうですか、それはどうも」
「あれー、びっくりしないの?」
「神社に来てお参りをしないって方がびっくりしますよ」
「そっかあ・・・」
物分りが良いというか、諦めが良すぎるというか。
そうそう退治されるほど悪い子ではないんですよね。妖怪だけど。
「あ、じゃあご飯食べに来ただけって言ったら?」
「退治ですねえ」
「そっかぁ・・・」
ぱっと笑顔が開いたり、がっかり顔でしぼんだり。
本当に傘みたいな子だなあと思う。傘なんだけど。
「あ、でも頑張ってるんですよ?」
「はあ」
「こう・・・ですね、もっと・・・"いでおろぎ"を持たないとダメだと思うんです」
「イデオロギーのことですか?」
「そう! 名づけて・・・びっくりさせる主義?」
なんで語尾上げなんですか。
湯呑みを取り落としそうになりながら内心でツッコミを入れる。
「うーん、なんか違うなぁ・・・びっくり・・・驚愕・・・」
ひとりで考え始めてしまった小傘さんを横目に、私は出かける支度を始めることにした。
「恐怖主義?」
「テロリズムですねえ」
「てろりずむ! なんかカッコいい、それで行きます!」
「それは本当にやめた方がいいですねえ」
もう少しこの子を見守って、もとい見張っていた方がいいかもしれません。
放っておいたらこの子にも周囲にも危害が・・・ああ、やっぱり退治しちゃうべき?
「おや早苗、お友達?」
性急な判断を下しそうになったその時、後ろから声が掛けられる。
「いえ、なんというか拾得物です諏訪子さま」
「こ、こんにちは・・・えっと、ばあっ!」
小傘さんは戸惑いがちな挨拶のあと、諏訪子さまに向かって伸び上がった。
「え?」
諏訪子さまは物問いたげに私の方を向いた。
その、なんというか困ります。
「どう? びっくりした?」
「えっと・・・ううん」
「あぁぁ、やっぱりぃ~」
がっくりと五体投地の小傘さんと、ますます説明に困る私を、諏訪子さまは交互に見つめる。
そして何かを納得したように、うんうんと頷いた。
「?」
「どうかなさったんですか?」
「ううん、べっつにぃ♪」
なんとなくだけど、根本的な誤解をされているような気もする。
それを訂正するにも何かが引っかかって言葉にならなかった。
「ほら早苗、この子のことはわたしに任せていいから。そろそろ行ってきたら?」
「え・・・あ、はい」
そうだった。今日は博麗神社の分社のお手入れの日。
ついで・・・そう、あくまでついでに霊夢さんともお話をしてこれ・・・こないと。
そう、これは大事な役目なんだから急いで支度しないと。早く行かないと。
「さな、い・・・さん? えっと」
「早苗です。何ですか」
少しだけイラっとしつつも返事をする。
「帰ってきたらまたお話しましょうね」
「夜までいるつもりなんですか」
そしてまた少しだけ、イラっとした。
そう、少しだけ。
「そりゃ退治でしょ」
彼女の答えは迷いもなく単純なものだった。
「そ、そうです・・・よ、ねえ」
なのに私の答えは歯切れ悪く、言葉とは裏腹の気持ちが混じっていた。
手にした湯呑みがなんだか手持ち無沙汰で、置き場所を迷って傍らに置いた。
「だって悪事しようとしてるんでしょ? 議論の余地もないわ」
別段怒っているようにも見えない。
小学生の足し算や引き算を説明するような、当たり前のことを言ってのけるだけ。
そして実際、それで理屈もまっすぐ通るのだから、私が異論を差し挟む余地はないのだ。
けれど・・・なんだろう。
あんなにも明け透けに接されてしまうと、そうも簡単に割り切っていいものなのか気になって・・・。
「納得、できない?」
言葉を区切ってそう問いかけてくる霊夢さんは、微笑みを浮かべていた。
答えなくても私の気持ちは解っている、とばかりに。
そして私は、はいと言うことも頷くことも出来ない。
「あんた自分で言ってたじゃない。常識には囚われないってね」
「あ、あのそれは、えっと・・・」
つっつかれると少々恥ずかしい。
確かにそんなことを言った挙句、問答無用で弾幕ごっこに持ち込んで・・・うぅ、もう許して。
「アレでいいのよ」
「え?」
予想だにしない言葉に顔を上げる。
霊夢さんは諭すように続けた。
「その妖怪のこと、退治したことあるんでしょ?」
「は、はい・・・でも、それなのにあの子は・・・」
「だから、よ。別に再起不能になるくらい叩きのめしたってわけじゃないでしょ?」
「そ、それは・・・弾幕ごっこですし」
「そう、ごっこ。妖怪が人を脅かすのも、それを退治するのも、ごっこ遊びよ」
「で、でも・・・」
そんなことでいいのだろうか?
この幻想郷という場所では、誰一人として本気では生きていない。そう言われたような気がした。
「そんなの、おかしいです」
「非常識?」
「そうですよ・・・えっ?」
霊夢さんは今度は、くくっと体を震わせて笑った。
「まったくもってその通りね。人間と妖怪が滅ぼし合わずに生活してるんだもの。考えるほどに非常識だわ」
あっさり認められてしまうと、なおのこと何も言えなくなってしまう。
それなら私はどうすればいいのか、どんどん答えが遠ざかってるような気がする。
「ごめんごめん、ちょっと先走っちゃったわね。けど、不思議とこれで上手く回ってるのよね」
「・・・それは、はい。確かに」
常識に囚われない。それは挨拶代わりに弾幕勝負を吹っかけることとは違う。それは解っている・・・つもり。
強いて言うなら・・・誰もが引き際を弁えた上で、本気で立ち会っている。
争うから排除しあうのではなく、共存しているからといって無条件に譲り合うでもない。
誰もが役柄を弁えた、劇場のような関係。
もし霊夢さんが言っているのがそういうことならば、私は―――。
「でも、常識に囚われないっていうんなら・・・この幻想郷の常識だって破ってみるのもいいかもね」
「え、ええっ?」
ぼんやりと掴みかけた答えが、また遠くまで蹴り飛ばされてしまった気分。
霊夢さんはそんな私を見てまた笑うと、その笑みを残したまま言った。
「とにかく、思ったとおりに接しなさい。その子だってそう望んでるわよ」
思ったとおりに。
それは答えとしてはあまりに妥当で、不完全で。
自分がどう「思っている」のかが解らなければ、意味がない。
宙ぶらりんな心のまま、私は帰り道を急ぐ。
接し方が解らないあの子が待っているかもしれないのに急ぐのには理由がある。
重くどんよりした雲が急に空にせり上がって来ている。
雨に濡れる前に帰らないといけない・・・けど、間に合いそうにない。
私が出かけてるんだから、雨を降らせないで下さい―――とは言わないけれど、タイミングは最悪。
里からは離れちゃったし、だけど山頂はまだ遠いし。
そんなところで頬にぽつん、と冷たく雨粒が弾けた。
まずい、急がないと。
そう思ったのはほんの数秒で、間もなく本降りになった。雨宿りを余儀なくされた。
手をかざして気休めの雨よけをしながら、近くの大木の下へと降りる。
葉は鬱蒼と茂って、それでもぽたりと時折水滴が落ちてくる。
雨脚は変わらず、そのうちここにいてもびしょ濡れになってしまうだろう。
かといってどうすることも出来ず、ただぼんやりと水滴を手のひらで受け止めた。
(水も滴るいい女、ってやつ? 早苗、試してみなよ)
不意に記憶の奥底から、彼女の声が蘇った。
呼び水を受けて、私はそっと呟きを返した。
「そう言って・・・傘取らないでよ・・・あずさ」
涙が零れた。
どうして思い出せなかったのか解らないくらい、自然にその名前が口をついた。
私が反対したのに茶色に染めた髪も、それに怒った私の機嫌を伺うように覗き込んでくる顔も、それでも臍を曲げたままの私にむくれる様も、今は鮮明に思い出せる。
私はただ、切り捨てようとしていただけなのかもしれない。
もう二度と戻れないからといって、思い出すことすらしようとしなかっただけ。
思い出から逃げて、忘れてしまった可愛そうな自分を演じていただけ。
―――泣くな、早苗。
ぎゅっと唇を噛み締めて、二粒目の涙を堪えた。
私に泣く資格なんかない。そんな甘えは許されない。
無闇なまでに、そう自分を叱咤した。
なおも零れようとする涙を止めようと、上を向いて梢を仰いだ。
その時。
大量の雨粒が、
「ひゃあああああああああ」
気の抜けるような声と一緒に落ちて来た。
ずぶ濡れ、とまでは行かなくとも服がじっとりと肌に張り付くのは感じている。
ついでに目の前で小傘さんと唐傘が目を回しているのも見えている。
この二点を総合して、大体何が起こったのかも理解している。
「はっ!」
正解!といわんばかりに小傘さんが跳ね起きた。ついでに唐傘も。
辺りをぶんぶんと見回すと、私に気付いてたたっと駆け寄ってくる。そして、
「び、びっくりしたぁ・・・じゃなくて、しましたか?」
懲りずにそんなことを言ってきた。
「・・・ええ、まあ」
あまりの能天気さに、つい口が滑った。
「ほ、ホントですかっ! やったあ!」
喜び爆発とばかり、ぴょんぴょんと飛び跳ねる小傘さん。傘裏返っちゃいますよ。
そんな様子を見ているうちに、私の中に緩んだ気持ちが流れ出すのを感じた。
微かな笑いでそれを受け流して、言う。
「あ、でも雨粒にはびっくりしたけど小傘さんにはあんまり」
「ええっ!?」
着地とジャンプの間の微妙な姿勢で固まる。
その姿が無性におかしくて、今度こそ私は体を震わせて笑った。
何を考えるでもなく、思い出すでもなく。ただひたすらに。
「むぅ、やっぱりさなえさんは意地悪です」
ぷぅ、と頬を膨らませてそっぽを向く。それがとても大切なものに思えた。
胸のうちに頭を持ち上げる悪戯心に従って、そっと近寄る。
そして彼女の手からひょいと唐傘を奪う。
「わっ!? か、返してくださいっ!」
「うふふ、水も滴るいい女っていうでしょ? 小傘さんもやってみません?」
「だ、だめです! その子とわたしはきょーどーたいなんです! こみゅにずむです!」
「いいじゃないですか、ほら行きますよ」
「へっ・・・わひゃっ!?」
片手で小傘さんの手を握り、もう片方の手で傘を持って、私は風に乗る。
傘に容赦なく雨粒が当たって、他の音が聞こえなくなりそう。
「さ、さなえさーんっ! わちきも入れてぇーっ!」
「手が塞がってて上手く飛べないんでーすっ! 傘持ってーっ!」
1メートルもない距離で声を張り上げる。それだけでまた笑いが止まらなくなりそう。
「ひゃああ、まだ濡れるぅーっ! さなえさーんっ、もっとよせてぇーっ!」
「ダメですーっ! これ以上濡れたら私、落ちちゃいまーすっ!」
「ひ、ひえええっ!」
思ったとおりにすること。それはこんなにも簡単なことだった・
自分が何を思っているのかなんて、解らなくていい。
私と誰かが笑えるのなら、それがきっと正しいことなんだ。
悪いことをしたら退治? そんなこと、どうでもいい。そんな常識になんて捕らわれない。
だから、私は彼女とだって―――
「さ、さなえさーんっ!」
「はーいっ?」
「こ、この顔ならみんな、びっくりしてくれるかなっ!?」
・・・ああ、ひどい顔だ。雨に濡れた髪が顔に張り付いてる。だけどきっと私も同じようなものだろう。
「そうですねーっ、ここで退治しましょうかーっ!」
「あ、あれええーっ!?」
ああ、本当に酷い雨。本当に変な子。
茄子みたいな色の変な傘の重さを半分だけ感じながら、呆れるほどに笑いが止まらなかった。
小傘と早苗の会話や、霊夢との会話も面白かったですよ。
それはともかく、早苗さんの心理描写が上手いなあと思いました。
上手く言えないけれども、文中から自然な暖かさみたいなものを感じます。
早苗さん、そして小傘がかわいい・・・・。
皆さんの評価やコメントが力の源です。
お察しの方もいらっしゃる通り、タイトルは藤原伊織の小説「テロリストのパラソル」のパロディです。
タイトルのパロディを思いついてから話を考えたという有様ですが。
今後ともども「このキャラってば本当に可愛いんだぜ」をコンセプトに色々と書いていきたいと思う所存です。
これを読んだら早苗さんがまた一段といい人になりました。
癒された。
こんな二人の関係もいいものですね。
…小傘ちゃん、すごく寂しい出自なのに、健気で良い子だ…
でもこのSSで一番好きなのは、他でもない霊夢だったりします。