キャラのイメージが違っているかもしれないので、
そういうのでも大丈夫という方以外は、戻るボタンを押してください。
夜中の竹林はいつ来ても気味が悪い、と思いながら、藤原妹紅は木々の間をすり抜けて歩いていた。風が吹いて木の葉の擦れる音が聞こえるたび、無意識のうちに体を強張らせてしまう。だがどうしても外を出歩きたくなったのは、雲ひとつ無い空に、飛べば届きそうなくらい大きい満月が浮かんでいたからだ。その光に辺りは照らされ、本来なら殺伐とした暗闇に包まれてるはずのこの竹林を、薄く青い膜が当てられているかのような、静かな風景にしている。肌に当たる、ひんやりとした空気が心地いい。どこからか、蛙の共鳴が聞こえてくる。ああそうか今六月だっけ、と思った。
ふと左を見たとき、思わず立ち止まった。そこは池だった。真正面に満月を見据え、ゆらゆらと歪むもう一つの月を浮かばせている。そのほとり、手入れされておらず、空き家の庭みたいに雑草が伸び放題伸びているところに、見覚えのある長髪の女性がこちらに背を向けて立っていた。妹紅の宿敵、蓬莱山輝夜だ。月を見てるのだろうか、ぴくりとも動かない。
数秒後、輝夜が何かに感づいたように体を震わせ、こちらに顔を振り向けてきた。染みもできものも何一つない、面のように白い端正な顔は、満月の光を吸収したかのように綺麗だ。ふと妹紅は、その顔を見ながら奇妙な感じにとらわれた。いつもなら、皮肉を交えたあいさつをしたあとに、その顔面に札か炎の塊を叩きつけてやるはずなのだが、今回ばかりはとてもそんな気分になれない。樹海を散歩してたら、自殺しようかどうか迷ってる人を唐突に見つけてしまったような、そんな居心地の悪さだ。
妹紅は二、三歩踏み出すと、近づいてくる自分を見てにっこりと笑う輝夜に言った。「こんな月の綺麗な夜に、殺し合いはしたくないよね。台無しだわ」
「そうねえ。まあ私がここにいるのは、あなたといつものをやりにきたから、じゃないけど」輝夜は顔を月の方に向き直した。「家に行ってもいないんだもん。ここに来れば、あなたに会えると思ったわ。いつも竹林を歩き回ってるみたいだし」
妹紅はちょっと笑った。自分でもわかるほど、ぎこちなく。「私に会ってどうする気だったのよ。お月見? だとしたら私は大爆笑するしかないわよ。腹の底からね」
輝夜は何も答えず、俯いた。それがずいぶん長く続くものだから、妹紅は少し心配になった。いつもなら出会って数秒で、炎と玉のぶつけ合いになってるはずなのに。心臓の鼓動がちょっと早くなったのは、よからぬことを予測したからだろうか。あののらりくらりとした月の姫が、そんな深刻な事情を持ってるとは思えないけど。
いい加減声をかけようかと思ったとき、輝夜がこっちに振り向いた。思わず息を止めてしまったのは、その顔が、もう少しで泣きそうなくらい情けなかったからだ。
「私、月の使者に殺されるわ」
「なんだって?」最近聞いた中で最も面白い台詞だな、と笑ってやりたくなったが、輝夜は別人のように深刻な顔だったので、どうしても口の端が上がらなかった。「そいつはおかしいぞお姫、どっかで耳にしたことあるんだが、幻想郷は外から入ることはできないそうじゃないか。月の使者が入ってくることはできないはずよ。そいつはお前たちが一番よく知ってるんじゃないか」
輝夜はちょっと目を伏せた。「月の使者に、境界を操る子がいるのよ。その子の前じゃあ、幻想郷の結界なんて卵の殻とおんなじだわ。私の居場所もばれたし、永琳も困ってる。月に行って使者のリーダーと話ししようかしら、なんて言ってるわ」
「そいつは厄介だな」妹紅は言った。「で、それで何でここに来たんだ? ここにはお前の悩みを解消する相手なんていないわよ。あんたを、床に落としたガラスみたいに粉々にする、恐ろしい不死鳥ならいるけどね」
輝夜の目が、一瞬潤んだような気がした。妹紅が、自分の両腕を掴んでくる手を避けられなかったのは、初めて見るその悲しげな表情に戸惑ってしまったからだろう。「私をかくまってちょうだい。あいつらから、私を守って」
「そりゃ面白すぎる一発ギャグだぞ」妹紅は言って輝夜を離そうとしたが、その手が震えているのを感じて、やめた。ちょっと不憫だな、とは思ったものの、こう言った。「私とお前、一体何年殺し合いしてきたと思ってるんだ? お前が私の頭をふっ飛ばした回数を数えてみろよ、できやしないだろ。そーんな、泣きそうな顔したってだめだ。どうせまた、変なこと考えてるんだろ」
何も言わない輝夜だったが、しばらくすると手を離し、腰の後ろで組んだ。それから言う。「妹紅は私に死んでほしいのね、心の底から」
それがいつもの殺し合いの最中なら、すぐに頷いたかもしれない。だが今はちょっと事情が違う。輝夜の諦めたような顔が、妹紅の心を少し痛ませる。おいおい、相手はあの輝夜、憎むべき存在じゃなかったのか? 何憐れみの心なんか持っちゃってるのよ、と思いはしたが、輝夜の顔が視界に映るたび、その思いがどんどんしぼんでいく。今目の前にいるのは、妹紅をからかうおてんばお姫ではなく、返答次第で簡単に手首を噛み千切ってしまうような、鬱を患った弱い子だった。
そんなにやばい状況なのか、と妹紅は思う。いつもにこにこしててのんきな輝夜が、ここまで気分を沈めているとは。でも輝夜は自分と同じ不死身の人間、殺されることはないはずだけど。ややあってから、妹紅は言った。「死んでほしいわけじゃないし、大体にしろあんたは死なないでしょ。というかねえ、いきなり使者がどうのって言われたってわけわからないわよ。いつものからかいでしょ、全部わかりきってんだからね」
妹紅としては、輝夜に頬を膨らませ苛立ってもらいたかった。必死で演技練習したのにどうして騙されてくんないのよー、と怒って、胸やら顔やらをぽこぽこと叩いてほしかった。いつもの充実した毎日が激変してしまうなんて、そんなの嫌だから。しかしいつだって他人は、思い通りになってくれない。輝夜の頬が段々赤く染まってきて、その上を一滴の涙の雫が通り過ぎていく。それが三回ほど繰り返されたとき、輝夜が震える手を持ち上げて、涙を拭い始めた。鼻をすする音。息が荒くなる。
「おいおいどうした、どうしたよ。何泣いてんのよ」
あの輝夜が泣き出すとは。これには、さすがの妹紅も焦った。どうにかしなくちゃとあたふたするが、輝夜に慈悲なんかかけたことなかった妹紅は、慰め方がさっぱりわからない。そのうちに、輝夜が両膝を折って座り込んでしまう。
俯いて涙を拭い続ける輝夜が、涙声で喋り始めた。「なんでそうやって疑うのよ、何年も殺し合った仲じゃない。お願いだから信じてよ、本当に笑えない状況になってるのよ」
「いや、だってなあお前、そんなこと言ったってどうしようもないよ。相手は月の連中よ、地上に這いつくばる人間ごときが、どうにかできるわけないでしょ」
輝夜が涙を拭っていた手をどかし、こちらを見上げてきた。自分を受け入れてくれない理不尽なものを抗議するような目が、妹紅の心の痛みをさらに強くする。震えを精一杯押さえ込もうとしているのか、輝夜が多少強い口調で言った。
「勝たなくていいの、どうにかする必要なんてないの。ただ、私をかくまってくれるだけでいいの。奴らは地上にいると、穢れが溜まって寿命が縮むから、あまり長居できないわ。奴らが帰るまででいいの、お願いだから私を守ってちょうだい」
この哀れな姫を助けてやるかどうか、心の中で意見が分かれた。助けてやりたい気持ちは、あるにはあるけど、どうも今は否定派の方が声が強いらしく、妹紅にこう言わせた。「私に頼むよりは、永遠亭の連中に強力してもらった方がいい気がするけどなあ。お前んとこの兎は、くその役にも立たないってわけじゃないんだろ。永琳もいることだし」
輝夜が、親に心中を持ちかけられたときのような顔になった。見ただけで伝わってくる絶望感。それは妹紅を、顔を背けたくてどうしようもない気分にさせた。しかしそれはできなかった。自分が顔を背けた瞬間に、輝夜が泣き伏してしまうような気がしたから。
見つめ合ったまま、二人ともしばらく黙り込んでしまう。早くいつもののんきな面を見せて、息の詰まるこの沈黙を消滅させてくれ、と妹紅は思ったが、一向に輝夜が期待通りに動いてくれない。そのうちに、段々と苛立ちが溜まってきた。こんな追い詰められた兎みたいな顔ができるんなら、それをもっと早く教えてほしかった。おかげで、恐怖すら感じ始めてきたじゃないか。今までに味わったことの無いような、異常事態に対する恐怖を。早くにっこりと笑いやがれ、早く早く。
輝夜がゆっくりと立ち上がった。その諦めた顔は、妹紅の中にあった苛立ちやら恐怖やらといった感情を、風で削られていく砂の山みたいに吹き消し、そこにぽっかりと開いた穴を同情で満たした。
輝夜は一度下唇を噛み締めると、何も言わないまま振り向き、すたすたと歩いていく。竹林にその体が消えていく寸前、妹紅は恐ろしい想像をした。そのまま輝夜が消えて、自分の感知できない場所に行ってしまうんじゃないか。ここで輝夜を放置したら、この先ずっと生き続けても、何度死んでも生まれ変わっても、生死の概念が変化したとしても、絶対に輝夜と再会することはない、と。そいつはいかれた考えだぜ、とせせら笑う心はある。しかし、不安の方が大きく上回った。妹紅は急いで輝夜を追いかけ、その子の左手を掴んだ。足を止め、驚いた顔をした輝夜が振り返る。
「わかったわかった、お前の言い分はよくわかった」絶対離すもんか、と思いながら輝夜の手を両手でぎゅっと握る。握りながら、お前は輝夜のことを憎んでるんじゃないのか、と自問した。しかし答えは出ない。それに、そんなのどうでもよかった。「お前のお願いを聞いてやる。かくまってやるよ、それでいいんでしょ。それがお前の望むものなんでしょ」
妹紅は輝夜としっかり目を合わせた。無表情だった輝夜は、その顔を段々と笑みに変えていき、妹紅の手を両手で包んできた。その口から柔らかな声が出る。「さすがに無理かと思ったけど、やっぱりあなたは素直な子ね。ありがとう妹紅」
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うっそうと生い茂る竹林を、化け物が出そうなくらい奥に進むと、木造の一軒家がぽつりと建っている。トツ型のその家は、突き出たところに玄関がある。妹紅はそこの引き戸を開け、輝夜を先に入れてから廊下の電気をつけた。
「こんなところに住むのは初めてだわ」輝夜は、多少老朽化した廊下を見回しながら、はしゃぐような声を上げた。鼻詰まり一つない軽快な声を聞きながら、妹紅は呆れる。さっきまで泣いてたくせに。でもどこかほっとしていたのは、輝夜がいつもののんきな顔を見せてくれたからだろう。玄関をちょっと進んでから左手にある居間に、輝夜の手を引っ張って誘導した。
居間に入って右側の奥には、台所がある。逆にはガラス戸があり、その先は縁側だ。輝夜は、部屋の隅に積み上げられていた座布団を一枚取ると、ガラス戸の側に置いて仰向けに寝転がった。
「おいおいお姫」と妹紅は、輝夜の頭の近くに座ると言った。「一応ここは人の家なのよ。ちょっとは遠慮しなさい」
輝夜が口元に手を当てて笑った。「あらあらごめんなさい。でも、なんだか不思議な気分になると思わない?」ガラス戸の向こうに見える、街灯みたいに明るい満月を指差す。「あそこに住んでた畏れ多い姫が、こんな一般庶民のお家の畳の上でごろごろするのは」
「庶民の家なら、お前は一回住んだことがあるでしょ」
「あら、そういえばそうだったわね」くすくす笑いながら、輝夜が上体を起こす。妹紅の方に顔だけを振り向けると、少し間を空けてから訊いてきた。「あの時のおじいさんとおばあさんは、私を守りきれなかったけど、妹紅は守ってくれるかしら」
妹紅は返事に詰まる。まあ、月に輝夜の永遠を断ち切る奴がいて、本当に殺されるっていうんなら助けてやらないこともないけど。かくまってやるとは言ったものの、まだ何か納得できない。輝夜はやっぱり何か企んでるんじゃないか、そういった疑問が、まだ心のどこかに残っていた。「輝夜、ちょっと訊きたいんだが、お前どうしてそんなに私に守ってもらおうとするんだ。なんか不自然だと思わないか? 永遠亭だってあるのに」
言ったあとで、こんなこと言ったらまた輝夜を泣かせちゃうんじゃないか、と思って冷や冷やしたが、輝夜は俯いただけで、泣きはしなかった。「永遠亭の皆の提案なのよ」
「提案とな。お前を庶民の家に押し込めて、一体何しようってんだ、お前んとこのイナバたちは」と妹紅が訊き返すと、輝夜は座布団を不安そうに抱きしめ、答えた。
「話しも聞かず、姫殺しを強行するつもりなら使者と戦争する、て永琳が言ったの。ほら、永琳って、私に対してはちょっと過保護じゃない。だからね、万が一のことがあるとまずいから、ていうんで、私だけ逃がされたっていうわけ。私も戦えるって言ったんだけど、永琳がどうしても聞いてくれなくて」
「戦争? そりゃおめえ、すげえぞ。すげえ、ものすごく、だ」妹紅はぎょっとした。二、三匹の妖怪が異変起こすだけで、あっという間に存続の危機に瀕してしまうほど狭いこの幻想郷で、月の連中と激闘を繰り広げるってのか。もしそんなことになったら、永遠亭だけの問題でなくなる。こいつはまいったぞ、思ったより深刻だ。
「話が通じてくれればいいけど」輝夜は言って、力なく首を振った。「いやだめかな、今は私も永琳も罪人。穢れを許さない月の民が、まともに話をしてくれるとは思えないわ」
妹紅は足がむず痒くなって、正座に座り直した。難しい話をするときは、なぜかこんな格好になってしまう。「なあ、お前一体何しでかしたんだ。今までお前んところに、月の使者が来ただなんて話は聞いたことないぞ。なんでいまさら……」
「一応罪みたいなのはあるんだけど、何で今頃なのかはわからないわ。多分、気まぐれだと思うけど」
「気まぐれで殺されるなんてたまらないだろ」
そうね、と言って輝夜は苦笑いした。そして胸元のリボンを解き、服の裏に隠してたらしい手紙を一枚取り出す。リボンを締め直すと、手紙を広げて妹紅に渡してきた。
おそらく、そこに輝夜の罪状が記されているのだろう。だが、書いてある言葉の意味がさっぱりわからない。図形や人の目や口、それからムカデにも似たわけのわからない絵が無数に描かれ、その隙間に、象形文字らしきものがめまいがするくらいびっしりと書かれている。その中に一つだけ、目だけ大きく書かれた甲冑らしきものを着た男が、髪の長い女らしきものの手を引っ張っている絵があったが、連れて行って処刑するぞ、という意味だろうか。なんにしても、妹紅にはその部分しか意味を予想できなかった。妹紅はそれを輝夜に返し、言った。「その手紙を書いた奴は、一体どこの精神病院から逃げ出してきたんだい?」
「あらひどいわね妹紅、これは立派な月の言葉よ」輝夜は手紙に視線を落としながら言った。「地球人語に訳すと、そうねえ。〝姫と永琳、あんたたちは迎えに来た月の使者を皆殺しにするという、大罪を犯しました。よって今から殺しに行きます。恨まないでください〟あたりが妥当かしら」
「ちょっと待てそりゃ何百年も昔のことじゃないよ。あいつら時間が止まってんのか」
思わず妹紅は、誰かの愚痴を言うような口調になってしまった。輝夜が手紙をちゃぶ台の上に置くと、また座布団を抱き締めた。「月の人が考えてることはよくわからないわ。私も月人だけど」
「そんな適当でいいのか、あっちの連中は」言って、妹紅はため息をついた。まったく、月の人たちもなんとかランドより面白い企画を考えてくれやがる。もし本当に、輝夜の言う戦争なんかが起こったら、関係ない人が一体いくつくたばることやら。人間を守る仕事をしてる妹紅としては、なんとしてでも阻止したいところだけど。だが自分の力が奴らに及ぶかどうかが心配だ。その月の使者の軍団に、永琳までとは言わないまでも、輝夜並の力を持った最低野郎が何人もいたとしたら。ろくでもないな、ちくしょう。
「それで、その月の使者は、一体何日に来るんだ?」妹紅が訊くと、輝夜は深刻そうに畳を見つめ、何か言いたいが言葉にならない、といった様子で一度ぽかんと口を開け、数秒してから言った。
「使者が来るのは明日。手紙にそう書いてあるわ。明日のどの時間、とは書いてないけど」
妹紅は仰天し、思わず立ち上がった。「そそそそいつはまずいじゃないお姫、ばか、ばか野郎、そういうことはもっと早く言うもんだろうが。ああまいったわ、さっさと里の人間を避難させないと」
どうしていいかわからず、とりあえずガラス戸を開けようとした妹紅の服を、輝夜が掴む。輝夜の顔は強張っていた。「行かないでよ妹紅、明日っていうのは何も、日が昇ってからじゃないのよ。夜中の十二時には来るかもしれないわ。一人にしないで」
「しかしね輝夜、もし奴らが戦争する気満々で来たなら、里にも被害が及ぶかもしれないでしょ。こういうことは早いうちにやっとかないと、取り返しのつかないことになるわ」
「大丈夫よ妹紅、月の民は人殺しをしない。あんちくしょうどもは穢れが出ることを嫌うのよ。それに、私を連れて行くだけでいいんだから、そんな大人数で来ることもないはず。しかも最初は永遠亭に行くはずだから、永琳がなんとか話をつけてくれれば、争いを回避できるかもしれないわ。とにかく、妹紅は私の側にいて。私から目を離さないで」
妹紅は困ったな、と腕を組んだ。慧音辺りには知らせた方がいいと思うんだけどなあ。しかし、自分のシャツから手を離した輝夜は、冬の最も寒い日に道端に放置された犬のように、両腕を抱えてぷるぷると震えている。こんなかわいそうな様子を見たら、いくら憎い相手といえども願いぐらい聞いてあげたくなる。仕方ないな、と思ってガラス戸のカーテンを閉め、輝夜の両肩を掴んだ。
「わかったよ、側にいてあげる。だからそんな怖がるな。お前が怖がるところを見ると、こっちまで怖くなるよ。あののんきなお姫が怖がるなんて、異常に決まってるんだからな」
「私をただの能天気と思わないことね」輝夜がちょっとむくれて言った。
妹紅は小さな笑いを返しながら、自分に違和感を感じた。自分の体に、自分の魂が本当に入っているのかどうか、疑わしくて仕方なくなった。輝夜を見つけるなり、その上半身をふっ飛ばしにかかっていた藤原妹紅は、どこに行っちまったんだ? 毎日寝る前に輝夜の笑顔を思い出して、眠れない夜を過ごしていた藤原妹紅は、どこに行っちまったんだ? 朝歯磨きするとき、ふと輝夜のことを思い出して歯ブラシを噛み砕いてた藤原妹紅は、どこに行っちまったんだ?
「まあとにかく」と妹紅は言い、輝夜から離れて廊下に出た。それから続けた。「今日のところは、お風呂に入ってさっさと寝よう。ずっと起きてたって疲れるだけさ、あの野郎どもが十二時に来たとしても、永遠亭だってあるんだ、半日でここが見つかることは無いだろ」
輝夜が慌ててついてきた。妹紅は、居間と反対のところにある寝室の電気をつけると、輝夜の手を引っ張ってそこに入れた。「私が先に入ってくるから、お前勝手に布団敷いて寝てろ」
輝夜が疑うような目でこっちを見てきた。「とかなんとか言って、その隙に里へ行くつもりなんでしょ。それか、私が寝てる間に。ねえ一人にしないでよ妹紅、私これまでにないくらい不安なのよ」
「困った奴だなあ」ため息をついてから、「行きゃしないって、大丈夫。そんなに不安なら一緒に入るか?」
すると、輝夜は目を見張って、顔を真っ赤にした。そしていそいそと押入れの方に向かう。「べべ別にけっこうよ。庶民なんかと一緒に風呂に入れるわけないじゃない、この高尚な月の姫が」
「庶民庶民ってなあ、私はこれでも、遠い昔に貴族やってたんだぞ」
言いながら妹紅は廊下に出て、風呂場に向かった。本当は里の慧音のところに行って、やばいことが起きてると伝えに行きたかったが、妹紅がいないことに気付いた輝夜のことを思うと、とても家を出て行く気にはなれない。
困ったことに巻き込まれたなあ、と一回ため息をついた。
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輝夜に寝巻きの白い着物を渡すと、「なんだか白装束みたい。これじゃあ死人だわ」と笑われた。
「うるさいなあ、いいからさっさとそれ着て。寝るよ」
妹紅は輝夜が敷いた布団の隣に、自分のを敷いた。布団に入る直前、輝夜のいびきがどれほどのものなんだか考え、檻に入ったライオン並にうるさかったらどうしよう、と想像して吹き出しそうになった。実際にそうだったら、たとえ輝夜が泣こうが喚こうが、妹紅は隣の部屋に移動するしかなくなるが。
おやすみを言って、妹紅は電気を消し布団に入る。
だがなかなか眠れなかった。五分ごとに寝返りを打ち、やがて輝夜の寝息が聞こえるようになると、仰向けになって天井を見つめ、それっきり体を動かさなくなった。
出入り口のふすまと窓のカーテンを閉じられたこの部屋には、神が集まって宴でもしてんじゃないかと思えるほど明るい月の光は微塵も届かず、この人間の目は暗闇しか映さない。ただの静かな昼下がりとは違い、夜の静寂は、活力をまったく感じさせなかった。見えない死体に四方八方を塞がれてるイメージ。そしてその中じゃあ、いつも自分は一人ぼっち。里に行けば人はいるが、この布団の中に入ると、自分以外の全ての生物が死滅してしまったような錯覚にとらわれる。だから寝るときはちょっと寂しい。
いつもならここで妹紅は、今日何回輝夜の頭をふっ飛ばしたか、とか博麗の巫女は何でお茶が好きなんだ、とか考えながら、安眠のために自分の脳から寂しさを取り除く作業に入るのだが、どうやら今は、その作業に休み時間を入れるときのようだ。心にほんの少しの寂しさもない。その答えは、隣で規則正しいリズムで静かな寝息を立てている輝夜を見れば、すぐにわかる。
のんきな奴だ、と思った。さっきまで見せてた緊張感の、かけらもない寝息。一瞬、ただ輝夜が妹紅の家に泊まりに来てるだけのような、なんてことない日常の中にいるような気がした。まあきっと明日には、嫌でもそんな感覚から起こされてしまうだろうけど。
だいぶ目が慣れてきた。顔を右に向けると、なんの表情も作ることなく目を閉じて、ぐっすりと寝ている作りたての石造みたいな白い顔がある。それを見ているうちに、こいつはもしかして死んでいるんじゃないか、と心配になってきた。輝夜の布団に手を突っ込み、胸元をまさぐって鼓動を探した。そして安心した。ちゃんと自分の指先に、寝る前の自分とそう変わらないテンポの、大人しい拍動を感じさせてくれる。体も温かい。
手を自分の布団に引っ込めると、なおも輝夜の顔を見続けた。手にはまだ輝夜の鼓動の感触が残っている。その感触を逃がすまいとするように、その手を片方の手で握り締めた。
この女は、父に恥をかかせたいやみったらしの憎い奴。ふと妹紅は、どうしてそれがそんなに憎いことなのか、その理由を忘れていることに気付いた。そして同時に、自分に関するとある発見をして、自分自身にノーベル賞を与えたくて仕方なくなった。それは遊んでるときなどにぱっと思いつく、水の節約の仕方や皿の効率のいい洗い方なんかといった発見なんかとは比較にならない、革新的な発見だった。少なくとも自分にとっては。
つまり、もう自分の本心は輝夜のことを、少しも恨んでいないということだ。そして、最近輝夜と殺し合うときに、父を思った回数がほとんどないことにも気がついた。今まで憎い憎いと思っていたのは、たとえば朝起きたらご飯を食べる、といった、習慣の一部になっていたからじゃないだろうか。
いつからだ、と妹紅は自分の記憶を探った。憎たらしかったあいつが、気の合う友達になってしまったのは。最初あの姿を見たときは、本当に憎んでいた。そして蓬莱の薬を飲んだあと、人から怖がられて住む場所を転々としていたときも。時間の経過で憎らしさが消えたわけじゃない、何かはっきりとした理由があるはず。
妹紅は輝夜を竹林で見かけたときのことを思い出し、はっとした。憎しみが薄れたのはその頃だ。死なないせいで周りから疎まれ、何度も住む場所を変えてきた妹紅と、理由は違えど輝夜も同じことをしていた、というのを知ったとき。輝夜は人智を超えた化け物でもなければ、何百年経っても理解できない難解な生物でもない。嫌なものからは逃げたい、という当たり前の感情を持った、自分とそう変わらない普通の人間なんだ。
そう気付いてから、殺し合いも憎しみも意味のない、習慣的なものに変わったんだ。父が恥をかかされたとか、自分を人に疎まれる体にしやがったとか、そういった理由はそこには入り込まない。飴を見て唾液が出るのと同じように、輝夜を見ると意味のない憎しみの感情が沸くだけ。体がそういう構造になってしまったのだ。
こんな厄介な習慣は断ち切らなきゃ、と思った。しかし、何百年も続けてきた習慣を、いきなりやめることはできない。習慣の奴は、輝夜を殺すことを激しく望んでいる。今だってそうだ。本当はもう少しも憎んでないはずなのに、心のどこかがまだ、隣に眠る輝夜の首を絞めようと考えている。くそったれな隔たりの壁を塗り固めている。
こいつは永遠に終わらないのか、と思うと、いやそんなことはないぞ、と答える心があった。輝夜がいくら永遠を操る能力を持っていたとしても、こいつを続かせることだけはできなかったらしい。この悪循環を止めたのは、輝夜の泣き顔だ。心から泣くというもっとも人間らしい表情を見せ、妹紅と輝夜の間に隔たっていた境界を、引きずり回された死刑囚みたいにぎたぎたにして地の底に埋めた。
おそらくあれは、永遠亭の人間も見たことが無いに違いない。こいつは根拠のない予測だけど、どうしても妹紅は、あの泣き顔を見ることができる運命にあったのは、自分だけだと信じたかった。あれを見たのは自分だけ。それは優越感とはちょっと違う。信頼されたものだけが見ることのできるものを見た、という気分だ。もう父の恥がどうとか、大昔のことを持ち出すことはしちゃいけない。自分はもう輝夜のことを憎んでないし、輝夜だってもうこっちを殺そうとはしないかもしれない。
妹紅は輝夜の布団に手を入れ、その子の左手をそっと握った。
この子の言っていることが本当で、もし永遠亭と話がつかなかったら、月の使者がこの子を殺しに来る。ちゃんと守ってあげなきゃ、と思った。何があっても守って、もし逃げ切れたら、もう殺し合いはやめよう。自分にとっても輝夜にとっても、それが一番いいはず。
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体が何かの異変を察知したのか、これまでの日々と比べて、妹紅の目は早く開いた。まだちょっとかすむ視界に映ったのは、はっきりとはわからないが、天井についた人の顔らしき染みだ。あのくそったれが見えるってことは、ああそうか、今五時か六時辺りなんだな、と推測する。まあ時計を見れば一発だけど。
ふいに右へ顔を向けたとき、体が察知した異変の意味がわかった。それまで額の奥でぐずぐずしていた眠気が急に吹っ飛び、妹紅は上体をばね仕掛けのおもちゃみたいに起こした。
そこには輝夜がおらず、布団すらなかった。ただ冷たさしか感じられない、ところどころほつれた古臭い畳があるだけだ。隣に畳んで置いてあったはずの輝夜の服も、自分のくれた寝巻きもない。昨日まで立派に建ってたビルが、次の日見たら無くなっていたのを見たときのような、嫌な空虚感が胸に押し寄せてくる。不安になって胸元を押さえたとき、その奥の臓器が激しく収縮と膨張を繰り返してることに気がついた。
妹紅は飛び起きて、すぐさま服を着替えた。輝夜の奴、勝手に外に出ちまったのか、とか朝ごはんでもあさりに行ったのか、とか色々考え付くことはできたけど、唐突に思いついたとある嫌な予測の前に、それらは皆押し潰された。つまり、夜中のうちに月の使者が来て、輝夜を持ってっちまったんじゃねえか、ということだ。そんなことない、と思うたび、そっち側に思考が傾いてしまう。
髪にリボンをつけたところで、足の力がふっと抜け、妹紅は両膝を折った。連れて行かれたのか、と自問すると、いないんじゃそう考えるしかないだろ、と返事する心があった。お前が散々憎むから、願い通りに消えちまったわけだ。テレビ消すみたいに、ぱっとね。
「くそ、馬鹿のちくしょうが」妹紅は自分を叱り付ける。輝夜のことはもう憎まないって約束しただろう。習慣の野郎、今度その間抜けな言葉を発してみろ、その顔面に強烈な熱をぶち込んでやる。
とにかく、連れて行かれたなんてことはないはず。いくら月の使者に万能な天才野郎がいたとしても、なんの物音も出さずに連れて行くだなんて不可能だ。そいつは単なる気休めだぜ、だなんてうっとうしい声を上げる心を黙らせ、出入り口のふすまを開けた。玄関の引き戸の覗き窓からは、虫眼鏡で光を集めても紙一つ燃えそうにないくらい弱々しい光が差し込んでいる。そうだ、きっと輝夜はこの向こうにいる。扉に走ったとき、その鍵が開いているのを見て、そして輝夜の靴が無くなっているのを見て、それを確信した。邪魔なものを叩き落とすように強く扉を開け、裸足のまま外に躍り出た。
辺りは一面竹だ。妹紅の背丈より何倍も高く伸びている竹は、青に近い紫色の空を細かく分割している。玄関から五、六メートル離れたところに、横を向いて空を見上げている輝夜がいた。
自分にのしかかっていた精神的な重みが、さっさと飛び降りていくような気がした。これほど安心したのは、三ヶ月振りかもしれない――あのときは大変だった。慧音がおなかを押さえて悶絶しながら「出産間近だ」とか訳のわからないことを言って、それが単なる食あたりだったことに気付いて、家から一週間出てこなくなっちゃって――いいや、そんなことはどうでもいい。思い出すことじゃない。オウケイ、自分は今、余計なことを考えられる程度に平常だ。脅威が去ったことを喜んでいる。だけどまだ、肺に嫌な空気がこびりついている。さあ深呼吸をしろ、そうすりゃ消える。嫌な空気を放り出すんだ。でないと、この胸の中で暴れている動悸が治まりゃしない。
動悸は治まらないままだったが、妹紅は靴を履いて輝夜のところまで歩いた。だが、輝夜の顔が見える距離まで近づいたとき、はっとして立ち止まった。空を見上げる輝夜の顔は、でかい物に押し潰された猫の死体を見ているときのような、訝しんでいるんだか悲しんでるんだかはっきりしない表情になっていた。妹紅は話しかけることなく、輝夜の見てる方へ顔を向ける。空に混ざりかけている、半透明の薄い月が見えた。そういえば昨日も月を見てたな、と妹紅は思った。それについて訊こうと口を開きかけたとき、輝夜に先を越された。
「ぐっすり眠れたかしら」
こっちには顔も向けなかったものだから、ちょっと妹紅は驚いた。「眠れたよ。それよりあんた、私に気付いてたの?」
「そりゃ気付くわよ。あんなに大きな音出して扉開けたら、誰だって気付くわ」
そう、と相槌を打ったとき、妹紅はもっと他に言うべきことがあるだろう、と自分自身に対して歯痒さを感じた。喋れなくなったのは、輝夜が昨日と同じ泣きそうな顔をしていたからか。余計なことはいい、まずは慰めるんだ、と正義感が焦らせてくる。今すぐその肩を抱き締めてあげたいが、いまだに生き残っている習慣が、握りこぶしに力を入れたり抜いたりさせるばかりで、体を動かさせようとしない。くそ野郎が、と泣きたくなった。習慣をいきなり断ち切ることは、やっぱりできないのか。このまま黙っていると本当に涙が出そうだったので、適当なことを考えこう言った。「布団と寝巻き、片付けてくれたんだ」
「ええ、寝巻きはそのまま箪笥にしまったわ。この私が着ていたものだもの、洗濯しなくってもいいわよね」
輝夜が笑ったのは、こっちに顔を向けたときだった。月を見てたときとは打って変わって明るい表情になったので、妹紅は驚いて返事できなかった。まるで月を見上げているときだけ、よこしまな呪縛にかかっているみたいだ。多分妹紅が話しかけなかったら、永遠にここに突っ立って月を見つめていたかもしれない。
輝夜が口元を袖で隠し、にこにこと笑っている。数分前のことなんて綺麗さっぱり忘れているような、のんきで邪気が微塵も感じられない顔だ。その目は妹紅に向かって、こう伝えてくるようだった。なあに変な顔で突っ立ってるの? さっさとほら何か喋らないとあなたねえ、そのうち誰かに人形と間違われて持ってかれちゃうわようふふふふふ。
外に出ちゃ危ないだろ、すぐ家に戻れ。妹紅はそう言おうとしたが、輝夜の寂しそうな顔がいつまでも心にこびりついて離れず、こう言わせた。「なあ輝夜、昨日も見てたけど、月がどうかしたの?」
輝夜の表情が一瞬にして曇った。
それだけならよかった。それだけなら、まずい、触れちゃいけないものに触れちまったか、というようなちょっとした危機感を味わうだけで済んだ。
何も言ってくれないまま、さっと背中を向けられる。これは妹紅にとってひどい衝撃だった。血の気が引いた。その背中から伝わってくるのは、むくれとか不機嫌とかそういうものじゃない。拒絶だ。お前には理解できない、お前じゃどうしようもない、と輝夜は言っている。そう聞こえる。実際には何も言ってないけど、そう想像させるだけのネガティブさがある背中だった。
「おお、おい、おい輝夜……」
今度は自分が泣きそうな声になっていることに気付いた。
押さえ込んでいた憎しみが、楽しそうに下の方からじわじわと上ってくる。おかしいぞ、と妹紅は頭を抱えたくなった。自分は昨日よりも過敏になってる。黒い感情を閉じ込めてる箱の留め金が、簡単に外れてしまう。もしかして、憎んじゃいけないと強く思っているからうまくいかないのか。こういうときどうすればいいんだ。憎むな、と思えばいいのか、それとも真っ白な気持ちになればいいのか。くそ、後者の方が正しいみたいだけど、超能力者でもない限りそんなの無理だ。ならば憎んじゃいけない、と思うしかないけど。
憎むな憎むな、と強く思うたびに、そのいけ好かない感情はどんどん肥大化してくる。そいつはやがて心全体を覆いつくしてしまうだろう。――だめだ、そんなことは絶対にあってはならない。無理やりにでも、その大馬鹿野郎を外に追い出すんだ。殺し合いに走っちゃいけない。隔たりなんてくそ食らえだ、破壊されて踏み潰されるべきものだ。そうだろう? 心に隙を作っちゃいけない、奴はどんな狭い隙間だろうと、ものの見事に滑り込んでくる。奴は妹紅と輝夜がまた憎み合うのを、にやにやしながら待ち望んでいる。
無言が続く。やっぱり何か言えないことがあるのか、と思い、そしてすぐにその横で、違うよあいつはこっちのことなんか何とも思ってないだけなんだよ、と憎しみが声を上げた。
「確か妹紅は、私のことを憎んでたわね」
輝夜が振り向きもせず言った。もしかしたら、負の感情を持ってはいけない、と強く思いさえしなければ、ここまで神経過敏になることはなかったに違いない。そいつは妹紅を弱くしていた。輝夜と殺し合うときに湧き上がる、本心ではない偽物の殺意が心を多い尽くそうとするのを、止めることができなかった。
輝夜に掴みかかるまでの数秒間、胸中に二つのまったく違う意見が生まれるという現象を、妹紅は初めて味わった――いまさら憎むかどうか訊いてくるってことはその通り憎んでくださいてことよ願い通りにしてやってその頭をいつもみたいに粉々にぃぃぃいいいいや憎むことはもうしないしないぞ輝夜の頭も自分の頭ももう絶対に粉砕されることはない殺し合いなんてこりごりそれはあいつも同じのはずだけどよ嬢ちゃんそりゃあ勘違いってもんだわぁあんたは輝夜が普段みみみ見せないものを見た上月の使者がどうとか言われたからからから動転してるだけだわよいいからいつもみたいに頭を吹っ飛ばせばいいのよあのかぁいい頭を燃やしちぇまえおんまはやりばでけれ子だらぁいけいけいけそれいけやれいけほれいけさあいけ――どす黒い感情の喚きに負けそうになり、もう少しで火を放ちそうになった腕を必死に制して、その腕で輝夜の体を抱き締めた。
輝夜の体は柔らかかった。もう少し抱き締める腕に力を込めたら、跡がつきそうなくらい。そして、何よりも妹紅を落ち着かせてくれたのが、その体温と鼓動のリズムだった。いきなり抱きつかれて驚いたのか、一時的に速さを増したそれは、時間が経つにつれて大人しくなっていく。自分の胸の中で暴れてたものも、それに合わせて弱くなっていく。妹紅は輝夜の背中に、隙間がないくらいぴったりと体を合わせた。輝夜の体温が染み込んでくるようだった。夏の日の木みたいに温かかった。
頭の中で喚き散らしていた憎しみとそれに反発する奴が、どこかに引きずられていくように遠ざかっていく。これは輝夜の体温のおかげなのかな、と思ったとき、ふいに額が熱くなり、目の奥がずきずきと痛み出した。視界がマーブリングみたいにぼやけたとき、ぐっと目を閉じる。輝夜がこんなに温かい奴だったなんて、まだ奴に対して怒りしか持てなかった昔じゃあ、絶対に気付けなかっただろう。
「びっくりしたわ」輝夜が言った。「どうしたの、妹紅。泣いてるの?」
「泣いてないよ」妹紅は鼻の詰まった声で返事した。そして次に言うことは、鼻詰まりに声の震えを加算した、よく聞かないと何言ってるかわからない言葉になった。「私が泣いてようが何しようが、どうでもいいのよ。私はあんたに言いたいことがあるわ。私が昔憎んでた蓬莱山輝夜に言いたいことがあるわ。私に隠し事なんてしないで。遠慮しないで、なんでも言ってよ。守ってやるって言ったろ、お前は絶対に覚えてるはずだぞ、私はお前の顔面に向かって、守ってやるってはっきり言ったんだ。だから何でも言ってよ」
輝夜がこちらに振り向こうとして、首が曲がらず横顔を見せた。困ればいいのやら驚けばいいのやら、よくわからない、といった顔だった。「そんなこと言ったかしら」
「言った! 私が言ったって言ってるんだから、言ったんだよ」実際には言ってなかったかもしれないが、今の自分じゃ判断できない。
輝夜の口調が、子供をあやすようになった。「ねえ妹紅、私はね、妹紅に隠し事があって背中を向けたわけじゃないのよ。ただね、言いづらいだけなの。どうして月を見てるのか、これは言いづらいことなの。例えばねえ妹紅、私がこのままいなくなっちゃったら、あなたどう感じる?」
「悲しいよ。慧音が腹痛で入院するよりも悲しいよ」
この返事をするときは、誰も邪魔しなかった。忌々しい憎しみも、習慣も、強い猛獣に怒鳴られたネズミみたいに何も喋らない。輝夜のおかげだ、と思った。黙っているのは一時的かもしれないが、それでも輝夜には感謝した。
「そうなの?」輝夜は訊き返してきたが、その笑みは、訊くまでもなく答えなんてわかってますよ、とでも言ってくるようだった。「妹紅は私のことを憎んでるようだったけど」
「そんなことない」
言って、妹紅は考えた。本当に憎んでいないのか。今この時間には断言できたとしてもこの先、例えば一週間、一ヶ月、一年経っても、はたして自分は同じことを言えるのか。できやしないだろう。昨日、輝夜はもう憎まないと約束したのに、習慣の野郎を抑えられなかったじゃないか。
「そんなことないけど」妹紅は言う。自分の声は、さっきよりははっきりしていた。「でもまだどこか、憎んでるところがあるの。何年も、いや何百年も殺し合って、あんたのことを憎んで生きてきたから、もうやめよう、て今さらどんなに強く思っても、あんたに対する憎しみが消えないの。私はもうあんたを憎みたくない。あんたを見つけて不愉快に思ったり、目の上にたんこぶができたような気持ちになりたくないの」
輝夜が顔を前に向けて、力を抜いた。妹紅に体を預けるみたいだった。「どうして?」
「あんたが泣き顔を初めて見せてくれたからよ。あんたが、自分は人間と同じように泣いたり困ったり怒ったりできるんだ、と私に教えてくれたからよ。あんたが、誰にも理解できない化け物じゃないからよ。あんたが私と分かり合えそうな人間だったからよ」
「私は月人よ。地上の人間じゃないわ」
「いいや、人間だ。どこで生まれようが種類が別だろうが、心があるなら人間よ。人間と同じことができるなら、それは人間なのよ。それで、お前は友達だ」妹紅は輝夜を抱き締める腕に、少し力を込めた。あとで考えると輝夜は苦しかったに違いないが、そのときの輝夜は鼓動のリズムすら変えなかった。「友達なんだよ。だからもう、殺し合いはしたくないの。憎みたくもないの。だけどね、どんなにそう思っててもね、どうしても憎しみが消えてくれないんだ。ねえ、どうすればいいの」
輝夜は何か考え込んでいるようだった。
いつの間にか日は昇り、空は雲一つ無い快晴になっている。早朝だ。夜になるにつれて衰弱に向かい、深夜になったら完全に死に絶える活気が、再び生き返るときだ。だが、鳥の鳴き声は聞こえない。夜中に騒いでいた蛙の声も。ここは自分たち以外の生き物の存在が感じられない、無音の空間だった。その中で太陽の光に照らされ、瑞々しい緑色になっている竹や草が、なんだか寂しく見えた。いっそ、地面に敷き詰められた竹の枯れ葉みたいに死んでしまってた方が、しっくりくる。ここにいると、輝夜の考え込んでいた時間も、ずいぶん長いことのように思えた。
やがて輝夜は、妹紅に自分を離すよう促した。妹紅は渋々離した。仕事に行ってしまう母を見つめる子どものような名残惜しさを感じたが、離せというんじゃ仕方ない。輝夜は妹紅に向き直ると、不安そうに胸元に手を当て、視線を落とした。
「私は、妹紅に私のことを憎んでほしいわ」
「そりゃ一体なんでよ」妹紅は言う。そして、また輝夜は後ろを向いてしまうんじゃないか、と危惧した。今度そうされたら、また侵食に来るはずの負の念に勝てる気がしない。だが、輝夜は妹紅の目を見つめてきただけで、恐れたことはしなかった。
そして妹紅は、輝夜の肩越し、三十メートルほど先の藪がかすかに揺れたのを見たとき、大人しく二人きりで話しできるのが、当分先のことになるだろうと悟った。その瞬間はまだ相手の姿を認めたわけではないけど、その考えは計算機を使ったように出てきた。藪が動く、側にあった竹が微妙に揺れる。それは掻き分けだ、と脳内計算機は言った。そしてそいつは決して、山菜を採りに来たおじいさんなんかじゃない。このタイミングでそれを考えるのは現実的じゃない。
輝夜が何か言おうと口を開きかけた。いや実際に何か喋ったかもしれないが、それは妹紅の鼓膜を刺激しただけで、その情報を脳まで送ることはなかった。
甲冑を着た三人組の男が、藪をどかしながらやってくる。妹紅は恐怖した。なんだかあの三人組の兵士が、見ただけで血の臭いを嗅ぎ取れるぐらい凶悪な、図体のでかい猟奇殺人者のように見えたのだ。自分は殺される側のブロンド女優といったところか。困ったぞ、そんな間抜けな役には断じてなりたくない。
月の使者が来やがった。この言葉が、延々と頭の中で回り続ける。
妹紅が自分でもわかるぐらい硬直してるのを不審に思ったのか、輝夜は口を閉じ、さっと後ろを振り向いた。きっとすぐにその体をびくりと震わせ、自分の胸元に飛びついてくるに違いない。そう妹紅は予測し、そして輝夜はその通りに動いた。
「まずいな」妹紅が言った。自分の声が力強かったことに、いくぶんか安心した。目はまだ少し乾いているが、鼻はもう詰まっていない。「永琳との話はつかなかったのか」
「そうみたいね」輝夜は言った。「まいったわね、こりゃまいったわね。もうばれるだなんてびっくり仰天よ。ええい、ちくしょう、窮地ってこういうことを言うのね」
多分臆病なウサギが、輝夜の行き先を喋ってしまったんだろう。妹紅は思ったが、そんなのはたいした問題じゃない。妹紅の心は、あの月人たちを恐れている。そいつはどんな嘘でも覆い隠すことはできない。わずかに足が震えてるのがわかる。輝夜の話によると、永琳はどうしても言うことを聞かないなら争いをおっ始める、と言った。それなのにここに月人たちが来たということは、永遠亭が負けたということだ。永琳やその弟子と、他にいっぱいいるウサギの連中を、ゴア映画並のグロテスクな肉塊に変貌させた、ということだ――それは誇張表現だったが、妹紅は意味もなくそう決め付けてゆずらなかった。そうであってほしくはないけど。
輝夜が顔を左に向けた。そっちに妹紅も顔を向けたとき、ぎょっとした。今度は五人組の兵士たちが、二十メートルほど先の方から歩いてくる。逃げようと思わなかったのは、輝夜を守りながらここを無事に乗り切る自信がなかったからだ。
汗が妹紅の顎を伝い落ちる。そいつは一度きりで終わるかと思ったが、二度、三度、と続けて落ちた。汗の雫の通ったあとがいやに冷たい。妹紅は身震いした。そのとき唐突に、これを認めたら発狂してしまうほどの恐怖に襲われた。妹紅は首を右に振り向ける。四人組の甲冑を着た兵士が、こっちに向かってずかずかと歩いてくる。後ろを向いた。家の陰から、六人組の兵士がのそのそと現れる。思った通りだ。囲まれている。さあ認めるんだ。おかしくなってもいいから、自分と輝夜は月の使者に囲まれてしまったんだと認めるんだ。
これは誰のせいかね? と妹紅は自問した。輝夜をさっさと家に入れていれば、少なくとも居場所がばれるのはもっと先のことになったかもしれない。憎しみの奴がいちいち邪魔をしたからか? いいや大先生、それは違う。自分自身にそいつを抑える力がなかったからだ。
輝夜があちこちに顔を向ける。それほど青褪めなかったところを見て、輝夜は私より強いな、と妹紅は頭を撫でてあげたくなった。
「とっとと家に戻るべきだったかな」妹紅は迫ってくる月の使者を睨みながら言った。「永琳はやられちまったのか? だとしたら、大変だぞ」
輝夜は何も喋らなかった。
妹紅は体ががちがちに固まって、輝夜を抱き締めたまま動けなくなった。月の使者の、その感情のない目が、自分たちに視線を突き刺している。そして奴らは七メートル辺りのところまで近づき、ぴたりと止まった。その手には、そいつらの背丈より少し長い槍が握られている。数分後にはきっと、その槍が自分たちの体を貫いていってくれるのだろう。くそ、ビップサービスだってそこまではしない。
奴らは円を描くように妹紅たちを取り囲んでいた。かごめの遊びでもしようってのか。敵兵をこれからどうなぶり殺そうか考えているような顔をしている兵士たちの頭に、そんな平和な遊びなんて少しも入っていないだろうけど。妹紅の服を不安そうにぎゅっと掴む輝夜の手が、体を固めていた緊張を、いくぶんか和らげてくれた。このか弱いお姫様を守ってやらなくちゃいけない。そうはっきり思った。だけどそう強く思うたびに、わずかでも腹が立ってしまうのはなんでだ。答えは簡単だった、習慣の野郎のせいだ。さっさとお前はあっちに行けよ、と妹紅は目をぎゅっと瞑って、悪あがきを続ける習慣を追い出そうとした。お前の時代は終わったんだよ、さっさと天国に行け。いいや、ここは特急に乗って地獄行きの方がいい。料金はお前が払うんだ。わかったら消えろ。お前のためにも言わせてもらうぞ、二度と顔を出すな。
目を開けた。目の前にいた月の使者をどかして、一人の女性が妹紅たちの前に立つのが見えた。妹紅は瞬時に、そのポニーテイルの女が使者のリーダーであることに気付いた。他とは明らかに異質だったから。そいつは仏頂面のまま腰の鞘から刀を取り出す。よく手入れされているな、と感心した。まだ弱い太陽の光を、その刃が宝石みたいに反射した。
「私は月の使者のリーダーです」気の強そうな声で女は言う。「お名前を知りたくて仕方がない、というような顔をしてるわね。いいわ、答えてあげる。私の名前は綿月依姫。いい名前でしょ? 同じ月の使者のリーダーに姉がいるんだけど、月とこっちの境界を開けたあとに月に戻ったわ。地上人相手に、リーダーが二人行くこともない、ということね」そのあと、刀を妹紅に突きつけてきた。「私が何故ここにいるのか。それは実に簡単な問題よ。大罪を犯した月の姫に、もう一度処刑を行うため。今この場で斬り潰して殺すわ。藤原妹紅さん、同じ目にあいたくないなら、今すぐその手を離して、姫をこちらによこしなさい」
名前を知ってるとは驚いた。臆病なウサギちゃんが喋っちゃったのかな。この調子だと、誕生日まで言い当てられそうだ。だが胸の大きさまでは知らないに違いない。思って笑いたくなった。だが実際に笑えたとしてもそれは、相手に楽しさなんてかけらも伝えられないくらい、固まった笑顔になることだろう。自分が今一生懸命冗談を思いつこうとしているのは、追い詰められたこの状況から、必死に余裕を見つけ出そうとしているのに過ぎないんだから。
「お前のお願いは聞けないな」妹紅は言う。その視線は取り囲む兵士ではなく、依姫にずっと注がれていた。「お前は目の前に態度の悪い物乞いがいて、そいつが財布を全部よこせと言って来たら、素直に渡しちゃういい子なのか? そうだって言うんなら、お前はその物乞いたちから歓迎されるかもしれない。だけど私は、そんなふうに歓迎されたいだなんて少しも思わないわね」
依姫は刀を下ろし、一つため息をついた。「物乞い扱いされたのは生まれて初めてだわ」
「気を悪くしたようだけど謝らないわ」妹紅は言ってから、輝夜の頭を庇うように抱いた。「一体輝夜が何したっていうんだよ。月の使者を殺したってのは聞いてたけど、それは大昔のことよ。今になって来たのは、一体どういった説得力のある理由からなのかしらね。それを聞かせてくれないうちは、私の目にはあんたが単なる、頭のいかれた殺人狂にしか映らないわよ」
「殺したのは永琳様のはずだけど……」依姫は腕を組み、順位の低いものを蔑むような目つきになった。「まあ、それはあなたの知ることではないわね。あなたが私をどう見ようが、それもまったく関係ない。あなたはただ黙って、腕に抱いてる素敵なお嬢ちゃんをよこせばいいのよ。それ以上のことは要求しない」
妹紅は兵士たちの顔をいくつか見た。その顔の全部は、こう告げている。〈言う通りにしたほうがいいと思うがね、え? 姉ちゃん。言う通りにすれば、お前は人生で最も厄介な奴の相手をしなくて済む。これほど利口な考えはないと思うがね〉
そりゃそうだ。痛い目を見たい奴なんて、脳に傷が入ってでもいない限り、地上じゃありえない。だが、同じ喜んで痛い目を見に行く行為でも、快感を得るためと誰かを助けるためじゃあ、全然意味合いは違ってくる。妹紅をぎたぎたに痛みつければ、今腕の中で震えている輝夜を助けられるっていうんなら、喜んで痛みつけられに行く。その覚悟はできているつもりだった。
ちょっと待てそんなことを考えるな、まだ負けたわけじゃない、諦めるんじゃない、と喚き始めたのは、言わなくてもわかるあいつだ。いつもならそいつの意見なんて聞かずに、心の外にほっぽり投げるはずだが、悔しいが今回はそいつに同調したほうがいいような気がした。まだ諦めるには早すぎる。
妹紅は輝夜を離し、自分の後ろに隠した。「お前たちなんぞに、輝夜は殺させないわよ。輝夜は死なない、私と輝夜は永遠に生き続けるのよ。それを邪魔する奴は、ゴミ収集車にぶち込まれた大型犬よりも目も当てられない姿にしてやるわ」
「ずいぶんと恐ろしいことを言うのね」少しも恐れていなさそうな依姫が言う。「でもこっちも、どうしても姫を処刑しないといけないのよ」
「どうしてよ」
「それは言えないわ」
大事な部分を不明瞭にしやがる依姫に、妹紅は苛立った。殺しに来た理由を言わないままじゃ、不条理にもほどがある。――つまりあれか、下賤な地上人は理解することなどせず、ただ黙って殺される役に徹してろ、ということか。くそ、今すぐその綺麗な顔に、常人じゃとても触れないほどの高熱をぶつけてやりたい。
依姫は何か考えるように目線を下に向け、やがて顔を上げると、刀を両手で持って構えた。この姿勢は、戦闘開始の合図に他ならない。妹紅は、果たして今こいつと戦うことが、自分たちにとって最も有益になることなのかどうか、少し考えた。依姫を倒せれば、もしかしたら月人の処刑狂いが終わって、全員何事も無かったかのように月に帰るかもしれない。しかし、そいつはあまりにも都合のいい推測だ。普通なら自分たちのリーダーがやられれば、やった奴を袋叩きにする。
「とにかく、どうしても渡さないというのであれば戦うしかないわ。もちろん、戦利品がない、とは言わない。もし私に勝つことができたなら、この場はいったん退きましょう。それでそっちも文句はないはずよ」
その言葉は胸の内に立ち込めてた暗雲を、うちわで線香を扇ぐように追い払った。といっても完全に消えたわけではなく、端に残ってうちわが消えるのを待ち望んでいるのだけど。だがしかしなんであろうと、その綺麗になったところに生まれた希望が、十分すがりつく価値のあるものということだけは確実だ。
「本当に帰ってくれるかどうか、少々不安だわ」妹紅は兵士たちをちらちら見ながら言う。依姫はユーモアさのかけらもない声でこう答えた。
「月人は約束は守るのよ。安心させておいて実は、だなんてだまし討ちはしないわ。それに、勝負方法も非常にフェアなのを好むの。相手と同じ土俵に立って勝負をする。これが重要だわ。ちょっと前にお茶目な地上人がロケットに乗ってやってきたとき、尋常な勝負というものがいかに美しいかを知ったのよ。だから私はスペルカードは使わないし、神もおろさない。だからあなたも妖術は使わずに、自分の力のみで私と戦いなさい」
「自分の能力に自信がないのか」そうであってくれ、と願いながら妹紅は言った。しかし依姫は、その目に露ほどもハッタリの色を入れずにこう言った。
「それとはちと違うわ。これはあなたに対する、私が与えられる最大の慈悲なのよ。体術以外で、あなたが私に勝つ方法はないわ。これだけは自信を持って言える。本気で戦ったら、あなたは私には勝てない。私は神をおろす力を持ってる。つまり、常にあなたの弱点をつける神様をおろす、ということよ。シューティングゲームで例えるなら、ボムしか使わないってことね」
「そりゃ厄介だな」どうしようもない奴だな、と妹紅は体中が冷たくなってくるのを感じながら思った。神様の相手なんかするのは、確かに無理だ。そこらの妖怪なら、敵が瞬きするよりも早くその体を丸焼きにできるんだけど――そこで妹紅は、相手が騙しうちを使わないなら、自分が使えばどうか、と考えた。相手の隙をついて丸焼きにしちまえば。ああだめだな、こりゃだめだ。やっぱり残りの奴に袋叩きにされてしまう。奴らは永遠亭をやっつけている。痛いけど死ねないあの恐怖、それをまた味わうわけにはいかない。
「お前たち、ちょっと離れなさい。そうねえ、アザラシ二頭分くらいかしら」依姫が回りの兵士にそう言うと、奴らは一度頭を下げてから少し離れた。「姫も離れてください。ああ安心しなさい藤原妹紅、あなたが目を離した隙に捕らえるだなんて、品に欠けることはしないわ。その代わり、姫もそこから逃げないでくださいね。あなたが逃げるってことは、そこの勇敢なお姉さんを裏切ることになるんですから」
妹紅はちらりと輝夜の方に振り返った。その顔には、自分の望む結果になってくれるかどうか、怯えているような表情がはり付いていた。輝夜はぱたぱたと駆けて、月の使者の後ろに回った。
向き直ったとき、もし長年の戦闘の勘がここで鈍っていて、体を右に飛ばさなかったら、危うく刀の刃が自分の頭を斜めに切り裂くところだった。うまく着地できず頭から草むらに突っ込んだのは、ポンプで噴出されるように生まれた恐怖が、体を潤滑油の差されてない錆び付いた機械みたいにしたからだろう。
こんなところで動けなくなるだなんて、そんな間抜けなことはあってはならない。妹紅は体をぐるりと反転させ、肘をついて上体を起こした。「あ、危ないじゃない!」
「そりゃ危ないでしょうねえ、危ないようにやってるんだから」依姫は刀を構える。「でもどうせ不老不死なのでしょう? 多少の痛みは我慢しないと、この私の顔に殴り跡一つつけられないわよ」
言葉が終わるとすぐに、突きの姿勢で突進してきた。妹紅はさっと立ち上がると、ぎりぎりのところで右に避けた。刀の切っ先は空気を貫き、両腕を伸ばしたまんまの依姫は隙だらけになる。その顔面に、どぎつい靴底の跡をつけてやろうと思ったのだが、依姫が刀を素早く左手に持ち替え、妹紅の足を切り落とそうと振るのを見て、全身の力を込めて体を引いた。今度は倒れなかったが、ちょっと姿勢を崩した。
「動作がいちいち速いね」憎まれ口を叩いてやったつもりだが、わかっているのは妹紅だけかもしれない。「くそ、お前は本当に速い。アメリカ兵が人の気配がする茂みに機関銃を乱射するより、数倍速い。だけどね綿月、そんな程度の速さ、何べんもお前の刀を避けてりゃ、すぐに慣れるんだ。あんまり調子に乗るなよ」
依姫は刀を構えると、こう言った。「そう。それは困りものね。それじゃあ、こういうのはどうかしら。あなたが十分以内に私を倒せなかったら、姫を処刑する。これは素敵な提案だと思わないかしら」
「おいおい本気で言ってるのか?」言いながら妹紅は、とある感覚にとらわれた。明日、町の人間を大虐殺するんだ、と真顔で言う友達の真偽を、死ぬほど頭を使ってああでもないこうでもないと考える気持ち。だがそこまで頭を使って考えれば、そもそもそんな議論なんて必要ないことに気付ける。月人でなくても、こんなときにブラックジョークなど言う奴はいない。地上の常識がこいつらにも当てはまれば、の話しだけど。
ふいに顔が見たくなって輝夜の方に視線を移した。当然、希望が妹紅しかない輝夜は、青褪めうろたえているはず。だが、まったく予想通りではなかった。輝夜の顔は、演劇で我が子がいつへまをするかどうか心配している、気の弱そうな母親そのものだった。これは直感でしかないけど、輝夜は自分の命ではなく、妹紅が傷つくかどうかを心配しているに違いない。その事実は、非常に心地よかった。
妹紅は依姫を見つめて言った。「まあ、だらだら延ばしたって仕方ないからね。ふふん、時間制限にしてもらったほうが、かえってやりやすいわ。早く勝負をつけるために、あんたの顔面に遠慮なく拳を叩きつけられるんだからね」
「強がりを言っても私には勝てないわよ」
さあて、どうやってこの月人を倒そうか。顔面を叩き潰してやる、とは言ったものの、依姫にはまったく隙がない。刀を構えてじりじりと歩み寄る奴は、あんたの動きなど全て把握してるわよ、とでも言いたげににやにやしていた。どこへ動いても、その忌々しい刀の切っ先が常に自分の鼻先に向かうような気がする。痛いのは嫌だ。断じてごめんだ。なんとか隙を作り、その間に奴の顔面を踏み潰したピザみたいにできれば――
目くらましだ、と唐突に思った。だが火は使えない。使った瞬間、奴は怒りのまなざしになって、神をおろして容赦なく妹紅を痛い目にあわせるだろうから。なら、どうしよう。妹紅は目だけを下に向ける。枯れ切った竹の葉が絨毯のように地面を覆いつくしている。これを思い切り蹴り上げてやれば、多少は驚かせることができるかも。だがその多少は、奴の敗因の理由としちゃ十分だ。
これ以上考えている暇はなかった。依姫が自分の体の右上に向かって、刀を振り上げるのが見えたから。妹紅はつま先を枯れ葉の中に入れて、蹴り上げる。
やろうかどうか迷ってて、結局やって激しく後悔するときというのは、まさにこのことなんだな、と妹紅は思った。妹紅が足を動かした瞬間にはもう、依姫の目はそちらに動いていた。木の葉が波みたいに舞い上がったときなど、右肩を向けられてガードされてしまう始末。依姫が姿勢を直してその刀を振るうほんの一秒間に、心を激しい恐怖が包み込む。奴を怒らせてしまったのではないか、目くらましは奴の怒りを刺激するには十分過ぎるパワーを持っていたのではないか。
水平に振られた刀を、妹紅は即座にしゃがんで避けた。怯えるなばか野郎、と自分の体に命令する。怯えるだなんて性に合わない。
依姫はとくに怒ってはいないようだった。真顔で刀を振り上げる。その刃が体を真っ二つにしちまう前に、妹紅は依姫の脇を走り抜け、背後に回った。後ろを取ればこっちのもんだ。だが素早いあいつは即座に体を反転させることだろう。依姫の首がこちらに向くか向かないかのうちに、妹紅は足払いをかけてやった。
だが、そいつは成功することはなかった。依姫が軽く跳んだのだ。自分の足が木の葉をかすかに巻き上げたあと、姿勢を戻す間に妹紅は、こいつはもしかしたら超能力でも使えるんじゃないか、と思った。自分の動きは全部読まれているんじゃないか。これからどれだけ攻撃を連発しても、一発も当たらないように思えた。依姫はこちらに軽やかな動作で振り向き、刀を構える。緊張のかけらも見えない、余裕の微笑みだ。反対に、妹紅は緊張の氷河の中にどっぷりと浸かっている。抜け出る方法をなんとか探さないと、勝てやしないぞ。
「怯えているようね」
その依姫の言葉は、今日の奴の言葉の中で一番妹紅の心をひるませた。怯えてる。まったくその通りだ、否定しない。奴らがその間抜け面を見せたときから、ずっと妹紅は怯えている。永遠亭が倒された、そう知ったときからずっとこいつらに恐れを抱いている。
「怯えてなんかいない」こんな嘘は、輝夜にさえもすぐばれたかもしれない。だが、次の言葉は本心だ。「私は輝夜を守るんだ。輝夜も、私に守ってほしいって言った。怯えてなんかいられないのよ、ごたごた言ってないで、さっさとかかってきな。私はお前の顔面に、お前が今まで一度も味わったことの無いような衝撃を与えなくちゃいけないんだからね」
言ったあとで、それは本当に本心なのか、という疑問が広がった。それこそ本当のうわべで、本音のところはここから逃げたくて仕方ないんじゃないのか? お前は自分が依姫に勝てないのを知ってる。月人というだけで感じる威圧感と、こいつの反射神経は自分を遥かに超えてるんじゃないか、ということと、神をおろすことができる、という能力の前に、打ちのめされて今すぐにでも倒れそうなんじゃないのか? 輝夜を助けるという美談にしかならない行為をして、自分に酔ってるだけなんじゃないのか? 正直になれよ姉ちゃん、痛い目にはあいたくないだろ。
どうして輝夜なんかを助けるために痛い目を見なくちゃいけないんだ、という考えが発生したとき、妹紅は自分の喉をかき切って、そこからあふれ出る血を視界いっぱいに映してやりたくなった。憎しみが消えない。心にこびりついたこの犬の糞程度の価値しかない感情が、何度も何度も甦る。どんなに意識を違う方向に持っていっても、あのくそ野郎はどこからともなく現れる。意思を少しでも弱くすると、簡単に飲み込まれてしまう。
依姫が刀を下ろした。それは妹紅をはっと我に返す。依姫は笑っていなかった。「ずいぶんと姫のことを庇うのね。あなたは姫のことを憎んでる、というような話を、ウサギさんから訊いたんだけど」
「じゃあそのウサギは嘘を言ってるな。私は輝夜のことを」そこで言葉が止まった。憎しみが止めやがったのだ。妹紅は一度きつく目を閉じ、開いてから続けた。「少しも憎んでないわ」
「そう」と依姫が言う。
しばし沈黙が訪れた。時間が来ちまうぞ大将、さっさと動けよ、と心が焦らせてくるが、妹紅は動けなかった。だが、動かなくてよかったみたいだ。依姫は近くにいた月の兵士を呼ぶと、そいつから鞘に収められたナイフを受け取った。鞘から引き抜かれた白銀のナイフは、成人の肘から指先までの長さで、けっこう厚手だ。それが今この場で重要なものである、というのはすぐにわかった。
「これは生命を断ち切ることのできるナイフなのよ」依姫は刀をしまいながら言った。「生き物の活動を停止させるの。つまり、不老不死だろうがなんだろうが殺せるナイフ、てことね。これの前じゃあ、いくら姫が永遠の存在だろうと、ただの凡人に成り下がるわ。月人がものすごい年月をかけて作り出したのよ」
「そんな果物ナイフで何しようってんだ」
「別に難しいことじゃないわ」そう言ってから、依姫は顔を気持ち程度下に向けた。「あなたはどうしても姫を助けたいのよね。それが嘘でないと言うのなら、今から私が言うことをできるはずよ」
妹紅は眉を潜めた。あの女はきっと、ろくでもないことを提案してくるに違いない。そう思ってる間に依姫は妹紅に近づききり、受け取れと言わんばかりに柄をこちらに向けた。そして、入試試験の問題を読み上げるかのような口調でこう言った。
「あなたの覚悟を試します。このナイフを自分の喉元に刺し、下腹部まで切り裂いて、管が繋がったままでいいので、自分の目の前に一つ残らず臓器を並べなさい。そのあと顔にある器官を全て取り、臓器の代わりに体に入れなさい。それで姫の罪は不問とし、私たちは引き上げましょう」
依姫の言っていることがさっぱりわからず、危うく妹紅は訊き返しそうになった。だが出てきた言葉はこれだった。「一体どこでそんな素敵なショーを見てきたんだい。中国か? テキサスか? それとも、お前の生まれ故郷って手もあるな。だがあいにくだけど私は芸が下手でね、あんたがお願いしてることを実現するのは、ちょっと骨が折れる」
「骨は折らなくていいのです。ただ、さっき私が言ったことをやってくれればいい」
「おいおいちょっと待てったら」妹紅は半歩下がった。自分の右のこめかみに汗が溜まり、それをきっかけにして、額や腋の下が湿っぽくなる。こちらに向けられているナイフの柄が、あの世の扉のドアノブみたいに見えた。臓器を並べろ? 顔を削げ? こんな面白くないジョークは、満月の夜の慧音だけで十分だ。「本気じゃないだろ」
「月人は嘘をつきません」
「だがな隊長、そのナイフは不老不死の人間も殺せるんだろう。それじゃあ、臓器を並べるなんて無理だ」それが自分の臓器だと思うと、ひどくぞっとした。「完遂する前に死んじまう。とてもとても現実的じゃない」
依姫の目がきつくなった。「あなたがもしやり遂げずに途中で死んだ場合、姫は処刑します。本当に姫を大事に思っているなら、死なないようがんばってということですね」
姫を大事に思っているなら。くそ、次から次へと人を惑わせる発言をしてくれる。大事には思っているさ、だが――だが、という言葉を使ったとき、激しい苛立ちが、今まで貯蓄され続けていたような苛立ちが、一気に炸裂した。胸の辺りが瞬時に熱で満たされ、めまいがする。今の妹紅には、だがもしかしもいらないんだ。輝夜を大事に思う、輝夜を守る。それ以外は必要ない。心を強く持て。隙を見せれば奴らが来るんだ。理不尽だなんだと騒いじゃいけない、ちょっとでも反発する心があれば、それは憎しみに変化して瞬時に意識を覆い尽くす。
だがな姉ちゃんよく聞け、と憎しみの部分が隙を見て声を上げる。そんなことをしても意味がないんだぞ。お前は依姫の言うことを実行したあとに、天国できっと後悔するだろう。結局輝夜を恨み続けることになるだろう。そんなこと絶対ない、と言いきれるのか? それは無理だ、お前には到底できない。
気がついたら、ナイフの柄を握っていた。そして自分でも驚くくらいずいぶん冷静に、それを受け取ることができた。お前は人生で最大の間違いを犯したぞ、と心の中で怒鳴る声があった。お前は昔誰かを蹴飛ばして、蓬莱の薬を盗んだな。そんな間違いなんかかわいく見えるくらい、お前は大変な間違いを犯した。今すぐそいつを離すんだ。それは名札に〝くそ忌々しい〟と書かれるべきものなんだ。そいつを離せ、捨てろ、捨てろったら。
依姫は表情を変えないまま、二歩ほど後退る。妹紅は脳内で喚く声を無視し、奴にこう訊いた。
「本当に輝夜の罪をなくしてくれるの?」
妹紅がそう訊くと、依姫はうんざりしたようにため息をついた。「月人は嘘をつきません」
両膝をついたとき、もう一度よく考えるんだ、と憎しみが怒鳴った。輝夜はお前の敵。お前は綺麗さっぱり忘れちまってるみたいだが、今一度よく思い出すんだ。お前はこれから死ぬほどの苦痛を味わおうとしているが、本当にもう手段はないのか? もう一度よく考えるんだ、思い直すんだ。
――いいや、だめだよ相棒、そりゃだめだ。体術でも妖術でも勝てる気がしない。いや、というより勝っても仕方が無いんだ。ここで勝ってもきっとまた、依姫みたいな強い奴が地上に来る。永遠に終わらない。そう考えると、依姫の提案は実に人間味溢れると思わないか。この私の体一つで、輝夜の罪を完全になくすことができるんだから。
――それは違うぞ姉ちゃん、全然違う、アフリカ大陸とアメリカ大陸ぐらい違っている。輝夜は助かっても、お前は助からないぞ。この世に溢れる痛みを凝縮したような苦痛を抱いたまま、あの世に行っちまうんだ。それに、途中で死んだら輝夜を殺すときた。いいか忘れるんじゃない、思い出すんだ、輝夜はお前の憎しみの対象なんだ。その憎い奴を助けるために苦痛と一緒に死ぬのは、アルフのぬいぐるみを友達と言って無理やりポップコーンを食べさせるより、むなしくてバカらしいと思わないか。
少しも思わないね――何よりも妹紅が嬉しかったのは、その言葉が今までで一番大きく、はっきりと思うことができたことだ。それは半ばやけくそに近かったが、はっきり思えたことには変わりは無い。そうだ、自分は憎しみに勝てるんだ。決して、奴らの呪縛から逃れられないわけじゃない。妹紅には心強い味方がいる。輝夜だ。輝夜を家に連れ込んだとき、輝夜と寝たとき、妹紅の心を一時でも殺意が覆い隠したことはあったか? いいや、そんなことはない。泣き顔を見て、輝夜が完全な人間であると認めたときから、もう憎しみ合いは終わっていたんだ。
妹紅はそっと振り向き、口をぽかんと開けたまま青褪めて棒立ちしている輝夜を見た。さすがの輝夜も、この依姫の提案には納得できないというわけか。このくそ忌々しいナイフは、依姫の言うことがはったりじゃないなら、自慢のリザレクションを過去の遺物に変えちまう。目の前で身内が、壮絶なやり方で自殺するところを見る気持ちを、輝夜は持っているのかもしれない。
「大丈夫」と妹紅は輝夜に言った。「ちゃんと守るから」
それは半分、確認するような意味合いもあった。そして言い終えたあと、自分の限界を超えたものだろうがなんだろうが、なんでもできるような気分になった。いつの間にか汗が止まり、平静になっていることに気付いたが、それは多分、心のうちの輝夜を守ろうという気持ちが憎しみを踏み潰し、体全体がその気持ちに賛成したからだろう。輝夜の弱々しい顔が思い出される。ちゃんと泣いたり困ったり、人間らしい感情を見せることができるんだ。輝夜を憎しみの対象として忘れちゃいけないのなら、そういう部分も決して忘れちゃいけない。
ナイフの切っ先を自分に向けた。その刃の鈍い光に怯えているのは、きっと輝夜をまだ憎んでいる部分に違いない。こいつを突き刺して、そのあばずれどもを殺してやろう、と決心した。それをするということは自分も死ぬということだが、死んでもいいんだ。憎しみが消えて、輝夜が助かるなら。妹紅は二、三度深呼吸をし、決心をすると喉にナイフを突き刺そうとしたが――
依姫が呆れたような、心底呆れたような声でこう言った。「姫、もういいでしょう」
妹紅の見ていた未来のヴィジョンは、血まみれになって泣きながら自分の臓器を目の前に並べる作業をする、という、気違いじみた残酷なものだった。依姫の言葉はそれらを一瞬にして打ち消し、死は確定的なものと思っていた部分を、邪魔なおがくずみたいに払いのけた。
喉を刺そうとする手はぴくりとも動かなかった。今すぐそこの部分を突き刺して、憎しみを殺さなければならない。その思いは初めこそ尋常でなく強かったものの、依姫の言葉のあと、しぼんで消えてしまうのは十秒とかからなかった。そんなことを気にする必要なんざもうこれっぽっちもないんだよ、と思うまでにかかった時間は、それよりもっとかかったけれど。
「そうね、もういいわね」
同意する輝夜の声が聞こえた。
ふいに力が抜けて、妹紅はナイフを首から離し、木の葉の上に手をついた。それから幾人か月の使者を見た。使者たちの顔からは厳格さは抜けていないものの、人間味が戻っており、数人顔を綻ばせている者もいる。質の高い、それも飛び切り難しい演劇をやり終えたあとの、楽屋裏の劇団員を見ているようだった。
わけがわからない――いや本当はわかっていた。依姫が喋り、輝夜がそれに答え、使者たちが緊張を解いたとき、脳内計算機はすぐにその答えを出した。そんなことがあってはならないんだ、と頑なに否定する心が、この状況を無理やりにでもわけわからなくしていた。だが、今は本音に〝こいつはバカです〟と刺繍された布を被せてはならない。いやな推測をしようが、それを切り捨ててはならない。つまり、その否定の心が一生懸命に職務をまっとうしたがっているのは、全ては輝夜の考えたことなんだよ、という予想を認めたくないからだった。
だが、次に輝夜の言った言葉で妹紅は、その予想が大当たりであることを思い知らされた。「ごめんなさいね、妹紅。怖い思いをさせちゃって。でももういいの。あなたがどれだけ私を大切に思ってくれてるか、嫌というほどわかったからね。迷惑をかけてごめんなさい。もう大丈夫よ、もう恐れることなんて何もない。全部最初から仕組まれてたのよ。死刑の話しも、争いの話しも、全部嘘。嘘なのよ。ありもしないことなの」
――仕組まれ? なんだその言葉は。どこで作った言葉なんだ? それは一体、どこの間抜けどもの巣窟で作った言葉なんだ。
「それに一つつけ加えるなら」と依姫は、妹紅からナイフを取り上げた。「このナイフの話しも嘘よ。姫の永遠もあなたの不老不死も、断ち切れるものは月にはないわ。これはただのナイフよ。だからあなたがもし自分の体を傷つけちゃったとしても、すぐに治るってわけ」
ふいに妹紅の心の中に、誰を対象にしていいんだかわからない憤りが沸いた。それは口調をぶっきらぼうにさせた。「お前たちの言っていることは、さっぱりわからないな」
輝夜が妹紅の前まで来てしゃがみ、罪悪感で満たされているような顔を向けた。「お願い妹紅、怒らないで。決して怒らないで。私たちはあなたをからかっていたわけじゃないの。これはとても大事なことなのよ。永遠亭の皆にとって、ね」
依姫が輝夜と同じようにしゃがんだ。「姫とあなたの殺し合いをやめさせるから、ちょっと手伝ってくれ。そう八意さまにお願いされたのよ」
「そう」と輝夜が言った。「永琳はね……、いや永琳だけじゃなくて、永遠亭の皆が、私と妹紅の日課を快く思ってなかったみたい。そりゃそうよね、自分たちが一生懸命隠して守ってる姫が、少々手ごわい奴と殺し合いをしてるなんて、歓迎できる内容なわけがないわ。でも永琳はね、殺し合いをやめさせることだけが目的じゃなかった。本当にやめさせたかったのなら、永琳が本気を出して、あなたを殺してしまえばいいんだからね。でも永琳はそうしようとはしなかった。それはね、私と妹紅に仲良くなってほしかったからなのよ。私の数少ない親友リストに、あなたの名前を載せたかったからなのよ」
輝夜が両手を伸ばして、妹紅の頬にそっと触れた。私の目を見て、私の言葉に偽りがないことを確認しながら聞きなさい、とでも言うように。「あなたは私のことを憎んでないって言ったわね。まだ少し憎んでる、とは言ってたけど、それだって大したものじゃないんでしょう。私はずっと前から気付いてたわ。あなたの攻撃を何百年も受け続けてきたもの、変化があればすぐにわかるわよ。それでね、いつもはたで見てた永琳にも、それがわかってた。心から憎んで攻撃してきてるわけじゃない、ってね。あなたはとても素直な子だけど、そうじゃない部分もある。だから、永琳はあなたのそうじゃない部分を素直にさせようとした。私と妹紅が仲良くなるように」
なんだか自分が一方的に輝夜を憎んでる、というような口ぶりに違和感を覚えた妹紅だが、それも当然だな、と思い直した。何せ、輝夜にはこっちを憎む理由がないんだから。輝夜はもしかしたら怖かったかもしれない。いきなり変な因縁をつけられて、殺しにかかられたら、普通の人間なら絶対に不安になる。そして、輝夜は普通の人間だ。
そこまで思考が進んだとき、妹紅は自分の心に巣食っているはずのどす黒い感情が、少しも喚かないことに気付いた。きっと死んだに違いない。またいつか蘇るかもしれないが、今だけは確実に断言できる。奴らは死んだのだ。それは妹紅にとって、祝福すべきことだった。
「あなたが私を家に泊めてくれたのは、想定内だったわ」輝夜は固い笑みを浮かべた。「あなたが私を親の仇みたいに憎んでいたら、成功しなかっただろうけどね。でもそうじゃないと思っていたからこそ、永琳は私をあなたのところに送ったのよ」
親の仇か、と妹紅は思った。まあ、はずれじゃない。
輝夜が妹紅の両手を組ませ、それを自分の両手で包んだ。そこに目を向けながら言った。「妹紅、訊かせてほしいんだけど……。あなたは本当に、私のことを少しも恨んでいないの?」
「当たり前だ」即答できた。そして次に来るはずの憎しみの部分の反発に身構えたが、不自然に思えるくらいそいつらは静かだった。そのときはっきり気付いた。それは神の啓示にも似た、強烈なほど鮮明なものだった。憎しみは二度も、妹紅の思考を悪い方向に動かそうとはしなかった。つまり、奴らが生き返ることは永遠に無い。奴らは完全に死んだということだ。輝夜を守るために血みどろになる、と決意したときに、奴らはその腐った体を墓場の中に入れたのだ。
「どうして?」相変わらずぎこちない笑みを浮かべたまま、輝夜が訊き返してくる。しかし妹紅は気にしなかった。まず、理解してくれることが最優先だ。自分の心に、憎しみとかいう暗雲は少しもない。空気の澄んだ美しい青空が広がっているだけなんだ。それを伝えなくちゃいけない。
「だから、前も言ったでしょ」妹紅は輝夜の手を包み返してやった。「お前が人間だからだよ。絶対にわかり合えない、正体不明の化け物じゃないからだ。そして、お前は友達でもあるんだ。友達をいつまでも憎んでいるわけにはいかないでしょ」
これは本心だ、と自信を持って言える。妹紅の意思をぐらつかせるような言葉は、心の隅にも思いつかない。心の中は完璧だった。今の妹紅の体にはどこにも、この完璧さを崩す要因はない。
だが、その完璧さは、意外なくらいあっけなく穴を開けた。視線を下に向ける輝夜が、その穴を開けてくれたのだ。笑うことをやめた輝夜は、癌の治る薬を作ると言われ、期待して待っていたのに、死ぬ寸前になってやっぱりできなかったよ、と言われたときのような、ひどく疲れ切ったような顔になった。妹紅には、輝夜がそんな顔をする意味がさっぱりわからなかった。どんな予想も立たなかった。そしてそれは、ようやく安らぎの地に辿り着こうとしていた妹紅を、再び不安の中に突き落とした。恐ろしくなって輝夜の手を包む自分の手に力を込めた。しばし沈黙が訪れたあとに、輝夜がようやく喋り出した。
「私はね、反対したのよ。永琳の言うことに。でもこれは永琳だけのお願いじゃなく、永遠亭皆のお願いだったの。だから反対しきれなかったわ」輝夜はそこで言葉を止める。何か考え込むような間を空けると、続けた。「朝起きてから、私はずっと、あなたに本当のことを言おうかどうか悩んでいたわ。これはとても重い問題なんだって。でもね、言えなかった。これを聞いたら、あなたは今すぐ私の手を取って逃亡生活を始めるだろう、て思ったから。でも月人からは逃げられやしない。あなたも私もイナバも傷つくだけで、誰一人得なんてしないの」
「だから」と妹紅は輝夜の話をさえぎった。「何が言いたいのか、さっぱりわからない」
「あの手紙のことを覚えているかしら」輝夜が言う。「あれには本当は、こう書かれてたのよ。〝姫と八意様、あなたたちを今晩連れて行きます。抵抗しても無駄です。今からどこかへ逃げようとしても無駄です。恨まないでください〟ってね」
そのあと輝夜は依姫の方に振り向き、あんたも何か説明しなさい、とでも言うように顔を合わせた。依姫は了承したように頷いて、一歩前に出た。「私たち月の使者がここにいる理由はね、八意様に呼ばれたからではないのよ。そしてさっき処刑は嘘だと言ったけど、姫を捕らえることは嘘ではないの。私たちの目的はね、姫と八意様と、そのほかのイナバたちを捕らえ、月に帰すこと。月に侵略に来た地上人を送り返したあとに、永遠亭の場所を知っている、てうちのレイセンが言ったとき、八意様たちを連れ帰す案がすぐに出たわ。いくら使者を殺したといっても、大事な月の創設者と姫ですからね。あなたたちが最初の使者を殺して行方をくらましてから、ずいぶん年月は経ったけど、連れ戻すのを諦めたわけじゃなかったのよ。だから私たちはここにいる。ここまでオウケイね?」
「いや、ちょっと待て」妹紅は依姫の方に顔を向けた。「お前たちの言っていることを要約すると、つまり、輝夜たちが月に里帰りするってことなのか? 処刑されはしないけど、月に帰って、もう二度と幻想郷には来ないってことなのか? もっと甘めの嘘はないのかい。私はミルクチョコが好きなのよ、激辛トウガラシなんて死んでも嫌だわ!」
「嘘ではないので、チョコが好きと言われてもどうしようもないわ」
依姫は腕を組んだ。困ってるみたいだった。輝夜が喋ったのはその数秒後だ。「ごめんなさい妹紅、これだけは断れなかったの。依姫はね、永琳に言ったの。どうしても月に帰らないつもりなら、月の兵力を全部かき集めて、永遠亭を叩き潰すって。それは本気なのよね、依姫」
輝夜が後ろを振り向くと、依姫は頷いた。「本気ですよ」
「困ったものね」輝夜は向き直ったが、その目線は下だった。「イナバたちの命が危ないと思った永琳は、依姫の言う通りに月に帰ると決めたわ。でも、永琳は使者たちにお願いをしたのよ。私と妹紅を仲良しにするためにちょっと協力してくれ、月に帰すのはそのあとにしてくれって。それでこの素直な子たちは、言うことを聞いてくれたの。本当なら昨日の満月の夜に、私たちはいなくなっていたのよ」
「尊敬する八意様のお願いじゃあ、断るものも断れませんよ。別に私たちの命に関わるようなことでもないしね」
「それで永琳の願い通り、あなたと私は仲良しになれた」今や輝夜の顔は、ちょっと突っつけば涙が出そうなくらい情けなくなっていた。「でもそれは私の望んだものじゃなかったわ。別に妹紅のことが大嫌いだから、じゃないの。妹紅のことは気に入ってるわ。でも妹紅には、私のことを恨んだままでいてほしかったのよ。そうしないと、私はこれからずっと月で、あなたのことを思ってのた打ち回ることになるでしょう? どうせあいつは私が月に帰ったって、喜んでいるだけ。そう思っていた方が気分は沈まないし、あなたのことをすぐに忘れることができるわ。私は、あなたのことを思って永遠に苦しむだなんて、そんな地獄の責め苦みたいな目にはあいたくないの。あなたもそうでしょ、妹紅」
「いいや」と妹紅は強めの声で言った。「そんなことはないぞ。私にとっては、そんなの責め苦でもなんでもない。お前を忘れることのほうがよっぽど地獄だ。お前を永遠に忘れちまうことのほうが、比較的地獄の責め苦に近いぞ」
そのあと妹紅は輝夜の頭を掴み、自分の顔に引き寄せた。キスできるぐらいの距離まで近づけると、こう言った。「お前は地上にいたいのか? ああ、嘘は言うなよ輝夜、嘘か本当かは大抵顔に出るもんだ、これだけ近づけばすぐにわかるんだからな。さあ言ってみろ輝夜、お前は地上にいたいのか?」
「もちろんいたいわ」輝夜はもう泣き出していた。その顔を見ながら、もしかしたら、と妹紅は、昨日の晩のことを思い返した。あのときの輝夜は嘘泣きをしていたのかもしれない、妹紅を信じ込ませるために。もうこれと言える理由なんて想像できはしないけど。しかし、今ははっきり言える。輝夜は今、心から悲しくて泣いているのだ。今この場に、依姫や月の使者たちも含めて、虚飾だなんてくそったれなものを纏っている奴は存在しない。
ふと妹紅は、輝夜が病気で弱りきった小鳥みたいに儚く見え、哀れな気持ちになって抱き締めてやった。鼻詰まり気味の震えた声で輝夜が喋り出したのは、ずいぶん時間が経ったあとだった。
「地上には素晴らしい人が大勢いるもの、離れたいわけがないわ。私が月を見ていたのはね妹紅、月が忌々しくて仕方なかったからよ。月なんか消えちまえ、て呪ってたのよ。あそこにいる奴ら、一人残らず死んじまえって。そう呪わずにはいられなかった。あんなところになんて帰りたくないわ、私は地上にいたいの。妹紅みたいないい人が大勢いる地上に、いつまでもいたかったのよ。でももうだめだわ、私はここにはいられない。私がわがままを言えば、永遠亭の人たちが悲しむもの。永琳やイナバたちは、私の大切な家族よ。一人も悲しい目にはあわせたくないわ」
上で鳥の鳴く声が聞こえた。朝起きてから初めて聞いた動物の鳴き声だ。それは耳障りな羽ばたき音を一回立てると、どこか遠くに行ってしまった。再び沈黙が竹林を包み込む。いい加減耳鳴りがうっとうしいな、と妹紅が思い始めたとき、輝夜が腕の中でもぞもぞと小さく身をよじった。腕を離してやると、輝夜は妹紅から離れ、ほんのりと朱に染まった頬と、充血した目を向けてきた。
「まあとにかく、これだけ言わせてちょうだい。家に泊めてくれてありがとう、妹紅。楽しかったわ。惜しむらくはあなたの手料理を食べられなかったことね」
それを連れて行く合図だと受け取ったのか、依姫が輝夜の肩を支えて、立ち上がらせた。依姫の顔は、これをやるのはまずいような気がするが、とりあえず命令だから仕方ない、とでもいうような表情だった。妹紅はすぐに立ち上がると、輝夜の右手をぐっと握った。
「私はお前のことを、もう少しも憎んじゃいないからな。お前のことを毎日考えてのた打ち回ってやるから、お前も私のことを考えて苦しんでくれよ。それで、私の面と声を忘れないでよね。永遠に覚えてていてよね。私もお前のその憎たらしい面を、脳味噌が完全になくなるまで忘れやしないからさ。これで公平だろ?」
「そうね、公平だわ」輝夜は一度目を拭い、鼻をすすった。「早く永琳に、あなたが私のことを少しも憎んでいないことを伝えたいわ。きっと喜ぶに違いないもの、姫に友達ができたって」
「それも大親友だ。一日限りだったけど」妹紅は笑ってやりたかったけど、うまくできなかった。
「素直に受け入れてくれて感謝するわ」依姫が言う。「もしも抵抗したなら、私は神でもなんでもおろして、あなたを痛い目にあわせたかもしれないんだから」
本当は抵抗したいさ、と妹紅は思った。でもね、どうせやられちまう。運良く全員倒してこの場を逃げれたとしても、月人は決して諦めはしないだろう。奴らは何度でも人員を送り込む。それから逃げる生活が永久に続くんだ。それは妹紅にとっても輝夜にとってもよくないことだ。それにイナバたちが、輝夜の家族たちが人質にとられてる。奴らを危険にさらすわけにはいかない。となれば、依姫の言うことに従うしかないのだ。
「さよなら、妹紅」と言って、輝夜がにっこりと笑った。妹紅が激しく後悔をしたのは、うまく笑顔を返してやることができなかったからだ。言葉も返せなかった。言いたいことを決められなかった。これが話しのできる最後の瞬間なんだ、と決め付けると、喋る内容がどれも大切に思えて、何も話せなくなるものなのだ。
依姫が輝夜の肩を支えながら、妹紅の側を通り過ぎた。すれ違うときに会釈をしたのが見えたが、これにもやっぱり何も返せなかった。月の使者たちがゆっくりと動き出し、依姫と輝夜を囲う。妹紅は振り向いて、棺桶を囲ってる葬儀の列みたいなその集団を見送った。輝夜はこっちに振り向きもしなかったが、その腕がずっと涙を拭い続けているのだけはわかった。永琳はあの姿を見て、どう思うんだろう。一瞬、輝夜の泣き顔を見て考えを変えてくれるんじゃないか、と妹紅は永琳に期待したが、今さらそんなことを考えたって悲しいだけだ、とすぐに思い直した。とにかく、命のないオブジェクトみたいにその場に突っ立って、竹の群れの奥に静かに消えていく二十人ほどの集団を眺め続けた。最後の一人の後姿が消えてなくなったあとも、見つめ続けていた。
空は憎らしいくらい晴れていた。空気は澄み渡り、太陽の光は地上を満遍なく照らしている。微風が吹き、竹が揺れて頭上で葉の擦れ合う音がした。この中で、妹紅は一人ぼっちだった。感情豊かな月の姫も、やたらと強い月の使者のリーダーも、ごつい顔のその部下たちもいない。なんだか、閉鎖された遊園地のど真ん中に突っ立っているみたいな心地がして、寂しくて仕方なくなった。
非常に長い時間が経ったあと(それは本当はほんの数秒の間だったけど、妹紅には、人類が生まれてから知能を得るぐらいまでの時間に感じられた)、妹紅はそっと振り向いて自分の家に向かって歩き出した。
家に入って廊下の端に座り靴を脱いだあと、唐突に泣きたい衝動に襲われ、妹紅は顔を覆った。それは極限まで腹が減ったときに感じる食欲や、三日間一睡もしなかったことにより感じる睡眠欲よりも、数倍は強い衝動だった。
「ちくしょうだ」妹紅は言ったあと、自分の声が全身の筋肉が衰えた病人みたいに震えていることに気付いた。自分は今泣いている。輝夜が自分の側から消えてなくなり、どんなにあがいても手の届かないところへ行ってしまったことが、悲しくてどうしようもなくて泣いているのだ。今日妹紅は、輝夜との間にあった隔たりの壁を叩き潰した。しかしそのあと間も入れずに、親友同士としてようやく二人で楽しみ合える時間を一秒も入れずに、輝夜は月に帰ってしまった。これを悲しまないで、一体どんなことを悲しめというのか。
月に帰るだなんて余計なものはつけず、昨日の晩から今日の朝までに起こったことが、全て輝夜のからかいだったらどんなによかっただろう。嘘泣きしている輝夜を本気で心配している妹紅を見て、嘘の処刑の話しを本気で信じている妹紅を見て、嘘にすっかり騙されて自分を守るために体を切り刻もうとした妹紅を見て、心の中でくすくす笑ってくれていたなら、どんなによかったことか。少なくとも、輝夜が月に帰ってしまう、だなんてひど過ぎる結末なんかよりはよっぽどいい。妹紅はこのときほど、運命の神様を殺したくなった時はなかった。神様には勝てないかもしれないが、それでもこの殺意は抑えきれない。
五分ほど経ったあと、妹紅は立ち上がり、熱の下がり切っていない人のようなふらついた足取りで寝室に向かった。疲れがどっと押し寄せてきて、どうしようもなく眠りたくなったのだ。もはや掛け布団をめくることすら面倒くさく、その上に突っ込むように倒れこんだ。
目と頭がずきずきして痛かった。きっとこの痛みは、これから先もずっと続くことになるんだろう。それが悲しいことなのかどうかは判断がつかなかったけど、輝夜のことを覚えていられるのなら、それもまたいいような気がした。鬱との戦いの日々になって、もしかしたらその中で自分の心を壊してしまうかもしれない。だがそんなのに恐れちゃいけない。こう考えると憎しみが反発しそうな気がしたが、やはり奴らは何も喋らなかった。輝夜のために苦しみを背負うこと、それに中指を立てる奴は、もう妹紅の中にはどこにもいない。それは嬉しいことだった。しかし笑うことはできなかった。布団に顔を押し付け、ただそれに涙を吸わせ続けた。
そうしているうちに、いつの間にか妹紅は眠りに入っていた。
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夢は見たような気がするが、まったく覚えていない。最近、いつもそうだった。自分の記憶力が乏しいのか、それとも頭に刻み付けられるほど鮮明なものでないからか。ともかく、夢は見なかった。意識は深い闇の中に沈んでいた。だから最初、自分を呼ぶ優しくて母性溢れる甘ったるいその声が、ここより遥かに遠くの方から発せられたのかと思った。しかしそれは、ずいぶん近かった。暗闇の中をさまようのをやめ、うっすらと目を開けたときに妹紅は気付く。夜になったのか寝室が暗闇に包まれていたことと、自分の名前を呼ぶ人は、とんでもなく近くにいるということに。自分の肩が揺さぶられたのがその証拠だ。そして妹紅は、その手の暖かさと甘ったるい声が誰のものだかを知っていた。知らないはずがなかった。
妹紅は目を見張る。自分の頭がおかしくなっていないことと、生まれてから一度も麻薬をやっていないことと、そしてまどろみから完全に醒めていることを確認してから、右側に顔を向けた。そこには思った通り、輝夜がいた。ぺたりと両膝を畳みにつけ、袖で口を隠して微笑んでいる。日曜の朝に、小さな子供を起こそうとする母親みたいに。
冷静に考えるならこれこそが夢ではないか。妹紅は輝夜に釘付けになり、硬直しながら思った。妹紅の記憶が正しいなら、輝夜は今日の朝に月の使者に連れられ、生まれ故郷に帰ってしまった。そしてそこで永遠に暮らしているはずだ。これは夢なのか、それとも今日の朝の出来事が夢だったのか、もしくは月に帰ったというのが、妹紅の勘違いだったのか。
夢ではないような気がした。自分の魂はしっかり、体の中に入っている。あのふわふわとした、宇宙を漂ってるような感覚はない。となれば幻覚か。妹紅は右手を伸ばし、輝夜の左手首を掴んだ。柔らかな肉の感触が手に広がり、その皮膚の下で、脈がゆったりとしたリズムで動いているのがわかる。これほどリアルな幻覚なんてあり得るだろうか。いいや、そんなことはない。今目の前にいるのは、自分の脳が無理やりに作った虚像なんかじゃなく、実際に存在する完璧なたんぱく質なのだ。
「おはよ、妹紅」輝夜が喋る。空気の振動を伝わって耳に入ってきたその声は、決して脳内で再生されたものではない。
嬉しいと思えばいいのか驚けばいいのか判断できず、声すらあげることができなかった。頭の中がごちゃごちゃし、この場でもっとも適切な言葉が一つも思い浮かばない。そんな妹紅の混乱を見て取ったのか、輝夜が苦笑して言った。
「驚かせてごめんなさいね、妹紅。実はね、私たち追い返されちゃったのよ。穢れが強すぎるって言われてね。月人たちは穢れが強い奴らと接触すると、色々と不都合が生じるのよ。だから姫と月の都の創設者といえども、月の社会に入れるわけにはいかなかったのよね。まったく、連れて行こうとしたり追い返したり、忙しい連中よね」輝夜はくすくす笑った。「地上に長くいて、穢れ放題穢れてよかったわ。奴らももう私たちを追いはしない、って言ってるし、もう厄介ごとは何もないわ」
輝夜の言っている言葉の意味が飲み込めたとき、ようやく妹紅は笑うことができた。心の隅々まで、一切の不安がなくなったときに出てくる笑いだ。輝夜の笑顔にも隠し事をしているような部分はない。昨日の晩に出会って、二人は初めて笑い合うことができたのだ。妹紅は運命の神様に殺意を抱いたことを詫びたくなった。そして感謝した。輝夜を私の元に返してくれて、ありがとうございます神様。都合が悪くなったときに依姫が呼び出したりしますが、めげずにがんばってください。
「永遠亭の皆もちゃんと帰ってこれたの?」生まれてこの方、いや前世でさえもこんな素晴らしいものには出会えたことがない、というような口調で妹紅が言うと、輝夜はすぐに頷いた。
「もちろんいるわ、皆居間で焼肉をやってる。数が多すぎるから、イナバたちには永遠亭で餅つかせてるけど、そのうちそれ持ってやって来ると思うわ。許可取らないで勝手に食材使っちゃってるけど、怒らないでね」
そんなものを気にする必要なんてまったくなかった。永遠亭の皆が何事もなく地上に戻り、ここにいる。それは、家の屋根を吹き飛ばされても笑って許せるくらい、素晴らしいことだった。妹紅は体を起こし、輝夜の手を取って一緒に立ち上がる。確かに、ふすまの向こうからは楽しそうな、はしゃぐような声がいくつも聞こえてくる。自分も今すぐこれに混ざらなくちゃいけない。
太陽みたいに明るい電気で照らされている居間は、パーティでもしているかのような活気に満ち溢れていた。その場にいる全員が笑っている(永琳は出入り口に背を向けるところにおり、鈴仙はその右隣、てゐは台所に背を向けるところにおり、反対側に依姫と知らない金髪の女がいる)。ちゃぶ台の上に置かれたロースターに、鈴仙と一緒に肉を乗っけている永琳。生の肉を鈴仙の皿に入れ、そこからうまそうに焼けた肉を取るてゐ。そして一番妹紅が驚いたのは、優しげな顔をした金髪の女と依姫が、二人仲良く正座して、肉をもしゃもしゃ食べていたことだ。
「あら、起きたのね」永琳がこちらに笑顔を向け、言った。そして鈴仙と、てゐと月の使者の二人が、こちらに顔を向けて微笑む。「勝手に道具とか食材使っちゃってるけど、怒らないでちょうだいな。こんなにめでたい日なんて、何千年振りかわからないもの。大目に見てくれる?」
「もちろん見るさ」妹紅が言うと、嬉しいわ、と永琳が笑った。しかしそれより気になったのが、あの金髪の女だった。その女をじっと見ていたので胸中を察したのか、輝夜が横で言った。
「あれは綿月の姉の、豊姫よ」
へえ、と頷いてから、妹紅はその二人に近づいた。「あれ? あんたたち、どうして永琳たちと一緒にいるの」
綿月姉妹は決まりが悪そうな顔をして、妹紅を見つめた。喋ったのは依姫の方だった。「実はですね、度重なる地上人との接触のせいで穢れが溜まってしまい、リーダーを下ろされてしまったのですよ。情けないことですよね、朝方偉そうにしておいて」
「私はその姉ってことで、ついでにクビにされてしまったわ」豊姫が言い、肉を口に運んだ。「穢れって厄介ね。でも焼肉うまーい」
永琳が笑った。「まあいいじゃない、二人とも。こうやって皆で仲良く焼肉ができるんだから」
そうですね、と綿月姉妹は二人同時に言った。そのあとに永琳の笑顔は、妹紅の方に向いた。「藤原さん、姫、さっさとあなたたちも混ざりなさい。あなたたちはもう、大切な友達同士なのでしょう。それなら、二人仲良く肉をついばむことができるはずよ」
妹紅は後ろを振り返って輝夜を見た。輝夜は妹紅の手を取ると、永琳の反対側に行き、二人一緒に座った。「ねえ妹紅」と何かを探るような目で輝夜は言った。「ちゃんと、私のことを考えてのた打ち回ってくれたのかしら」
自分の顔が熱を持つのを、妹紅は感じた。「今そんなこと訊くなよ」
「あらごめんなさい」輝夜は心の底からおかしそうに、ふふふと笑った。そうしながら妹紅の手を握り、何かの誓いをするようなまじめな声で言った。「まあなんやかんや色々あったけど、これからも二人で仲良くやっていきましょう。妹紅は私の大切な友達だし、あなただって、私が大切な友達のはずよ」
「その通りだよ。だからお前も、もう自分のことを憎んでくれとか、そういうこと言わないでよ」
「二度と言わないわ」
輝夜が笑ってそう言ったあとに、鈴仙がはしゃいだような声を上げた。「姫と藤原さんが仲良しになったって話、本当だったんですね! よかった、これで永遠亭も平和になるわ。もう血だらけの姫の服を洗濯する必要がないんだ、て思うと、泣けてくるわよ。うん、なんだかめでたくて仕方ないわ。だけど私のお皿は、全然めでたくないみたい。どうして生肉ばっかり入ってるのかしら!」
最後の方はてゐに向けられたものらしい。てゐは肉をもしゅもしゅ食いながら言った。「兎の妖精が入れ替えたのよ」
「食べ物の恨みは恐ろしいわよ!」鈴仙がちゃぶ台をばんばん叩いて言うと、依姫が腰だけを浮かせて、これこれやめなさい、行儀悪いわよ、とたしなめた。しかしなおも鈴仙が何か訴えているので、豊姫が立ち上がり、その皿に自分の肉をいくつか入れてやった。すると鈴仙は瞬時に嬉しそうな顔になり、「妖精って本当にいたのね!」と言った。それを見て永琳が大笑いし、私のもあげるわ、と言って焼けていないキャベツを鈴仙の皿に大量に入れる。鈴仙はまたも情けない声を上げた。
妹紅は自分が、心底楽しくて笑っていることに気付いた。パーティの中心人物になったときよりも、生涯で一番うまいものを食える瞬間よりも、これは楽しくて素敵なことだった。これはきっと、輝夜を恨むことをやめた妹紅に対する、天からの贈り物に違いない。神様が一人でも妹紅のことを見ていたら、の話しだけど。
やがてイナバの兎の群れが、酒瓶と餅を入れた袋を持って妹紅の家の戸を叩きにやってきた。妹紅の家じゃ収まりきらなくなった焼肉会は、バーベキューコンロを物置から引っ張り出し、外で行われることになった。
妹紅は輝夜と縁側に座って手をつなぎ、二人で一緒に空を見上げた。月は今日も輝いていたけど、右側がちょっと潰れている。それでも綺麗だ。あそこで崇められる月の姫。なんて贅沢な奴なんだろう。でもまあ、もう穢れきった姫を連れ戻しに来る奴はいない。輝夜はずっと、自分の側にいてくれる。唐突に月に帰って妹紅を悲しませることは、永遠にない。
輝夜が妹紅の手を少し強く握り、あんなのもうどうでもいいわ、とでも言うように笑った。それから言った。「それにしても妹紅、依姫に体を切り裂け、て言われたときのあの迷いのなさ、格好よかったわねえ」
「何言ってんだ、ずいぶん迷ってたぞ」妹紅は言う。そしてあのときのことを思い出し、ちょっと恥ずかしくなった。「でもお前を守るためなんだ、躊躇なんてしてられないだろ」
「一昔前のあなたじゃ、考えられなかったわね」
「そうだね。お前の人間らしいところを知らなかった頃じゃあね」妹紅は肉を口に含んだ。「分かり合えるっていいことだよね。こんな楽しい思いができるんだからさ」
輝夜は微笑みながら、ずっと妹紅の顔を覗き込んでいた。まるで、私のこと好き? とでも訊いてきているかのようだ。それに答えるのは恥ずかしいなんてものじゃなかったので、妹紅は知らないふりをして肉をもしゃもしゃ食べ続けた。
腹が痛くなるまで肉を食い、酒を飲んで酔いつぶれ、イナバたちを振り回して遊んでいるうちに、夜が明けてしまった。慧音が暇潰しに妹紅の家に遊びに行ったとき、虐殺の現場でも再現しているかのように倒れている、イナバたちと永琳たちと妹紅を見て、どうしていいかわからず一時間ぐらいあたふたしていたとか。
そういうのでも大丈夫という方以外は、戻るボタンを押してください。
夜中の竹林はいつ来ても気味が悪い、と思いながら、藤原妹紅は木々の間をすり抜けて歩いていた。風が吹いて木の葉の擦れる音が聞こえるたび、無意識のうちに体を強張らせてしまう。だがどうしても外を出歩きたくなったのは、雲ひとつ無い空に、飛べば届きそうなくらい大きい満月が浮かんでいたからだ。その光に辺りは照らされ、本来なら殺伐とした暗闇に包まれてるはずのこの竹林を、薄く青い膜が当てられているかのような、静かな風景にしている。肌に当たる、ひんやりとした空気が心地いい。どこからか、蛙の共鳴が聞こえてくる。ああそうか今六月だっけ、と思った。
ふと左を見たとき、思わず立ち止まった。そこは池だった。真正面に満月を見据え、ゆらゆらと歪むもう一つの月を浮かばせている。そのほとり、手入れされておらず、空き家の庭みたいに雑草が伸び放題伸びているところに、見覚えのある長髪の女性がこちらに背を向けて立っていた。妹紅の宿敵、蓬莱山輝夜だ。月を見てるのだろうか、ぴくりとも動かない。
数秒後、輝夜が何かに感づいたように体を震わせ、こちらに顔を振り向けてきた。染みもできものも何一つない、面のように白い端正な顔は、満月の光を吸収したかのように綺麗だ。ふと妹紅は、その顔を見ながら奇妙な感じにとらわれた。いつもなら、皮肉を交えたあいさつをしたあとに、その顔面に札か炎の塊を叩きつけてやるはずなのだが、今回ばかりはとてもそんな気分になれない。樹海を散歩してたら、自殺しようかどうか迷ってる人を唐突に見つけてしまったような、そんな居心地の悪さだ。
妹紅は二、三歩踏み出すと、近づいてくる自分を見てにっこりと笑う輝夜に言った。「こんな月の綺麗な夜に、殺し合いはしたくないよね。台無しだわ」
「そうねえ。まあ私がここにいるのは、あなたといつものをやりにきたから、じゃないけど」輝夜は顔を月の方に向き直した。「家に行ってもいないんだもん。ここに来れば、あなたに会えると思ったわ。いつも竹林を歩き回ってるみたいだし」
妹紅はちょっと笑った。自分でもわかるほど、ぎこちなく。「私に会ってどうする気だったのよ。お月見? だとしたら私は大爆笑するしかないわよ。腹の底からね」
輝夜は何も答えず、俯いた。それがずいぶん長く続くものだから、妹紅は少し心配になった。いつもなら出会って数秒で、炎と玉のぶつけ合いになってるはずなのに。心臓の鼓動がちょっと早くなったのは、よからぬことを予測したからだろうか。あののらりくらりとした月の姫が、そんな深刻な事情を持ってるとは思えないけど。
いい加減声をかけようかと思ったとき、輝夜がこっちに振り向いた。思わず息を止めてしまったのは、その顔が、もう少しで泣きそうなくらい情けなかったからだ。
「私、月の使者に殺されるわ」
「なんだって?」最近聞いた中で最も面白い台詞だな、と笑ってやりたくなったが、輝夜は別人のように深刻な顔だったので、どうしても口の端が上がらなかった。「そいつはおかしいぞお姫、どっかで耳にしたことあるんだが、幻想郷は外から入ることはできないそうじゃないか。月の使者が入ってくることはできないはずよ。そいつはお前たちが一番よく知ってるんじゃないか」
輝夜はちょっと目を伏せた。「月の使者に、境界を操る子がいるのよ。その子の前じゃあ、幻想郷の結界なんて卵の殻とおんなじだわ。私の居場所もばれたし、永琳も困ってる。月に行って使者のリーダーと話ししようかしら、なんて言ってるわ」
「そいつは厄介だな」妹紅は言った。「で、それで何でここに来たんだ? ここにはお前の悩みを解消する相手なんていないわよ。あんたを、床に落としたガラスみたいに粉々にする、恐ろしい不死鳥ならいるけどね」
輝夜の目が、一瞬潤んだような気がした。妹紅が、自分の両腕を掴んでくる手を避けられなかったのは、初めて見るその悲しげな表情に戸惑ってしまったからだろう。「私をかくまってちょうだい。あいつらから、私を守って」
「そりゃ面白すぎる一発ギャグだぞ」妹紅は言って輝夜を離そうとしたが、その手が震えているのを感じて、やめた。ちょっと不憫だな、とは思ったものの、こう言った。「私とお前、一体何年殺し合いしてきたと思ってるんだ? お前が私の頭をふっ飛ばした回数を数えてみろよ、できやしないだろ。そーんな、泣きそうな顔したってだめだ。どうせまた、変なこと考えてるんだろ」
何も言わない輝夜だったが、しばらくすると手を離し、腰の後ろで組んだ。それから言う。「妹紅は私に死んでほしいのね、心の底から」
それがいつもの殺し合いの最中なら、すぐに頷いたかもしれない。だが今はちょっと事情が違う。輝夜の諦めたような顔が、妹紅の心を少し痛ませる。おいおい、相手はあの輝夜、憎むべき存在じゃなかったのか? 何憐れみの心なんか持っちゃってるのよ、と思いはしたが、輝夜の顔が視界に映るたび、その思いがどんどんしぼんでいく。今目の前にいるのは、妹紅をからかうおてんばお姫ではなく、返答次第で簡単に手首を噛み千切ってしまうような、鬱を患った弱い子だった。
そんなにやばい状況なのか、と妹紅は思う。いつもにこにこしててのんきな輝夜が、ここまで気分を沈めているとは。でも輝夜は自分と同じ不死身の人間、殺されることはないはずだけど。ややあってから、妹紅は言った。「死んでほしいわけじゃないし、大体にしろあんたは死なないでしょ。というかねえ、いきなり使者がどうのって言われたってわけわからないわよ。いつものからかいでしょ、全部わかりきってんだからね」
妹紅としては、輝夜に頬を膨らませ苛立ってもらいたかった。必死で演技練習したのにどうして騙されてくんないのよー、と怒って、胸やら顔やらをぽこぽこと叩いてほしかった。いつもの充実した毎日が激変してしまうなんて、そんなの嫌だから。しかしいつだって他人は、思い通りになってくれない。輝夜の頬が段々赤く染まってきて、その上を一滴の涙の雫が通り過ぎていく。それが三回ほど繰り返されたとき、輝夜が震える手を持ち上げて、涙を拭い始めた。鼻をすする音。息が荒くなる。
「おいおいどうした、どうしたよ。何泣いてんのよ」
あの輝夜が泣き出すとは。これには、さすがの妹紅も焦った。どうにかしなくちゃとあたふたするが、輝夜に慈悲なんかかけたことなかった妹紅は、慰め方がさっぱりわからない。そのうちに、輝夜が両膝を折って座り込んでしまう。
俯いて涙を拭い続ける輝夜が、涙声で喋り始めた。「なんでそうやって疑うのよ、何年も殺し合った仲じゃない。お願いだから信じてよ、本当に笑えない状況になってるのよ」
「いや、だってなあお前、そんなこと言ったってどうしようもないよ。相手は月の連中よ、地上に這いつくばる人間ごときが、どうにかできるわけないでしょ」
輝夜が涙を拭っていた手をどかし、こちらを見上げてきた。自分を受け入れてくれない理不尽なものを抗議するような目が、妹紅の心の痛みをさらに強くする。震えを精一杯押さえ込もうとしているのか、輝夜が多少強い口調で言った。
「勝たなくていいの、どうにかする必要なんてないの。ただ、私をかくまってくれるだけでいいの。奴らは地上にいると、穢れが溜まって寿命が縮むから、あまり長居できないわ。奴らが帰るまででいいの、お願いだから私を守ってちょうだい」
この哀れな姫を助けてやるかどうか、心の中で意見が分かれた。助けてやりたい気持ちは、あるにはあるけど、どうも今は否定派の方が声が強いらしく、妹紅にこう言わせた。「私に頼むよりは、永遠亭の連中に強力してもらった方がいい気がするけどなあ。お前んとこの兎は、くその役にも立たないってわけじゃないんだろ。永琳もいることだし」
輝夜が、親に心中を持ちかけられたときのような顔になった。見ただけで伝わってくる絶望感。それは妹紅を、顔を背けたくてどうしようもない気分にさせた。しかしそれはできなかった。自分が顔を背けた瞬間に、輝夜が泣き伏してしまうような気がしたから。
見つめ合ったまま、二人ともしばらく黙り込んでしまう。早くいつもののんきな面を見せて、息の詰まるこの沈黙を消滅させてくれ、と妹紅は思ったが、一向に輝夜が期待通りに動いてくれない。そのうちに、段々と苛立ちが溜まってきた。こんな追い詰められた兎みたいな顔ができるんなら、それをもっと早く教えてほしかった。おかげで、恐怖すら感じ始めてきたじゃないか。今までに味わったことの無いような、異常事態に対する恐怖を。早くにっこりと笑いやがれ、早く早く。
輝夜がゆっくりと立ち上がった。その諦めた顔は、妹紅の中にあった苛立ちやら恐怖やらといった感情を、風で削られていく砂の山みたいに吹き消し、そこにぽっかりと開いた穴を同情で満たした。
輝夜は一度下唇を噛み締めると、何も言わないまま振り向き、すたすたと歩いていく。竹林にその体が消えていく寸前、妹紅は恐ろしい想像をした。そのまま輝夜が消えて、自分の感知できない場所に行ってしまうんじゃないか。ここで輝夜を放置したら、この先ずっと生き続けても、何度死んでも生まれ変わっても、生死の概念が変化したとしても、絶対に輝夜と再会することはない、と。そいつはいかれた考えだぜ、とせせら笑う心はある。しかし、不安の方が大きく上回った。妹紅は急いで輝夜を追いかけ、その子の左手を掴んだ。足を止め、驚いた顔をした輝夜が振り返る。
「わかったわかった、お前の言い分はよくわかった」絶対離すもんか、と思いながら輝夜の手を両手でぎゅっと握る。握りながら、お前は輝夜のことを憎んでるんじゃないのか、と自問した。しかし答えは出ない。それに、そんなのどうでもよかった。「お前のお願いを聞いてやる。かくまってやるよ、それでいいんでしょ。それがお前の望むものなんでしょ」
妹紅は輝夜としっかり目を合わせた。無表情だった輝夜は、その顔を段々と笑みに変えていき、妹紅の手を両手で包んできた。その口から柔らかな声が出る。「さすがに無理かと思ったけど、やっぱりあなたは素直な子ね。ありがとう妹紅」
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うっそうと生い茂る竹林を、化け物が出そうなくらい奥に進むと、木造の一軒家がぽつりと建っている。トツ型のその家は、突き出たところに玄関がある。妹紅はそこの引き戸を開け、輝夜を先に入れてから廊下の電気をつけた。
「こんなところに住むのは初めてだわ」輝夜は、多少老朽化した廊下を見回しながら、はしゃぐような声を上げた。鼻詰まり一つない軽快な声を聞きながら、妹紅は呆れる。さっきまで泣いてたくせに。でもどこかほっとしていたのは、輝夜がいつもののんきな顔を見せてくれたからだろう。玄関をちょっと進んでから左手にある居間に、輝夜の手を引っ張って誘導した。
居間に入って右側の奥には、台所がある。逆にはガラス戸があり、その先は縁側だ。輝夜は、部屋の隅に積み上げられていた座布団を一枚取ると、ガラス戸の側に置いて仰向けに寝転がった。
「おいおいお姫」と妹紅は、輝夜の頭の近くに座ると言った。「一応ここは人の家なのよ。ちょっとは遠慮しなさい」
輝夜が口元に手を当てて笑った。「あらあらごめんなさい。でも、なんだか不思議な気分になると思わない?」ガラス戸の向こうに見える、街灯みたいに明るい満月を指差す。「あそこに住んでた畏れ多い姫が、こんな一般庶民のお家の畳の上でごろごろするのは」
「庶民の家なら、お前は一回住んだことがあるでしょ」
「あら、そういえばそうだったわね」くすくす笑いながら、輝夜が上体を起こす。妹紅の方に顔だけを振り向けると、少し間を空けてから訊いてきた。「あの時のおじいさんとおばあさんは、私を守りきれなかったけど、妹紅は守ってくれるかしら」
妹紅は返事に詰まる。まあ、月に輝夜の永遠を断ち切る奴がいて、本当に殺されるっていうんなら助けてやらないこともないけど。かくまってやるとは言ったものの、まだ何か納得できない。輝夜はやっぱり何か企んでるんじゃないか、そういった疑問が、まだ心のどこかに残っていた。「輝夜、ちょっと訊きたいんだが、お前どうしてそんなに私に守ってもらおうとするんだ。なんか不自然だと思わないか? 永遠亭だってあるのに」
言ったあとで、こんなこと言ったらまた輝夜を泣かせちゃうんじゃないか、と思って冷や冷やしたが、輝夜は俯いただけで、泣きはしなかった。「永遠亭の皆の提案なのよ」
「提案とな。お前を庶民の家に押し込めて、一体何しようってんだ、お前んとこのイナバたちは」と妹紅が訊き返すと、輝夜は座布団を不安そうに抱きしめ、答えた。
「話しも聞かず、姫殺しを強行するつもりなら使者と戦争する、て永琳が言ったの。ほら、永琳って、私に対してはちょっと過保護じゃない。だからね、万が一のことがあるとまずいから、ていうんで、私だけ逃がされたっていうわけ。私も戦えるって言ったんだけど、永琳がどうしても聞いてくれなくて」
「戦争? そりゃおめえ、すげえぞ。すげえ、ものすごく、だ」妹紅はぎょっとした。二、三匹の妖怪が異変起こすだけで、あっという間に存続の危機に瀕してしまうほど狭いこの幻想郷で、月の連中と激闘を繰り広げるってのか。もしそんなことになったら、永遠亭だけの問題でなくなる。こいつはまいったぞ、思ったより深刻だ。
「話が通じてくれればいいけど」輝夜は言って、力なく首を振った。「いやだめかな、今は私も永琳も罪人。穢れを許さない月の民が、まともに話をしてくれるとは思えないわ」
妹紅は足がむず痒くなって、正座に座り直した。難しい話をするときは、なぜかこんな格好になってしまう。「なあ、お前一体何しでかしたんだ。今までお前んところに、月の使者が来ただなんて話は聞いたことないぞ。なんでいまさら……」
「一応罪みたいなのはあるんだけど、何で今頃なのかはわからないわ。多分、気まぐれだと思うけど」
「気まぐれで殺されるなんてたまらないだろ」
そうね、と言って輝夜は苦笑いした。そして胸元のリボンを解き、服の裏に隠してたらしい手紙を一枚取り出す。リボンを締め直すと、手紙を広げて妹紅に渡してきた。
おそらく、そこに輝夜の罪状が記されているのだろう。だが、書いてある言葉の意味がさっぱりわからない。図形や人の目や口、それからムカデにも似たわけのわからない絵が無数に描かれ、その隙間に、象形文字らしきものがめまいがするくらいびっしりと書かれている。その中に一つだけ、目だけ大きく書かれた甲冑らしきものを着た男が、髪の長い女らしきものの手を引っ張っている絵があったが、連れて行って処刑するぞ、という意味だろうか。なんにしても、妹紅にはその部分しか意味を予想できなかった。妹紅はそれを輝夜に返し、言った。「その手紙を書いた奴は、一体どこの精神病院から逃げ出してきたんだい?」
「あらひどいわね妹紅、これは立派な月の言葉よ」輝夜は手紙に視線を落としながら言った。「地球人語に訳すと、そうねえ。〝姫と永琳、あんたたちは迎えに来た月の使者を皆殺しにするという、大罪を犯しました。よって今から殺しに行きます。恨まないでください〟あたりが妥当かしら」
「ちょっと待てそりゃ何百年も昔のことじゃないよ。あいつら時間が止まってんのか」
思わず妹紅は、誰かの愚痴を言うような口調になってしまった。輝夜が手紙をちゃぶ台の上に置くと、また座布団を抱き締めた。「月の人が考えてることはよくわからないわ。私も月人だけど」
「そんな適当でいいのか、あっちの連中は」言って、妹紅はため息をついた。まったく、月の人たちもなんとかランドより面白い企画を考えてくれやがる。もし本当に、輝夜の言う戦争なんかが起こったら、関係ない人が一体いくつくたばることやら。人間を守る仕事をしてる妹紅としては、なんとしてでも阻止したいところだけど。だが自分の力が奴らに及ぶかどうかが心配だ。その月の使者の軍団に、永琳までとは言わないまでも、輝夜並の力を持った最低野郎が何人もいたとしたら。ろくでもないな、ちくしょう。
「それで、その月の使者は、一体何日に来るんだ?」妹紅が訊くと、輝夜は深刻そうに畳を見つめ、何か言いたいが言葉にならない、といった様子で一度ぽかんと口を開け、数秒してから言った。
「使者が来るのは明日。手紙にそう書いてあるわ。明日のどの時間、とは書いてないけど」
妹紅は仰天し、思わず立ち上がった。「そそそそいつはまずいじゃないお姫、ばか、ばか野郎、そういうことはもっと早く言うもんだろうが。ああまいったわ、さっさと里の人間を避難させないと」
どうしていいかわからず、とりあえずガラス戸を開けようとした妹紅の服を、輝夜が掴む。輝夜の顔は強張っていた。「行かないでよ妹紅、明日っていうのは何も、日が昇ってからじゃないのよ。夜中の十二時には来るかもしれないわ。一人にしないで」
「しかしね輝夜、もし奴らが戦争する気満々で来たなら、里にも被害が及ぶかもしれないでしょ。こういうことは早いうちにやっとかないと、取り返しのつかないことになるわ」
「大丈夫よ妹紅、月の民は人殺しをしない。あんちくしょうどもは穢れが出ることを嫌うのよ。それに、私を連れて行くだけでいいんだから、そんな大人数で来ることもないはず。しかも最初は永遠亭に行くはずだから、永琳がなんとか話をつけてくれれば、争いを回避できるかもしれないわ。とにかく、妹紅は私の側にいて。私から目を離さないで」
妹紅は困ったな、と腕を組んだ。慧音辺りには知らせた方がいいと思うんだけどなあ。しかし、自分のシャツから手を離した輝夜は、冬の最も寒い日に道端に放置された犬のように、両腕を抱えてぷるぷると震えている。こんなかわいそうな様子を見たら、いくら憎い相手といえども願いぐらい聞いてあげたくなる。仕方ないな、と思ってガラス戸のカーテンを閉め、輝夜の両肩を掴んだ。
「わかったよ、側にいてあげる。だからそんな怖がるな。お前が怖がるところを見ると、こっちまで怖くなるよ。あののんきなお姫が怖がるなんて、異常に決まってるんだからな」
「私をただの能天気と思わないことね」輝夜がちょっとむくれて言った。
妹紅は小さな笑いを返しながら、自分に違和感を感じた。自分の体に、自分の魂が本当に入っているのかどうか、疑わしくて仕方なくなった。輝夜を見つけるなり、その上半身をふっ飛ばしにかかっていた藤原妹紅は、どこに行っちまったんだ? 毎日寝る前に輝夜の笑顔を思い出して、眠れない夜を過ごしていた藤原妹紅は、どこに行っちまったんだ? 朝歯磨きするとき、ふと輝夜のことを思い出して歯ブラシを噛み砕いてた藤原妹紅は、どこに行っちまったんだ?
「まあとにかく」と妹紅は言い、輝夜から離れて廊下に出た。それから続けた。「今日のところは、お風呂に入ってさっさと寝よう。ずっと起きてたって疲れるだけさ、あの野郎どもが十二時に来たとしても、永遠亭だってあるんだ、半日でここが見つかることは無いだろ」
輝夜が慌ててついてきた。妹紅は、居間と反対のところにある寝室の電気をつけると、輝夜の手を引っ張ってそこに入れた。「私が先に入ってくるから、お前勝手に布団敷いて寝てろ」
輝夜が疑うような目でこっちを見てきた。「とかなんとか言って、その隙に里へ行くつもりなんでしょ。それか、私が寝てる間に。ねえ一人にしないでよ妹紅、私これまでにないくらい不安なのよ」
「困った奴だなあ」ため息をついてから、「行きゃしないって、大丈夫。そんなに不安なら一緒に入るか?」
すると、輝夜は目を見張って、顔を真っ赤にした。そしていそいそと押入れの方に向かう。「べべ別にけっこうよ。庶民なんかと一緒に風呂に入れるわけないじゃない、この高尚な月の姫が」
「庶民庶民ってなあ、私はこれでも、遠い昔に貴族やってたんだぞ」
言いながら妹紅は廊下に出て、風呂場に向かった。本当は里の慧音のところに行って、やばいことが起きてると伝えに行きたかったが、妹紅がいないことに気付いた輝夜のことを思うと、とても家を出て行く気にはなれない。
困ったことに巻き込まれたなあ、と一回ため息をついた。
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輝夜に寝巻きの白い着物を渡すと、「なんだか白装束みたい。これじゃあ死人だわ」と笑われた。
「うるさいなあ、いいからさっさとそれ着て。寝るよ」
妹紅は輝夜が敷いた布団の隣に、自分のを敷いた。布団に入る直前、輝夜のいびきがどれほどのものなんだか考え、檻に入ったライオン並にうるさかったらどうしよう、と想像して吹き出しそうになった。実際にそうだったら、たとえ輝夜が泣こうが喚こうが、妹紅は隣の部屋に移動するしかなくなるが。
おやすみを言って、妹紅は電気を消し布団に入る。
だがなかなか眠れなかった。五分ごとに寝返りを打ち、やがて輝夜の寝息が聞こえるようになると、仰向けになって天井を見つめ、それっきり体を動かさなくなった。
出入り口のふすまと窓のカーテンを閉じられたこの部屋には、神が集まって宴でもしてんじゃないかと思えるほど明るい月の光は微塵も届かず、この人間の目は暗闇しか映さない。ただの静かな昼下がりとは違い、夜の静寂は、活力をまったく感じさせなかった。見えない死体に四方八方を塞がれてるイメージ。そしてその中じゃあ、いつも自分は一人ぼっち。里に行けば人はいるが、この布団の中に入ると、自分以外の全ての生物が死滅してしまったような錯覚にとらわれる。だから寝るときはちょっと寂しい。
いつもならここで妹紅は、今日何回輝夜の頭をふっ飛ばしたか、とか博麗の巫女は何でお茶が好きなんだ、とか考えながら、安眠のために自分の脳から寂しさを取り除く作業に入るのだが、どうやら今は、その作業に休み時間を入れるときのようだ。心にほんの少しの寂しさもない。その答えは、隣で規則正しいリズムで静かな寝息を立てている輝夜を見れば、すぐにわかる。
のんきな奴だ、と思った。さっきまで見せてた緊張感の、かけらもない寝息。一瞬、ただ輝夜が妹紅の家に泊まりに来てるだけのような、なんてことない日常の中にいるような気がした。まあきっと明日には、嫌でもそんな感覚から起こされてしまうだろうけど。
だいぶ目が慣れてきた。顔を右に向けると、なんの表情も作ることなく目を閉じて、ぐっすりと寝ている作りたての石造みたいな白い顔がある。それを見ているうちに、こいつはもしかして死んでいるんじゃないか、と心配になってきた。輝夜の布団に手を突っ込み、胸元をまさぐって鼓動を探した。そして安心した。ちゃんと自分の指先に、寝る前の自分とそう変わらないテンポの、大人しい拍動を感じさせてくれる。体も温かい。
手を自分の布団に引っ込めると、なおも輝夜の顔を見続けた。手にはまだ輝夜の鼓動の感触が残っている。その感触を逃がすまいとするように、その手を片方の手で握り締めた。
この女は、父に恥をかかせたいやみったらしの憎い奴。ふと妹紅は、どうしてそれがそんなに憎いことなのか、その理由を忘れていることに気付いた。そして同時に、自分に関するとある発見をして、自分自身にノーベル賞を与えたくて仕方なくなった。それは遊んでるときなどにぱっと思いつく、水の節約の仕方や皿の効率のいい洗い方なんかといった発見なんかとは比較にならない、革新的な発見だった。少なくとも自分にとっては。
つまり、もう自分の本心は輝夜のことを、少しも恨んでいないということだ。そして、最近輝夜と殺し合うときに、父を思った回数がほとんどないことにも気がついた。今まで憎い憎いと思っていたのは、たとえば朝起きたらご飯を食べる、といった、習慣の一部になっていたからじゃないだろうか。
いつからだ、と妹紅は自分の記憶を探った。憎たらしかったあいつが、気の合う友達になってしまったのは。最初あの姿を見たときは、本当に憎んでいた。そして蓬莱の薬を飲んだあと、人から怖がられて住む場所を転々としていたときも。時間の経過で憎らしさが消えたわけじゃない、何かはっきりとした理由があるはず。
妹紅は輝夜を竹林で見かけたときのことを思い出し、はっとした。憎しみが薄れたのはその頃だ。死なないせいで周りから疎まれ、何度も住む場所を変えてきた妹紅と、理由は違えど輝夜も同じことをしていた、というのを知ったとき。輝夜は人智を超えた化け物でもなければ、何百年経っても理解できない難解な生物でもない。嫌なものからは逃げたい、という当たり前の感情を持った、自分とそう変わらない普通の人間なんだ。
そう気付いてから、殺し合いも憎しみも意味のない、習慣的なものに変わったんだ。父が恥をかかされたとか、自分を人に疎まれる体にしやがったとか、そういった理由はそこには入り込まない。飴を見て唾液が出るのと同じように、輝夜を見ると意味のない憎しみの感情が沸くだけ。体がそういう構造になってしまったのだ。
こんな厄介な習慣は断ち切らなきゃ、と思った。しかし、何百年も続けてきた習慣を、いきなりやめることはできない。習慣の奴は、輝夜を殺すことを激しく望んでいる。今だってそうだ。本当はもう少しも憎んでないはずなのに、心のどこかがまだ、隣に眠る輝夜の首を絞めようと考えている。くそったれな隔たりの壁を塗り固めている。
こいつは永遠に終わらないのか、と思うと、いやそんなことはないぞ、と答える心があった。輝夜がいくら永遠を操る能力を持っていたとしても、こいつを続かせることだけはできなかったらしい。この悪循環を止めたのは、輝夜の泣き顔だ。心から泣くというもっとも人間らしい表情を見せ、妹紅と輝夜の間に隔たっていた境界を、引きずり回された死刑囚みたいにぎたぎたにして地の底に埋めた。
おそらくあれは、永遠亭の人間も見たことが無いに違いない。こいつは根拠のない予測だけど、どうしても妹紅は、あの泣き顔を見ることができる運命にあったのは、自分だけだと信じたかった。あれを見たのは自分だけ。それは優越感とはちょっと違う。信頼されたものだけが見ることのできるものを見た、という気分だ。もう父の恥がどうとか、大昔のことを持ち出すことはしちゃいけない。自分はもう輝夜のことを憎んでないし、輝夜だってもうこっちを殺そうとはしないかもしれない。
妹紅は輝夜の布団に手を入れ、その子の左手をそっと握った。
この子の言っていることが本当で、もし永遠亭と話がつかなかったら、月の使者がこの子を殺しに来る。ちゃんと守ってあげなきゃ、と思った。何があっても守って、もし逃げ切れたら、もう殺し合いはやめよう。自分にとっても輝夜にとっても、それが一番いいはず。
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体が何かの異変を察知したのか、これまでの日々と比べて、妹紅の目は早く開いた。まだちょっとかすむ視界に映ったのは、はっきりとはわからないが、天井についた人の顔らしき染みだ。あのくそったれが見えるってことは、ああそうか、今五時か六時辺りなんだな、と推測する。まあ時計を見れば一発だけど。
ふいに右へ顔を向けたとき、体が察知した異変の意味がわかった。それまで額の奥でぐずぐずしていた眠気が急に吹っ飛び、妹紅は上体をばね仕掛けのおもちゃみたいに起こした。
そこには輝夜がおらず、布団すらなかった。ただ冷たさしか感じられない、ところどころほつれた古臭い畳があるだけだ。隣に畳んで置いてあったはずの輝夜の服も、自分のくれた寝巻きもない。昨日まで立派に建ってたビルが、次の日見たら無くなっていたのを見たときのような、嫌な空虚感が胸に押し寄せてくる。不安になって胸元を押さえたとき、その奥の臓器が激しく収縮と膨張を繰り返してることに気がついた。
妹紅は飛び起きて、すぐさま服を着替えた。輝夜の奴、勝手に外に出ちまったのか、とか朝ごはんでもあさりに行ったのか、とか色々考え付くことはできたけど、唐突に思いついたとある嫌な予測の前に、それらは皆押し潰された。つまり、夜中のうちに月の使者が来て、輝夜を持ってっちまったんじゃねえか、ということだ。そんなことない、と思うたび、そっち側に思考が傾いてしまう。
髪にリボンをつけたところで、足の力がふっと抜け、妹紅は両膝を折った。連れて行かれたのか、と自問すると、いないんじゃそう考えるしかないだろ、と返事する心があった。お前が散々憎むから、願い通りに消えちまったわけだ。テレビ消すみたいに、ぱっとね。
「くそ、馬鹿のちくしょうが」妹紅は自分を叱り付ける。輝夜のことはもう憎まないって約束しただろう。習慣の野郎、今度その間抜けな言葉を発してみろ、その顔面に強烈な熱をぶち込んでやる。
とにかく、連れて行かれたなんてことはないはず。いくら月の使者に万能な天才野郎がいたとしても、なんの物音も出さずに連れて行くだなんて不可能だ。そいつは単なる気休めだぜ、だなんてうっとうしい声を上げる心を黙らせ、出入り口のふすまを開けた。玄関の引き戸の覗き窓からは、虫眼鏡で光を集めても紙一つ燃えそうにないくらい弱々しい光が差し込んでいる。そうだ、きっと輝夜はこの向こうにいる。扉に走ったとき、その鍵が開いているのを見て、そして輝夜の靴が無くなっているのを見て、それを確信した。邪魔なものを叩き落とすように強く扉を開け、裸足のまま外に躍り出た。
辺りは一面竹だ。妹紅の背丈より何倍も高く伸びている竹は、青に近い紫色の空を細かく分割している。玄関から五、六メートル離れたところに、横を向いて空を見上げている輝夜がいた。
自分にのしかかっていた精神的な重みが、さっさと飛び降りていくような気がした。これほど安心したのは、三ヶ月振りかもしれない――あのときは大変だった。慧音がおなかを押さえて悶絶しながら「出産間近だ」とか訳のわからないことを言って、それが単なる食あたりだったことに気付いて、家から一週間出てこなくなっちゃって――いいや、そんなことはどうでもいい。思い出すことじゃない。オウケイ、自分は今、余計なことを考えられる程度に平常だ。脅威が去ったことを喜んでいる。だけどまだ、肺に嫌な空気がこびりついている。さあ深呼吸をしろ、そうすりゃ消える。嫌な空気を放り出すんだ。でないと、この胸の中で暴れている動悸が治まりゃしない。
動悸は治まらないままだったが、妹紅は靴を履いて輝夜のところまで歩いた。だが、輝夜の顔が見える距離まで近づいたとき、はっとして立ち止まった。空を見上げる輝夜の顔は、でかい物に押し潰された猫の死体を見ているときのような、訝しんでいるんだか悲しんでるんだかはっきりしない表情になっていた。妹紅は話しかけることなく、輝夜の見てる方へ顔を向ける。空に混ざりかけている、半透明の薄い月が見えた。そういえば昨日も月を見てたな、と妹紅は思った。それについて訊こうと口を開きかけたとき、輝夜に先を越された。
「ぐっすり眠れたかしら」
こっちには顔も向けなかったものだから、ちょっと妹紅は驚いた。「眠れたよ。それよりあんた、私に気付いてたの?」
「そりゃ気付くわよ。あんなに大きな音出して扉開けたら、誰だって気付くわ」
そう、と相槌を打ったとき、妹紅はもっと他に言うべきことがあるだろう、と自分自身に対して歯痒さを感じた。喋れなくなったのは、輝夜が昨日と同じ泣きそうな顔をしていたからか。余計なことはいい、まずは慰めるんだ、と正義感が焦らせてくる。今すぐその肩を抱き締めてあげたいが、いまだに生き残っている習慣が、握りこぶしに力を入れたり抜いたりさせるばかりで、体を動かさせようとしない。くそ野郎が、と泣きたくなった。習慣をいきなり断ち切ることは、やっぱりできないのか。このまま黙っていると本当に涙が出そうだったので、適当なことを考えこう言った。「布団と寝巻き、片付けてくれたんだ」
「ええ、寝巻きはそのまま箪笥にしまったわ。この私が着ていたものだもの、洗濯しなくってもいいわよね」
輝夜が笑ったのは、こっちに顔を向けたときだった。月を見てたときとは打って変わって明るい表情になったので、妹紅は驚いて返事できなかった。まるで月を見上げているときだけ、よこしまな呪縛にかかっているみたいだ。多分妹紅が話しかけなかったら、永遠にここに突っ立って月を見つめていたかもしれない。
輝夜が口元を袖で隠し、にこにこと笑っている。数分前のことなんて綺麗さっぱり忘れているような、のんきで邪気が微塵も感じられない顔だ。その目は妹紅に向かって、こう伝えてくるようだった。なあに変な顔で突っ立ってるの? さっさとほら何か喋らないとあなたねえ、そのうち誰かに人形と間違われて持ってかれちゃうわようふふふふふ。
外に出ちゃ危ないだろ、すぐ家に戻れ。妹紅はそう言おうとしたが、輝夜の寂しそうな顔がいつまでも心にこびりついて離れず、こう言わせた。「なあ輝夜、昨日も見てたけど、月がどうかしたの?」
輝夜の表情が一瞬にして曇った。
それだけならよかった。それだけなら、まずい、触れちゃいけないものに触れちまったか、というようなちょっとした危機感を味わうだけで済んだ。
何も言ってくれないまま、さっと背中を向けられる。これは妹紅にとってひどい衝撃だった。血の気が引いた。その背中から伝わってくるのは、むくれとか不機嫌とかそういうものじゃない。拒絶だ。お前には理解できない、お前じゃどうしようもない、と輝夜は言っている。そう聞こえる。実際には何も言ってないけど、そう想像させるだけのネガティブさがある背中だった。
「おお、おい、おい輝夜……」
今度は自分が泣きそうな声になっていることに気付いた。
押さえ込んでいた憎しみが、楽しそうに下の方からじわじわと上ってくる。おかしいぞ、と妹紅は頭を抱えたくなった。自分は昨日よりも過敏になってる。黒い感情を閉じ込めてる箱の留め金が、簡単に外れてしまう。もしかして、憎んじゃいけないと強く思っているからうまくいかないのか。こういうときどうすればいいんだ。憎むな、と思えばいいのか、それとも真っ白な気持ちになればいいのか。くそ、後者の方が正しいみたいだけど、超能力者でもない限りそんなの無理だ。ならば憎んじゃいけない、と思うしかないけど。
憎むな憎むな、と強く思うたびに、そのいけ好かない感情はどんどん肥大化してくる。そいつはやがて心全体を覆いつくしてしまうだろう。――だめだ、そんなことは絶対にあってはならない。無理やりにでも、その大馬鹿野郎を外に追い出すんだ。殺し合いに走っちゃいけない。隔たりなんてくそ食らえだ、破壊されて踏み潰されるべきものだ。そうだろう? 心に隙を作っちゃいけない、奴はどんな狭い隙間だろうと、ものの見事に滑り込んでくる。奴は妹紅と輝夜がまた憎み合うのを、にやにやしながら待ち望んでいる。
無言が続く。やっぱり何か言えないことがあるのか、と思い、そしてすぐにその横で、違うよあいつはこっちのことなんか何とも思ってないだけなんだよ、と憎しみが声を上げた。
「確か妹紅は、私のことを憎んでたわね」
輝夜が振り向きもせず言った。もしかしたら、負の感情を持ってはいけない、と強く思いさえしなければ、ここまで神経過敏になることはなかったに違いない。そいつは妹紅を弱くしていた。輝夜と殺し合うときに湧き上がる、本心ではない偽物の殺意が心を多い尽くそうとするのを、止めることができなかった。
輝夜に掴みかかるまでの数秒間、胸中に二つのまったく違う意見が生まれるという現象を、妹紅は初めて味わった――いまさら憎むかどうか訊いてくるってことはその通り憎んでくださいてことよ願い通りにしてやってその頭をいつもみたいに粉々にぃぃぃいいいいや憎むことはもうしないしないぞ輝夜の頭も自分の頭ももう絶対に粉砕されることはない殺し合いなんてこりごりそれはあいつも同じのはずだけどよ嬢ちゃんそりゃあ勘違いってもんだわぁあんたは輝夜が普段みみみ見せないものを見た上月の使者がどうとか言われたからからから動転してるだけだわよいいからいつもみたいに頭を吹っ飛ばせばいいのよあのかぁいい頭を燃やしちぇまえおんまはやりばでけれ子だらぁいけいけいけそれいけやれいけほれいけさあいけ――どす黒い感情の喚きに負けそうになり、もう少しで火を放ちそうになった腕を必死に制して、その腕で輝夜の体を抱き締めた。
輝夜の体は柔らかかった。もう少し抱き締める腕に力を込めたら、跡がつきそうなくらい。そして、何よりも妹紅を落ち着かせてくれたのが、その体温と鼓動のリズムだった。いきなり抱きつかれて驚いたのか、一時的に速さを増したそれは、時間が経つにつれて大人しくなっていく。自分の胸の中で暴れてたものも、それに合わせて弱くなっていく。妹紅は輝夜の背中に、隙間がないくらいぴったりと体を合わせた。輝夜の体温が染み込んでくるようだった。夏の日の木みたいに温かかった。
頭の中で喚き散らしていた憎しみとそれに反発する奴が、どこかに引きずられていくように遠ざかっていく。これは輝夜の体温のおかげなのかな、と思ったとき、ふいに額が熱くなり、目の奥がずきずきと痛み出した。視界がマーブリングみたいにぼやけたとき、ぐっと目を閉じる。輝夜がこんなに温かい奴だったなんて、まだ奴に対して怒りしか持てなかった昔じゃあ、絶対に気付けなかっただろう。
「びっくりしたわ」輝夜が言った。「どうしたの、妹紅。泣いてるの?」
「泣いてないよ」妹紅は鼻の詰まった声で返事した。そして次に言うことは、鼻詰まりに声の震えを加算した、よく聞かないと何言ってるかわからない言葉になった。「私が泣いてようが何しようが、どうでもいいのよ。私はあんたに言いたいことがあるわ。私が昔憎んでた蓬莱山輝夜に言いたいことがあるわ。私に隠し事なんてしないで。遠慮しないで、なんでも言ってよ。守ってやるって言ったろ、お前は絶対に覚えてるはずだぞ、私はお前の顔面に向かって、守ってやるってはっきり言ったんだ。だから何でも言ってよ」
輝夜がこちらに振り向こうとして、首が曲がらず横顔を見せた。困ればいいのやら驚けばいいのやら、よくわからない、といった顔だった。「そんなこと言ったかしら」
「言った! 私が言ったって言ってるんだから、言ったんだよ」実際には言ってなかったかもしれないが、今の自分じゃ判断できない。
輝夜の口調が、子供をあやすようになった。「ねえ妹紅、私はね、妹紅に隠し事があって背中を向けたわけじゃないのよ。ただね、言いづらいだけなの。どうして月を見てるのか、これは言いづらいことなの。例えばねえ妹紅、私がこのままいなくなっちゃったら、あなたどう感じる?」
「悲しいよ。慧音が腹痛で入院するよりも悲しいよ」
この返事をするときは、誰も邪魔しなかった。忌々しい憎しみも、習慣も、強い猛獣に怒鳴られたネズミみたいに何も喋らない。輝夜のおかげだ、と思った。黙っているのは一時的かもしれないが、それでも輝夜には感謝した。
「そうなの?」輝夜は訊き返してきたが、その笑みは、訊くまでもなく答えなんてわかってますよ、とでも言ってくるようだった。「妹紅は私のことを憎んでるようだったけど」
「そんなことない」
言って、妹紅は考えた。本当に憎んでいないのか。今この時間には断言できたとしてもこの先、例えば一週間、一ヶ月、一年経っても、はたして自分は同じことを言えるのか。できやしないだろう。昨日、輝夜はもう憎まないと約束したのに、習慣の野郎を抑えられなかったじゃないか。
「そんなことないけど」妹紅は言う。自分の声は、さっきよりははっきりしていた。「でもまだどこか、憎んでるところがあるの。何年も、いや何百年も殺し合って、あんたのことを憎んで生きてきたから、もうやめよう、て今さらどんなに強く思っても、あんたに対する憎しみが消えないの。私はもうあんたを憎みたくない。あんたを見つけて不愉快に思ったり、目の上にたんこぶができたような気持ちになりたくないの」
輝夜が顔を前に向けて、力を抜いた。妹紅に体を預けるみたいだった。「どうして?」
「あんたが泣き顔を初めて見せてくれたからよ。あんたが、自分は人間と同じように泣いたり困ったり怒ったりできるんだ、と私に教えてくれたからよ。あんたが、誰にも理解できない化け物じゃないからよ。あんたが私と分かり合えそうな人間だったからよ」
「私は月人よ。地上の人間じゃないわ」
「いいや、人間だ。どこで生まれようが種類が別だろうが、心があるなら人間よ。人間と同じことができるなら、それは人間なのよ。それで、お前は友達だ」妹紅は輝夜を抱き締める腕に、少し力を込めた。あとで考えると輝夜は苦しかったに違いないが、そのときの輝夜は鼓動のリズムすら変えなかった。「友達なんだよ。だからもう、殺し合いはしたくないの。憎みたくもないの。だけどね、どんなにそう思っててもね、どうしても憎しみが消えてくれないんだ。ねえ、どうすればいいの」
輝夜は何か考え込んでいるようだった。
いつの間にか日は昇り、空は雲一つ無い快晴になっている。早朝だ。夜になるにつれて衰弱に向かい、深夜になったら完全に死に絶える活気が、再び生き返るときだ。だが、鳥の鳴き声は聞こえない。夜中に騒いでいた蛙の声も。ここは自分たち以外の生き物の存在が感じられない、無音の空間だった。その中で太陽の光に照らされ、瑞々しい緑色になっている竹や草が、なんだか寂しく見えた。いっそ、地面に敷き詰められた竹の枯れ葉みたいに死んでしまってた方が、しっくりくる。ここにいると、輝夜の考え込んでいた時間も、ずいぶん長いことのように思えた。
やがて輝夜は、妹紅に自分を離すよう促した。妹紅は渋々離した。仕事に行ってしまう母を見つめる子どものような名残惜しさを感じたが、離せというんじゃ仕方ない。輝夜は妹紅に向き直ると、不安そうに胸元に手を当て、視線を落とした。
「私は、妹紅に私のことを憎んでほしいわ」
「そりゃ一体なんでよ」妹紅は言う。そして、また輝夜は後ろを向いてしまうんじゃないか、と危惧した。今度そうされたら、また侵食に来るはずの負の念に勝てる気がしない。だが、輝夜は妹紅の目を見つめてきただけで、恐れたことはしなかった。
そして妹紅は、輝夜の肩越し、三十メートルほど先の藪がかすかに揺れたのを見たとき、大人しく二人きりで話しできるのが、当分先のことになるだろうと悟った。その瞬間はまだ相手の姿を認めたわけではないけど、その考えは計算機を使ったように出てきた。藪が動く、側にあった竹が微妙に揺れる。それは掻き分けだ、と脳内計算機は言った。そしてそいつは決して、山菜を採りに来たおじいさんなんかじゃない。このタイミングでそれを考えるのは現実的じゃない。
輝夜が何か言おうと口を開きかけた。いや実際に何か喋ったかもしれないが、それは妹紅の鼓膜を刺激しただけで、その情報を脳まで送ることはなかった。
甲冑を着た三人組の男が、藪をどかしながらやってくる。妹紅は恐怖した。なんだかあの三人組の兵士が、見ただけで血の臭いを嗅ぎ取れるぐらい凶悪な、図体のでかい猟奇殺人者のように見えたのだ。自分は殺される側のブロンド女優といったところか。困ったぞ、そんな間抜けな役には断じてなりたくない。
月の使者が来やがった。この言葉が、延々と頭の中で回り続ける。
妹紅が自分でもわかるぐらい硬直してるのを不審に思ったのか、輝夜は口を閉じ、さっと後ろを振り向いた。きっとすぐにその体をびくりと震わせ、自分の胸元に飛びついてくるに違いない。そう妹紅は予測し、そして輝夜はその通りに動いた。
「まずいな」妹紅が言った。自分の声が力強かったことに、いくぶんか安心した。目はまだ少し乾いているが、鼻はもう詰まっていない。「永琳との話はつかなかったのか」
「そうみたいね」輝夜は言った。「まいったわね、こりゃまいったわね。もうばれるだなんてびっくり仰天よ。ええい、ちくしょう、窮地ってこういうことを言うのね」
多分臆病なウサギが、輝夜の行き先を喋ってしまったんだろう。妹紅は思ったが、そんなのはたいした問題じゃない。妹紅の心は、あの月人たちを恐れている。そいつはどんな嘘でも覆い隠すことはできない。わずかに足が震えてるのがわかる。輝夜の話によると、永琳はどうしても言うことを聞かないなら争いをおっ始める、と言った。それなのにここに月人たちが来たということは、永遠亭が負けたということだ。永琳やその弟子と、他にいっぱいいるウサギの連中を、ゴア映画並のグロテスクな肉塊に変貌させた、ということだ――それは誇張表現だったが、妹紅は意味もなくそう決め付けてゆずらなかった。そうであってほしくはないけど。
輝夜が顔を左に向けた。そっちに妹紅も顔を向けたとき、ぎょっとした。今度は五人組の兵士たちが、二十メートルほど先の方から歩いてくる。逃げようと思わなかったのは、輝夜を守りながらここを無事に乗り切る自信がなかったからだ。
汗が妹紅の顎を伝い落ちる。そいつは一度きりで終わるかと思ったが、二度、三度、と続けて落ちた。汗の雫の通ったあとがいやに冷たい。妹紅は身震いした。そのとき唐突に、これを認めたら発狂してしまうほどの恐怖に襲われた。妹紅は首を右に振り向ける。四人組の甲冑を着た兵士が、こっちに向かってずかずかと歩いてくる。後ろを向いた。家の陰から、六人組の兵士がのそのそと現れる。思った通りだ。囲まれている。さあ認めるんだ。おかしくなってもいいから、自分と輝夜は月の使者に囲まれてしまったんだと認めるんだ。
これは誰のせいかね? と妹紅は自問した。輝夜をさっさと家に入れていれば、少なくとも居場所がばれるのはもっと先のことになったかもしれない。憎しみの奴がいちいち邪魔をしたからか? いいや大先生、それは違う。自分自身にそいつを抑える力がなかったからだ。
輝夜があちこちに顔を向ける。それほど青褪めなかったところを見て、輝夜は私より強いな、と妹紅は頭を撫でてあげたくなった。
「とっとと家に戻るべきだったかな」妹紅は迫ってくる月の使者を睨みながら言った。「永琳はやられちまったのか? だとしたら、大変だぞ」
輝夜は何も喋らなかった。
妹紅は体ががちがちに固まって、輝夜を抱き締めたまま動けなくなった。月の使者の、その感情のない目が、自分たちに視線を突き刺している。そして奴らは七メートル辺りのところまで近づき、ぴたりと止まった。その手には、そいつらの背丈より少し長い槍が握られている。数分後にはきっと、その槍が自分たちの体を貫いていってくれるのだろう。くそ、ビップサービスだってそこまではしない。
奴らは円を描くように妹紅たちを取り囲んでいた。かごめの遊びでもしようってのか。敵兵をこれからどうなぶり殺そうか考えているような顔をしている兵士たちの頭に、そんな平和な遊びなんて少しも入っていないだろうけど。妹紅の服を不安そうにぎゅっと掴む輝夜の手が、体を固めていた緊張を、いくぶんか和らげてくれた。このか弱いお姫様を守ってやらなくちゃいけない。そうはっきり思った。だけどそう強く思うたびに、わずかでも腹が立ってしまうのはなんでだ。答えは簡単だった、習慣の野郎のせいだ。さっさとお前はあっちに行けよ、と妹紅は目をぎゅっと瞑って、悪あがきを続ける習慣を追い出そうとした。お前の時代は終わったんだよ、さっさと天国に行け。いいや、ここは特急に乗って地獄行きの方がいい。料金はお前が払うんだ。わかったら消えろ。お前のためにも言わせてもらうぞ、二度と顔を出すな。
目を開けた。目の前にいた月の使者をどかして、一人の女性が妹紅たちの前に立つのが見えた。妹紅は瞬時に、そのポニーテイルの女が使者のリーダーであることに気付いた。他とは明らかに異質だったから。そいつは仏頂面のまま腰の鞘から刀を取り出す。よく手入れされているな、と感心した。まだ弱い太陽の光を、その刃が宝石みたいに反射した。
「私は月の使者のリーダーです」気の強そうな声で女は言う。「お名前を知りたくて仕方がない、というような顔をしてるわね。いいわ、答えてあげる。私の名前は綿月依姫。いい名前でしょ? 同じ月の使者のリーダーに姉がいるんだけど、月とこっちの境界を開けたあとに月に戻ったわ。地上人相手に、リーダーが二人行くこともない、ということね」そのあと、刀を妹紅に突きつけてきた。「私が何故ここにいるのか。それは実に簡単な問題よ。大罪を犯した月の姫に、もう一度処刑を行うため。今この場で斬り潰して殺すわ。藤原妹紅さん、同じ目にあいたくないなら、今すぐその手を離して、姫をこちらによこしなさい」
名前を知ってるとは驚いた。臆病なウサギちゃんが喋っちゃったのかな。この調子だと、誕生日まで言い当てられそうだ。だが胸の大きさまでは知らないに違いない。思って笑いたくなった。だが実際に笑えたとしてもそれは、相手に楽しさなんてかけらも伝えられないくらい、固まった笑顔になることだろう。自分が今一生懸命冗談を思いつこうとしているのは、追い詰められたこの状況から、必死に余裕を見つけ出そうとしているのに過ぎないんだから。
「お前のお願いは聞けないな」妹紅は言う。その視線は取り囲む兵士ではなく、依姫にずっと注がれていた。「お前は目の前に態度の悪い物乞いがいて、そいつが財布を全部よこせと言って来たら、素直に渡しちゃういい子なのか? そうだって言うんなら、お前はその物乞いたちから歓迎されるかもしれない。だけど私は、そんなふうに歓迎されたいだなんて少しも思わないわね」
依姫は刀を下ろし、一つため息をついた。「物乞い扱いされたのは生まれて初めてだわ」
「気を悪くしたようだけど謝らないわ」妹紅は言ってから、輝夜の頭を庇うように抱いた。「一体輝夜が何したっていうんだよ。月の使者を殺したってのは聞いてたけど、それは大昔のことよ。今になって来たのは、一体どういった説得力のある理由からなのかしらね。それを聞かせてくれないうちは、私の目にはあんたが単なる、頭のいかれた殺人狂にしか映らないわよ」
「殺したのは永琳様のはずだけど……」依姫は腕を組み、順位の低いものを蔑むような目つきになった。「まあ、それはあなたの知ることではないわね。あなたが私をどう見ようが、それもまったく関係ない。あなたはただ黙って、腕に抱いてる素敵なお嬢ちゃんをよこせばいいのよ。それ以上のことは要求しない」
妹紅は兵士たちの顔をいくつか見た。その顔の全部は、こう告げている。〈言う通りにしたほうがいいと思うがね、え? 姉ちゃん。言う通りにすれば、お前は人生で最も厄介な奴の相手をしなくて済む。これほど利口な考えはないと思うがね〉
そりゃそうだ。痛い目を見たい奴なんて、脳に傷が入ってでもいない限り、地上じゃありえない。だが、同じ喜んで痛い目を見に行く行為でも、快感を得るためと誰かを助けるためじゃあ、全然意味合いは違ってくる。妹紅をぎたぎたに痛みつければ、今腕の中で震えている輝夜を助けられるっていうんなら、喜んで痛みつけられに行く。その覚悟はできているつもりだった。
ちょっと待てそんなことを考えるな、まだ負けたわけじゃない、諦めるんじゃない、と喚き始めたのは、言わなくてもわかるあいつだ。いつもならそいつの意見なんて聞かずに、心の外にほっぽり投げるはずだが、悔しいが今回はそいつに同調したほうがいいような気がした。まだ諦めるには早すぎる。
妹紅は輝夜を離し、自分の後ろに隠した。「お前たちなんぞに、輝夜は殺させないわよ。輝夜は死なない、私と輝夜は永遠に生き続けるのよ。それを邪魔する奴は、ゴミ収集車にぶち込まれた大型犬よりも目も当てられない姿にしてやるわ」
「ずいぶんと恐ろしいことを言うのね」少しも恐れていなさそうな依姫が言う。「でもこっちも、どうしても姫を処刑しないといけないのよ」
「どうしてよ」
「それは言えないわ」
大事な部分を不明瞭にしやがる依姫に、妹紅は苛立った。殺しに来た理由を言わないままじゃ、不条理にもほどがある。――つまりあれか、下賤な地上人は理解することなどせず、ただ黙って殺される役に徹してろ、ということか。くそ、今すぐその綺麗な顔に、常人じゃとても触れないほどの高熱をぶつけてやりたい。
依姫は何か考えるように目線を下に向け、やがて顔を上げると、刀を両手で持って構えた。この姿勢は、戦闘開始の合図に他ならない。妹紅は、果たして今こいつと戦うことが、自分たちにとって最も有益になることなのかどうか、少し考えた。依姫を倒せれば、もしかしたら月人の処刑狂いが終わって、全員何事も無かったかのように月に帰るかもしれない。しかし、そいつはあまりにも都合のいい推測だ。普通なら自分たちのリーダーがやられれば、やった奴を袋叩きにする。
「とにかく、どうしても渡さないというのであれば戦うしかないわ。もちろん、戦利品がない、とは言わない。もし私に勝つことができたなら、この場はいったん退きましょう。それでそっちも文句はないはずよ」
その言葉は胸の内に立ち込めてた暗雲を、うちわで線香を扇ぐように追い払った。といっても完全に消えたわけではなく、端に残ってうちわが消えるのを待ち望んでいるのだけど。だがしかしなんであろうと、その綺麗になったところに生まれた希望が、十分すがりつく価値のあるものということだけは確実だ。
「本当に帰ってくれるかどうか、少々不安だわ」妹紅は兵士たちをちらちら見ながら言う。依姫はユーモアさのかけらもない声でこう答えた。
「月人は約束は守るのよ。安心させておいて実は、だなんてだまし討ちはしないわ。それに、勝負方法も非常にフェアなのを好むの。相手と同じ土俵に立って勝負をする。これが重要だわ。ちょっと前にお茶目な地上人がロケットに乗ってやってきたとき、尋常な勝負というものがいかに美しいかを知ったのよ。だから私はスペルカードは使わないし、神もおろさない。だからあなたも妖術は使わずに、自分の力のみで私と戦いなさい」
「自分の能力に自信がないのか」そうであってくれ、と願いながら妹紅は言った。しかし依姫は、その目に露ほどもハッタリの色を入れずにこう言った。
「それとはちと違うわ。これはあなたに対する、私が与えられる最大の慈悲なのよ。体術以外で、あなたが私に勝つ方法はないわ。これだけは自信を持って言える。本気で戦ったら、あなたは私には勝てない。私は神をおろす力を持ってる。つまり、常にあなたの弱点をつける神様をおろす、ということよ。シューティングゲームで例えるなら、ボムしか使わないってことね」
「そりゃ厄介だな」どうしようもない奴だな、と妹紅は体中が冷たくなってくるのを感じながら思った。神様の相手なんかするのは、確かに無理だ。そこらの妖怪なら、敵が瞬きするよりも早くその体を丸焼きにできるんだけど――そこで妹紅は、相手が騙しうちを使わないなら、自分が使えばどうか、と考えた。相手の隙をついて丸焼きにしちまえば。ああだめだな、こりゃだめだ。やっぱり残りの奴に袋叩きにされてしまう。奴らは永遠亭をやっつけている。痛いけど死ねないあの恐怖、それをまた味わうわけにはいかない。
「お前たち、ちょっと離れなさい。そうねえ、アザラシ二頭分くらいかしら」依姫が回りの兵士にそう言うと、奴らは一度頭を下げてから少し離れた。「姫も離れてください。ああ安心しなさい藤原妹紅、あなたが目を離した隙に捕らえるだなんて、品に欠けることはしないわ。その代わり、姫もそこから逃げないでくださいね。あなたが逃げるってことは、そこの勇敢なお姉さんを裏切ることになるんですから」
妹紅はちらりと輝夜の方に振り返った。その顔には、自分の望む結果になってくれるかどうか、怯えているような表情がはり付いていた。輝夜はぱたぱたと駆けて、月の使者の後ろに回った。
向き直ったとき、もし長年の戦闘の勘がここで鈍っていて、体を右に飛ばさなかったら、危うく刀の刃が自分の頭を斜めに切り裂くところだった。うまく着地できず頭から草むらに突っ込んだのは、ポンプで噴出されるように生まれた恐怖が、体を潤滑油の差されてない錆び付いた機械みたいにしたからだろう。
こんなところで動けなくなるだなんて、そんな間抜けなことはあってはならない。妹紅は体をぐるりと反転させ、肘をついて上体を起こした。「あ、危ないじゃない!」
「そりゃ危ないでしょうねえ、危ないようにやってるんだから」依姫は刀を構える。「でもどうせ不老不死なのでしょう? 多少の痛みは我慢しないと、この私の顔に殴り跡一つつけられないわよ」
言葉が終わるとすぐに、突きの姿勢で突進してきた。妹紅はさっと立ち上がると、ぎりぎりのところで右に避けた。刀の切っ先は空気を貫き、両腕を伸ばしたまんまの依姫は隙だらけになる。その顔面に、どぎつい靴底の跡をつけてやろうと思ったのだが、依姫が刀を素早く左手に持ち替え、妹紅の足を切り落とそうと振るのを見て、全身の力を込めて体を引いた。今度は倒れなかったが、ちょっと姿勢を崩した。
「動作がいちいち速いね」憎まれ口を叩いてやったつもりだが、わかっているのは妹紅だけかもしれない。「くそ、お前は本当に速い。アメリカ兵が人の気配がする茂みに機関銃を乱射するより、数倍速い。だけどね綿月、そんな程度の速さ、何べんもお前の刀を避けてりゃ、すぐに慣れるんだ。あんまり調子に乗るなよ」
依姫は刀を構えると、こう言った。「そう。それは困りものね。それじゃあ、こういうのはどうかしら。あなたが十分以内に私を倒せなかったら、姫を処刑する。これは素敵な提案だと思わないかしら」
「おいおい本気で言ってるのか?」言いながら妹紅は、とある感覚にとらわれた。明日、町の人間を大虐殺するんだ、と真顔で言う友達の真偽を、死ぬほど頭を使ってああでもないこうでもないと考える気持ち。だがそこまで頭を使って考えれば、そもそもそんな議論なんて必要ないことに気付ける。月人でなくても、こんなときにブラックジョークなど言う奴はいない。地上の常識がこいつらにも当てはまれば、の話しだけど。
ふいに顔が見たくなって輝夜の方に視線を移した。当然、希望が妹紅しかない輝夜は、青褪めうろたえているはず。だが、まったく予想通りではなかった。輝夜の顔は、演劇で我が子がいつへまをするかどうか心配している、気の弱そうな母親そのものだった。これは直感でしかないけど、輝夜は自分の命ではなく、妹紅が傷つくかどうかを心配しているに違いない。その事実は、非常に心地よかった。
妹紅は依姫を見つめて言った。「まあ、だらだら延ばしたって仕方ないからね。ふふん、時間制限にしてもらったほうが、かえってやりやすいわ。早く勝負をつけるために、あんたの顔面に遠慮なく拳を叩きつけられるんだからね」
「強がりを言っても私には勝てないわよ」
さあて、どうやってこの月人を倒そうか。顔面を叩き潰してやる、とは言ったものの、依姫にはまったく隙がない。刀を構えてじりじりと歩み寄る奴は、あんたの動きなど全て把握してるわよ、とでも言いたげににやにやしていた。どこへ動いても、その忌々しい刀の切っ先が常に自分の鼻先に向かうような気がする。痛いのは嫌だ。断じてごめんだ。なんとか隙を作り、その間に奴の顔面を踏み潰したピザみたいにできれば――
目くらましだ、と唐突に思った。だが火は使えない。使った瞬間、奴は怒りのまなざしになって、神をおろして容赦なく妹紅を痛い目にあわせるだろうから。なら、どうしよう。妹紅は目だけを下に向ける。枯れ切った竹の葉が絨毯のように地面を覆いつくしている。これを思い切り蹴り上げてやれば、多少は驚かせることができるかも。だがその多少は、奴の敗因の理由としちゃ十分だ。
これ以上考えている暇はなかった。依姫が自分の体の右上に向かって、刀を振り上げるのが見えたから。妹紅はつま先を枯れ葉の中に入れて、蹴り上げる。
やろうかどうか迷ってて、結局やって激しく後悔するときというのは、まさにこのことなんだな、と妹紅は思った。妹紅が足を動かした瞬間にはもう、依姫の目はそちらに動いていた。木の葉が波みたいに舞い上がったときなど、右肩を向けられてガードされてしまう始末。依姫が姿勢を直してその刀を振るうほんの一秒間に、心を激しい恐怖が包み込む。奴を怒らせてしまったのではないか、目くらましは奴の怒りを刺激するには十分過ぎるパワーを持っていたのではないか。
水平に振られた刀を、妹紅は即座にしゃがんで避けた。怯えるなばか野郎、と自分の体に命令する。怯えるだなんて性に合わない。
依姫はとくに怒ってはいないようだった。真顔で刀を振り上げる。その刃が体を真っ二つにしちまう前に、妹紅は依姫の脇を走り抜け、背後に回った。後ろを取ればこっちのもんだ。だが素早いあいつは即座に体を反転させることだろう。依姫の首がこちらに向くか向かないかのうちに、妹紅は足払いをかけてやった。
だが、そいつは成功することはなかった。依姫が軽く跳んだのだ。自分の足が木の葉をかすかに巻き上げたあと、姿勢を戻す間に妹紅は、こいつはもしかしたら超能力でも使えるんじゃないか、と思った。自分の動きは全部読まれているんじゃないか。これからどれだけ攻撃を連発しても、一発も当たらないように思えた。依姫はこちらに軽やかな動作で振り向き、刀を構える。緊張のかけらも見えない、余裕の微笑みだ。反対に、妹紅は緊張の氷河の中にどっぷりと浸かっている。抜け出る方法をなんとか探さないと、勝てやしないぞ。
「怯えているようね」
その依姫の言葉は、今日の奴の言葉の中で一番妹紅の心をひるませた。怯えてる。まったくその通りだ、否定しない。奴らがその間抜け面を見せたときから、ずっと妹紅は怯えている。永遠亭が倒された、そう知ったときからずっとこいつらに恐れを抱いている。
「怯えてなんかいない」こんな嘘は、輝夜にさえもすぐばれたかもしれない。だが、次の言葉は本心だ。「私は輝夜を守るんだ。輝夜も、私に守ってほしいって言った。怯えてなんかいられないのよ、ごたごた言ってないで、さっさとかかってきな。私はお前の顔面に、お前が今まで一度も味わったことの無いような衝撃を与えなくちゃいけないんだからね」
言ったあとで、それは本当に本心なのか、という疑問が広がった。それこそ本当のうわべで、本音のところはここから逃げたくて仕方ないんじゃないのか? お前は自分が依姫に勝てないのを知ってる。月人というだけで感じる威圧感と、こいつの反射神経は自分を遥かに超えてるんじゃないか、ということと、神をおろすことができる、という能力の前に、打ちのめされて今すぐにでも倒れそうなんじゃないのか? 輝夜を助けるという美談にしかならない行為をして、自分に酔ってるだけなんじゃないのか? 正直になれよ姉ちゃん、痛い目にはあいたくないだろ。
どうして輝夜なんかを助けるために痛い目を見なくちゃいけないんだ、という考えが発生したとき、妹紅は自分の喉をかき切って、そこからあふれ出る血を視界いっぱいに映してやりたくなった。憎しみが消えない。心にこびりついたこの犬の糞程度の価値しかない感情が、何度も何度も甦る。どんなに意識を違う方向に持っていっても、あのくそ野郎はどこからともなく現れる。意思を少しでも弱くすると、簡単に飲み込まれてしまう。
依姫が刀を下ろした。それは妹紅をはっと我に返す。依姫は笑っていなかった。「ずいぶんと姫のことを庇うのね。あなたは姫のことを憎んでる、というような話を、ウサギさんから訊いたんだけど」
「じゃあそのウサギは嘘を言ってるな。私は輝夜のことを」そこで言葉が止まった。憎しみが止めやがったのだ。妹紅は一度きつく目を閉じ、開いてから続けた。「少しも憎んでないわ」
「そう」と依姫が言う。
しばし沈黙が訪れた。時間が来ちまうぞ大将、さっさと動けよ、と心が焦らせてくるが、妹紅は動けなかった。だが、動かなくてよかったみたいだ。依姫は近くにいた月の兵士を呼ぶと、そいつから鞘に収められたナイフを受け取った。鞘から引き抜かれた白銀のナイフは、成人の肘から指先までの長さで、けっこう厚手だ。それが今この場で重要なものである、というのはすぐにわかった。
「これは生命を断ち切ることのできるナイフなのよ」依姫は刀をしまいながら言った。「生き物の活動を停止させるの。つまり、不老不死だろうがなんだろうが殺せるナイフ、てことね。これの前じゃあ、いくら姫が永遠の存在だろうと、ただの凡人に成り下がるわ。月人がものすごい年月をかけて作り出したのよ」
「そんな果物ナイフで何しようってんだ」
「別に難しいことじゃないわ」そう言ってから、依姫は顔を気持ち程度下に向けた。「あなたはどうしても姫を助けたいのよね。それが嘘でないと言うのなら、今から私が言うことをできるはずよ」
妹紅は眉を潜めた。あの女はきっと、ろくでもないことを提案してくるに違いない。そう思ってる間に依姫は妹紅に近づききり、受け取れと言わんばかりに柄をこちらに向けた。そして、入試試験の問題を読み上げるかのような口調でこう言った。
「あなたの覚悟を試します。このナイフを自分の喉元に刺し、下腹部まで切り裂いて、管が繋がったままでいいので、自分の目の前に一つ残らず臓器を並べなさい。そのあと顔にある器官を全て取り、臓器の代わりに体に入れなさい。それで姫の罪は不問とし、私たちは引き上げましょう」
依姫の言っていることがさっぱりわからず、危うく妹紅は訊き返しそうになった。だが出てきた言葉はこれだった。「一体どこでそんな素敵なショーを見てきたんだい。中国か? テキサスか? それとも、お前の生まれ故郷って手もあるな。だがあいにくだけど私は芸が下手でね、あんたがお願いしてることを実現するのは、ちょっと骨が折れる」
「骨は折らなくていいのです。ただ、さっき私が言ったことをやってくれればいい」
「おいおいちょっと待てったら」妹紅は半歩下がった。自分の右のこめかみに汗が溜まり、それをきっかけにして、額や腋の下が湿っぽくなる。こちらに向けられているナイフの柄が、あの世の扉のドアノブみたいに見えた。臓器を並べろ? 顔を削げ? こんな面白くないジョークは、満月の夜の慧音だけで十分だ。「本気じゃないだろ」
「月人は嘘をつきません」
「だがな隊長、そのナイフは不老不死の人間も殺せるんだろう。それじゃあ、臓器を並べるなんて無理だ」それが自分の臓器だと思うと、ひどくぞっとした。「完遂する前に死んじまう。とてもとても現実的じゃない」
依姫の目がきつくなった。「あなたがもしやり遂げずに途中で死んだ場合、姫は処刑します。本当に姫を大事に思っているなら、死なないようがんばってということですね」
姫を大事に思っているなら。くそ、次から次へと人を惑わせる発言をしてくれる。大事には思っているさ、だが――だが、という言葉を使ったとき、激しい苛立ちが、今まで貯蓄され続けていたような苛立ちが、一気に炸裂した。胸の辺りが瞬時に熱で満たされ、めまいがする。今の妹紅には、だがもしかしもいらないんだ。輝夜を大事に思う、輝夜を守る。それ以外は必要ない。心を強く持て。隙を見せれば奴らが来るんだ。理不尽だなんだと騒いじゃいけない、ちょっとでも反発する心があれば、それは憎しみに変化して瞬時に意識を覆い尽くす。
だがな姉ちゃんよく聞け、と憎しみの部分が隙を見て声を上げる。そんなことをしても意味がないんだぞ。お前は依姫の言うことを実行したあとに、天国できっと後悔するだろう。結局輝夜を恨み続けることになるだろう。そんなこと絶対ない、と言いきれるのか? それは無理だ、お前には到底できない。
気がついたら、ナイフの柄を握っていた。そして自分でも驚くくらいずいぶん冷静に、それを受け取ることができた。お前は人生で最大の間違いを犯したぞ、と心の中で怒鳴る声があった。お前は昔誰かを蹴飛ばして、蓬莱の薬を盗んだな。そんな間違いなんかかわいく見えるくらい、お前は大変な間違いを犯した。今すぐそいつを離すんだ。それは名札に〝くそ忌々しい〟と書かれるべきものなんだ。そいつを離せ、捨てろ、捨てろったら。
依姫は表情を変えないまま、二歩ほど後退る。妹紅は脳内で喚く声を無視し、奴にこう訊いた。
「本当に輝夜の罪をなくしてくれるの?」
妹紅がそう訊くと、依姫はうんざりしたようにため息をついた。「月人は嘘をつきません」
両膝をついたとき、もう一度よく考えるんだ、と憎しみが怒鳴った。輝夜はお前の敵。お前は綺麗さっぱり忘れちまってるみたいだが、今一度よく思い出すんだ。お前はこれから死ぬほどの苦痛を味わおうとしているが、本当にもう手段はないのか? もう一度よく考えるんだ、思い直すんだ。
――いいや、だめだよ相棒、そりゃだめだ。体術でも妖術でも勝てる気がしない。いや、というより勝っても仕方が無いんだ。ここで勝ってもきっとまた、依姫みたいな強い奴が地上に来る。永遠に終わらない。そう考えると、依姫の提案は実に人間味溢れると思わないか。この私の体一つで、輝夜の罪を完全になくすことができるんだから。
――それは違うぞ姉ちゃん、全然違う、アフリカ大陸とアメリカ大陸ぐらい違っている。輝夜は助かっても、お前は助からないぞ。この世に溢れる痛みを凝縮したような苦痛を抱いたまま、あの世に行っちまうんだ。それに、途中で死んだら輝夜を殺すときた。いいか忘れるんじゃない、思い出すんだ、輝夜はお前の憎しみの対象なんだ。その憎い奴を助けるために苦痛と一緒に死ぬのは、アルフのぬいぐるみを友達と言って無理やりポップコーンを食べさせるより、むなしくてバカらしいと思わないか。
少しも思わないね――何よりも妹紅が嬉しかったのは、その言葉が今までで一番大きく、はっきりと思うことができたことだ。それは半ばやけくそに近かったが、はっきり思えたことには変わりは無い。そうだ、自分は憎しみに勝てるんだ。決して、奴らの呪縛から逃れられないわけじゃない。妹紅には心強い味方がいる。輝夜だ。輝夜を家に連れ込んだとき、輝夜と寝たとき、妹紅の心を一時でも殺意が覆い隠したことはあったか? いいや、そんなことはない。泣き顔を見て、輝夜が完全な人間であると認めたときから、もう憎しみ合いは終わっていたんだ。
妹紅はそっと振り向き、口をぽかんと開けたまま青褪めて棒立ちしている輝夜を見た。さすがの輝夜も、この依姫の提案には納得できないというわけか。このくそ忌々しいナイフは、依姫の言うことがはったりじゃないなら、自慢のリザレクションを過去の遺物に変えちまう。目の前で身内が、壮絶なやり方で自殺するところを見る気持ちを、輝夜は持っているのかもしれない。
「大丈夫」と妹紅は輝夜に言った。「ちゃんと守るから」
それは半分、確認するような意味合いもあった。そして言い終えたあと、自分の限界を超えたものだろうがなんだろうが、なんでもできるような気分になった。いつの間にか汗が止まり、平静になっていることに気付いたが、それは多分、心のうちの輝夜を守ろうという気持ちが憎しみを踏み潰し、体全体がその気持ちに賛成したからだろう。輝夜の弱々しい顔が思い出される。ちゃんと泣いたり困ったり、人間らしい感情を見せることができるんだ。輝夜を憎しみの対象として忘れちゃいけないのなら、そういう部分も決して忘れちゃいけない。
ナイフの切っ先を自分に向けた。その刃の鈍い光に怯えているのは、きっと輝夜をまだ憎んでいる部分に違いない。こいつを突き刺して、そのあばずれどもを殺してやろう、と決心した。それをするということは自分も死ぬということだが、死んでもいいんだ。憎しみが消えて、輝夜が助かるなら。妹紅は二、三度深呼吸をし、決心をすると喉にナイフを突き刺そうとしたが――
依姫が呆れたような、心底呆れたような声でこう言った。「姫、もういいでしょう」
妹紅の見ていた未来のヴィジョンは、血まみれになって泣きながら自分の臓器を目の前に並べる作業をする、という、気違いじみた残酷なものだった。依姫の言葉はそれらを一瞬にして打ち消し、死は確定的なものと思っていた部分を、邪魔なおがくずみたいに払いのけた。
喉を刺そうとする手はぴくりとも動かなかった。今すぐそこの部分を突き刺して、憎しみを殺さなければならない。その思いは初めこそ尋常でなく強かったものの、依姫の言葉のあと、しぼんで消えてしまうのは十秒とかからなかった。そんなことを気にする必要なんざもうこれっぽっちもないんだよ、と思うまでにかかった時間は、それよりもっとかかったけれど。
「そうね、もういいわね」
同意する輝夜の声が聞こえた。
ふいに力が抜けて、妹紅はナイフを首から離し、木の葉の上に手をついた。それから幾人か月の使者を見た。使者たちの顔からは厳格さは抜けていないものの、人間味が戻っており、数人顔を綻ばせている者もいる。質の高い、それも飛び切り難しい演劇をやり終えたあとの、楽屋裏の劇団員を見ているようだった。
わけがわからない――いや本当はわかっていた。依姫が喋り、輝夜がそれに答え、使者たちが緊張を解いたとき、脳内計算機はすぐにその答えを出した。そんなことがあってはならないんだ、と頑なに否定する心が、この状況を無理やりにでもわけわからなくしていた。だが、今は本音に〝こいつはバカです〟と刺繍された布を被せてはならない。いやな推測をしようが、それを切り捨ててはならない。つまり、その否定の心が一生懸命に職務をまっとうしたがっているのは、全ては輝夜の考えたことなんだよ、という予想を認めたくないからだった。
だが、次に輝夜の言った言葉で妹紅は、その予想が大当たりであることを思い知らされた。「ごめんなさいね、妹紅。怖い思いをさせちゃって。でももういいの。あなたがどれだけ私を大切に思ってくれてるか、嫌というほどわかったからね。迷惑をかけてごめんなさい。もう大丈夫よ、もう恐れることなんて何もない。全部最初から仕組まれてたのよ。死刑の話しも、争いの話しも、全部嘘。嘘なのよ。ありもしないことなの」
――仕組まれ? なんだその言葉は。どこで作った言葉なんだ? それは一体、どこの間抜けどもの巣窟で作った言葉なんだ。
「それに一つつけ加えるなら」と依姫は、妹紅からナイフを取り上げた。「このナイフの話しも嘘よ。姫の永遠もあなたの不老不死も、断ち切れるものは月にはないわ。これはただのナイフよ。だからあなたがもし自分の体を傷つけちゃったとしても、すぐに治るってわけ」
ふいに妹紅の心の中に、誰を対象にしていいんだかわからない憤りが沸いた。それは口調をぶっきらぼうにさせた。「お前たちの言っていることは、さっぱりわからないな」
輝夜が妹紅の前まで来てしゃがみ、罪悪感で満たされているような顔を向けた。「お願い妹紅、怒らないで。決して怒らないで。私たちはあなたをからかっていたわけじゃないの。これはとても大事なことなのよ。永遠亭の皆にとって、ね」
依姫が輝夜と同じようにしゃがんだ。「姫とあなたの殺し合いをやめさせるから、ちょっと手伝ってくれ。そう八意さまにお願いされたのよ」
「そう」と輝夜が言った。「永琳はね……、いや永琳だけじゃなくて、永遠亭の皆が、私と妹紅の日課を快く思ってなかったみたい。そりゃそうよね、自分たちが一生懸命隠して守ってる姫が、少々手ごわい奴と殺し合いをしてるなんて、歓迎できる内容なわけがないわ。でも永琳はね、殺し合いをやめさせることだけが目的じゃなかった。本当にやめさせたかったのなら、永琳が本気を出して、あなたを殺してしまえばいいんだからね。でも永琳はそうしようとはしなかった。それはね、私と妹紅に仲良くなってほしかったからなのよ。私の数少ない親友リストに、あなたの名前を載せたかったからなのよ」
輝夜が両手を伸ばして、妹紅の頬にそっと触れた。私の目を見て、私の言葉に偽りがないことを確認しながら聞きなさい、とでも言うように。「あなたは私のことを憎んでないって言ったわね。まだ少し憎んでる、とは言ってたけど、それだって大したものじゃないんでしょう。私はずっと前から気付いてたわ。あなたの攻撃を何百年も受け続けてきたもの、変化があればすぐにわかるわよ。それでね、いつもはたで見てた永琳にも、それがわかってた。心から憎んで攻撃してきてるわけじゃない、ってね。あなたはとても素直な子だけど、そうじゃない部分もある。だから、永琳はあなたのそうじゃない部分を素直にさせようとした。私と妹紅が仲良くなるように」
なんだか自分が一方的に輝夜を憎んでる、というような口ぶりに違和感を覚えた妹紅だが、それも当然だな、と思い直した。何せ、輝夜にはこっちを憎む理由がないんだから。輝夜はもしかしたら怖かったかもしれない。いきなり変な因縁をつけられて、殺しにかかられたら、普通の人間なら絶対に不安になる。そして、輝夜は普通の人間だ。
そこまで思考が進んだとき、妹紅は自分の心に巣食っているはずのどす黒い感情が、少しも喚かないことに気付いた。きっと死んだに違いない。またいつか蘇るかもしれないが、今だけは確実に断言できる。奴らは死んだのだ。それは妹紅にとって、祝福すべきことだった。
「あなたが私を家に泊めてくれたのは、想定内だったわ」輝夜は固い笑みを浮かべた。「あなたが私を親の仇みたいに憎んでいたら、成功しなかっただろうけどね。でもそうじゃないと思っていたからこそ、永琳は私をあなたのところに送ったのよ」
親の仇か、と妹紅は思った。まあ、はずれじゃない。
輝夜が妹紅の両手を組ませ、それを自分の両手で包んだ。そこに目を向けながら言った。「妹紅、訊かせてほしいんだけど……。あなたは本当に、私のことを少しも恨んでいないの?」
「当たり前だ」即答できた。そして次に来るはずの憎しみの部分の反発に身構えたが、不自然に思えるくらいそいつらは静かだった。そのときはっきり気付いた。それは神の啓示にも似た、強烈なほど鮮明なものだった。憎しみは二度も、妹紅の思考を悪い方向に動かそうとはしなかった。つまり、奴らが生き返ることは永遠に無い。奴らは完全に死んだということだ。輝夜を守るために血みどろになる、と決意したときに、奴らはその腐った体を墓場の中に入れたのだ。
「どうして?」相変わらずぎこちない笑みを浮かべたまま、輝夜が訊き返してくる。しかし妹紅は気にしなかった。まず、理解してくれることが最優先だ。自分の心に、憎しみとかいう暗雲は少しもない。空気の澄んだ美しい青空が広がっているだけなんだ。それを伝えなくちゃいけない。
「だから、前も言ったでしょ」妹紅は輝夜の手を包み返してやった。「お前が人間だからだよ。絶対にわかり合えない、正体不明の化け物じゃないからだ。そして、お前は友達でもあるんだ。友達をいつまでも憎んでいるわけにはいかないでしょ」
これは本心だ、と自信を持って言える。妹紅の意思をぐらつかせるような言葉は、心の隅にも思いつかない。心の中は完璧だった。今の妹紅の体にはどこにも、この完璧さを崩す要因はない。
だが、その完璧さは、意外なくらいあっけなく穴を開けた。視線を下に向ける輝夜が、その穴を開けてくれたのだ。笑うことをやめた輝夜は、癌の治る薬を作ると言われ、期待して待っていたのに、死ぬ寸前になってやっぱりできなかったよ、と言われたときのような、ひどく疲れ切ったような顔になった。妹紅には、輝夜がそんな顔をする意味がさっぱりわからなかった。どんな予想も立たなかった。そしてそれは、ようやく安らぎの地に辿り着こうとしていた妹紅を、再び不安の中に突き落とした。恐ろしくなって輝夜の手を包む自分の手に力を込めた。しばし沈黙が訪れたあとに、輝夜がようやく喋り出した。
「私はね、反対したのよ。永琳の言うことに。でもこれは永琳だけのお願いじゃなく、永遠亭皆のお願いだったの。だから反対しきれなかったわ」輝夜はそこで言葉を止める。何か考え込むような間を空けると、続けた。「朝起きてから、私はずっと、あなたに本当のことを言おうかどうか悩んでいたわ。これはとても重い問題なんだって。でもね、言えなかった。これを聞いたら、あなたは今すぐ私の手を取って逃亡生活を始めるだろう、て思ったから。でも月人からは逃げられやしない。あなたも私もイナバも傷つくだけで、誰一人得なんてしないの」
「だから」と妹紅は輝夜の話をさえぎった。「何が言いたいのか、さっぱりわからない」
「あの手紙のことを覚えているかしら」輝夜が言う。「あれには本当は、こう書かれてたのよ。〝姫と八意様、あなたたちを今晩連れて行きます。抵抗しても無駄です。今からどこかへ逃げようとしても無駄です。恨まないでください〟ってね」
そのあと輝夜は依姫の方に振り向き、あんたも何か説明しなさい、とでも言うように顔を合わせた。依姫は了承したように頷いて、一歩前に出た。「私たち月の使者がここにいる理由はね、八意様に呼ばれたからではないのよ。そしてさっき処刑は嘘だと言ったけど、姫を捕らえることは嘘ではないの。私たちの目的はね、姫と八意様と、そのほかのイナバたちを捕らえ、月に帰すこと。月に侵略に来た地上人を送り返したあとに、永遠亭の場所を知っている、てうちのレイセンが言ったとき、八意様たちを連れ帰す案がすぐに出たわ。いくら使者を殺したといっても、大事な月の創設者と姫ですからね。あなたたちが最初の使者を殺して行方をくらましてから、ずいぶん年月は経ったけど、連れ戻すのを諦めたわけじゃなかったのよ。だから私たちはここにいる。ここまでオウケイね?」
「いや、ちょっと待て」妹紅は依姫の方に顔を向けた。「お前たちの言っていることを要約すると、つまり、輝夜たちが月に里帰りするってことなのか? 処刑されはしないけど、月に帰って、もう二度と幻想郷には来ないってことなのか? もっと甘めの嘘はないのかい。私はミルクチョコが好きなのよ、激辛トウガラシなんて死んでも嫌だわ!」
「嘘ではないので、チョコが好きと言われてもどうしようもないわ」
依姫は腕を組んだ。困ってるみたいだった。輝夜が喋ったのはその数秒後だ。「ごめんなさい妹紅、これだけは断れなかったの。依姫はね、永琳に言ったの。どうしても月に帰らないつもりなら、月の兵力を全部かき集めて、永遠亭を叩き潰すって。それは本気なのよね、依姫」
輝夜が後ろを振り向くと、依姫は頷いた。「本気ですよ」
「困ったものね」輝夜は向き直ったが、その目線は下だった。「イナバたちの命が危ないと思った永琳は、依姫の言う通りに月に帰ると決めたわ。でも、永琳は使者たちにお願いをしたのよ。私と妹紅を仲良しにするためにちょっと協力してくれ、月に帰すのはそのあとにしてくれって。それでこの素直な子たちは、言うことを聞いてくれたの。本当なら昨日の満月の夜に、私たちはいなくなっていたのよ」
「尊敬する八意様のお願いじゃあ、断るものも断れませんよ。別に私たちの命に関わるようなことでもないしね」
「それで永琳の願い通り、あなたと私は仲良しになれた」今や輝夜の顔は、ちょっと突っつけば涙が出そうなくらい情けなくなっていた。「でもそれは私の望んだものじゃなかったわ。別に妹紅のことが大嫌いだから、じゃないの。妹紅のことは気に入ってるわ。でも妹紅には、私のことを恨んだままでいてほしかったのよ。そうしないと、私はこれからずっと月で、あなたのことを思ってのた打ち回ることになるでしょう? どうせあいつは私が月に帰ったって、喜んでいるだけ。そう思っていた方が気分は沈まないし、あなたのことをすぐに忘れることができるわ。私は、あなたのことを思って永遠に苦しむだなんて、そんな地獄の責め苦みたいな目にはあいたくないの。あなたもそうでしょ、妹紅」
「いいや」と妹紅は強めの声で言った。「そんなことはないぞ。私にとっては、そんなの責め苦でもなんでもない。お前を忘れることのほうがよっぽど地獄だ。お前を永遠に忘れちまうことのほうが、比較的地獄の責め苦に近いぞ」
そのあと妹紅は輝夜の頭を掴み、自分の顔に引き寄せた。キスできるぐらいの距離まで近づけると、こう言った。「お前は地上にいたいのか? ああ、嘘は言うなよ輝夜、嘘か本当かは大抵顔に出るもんだ、これだけ近づけばすぐにわかるんだからな。さあ言ってみろ輝夜、お前は地上にいたいのか?」
「もちろんいたいわ」輝夜はもう泣き出していた。その顔を見ながら、もしかしたら、と妹紅は、昨日の晩のことを思い返した。あのときの輝夜は嘘泣きをしていたのかもしれない、妹紅を信じ込ませるために。もうこれと言える理由なんて想像できはしないけど。しかし、今ははっきり言える。輝夜は今、心から悲しくて泣いているのだ。今この場に、依姫や月の使者たちも含めて、虚飾だなんてくそったれなものを纏っている奴は存在しない。
ふと妹紅は、輝夜が病気で弱りきった小鳥みたいに儚く見え、哀れな気持ちになって抱き締めてやった。鼻詰まり気味の震えた声で輝夜が喋り出したのは、ずいぶん時間が経ったあとだった。
「地上には素晴らしい人が大勢いるもの、離れたいわけがないわ。私が月を見ていたのはね妹紅、月が忌々しくて仕方なかったからよ。月なんか消えちまえ、て呪ってたのよ。あそこにいる奴ら、一人残らず死んじまえって。そう呪わずにはいられなかった。あんなところになんて帰りたくないわ、私は地上にいたいの。妹紅みたいないい人が大勢いる地上に、いつまでもいたかったのよ。でももうだめだわ、私はここにはいられない。私がわがままを言えば、永遠亭の人たちが悲しむもの。永琳やイナバたちは、私の大切な家族よ。一人も悲しい目にはあわせたくないわ」
上で鳥の鳴く声が聞こえた。朝起きてから初めて聞いた動物の鳴き声だ。それは耳障りな羽ばたき音を一回立てると、どこか遠くに行ってしまった。再び沈黙が竹林を包み込む。いい加減耳鳴りがうっとうしいな、と妹紅が思い始めたとき、輝夜が腕の中でもぞもぞと小さく身をよじった。腕を離してやると、輝夜は妹紅から離れ、ほんのりと朱に染まった頬と、充血した目を向けてきた。
「まあとにかく、これだけ言わせてちょうだい。家に泊めてくれてありがとう、妹紅。楽しかったわ。惜しむらくはあなたの手料理を食べられなかったことね」
それを連れて行く合図だと受け取ったのか、依姫が輝夜の肩を支えて、立ち上がらせた。依姫の顔は、これをやるのはまずいような気がするが、とりあえず命令だから仕方ない、とでもいうような表情だった。妹紅はすぐに立ち上がると、輝夜の右手をぐっと握った。
「私はお前のことを、もう少しも憎んじゃいないからな。お前のことを毎日考えてのた打ち回ってやるから、お前も私のことを考えて苦しんでくれよ。それで、私の面と声を忘れないでよね。永遠に覚えてていてよね。私もお前のその憎たらしい面を、脳味噌が完全になくなるまで忘れやしないからさ。これで公平だろ?」
「そうね、公平だわ」輝夜は一度目を拭い、鼻をすすった。「早く永琳に、あなたが私のことを少しも憎んでいないことを伝えたいわ。きっと喜ぶに違いないもの、姫に友達ができたって」
「それも大親友だ。一日限りだったけど」妹紅は笑ってやりたかったけど、うまくできなかった。
「素直に受け入れてくれて感謝するわ」依姫が言う。「もしも抵抗したなら、私は神でもなんでもおろして、あなたを痛い目にあわせたかもしれないんだから」
本当は抵抗したいさ、と妹紅は思った。でもね、どうせやられちまう。運良く全員倒してこの場を逃げれたとしても、月人は決して諦めはしないだろう。奴らは何度でも人員を送り込む。それから逃げる生活が永久に続くんだ。それは妹紅にとっても輝夜にとってもよくないことだ。それにイナバたちが、輝夜の家族たちが人質にとられてる。奴らを危険にさらすわけにはいかない。となれば、依姫の言うことに従うしかないのだ。
「さよなら、妹紅」と言って、輝夜がにっこりと笑った。妹紅が激しく後悔をしたのは、うまく笑顔を返してやることができなかったからだ。言葉も返せなかった。言いたいことを決められなかった。これが話しのできる最後の瞬間なんだ、と決め付けると、喋る内容がどれも大切に思えて、何も話せなくなるものなのだ。
依姫が輝夜の肩を支えながら、妹紅の側を通り過ぎた。すれ違うときに会釈をしたのが見えたが、これにもやっぱり何も返せなかった。月の使者たちがゆっくりと動き出し、依姫と輝夜を囲う。妹紅は振り向いて、棺桶を囲ってる葬儀の列みたいなその集団を見送った。輝夜はこっちに振り向きもしなかったが、その腕がずっと涙を拭い続けているのだけはわかった。永琳はあの姿を見て、どう思うんだろう。一瞬、輝夜の泣き顔を見て考えを変えてくれるんじゃないか、と妹紅は永琳に期待したが、今さらそんなことを考えたって悲しいだけだ、とすぐに思い直した。とにかく、命のないオブジェクトみたいにその場に突っ立って、竹の群れの奥に静かに消えていく二十人ほどの集団を眺め続けた。最後の一人の後姿が消えてなくなったあとも、見つめ続けていた。
空は憎らしいくらい晴れていた。空気は澄み渡り、太陽の光は地上を満遍なく照らしている。微風が吹き、竹が揺れて頭上で葉の擦れ合う音がした。この中で、妹紅は一人ぼっちだった。感情豊かな月の姫も、やたらと強い月の使者のリーダーも、ごつい顔のその部下たちもいない。なんだか、閉鎖された遊園地のど真ん中に突っ立っているみたいな心地がして、寂しくて仕方なくなった。
非常に長い時間が経ったあと(それは本当はほんの数秒の間だったけど、妹紅には、人類が生まれてから知能を得るぐらいまでの時間に感じられた)、妹紅はそっと振り向いて自分の家に向かって歩き出した。
家に入って廊下の端に座り靴を脱いだあと、唐突に泣きたい衝動に襲われ、妹紅は顔を覆った。それは極限まで腹が減ったときに感じる食欲や、三日間一睡もしなかったことにより感じる睡眠欲よりも、数倍は強い衝動だった。
「ちくしょうだ」妹紅は言ったあと、自分の声が全身の筋肉が衰えた病人みたいに震えていることに気付いた。自分は今泣いている。輝夜が自分の側から消えてなくなり、どんなにあがいても手の届かないところへ行ってしまったことが、悲しくてどうしようもなくて泣いているのだ。今日妹紅は、輝夜との間にあった隔たりの壁を叩き潰した。しかしそのあと間も入れずに、親友同士としてようやく二人で楽しみ合える時間を一秒も入れずに、輝夜は月に帰ってしまった。これを悲しまないで、一体どんなことを悲しめというのか。
月に帰るだなんて余計なものはつけず、昨日の晩から今日の朝までに起こったことが、全て輝夜のからかいだったらどんなによかっただろう。嘘泣きしている輝夜を本気で心配している妹紅を見て、嘘の処刑の話しを本気で信じている妹紅を見て、嘘にすっかり騙されて自分を守るために体を切り刻もうとした妹紅を見て、心の中でくすくす笑ってくれていたなら、どんなによかったことか。少なくとも、輝夜が月に帰ってしまう、だなんてひど過ぎる結末なんかよりはよっぽどいい。妹紅はこのときほど、運命の神様を殺したくなった時はなかった。神様には勝てないかもしれないが、それでもこの殺意は抑えきれない。
五分ほど経ったあと、妹紅は立ち上がり、熱の下がり切っていない人のようなふらついた足取りで寝室に向かった。疲れがどっと押し寄せてきて、どうしようもなく眠りたくなったのだ。もはや掛け布団をめくることすら面倒くさく、その上に突っ込むように倒れこんだ。
目と頭がずきずきして痛かった。きっとこの痛みは、これから先もずっと続くことになるんだろう。それが悲しいことなのかどうかは判断がつかなかったけど、輝夜のことを覚えていられるのなら、それもまたいいような気がした。鬱との戦いの日々になって、もしかしたらその中で自分の心を壊してしまうかもしれない。だがそんなのに恐れちゃいけない。こう考えると憎しみが反発しそうな気がしたが、やはり奴らは何も喋らなかった。輝夜のために苦しみを背負うこと、それに中指を立てる奴は、もう妹紅の中にはどこにもいない。それは嬉しいことだった。しかし笑うことはできなかった。布団に顔を押し付け、ただそれに涙を吸わせ続けた。
そうしているうちに、いつの間にか妹紅は眠りに入っていた。
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夢は見たような気がするが、まったく覚えていない。最近、いつもそうだった。自分の記憶力が乏しいのか、それとも頭に刻み付けられるほど鮮明なものでないからか。ともかく、夢は見なかった。意識は深い闇の中に沈んでいた。だから最初、自分を呼ぶ優しくて母性溢れる甘ったるいその声が、ここより遥かに遠くの方から発せられたのかと思った。しかしそれは、ずいぶん近かった。暗闇の中をさまようのをやめ、うっすらと目を開けたときに妹紅は気付く。夜になったのか寝室が暗闇に包まれていたことと、自分の名前を呼ぶ人は、とんでもなく近くにいるということに。自分の肩が揺さぶられたのがその証拠だ。そして妹紅は、その手の暖かさと甘ったるい声が誰のものだかを知っていた。知らないはずがなかった。
妹紅は目を見張る。自分の頭がおかしくなっていないことと、生まれてから一度も麻薬をやっていないことと、そしてまどろみから完全に醒めていることを確認してから、右側に顔を向けた。そこには思った通り、輝夜がいた。ぺたりと両膝を畳みにつけ、袖で口を隠して微笑んでいる。日曜の朝に、小さな子供を起こそうとする母親みたいに。
冷静に考えるならこれこそが夢ではないか。妹紅は輝夜に釘付けになり、硬直しながら思った。妹紅の記憶が正しいなら、輝夜は今日の朝に月の使者に連れられ、生まれ故郷に帰ってしまった。そしてそこで永遠に暮らしているはずだ。これは夢なのか、それとも今日の朝の出来事が夢だったのか、もしくは月に帰ったというのが、妹紅の勘違いだったのか。
夢ではないような気がした。自分の魂はしっかり、体の中に入っている。あのふわふわとした、宇宙を漂ってるような感覚はない。となれば幻覚か。妹紅は右手を伸ばし、輝夜の左手首を掴んだ。柔らかな肉の感触が手に広がり、その皮膚の下で、脈がゆったりとしたリズムで動いているのがわかる。これほどリアルな幻覚なんてあり得るだろうか。いいや、そんなことはない。今目の前にいるのは、自分の脳が無理やりに作った虚像なんかじゃなく、実際に存在する完璧なたんぱく質なのだ。
「おはよ、妹紅」輝夜が喋る。空気の振動を伝わって耳に入ってきたその声は、決して脳内で再生されたものではない。
嬉しいと思えばいいのか驚けばいいのか判断できず、声すらあげることができなかった。頭の中がごちゃごちゃし、この場でもっとも適切な言葉が一つも思い浮かばない。そんな妹紅の混乱を見て取ったのか、輝夜が苦笑して言った。
「驚かせてごめんなさいね、妹紅。実はね、私たち追い返されちゃったのよ。穢れが強すぎるって言われてね。月人たちは穢れが強い奴らと接触すると、色々と不都合が生じるのよ。だから姫と月の都の創設者といえども、月の社会に入れるわけにはいかなかったのよね。まったく、連れて行こうとしたり追い返したり、忙しい連中よね」輝夜はくすくす笑った。「地上に長くいて、穢れ放題穢れてよかったわ。奴らももう私たちを追いはしない、って言ってるし、もう厄介ごとは何もないわ」
輝夜の言っている言葉の意味が飲み込めたとき、ようやく妹紅は笑うことができた。心の隅々まで、一切の不安がなくなったときに出てくる笑いだ。輝夜の笑顔にも隠し事をしているような部分はない。昨日の晩に出会って、二人は初めて笑い合うことができたのだ。妹紅は運命の神様に殺意を抱いたことを詫びたくなった。そして感謝した。輝夜を私の元に返してくれて、ありがとうございます神様。都合が悪くなったときに依姫が呼び出したりしますが、めげずにがんばってください。
「永遠亭の皆もちゃんと帰ってこれたの?」生まれてこの方、いや前世でさえもこんな素晴らしいものには出会えたことがない、というような口調で妹紅が言うと、輝夜はすぐに頷いた。
「もちろんいるわ、皆居間で焼肉をやってる。数が多すぎるから、イナバたちには永遠亭で餅つかせてるけど、そのうちそれ持ってやって来ると思うわ。許可取らないで勝手に食材使っちゃってるけど、怒らないでね」
そんなものを気にする必要なんてまったくなかった。永遠亭の皆が何事もなく地上に戻り、ここにいる。それは、家の屋根を吹き飛ばされても笑って許せるくらい、素晴らしいことだった。妹紅は体を起こし、輝夜の手を取って一緒に立ち上がる。確かに、ふすまの向こうからは楽しそうな、はしゃぐような声がいくつも聞こえてくる。自分も今すぐこれに混ざらなくちゃいけない。
太陽みたいに明るい電気で照らされている居間は、パーティでもしているかのような活気に満ち溢れていた。その場にいる全員が笑っている(永琳は出入り口に背を向けるところにおり、鈴仙はその右隣、てゐは台所に背を向けるところにおり、反対側に依姫と知らない金髪の女がいる)。ちゃぶ台の上に置かれたロースターに、鈴仙と一緒に肉を乗っけている永琳。生の肉を鈴仙の皿に入れ、そこからうまそうに焼けた肉を取るてゐ。そして一番妹紅が驚いたのは、優しげな顔をした金髪の女と依姫が、二人仲良く正座して、肉をもしゃもしゃ食べていたことだ。
「あら、起きたのね」永琳がこちらに笑顔を向け、言った。そして鈴仙と、てゐと月の使者の二人が、こちらに顔を向けて微笑む。「勝手に道具とか食材使っちゃってるけど、怒らないでちょうだいな。こんなにめでたい日なんて、何千年振りかわからないもの。大目に見てくれる?」
「もちろん見るさ」妹紅が言うと、嬉しいわ、と永琳が笑った。しかしそれより気になったのが、あの金髪の女だった。その女をじっと見ていたので胸中を察したのか、輝夜が横で言った。
「あれは綿月の姉の、豊姫よ」
へえ、と頷いてから、妹紅はその二人に近づいた。「あれ? あんたたち、どうして永琳たちと一緒にいるの」
綿月姉妹は決まりが悪そうな顔をして、妹紅を見つめた。喋ったのは依姫の方だった。「実はですね、度重なる地上人との接触のせいで穢れが溜まってしまい、リーダーを下ろされてしまったのですよ。情けないことですよね、朝方偉そうにしておいて」
「私はその姉ってことで、ついでにクビにされてしまったわ」豊姫が言い、肉を口に運んだ。「穢れって厄介ね。でも焼肉うまーい」
永琳が笑った。「まあいいじゃない、二人とも。こうやって皆で仲良く焼肉ができるんだから」
そうですね、と綿月姉妹は二人同時に言った。そのあとに永琳の笑顔は、妹紅の方に向いた。「藤原さん、姫、さっさとあなたたちも混ざりなさい。あなたたちはもう、大切な友達同士なのでしょう。それなら、二人仲良く肉をついばむことができるはずよ」
妹紅は後ろを振り返って輝夜を見た。輝夜は妹紅の手を取ると、永琳の反対側に行き、二人一緒に座った。「ねえ妹紅」と何かを探るような目で輝夜は言った。「ちゃんと、私のことを考えてのた打ち回ってくれたのかしら」
自分の顔が熱を持つのを、妹紅は感じた。「今そんなこと訊くなよ」
「あらごめんなさい」輝夜は心の底からおかしそうに、ふふふと笑った。そうしながら妹紅の手を握り、何かの誓いをするようなまじめな声で言った。「まあなんやかんや色々あったけど、これからも二人で仲良くやっていきましょう。妹紅は私の大切な友達だし、あなただって、私が大切な友達のはずよ」
「その通りだよ。だからお前も、もう自分のことを憎んでくれとか、そういうこと言わないでよ」
「二度と言わないわ」
輝夜が笑ってそう言ったあとに、鈴仙がはしゃいだような声を上げた。「姫と藤原さんが仲良しになったって話、本当だったんですね! よかった、これで永遠亭も平和になるわ。もう血だらけの姫の服を洗濯する必要がないんだ、て思うと、泣けてくるわよ。うん、なんだかめでたくて仕方ないわ。だけど私のお皿は、全然めでたくないみたい。どうして生肉ばっかり入ってるのかしら!」
最後の方はてゐに向けられたものらしい。てゐは肉をもしゅもしゅ食いながら言った。「兎の妖精が入れ替えたのよ」
「食べ物の恨みは恐ろしいわよ!」鈴仙がちゃぶ台をばんばん叩いて言うと、依姫が腰だけを浮かせて、これこれやめなさい、行儀悪いわよ、とたしなめた。しかしなおも鈴仙が何か訴えているので、豊姫が立ち上がり、その皿に自分の肉をいくつか入れてやった。すると鈴仙は瞬時に嬉しそうな顔になり、「妖精って本当にいたのね!」と言った。それを見て永琳が大笑いし、私のもあげるわ、と言って焼けていないキャベツを鈴仙の皿に大量に入れる。鈴仙はまたも情けない声を上げた。
妹紅は自分が、心底楽しくて笑っていることに気付いた。パーティの中心人物になったときよりも、生涯で一番うまいものを食える瞬間よりも、これは楽しくて素敵なことだった。これはきっと、輝夜を恨むことをやめた妹紅に対する、天からの贈り物に違いない。神様が一人でも妹紅のことを見ていたら、の話しだけど。
やがてイナバの兎の群れが、酒瓶と餅を入れた袋を持って妹紅の家の戸を叩きにやってきた。妹紅の家じゃ収まりきらなくなった焼肉会は、バーベキューコンロを物置から引っ張り出し、外で行われることになった。
妹紅は輝夜と縁側に座って手をつなぎ、二人で一緒に空を見上げた。月は今日も輝いていたけど、右側がちょっと潰れている。それでも綺麗だ。あそこで崇められる月の姫。なんて贅沢な奴なんだろう。でもまあ、もう穢れきった姫を連れ戻しに来る奴はいない。輝夜はずっと、自分の側にいてくれる。唐突に月に帰って妹紅を悲しませることは、永遠にない。
輝夜が妹紅の手を少し強く握り、あんなのもうどうでもいいわ、とでも言うように笑った。それから言った。「それにしても妹紅、依姫に体を切り裂け、て言われたときのあの迷いのなさ、格好よかったわねえ」
「何言ってんだ、ずいぶん迷ってたぞ」妹紅は言う。そしてあのときのことを思い出し、ちょっと恥ずかしくなった。「でもお前を守るためなんだ、躊躇なんてしてられないだろ」
「一昔前のあなたじゃ、考えられなかったわね」
「そうだね。お前の人間らしいところを知らなかった頃じゃあね」妹紅は肉を口に含んだ。「分かり合えるっていいことだよね。こんな楽しい思いができるんだからさ」
輝夜は微笑みながら、ずっと妹紅の顔を覗き込んでいた。まるで、私のこと好き? とでも訊いてきているかのようだ。それに答えるのは恥ずかしいなんてものじゃなかったので、妹紅は知らないふりをして肉をもしゃもしゃ食べ続けた。
腹が痛くなるまで肉を食い、酒を飲んで酔いつぶれ、イナバたちを振り回して遊んでいるうちに、夜が明けてしまった。慧音が暇潰しに妹紅の家に遊びに行ったとき、虐殺の現場でも再現しているかのように倒れている、イナバたちと永琳たちと妹紅を見て、どうしていいかわからず一時間ぐらいあたふたしていたとか。
こういう文章ものすごい好みだなあ
そして輝夜が帰った所で泣きました。
何と言うか…話に引き込まれ過ぎて、まだ話が続いてるんじゃないかと錯覚しています。久しぶりに物語が終わった後の喪失感というものを思い出しました。
会話や表現が特徴的ですが、むしろ好みです。もこたんかっこいいし輝夜可愛いし、全くもって作者にパルパルです。創作のお手本にします。
確かに特徴的な文章だったけど、物語の内容に合っていて良かったと思った。
「お前を忘れることのほうがよっぽど地獄だ」の文章で泣きそうになったww
次回作も期待しています。
話もかなり納得できるものだったし、これは文句なしの100点ですよ……
てか、明日普通に学校なのにこんな時間までぶっ通しで読んでた俺って……www
しかも6・70年代あたりのアメリカっぽさ
素直に巧い
良かったです。
とてもとてもいい話だ
ただスキマ少女が笑顔でホームに向かいいれてくれるとは
どうしても思えなかったのです・・・
泣かせて頂きました
妹紅も輝夜も最高でした!>10さんも書いてるが「お前を忘れることのほうがよっぽど地獄だ」で泣いた。号泣した。