五行思想というものがある。
これは自然哲学の基本の思想で、万物は木・火・土・金・水の五種類の元素から成るという説である。
この五種類の元素は互いに影響を与え合い、その生滅盛衰によって天地万物が変化し、循環する──これは当然、万物の一つである我々生き物にも備わっている事だ。
西洋にも四大元素という考え方があるが、世の理を説明する上では五行説の方が優れている。これは、四大元素説は後付で要素をつけ足したりする事が多いし、時代によってころころと解釈が変わるので、妙にちぐはぐに思えるからだ。
つまり基本が成っていない。まあ、精神論ではあちらに多少の長があるかも知れないが……。
ともかく、あらゆる理を簡易に理解できる五行の考え方は確かなものだ。これに陰陽の思想を取り入れる事によって、人の精神の在り方もさらに解し易くなった。
東方の二つの考え方が一体になった、神秘かつ物理の深淵を極めたこの思想を────陰陽五行説という。
「──という含蓄はもういらないぜ」
聞き飽きた。と、魔理沙は煎餅をかじりながらそう言った。
「……香霖の話は始まると長いんだよ。せめてその前置きを縮めないと、理解の前に限界がきそうだぜ」
うへぇ、と魔理沙はわざとらしく舌を出した。呆れている、と言いたいらしい。
「魔理沙も魔法使いの端くれなら、これは覚えておいた方がいいじゃないか。好き嫌いせずにあらゆる深遠な知識を求める、そういった姿勢が君には足りないな」
「端くれじゃなくて中心だぜ。それに私はそういうのは自分で覚えるんだ。香霖に教わるまでもない。もちろんパチュリーやアリスにもな」
魔理沙が不機嫌そうに鼻を鳴らす。
……まあ、確かに魔理沙は裏で努力を重ねるタイプだから、僕がこういう事を言うのはお節介かもしれない。でも、それでもこれは本当に知っておいて損はないのだ。それは解って欲しい。
僕がまだ話したそうにしているのを察知したからか、魔理沙は箒を持ってそのまま出て行ってしまった。
……まだ来てから四半時(15分)も経っていない。袋口が開けられた煎餅だけが侘しそうに残っていた。
「まったく……」
僕は湿気を吸わないように、しっかり袋口を縛ると、煎餅袋を戸棚にしまう。……元々、あまり厄介になるつもりはなかったのかもしれない。あいつは遠出する前にも、よく店に立ち寄るからだ。
僕の名前は森近霖之助。魔法の森の近くに香霖堂という店を構える、しがない商人である。
名前に入っている通り、僕の五行の属性は『水』である。また、店の香“霖”堂も、当然『水』である。
同じ属性が重なることを、五行思想では比和(ヒワ)と言う。これにはその属性の気を盛んにさせる効果がある。
自分の名前を店の名前に入れる習慣があるのはこれが由来だ。店にも自分と同じ気を持たせて、互いに気を高め合っているのである。
そういった意味では、魔理沙が意味もなく此処に立ち寄る理由も分からずとも無い。彼女の名字は霧雨。僕と同じく名前に『水』を意味する字が入っており、水気を纏っている。彼女は出かける前にこの店に入る事によって、英気を養っていたのである。
同じく店に訳もなく立ち寄る霊夢は、春を主張する木気の持ち主だ。五行には相生という別属性の相手に力を与える関係がある。水は木を潤し養う。水の気を持つこの店は、彼女にとっても居心地が良いのだろう。
このように五行は面白いほどに、人の何気ない行動すら説明してしまう。
ああ──ついでに説明してしまうと、相剋というものがある。これは即ちさっきの相生とは逆で、相手を打ち滅ぼして行く、陰の関係の事だ。僕は水だから、水を吸収してしまう土に弱い。客でもこの気の持ち主がきたら、出来るだけ冷たくあしらって、お引き取りして貰っている。まともに相手をしても大方こっちが損するだけだからだ。
僕はいずれ出版するつもりの本の為、この考え事を紙に書き留めた。その後、前に暇つぶしに魔理沙が読んでいた本を棚から取り出す。これには最近の、僕を含めて様々な英雄・妖怪の事が書かれている。
なぜこの本を取り出したかというと、先程に魔理沙が話していた二人の人物が少し気になったからだ。
この二人は魔理沙と同じ魔法使いで、異変の際にも協力する機会が多く、異変解決直後は興奮して二人の話を僕にも振ってくる。普段も色々世話になっているようだし、いい機会だから彼女たちの事を陰陽五行説の視点で確かめて見るとしよう。
────パラリ
まずはアリスという少女の事が載っていた。……まるで西洋人形がそのまま大きくなったような外見である。
彼女は魔法使いであり、人形遣いである。人形の多くは木か土から作られるので、おそらく木気か土気を有する人物だろう。あるいは両方か。
木は水を得て力を増す。土は水を吸い勢いを止める。この五行の相生相剋から視て、何かしらあちらが魔理沙を上手く利用している関係だと思われる。
協力しての戦闘では相性は良いだろう。魔理沙の水気を吸収して、魔法の威力が上がるだろうし、サポートに回れば猛進気味の彼女の歯止め役といったところだろうか。良い女房役と言える。
逆に敵に回したら分が悪い。魔理沙は昔の異変では勝ったぜ、と豪語していたが、その時は本気を出していなかった可能性が高いだろう。
僕も魔理沙と同じ水気であるので、もし直接対峙した場合は気をつけなければならない。商品を値引きされる恐れがある。
────パラリ
次の頁を捲る。
まるで寝間着のような格好の、寝ぼけた顔をした人物が描かれてた。
パチュリーというこの魔法使いは……これはおそらく主属性は火気だろう。名前が葉や油や香を示すから、火にとって縁起がよい。また、図書館の主であるという彼女は、魔理沙からよく本を略奪されているそうだ。これを諌め切れないのは、単純に苦手であるという事だ。火は水に弱い。
この本によると彼女は五行全ての魔法を習得しているらしい。火・水・木・金・土のそれに加え、陰陽を表す月と日の魔法も扱えるのだという。
だから魔理沙にも能力上は対抗でき、魔法使い同士という意味では、相性もさほど悪くはない。……名前的には水と油だが。
ただ、自身本来の属性に当てはまらない他の魔法を扱うという事は、心身に非常に負担が掛かる。ましてや五行に二つ加えた七属性だ。彼女はあまり図書館から動かないと書いてあるが、それはその在り方故だろう。
本の紙は木から出来るから、当然木気を纏っている。木は火を生み出す。火気の彼女にとって、図書館とは最も力を得やすい空間だ。これだけの魔法を扱えるのもその相生の効果が大きいからだろう。彼女は普段から本から智恵(ちから)を得ると共に、本に守られているのである。
それにしても、七属性とは……これではいくら“魔法使い”と言えども、生命力が著しく低下し、病弱になりそうだ。持病すらもってそうな気がする。
……ん、これは最後に書いてあったな。……なるほど、喘息持ちか。激しく息を荒げる、火気の持ち主が罹りやすい病だ。
病は気を陰気に堕としてしまう。これだと五情で『楽』を現す火気を持っている割に、性格も実際暗いに違いない。おそらく火が燻っているような、普段からぼんやりとした有様ではなかろうか。
健全なる心身の欠如。五行の理に背中を向けたその代償は、やはり大きかったのだ。
「…………」
おそらく、魔法使いである彼女もそれは理解していただろう。だがそれでも自身の健康と引き替えに、知識の探求への道(未知)を選んだ。同じ知識人としては、敬意に値するかも知れない。だが、元々体が丈夫な僕には彼女の気持ちは理解(わから)ない……。
────パラリ
少しぼんやりしていたら、頁が勝手にめくれて少し前の項目に戻ってしまった。……そこに一人一種族の、ある妖怪の姿絵が現れる。
「八雲紫……か」
幻想郷最古参の賢者の一人であり、外の世界との関わりも深い謎の妖怪。
店に定期的に外の燃料を補給してくれる人物だから、これは魔理沙より僕の方が関わりがあるだろう。……苦手だが。
それにしても、この八雲紫は非常に掴みにくい。その振る舞いもさることながら、能力からもどんな気を持っているのか想像がしにくいのだ。それこそ雲を掴むような話である。
だからここは邪道だが、あえて人間関係から考察してみるとしよう。
異変では、よく霊夢とタッグを組みたがるそうだ。そして僕や魔理沙は彼女を苦手とする。そうなると、単純に考えるなら霊夢と同じ木気だろう。
同じ属性はそのまま気が乗り、盛んになる。逆に水は木に対して対抗しにくい。水をかけても、木が喜ぶだけだ。この為か、霊夢とはこちらの主張が通らない一方的な水掛け論になりやすい。
ただ、これだと僕が“決定的”に苦手である理由がつかない。それに八雲紫が木気なら、霊夢と同じく普段の相性はそれなりに良い筈なのに……。魔理沙にも、あちらから積極的にコンタクトを取らないようだ。だからこれだと少しおかしい。
となると、水気に強い土気だろうか? しかしこれだと八雲紫が霊夢を苦手とする関係になってしまう。木は土に根を張り弱らせる。これでは紫から霊夢に近づく事は無いだろう。
木気から力を得る火気だとしたら霊夢の助力を得る説明にはなる。だが、今度は僕や魔理沙を苦手だとする関係になってしまう……これは、いけしゃあしゃあとした、あの様子からは全く考えられない。
「…………」
僕は少し考え込んだが……一番納得いく答えが見つかった。
……あまり考えたくないが、彼女は“三つ”の気を併せ持っているのだ。この気とは、即ち木・火・土の三つである。
こうなると霊夢との相性は木気が重なり力が増し、さらにその木気を得て火気の勢いが増し、増した火気で土気を強化し霊夢の木気に対抗できるものとなる。
つまりこれは、一見は対等でありつつ、実は紫の方がややお得であるという人間関係になる。これは霊夢からの話と合致する。
また僕との相性は、こちらから水気を得て木気の力を増し、増した木気で火気の弱点を打ち消し、残った土気で水気の弱点をついて吸い上げるものになるだろう。
……なんていう事だ、これだと僕が一方的に略奪される関係じゃないか! これはまずい。早くなんとかしないと……。
そうだ、相手は火気も持っているから、いくら補おうとも、こちらが相手の弱点を突ける可能性がある。魔理沙に積極的に関わらないのはこの為であろう。
なら直接対峙したときにそれとなく──いや、狡猾なあの妖怪の事だ。弱点を見出そうとしても、うまくはぐらかされるに違いない。そして、するりとかわされた後に、ずぶりと容赦なくこちらの弱点を抉ってくるのだ……。その様子が、ありありと予想できてしまうのが怖い。
「……参ったな」
彼女はその都度に、矛と盾を上手く組み替えている節がある。ああ、なるほど、……これであの胡散臭さの説明も付いた。
そう、八雲紫は三つの気をうまく使い分けて、いつも自分にだけ有利な状況を作りあげていたのである。
稚拙な表現だが、あえて使わせて貰おう。これは、ずるい……。
「むぅ……」
彼女に対抗できそうなのは、同じように三つの気を併せ持っているか、それ以上の存在以外はありえない。そんな奴はこの幻想郷でも滅多にいやしない。
それ以外の場所だったら……五行の影響を受けない冥界の主か、五行全てを有する閻魔ぐらいなものか。そういった人物のツテは、残念ながら僕には無い。
「…………」
八雲紫の属性が判明した事で、噂の冬眠についても説明がついた。木火土が示す季節は春夏土用。これにほとんど寒い時期は含まれていない。つまり、彼女は自身の力が弱まる時季にはあまり行動したがらないという事なのだろう。……案外、見栄っ張りなのか?
いや、これは賢いと言うべき部類だろう。己の弱点を掌握し、それを気づかせない為なのだから……常にベストの状態であろうとする八雲紫の行動は実に妖怪らしい。
……となると案外、冬の妖怪や、頭が軽い事で有名な氷の妖精には弱いかも知れない。まあ、同じ水気である僕も関わりたくないが。店ごと凍らされたらたまったものではない。同じ気は重なると良いときは良いが、悪いときはとことん悪くなるのである。
折角弱点の目星がついても、上手く利用できないのでは意味がない。それに下手につついても相手を怒らせるだけだ。……結局今のまま、関係は変わりはしないだろう。
僕は溜息をついて、一度本を戸棚にしまう事にした。……少し疲れた。休憩することにしよう。
────カランカラン
お茶を取りにお勝手に向かおうとしたところで、扉から音が鳴った。
「開いてます?」
そう言って入ってきたのは、紅い館に務める瀟洒なメイドだった。もうすっかりお馴染みで、名前も十六夜咲夜──さん、と僕の脳裏にはしっかり刻まれている。
彼女は巧みなナイフの使い手で、言うに及ばず金気の持ち主である。
金属の表面には凝結により水が生じる。この気は僕にとって非常に相性が良い。水気の僕に、店に力を与えてくれるのだ。
以前に、不良在庫だった五色の甲羅を彼女に売ったことがあるが、その時もこちらの事情をよく踏まえ、気前よく代金を払ってくれた。あの時の臨時収入が嬉しかったのは今でも覚えている。
この事からも十六夜咲夜さんが良いお客様であるのがわかって頂けるだろう。だから今現在、一番のお得意様と言って差し支えない。
「今日はちょっとした様子見ですけど、良かったら商品を見せて下さいな」
主人の命じゃないのか、珍しい事もある。
でもそれならそれで納得する。彼女の主人は夜型なので、いつもこの時間帯には眠っているのだろう。
そして暇をもてあました彼女が──暇つぶしでも、この店に来てくれた事は非常に幸先が良い。もしかしたら、また何か見繕って、購入を検討してくれるかも知れない。
僕は椅子を勧めて、少し待ってくれるように頼んだ。ここは一番良いお茶を振る舞う事にしよう。
「──いいお茶ですわね」
まずまずといった様子で、彼女は頷く。
僕はお茶の銘柄を知的に語りながら、一方で、めまぐるしく頭の中を回転させていた。さてさて、どの商品を紹介しようか────
「最近お勧めの商品ってあります? この店で一番お洒落な道具とか」
そうきたか! ……それなら心当たりは十分ある。やはり彼女は金づ──いや、素晴らしい金気の持ち主だった。
「ええ、もちろん。貴方のすばらしい主人にぴったりの、高貴な品がありますとも!」
ちょっと声がうわずってしまった。だが、彼女はクスリと笑っただけで、その事には触れないでくれた。瀟洒である。
「ありがとうございます。お言葉に甘えさせて頂きますわ」
そしてにっこりと満面の笑み。……ああ、本当に彼女は良くできたメイドだ。僕は先程、彼女の主人を誉めたが、これは彼女自身を誉めるよりも効果的であると考えたからだ。従者は主人の賞賛にこそ、真の喜びを感じる。
しかしこれには前提がある。それは彼女の──忠誠心である。
どんなメイドでも、これが無い者はただの似非メイドである。むしろ冥土送りにしてやりたい存在だ。
「うふふ……」
その点、彼女は噂からも、こうして正対した時でも、まるで文句のつけようがない。
正にメイドの鑑。メイドオブベスト。いや、クイーンオブメイドである──!
……いけない、少し落ち着こう。彼女の金気を受けすぎたかもしれない。咳払いをして、僕は前言通り“とっておき”の品を奥から持ってきた。
「こういうのは如何でしょう? あの紅いお屋敷にも、ぴったりだと思われますが」
「まあ……」
まだやや浮ついているこちらの様子にも気がつかないように、彼女は口に手をあてて、すっかり感心してくれているようだった。
それもそうだろう。これは最近拾った中でも──いや、今まで拾った様々な道具の中でも“最高級”の一品だった。
「素敵なジュエリーボックス……」
──そうである。勿論タダの宝石箱じゃない。
一見シンプルなこの箱は、純白の……いや、淡い紅が交ざったような色合いの象牙で象られ、……これは月だろうか、円状に、模様細工がまるで黄金の血が流れ巡るかのように、滑らかに彩っている。
何より目を惹くのが、真ん中の紅い宝石──スタールビーである。まるで宵の明星のように輝くこの紅玉こそ、この品の心臓そのものといって過言ではない。パーフェクトメイドの金気を帯びて、今にも鼓動(うご)き出しそうな気配すら感じられた。
どこからどう見ても、これほど紅魔館の主に相応しい品はないだろう。
「これ以上の品は──外の世界にも存在しませんよ」
僕は本心からそう言った。おそらく、この宝石箱は外の世界の誰かが作った、傑作中の傑作だろう。だが、皮肉にも傑作すぎて──幻想となってしまったのだ。
幻想郷は、外ではまだ追いつかない技術を呼び込む事がある。これもその一つだろう。無縁塚で貴婦人だったと思われる死体が抱えていたこれを見つけた時、僕は心底その有様に敬意を祓ったのである。
「この宝石箱は、貴女が来るのを待っていたに違いない」
普段は絶対に言わなそうな台詞が、自然と口から零れてしまった。……だが無理もない。
彼女の唇は無意識に、ほしい、ともう呟いてしまっていたのだから。
──僕はもう確信を持っていた。彼女はこれを何が何でも購入するだろう。あとはその気分を──忠誠心を盛り上げてやるだけである。
「これほどの品が、最も信を置かれる貴女の手から、主に手渡された時──なにが起きるのか……。僕には想像もつきませんよ」
あえてそっけなく最後は言い、視線を外す。……横目でちらりと見ると、彼女は紅い宝石の魔力に囚われてしまったかのように、じっと手に取ったまま、身動きがとれない様子だった。
彼女の頭の中で、あの幼い紅魔館の主はどんな顔をしているか……僕は正直覗きたくなった。その位、彼女の顔は涙を浮かべんばかりに輝いていたのである。──これも五行金気の比和が為せる技か。
「…………」
僕は誠心誠意を込めて、この品を選んだつもりだ。
紅は彼女の主、レミリア・スカーレットの火気を象徴する色。また、宝石自身は、当然ながら金気。
この二つを繋ぐ絆──これは素晴らしい符号ではないか。
「貴女の宝石のような想いを詰めて、紅の姫君に贈ってみたら如何でしょう」
と、言おうと思ったが、流石に気障に過ぎるだろう。僕はその言葉を飲み込んだ。
しかしその言葉がそのまま聞こえていたかのように、十六夜咲夜はハッと立ち上がると、逃がさない、とばかりに僕の手を握った。
その冷たい手。瀟洒なメイドらしくない立ち振る舞い。彼女も、少し興奮が隠しきれないのかも知れない。
思わぬ人間味に触れて、僕は瞬きを繰り返した。
「──霖之助さん」
そして急に名前で呼ばれた。なんて事だ……。
強い金気の鼓動が、手からも伝わる。これでは、このままだと水気のこの僕が……凝縮されて、結晶となってしまいそうだ。
まるで時を止めたかのような沈黙が、店内を支配した。
……いや、本当に止まっているのかもしれない。
なぜなら、あの本に書いてあった事が正しければ、彼女の力は時を自在に操る事なのだから。
だからこの胸の高まりも、彼女に時を操られている、結果に過ぎない。……そうなのだ。
水と金で躍る瞳が、ただ、前を視つめ合う。永久で、厳かな、そして静謐な空間だった。
──そして時は動き出す。瀟洒なメイドの……いや、一人の少女の唇が動いた。
「……これは、すぐに買えますか」
「言い値でいいですか?」
「はい」
彼女は少し目を伏せた。もう覚悟が決まっているようだ。
例えどんな代価を払おうとも、必ず彼女はこれを購入するだろう。受け入れてしまうだろう。
なぜなら彼女は完全なる僕(しもべ)──メイドなのだから。
僕はそれを邪魔する気はない。心ゆくまでにその身を堪能させてあげたい。……ただ、“代価”は必要なのだ。必ず。
「少し高いですが」
「ええ」
そこにつけ込む様で悪いが、僕はもう決心を固めていた。
これ以上ない幸運を、今、僕は手に入れようとしている。
これから僕は──彼女から金気の相生の力を得て、幻想郷一の商売人となるのだろう。否応もなく。
ふと周りの店内を見渡した。……ここも大分古くなってきた。もうそろそろ建て替える時期かな。
いや……彼女さえ、十六夜咲夜さえ居てくれば、そこから渡される煌めくものさえあれば、僕にはもうそれでいいのかも知れない。
これから先、生きていくのに商売など必要ないのかも知れない。
「────」
首を振る。それでも、僕は──商売人だ。
趣味人とせせら嗤われようとも、似非商人と貶まられようとも、世界中から叩かれようとも、それだけは変わらない。
五行の理を統べ、遍く道具の真理を探求し、それを人から人へと伝えていく。仕事が生き甲斐なのだ。
そしてそれは彼女──十六夜咲夜も同じ。二人の信念と理念は一致し、ここに利害関係は結ばれた。
──ああ、せっかくだ。新しい店の名前は二つの名を合わせて“香金堂”とでも改名しようか。
「……お代は?」
「もちろん」
金で。
その瞬間、僕の目の中で“現金”の文字が一層強く輝いた。──ああ、やはり商売によって得られる“金”気は素晴らしい!
「後払いでも?」
「ええ。貴女を信じています」
貴女の支払い能力を。
……なんと素敵な響きだ。勝手に持って行く霊夢や魔理沙と大違いである。僕はうっとりとして、彼女を見つめ直した。
僕の熱い視線に気がついたからか、照れたように頬を染めるメイドの君。心なしか、いつもの彼女と違って見えた。
「ふふ、実に貴方らしくてよ」
ベリ。という音と共に、その咲夜の顔が割れた。
「!?」
「──それにしても、なかなかお茶目さんねぇ。“霖之助さん”」
完全で瀟洒なメイドの顔の代わりに出てきたのは……完全な“勝者”の顔だった。
「人が悪いわねぇ。こんな良い物隠し持っていただなんて」
宝石箱を猫が鼠をいたぶるように弄んで、メイド姿の八雲紫が嗤う。
……僕が感じていたアレは、どうやら金気に触れていた事ではなく、禁忌に触れられていた事によるモノのようだった。
脱力してぐったりと椅子に腰掛ける。……また、してやられた。
「あら、どうしたの霖之助さん?」
「……気安く呼ばないでくれ」
「まあ、酷いわ。霊夢だってそう呼んでいるじゃない」
それはそうだが。そうあからさまにアクセントを取られると腹が立つだけである。
「なんでこんな事を……」
「あら、だって私も“お化け”だし」
そうである。八雲紫は基本的に妖怪……化生である。人を騙すのが仕事で生き甲斐だ。ああ……さぞかし“人を食って”ご満悦だろう。
「美味しかったわねぇ」
ほほほ、と短く笑う。
「これまた随分な厚化粧でしたね」
だから皮肉の一つも言ってやらないと気が済まない。が、普通に「今は涼しいわ」と返される。
土の堤防が水を吸い上げるように、まるで歯が立たない。
「……その服は何処で?」
「この服? あのワンちゃんがお風呂に入ってたから、その間にちょっと借りてきたの」
ひょい、と摘みあげる仕草をする。
……彼女も災難だっただろう。今頃、風呂場から上がって服が無くなっている事に気づいてうろたえているに違いない。
金属は火に溶かされてしまう。八雲紫の火気の攻撃を受けて、完全なる金気が崩れ落ちていくのを思い浮かべるのは忍びない。
さらに僕の中で、メラメラを燃え上がっていくお金が天に昇っていった。
「スースーするわねぇ」
いつもの胡散臭い満面の笑みを浮かべて、くるくると回転する八雲紫。……頼むから僕の中のメイド像まで破壊しないでくれ。
「もう特に用はないだろう? 頼むからさっさと帰ってくれ」
「あらご挨拶ね。せっかくめかし込んだんだから、誉めてくれてもいいじゃない。それにさっきまで言ったことは、全部本当よ?」
「あんな事をしておいて、信じられる訳ないだろう」
「毛を逆立てちゃってまあ可愛い。撫でてあげたいくらいよ」
頭を撫でられる振りをされる──全身の鳥肌が立った。
僕が全力で距離をとった様子をニヤニヤと見つめながら、八雲紫がふと机の方を見た。
「あら。こんなもの書いていたのね……ふんふん。人間の五行かんたらねぇ。そうね、一つ良いことを教えてあげるわ」
そう言って八雲紫が、宙から板を出す。そして手に何かを持って、さらには僕と同じ様な眼鏡を掛けた。……一体何のつもりだ?
「木は火を生み、火は土を創り、土は金を育て、金は水を浄化し、水は木を育てる。これが相生の五つの働き。次。
木は土を痩せさせ、土は水を吸い、水は火を消し、火は金を溶かし、金は木を折る。これが相剋の五つの働き。
これらが複雑に絡み合い、絶えず巡ることによって世界は流動する。──ここまでは簡単ね」
サラサラと黒い板に白い炭のようなもので五行を図解する八雲紫。これぐらいは当然僕も理解している。
「またこの流れは逆転するわ。
木は火に焼かれ、火は土に埋められ、土は金に押され、金は水に錆び、水は木に吸われる。
木は土を固め、土は水を保ち、水は火を留め、火は金を工し、金は木を象る。
これらは相生の中の“相剋”。また相剋の中の“相生”という訳ね」
八雲紫は「解らない事があったら手をあげてね?」とにっこりと妖しい笑み。
寺小屋の教師の真似事のつもりだろうか。幼子を相手にするかのような甘い声である。付け加えて、こんな胡散臭いメイド姿の眼鏡教師の存在など僕は絶対に認定したくない。
普段の面影がまったくない妖怪の少女は「最後に」と付け加えて、棒を振るった。
「相生の中の“相剋”状態で、流れが戻った場合の悪影響を説明するわ。
焼けた木は火を燻らせ、燻った火は土を乾かし、乾いた土は金を削り、削れた金は水を濁し、濁った水は木を腐らせる。
──あらあら、困ったことに本来力を与える筈の関係が酷い事になっちゃったわ。これは木気から始めた場合の一例だけど、さてはて、これが“水”と“金”の場合……どんな事が考えられるでしょうか?」
……あえて、これを水気の僕に言わせるつもりか。
癪に触るが、何も言わずにいて馬鹿にされるのはもっと気分が悪い。まあいい。答えてやるさ。
「まず水は金で浄化される。また、大気から凝縮され、集められて力を得る……が、集まった水はその内に金を錆びさせてしまい、錆びた金が水を汚してしまう。元々は良い影響だったモノであろうとも、過剰になった物事はいつしか相手を滅ぼし、次に我が身を滅ぼす。つまり──」
「あまりお“金”儲けは良くないわ。“霖”之助さん?」
うふふふ、と笑って八雲紫が空間に飲み込まれたと思うと、次の瞬間にはいつもの格好に変身していた。……相変わらずの出鱈目っぷりだ。
「さてさて──じゃあ、これは一体いくらになるでしょう?」
と、例の宝石箱を取り出した。どうやら本気で気に入っていたようだ。
つまり先程までのは、歪曲で嫌らしく皮肉に満ちた遠回しな値段交渉だったと言える。複合属性を持つこの八雲紫という妖怪は実に素直じゃない。
「値引きは一切できませんね。それは見ての通り最高の一品だ。──最低でも、貰った“現金”で家が建つぐらいじゃないと、僕は納得しないな」
『現金』の部分を特に強調して、怯まず交渉に挑む。そう、ここは僕の店。僕自身と併せて水の重効果を持っている。
此処でなら八雲紫の土気を水気の洪水で押し流し、相剋の流れを逆転させる事が可能だ。そう、つまり八雲紫に勝つ方法とは、しっかり“気”を張れば良いだけだったのである。この事に気がついて、今や完全に気合が入っていた。
正に灯台下暗しだった……僕はこの店にいる限り、負けやしない。
僕たちはしばらく睨み合って──もといあっちは不審な笑みだったが──ともかく、ここは引くわけにはいかないのだ。
「──しょうがないわね。言うとおりにするわ」
克った。
彼女は諦めたようそっと息をつくと、しげしげと両手で持った宝石箱を眺めていた。
……僕は少し彼女を見直した。
実は一番恐れていたのは、八雲紫がそれを持ってそのまま逃げてしまう事だった。普段のようになんだかんだと理由を付けて──燃料の月謝料よ──とか言って、そのまま持ち去ってしまう場合も十分に考えられた。まあ、実際にそういう事もあったのだが……。
だが、今彼女はこの品に対しては、正当な代価を払おうとしている。これはこの道具に対する真摯なる想いと、人妖の僕の存在を軽んじてはいない──ひいては、他の人間や妖怪を侮っていない事に繋がる。彼女は決して、全てが自分の都合の良い道具だとは思ってはいないのだ。
幻想郷の賢者は、やはり賢者だったのである。僕もこの事実を受け止めて、素直に敬意を払うとしよう──まあ、現金を払って貰ってからの話だが。
「じゃあ、貰っていくわね」
お茶の時間だし、と八雲紫が満面の笑みを浮かべて消えていく。
「!? いや、待ちなさい。今ちゃんと言うとおりにすると──」
「あら、するわよ? でも、ちゃんと聞いたじゃない『後払いでも?』って。それに対して貴方は『ええ、貴女を信じています』と答えたわ」
「いや、あれは……」
「それに家が建つほどの現金でしょ? これから用意するのも大変だわ。──ちゃんと払うから、心配しなくてもいいわよ“霖之助”さん」
宙に浮いている手がひらひらと揺れて、スッと妖怪の気配が無くなった。
「……やれやれ」
正しく五行の属性が目まぐるしく変化する、嵐のような一時だった。
……まあ、あの妖怪は約束を必ず守ってくれるだろう。ましてやあの大妖怪・八雲紫である。ああ言っていたが、金などいくらでも都合がつくはずだ。
僕は早くも今から新しい店の妄想……いや、構想が拡がっていた。今度は五行思想全てを取り入れた、見事な店を構えるのも悪くない。
早速、新しい店の図案をしこうと思い、机を見るとメイド──いや、八雲紫が飲んだ後の湯飲みがある。
そうだな、その前に改めて一息つこう。僕はお勝手で湯を湧かし、その間に煎餅袋を取り出そうと戸棚に向かう。
「!?」
戸棚には、なぜか煎餅袋が無くなっており、代わりに脱ぎ捨てられた金気を帯びたメイド服が……。
なんてう──、いや、意地が悪い事を! これだとまるで僕が風呂場から盗んだみたいじゃないか!
「参ったな……」
僕は頭が痛くなった。返しに行くにしても、これだと追求は逃れられまい。
そして真実を話し、八雲紫の事を言っても──絶対にとぼけられる──信じて貰えるか、甚だ自信がない。
霊夢や魔理沙に頼んでみてはどうか……いや、同じ事だろう。むしろ被害が拡大してしまいそうな予感がする。いっそ黙って店に置いておくか? いや、見つかった時にはどうなる事だか……それに、金気に勘づきやすい魔理沙が発見してしまう可能性が高い。ああ、一体どうすればいいんだ……。
一気に五行の流れが陰の向きに傾いた気がした。これも金気相生の過剰効果だというのか……。
────カランカラ……
「ねぇ。そろそろお茶の時間でしょ? 霖之助さん──」
お茶の水気に勘づいた木気の霊夢が、店に訪れる。彼女の前には、禁忌のメイド服を抱えて悩み込んでいた僕がいる。
──遠くでは、薬缶がけたたましく鳴っていた。
次の日、僕が店の扉を開けた瞬間に、目の前に鉄クズの山が出現した。
ああ、確かにこれは現“金”だろう。……見紛うことなく。
上手く組み立てれば、家が建ちそうな量だった。……みまごうことなく。
いつも通り水気に寄せられて店に訪れた魔理沙が、鉄クズの金気を浴びて大喜びしていた。
>僕を含めて様々な英雄・妖怪の事が書かれている
『僕を含めて』とわざわざつけるあたりが、彼の自尊心というかそういうものの大きさを表している気がします。
いつも楽しく読ませていただいております。ありがとうございました。
そしてさようなら霖之助。貴方のことは忘れてもメイド服だけは忘れません。
と戯言は兎も角、大変分かりやすい五行説でした。
五行説が分かりやすくてとても面白かったです
金気に固執する霖之助、うまく騙す紫、言葉遊びの応酬。
オチの金気とかメイド服とかツボにはまりすぎたwww
鉄屑を掘り起こしたら中からちゃんと金が出て来ましたとかそういうオチだと信じたい。
願くば次の話では霖之助が得をすることができますように…
でも動きや描写にそんなに原作と違和感がないのが良い。
自分は多分、火気でした。五行面白いですね。
そらぁ初見から苦手にされるわw
面白かったです(・∀・)ありがとう
が、紫が正直ひどいw
変装して他人になりすまして騙してとっておきのものを買っていくなんて
紫様酷すぎるw
まあ金気を求めて求婚?した霖之助に天罰が下ったと考えればw
今回もとても面白かったです
霖之助は欲を出すと大抵上手くいかないなぁw
賑やかそうな香霖堂いいなあ。
霖之助もこれでこそ、って感じで、御見事ですw
五行に当てはめて東方の人物考察も所々で見かけますが、分かりやすい上に面白いw
せっかくの金儲けも紫に持ってかれて、残った水気も霊夢に汲み取られる、と
よかったです。
~噂の冬眠にも説明がついた。木火金が
木火土では?
一度点つけてしまったのでフリーレスです
ゆかりん最強
ギリギリな雰囲気を出しつつも最後には原作っぽくまとまっていたのも良かったです。
オチの魔理沙可愛いw
ただ個人的な考え方としては、人は一行のみで構成されることはなく、水行60%、金行20%、火行10%、木行5%、土行5%と言う具合に、五行が様々な割合で構成されているのではないかと考えています。
だから霖之助も、魔理沙も水行が占める割合が一番多いのでしょうが他の四行の割合は異なっているのでないでしょうか(魔理沙は金行の割合が多そうだが、霖之助は少なそうだ)。
紫も木火土の気を持つというより、木30%、火30%、土30%、その他10%という様にバランスの良い存在なのではないかと。
コメご感想有難うございます!
これからも楽しいものが書けるように頑張ります。
>>68様
はい。そのとおりです。
ただ、細かい部分は話のテンポ上端折ってしまい、申し訳ない。
言葉遊びも面白かった。
自分の中の東方の世界観が広げられる気がします。
真面目な導入からはっちゃけたオチまでの流れが秀逸です。
五行の薀蓄も展開に上手く絡めてあって
とても楽しめました。
なぜか紫が正体をバラしたところで吹き出してしまいました(笑)
それにギャグな話がさっと入り込むから面白い
あと、その咲夜さんの服は隠しておくから俺に渡してくれ!
ヒャッハー!!
うろたえる咲夜さんのくだりで咲夜さん可愛さに全私が鳥肌。
面白かったです。
霖之助の話のオチに紫は必要不可欠ですね。
たまの商売っ気出したら紫の玩具だよ!
これからもネコんさんの作品が見れるのを楽しみにしてます
なんという今更
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