「おーーーーい」
昼の博麗神社。霊夢が茶をすすりながらそろそろおやつでも出して来ようかと思っていたところに、聞きなれた声が響いた。
霊夢が振り向くと、やはり箒に跨った白黒の魔法使いが手を振っていて、霊夢はおやつでもたかりに来たのだろうかと眉をひそめた。
「おーーーい!」
しかし霧雨魔理沙はそんな霊夢とは対照的な屈託のない笑顔で、博麗神社境内へと突入する。
それはなんともいつもと同じ光景であり、霊夢には次の言葉も容易に予想できた。
名前を呼ぶ。
霊夢ー、と、その唇を動かして。
だからこそ。
「博麗ーーー!」
予想外の苗字が来たとき、博麗霊夢は不覚にもお茶を噴き出した。
「うわぁ、びっくりしたぁ、いきなり茶を噴くなよ博麗」
「けほっ、けほっ……こっちがびっくりしたわよ。なんで今更私を苗字で呼ぶ?」
目をまん丸にして驚く霧雨に、博麗は目に涙を浮かべ、のどを押さえながら、不可解な行動をした原因を尋ねる。
「うむ、良くぞ聞いてくれた」
霧雨は胸を張り、指をくるくるとさせながら語りだした。
「よく考えたら私たちって誰でもすぐに名前で呼ぶだろ? だからたまには苗字デーみたいなのがあっても面白いんじゃあないか? そう私は考えたわけだ」
発想的にはどうということもない。単なるマンネリ打破であり、たまには変化をつけてみようという発想である。
考えてみればそこまで突拍子なことでもないか、と博麗は一思案した。
「ふーん、なるほどね。まぁ、面白いんじゃない?」
「だろ?」
博麗の同意を聞いて、霧雨はにっと白い歯を見せる。
「じゃあ今度は博麗の番だぜ。さぁ、私を苗字で呼んでくれ!」
「え?」
今度は博麗が目を丸くした。
それはそうだ。先ほどお茶を噴いたのは、それはそれなりに違和感があればこそ。
「な、なんだか苗字で呼ぶのって、よそよそしくて照れくさいわ」
博麗が珍しく、頬を朱に染める。
霧雨はほぅ、と興味深い顔になった。これは博麗霊夢の意外な弱点なのかもしれない。
博麗の普段の飄々とした振る舞いを保つ秘訣が、自分にとって最適な距離感を保つことと仮定すれば。
この苗字の提案はそれを打ち破ることになるのかもしれない。
「そっか? まぁ呼んでみろよ。恥ずかしがらないでさぁ」
しかし霧雨はあくまで普通に押す。それはそれで面白くとも、これはこれで面白いのだ。
「う、うん……。えっと……霧雨?」
キュン。
と、何かが締め付けられるような音がした。
「いいなぁ、これ。いいなぁ」
「そ、そう?」
にやつきながらしきりに頷く霧雨に、博麗は困ったように首をかしげる。
「新しい一面の発見って感じだ。やっぱりあのアイディアは間違いじゃなかったな」
満足気に言って、霧雨はほくほくとした笑顔を浮かべる。
「もう……」
博麗が少しむくれたような表情を見せたところに――
「れいむー、いるー?」
新たに博麗神社へと客人が訪れた。
ころころとした声色とは裏腹、やってきたのは七色の魔法使い、アリス・マーガトロイドであった。
「うわ、魔理沙もいたの?」
「うわはないだろう」
姿を認めるなり、露骨に顔をしかめて着地するアリスに霧雨は苦笑する。
きっとその声色を聞かれたことに焦っているだけなのだろうけれど。
でも博麗はそんな様子には興味を示さず、ごく普通に挨拶を投げかける。
「あら、アリス、こんにちは。どうかしたの?」
「あ、うん、こんにちは。……いや、特に用ってわけじゃないんだけど、暇で……」
アリスは人差し指で頬を掻きながら茶を濁した。
「だめだなぁ、二人とも」
だが、そんな二人の間に、霧雨魔理沙がチッチッと指を振りながらしゃしゃり出る。
「今日は年に一度の苗字デーだぜ?」
「いつの間に恒例行事に」
記憶の限りでは今までに経験したことはなく、博麗は口をゆがめてツッコミを呈した。
「どういうことなの?」
その状況を把握できないのはもちろんアリスただ一人。
そして、二人から事の次第を説明された彼女は、あからさまに眉をひそめた。
「苗字? ファミリーネーム? あんた私のそれを覚えているの?」
アリスがそう苦言を呈するのもわからぬ話ではない。マーガロイドにマーガリン。彼女ほど苗字を勘違いされた者はそうはいないのだ。
わかってて言われるのとはわけが違う。
そんなアリスの心をわかっているのかいないのか、ともかく霧雨は鷹揚に頷いた。
「抜かりはないぜ、バトルドロイド」
「どこの戦闘兵器よ!」
全然覚えていなかった。
「でも、なんか人形遣いの人形なイメージよね、バトルドロイド。意外にぴったりかも」
「霊夢!?」
歯に絹どころか無縫の天衣でも着せているかのごとき霊夢の物言いに、マーガトロイドは恐ろしい勢いで振り向く。
「よかったなぁ、今日から君はバトルドロイドだ」
「よかないわよ! なんで遊びに来ただけでバトルドロイドにされにゃあならんのよ!」
ぽんぽんと肩を叩く霧雨の手をギュウとつねってやり、後ろから「みぎゃあ」と言う声が聞こえてくるのを感じ、マーガトロイドは嘆息した。
「ごめんごめんマーガトロイド。そんなに怒らないで」
くすくすと笑いながらちゃんと苗字を呼ぶ博麗に、マーガトロイドはなんだか毒気を抜かれた。
「ふぅ……わかったわよ。……ありがと、博麗」
なんだかんだできっちり苗字を呼びながら、憮然とした表情で礼を言ってよこす。
しかし、口元はぴくぴくと笑おうとしていた。
そして、背後から聞こえる「おお、そういやそんなんだったな」という呟きに、つねったままの手の力を一際強めた。
「おお、痛」
「悪ふざけをするから……」
左手をぷらぷらさせる霧雨に、博麗が呆れたように一言添える。
「なぁに、マガトロさんをいじるんだから、これくらいの痛さなら安いもんだぜ」
遠心力で人形が打ち付けられるのを華麗に避け、その動きのままに箒にまたがり、霧雨魔理沙は舞い上がった。
「さて、私は苗字デー開催のお知らせを幻想郷中に広めてくるぜ。じゃあな、博麗、マーガトロイド」
ピッ、と二本指を額にかざしてウインクすると、旋回して空の彼方へ一直線、みるみるうちにその姿を消した。
「まったく、やっとうるさいのがいなくなったわ」
空ぶった人形をパシリと受け止めながらマーガトロイドが毒づくのを見て、博麗は苦笑しながら同じく霧雨の去った空を見上げる。
「そうねえ。どうする? お茶でも飲んでく? ええと……マーガトロイド?」
キュン。
「もちろんごちそうになるわ」
先ほどは急場であったからそうはならなかったものの、再び照れながら苗字を呼ぶ博麗を目の当たりにして、マーガトロイドはいい笑顔で即答した。
【妖怪の山の場合】
「……ほう、苗字デー、ね」
胡坐をかくように座り込み霧雨の話に唸ったのは、天狗の新聞記者、射命丸文である。
所は守矢神社。
霧雨が初めに訪れておく必要があると思ったのはこの射命丸の元であり、そしてちょうど遭遇した犬走にたずねた所、守矢神社に遊びに行っているという情報を得、ここまでやってきたのだ。
二柱や風祝はもちろん、なぜか射命丸にくっついて河城にとりと鍵山雛の姿もあった。
「なるほど、自分は広めるのに専念するから、結果どうなるのかを私に新聞としてまとめておいて欲しいというわけですね」
「まぁ、そういうわけだな」
射命丸が霧雨の話をまとめなおし、自身ふんふんと頷く。
「確かに面白いわねえ。もっとも、私は別に苗字で呼ばれることがそう新鮮ではないのですけれど……」
「射命丸!」「射命丸!」「射命丸!」
申し合わせたように、鍵山と河城、あと洩矢が騒ぎ立てる。
「……まぁ、このように」
「すげえなぁお前」
射命丸と霧雨も、申し合わせたように苦笑した。
「でも確かに普段はあまり苗字では呼ばないねえ」
守矢の神、八坂神奈子がふむ、と顎に手を当てる。
「まぁ、たまに八坂様、なんて呼ばれはしてるけどね。ねえ東風谷」
「はひっ!?」
いきなり苗字を呼ばれて、東風谷早苗が上ずった声を上げる。巫女は苗字が苦手なんだろうか。
「東風谷!」「石鹸屋!」「射命丸!」
「後ろうるさい」
八坂が洩矢らをこつんと小突く中、射命丸はふっと息を吹き出した。
「ま、面白いことにはなりそうね。記事としては微妙なところかもしれないけど……まぁ、たまにはコラムを書いてみるのも一興かもね。後で回らせてもらうわ」
「おお、頼むぜ」
承諾の言葉を得、霧雨は咲くように微笑んだ。
まったく、この魔女はこのくだらないことに、こんなとてもよい笑顔を見せるのだ。
射命丸文は微笑ましいやら苦笑するやらわからぬ心持ちになったが、だが、それは自分が腰を上げるのに悪くはない感情であった。
「それじゃあ行ってくるぜ」
「ええ、いってらっしゃい」
言うが早いか箒に跨る霧雨に、射命丸は微笑して手を振る。
タイムイズマネー。今日はもう、始まってしまっているのだから。
「霧雨!」「き、霧雨!?」「霧雨は向こうでヒヨコの雄と雌を見分ける作業をしています」
「お前らいい加減にしなさいよ」
【紅魔館の場合】
紅魔館の主だったメンバーが、ロビーに会して談笑している。こうしているのは、先ほど霧雨魔理沙の訪問があったからなのだが。
カンカンガクガクとやっている中で、紅魔館の主、レミリア・スカーレットが鶴の一声を発する。
「まぁ、面白そうなんじゃない? 普段ファミリーネームで呼ぶことなんてあまりないのだしね。ねえ十六夜?」
「は、はい! で、でも……」
メイド長、十六夜咲夜が反射的に頷くも、すぐに一つの問題に思い当たる。しかし、それはレミリア・スカーレットもわかっていることのようで。
「……わかってる、これには重大な問題があるわ」
と続けた。
「たぶん、八雲家や地霊殿でも似たような問題が起こってるでしょうけど……」
「……スカーレットが二人いるのね」
紅魔の居候にして図書館の主、パチュリー・ノーレッジが言葉を継ぐ。
そう、レミリア・スカーレットには妹がいる。
「はーい! 私もスカーレット!」
そう元気に手をあげたのは、フランドール・スカーレット。紅魔の誇るキュートな第一級危険人妖である。
「お嬢様と妹様で呼び分けたのでは、いつもと変わりませんしねえ」
十六夜が困ったように指を頬に当てる。
「ノーレッジ、どうしたらいいと思う?」
レミリア・スカーレットは凛と手を組んだまま、知恵袋のノーレッジに意見を求める。
「そうね……せっかく横文字の名前なのだし、レミィを大スカーレット、妹様を小スカーレットとでも呼び分けたら……」
「何その大アイアース小アイアース的発想。響き的になんか世界史の教科書にでも載ってそうね」
「世界史的に考えるなら、大スキピオとかの方が一般的なのでは?」
「どっちにしろマイナーよ」
十六夜の提言をノーレッジが落とす。
「でも、第二次ポエニ戦争でカルタゴのハンニバルを破った将軍と言えば、思い当たる人も結構いるのではないでしょうか」
「いつの間にここは世界史の授業になったの?」
なぜか熱弁をふるう十六夜に、大スカーレットは苦笑する。
「まぁ、大スカーレットでもなんだか偉そうだから私はいいんだけど、フランは小スカーレットでいいのかしら?」
大スカーレットがくるんと小スカーレットへと向き直る。
「ん? 私はいいよ? なんだかかわいい響きだし」
にこにこと上機嫌に両手を後ろに組みつつ、小スカーレットは答えた。やはりこういう物珍しいことは大好きらしい。
「ん、じゃあ決まりね」
この決議を持ち、大スカーレットはこの場にいながらまったく会話に参加していなかった一名に、一応の確認を求めるべく、振り向いた。
「あなたもいいわね? ホン!」
「ホン!」
「ホン!」
「…………」
なぜかエコーを担当する十六夜と小スカーレットに、紅魔館の門番、紅美鈴(ホン・メイリン)は濃縮還元の渋柿を飲んだような顔をして、押し黙った。
紅は思い出していた。
かつて、『スーパーストリートファイターⅡ』なるゲームが幻想入りしてきたとき、その登場キャラクターである香港のファイター、フェイロンのやられボイスが『ホン! ホン! ホン!』に聞こえるということでいじられたあの日々を。
「どうしたの? なんで黙っているの? ホン!」
「ホン!」
「ホン!」
(……帰りたい)
【白玉楼の場合】
和室の奥に静かに正座する白玉楼のお嬢様、西行寺幽々子に、その世話役、魂魄妖夢がおずおずと言われたとおりに呼びかける。
「ええと……西行寺様」
「なんぞなもし」
「……ええと、なんとなく偉そうな言葉遣いをしたいのはわかるのですが、それ、ただの方言ですからね?」
「……!」
西行寺に電流走る――!
「そんな世界が始まったような顔されても……」
「いやいや魂魄、なんだか西行寺様って偉そうな響きじゃない。なんだか戦国武将みたいなー」
世界が始まったような顔とはどういう顔だったのだろうか。今はもう、知るすべはない。
「いやまぁ、なんとなくその気持ちはわかりますけどね」
魂魄は苦笑する。その精神状態を表すものなのかは知らないが、半霊がくるくると踊るように、彼女の肩へと降りてきた。
そんな半霊を眺めながら、西行寺はふと言葉を漏らす。
「んー、それにつけても、魂魄って変な苗字よね」
「みょんっ!?」
彼女の半霊の尾のような部分が、ぴんと立った。
それが彼女の精神状態を表すものなのかは、定かではない。
【竹林にて】
蓬莱山輝夜と藤原妹紅は、たまにはのんびりと日向ぼっこをと、大きい平岩の上で寝そべっていた。
「ほうらいさん」
不意に、藤原が口を開く。
「……」
蓬莱山が何事かとのったり首を向けると、藤原は再び繰り返した。
「ほうらいさん」
「……何よ」
怪訝な顔で、蓬莱山は問い返す。
「いやぁ、なんか輝夜を苗字で呼ぶと、さん付けで呼んでるみたいで妙な感じだと思ってな」
「蓬莱さん?」
蓬莱山は眉尻をかくっと落とす。なんか気が抜けるのだ。
そんな折に、かさかさと草陰がうごめいた。
「誰? 因幡?」
蓬莱山が呼びかける。が、その意に反して出てきたのは。
「ホウラーイ」
「あら、なんだか違う蓬莱の人の形が」
「ってかなんでこんなところにいるんだ?」
「ホウラーイ、ホウラーイ、ホウラーイ」
藤原の問いに、蓬莱人形はその小さい体をいっぱいにつかって、ちょこちょこと説明を試みた。
「うん、全然わからん」
藤原は目頭を押さえる。
「まぁ、せっかくだしゆっくりしていきなさいよ」
そう言って蓬莱山が二人の間にある隙間をぽんぽんと叩いた。蓬莱人形はそこにてこてこと歩いてきて、ちょこんとはまる。
「ふぅ……」
竹林での貴重な午睡タイムは、まだ始まったばかりである。
【お花畑にて】
「巷では苗字を呼ぶのが流行っているようだけれど」
蓮華草に花韮、色々な草花が咲き誇る花畑に、風見幽香はゆったりと座っている。
「私には関係のない話ね」
彼女は花を相手に日々を過ごす。
苗字を呼び合う相手など、いないし、要らない。それが彼女のライフスタイル。
「じゃあ関係あるようにしてみようかな。風見ー、風見ー」
「あら、私を苗字で呼ぶのはどちらさまかしら」
向日葵が日を仰ぐようにゆったりと、風見幽香は声のしたほうを振り返る。
花にまみれてちょこんと浮いているのは、黒と赤の衣装を纏ったお人形。
「あらあなたはいつぞやの」
風見が驚きをその表情に表すと、人形は横の小さな人形と同調しつつ胸を張った。
「小さなスイートポイズンこと、メディスン・メランコリーよ。今更な自己紹介だけど」
「言いたいことも言えないこんな世の中じゃ」
「ポイズン。っていきなり何を言わせるの」
「あらごめんなさい、ポイズンと聞いてつい反射的に」
風見幽香は謝りつつ、くるりと、優雅にスカートをひらめかせながら立ち上がる。
「……で、いつぞやの毒人形が何の用かしら。花の趣味は合わなかったのではなくて?」
「まぁね。でも、私はあれから色々なところに出て行くことにしているの。趣味の合う合わないは二の次に、色んなことを見ることは大事なのよ」
「あらあら、前向きなメランコリィだこと」
風見は苦笑する。
だがしかし、所詮名は体を現す。
なぜその名を得たのかは知らないが、名づけとはこの上なく重大な儀式。その存在は、名により定義されるのだから。
「そう、いつの日か人形開放を決行するためにね」
――遠大だ。遠大である。
彼女を取り巻く憂鬱は、途方もなく遠大なのだ。
大きすぎるものは見えもしないし聞こえもしない。
つまりはそういうことなのだ。
「向日葵のお姉さん。あなたは日を向いて風を見て、何を感じ取っているの?」
何も見えないメランコリーは、風見幽香に屈託なく尋ねる。
「自然を感じているわ。とても遠大で悠久な流れをね。自然というのは、それはそれは強大で抗いがたいものなのよ」
それに、風見幽香はすらすらと流れるように答えた。
そう、自然の中で生きる以上、自然を裏切っては生きていけない。
メディスン・メランコリーの毒は、一体どこまで抗っていけるのか。
風見はゆっくりと問うた。
「……どうする? 戦うの? それともそよぐ風に身を任せてみる?」
「それはもう流されるままに」
そうしてメランコリーは傍らの人形ともども、大きく腕を広げて立った。
風見は、しばらくはこの人形を眺めることにしようかと思っていた。
彼女は日を向き、風を見、自然を感じる。
毒もまた、天然自然の一部である。
【縦穴にて】
「水橋さーん。水橋さーん、いるー? 回覧板だよー」
縦穴の麓に建っている水橋パルスィの家の戸を、回覧板を小脇に挟んで叩いているのは縦穴の洞窟に住まう蜘蛛妖怪、黒谷ヤマメである。
彼女はやたら元気なので、必要以上に戸を叩いていたが、中から返事が聞こえるに至って、さすがに叩くのをやめた。
回覧板を両手で持って、ちょこんと待つ黒谷の前で、ゆっくりと戸が開いた。
「あー、どーもすみません黒谷さん……」
「うひゃあ!」
黒谷が頓狂な声を上げたのは他でもない。出てきた水橋の顔がものすごい睡眠不足って感じだったからである。
「どうしたの水橋さん。すごいクマだよ」
「え? そんなにひどいことになってる……?」
そう言いながら、水橋はゴシゴシと目をこすった。
「何かあったの? 水橋さん……」
心配そうに尋ねる黒谷に、水橋はふぅ、と一息おいて語りだした。
「あのね、地霊殿に古明地って言うサトリの妖怪がいるじゃない?」
「うん……もしかして彼女たちと何かあったとか!?」
「いや、古明地とホメイニって似てない? とふと思ってから気になって夜も眠れなくて……」
「なにそれ!?」
とてつもなくどうでもいい理由だったので、黒谷はすごく肩を落として脱力した。
「あれ、ホメイニ知らない? イランのシーア派の精神的リーダーで、イラン革命を指導した――」
「いや、別にホメイニはどうでもいいよ! ってかなんでそんなことに詳しいんだか!」
【八雲家の場合】
「八雲? 今ヒマ?」
「八雲様? いや、別に暇というわけではないのですけれども」
「何してるの?」
「洗濯物をまとめてるんですよ。川に持っていくので」
「ふぅん、ご苦労様ね、八雲」
「八雲様もたまには手伝ってくださればうれしいのですけれど」
「前向きに善処するわ」
――八雲家は、あえて小細工を弄せぬ道をとった。
区別など二の次でお互いを八雲と呼び続けるのである。
いつしか八雲にゲシュタルト崩壊の気が現れるのか。二人はとにもかくにも一種の我慢大会のような心持になり、こうなったら出来るところまでやってみようという無駄な開き直りさえ彼女らの中にはあった。
ただ――それを傍らで見つめ続ける凶兆の黒猫にとってはいささかシュールな光景に他ならず。
「……」
橙は思い出していた。
以前、『ポケットモンスター』(緑)なるゲームが幻想入りしてきたとき、主人公とライバルの名を共に『オーキド』にして物語を開始した時のことを。
「……」
だが、所詮は一発ネタであり、さすがにそのまま殿堂入りにまで突き進む気までは起こらず、最初の三匹を選択する前にかちりと電源を落としてしまった。
故に、彼女は立ち上がる。
「おや橙、出かけるのかい?」
八雲の問いに、橙は小さくかぶりを振った。
「ええ、少し会合に」
「猫の会合?」
「んー、まぁ、似たようなものです」
そう言って誤魔化すように微笑むと、橙は尻尾をふるんと振るわせて、とんと身軽に縁側から外に飛び出していった。行って来ますの声を後に残して。
「八雲も川に洗濯に? 大きな桃が流れてきたら教えてね」
「その桃が天界産だった場合はスルーでよろしいですか、八雲様」
「よくわかってるじゃない」
子供は飽きて出て行った。
だが大人はある種の意地でそれを続けている。
……否、この問題は大人子供で語れるものにあらず。
彼女らを分かったのはもっと単純な事実である。
そう――
【射命丸亭】
「……とまぁ、だいたいこんな調子ですかね」
射命丸が集めた各地の様子を見ながら、霧雨は苦笑した。
「後半はもはや私の手を離れていってる感じだなぁ。娘が巣立っていくとはこのような心持ちなのか」
「そりゃたぶん違うと思うけどね」
射命丸の苦笑も狙ったことのうちなのか、さほど気にする様子もなく霧雨はぱらぱらとメモ帳をめくっていく。
「うん? なんだいこりゃあ」
そしてその記述の最後に差し掛かったとき、霧雨は不思議そうに首をかしげた。
「ああ、それはまぁ、ある意味起こるべくして起こった問題と言いますか……」
【氷精宅】
「こんにちはー」
ノックの音と共に聞こえてきたのは、凶兆の黒猫、橙の声。
「あ、橙ちゃん来たね」
「遅いよー、入って入ってー」
返ってきた招きの声に応じて中に入った橙の見たものは、テーブルを囲んで酒宴に興じているチルノ、ルーミア、大妖精、小悪魔、そしてキスメの姿だった。
「まったくもー、何が苗字よ。みんなして浮かれちゃってさー。ほら橙も飲んで飲んで」
「いきなりだねえ」
早々に杯を突きつけてくるチルノに苦笑する。
「あれ、そういえばあの妖精さんたちはいないの?」
三月精やらリリーホワイトらの姿はここにはない。
「んー、なんだかグレーゾーンだから呼ばなかった」
「全員名前が二単語に分かれるので、後の方が苗字っぽく思えなくもないですからね」
妖精二人組が非情な宣告をする。
そう、彼女らと他を分かったのは他でもない――苗字の有無である。
「私らなんか名前からしてないからねー。全然会話に加われなかったよ」
くい、とお猪口を空にしながら、小悪魔が愚痴る。
「あー、紅魔館の人たち全員フルネーム持ちだから余計につらそうだよね……」
ルーミアが頷いた。
というかこの宴の構成メンバーは主に紅霧異変の頃に知り合ったものがほとんどであり、すべからく紅魔館メインメンバーとの格差へのコンプレックスも多少なりあるのだ。
「最近は苗字のないのは本当に珍しくなってきたよね。まぁそこにキスメが来たわけだけど」
小悪魔に視線を向けられて、キスメは少しびくりと体を震わせた。
だがすぐに落ち着いて、少し考えるように言葉を出す。
「そ、そうですね。こんなにNO苗字派が少なくなってたのには驚きました……。『昔』は苗字がないほうが普通だったって聞いたんですけどねぇ」
「あー、時代の流れってやつですかねー」
料理を切り分けながら、大妖精が少し悲しげな顔で呟いた。
だが、その言葉にいち早く反応したのがチルノである。
「なんてこと! そんな時代遅れなんてこのあたいには許されないことだわ!」
「ええ、どうするの?」
その勢いに気おされながら橙が尋ねると、チルノは杯を突き上げたまま目を輝かせて高らかに宣言した。
「どーせ名前とかテキトーに名乗ってる奴が多いんだから、いっそのことテキトーに苗字も名乗るわよ!」
チルノ宅に文明開化がやってきたようだ。
「というわけであたいは西京、西京チルノね」
「合法的にさいきょうを名乗る気か!」
その発想にルーミアは恐れおののいた。
その脇では大妖精と小悪魔の名無し組が相談している。
「うーん、私たちの場合、まず名前から決めなきゃいけませんからねー……」
「自分でつけた名前とかあんまり呼ばれたくないなぁ……」
小悪魔の呟きに、大妖精も苦笑する。
「そうですねー。それに私もチルノちゃんに大ちゃんって呼ばれるのに慣れちゃいましたし」
それを聞いた小悪魔の頭のてっぺんの毛が、何かを思いついたことを象徴するように、ぴんと立った。
「じゃあ『大妖精』って漢字そのものを中国っぽく読んでしまえばなんとなく人名っぽくならんだろうか。えーと……ダイ・ヤオチン?」
「やおちん!」
「ダメかなぁ」
「なんかうまい棒っぽくてヤです……」
「そっかぁ」
小悪魔は残念そうに焼酎を一口飲むと、再びキラッと大妖精に目を向けた。
「でも個人的に気に入ったから今後あなたのことはやおちんと呼ぶことにしよう」
「やめてー!」
大妖精の慌てる顔を見て小悪魔はにこっと微笑むと、今度は隣にいたキスメに話を振った。
「キスメはなんか名乗ってみたい苗字とかないの?」
「……フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール」
「!?」
キスメの放つ言い知れぬオーラに小悪魔が慄いている横で、チルノも他のメンバーに話を振っていた。
「橙もなんか決めちゃいなよ」
「え……でも、いずれもらう苗字は八雲って決めてるから……」
渋る橙に、チルノは首をかしげる。
「勝手に名乗っちゃいけないもんなの?」
「うん、私がもっと頑張らなきゃダメなんだー。こういうときに藍様たちの仲間に入れないのはつらいけど、結局私が頑張らなきゃってことなんだよね」
橙の話に、チルノはわかったようなそうでもないような微妙な表情でかぶりを振る。
「ふーん、ややっこしいんだねえ。ま、なんか困ったことがあったら言いなさい。西京のあたいが助けてあげるわ!」
「……うん、ありがとうチルノちゃん!」
その宣言は途方もなく頼りないものなのかもしれない。だが、難しい計算を抜きに語られる純粋な気持ちこそが、一番ありがたいものでもあった。
そういうところに、この氷精の魅力はあるのだろう。
「あ、ルーミアは? ルーミアはどうす……うおあ!」
最後の一人に尋ねようとチルノが振り返ったところ、そこで起こっていた異変に気づき、驚きの声を上げる。
「リボンが……取れてる……!」
「ふ、ふふふ……」
何の拍子か彼女の髪に括ってあったリボンが取れ、ルーミアがいつもとまったく違う雰囲気の笑いを発しているのだ。
「ど、どしたのルーミア」
橙が心配そうに手を伸ばすと、ルーミアはすいとそれを交わすように立ち上がった。
「ふふん、気安く話しかけないでもらおう。私はついに真の名を思い出したんだ」
「し、真の名だって!?」
ルーミアは不敵に笑い、得意げに右手を上げて言い放った。
「よく聞け、わが名はルーミア=ワハー!」
「ワハー!?」
【射命丸亭】
「で、どうなったんだ」
メモを読み終わった霧雨が問うと、射命丸は答えた。
「めんどくさいのでリボン結びなおして再封印しときました。幻想郷最速は伊達ではありませんよ」
「むしろ気配を悟られない能力に驚嘆を覚えるがなぁ。ご教授願いたいぜ」
「まぁ、何か事件を持ってきてくだされば何とでも。しかしこの件は何だったのかはさっぱりわからないんですが、これを調べてみるのも面白いかもしれませんね」
霧雨からメモ帳を返してもらい、射命丸はにぱっと笑う。
「ふぅん? まぁ、私は今日のことが分かって大満足だけどな。ご苦労さん」
「あやや、お疲れ様くらいは言って欲しいものだけど。まぁいいわ、結構面白かったですし」
その言葉を聞いて笑いながら、霧雨は箒を持って立ち上がる。
「ん、じゃあな、明日の新聞楽しみにしてるぜ」
「はいどうぞ末永くよろしくお願いします」
「寿命的に末永くは無理かなぁ」
そう笑って、霧雨魔理沙は飛び立っていった。
その後姿を見ながら、射命丸はふと『霧雨』について考えた。
改めて考えれば、なんとも静かなイメージの言葉ではないか。なんとも似合わないことだ。
(……逆に考えるならば)
視界が悪くなった状態、とも言える。その方がなんだか似合っている気はした。
(まぁ、ああいう手合いは一人になると静かになるのかもしれないけれど)
別に名の持つ体質を、本人に当てはめる必要はない。特に苗字とは寿命の短い人間がその名を一貫して受け継ぐことにより、『家』という強大な存在になるための記号に過ぎない。
だが、射命丸は苗字も含め、名は体を表すと信じて疑わない性質なのだ。
――何故なら彼女は、射命丸文だからである。
『コーリングファミリーネーム!』――fin
あとペースを乱され若干うろたえる霊夢さんにきゅんきゅん
きゅんとしちゃうアリスにもきゅんきゅん
西京家が一番ツボった
気になってこっちまで眠れなくうぎぎ
マジで強くなれるぞ!!
俺もバトルドロイドとワハー!で轟沈しました。
吹いた
ちなみにミスチーが一番かっこいいと思う。
面白かったです。
石鹸屋wwwww\射命丸!!/
オーキドはひどいww
所々の小ネタがいちいち面白くて最後まで笑いながら読めました。\石鹸屋/
顔を赤らめるあややを脳内加筆しました。
はじめのくだりで吹いたw
ところどころの小ネタが面白かったです
オーキドは酷すぎるw
文ちゃんが腰を動かしていますが、出来れば腰は上げてくれた方が
私みたいな心の汚れた人間にとっては誤解が無くてうれしいです。
なんかツボったw