Coolier - 新生・東方創想話

十六夜の月

2009/06/14 16:59:20
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「おつかれさま、めーちゃん」

「ありがと、さっちゃん」


 最初にそう呼び合ったのは、果たしていつのことだったのか。
 
 闇夜に浮かぶ、円い月を眺めながら、美鈴はふとそんなことを考えた。
 振り返ってみれば、もう随分長い時間が流れたような気がする。
 でもそれは、もっと後になってみれば、あっという間だったと思える時間になるのかもしれない。

 約束の時刻までは、まだ少し時間がある。
 美鈴は暫しの間、昔のことを思い出してみることにした。

 今宵は、十六夜。
 完全な円のように見えるけれど、実はほんの少しだけ欠けている。
 そんな月を、眺めながら。



 あれは今から、十五年も前の話になる。
 その頃の美鈴の仕事は、一言で言えば激務だった。
 館の内外の雑務を一手に引き受け、昼も夜もなく働いていたのだ。
 妖怪である彼女は、生理的な意味においての睡眠は必要としない。
 しかしそうは言っても、心の休息は必要だ。
 たまには精神に安らぎを与えなければ、いつか心が壊れてしまいかねない。
 だがこの館が恒常的に人手不足なのも事実であって、自分を除けば従者らしい従者は妖精メイド達しかおらず、比較的単純な作業しかこなせない彼女達の能力を鑑みると、結局、館における大部分の仕事は自分がこなす他なかった。
 侵入者を阻むための門番の仕事に始まり、庭の草花の手入れ、館内の掃除、さらには炊事・給仕に至るまで。
 とにかく、仕事の名の付くものの殆ど全てを美鈴ひとりでこなしている状態であった。
 しんどい。疲れた。休みたい。
 そういう気持ちがなかったといえば嘘になる。
 しかしそれでも彼女は音を上げなかった。
 それはひとえに、主への忠誠心が故であった。
 ただそれだけで、彼女はどんな激務にも耐えることができていたのだ。

 そんな、ある日の夜。

 門番の任に就いていた美鈴の視界に、うすぼんやりと小さな影が映った。
「…………侵入者?」
 目を凝らしてよく観察する。
 幸い、今宵は綺麗な月が円を描いている。
 その明かりで、その影の輪郭が浮かび上がっている。
「……小さい」
 美鈴が認識したとおり、それは実に小さい影だった。
 ふらふらとおぼつかない足取りで近付いてくるそれは、どうみても、この館を侵略しようなどという血気盛んな雰囲気ではない。
 やがて影の姿形がはっきりと視認できるに至ったとき、思わず美鈴は声を漏らした。
「……子ども?」
 そう。
 影の正体は、紛れもなく子どもだった。
 人妖の別は定かではないが、その幼い外見から判断する限り、子どもと分類して差し支えなかった。
 その子どもがふらふら、というよりは朦朧とした歩みで接近してくる。
 さてどうしたものかと美鈴が考えていたそのとき。
 ばたっ。
 門から約十メートルほどの距離で、その子どもは地に伏した。
「あらら」
 美鈴はぽりぽりと頭を掻きつつ、地面に横たわる小さな侵入者――正確には侵入未遂者――に近付いた。
 その容姿から判断する限り、どうやら女の子のようだった。
 衣服はひどく汚れ、ところどころが破れており、顔や手足など、露出している肌の部分はあまねく黒ずんでいた。
 まるで浮浪者のようだった。
 いや、本当に浮浪していたのかもしれないが。
「どうしたもんかねぇ」
 腕を組んでうーんと唸ってみても、少女が起き上がってくる気配はない。
 よくよく見れば、手足はやせ細っており、頬もこけている。
 もう何日も食べていないのかもしれない。
 このまま放っておいたら、ほぼ間違いなくお陀仏だろう。
「仕方ないか」
 観念したような表情で、美鈴はその子を抱え上げた。


「何だ、そいつは」
 夜のバルコニーでワイングラスを傾け、優雅なひとときを過ごしていた館の主、レミリア・スカーレットの機嫌は悪かった。
 というのも、目の前の従者は何やら見たことのない物体を抱えており、それにより、今から少なからず煩わしい思いをするであろうという運命が視えてしまったためだ。
「えっとですね、先ほど、門の前で行き倒れたようでして」
「人間か?」
「あ、はい。おそらく」
「なら捨てて来い。紅魔館に人間は不要だ」
「いや、でも……」
「それともまさかお前、そんな薄汚い餓鬼を私に献上するとでも言う気じゃあるまいな」
「そ、そんなつもりは」
「ふん。ならとっとと捨てて来い」
「…………」
 美鈴は黙って、腕の中の幼子を見下ろした。
 妖怪と異なり、人間の年齢は概ね見た目に比例する。
 その見た目から判断する限り、この子はせいぜい四、五歳といった頃合だろう。
(どうしよう……)
 美鈴は悩んでいた。
 こんなに幼く、それも衰弱しきっている子どもを外に遺棄すれば、きっと半日ともたないだろう。
 あるいは、腹を空かせた低級妖怪の餌食にならないとも限らない。
 かといって、主に捨てて来いと命じられた以上は、従者たる彼女がそれに抗うこともできない。
 美鈴は、進退両難の窮地に立たされてしまった。
 そんな美鈴の耳に、救いの一声が届いた。
「ねえレミィ。その子、ちょっと普通じゃないわよ」
 親しげな口調でレミリアに話し掛けたのは、知識の魔女、パチュリー・ノーレッジ。
 この館の客分、もとい居候であり、レミリアの親友だ。
 今はレミリアの隣で、宵酒に一杯付き合わされていたというわけだ。
「普通じゃない?」
「ええ。若干だけど魔力を持っているみたい。人間には違いないけど、普通の人間ではないわ」
「へぇ」
 先ほどとは打って変わり、レミリアの眼は興味で彩られていた。
 椅子から立ち上がり、美鈴に抱きかかえられている少女を見る。
「ほう、確かにちょっと変わってるね。私の知る限り、こんな髪の色をした人間はいない」
 そう言いながら、少女の髪をそっと撫でるレミリア。
 埃にまみれ、薄汚れてはいるものの、少女の髪は確かな銀色をしていた。
「魔力を帯びた人間は、得てして見た目も通常とは異なるものになる場合が多いわ。その子の能力が何であれ、外見に明らかな影響を及ぼすほどだから、それなりの力は持っているんじゃないかしら」
 椅子に腰掛けたまま、ワイングラスを口に運びながら、パチュリーは落ち着いた声で話した。
「なるほどね、面白い。こいつに興味が沸いた。美鈴」
「あ、はい」
「今日からこいつをお前に任せる」
「え?」
「こいつの力がこの館にとって有用かどうか、お前が見極めなさい」
「あ、は……はい!」
「もし使い物にならないと分かったら、その時点で喰ってしまってもいい」
「あ、はい……って、た、食べませんよっ! 何言ってるんですかっ」
「くくっ」
 顔を赤くして抗議する美鈴を見て、心底楽しそうに笑うレミリア。
「まったく、もう……」
 苦笑混じりに呟きながらも、美鈴の表情には安堵の色が浮かんでいた。
「……ま、そういうことになったから。とりあえずよろしくね」
 腕の中で眠る少女に、そっと語りかける美鈴。
 こうして、美鈴と少女の生活が始まった。


 その翌日。
 ぼんやり眼で目を覚ました少女に、美鈴はありったけのご馳走を振る舞った。
 突然の光景に、最初は面食らっていた少女だが、やがて自分の身体が衰弱しきっていたことを思い出したのか、獣のような勢いで食物にかぶりつき始めた。
 それは実に見事な食べっぷりで、見ている者を気持ちよくさせるほどであった。
 しかしあんまり際限なしに食べるものだから、流石にそろそろ止めないとまずいと美鈴が腰を上げたのと同時、がむしゃらに食べ物をかき込んでいた少女は喉を詰まらせ、そのまま意識を失った。
 その後駆けつけたパチュリーの処置により少女は一命を取り留めたものの、美鈴がレミリアにこっぴどく叱られたのは言うまでもない。
 
 そんなこんなを経て、とにかくも少女は無事に健康を回復した。
 風呂にも入れてもらい、薄汚れていた身体も、綺麗さっぱり清潔になった。 

 ……のだが。

「喋らない?」
 美鈴が少女の面倒を見始めてから数日、早くも次の問題が発生した。
「はい。何を聞いても、うんともすんとも言わないんです。ひょっとしてあの子、言葉を知らないのかもしれません」
「ふうん。じゃあ、お前が教えてやれ」
「はい……って、え!?」
「何か文句でも?」
 ギロリと圧をかますレミリア。
「……いいえ」
 がっくりと肩を落とす美鈴。
 これでまた、仕事が増えてしまった。
 そうでなくても、ここ数日――あの少女の世話係を命じられた日以来――仕事量が三割増しになっていたのだ。
「……まあでも、仕方ないか」
 元はと言えば、自分が蒔いた種だ。
 それに、あのまま少女を遺棄することを余儀なくされていた場合のことを考えれば、今の状況の方が百倍マシといえる。
 別の種族といえど、年端もいかぬ子どもの命を容易く見殺しにできるほど、美鈴は割り切れた妖怪ではなかった。
 こうして、美鈴は少女の世話をする傍ら、言葉も教えることになった。
 最初はなかなか心を開こうとしなかった少女も、美鈴の熱心さが伝わったのか、次第に打ち解けていき、言葉も少しずつではあるが、確実に習得していった。

 
 そうした日々が一ヶ月ほど続いたある日のこと。
 少女の言語能力獲得過程は、最初こそスローペースだったものの、一旦コツを掴んでからは、瞬く間に、同じ年頃の子と同程度には話せるようになっていた。
 そんな折、またも新たな難題が立ちはだかったのである。
「ねー、めーちゃん」
「うん?」
 めーちゃん、というのは、少女が美鈴を呼ぶ時の呼称だ。
 幼い子にはその方が呼びやすいだろうし、親しみも湧くだろうと思い、美鈴自らそう呼ばせることにしたのだ。
「わたしのなまえ、なんていうの?」
「…………あ」
 美鈴は固まった。

「……名前?」
「はい」
「そうか。そういえば、付けてなかったな。迂闊だった」
 言う割には、大して迂闊そうな様子も見せず、淡々と言うレミリア。
「しかし、名前か……うーん」
 レミリアは腕を組み、思案顔で唸ってみせる。
 だが、どうにも良いネーミングが浮かばなかったらしく。
「美鈴」
「はい」
「お前が付けろ」
「はい……って、えぇ!?」
「何だ、何か文句があるのか」
「い、いえ……でも、よろしいのですか?」
「元々、あいつの面倒はお前に任せたんだ。お前の好きに決めればいい」
 気品たっぷりに言うレミリアだが、実際単に面倒くさくなっただけだろうと、傍らで紅茶を啜るパチュリーは心の中でツッコんだ。
「あ、ありがとうございます!」
 そんな主の内心など露知らず、美鈴は大きく頭を下げ、その場を後にした。
 美鈴が去った後、ぽつりとパチュリーが呟く。
「……あの子、もう話せるようになったのね」
「ああ、美鈴の教育の賜物だね」
 自分のことのように、誇らしげに言うレミリア。
 しかし、パチュリーは少し違う感想を持ったようで、
「……ひょっとしたら、面白い能力を持っているかもしれないわね」
 そう呟くと、魔女らしく不敵に微笑んだ。

 一方その頃。
「名前かー」
 すやすやと眠る少女の銀髪を撫でながら、溜め息混じりに呟く美鈴。
「うーん……」
 生まれてこの方、他人に名前を付けた経験などなかった彼女にとって、これはなかなかの難題だった。
「……お」
 ふと窓の外を見ると、綺麗な月が浮かんでいた。
「満月……は、昨日だっけ。ってことは、今夜は十六夜か」
 そういえば、この少女が館に来た夜も、十六夜だった。
 美鈴は、ふとそんなことを思い出した。
 見た目は、満月とほとんど同じ。
 されど、それは満月には非ず。
 完全な円のように見えるけれど、実はほんの少しだけ欠けている。
 そんな十六夜の月が、美鈴はなんとなく好きだった。
 完全無欠の満月より、ちょっと欠けているくらいの方が、なんだか人間味があっていい。
 月に人間味を求めてどうするとか、そもそも自分は妖怪だろうとか、そんな無粋なツッコミはこの際置いておいて。
 紅魔館で働くようになって以来、美鈴は館内の雑務をこなす傍ら、門番としての務めも果たしてきた。
 陽光に彩られる日中はともかく、辺りが闇に包まれてしまう夜の門番は、如何せん気持ちも暗くなりがちだった。
 そんな中、明るく周囲を照らしてくれる十六夜の月は、彼女の心の癒しだったのだ。
 だったら、より明るいはずの満月はどうなるのかとも思えるが、そこは趣向の問題ということなのだろう。
 ともかくも、美鈴はこの十六夜の月が好きだったのだ。
 そんな彼女の趣向と、今彼女が向き合っている問題とが、彼女の頭の中でリンクされた。
「十六夜」
 再び、口に出してみる。
 語感は悪くない。
「うん。そうか……十六夜か……」
 健やかに眠る少女を見つめながら、その言葉を反芻する美鈴。
「うん……名前としては微妙だけど、名字としてなら悪くないかも」
 美鈴は確認するように、一人で何度も頷いた。
「でも肝心なのは下の名前だよなー……」
 腕を組み、窓の外に浮かぶ月を眺めながら考えを巡らせる。
 何かいいアイデアはないものか。
 唸りながら、今度は視線を下に落としてみると、庭に生えていた一輪の花が目に入った。
 手入れされた花壇から少し離れたところに、小さなタンポポが咲いていた。
 月光によく映えている。
「へぇ、夜に咲くタンポポもオツなものね」
 何の気なしに呟いてから、ん、と考える。
「夜に咲く……? ……よさく……よさき……う~ん……」
 ぶつぶつと呟き始める美鈴。
「逆の方がいいか? ……さきよ……さくよ……」
 美鈴の頭の中で、様々な言葉が浮かんでは消えていく。
「さきや……さくや……さくや? ……さくや!」
 はっと、美鈴は顔を上げた。
「さくや! 夜に咲く、咲夜!」
 思わず立ち上がる。
「さっきのと合わせると……。十六夜……咲夜! 十六夜咲夜! うん! これだ!」
 よっしゃあとばかりに、一人でガッツポーズをする美鈴。
「めーちゃん……うるさい」
 見ると、眠っていたはずの少女が目を擦りながら美鈴を見上げていた。
「あちゃ、ごめん。起こしちゃったか」
「なにかあったの?」
「うん、あのね……あなたの名前、決まったよ」
「ほんと!?」
 目をパチクリさせる少女。
「うん。今日から、あなたの名前は『十六夜 咲夜』に、決まりました! わー、パチパチ」
 言いながら、一人嬉しそうに拍手をする美鈴。
「いざよい、さくや……?」
「そう。十六夜咲夜。良い名前でしょ?」
「めーちゃんが、つけてくれたの?」
「うん。たった今ね」
「ふぅん……へんななまえ」
「えっ……」
 思わず絶句する美鈴。
 本人が嫌がるのなら改名もやむなしか、と一瞬考えたが。
「……でも、ありがとう。めーちゃん」
「えっ」
「わたし、うれしい。めーちゃんがなまえ、つけてくれて」
 少女はそう言うと、満面の笑みを浮かべた。
「…………!」
 感極まった美鈴は、思わず少女を抱きしめた。
「わっ。ど、どーしたの、めーちゃん」
「……ありがとね。……さっちゃん」
「さっちゃん?」
「そう。咲夜だから、さっちゃん。どうかな?」
「……さっちゃん、かあ。えへへ」
「そう、さっちゃん。ふふっ」
 二人は互いに見つめあい、可笑しそうに笑いあった。
 穏やかで温かい雰囲気が、その場を満たしていた。






 ――それから、十年ほどの歳月が流れた。




 今や、咲夜は紅魔館になくてはならない存在となっていた。
 咲夜が生まれながらに有していた能力は、『時間を操る程度の能力』。
 その名の通り、時を止めたり、また時の流れを速くしたり遅くしたりもできる、非常に強力な能力だ。
 更に、咲夜が幼少の頃、瞬く間に言語を覚えることができたのは、無意識のうちにこの能力を使っていたためであったということも、パチュリーの研究により判明した。
「恐ろしい能力だけど、使い方さえ間違えなければ、極めて有用な能力だわ」
 そうパチュリーに進言されてからは、レミリアも咲夜に積極的に仕事を与えるようになり、いつしか、咲夜の仕事量は美鈴のそれを上回るほどになっていた。

 そんな、ある夜のこと。
「おつかれさま、めーちゃん」
 門番を務めていた美鈴に、背後から声が掛けられる。
 見ると、両手にティーカップを持った咲夜が立っていた。
「ありがと、さっちゃん」
 そのうちの一つを受け取り、礼を言う美鈴。
 美鈴が夜の門番を務める日には、こうして咲夜が差し入れをするのが、いつしか二人の間の習慣になっていた。
「どう?」
「うん、とっても美味しい。やっぱりさっちゃんの淹れてくれる紅茶が一番美味しいわ」
「ふふ、ありがと」
 二人並んで、夜空に浮かぶ月を見上げる。
「綺麗な月だね。満月かな?」
「んー、満月は昨日だったから、今夜は十六夜だね。十六夜の月」
「あー、そうか。自分の名前の由来なのに、いまだに違いがよく分からない……めーちゃんはよく分かるね?」
「まあ、ずーっと見てるからね。さっちゃんがここに来る前から、ずーっと」
「そっかぁ」
 感心したように言う咲夜。
「あ、時間、そろそろじゃない」
「ホントだ」
 美鈴に促され、館の大時計に目をやる咲夜。
 時計の針は、零時の少し手前を指していた。
「急がなくちゃ」
「うん」
 二人は一気に残りの紅茶を飲み干すと、揃って館の中へと入っていった。
 
「それにしても、一体なんだろね。館の住人全員集合なんて」
 紅魔館の長い廊下を早足で歩きながら、咲夜は美鈴に問い掛けた。
「んー、まあなんとなく察しはつくけど……」
「え? ホント? 何何?」
「いや、まだ確信はないし……」
「いーじゃん、教えてよー」
「まあほら、どうせすぐに分かるし。ね?」
「ちぇ。めーちゃんのけち」
 ぶーたれる咲夜を見ながら、美鈴はなんとなく感じ取っていた。
 この時間の終わりが、もうすぐそこまで迫っているということを。

 コンコンと、美鈴はレミリアの部屋のドアをノックした。
「入りなさい」
 扉の向こう側からレミリアの声が聞え、美鈴はドアを開ける。
「失礼します」
 部屋へ入る美鈴と咲夜。
 部屋の奥では、レミリアが大きな椅子に悠然と腰掛けており、その隣にはパチュリーが毅然と立っていた。
 更に、おびただしい数の妖精メイドたちが、左右の壁を背にしてひしめき合っている。
 レミリアは、咲夜が後ろ手にドアを閉めるのを待ってから、
「咲夜」
 威厳に溢れた声で呼び掛けた。
「は、はい」
「こっちへ」
「はい」
 レミリアに言われるがまま、おずおずと歩を進める咲夜。
 美鈴はドアからすぐのところで立ち止まったまま、その背中を見つめている。
 咲夜はレミリアの前まで進み、足を止めた。
「…………」
 何かを見通すような目で、咲夜をじっと見据えるレミリア。
 だがとうの咲夜はその意味が分からず、なんとも居心地の悪そうな面持ちを浮かべている。
「咲夜」
 再び、その名を口にするレミリア。
「は、はい」
 緊張にまみれた顔で返事をする咲夜。
「…………」
 一瞬の沈黙の後、レミリアの表情が穏やかな笑みへと変わった。
「……喜べ。お前を三階級特進して、この館のメイド長に任命する」
「…………は?」
 レミリアの発した言葉の意味が掴めず、呆ける咲夜。
 だが、次の瞬間。
「咲夜さま!! おめでとうございます!!」
 パチパチパチパチ。
「へっ??」
 妖精メイド達が、予め打ち合わせていたかのようなタイミングで祝福の言葉を発し、一斉に拍手をし始めた。
 ……実際、咲夜が来る前に、レミリアの取り計らいにより入念に練習させられていたのだが。
 ともかくも、さっきまでの緊張した雰囲気とは一転、その場は一瞬にして歓喜の色に染められた。
 レミリアも、パチュリーも、拍手をもって咲夜を祝福している。
 ……そしてまた、美鈴も。
 何かを悟ったような表情で、ゆっくりと、それでいて大きく、拍手をしていた。
 数歩先に立つ、咲夜の背中を見つめながら。
「え? え?」
 しかし、当の咲夜はまだ何が起こったのか理解ができず、きょろきょろと辺りを見回すばかり。
「咲夜」
 そんな咲夜の反応など予想の範疇だと言わんばかりの余裕ぶりで、レミリアが声を掛ける。
「え、あ、はい」
 一方、それとは対照的に、完全に余裕を失っている咲夜。
「今日から、この館における一切の管理権をお前に委ねる」
「はい……って、えぇ!?」
「館内の指揮系統、対外的な防衛システム、その他一切の事務につき、お前の裁量で判断していい」
「そ、そんな……私などが、そのような大役を……」
「……咲夜。私はお前を買っているんだ。まさか、受けないとでも言う気か?」
 ギロリと睨みを利かすレミリア。
 咲夜は一瞬恐怖を覚えるも、すぐに別の感情が湧いてくるのに気付いた。
 それは、喜び。
 主から能力を評価され、大きな仕事を与えられること。
 それは、従者にとって、最大の喜びに他ならない。
 だとすると、咲夜の言うべきことは一つしかなかった。
「……謹んで、お受け致します」
 咲夜は深く頭を下げた。
 その様子に、満足げに笑みを浮かべるレミリア。
「よろしい。今後も精進するように」
「はい。誠心誠意、尽くさせて頂きます」
 再度、頭を下げる咲夜。
 ようやく思考が現実に追いついてきた様子だ。
「皆、分かったね。今日から咲夜がお前達の上司だ。咲夜の命令には必ず従うように。いいね?」
 はい、と声を揃えて返事をする妖精メイド達。
 次にレミリアは、ドアの前に立ったままの美鈴の方にも目をやり、
「……美鈴も。分かったね?」
 念を押すような口調で言った。
「……はい」
 美鈴も、真剣な声でそれに応えた。
 そんなやりとりを、咲夜はまだどこか遠い世界の出来事のように感じながら眺めていた。
「じゃあ今日はこれにて解散。明日からは、皆、咲夜の指揮・命令に従って仕事をするように」
 レミリアが締めの言葉を告げると、
「はい!」
 再度、妖精メイド達の元気な声が響き、かくして、この夜の集会、もとい、咲夜のメイド長就任式はお開きとなった。

 レミリアの部屋を辞した後、咲夜と美鈴は、またも長い廊下を肩を並べて歩いていた。
「いやー、びっくりしたなあ」
 緊張からようやく解放され、咲夜は安堵の笑みを浮かべていた。
「まさか、私がめーちゃんの上司になっちゃうとはね」
 はは、と照れ臭そうに言う咲夜。
「…………」
 一方の美鈴は、先ほどからの真剣な表情を崩しておらず、押し黙っている。
「まあでも、別に何も変わらないけどね。これからも、私は私だし……って、めーちゃん?」
「…………」
 いつになく静かな美鈴の様子に、首を傾げる咲夜。
「どしたの? 具合でも悪い?」
「…………」
 美鈴は答えず、ただ黙ったまま。
 そして。
 美鈴は咲夜の一歩前に出ると、そのまま翻り、咲夜の前に跪いた。
「…………?」
 突然の美鈴の行動に、戸惑う咲夜。
「……咲夜様」
「…………え?」
 聞き慣れない呼び名に、咲夜は当惑する。
 しかし、そんな咲夜をよそに、美鈴は真剣な声で言った。
「本日より、私は貴方の部下となりました。どうぞ何なりと、御命令下さい」
「…………」
 ぽかんと口を開けて、美鈴を見る咲夜。
「…………」
 美鈴はポーズを崩さず、じっと跪いたまま。
 そんな美鈴を前にした咲夜は、
「……くっ。くくくっ」
 やがて、堪え切れないと言った感じになり、声を上げて笑い出した。
「あははは、やだなーもー。めーちゃんったら」
「…………」
「まあ形から入るってのも、分からなくはないけどさあ」
「…………」
「……めーちゃん?」
 この場限りの、冗談じみた儀礼的な挨拶だろうと勝手に解釈した咲夜だったが、それにしては、どうも美鈴の様子がおかしい。
 普段の美鈴なら、「なーんて、こんなの私の柄じゃないよねー」なんて言って、笑い出すはずのところだ。
「……咲夜様」
「ちょっと……それはもういいよ」
「よくありません」
「え……」
 美鈴は顔を上げた。
 その表情を見て、咲夜は、美鈴が冗談めかしてこんなことをしているのではないということに気付いた。
「咲夜様。貴方の主は誰ですか?」
「そ、そりゃもちろん……レミリアお嬢様、だけど……」
「そうです。そのお嬢様が貴方をメイド長に任命し、貴方はそれを拝領した」
「う、うん」
「この館におけるメイド長とは、役職的には主の次の地位にあたります。客分のパチュリー様や、妹様は例外ですが」
「…………」
「つまり、貴方は私の上司となり、私は貴方の部下となったのです」
「……そりゃ、そうかもしれないけど……」
「つい先ほどまで、私達は対等の関係にありました。けれども今はもう違います」
「…………」
「ですので、今後はこのような形で接させて頂きます。……ご理解下さい」
「…………」
「…………」
 暫くの間、無言で見つめあう二人。
 だが。

 ぺちん、と。

 間の抜けた音が、その静寂を破った。

「…………」
「…………」

 咲夜の右手が、美鈴の頬を打ったのだ。
 ……いや、「当てた」といった方が正確かもしれない。

「……何よ、それ」
 咲夜の声は震えていた。
 その右手は、美鈴の頬に添えられたまま。
「訳分かんない! さっきまであんなに親しくしてたのに! なんでいきなりそんな風になるのよ!」
「…………」
「もうめーちゃんなんて知らない、ばか、キライ!」
 思いつく限りの悪態をついて、咲夜はその場を走り去ろうとする。
 が、強く腕を引っ張られ、その勢いを殺される。
「…………」
 美鈴は無言のまま、咲夜の左腕を掴んでいた。
「な、なによ。もう私達、友達同士じゃないんでしょ。上司と部下なんでしょ。だったら……」
「咲夜様」
 美鈴は真剣な眼差しで咲夜を見据えた。
「…………」
 思わず押し黙る咲夜。
「確かに、私達は上司と部下になりました。もう、今までのような友達同士というわけにはいきません」
「…………」
「でもそれは、必要なことなのです」
「…………」
 咲夜は泣きそうになっている。
 しかし構わず、美鈴は続けた。
「もし仮に、咲夜様と私が、今までのような友達関係を続けたとしたら、館の他の者達からは、どのように映ると思いますか?」
「…………」
「本来なら、館の者達を平等に従えなくてはならない咲夜様が、特定の部下とだけ親密な関係を持つ。それは他の者達からは、見ていて決して気持ちの良いものではないはずです」
「で、でも、めーちゃんは他の妖精メイド達とは違うじゃん。階級的にも」
「確かに。しかしそれでも、咲夜様の部下という点では同じです」
「…………」
「それに、お嬢様の立場もあります」
「お嬢様の……?」
「お嬢様は、咲夜様の腕を買われてメイド長に任命された。なのに、咲夜様がいつまでたっても上司として私に接さず、従来のまま友達関係を続けるようなことをすれば、お嬢様はきっと失望されます」
「…………」
「先ほども言いましたが、咲夜様の主はお嬢様です。ならば、そのお嬢様の御期待に添えられるよう、全力を傾注することが、何よりも優先すべき事項のはずです」
「……その結果、私とめーちゃんが友達同士じゃなくなっても……?」
「はい」
「……そんな……」
 突き放すような美鈴の言葉に、いよいよ咲夜は耐えられなくなり、両の眼からぽろぽろと涙が零れ落ちる。
「……でも」
 美鈴はそんな咲夜の頬にそっと手を伸ばし、その可愛い涙を拭ってやる。
「だからといって、私達のこれまでの関係が、失われるわけではありません」
「え……?」
「咲夜様がこの館に来てから十年。その間に築き上げた、私と咲夜様の間の絆、信頼……そういったものは、これまでも、そしてこれからも、何一つ変わりません」
「……本当に……?」
「はい。ただちょっと、お互いの立ち位置が変わるだけです」
「…………」
「だから……安心して下さい」
 そう言って、美鈴は優しく微笑んだ。
 それは、つい先ほどまで咲夜に見せていたものと、何一つ変わらない笑顔。
「――――」
 咲夜は堪えきれず、勢いよく美鈴に抱きついた。
「うわっ。さ、咲夜様!?」
「うぅ……めーちゃん……めーちゃん……」
「……もうこれからは、『めーちゃん』も……」
「今だけ! 今だけだから……」
「…………」
「だから、だから……めーちゃんも……。今だけ、今だけでいいから……」
 懇願するように言う咲夜。
 美鈴は溜め息を一つ吐くと、
「……まったく、しょうがない子ねぇ。……さっちゃんは」
 そう言って、咲夜の頭を優しく撫でた。
「~~~~っっ」
 一旦は引っ込んだ涙が、また咲夜の瞳から溢れ始める。
 美鈴も、今度はそれを拭おうとはしなかった。
 いや、できなかった。
 自分自身の涙を拭うのに、精一杯だったから。






 ――それから更に五年ほどの月日が流れ、現在。




 咲夜は立派なメイド長として、紅魔館全体を取り仕切るようになった。
 その稼働能力は凄まじく、紅魔館の仕事量の七割弱を咲夜一人で稼ぎ出していると言っても過言ではなかった。
 一方の美鈴はというと、今や、主な業務は門番と庭の手入れだけになった。
 かつての激務が嘘のように、穏やかな気持ちで日々を過ごしている。
 

 そんな、ある日の夜。


 今宵は、十六夜。
 完全な円のように見えるけれど、実はほんの少しだけ欠けている。
 そんな月を、眺めながら。

「もう、五年になるのか……」

 美鈴は一人、呟いた。
 あの日以来、咲夜には公私を問わず、敬語で接するようになった。
 呼び方も、『咲夜さん』に改めた。
 最初は『咲夜様』と呼んでいたが、いくらなんでも恥ずかしいと、咲夜から再三のクレームがあったため、渋々ながらも再変更したのだ。
 ちなみに、咲夜の方は『美鈴』と呼び捨てで呼ぶようになった。
 最初は互いにぎこちなく呼び合っていたものだが、五年も経った今では、お互いすっかり慣れてしまい、何の違和感も持たなくなった。
 慣れというのはすごいものだ。
  
「……もうすぐだ」
 
 大時計の針を見て、嬉しそうに呟く美鈴。
 
 そう。
 あの日以来、美鈴は咲夜に敬語で接するようになり。
 それに合わせて、お互いの呼び名も変わったわけだが。

 このルールには、唯一の例外が存在した。
 それは二人の間だけの、秘密の約束。


 咲夜がメイド長に任命された、記念の日。

 一年に一度だけ巡る、その夜にだけ。

 完璧で瀟洒なメイド長は、ほんの少しだけ、完全ではなくなる。


 まるで、十六夜の月のように。
 
 完全な円のように見えるけれど、実はほんの少しだけ欠けている、そんな月のように。

 


 不意に、美鈴は背後に気配を感じた。
 振り返ると、最初からそこにいたかのような佇まいで、咲夜が立っていた。
 両手にはティーカップ。
 そのうちの一つを、美鈴に手渡す。 

「今日も精が出るわね。美鈴」
「……どうも。というか、フライングですか? 咲夜さん」
「いいじゃない。少しくらい」
「あらら。待ち切れなかったんですね」
「うるさいわね。時間はちゃんと守るわよ」


 穏やかな表情で、見つめあう二人。

 やがて、時計の針が重なった。


「おつかれさま、めーちゃん」

「ありがと、さっちゃん」

 
 コキンと、二つのカップが爽やかな音を奏でた。

 
 



 了
この作品は、みたらしいお団子氏の『テンションがおかしいようです 』(本作品集に掲載されています。未読の方は是非)の咲夜さんの可愛らしさに感銘を受け、そこから派生した妄想をベースに書き上げました。
この場をお借りして、みたらしいお団子氏に感謝の意を捧げたいと思います。
素晴らしい作品を読ませて頂き、本当にありがとうございました。

そして、この作品を最後まで読んでくださった皆様、本当にありがとうございました。
まりまりさ
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コメント



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24.80名前が無い程度の能力削除
さっちゃんとめーちゃんw
和やかな雰囲気が良いですねぃ
29.90名前が無い程度の能力削除
いい! いいなぁ。いい話だ。
30.100名前が無い程度の能力削除
大変なことに気付いた。この二人ひょっとして好き合ってね?!