「おーい。咲夜ー」
まどろみの中、咲夜は耳元の幼い声に意識を呼び起こされた。
「生きてるかー?」
うっすらと目を開けると、見慣れた主の顔がそこにあった。
「良かった。生きてた」
犬歯を出して、にぃっと笑う。
永遠に紅い幼き月。
レミリア・スカーレット。
「勝手に殺さないで下さいまし」
その従者・十六夜咲夜。
咲夜は苦笑しながら、ベッドの横のレバーを動かした。
ウィイインと音がして、ベッドの上部が起き上がってくる。
七十度ほど起こしたあたりで、咲夜はレバーを離した。
「おはようございます、お嬢様」
「おはようじゃないわよ。もう昼よ。まったく、ほっとくといつまでも寝てるんだから」
「申し訳ありません」
今日も咲夜は瀟洒に微笑む。
「はい、寝覚めの紅茶」
ティーカップを差し出すレミリア。
あたりに茶葉の香りが満ちる。
「ありがとうございます」
咲夜はそれを受け取ると、ゆっくりとした動作で口元に運んだ。
こく、こくと。
少しずつ、喉に注いでいく。
「とても、美味しゅうございますわ」
「この私が淹れたんだもの。当然よ」
にっこりと微笑む咲夜に、えへんと胸を張るレミリア。
そんな二人の日常が、此処にあった。
「そうだ。今日は出かけなくちゃいけないから、食事は妖精メイド達に運ばせるわ。何時がいい? ちなみに今はもう正午過ぎよ」
時計を見ながら、レミリアは問い掛けた。
「あらまあ。もうこんな時間ですの。そうですねぇ、では一時半頃でお願いしますわ」
実におっとりとした口調で、咲夜は答えた。
「ん、一時半ね。了解。そうそう、言っとくけど、今日のは自信作だから」
「あら。それは楽しみですこと」
「昨日の夜、竹林で美味しそうな山菜を沢山採ってきたのよ。炊き込みご飯にしたから」
「それはそれは……ありがたく頂きますわ」
はしゃぐように言うレミリアに、微笑みながら礼を言う咲夜。
こんな光景も、いつしか当たり前のものとなった。
十六夜咲夜は、八十歳になっていた。
かつて銀に輝いたその髪は、今では綺麗な白色に染まっている。
かつて透き通るような白さを誇っていた瑞々しい肌には、今では皺が深く刻み込まれている。
それはそのまま、彼女が今日まで過ごしてきた時間の長さを物語っていた。
六十を過ぎた頃、咲夜はメイド長を引退した。
紅魔館に定年制はなかったが、咲夜は、老齢に伴う自分の稼働能力の低下を鑑み、自ら辞職を申し出たのだ。
メイドでなくなる以上、もうこの館には居られない、里に下りて隠居します、とも咲夜は言ったが、それはレミリアが許さなかった。
「馬鹿なことを言うな。一生私の傍に居ると言ったのはお前じゃないか。一人で勝手に此処を出て、一人で勝手にくたばるなんて、そんなことは絶対に許さない」
こうして咲夜は引退後も、この館で暮らしていくことになった。
これまでと同様、レミリアの従者として。
しかし、その後間もなく、咲夜の身体に、目に見えて変化が現れ始めた。
重い荷物が持てない。
少し移動しただけで息切れがする。
階段で足がなかなか上がらない。
それは、老化現象。
歳を取れば、誰に対しても起こるもの。
しかし咲夜の場合は、通常の場合よりも一層早く、それが顕著に現れ始めた。
それは言わずもがな、咲夜がこれまで使ってきた能力の影響に他ならない。
時間を止めれば止めた分だけ、相対的に、自身の老化は早くなる。
術者自身の時間は止まらないのだから、当然の帰結だ。
七十を越えた頃には、咲夜はもう、自分の足で歩くことすら困難になっていた。
そしてその頃から、咲夜の身の回りの世話をするのが、レミリアの日課になった。
咲夜を起こし、咲夜の為に紅茶を淹れ、咲夜の為に食事を作る。
時々は咲夜を車椅子に乗せ、外にも連れ出してやる。
最初の頃こそ、咲夜は抵抗を示した。
仮にも自分は従者なのに、主にここまで迷惑を掛けられない、と。
すると、レミリアは少しむっとした表情で、こう言った。
「水臭いことを言うな。これまで五十年以上も、私は咲夜の世話になってきたんだ。だから、少しくらい……お返しをさせてくれても、いいじゃない」
ほんのり、頬を紅くして。
さらにレミリアは、こう続けた。
「それに何より、私はこうして、咲夜の世話をしていることが楽しいんだ。咲夜。お前は、主の楽しみを奪うつもりか?」
大真面目な顔で、主にそんなことを言われては、咲夜としても、何も言い返すことが出来なかった。
こうして築かれた、主人が従者の世話をするという、なんだか奇妙な主従関係が、もう十年ほども続いている。
――そして、現在。
「……さてと、じゃあ私はそろそろ行って来るよ」
「はい。霊夢と魔理沙によろしくお伝え下さい」
「ああ。まったく、何が悲しくて、夜の王たる吸血鬼が、人間の生存確認なんぞのために、真昼間から出掛けなくちゃいけないのかねぇ」
やれやれと、レミリアは溜め息混じりに呟いた。
「あらあら。お嬢様が自らお始めになったことではないですか」
くすくすと笑う咲夜。
「違いない」
くっくっと笑うレミリア。
「ま、どうせあいつらのことだ。一ヶ月前と、同じことをしているに決まっている」
「霊夢は縁側でお茶、魔理沙は魔法の研究、ですか」
「間違いなくそうさ。あいつらも大概いい歳なのに、やってることはてんで昔と変わりやしない」
大げさに肩を竦めながら、レミリアは言った。
「いいではないですか。彼女らもまた、人間らしく生きているという証ですよ」
「そうは言うがな、咲夜。まあ霊夢はまだいい。やってることは昔と変わらんが、十分歳相応の振る舞いといえるからね」
「問題なのは、もう一人の方、というわけですね」
「そうだ。魔理沙のやつ、この前、私が訪ねたときなんか、三日も寝ないで研究していやがった。いい加減にしないと本当に死ぬぞと言ってやったら、『魔法の研究中に死ねるなら、魔女冥利に尽きるってもんだ。畳の上で大往生なんて、私の柄じゃない』なんて、平然と言いやがる。正気の沙汰とは思えない」
「確かに」
咲夜はくすくすと笑った。
可笑しそうに、嬉しそうに。
つられてレミリアもくっくっと笑った。
可笑しそうに、嬉しそうに。
「それじゃあね、咲夜」
「はい、お嬢様」
「くれぐれも、勝手に死ぬなよ」
「ええ、もちろんでございますわ」
傍から見てると実に奇妙なやりとりだが、二人の間ではこれが普通のことだった。
いつのことだったか、レミリアは咲夜にこう言った。
「いいか、咲夜」
「人間らしく死ぬと決めた以上は、最期まで人間らしく生きろ」
「そして最期は、私の腕の中で死ね」
「私の腕の中で、人生最高の笑顔を浮かべて、心安らかに老衰で死ね」
「私の居ない時に勝手に死んだり、病気なんかで死期を早めたりしたら、許さない」
「もしそんなことになったら、閻魔に掛け合ってでも、無理矢理反魂してやるからな」
「常々、心しておくように」
まったく、このお方は……。
これらの言葉を思い出すたび、咲夜は深く嘆息する。
「最後の最後まで、私を縛りたがるのだから」
従者の死に方にここまで注文を付ける主人なんて、聞いたことがない。
そしてそれを実践すべく、従者の健康管理に細心の注意を払う主人も。
そう。
レミリアは、本気なのだ。
本気で、咲夜に人間としての一生を全うさせようとしているのだ。
「ならば、私も」
それに応えないわけにはいきませんね――。
咲夜は、決意を宿した瞳を窓の外に向ける。
日傘を手にしたレミリアが、気持ちよさそうに空を歩いているのが見えた。
ほんの一瞬、その隣に、かつての自分の姿を幻視する。
日傘を持ち、レミリアの傍に佇む自分。
でも、そんな自分はもういない。
もうどこにも、あの頃の自分はいない。
――しかし、今の自分は此処に居る。
もう、メイドとして働くことができなくとも。
もう、時を操ることができなくとも。
それでも自分は、此処に居る。
今の自分に残された、たった二つの宝物。
十六夜咲夜という名前と、レミリア・スカーレットの従者であるという誇り。
その二つさえあれば、もう他には何も要らなかった。
「ふわあ」
視線を部屋に戻すと、欠伸が出た。
結構寝たはずなのに、まだ眠い。
でも、今の咲夜にとっては、これも普通のことだった。
「……お食事が来るまで、もう一眠りしようかしら」
そう呟き、咲夜は静かに目を閉じる。
「おやすみなさい、お嬢様」
咲夜はゆっくりと、眠りの淵へと落ちていった。
館に戻り、霊夢達の様子を楽しそうに話すレミリアの姿を、瞼の裏に描きながら。
了
なんか学べました。
レミリアいいやつだな……
みんな年老いても彼女たちらしいのが、また、いい。
あなたの作品群これからも楽しみにしています。