星、そして月。地上から見上げる儚いそれらは天蓋に張り付いている紛い物に過ぎない。
唯一本物を挙げるとするならば、それは流れ星だ。流れ星は星ではないが故にただ一つ、我々が目にすることの出来る、空が持つ真実の形である。
日中は熱と湿気のために蒸し暑い店内も、日が沈むにつれ不快さの要因二つが放逐され、過ごしやすくなる。
熱と湿気、この両者が何故このように大きな不快感をもたらすのか、そこには当然ながら理由がある。
熱をもたらす火、そして湿気をもたらす水、この離火坎水は性質こそ正反対だが、しかし相互に機能しあい、反発することはないという興味深い特性を持っているのだ。
風呂の温かさも、蒸し暑い部屋の不快さも、両者が機能した結果である。
水と火は組み合わせることで陰陽の比が調和するということもまた興味深い。
万物の流れにおいて陰陽は互いに無くてはならない存在だが、火と水はその特性を引き継いでいるのかも知れない。
「それで、あなたは一体何をしているのですか」
両手で頭をおさえ、ごろごろと奥の間を転がる伊吹萃香を見下ろし、軽く溜息をついた。
彼女の小さな手の中には僕の貸し与えた幾つかの書物があった。
何の前触れもなく香霖堂にやってきた彼女は、僕に頼み込んで本を借り、今ここでうんうんと頭をおさえて唸っている。
訪れた時も調子が悪そうだったが、今は一層辛そうだ。彼女は何の反動も必要とせず、上半身をぐいと持ち上げてみせた。
心なしか、目が潤んでいるように見える。たいそう苦しそうだ。本を両手で抱え、上目遣いに僕を睨め付けるようにして、彼女は言った。
「体が弱っていれば東方の魔符を見るだけでもこんなに辛いもんなんだねえ。でも、これは良い本だね。分かりやすい」
にこりと笑って本を褒めたが、すぐに彼女はまた頭をおさえて転がりだした。
僕が彼女に貸し与えたのは万物の流転を説明する書物だ。萃香の言うとおり、非常に事細かな説明がなされているため、お気に入りである。
さて、東方の魔符というのは万物を模倣し、天地を驚かし、鬼神すら泣かすという印だ。
しかしながら、その形状は至って単純である。
万物の流転を表すお馴染みの陰と陽の太極を中央に据え、それを天を表す乾から地を表す坤までの八卦で囲ったものだ。
ここで八という数字が用いられているのもまた実に興味深いことだ。しかしながら、何故萃香はこの本を借りようなどと思ったのだろう。
「うぅ、道中で魔理沙に出会わなくて良かったよ」
萃香が心配しているのは、もちろん魔理沙のミニ八卦炉のことである。良く見てみれば、あの道具の装飾もまた、東方の魔符に準じているのだ。
そんなに珍しい印ではない。生きていれば何度もお目にかかることがあるだろう。魔法使いならば尚更だ。
しかし、萃香ほど強大な妖怪がその何度も目にするであろう東方の魔符の影響を受けるというのはおかしな話である。僕は言う。
「何か病気にかかっているのかも知れませんよ。数年前に腕の良い医者が現れたと聞きます。訪ねてみてはいかがでしょう」
曰く、鬼ほど仲良くしておいて得をする妖怪は居ないとのことだが、伝説と化しつつあるその力の持ち主を前にして平常心を保っていられるような人間では僕はない。
それに、元々お客様以外と付き合うのはあまり得意としてはいないのだ。だからお引き取り願おうと思ったのだが、萃香はだめだ、だめだ、と手をひらひら振った。
「最近の若い奴らは病気ときたら薬でちゃっちゃと治そうとするからいけない。もうちょっと広い視野で物事を捉えないと駄目だよ、香霖堂。
妖怪はこういう体がやられてしまう病にゃかかりにくい。しかも、私ときたら最強の鬼だぞ。それがこうして体が怠いって言ってるんだから、ただの病気なんかじゃあないのさ」
彼女はにい、と目を細めて屋号で僕を呼び、そう諭した。素朴な態度は、しかし鼻につかない。萃香が正直者の鬼であることもそのことに一役買っているのだろう。
彼女は寝転がったまま、ぺらぺらと本の頁を捲っている。実は、彼女がここを訪れてからまだ四半刻も経過していない。
そろそろ店を閉じようかという頃にこの子が杖をついてやってきたものだから、ただごとではないと思い、店に入れたのだ。面倒なことになりそうだという予感はしたが、鬼を見捨てる勇気はなかった。
置いてある薬は少ないが、何か手当をするべきかと一応問うたのだが、萃香は真っ先に、この本を貸してくれるよう頼んだ。
彼女は疎と密を操る程度の能力を持つ。この子が伊吹萃香の一部なのか、全体なのかは判然としない。
そもそもなぜわざわざ歩いてやってきたのだろうか。だがしかし、それらの疑問は今は訊く必要のないことだった。
「手沢本って言うのかな。ここまで使い込んで貰えたら書物冥利に尽きるだろうねえ。この本に憑いてる神様は幸せもんだ」
何気なく零れた彼女の言葉は嬉しかった。しかし、僕にはまだ分からないことだらけだ。
何故彼女がここに居るのか、何故病気にかかっているというのにのんびりと本の頁を捲っているのか、さっぱり理解できない。
「もし霊夢のやっていたいかがわしい療法を試すのなら、適当な品をお持ちしますが」
いかがわしい療法、と聞いて萃香は首を傾げた。うーん、と赤ら顔でしばらく彼女は唸っていたけれど、やがて口を開く。
「大体何を指してるか分かったけど、もうちょっと頭を使った方が良いね。鬼はあんたが思っているよりずっと賢いんだ」
もちろん、言っている最中からこの提案が何の意味も成していないことは分かっていた。祟り神をでっちあげるあの方法では萃香の病気は治らない。
そのために必要な信仰の量が圧倒的に足りない。そもそも誰が今から霊夢を呼んでくるというのだ。
さて、萃香は辛そうではあるが焦っている様子は全くなかった。まるでそれすらいつものことだと言わんばかりに、暢気に頁を捲り続けている。
訝しげな僕の表情を見て、萃香はしたり顔で笑ってみせた。
「こんなことには鬼は慣れっこなんだよ。同じ事を何年もやってきたからね」
そう語る萃香の顔に、何故か既視感を覚える。いつだったか、似たような会話を交わしたことがあるような気がする。
確か、霊夢が幸運について教えてくれた日のことだ。その時の僕の顔が、ちょうど今の萃香と良く似ているような気がする。
もちろん、自分自身の顔なんて見ることは出来ないし、仮に可能だったとしても覚えているはずがない。
だが、記憶の層は既視感という形でしかと僕に働きかけてきた。
「いいえ、この世に同じことなんて起こりえませんよ」
彼女の言葉には即座に反発した。あの時の霊夢と同じような、得意げな笑みでだ。
僕は何もせずにのうのうと生きてきた訳じゃない。この数年間で様々なことを学んできたのだ。
そしてそれを知識として生かすことも出来ている。少なくとも、僕はそう自己評価している。
萃香は僕の言葉にきょとんとして目を丸くして、しばらく首を捻っていた。
種明かしをするべきかと思っていたが、萃香は、へえ、と心から感心したような息を吐くと、わざわざ一度本から手を離してぱちぱちと手を叩いた。
「こりゃ一本取られたね。文句なし」
なかなか面白い事を言うじゃないか、と彼女は何度も頷いた。やっぱり人間でも妖怪でも無いからかな、と問うて来たが、勉強の成果です、といつも通りに返答した。
これは真実である。萃香に突き返した言葉は僕のものでも、霊夢のものでもない。とてもとても賢いとある人間が放った言葉らしいのだ。
そんなことはどうでもいい。鬼を言い負かしたことで、僕は軽く有頂天になっていた。
「鬼にも勝った香霖堂と宣伝すれば、儲かりますかねえ」
「あははっ、そりゃいいや」
萃香は平然と負けを認めた。膝をぱんっ、と打ち、とても愉快そうだ。だけれど僕は、このことで彼女が本当に賢いのだと再確認することになった。
長い長い時の中を生きる妖怪であればあるほど、
この世の流れは一定の決まった周期の中を動いているに過ぎない、未来は決定している、などと捉えがちだが、実はそれは誤りなのである。
例えば、今存在している全ての物質を三年前と全く同じ状況に配列し直したとしても、三年後に僕がここに座って萃香と語らうということはないだろう。
未来は決定、予測の不可能なものなのだ。人はそれを愚直に信じ、妖怪はそれを経験から否定する。お互いに、愚かなことだ。
人間は一応正解に至ってはいるが、そこに至るまでの経緯がない。それは不正解と同じ事である。
だが、萃香は恐らくこの世界のメカニズムを即座に解し、その上で一本取られたね、とそう言ったのだ。
長きを生きた鬼ならば、六十年毎に一周しているかに見える世界の流れに騙されているかと思ったが、彼女はそうでもないらしい。
ただ単に、萃香は酔いのために言葉の選びを誤っただけなのだ。本当は、僕が小賢しく揚げ足を取ったに過ぎないのである。
それでも萃香は笑って負けを認めた。鬼の中でもイレギュラーと呼ばれる萃香だが、こういう所は本当に鬼らしいと感じる。
「未だに妖怪太陰暦を使ってる山の連中なんかはそりゃもう見事に勘違いしてそうだけどねえ」
萃香はそう言って、きしし、と笑って酒を呑んだ。
「季節の流れすら完璧に当てることが出来るのでしょう? 勘違いしてしまうのも無理はないですね。何事も善し悪しというわけですか」
良いこと言うじゃん、と笑い、萃香はまた酒をあおる。不思議なことだが、段々と彼女の顔色が良くなってきているように見えた。
そんな馬鹿なと思うが、間違いない。先程まで真っ白だった表情が、今では血の気を取り戻してきている。僕の表情に含まれている驚愕に気が付いたのか、萃香はにんまりと笑んだ。
「おっ、私が何で元気になったか気づいてないみたいだな! じゃあ五分五分って事で良いかい? 負けっ放しはあんまり好きじゃなくてさ」
ぐぐい、と顔をこっちに近づけて萃香は強気に笑む。鬼については分からないことばかりだ。いくら僕でも知識もなく鬼について咄嗟に考えを巡らせることはできない。
「勝ち越しで良いですよ。正直あなたに勝とうだなんて大それたことは考えていません。何か売りつけてやろうとすら思えないんですから」
気が向いたら買ってやるよ、と萃香は朗らかに笑って本を返した。実に丁寧な扱いだった。僕は本を丁重に扱う子は嫌いではない。
あの魔理沙ですら、書物はきちんと巻数別に並べているのだ。まあ、それと丁寧に扱っているかどうかには直接的なつながりはないのだが。
そんなことよりも、今は萃香である。東方の魔符程度でも具合を悪くしてしまうのだとしたら、それこそ瀕死である。
ここまで鬼を弱らせることのできるものがあるとするのならば、それは失われた鬼退治の手法に他ならない。
実際、霊夢が本気を出したとしても先程の弱っていた萃香を倒すことは出来ないだろう。
妖怪の山の連中が総出で襲いかかったとしても、勝機は萃香にあるはずだ。それほどまでに強大な存在が、鬼なのだ。力が満ちている状態の彼女を弱らせるのが不可能に近いことは言うまでもない。
そして、だからこそ、あの衰弱ぶりと今の健康ぶりの対比が気にかかる。萃香は言った。
「諦めて訊いてくれても良いよ。それとも、もうちょっと考えてみるかい?」
「考えてみます。あなたがそう言うということは考えれば分かることだということでしょうからね」
もちろんだよ、と言って萃香は横になった。
「じゃあ、その間私は商品を物色してるね」
言って、しかし彼女は酒に口を付け、東方の魔符の記された頁を指でくにくに弄り始めた。一向に動き出す気配はない。
それでも、なんらかの手段を用いて商品を見ているのだろう。理解できないことは、考えない。これが一番である。
今は考えれば分かることを考えよう。萃香は何故病気にかかってしまったのだろうか。
鬼のような強大な種族がどうしてそう簡単に病に倒れるのだろうか。そこには何か大いなる仕掛けがあるはずだった。
萃香はやはりにやにやと笑い、呟いた。
「視野が狭いねえ。幻想郷から飛び出して、地球から飛び出して、宇宙から飛び出せば簡単に分かることじゃないか」
もちろん比喩だよ、と付け加え、また酒を口に含む。見目幼い少女が頬を染めて目を潤ませて喉を鳴らしている様は異様だった。
霊夢や魔理沙もなかなかの酒飲みだが、この伊吹萃香に比べれば赤子のようなものだろう。
ぷはっ、と大きく息継ぎをして、彼女は手の甲で口許を拭った。
「ヒントは、紅魔館でどうだい? ちょっと意地悪か。伏羲について考えてみろって言ったら分かるかな?」
「ふむ……伏羲か」
伏羲といえば、萃香が先程読んでいた書物の大本を示し、そして東方の魔符を生み出した王でもある。体は蛇で、頭は人だ。
三皇の一人、つまり神に等しい幻想となった王であり、彼はひどく聡明で、卦を用い、人々に文明をもたらした。
先述の通り、東方の魔符とは今用いられている八卦の象であり、彼はそれを用い大宇宙を模すことに成功した。
その八卦における二気とは、陰陽である。太極が陰陽二気を作り、陰陽が八卦を作り、八卦が六十四卦を生み出した。
萃香が読んでいたのは、その八卦六十四卦に関わる書である。僕は試しに本の頁を捲ってみた。見知った文句が並べてある。
何度か頁を捲っていると、冒頭部分に気になる箇所を見つけた。病、という文字が目に入ったのである。
一読し、合点がいった。萃香が弱ったのも、当然のことである。むしろ、天界に行った霊夢達がぴんぴんしているのが不思議なくらいだ。
僕は一つだけ気になったことを口にした。
「霊夢も魔理沙も、天界を訪れた者は皆一所に集まりませんでしたか?」
問いに、萃香はそうだねえ、と頷いた。
「では、あなたは天界に残った後、その場所から何度も離れた経験がありますね?」
しょっちゅうだよ、とやはり彼女は笑ってみせた。そのことで、全ての謎が氷解した。僕はほっとして溜息をつく。
「天に長居し過ぎたから、病気になった。それが答えなのですね」
萃香はやはり、頷いた。ならば、僕の仮説は恐らく正しい。
「体を巡る気が、陰陽どちらかに大いに傾けば、体調はすぐに崩れてしまう。天上は陰の気を一切排した場所で、そもそも地上人に向いた場所ではありません。
月夜の晩に力を増すという、陰に比重を置く妖怪ならばその影響は大きいでしょう。あなたは体を巡る気の殆どが陽に傾き、陰の気を失いかけていたのではないですか?
妖怪は多くは陰の気が充溢し過ぎることで心を病み、人は陽の気の充溢で体を病む。ならばあなたが体を病んだのも合点がいきます」
萃香は、にやり、と笑って酒を口に含んだ。賢いねえ、とまた手を叩いて賞賛してくれる。しかしそれはヒントを貰ってのことである。
満足のいく解答とは言い難かった。
「陰の気を萃めることも出来るけど、萃めりゃ良いってもんじゃないからね。
体の中に押し込めば良かったのかな? ま、いいや。
あんまり動いちゃいけないってことも分かってたんだけど、ほら、面倒じゃん? だからぐでぐでしてたらこの始末」
萃香は動いてはならなかった。天界のある一点に集められたのであれば、そこに留まるべきだったのだ。
陽の気も、陰の気も、それ単体が充溢することはありえない。陽と陰が単体で充溢するということは、気の流れに滞りが起こるということに他ならないからだ。
では、実際に陽の気が充ち満ちている天界はなぜ存続することが出来るのか。そのヒントは太極図にある。あの陰陽の図をよく見てみると良い。
白く塗りつぶされた部分には黒い点が、黒く塗りつぶされた部分には白い点が施されているのが目にはいることだろう。
何故陽の気に満ちた白い部分に陰の気の象徴である黒い点があるのか。あれは単なる飾りなどではない。
書物に曰く、陽は極まれば陰に転じ、陰もまた極まれば陽に転ずとある。即ち、陽の気が充ち満ちたその極点からは陰の気が噴き出し、陰の気が充ち満ちたその極点からは、陽の気が噴き出すというのである。
有頂天も陽の気に満たされた場所である。ならば、その極点からは陰の気が噴き出す。
霊夢達が天界に赴いた際には、陽の気が充ち満ちるなか、丁度良く陰の気が混じり合っている箇所に上手く誘導されていたのであろう。
だからこそ、彼女たちは体に一切の変調を来すことなく帰ってきたのだ。
萃香はもともと体の強い鬼だ、多少陰の気が弱まろうとびくともすまい。気が付けば、完全に陽の気に支配された場所に居たのであろう。
天界は土地がありあまっているじゃないか、ずるいぞ、と地上に住む者達は言う。そして萃香もそれを天界に留まるための方便に用いた。
だがしかし、土地がありあまっているのにはれっきとした理由があるのだ。
陽の気の極点、陰の気が噴き出す場所の付近であれば生きることも適おう、しかし陽の気のみが充溢した箇所では、龍ですら身動きを取ることができないと記されている。
上に行くことも、下に行くことも出来ず、ただただ嘆く。陽の気の充溢する天を目指した龍の末路がそれなのだという。
萃香はすんでのところで引き返したのだろう。広い広い天界、なのに使われていない広大な土地。その意味を理解したのだろう。
「病の原因が気の流れの乱れにあることを理解していたあなたは、しかし気についての知識が曖昧だった。
酒のせいか元々なのかは存じませんが……。それで、香霖堂に辿り着いてとりあえず調べ物をしようと思い立ったわけですね」
にこっ、と萃香は笑った。
「大正解! でも、知識が全く無かった訳じゃないんだよ? だったら地底に突進してただろうからね。とりあえず陰の気が満ちている場所に行けばいいんじゃないかってさ。香霖堂に来たのは本当に運が良かった」
その通り。陽の気にあてられたからといって陰の気に満ちた場所に行くのは愚かである。それは猛火に焼かれたからという理由で豪雪の道を歩むようなものだ。
猛火に体を蝕まれたのならば、安定した気候の土地でゆっくりと療養するのが正しい。陽の気にあてられた場合もこれと同じことが言える。
二気が和し、安定した土地に体を置けばよいのである。その点で、この香霖堂ほど優れた場所は他にないだろう。
「中心、調和。香霖堂は本当に良い場所に建っているよ。勿論、地理的にってことじゃない。建てるときに、相当頭捻ったんだろうね。
大げさなって馬鹿にされることも多かったと思うけど、私は評価するね。言葉の力は馬鹿にならないよ。ここには調和がある」
人、妖怪、そして神。全ての中心としての意味を持った香霖堂が揺らぎ無い調和を得ることは疑いようのないことである。
「あなたの陽に傾いた気が元に戻ったのなら、香霖堂も簡易病室として営業できるかも知れませんね」
どうだろうね、と萃香はそれには首を傾げた。
「正直なことを言えば、香霖堂の力は大したことないよ。すぐに元気になったのは、私が鬼だからさ。
私ならほんのちょっぴり陰の気が漂っていればすぐに元気になれたと思うよ。
別に香霖堂に来る必要はなかった。陰と陽の気が和す、丁度良い寝床の条件を調べてる間に、どんどん元気になっていったくらいだからね。
それに、病気を起こす要因なんてそれこそたくさんある。今回みたいに気の傾きだったり、誰かの祟りの仕業だったりね」
「なるほど」
病について僕は一つの仮説を持っているのだが、萃香の考えをもとにすると、他にも面白い考察が可能になることに気が付いた。
人や妖怪の病に対する抵抗力はどれほど気を安定させる力を持っているかに比例する。これはなかなか斬新な考えではなかろうか。
気は流転するものだがその流れには当然速度がある。萃香が気を萃めることは可能だと言ったのがその証左だ。
ならば自分に都合の良いように自然と体の気の流れを調節している者こそが病に強いことになる。
前述の通り、妖怪と人では陰と陽、傾きやすい気の種類が違うのだろう。そうであるならば、人が体の病を得やすく、妖怪が心の病を得やすいということにも納得がいく。
どちらが陰でどちらが陽かは分からないが(恐らくは人が陽、妖怪が陰であろうと僕は思う)、半人半妖である僕にはその陰陽の流れはさながら火と水のように融和し、調和する。
だからこそ僕は病にかかりにくいのかも知れない。仙人、天人はその気の流れをほぼ完全に安定させているのだろう。
勿論、この世に完全なものなど殆どありはしない。そうなるように作られたのだから、それは仕方のないことだ。
天人も久遠の時を生きるかに思えるが、いつかは滅びの時が来る。
全ての物事は、記憶され、その記憶はただただ積み重なっていく。決して減ったり、円を描いたりすることは無い。
層を重ねるばかりなのである。だから全く同じ事象は決して起こりえず、永遠は存在しない。
だからこそ、蓬莱人は異質なのだ。そういえば、月の住人達が地上を去った一因は「穢れ」にあるそうだが、このことももしかしたら気の流れと何か関係があるのかも知れない。
月には陰の気と、僅かばかりの陽の気しか流れていないはずである。そんな地で何故月人は永遠の時を生きることができるのだろうか。気を操る術を得たわけではあるまいに。穢れについては、まだまだ考えるべきことが多そうだ。
ただ、今回の件、一つだけ分からないことがある。それは、萃、即ち調和の名を持つ萃香が何故そう簡単に自身の気の流れを乱したのかということだ。
本当に何も気が付かず、酔いに任せて動いた結果なのか。はたまた何か目的があったからなのか。
常にまっすぐな鬼に策など必要ないのだろうが、しかしこの長命な種族は普通に生きているだけで既に我々の理解の範疇を易々と越えていく。
本人は何も考えていないのかも知れないが、本当は先程の気の話などただの戯れで、僕とちょっとした言葉遊びに興じただけなのかもしれない。
もしくは、今までの気の話こそが、萃香の言う「ヒント」だったのかも知れない。
別の視点からこの話を読み込めば、何か違った側面が見えてくるのかも知れない。僕は大きく息を吐き、萃香と交わした言葉について思いを馳せた。
さて、思索にふけっている間、僕はじっと外を見つめていた。何気なく萃香の方に目を遣ると、彼女はいつの間にか卓袱台に顎を乗せ、ぐでん、と延びていた。
手にはしっかりと瓢箪を握りしめ、すう、すう、と寝息を立てている。丁度良い寝床を探すために本を読んでいたと彼女は言ったが、まさか本当に香霖堂を使うとは思わなかった。
卓袱台の上には古ぼけたオルゴールと緑色が美しい玉が転がっていた。このオルゴールは僕の店に置いてあったものだ。いつの間に持ってきたのだろう。
そして、この玉は代金だということなのだろうか。それとも僕の一勝に対する敬意なのだろうか。
一勝した僕がこの玉を手に入れ、一勝を奪い返した萃香は、オルゴールを手に入れる。つまりは、そういうことなのだろうか。
青い青い空を封じ込めたような品、手に取ってみて、それが青瑪瑙であることを知った。
萃香の言わんとする事は自然と推すことができ、本当に純朴な子なのだと笑みが漏れてしまう。
青瑪瑙といえば、安定や健康を授けてくれる、今の萃香にぴったりな石でもあり、そして富や目標を達成する力をも与えてくれる、僕にとってもぴったりの品だった。
わざわざ曲玉の形にして、ひもを通し、首飾りの形にしてくれていた。対価としては十分どころか十二分だ。むしろ萃香が大赤字である。
しかしこの石の持つ意味を知れば、安易に突き返すのもはばかられた。
僕にも萃香にもぴったりな石、それはつまり友好の証と受け取ることもできる。
決してこの石が気に入ったから、後ろめたさを感じることなく懐に収めるための方便として、今ここで考えたわけではない。
立ち上がり、少し厚めの布団を持ってきて萃香の肩にかけた。剥き出しの肩は少し冷たくて、自分の判断が間違っていないことに満足する。
一瞬で治してしまったといえ、病み上がりは病み上がりだ。気を付けるに越したことはない。ついでだから、紙を半分に折り、上に地、下に天の字を書き、彼女の形の良い頭の上に置いた。
地は本来下にあるもの、天は本来上にあるもの、だからこそ両者は引き合い、地の持つ陰と天の持つ陽はぶつかり合い、そこに調和が生まれるのである。
窓から空を見上げると、傾いた天の川が目に入った。すっかり日は落ち、夜が降りてきたらしい。
そういえば、天の川は鬼神の川なんて異名もあったな、なんて思いながら、萃香の寝顔をじっと見つめていた。
本当に安心しきった、無防備で幸せそうな寝顔だった。そんな太平楽な顔を見ていたためだろうか、段々と瞼が重くなってきた。
だから、僕もまた畳に転がって、目を閉じることにした。
ふわりと和室特有の香りが漂う。それは昼間の熱と湿気がもたらしたものだ。夏は暑いけれど、漂うこの香りだけは嫌いになれない。
一度長い息を吐き、虫の音を聞きながら僕は眠りに落ちていった。
もぞり、と何かが肩に当たる感触に目が覚めた。香霖堂の明かりはいつの間にか落ちている。不思議と体があたたかい。
しばらくして、自分の体が布団に覆われていることに気が付いた。ぱちくりと瞬きをすると、ばつの悪そうな顔をした少女と目があった。
幼い容貌に、長い二本の角。伊吹萃香である。僕の肩のあたりに手をおいているのを見ると、恐らくこの子が布団を掛けようとしてくれたのだろう。
上半身を起こして、ぶんぶんと勢いよく頭を振った。側にあぐらを掻いていた萃香は、僕の肩に置いていた手を引っ込め、頭を掻いて苦笑いを浮かべた。
「あはは、悪いねえ。一人で丸くなっていたから布団を掛けてあげようかと思ったんだけどさ。起こしちゃったみたいだ」
別に良いよ、と寝ぼけ眼を擦りながら時計を確認する。草木も眠る、丑三つ時である。
とはいえ思考に没頭した時や、のんびりとお酒を嗜んでいる時には起きていることも多い。
それに、案外心地の良い目覚めだったからしばらくは眠れそうにない。ん、と声を上げて背伸びをした。その途中で情けなくも欠伸がもれた。
「あはは! 変な顔だなあ、全く」
「君も、せっかくの綺麗な髪が跳ねているよ」
萃香は、むむっ、と唸って手櫛で髪を整えようとしたらしいが、悲しいかな、彼女の長い髪の一端は、ぴろん、と横に向かって反り返っていた。
それが気に入らないらしく、彼女は何度もがしがし髪を引っ張る。これでよくもまあまっすぐで艶やかな髪が保てるものだ。
人間ならばすぐに痛んでしまうに違いない。
「タオルでも蒸して来ようか。しばらく眠れそうにないから、体を動かしたいんだ」
申し出に、萃香はありがとう、と両手で目を擦りながら答えた。ひどく眠そうだった。
とりあえずお勝手に行き、タオルを熱湯に突っ込む。丁度良い湯加減とやらがあるらしいが僕はよく知らない。
鬼ならばなんとかなるだろう。ぎゅうぎゅうと水気を含んだそれを絞り、適当なつまみと一升瓶を携えて奥に戻る。
萃香はこっくりこっくりと舟を漕いでいた。起きているだけでやっとらしい。
僕に教えを垂れてくれた時とは違い、霊夢達の語る威厳のない鬼の像とその姿がぴったり符合した。
じゅるり、と涎を啜り、今にも眠ってしまいそうな彼女の頭の上にぽん、と熱いタオルを置く。
萃香は文句を言うことなく、あぅ、と気持ちよさそうな息をついた。
「良いねぇ……ぽかぽかして凄く気持ちいいよ」
「君は川に飛び込んだだけでひとっ風呂浴びたつもりになりそうな子だからねえ。たまにはあったかくしないと体に悪い」
へへへ、と萃香が笑う。
「健康には厳しいって聞いてたけど本当なんだねえ」
「誰からそんな事を?」
問うと、萃香は霊夢と魔理沙から聞いた、と答えた。あの二人が病気になると迷惑するのは僕なのだ。
妖夢あたりに話を聞けば印象は変わると教えると、覚えておくよと萃香は弛んだ表情で返した。
手はだらんと下げたまま一向に動かす気配がないので、仕方なく僕が髪を梳く。気が付けば敬語が崩れてしまっていたが、いつものことだ。気にすることはあるまい。そのことで注意された経験もない。
萃香は僕の手に合わせて頭を揺すりながら、気持ちよさそうに息を吐いていた。
よく見れば、おろした手にはしっかりとオルゴールを握りしめていた。そして、卓袱台の上にはやはり青瑪瑙が転がっている。
「オルゴールがお気に召したのですか?」
「急に敬語に戻るなよー。お気に召したんだけどね。貰っていくよ」
「では僕は卓袱台の上の青瑪瑙を貰っていきますよ」
「持ってけ持ってけ」
萃香は調子よく笑った。先程より眠気は緩和されているようだったけれど、それでもまだ少しばかり眠いのかも知れない。
その曖昧な釣り合いがまた、心地よくもある。やっぱり陰と陽の二極の釣り合いに似ているな、ほどほどが丁度良い。
そんなことを考えてしまう自分は、つくづく思索に耽るのが好きなのだろう。
あぐらを掻いて座る萃香が見上げているのは四角い窓に切り取られた星空だ。
うっすらと差し込む光が部屋をおぼろに蒼く照らし出していた。
蒼というのは本当に不思議な色で、他に何と表しようもない。静的な美しさを感じる。
まるで、全てがしいんと静まりかえってしまっているようだ。
いつの間にか、手を動かすのは止めていた。タオルは熱を失い始めていたので、桶に投げ込む。
角度が悪かったためか、タオルは中に入ったものの、からん、という音を立てて桶が倒れた。
その一際目立つ乾いた音が、後の沈黙を助長する。
萃香は音を立てぬよう瓢箪を手に取り、口づけた。僕には鬼の酒は強すぎて呑めまい。
だから、僕はお勝手から一升瓶を持ってきたのだ。このお酒を造ってくれた神様に感謝しつつ、とくとくとお猪口に注いで口に運ぶ。
外は風が強いのか、森の木々がたてるざわざわざわという強い音が店内に届く。
鼻を鳴らすと、湿気た土の香が広がった気がした。空に浮かぶ星の群れは、どこか薄い緑色の翡翠を彷彿とさせる。
不老、そして再生を司るその石の色は時が止まったかのような夜を象徴していた。持ってきたつまみに手を伸ばし、しかし口に運ぶことはしなかった。
外に出れば幻想郷を覆う天蓋に圧倒されることになるのだろうが、しかし狭い部屋で幽かな光を浴びながら呑む酒もまた絶品であった。
仄かに香るとろりとした液体を口の中で転がし、嚥下する。冷たかったはずのそれは瞬時に心地よい熱をもってして食道を灼く。
水と火の融和。なるほど全くもってこの両者の組み合わせは最適である。
もう一度、窓の外に目を遣った。ひとつ仕切りの向こう側にあるためか、光の弱い星々の像は霞んでいた。萃香はそろそろと右腕をその窓に向けてのばす。
「儚いねえ」
空を見つめたまま、萃香は小さく呟いた。言葉は部屋中にじんわりと溶けて、しみこんでいくようだった。
「天蓋に映っているだけの夜空は、硝子みたいに脆い。
あんなにたくさんの輝きも、拳一つで粉々になっちゃうんだもんなあ」
ねえ、と萃香が振り返った。しかし、そのまま彼女は何も言わなかった。言葉を選んでいるのか、それとも何か意図があるのか。
彼女はじいと僕を見上げたまま一言も口にしない。どこから風が忍び込んできたのだろう、細い髪の束をゆらりとさらった。
天がもたらす淡い光が銀色に限りなく近い反射を見せた。萃香は一度、二度、瞬きをした。彼女が問いを発するのには、長い時間がかかった。
「あんたはあの夜空に張り付いた紛い物をどう思う?」
彼女の問いはひどく感覚的なものだった。紛い物の星空。それは萃香がここを訪れる前から考え続けていたことだった。
ただ天蓋に映っているに過ぎない月、そして星。萃香はそう語る。
北極星を食らおうとする北斗七星も、この鬼にゆかりのあるオリオン座も、全ては投影されたものに過ぎない。
確かにそれは事実なのだろう。だがしかし、それを儚いと評するには僕の力はあまりに脆弱だった。
「紛い物も本物も、僕にとっては同じことです。触れることすら出来ないのならば、畏れ多いには違いない」
そっか、と彼女は小さく頷いた。感心したような、それでいて少し落胆したような、心の底からわき出たような呟きだった。
「強過ぎるってのも、問題有りだねえ」
彼女の目には、偽物の空はどう映っているのだろうか。
儚いからこその繊細な美しさを保持していると思っているのか、それともガラス玉のような安っぽいものだと蔑んでいるのか。
推すことは出来ようが知ることはかなわない。萃香はおんぼろのオルゴールの蓋を開く。
広く、そしてしんとした大部屋で透明の氷を打ったかのような、清い音が一つ、響いた。
そのオルゴールは、とうの昔に壊れていた。装飾が美しいので置いてあったに過ぎない。だが彼女はその壊れた音を気に入ったらしかった。
何の規則性もなく、時折澄んだ音が一つ、弾き出される。萃香はまた、ぽつりと呟いた。
「名品だよ」
名品だったのでしょうね、と返すと、萃香は首を横に振り、もう一度、名品だよ、と繰り返した。それ以外、何も語ろうとはしなかった。
このオルゴールは、この形になってようやく完成したのだと、そう伝えたいのだろう。一瞬蒼い沈んだ空間を駆ける、決して弱くはないその音色を表す言葉を僕は知らない。
ぴん、でも、ぽん、でもない。透明で綺麗なものを弾いた音。そう表現する他無かった。卓袱台にただ一つ所在なげに転がっている青瑪瑙は、幽かな光を反射し、艶やかに輝いていた。
決して自己主張せず、しかし一切その価値を損ねてはいない。手に取り、窓の光に翳してみた。偽物ばかりの空の下、それは変わらぬ色を見せてくれた。
オルゴールがまた一つ音を奏でる。ああ、確かに紛う事なき名品だ。動いてはおらず、しかし、止まることもまたなし。
断続的に弾き出される音を聞く間、僕はお猪口に手を伸ばすことをしなかった。目は冴えていた。
萃香が立ち上がった。掌に、小さなオルゴールの箱を包み込んで。見上げる僕に、彼女は空を見上げ、言葉を一つ。
さようなら、さようなら。
踵を返した彼女を追って、髪の毛がはらりと軌跡を描く。ただただ静かに音もなく、名残惜しげな様子も見せず、伊吹萃香は去っていった。
残された僕は空を見上げる。流れ星が一つ煌めいた。鼻を鳴らしても土の匂いはもうせずに、畳と、ほんの僅かな酒の香りが漂っていた。
お猪口に僅かに残った酒は、遠い空の色を含んでいた。天蓋に映る星、水に映る月、どちらも等しく偽物だ。だけれど、水に映った空ならば、僕とて壊すことが出来る。
だから萃香に与えられた問いの答えを考える。もう時間切れになってしまったけれど、考えることに、きっと意味はある。
夜はゆっくりと更けてゆく。空を映してきらめく酒をちびりちびりと呑み干して、そうして僕は、思索に耽る。
オルゴールの音一つ。遠いどこかでこだました。とある月の美しい晩のことであった。
唯一本物を挙げるとするならば、それは流れ星だ。流れ星は星ではないが故にただ一つ、我々が目にすることの出来る、空が持つ真実の形である。
日中は熱と湿気のために蒸し暑い店内も、日が沈むにつれ不快さの要因二つが放逐され、過ごしやすくなる。
熱と湿気、この両者が何故このように大きな不快感をもたらすのか、そこには当然ながら理由がある。
熱をもたらす火、そして湿気をもたらす水、この離火坎水は性質こそ正反対だが、しかし相互に機能しあい、反発することはないという興味深い特性を持っているのだ。
風呂の温かさも、蒸し暑い部屋の不快さも、両者が機能した結果である。
水と火は組み合わせることで陰陽の比が調和するということもまた興味深い。
万物の流れにおいて陰陽は互いに無くてはならない存在だが、火と水はその特性を引き継いでいるのかも知れない。
「それで、あなたは一体何をしているのですか」
両手で頭をおさえ、ごろごろと奥の間を転がる伊吹萃香を見下ろし、軽く溜息をついた。
彼女の小さな手の中には僕の貸し与えた幾つかの書物があった。
何の前触れもなく香霖堂にやってきた彼女は、僕に頼み込んで本を借り、今ここでうんうんと頭をおさえて唸っている。
訪れた時も調子が悪そうだったが、今は一層辛そうだ。彼女は何の反動も必要とせず、上半身をぐいと持ち上げてみせた。
心なしか、目が潤んでいるように見える。たいそう苦しそうだ。本を両手で抱え、上目遣いに僕を睨め付けるようにして、彼女は言った。
「体が弱っていれば東方の魔符を見るだけでもこんなに辛いもんなんだねえ。でも、これは良い本だね。分かりやすい」
にこりと笑って本を褒めたが、すぐに彼女はまた頭をおさえて転がりだした。
僕が彼女に貸し与えたのは万物の流転を説明する書物だ。萃香の言うとおり、非常に事細かな説明がなされているため、お気に入りである。
さて、東方の魔符というのは万物を模倣し、天地を驚かし、鬼神すら泣かすという印だ。
しかしながら、その形状は至って単純である。
万物の流転を表すお馴染みの陰と陽の太極を中央に据え、それを天を表す乾から地を表す坤までの八卦で囲ったものだ。
ここで八という数字が用いられているのもまた実に興味深いことだ。しかしながら、何故萃香はこの本を借りようなどと思ったのだろう。
「うぅ、道中で魔理沙に出会わなくて良かったよ」
萃香が心配しているのは、もちろん魔理沙のミニ八卦炉のことである。良く見てみれば、あの道具の装飾もまた、東方の魔符に準じているのだ。
そんなに珍しい印ではない。生きていれば何度もお目にかかることがあるだろう。魔法使いならば尚更だ。
しかし、萃香ほど強大な妖怪がその何度も目にするであろう東方の魔符の影響を受けるというのはおかしな話である。僕は言う。
「何か病気にかかっているのかも知れませんよ。数年前に腕の良い医者が現れたと聞きます。訪ねてみてはいかがでしょう」
曰く、鬼ほど仲良くしておいて得をする妖怪は居ないとのことだが、伝説と化しつつあるその力の持ち主を前にして平常心を保っていられるような人間では僕はない。
それに、元々お客様以外と付き合うのはあまり得意としてはいないのだ。だからお引き取り願おうと思ったのだが、萃香はだめだ、だめだ、と手をひらひら振った。
「最近の若い奴らは病気ときたら薬でちゃっちゃと治そうとするからいけない。もうちょっと広い視野で物事を捉えないと駄目だよ、香霖堂。
妖怪はこういう体がやられてしまう病にゃかかりにくい。しかも、私ときたら最強の鬼だぞ。それがこうして体が怠いって言ってるんだから、ただの病気なんかじゃあないのさ」
彼女はにい、と目を細めて屋号で僕を呼び、そう諭した。素朴な態度は、しかし鼻につかない。萃香が正直者の鬼であることもそのことに一役買っているのだろう。
彼女は寝転がったまま、ぺらぺらと本の頁を捲っている。実は、彼女がここを訪れてからまだ四半刻も経過していない。
そろそろ店を閉じようかという頃にこの子が杖をついてやってきたものだから、ただごとではないと思い、店に入れたのだ。面倒なことになりそうだという予感はしたが、鬼を見捨てる勇気はなかった。
置いてある薬は少ないが、何か手当をするべきかと一応問うたのだが、萃香は真っ先に、この本を貸してくれるよう頼んだ。
彼女は疎と密を操る程度の能力を持つ。この子が伊吹萃香の一部なのか、全体なのかは判然としない。
そもそもなぜわざわざ歩いてやってきたのだろうか。だがしかし、それらの疑問は今は訊く必要のないことだった。
「手沢本って言うのかな。ここまで使い込んで貰えたら書物冥利に尽きるだろうねえ。この本に憑いてる神様は幸せもんだ」
何気なく零れた彼女の言葉は嬉しかった。しかし、僕にはまだ分からないことだらけだ。
何故彼女がここに居るのか、何故病気にかかっているというのにのんびりと本の頁を捲っているのか、さっぱり理解できない。
「もし霊夢のやっていたいかがわしい療法を試すのなら、適当な品をお持ちしますが」
いかがわしい療法、と聞いて萃香は首を傾げた。うーん、と赤ら顔でしばらく彼女は唸っていたけれど、やがて口を開く。
「大体何を指してるか分かったけど、もうちょっと頭を使った方が良いね。鬼はあんたが思っているよりずっと賢いんだ」
もちろん、言っている最中からこの提案が何の意味も成していないことは分かっていた。祟り神をでっちあげるあの方法では萃香の病気は治らない。
そのために必要な信仰の量が圧倒的に足りない。そもそも誰が今から霊夢を呼んでくるというのだ。
さて、萃香は辛そうではあるが焦っている様子は全くなかった。まるでそれすらいつものことだと言わんばかりに、暢気に頁を捲り続けている。
訝しげな僕の表情を見て、萃香はしたり顔で笑ってみせた。
「こんなことには鬼は慣れっこなんだよ。同じ事を何年もやってきたからね」
そう語る萃香の顔に、何故か既視感を覚える。いつだったか、似たような会話を交わしたことがあるような気がする。
確か、霊夢が幸運について教えてくれた日のことだ。その時の僕の顔が、ちょうど今の萃香と良く似ているような気がする。
もちろん、自分自身の顔なんて見ることは出来ないし、仮に可能だったとしても覚えているはずがない。
だが、記憶の層は既視感という形でしかと僕に働きかけてきた。
「いいえ、この世に同じことなんて起こりえませんよ」
彼女の言葉には即座に反発した。あの時の霊夢と同じような、得意げな笑みでだ。
僕は何もせずにのうのうと生きてきた訳じゃない。この数年間で様々なことを学んできたのだ。
そしてそれを知識として生かすことも出来ている。少なくとも、僕はそう自己評価している。
萃香は僕の言葉にきょとんとして目を丸くして、しばらく首を捻っていた。
種明かしをするべきかと思っていたが、萃香は、へえ、と心から感心したような息を吐くと、わざわざ一度本から手を離してぱちぱちと手を叩いた。
「こりゃ一本取られたね。文句なし」
なかなか面白い事を言うじゃないか、と彼女は何度も頷いた。やっぱり人間でも妖怪でも無いからかな、と問うて来たが、勉強の成果です、といつも通りに返答した。
これは真実である。萃香に突き返した言葉は僕のものでも、霊夢のものでもない。とてもとても賢いとある人間が放った言葉らしいのだ。
そんなことはどうでもいい。鬼を言い負かしたことで、僕は軽く有頂天になっていた。
「鬼にも勝った香霖堂と宣伝すれば、儲かりますかねえ」
「あははっ、そりゃいいや」
萃香は平然と負けを認めた。膝をぱんっ、と打ち、とても愉快そうだ。だけれど僕は、このことで彼女が本当に賢いのだと再確認することになった。
長い長い時の中を生きる妖怪であればあるほど、
この世の流れは一定の決まった周期の中を動いているに過ぎない、未来は決定している、などと捉えがちだが、実はそれは誤りなのである。
例えば、今存在している全ての物質を三年前と全く同じ状況に配列し直したとしても、三年後に僕がここに座って萃香と語らうということはないだろう。
未来は決定、予測の不可能なものなのだ。人はそれを愚直に信じ、妖怪はそれを経験から否定する。お互いに、愚かなことだ。
人間は一応正解に至ってはいるが、そこに至るまでの経緯がない。それは不正解と同じ事である。
だが、萃香は恐らくこの世界のメカニズムを即座に解し、その上で一本取られたね、とそう言ったのだ。
長きを生きた鬼ならば、六十年毎に一周しているかに見える世界の流れに騙されているかと思ったが、彼女はそうでもないらしい。
ただ単に、萃香は酔いのために言葉の選びを誤っただけなのだ。本当は、僕が小賢しく揚げ足を取ったに過ぎないのである。
それでも萃香は笑って負けを認めた。鬼の中でもイレギュラーと呼ばれる萃香だが、こういう所は本当に鬼らしいと感じる。
「未だに妖怪太陰暦を使ってる山の連中なんかはそりゃもう見事に勘違いしてそうだけどねえ」
萃香はそう言って、きしし、と笑って酒を呑んだ。
「季節の流れすら完璧に当てることが出来るのでしょう? 勘違いしてしまうのも無理はないですね。何事も善し悪しというわけですか」
良いこと言うじゃん、と笑い、萃香はまた酒をあおる。不思議なことだが、段々と彼女の顔色が良くなってきているように見えた。
そんな馬鹿なと思うが、間違いない。先程まで真っ白だった表情が、今では血の気を取り戻してきている。僕の表情に含まれている驚愕に気が付いたのか、萃香はにんまりと笑んだ。
「おっ、私が何で元気になったか気づいてないみたいだな! じゃあ五分五分って事で良いかい? 負けっ放しはあんまり好きじゃなくてさ」
ぐぐい、と顔をこっちに近づけて萃香は強気に笑む。鬼については分からないことばかりだ。いくら僕でも知識もなく鬼について咄嗟に考えを巡らせることはできない。
「勝ち越しで良いですよ。正直あなたに勝とうだなんて大それたことは考えていません。何か売りつけてやろうとすら思えないんですから」
気が向いたら買ってやるよ、と萃香は朗らかに笑って本を返した。実に丁寧な扱いだった。僕は本を丁重に扱う子は嫌いではない。
あの魔理沙ですら、書物はきちんと巻数別に並べているのだ。まあ、それと丁寧に扱っているかどうかには直接的なつながりはないのだが。
そんなことよりも、今は萃香である。東方の魔符程度でも具合を悪くしてしまうのだとしたら、それこそ瀕死である。
ここまで鬼を弱らせることのできるものがあるとするのならば、それは失われた鬼退治の手法に他ならない。
実際、霊夢が本気を出したとしても先程の弱っていた萃香を倒すことは出来ないだろう。
妖怪の山の連中が総出で襲いかかったとしても、勝機は萃香にあるはずだ。それほどまでに強大な存在が、鬼なのだ。力が満ちている状態の彼女を弱らせるのが不可能に近いことは言うまでもない。
そして、だからこそ、あの衰弱ぶりと今の健康ぶりの対比が気にかかる。萃香は言った。
「諦めて訊いてくれても良いよ。それとも、もうちょっと考えてみるかい?」
「考えてみます。あなたがそう言うということは考えれば分かることだということでしょうからね」
もちろんだよ、と言って萃香は横になった。
「じゃあ、その間私は商品を物色してるね」
言って、しかし彼女は酒に口を付け、東方の魔符の記された頁を指でくにくに弄り始めた。一向に動き出す気配はない。
それでも、なんらかの手段を用いて商品を見ているのだろう。理解できないことは、考えない。これが一番である。
今は考えれば分かることを考えよう。萃香は何故病気にかかってしまったのだろうか。
鬼のような強大な種族がどうしてそう簡単に病に倒れるのだろうか。そこには何か大いなる仕掛けがあるはずだった。
萃香はやはりにやにやと笑い、呟いた。
「視野が狭いねえ。幻想郷から飛び出して、地球から飛び出して、宇宙から飛び出せば簡単に分かることじゃないか」
もちろん比喩だよ、と付け加え、また酒を口に含む。見目幼い少女が頬を染めて目を潤ませて喉を鳴らしている様は異様だった。
霊夢や魔理沙もなかなかの酒飲みだが、この伊吹萃香に比べれば赤子のようなものだろう。
ぷはっ、と大きく息継ぎをして、彼女は手の甲で口許を拭った。
「ヒントは、紅魔館でどうだい? ちょっと意地悪か。伏羲について考えてみろって言ったら分かるかな?」
「ふむ……伏羲か」
伏羲といえば、萃香が先程読んでいた書物の大本を示し、そして東方の魔符を生み出した王でもある。体は蛇で、頭は人だ。
三皇の一人、つまり神に等しい幻想となった王であり、彼はひどく聡明で、卦を用い、人々に文明をもたらした。
先述の通り、東方の魔符とは今用いられている八卦の象であり、彼はそれを用い大宇宙を模すことに成功した。
その八卦における二気とは、陰陽である。太極が陰陽二気を作り、陰陽が八卦を作り、八卦が六十四卦を生み出した。
萃香が読んでいたのは、その八卦六十四卦に関わる書である。僕は試しに本の頁を捲ってみた。見知った文句が並べてある。
何度か頁を捲っていると、冒頭部分に気になる箇所を見つけた。病、という文字が目に入ったのである。
一読し、合点がいった。萃香が弱ったのも、当然のことである。むしろ、天界に行った霊夢達がぴんぴんしているのが不思議なくらいだ。
僕は一つだけ気になったことを口にした。
「霊夢も魔理沙も、天界を訪れた者は皆一所に集まりませんでしたか?」
問いに、萃香はそうだねえ、と頷いた。
「では、あなたは天界に残った後、その場所から何度も離れた経験がありますね?」
しょっちゅうだよ、とやはり彼女は笑ってみせた。そのことで、全ての謎が氷解した。僕はほっとして溜息をつく。
「天に長居し過ぎたから、病気になった。それが答えなのですね」
萃香はやはり、頷いた。ならば、僕の仮説は恐らく正しい。
「体を巡る気が、陰陽どちらかに大いに傾けば、体調はすぐに崩れてしまう。天上は陰の気を一切排した場所で、そもそも地上人に向いた場所ではありません。
月夜の晩に力を増すという、陰に比重を置く妖怪ならばその影響は大きいでしょう。あなたは体を巡る気の殆どが陽に傾き、陰の気を失いかけていたのではないですか?
妖怪は多くは陰の気が充溢し過ぎることで心を病み、人は陽の気の充溢で体を病む。ならばあなたが体を病んだのも合点がいきます」
萃香は、にやり、と笑って酒を口に含んだ。賢いねえ、とまた手を叩いて賞賛してくれる。しかしそれはヒントを貰ってのことである。
満足のいく解答とは言い難かった。
「陰の気を萃めることも出来るけど、萃めりゃ良いってもんじゃないからね。
体の中に押し込めば良かったのかな? ま、いいや。
あんまり動いちゃいけないってことも分かってたんだけど、ほら、面倒じゃん? だからぐでぐでしてたらこの始末」
萃香は動いてはならなかった。天界のある一点に集められたのであれば、そこに留まるべきだったのだ。
陽の気も、陰の気も、それ単体が充溢することはありえない。陽と陰が単体で充溢するということは、気の流れに滞りが起こるということに他ならないからだ。
では、実際に陽の気が充ち満ちている天界はなぜ存続することが出来るのか。そのヒントは太極図にある。あの陰陽の図をよく見てみると良い。
白く塗りつぶされた部分には黒い点が、黒く塗りつぶされた部分には白い点が施されているのが目にはいることだろう。
何故陽の気に満ちた白い部分に陰の気の象徴である黒い点があるのか。あれは単なる飾りなどではない。
書物に曰く、陽は極まれば陰に転じ、陰もまた極まれば陽に転ずとある。即ち、陽の気が充ち満ちたその極点からは陰の気が噴き出し、陰の気が充ち満ちたその極点からは、陽の気が噴き出すというのである。
有頂天も陽の気に満たされた場所である。ならば、その極点からは陰の気が噴き出す。
霊夢達が天界に赴いた際には、陽の気が充ち満ちるなか、丁度良く陰の気が混じり合っている箇所に上手く誘導されていたのであろう。
だからこそ、彼女たちは体に一切の変調を来すことなく帰ってきたのだ。
萃香はもともと体の強い鬼だ、多少陰の気が弱まろうとびくともすまい。気が付けば、完全に陽の気に支配された場所に居たのであろう。
天界は土地がありあまっているじゃないか、ずるいぞ、と地上に住む者達は言う。そして萃香もそれを天界に留まるための方便に用いた。
だがしかし、土地がありあまっているのにはれっきとした理由があるのだ。
陽の気の極点、陰の気が噴き出す場所の付近であれば生きることも適おう、しかし陽の気のみが充溢した箇所では、龍ですら身動きを取ることができないと記されている。
上に行くことも、下に行くことも出来ず、ただただ嘆く。陽の気の充溢する天を目指した龍の末路がそれなのだという。
萃香はすんでのところで引き返したのだろう。広い広い天界、なのに使われていない広大な土地。その意味を理解したのだろう。
「病の原因が気の流れの乱れにあることを理解していたあなたは、しかし気についての知識が曖昧だった。
酒のせいか元々なのかは存じませんが……。それで、香霖堂に辿り着いてとりあえず調べ物をしようと思い立ったわけですね」
にこっ、と萃香は笑った。
「大正解! でも、知識が全く無かった訳じゃないんだよ? だったら地底に突進してただろうからね。とりあえず陰の気が満ちている場所に行けばいいんじゃないかってさ。香霖堂に来たのは本当に運が良かった」
その通り。陽の気にあてられたからといって陰の気に満ちた場所に行くのは愚かである。それは猛火に焼かれたからという理由で豪雪の道を歩むようなものだ。
猛火に体を蝕まれたのならば、安定した気候の土地でゆっくりと療養するのが正しい。陽の気にあてられた場合もこれと同じことが言える。
二気が和し、安定した土地に体を置けばよいのである。その点で、この香霖堂ほど優れた場所は他にないだろう。
「中心、調和。香霖堂は本当に良い場所に建っているよ。勿論、地理的にってことじゃない。建てるときに、相当頭捻ったんだろうね。
大げさなって馬鹿にされることも多かったと思うけど、私は評価するね。言葉の力は馬鹿にならないよ。ここには調和がある」
人、妖怪、そして神。全ての中心としての意味を持った香霖堂が揺らぎ無い調和を得ることは疑いようのないことである。
「あなたの陽に傾いた気が元に戻ったのなら、香霖堂も簡易病室として営業できるかも知れませんね」
どうだろうね、と萃香はそれには首を傾げた。
「正直なことを言えば、香霖堂の力は大したことないよ。すぐに元気になったのは、私が鬼だからさ。
私ならほんのちょっぴり陰の気が漂っていればすぐに元気になれたと思うよ。
別に香霖堂に来る必要はなかった。陰と陽の気が和す、丁度良い寝床の条件を調べてる間に、どんどん元気になっていったくらいだからね。
それに、病気を起こす要因なんてそれこそたくさんある。今回みたいに気の傾きだったり、誰かの祟りの仕業だったりね」
「なるほど」
病について僕は一つの仮説を持っているのだが、萃香の考えをもとにすると、他にも面白い考察が可能になることに気が付いた。
人や妖怪の病に対する抵抗力はどれほど気を安定させる力を持っているかに比例する。これはなかなか斬新な考えではなかろうか。
気は流転するものだがその流れには当然速度がある。萃香が気を萃めることは可能だと言ったのがその証左だ。
ならば自分に都合の良いように自然と体の気の流れを調節している者こそが病に強いことになる。
前述の通り、妖怪と人では陰と陽、傾きやすい気の種類が違うのだろう。そうであるならば、人が体の病を得やすく、妖怪が心の病を得やすいということにも納得がいく。
どちらが陰でどちらが陽かは分からないが(恐らくは人が陽、妖怪が陰であろうと僕は思う)、半人半妖である僕にはその陰陽の流れはさながら火と水のように融和し、調和する。
だからこそ僕は病にかかりにくいのかも知れない。仙人、天人はその気の流れをほぼ完全に安定させているのだろう。
勿論、この世に完全なものなど殆どありはしない。そうなるように作られたのだから、それは仕方のないことだ。
天人も久遠の時を生きるかに思えるが、いつかは滅びの時が来る。
全ての物事は、記憶され、その記憶はただただ積み重なっていく。決して減ったり、円を描いたりすることは無い。
層を重ねるばかりなのである。だから全く同じ事象は決して起こりえず、永遠は存在しない。
だからこそ、蓬莱人は異質なのだ。そういえば、月の住人達が地上を去った一因は「穢れ」にあるそうだが、このことももしかしたら気の流れと何か関係があるのかも知れない。
月には陰の気と、僅かばかりの陽の気しか流れていないはずである。そんな地で何故月人は永遠の時を生きることができるのだろうか。気を操る術を得たわけではあるまいに。穢れについては、まだまだ考えるべきことが多そうだ。
ただ、今回の件、一つだけ分からないことがある。それは、萃、即ち調和の名を持つ萃香が何故そう簡単に自身の気の流れを乱したのかということだ。
本当に何も気が付かず、酔いに任せて動いた結果なのか。はたまた何か目的があったからなのか。
常にまっすぐな鬼に策など必要ないのだろうが、しかしこの長命な種族は普通に生きているだけで既に我々の理解の範疇を易々と越えていく。
本人は何も考えていないのかも知れないが、本当は先程の気の話などただの戯れで、僕とちょっとした言葉遊びに興じただけなのかもしれない。
もしくは、今までの気の話こそが、萃香の言う「ヒント」だったのかも知れない。
別の視点からこの話を読み込めば、何か違った側面が見えてくるのかも知れない。僕は大きく息を吐き、萃香と交わした言葉について思いを馳せた。
さて、思索にふけっている間、僕はじっと外を見つめていた。何気なく萃香の方に目を遣ると、彼女はいつの間にか卓袱台に顎を乗せ、ぐでん、と延びていた。
手にはしっかりと瓢箪を握りしめ、すう、すう、と寝息を立てている。丁度良い寝床を探すために本を読んでいたと彼女は言ったが、まさか本当に香霖堂を使うとは思わなかった。
卓袱台の上には古ぼけたオルゴールと緑色が美しい玉が転がっていた。このオルゴールは僕の店に置いてあったものだ。いつの間に持ってきたのだろう。
そして、この玉は代金だということなのだろうか。それとも僕の一勝に対する敬意なのだろうか。
一勝した僕がこの玉を手に入れ、一勝を奪い返した萃香は、オルゴールを手に入れる。つまりは、そういうことなのだろうか。
青い青い空を封じ込めたような品、手に取ってみて、それが青瑪瑙であることを知った。
萃香の言わんとする事は自然と推すことができ、本当に純朴な子なのだと笑みが漏れてしまう。
青瑪瑙といえば、安定や健康を授けてくれる、今の萃香にぴったりな石でもあり、そして富や目標を達成する力をも与えてくれる、僕にとってもぴったりの品だった。
わざわざ曲玉の形にして、ひもを通し、首飾りの形にしてくれていた。対価としては十分どころか十二分だ。むしろ萃香が大赤字である。
しかしこの石の持つ意味を知れば、安易に突き返すのもはばかられた。
僕にも萃香にもぴったりな石、それはつまり友好の証と受け取ることもできる。
決してこの石が気に入ったから、後ろめたさを感じることなく懐に収めるための方便として、今ここで考えたわけではない。
立ち上がり、少し厚めの布団を持ってきて萃香の肩にかけた。剥き出しの肩は少し冷たくて、自分の判断が間違っていないことに満足する。
一瞬で治してしまったといえ、病み上がりは病み上がりだ。気を付けるに越したことはない。ついでだから、紙を半分に折り、上に地、下に天の字を書き、彼女の形の良い頭の上に置いた。
地は本来下にあるもの、天は本来上にあるもの、だからこそ両者は引き合い、地の持つ陰と天の持つ陽はぶつかり合い、そこに調和が生まれるのである。
窓から空を見上げると、傾いた天の川が目に入った。すっかり日は落ち、夜が降りてきたらしい。
そういえば、天の川は鬼神の川なんて異名もあったな、なんて思いながら、萃香の寝顔をじっと見つめていた。
本当に安心しきった、無防備で幸せそうな寝顔だった。そんな太平楽な顔を見ていたためだろうか、段々と瞼が重くなってきた。
だから、僕もまた畳に転がって、目を閉じることにした。
ふわりと和室特有の香りが漂う。それは昼間の熱と湿気がもたらしたものだ。夏は暑いけれど、漂うこの香りだけは嫌いになれない。
一度長い息を吐き、虫の音を聞きながら僕は眠りに落ちていった。
もぞり、と何かが肩に当たる感触に目が覚めた。香霖堂の明かりはいつの間にか落ちている。不思議と体があたたかい。
しばらくして、自分の体が布団に覆われていることに気が付いた。ぱちくりと瞬きをすると、ばつの悪そうな顔をした少女と目があった。
幼い容貌に、長い二本の角。伊吹萃香である。僕の肩のあたりに手をおいているのを見ると、恐らくこの子が布団を掛けようとしてくれたのだろう。
上半身を起こして、ぶんぶんと勢いよく頭を振った。側にあぐらを掻いていた萃香は、僕の肩に置いていた手を引っ込め、頭を掻いて苦笑いを浮かべた。
「あはは、悪いねえ。一人で丸くなっていたから布団を掛けてあげようかと思ったんだけどさ。起こしちゃったみたいだ」
別に良いよ、と寝ぼけ眼を擦りながら時計を確認する。草木も眠る、丑三つ時である。
とはいえ思考に没頭した時や、のんびりとお酒を嗜んでいる時には起きていることも多い。
それに、案外心地の良い目覚めだったからしばらくは眠れそうにない。ん、と声を上げて背伸びをした。その途中で情けなくも欠伸がもれた。
「あはは! 変な顔だなあ、全く」
「君も、せっかくの綺麗な髪が跳ねているよ」
萃香は、むむっ、と唸って手櫛で髪を整えようとしたらしいが、悲しいかな、彼女の長い髪の一端は、ぴろん、と横に向かって反り返っていた。
それが気に入らないらしく、彼女は何度もがしがし髪を引っ張る。これでよくもまあまっすぐで艶やかな髪が保てるものだ。
人間ならばすぐに痛んでしまうに違いない。
「タオルでも蒸して来ようか。しばらく眠れそうにないから、体を動かしたいんだ」
申し出に、萃香はありがとう、と両手で目を擦りながら答えた。ひどく眠そうだった。
とりあえずお勝手に行き、タオルを熱湯に突っ込む。丁度良い湯加減とやらがあるらしいが僕はよく知らない。
鬼ならばなんとかなるだろう。ぎゅうぎゅうと水気を含んだそれを絞り、適当なつまみと一升瓶を携えて奥に戻る。
萃香はこっくりこっくりと舟を漕いでいた。起きているだけでやっとらしい。
僕に教えを垂れてくれた時とは違い、霊夢達の語る威厳のない鬼の像とその姿がぴったり符合した。
じゅるり、と涎を啜り、今にも眠ってしまいそうな彼女の頭の上にぽん、と熱いタオルを置く。
萃香は文句を言うことなく、あぅ、と気持ちよさそうな息をついた。
「良いねぇ……ぽかぽかして凄く気持ちいいよ」
「君は川に飛び込んだだけでひとっ風呂浴びたつもりになりそうな子だからねえ。たまにはあったかくしないと体に悪い」
へへへ、と萃香が笑う。
「健康には厳しいって聞いてたけど本当なんだねえ」
「誰からそんな事を?」
問うと、萃香は霊夢と魔理沙から聞いた、と答えた。あの二人が病気になると迷惑するのは僕なのだ。
妖夢あたりに話を聞けば印象は変わると教えると、覚えておくよと萃香は弛んだ表情で返した。
手はだらんと下げたまま一向に動かす気配がないので、仕方なく僕が髪を梳く。気が付けば敬語が崩れてしまっていたが、いつものことだ。気にすることはあるまい。そのことで注意された経験もない。
萃香は僕の手に合わせて頭を揺すりながら、気持ちよさそうに息を吐いていた。
よく見れば、おろした手にはしっかりとオルゴールを握りしめていた。そして、卓袱台の上にはやはり青瑪瑙が転がっている。
「オルゴールがお気に召したのですか?」
「急に敬語に戻るなよー。お気に召したんだけどね。貰っていくよ」
「では僕は卓袱台の上の青瑪瑙を貰っていきますよ」
「持ってけ持ってけ」
萃香は調子よく笑った。先程より眠気は緩和されているようだったけれど、それでもまだ少しばかり眠いのかも知れない。
その曖昧な釣り合いがまた、心地よくもある。やっぱり陰と陽の二極の釣り合いに似ているな、ほどほどが丁度良い。
そんなことを考えてしまう自分は、つくづく思索に耽るのが好きなのだろう。
あぐらを掻いて座る萃香が見上げているのは四角い窓に切り取られた星空だ。
うっすらと差し込む光が部屋をおぼろに蒼く照らし出していた。
蒼というのは本当に不思議な色で、他に何と表しようもない。静的な美しさを感じる。
まるで、全てがしいんと静まりかえってしまっているようだ。
いつの間にか、手を動かすのは止めていた。タオルは熱を失い始めていたので、桶に投げ込む。
角度が悪かったためか、タオルは中に入ったものの、からん、という音を立てて桶が倒れた。
その一際目立つ乾いた音が、後の沈黙を助長する。
萃香は音を立てぬよう瓢箪を手に取り、口づけた。僕には鬼の酒は強すぎて呑めまい。
だから、僕はお勝手から一升瓶を持ってきたのだ。このお酒を造ってくれた神様に感謝しつつ、とくとくとお猪口に注いで口に運ぶ。
外は風が強いのか、森の木々がたてるざわざわざわという強い音が店内に届く。
鼻を鳴らすと、湿気た土の香が広がった気がした。空に浮かぶ星の群れは、どこか薄い緑色の翡翠を彷彿とさせる。
不老、そして再生を司るその石の色は時が止まったかのような夜を象徴していた。持ってきたつまみに手を伸ばし、しかし口に運ぶことはしなかった。
外に出れば幻想郷を覆う天蓋に圧倒されることになるのだろうが、しかし狭い部屋で幽かな光を浴びながら呑む酒もまた絶品であった。
仄かに香るとろりとした液体を口の中で転がし、嚥下する。冷たかったはずのそれは瞬時に心地よい熱をもってして食道を灼く。
水と火の融和。なるほど全くもってこの両者の組み合わせは最適である。
もう一度、窓の外に目を遣った。ひとつ仕切りの向こう側にあるためか、光の弱い星々の像は霞んでいた。萃香はそろそろと右腕をその窓に向けてのばす。
「儚いねえ」
空を見つめたまま、萃香は小さく呟いた。言葉は部屋中にじんわりと溶けて、しみこんでいくようだった。
「天蓋に映っているだけの夜空は、硝子みたいに脆い。
あんなにたくさんの輝きも、拳一つで粉々になっちゃうんだもんなあ」
ねえ、と萃香が振り返った。しかし、そのまま彼女は何も言わなかった。言葉を選んでいるのか、それとも何か意図があるのか。
彼女はじいと僕を見上げたまま一言も口にしない。どこから風が忍び込んできたのだろう、細い髪の束をゆらりとさらった。
天がもたらす淡い光が銀色に限りなく近い反射を見せた。萃香は一度、二度、瞬きをした。彼女が問いを発するのには、長い時間がかかった。
「あんたはあの夜空に張り付いた紛い物をどう思う?」
彼女の問いはひどく感覚的なものだった。紛い物の星空。それは萃香がここを訪れる前から考え続けていたことだった。
ただ天蓋に映っているに過ぎない月、そして星。萃香はそう語る。
北極星を食らおうとする北斗七星も、この鬼にゆかりのあるオリオン座も、全ては投影されたものに過ぎない。
確かにそれは事実なのだろう。だがしかし、それを儚いと評するには僕の力はあまりに脆弱だった。
「紛い物も本物も、僕にとっては同じことです。触れることすら出来ないのならば、畏れ多いには違いない」
そっか、と彼女は小さく頷いた。感心したような、それでいて少し落胆したような、心の底からわき出たような呟きだった。
「強過ぎるってのも、問題有りだねえ」
彼女の目には、偽物の空はどう映っているのだろうか。
儚いからこその繊細な美しさを保持していると思っているのか、それともガラス玉のような安っぽいものだと蔑んでいるのか。
推すことは出来ようが知ることはかなわない。萃香はおんぼろのオルゴールの蓋を開く。
広く、そしてしんとした大部屋で透明の氷を打ったかのような、清い音が一つ、響いた。
そのオルゴールは、とうの昔に壊れていた。装飾が美しいので置いてあったに過ぎない。だが彼女はその壊れた音を気に入ったらしかった。
何の規則性もなく、時折澄んだ音が一つ、弾き出される。萃香はまた、ぽつりと呟いた。
「名品だよ」
名品だったのでしょうね、と返すと、萃香は首を横に振り、もう一度、名品だよ、と繰り返した。それ以外、何も語ろうとはしなかった。
このオルゴールは、この形になってようやく完成したのだと、そう伝えたいのだろう。一瞬蒼い沈んだ空間を駆ける、決して弱くはないその音色を表す言葉を僕は知らない。
ぴん、でも、ぽん、でもない。透明で綺麗なものを弾いた音。そう表現する他無かった。卓袱台にただ一つ所在なげに転がっている青瑪瑙は、幽かな光を反射し、艶やかに輝いていた。
決して自己主張せず、しかし一切その価値を損ねてはいない。手に取り、窓の光に翳してみた。偽物ばかりの空の下、それは変わらぬ色を見せてくれた。
オルゴールがまた一つ音を奏でる。ああ、確かに紛う事なき名品だ。動いてはおらず、しかし、止まることもまたなし。
断続的に弾き出される音を聞く間、僕はお猪口に手を伸ばすことをしなかった。目は冴えていた。
萃香が立ち上がった。掌に、小さなオルゴールの箱を包み込んで。見上げる僕に、彼女は空を見上げ、言葉を一つ。
さようなら、さようなら。
踵を返した彼女を追って、髪の毛がはらりと軌跡を描く。ただただ静かに音もなく、名残惜しげな様子も見せず、伊吹萃香は去っていった。
残された僕は空を見上げる。流れ星が一つ煌めいた。鼻を鳴らしても土の匂いはもうせずに、畳と、ほんの僅かな酒の香りが漂っていた。
お猪口に僅かに残った酒は、遠い空の色を含んでいた。天蓋に映る星、水に映る月、どちらも等しく偽物だ。だけれど、水に映った空ならば、僕とて壊すことが出来る。
だから萃香に与えられた問いの答えを考える。もう時間切れになってしまったけれど、考えることに、きっと意味はある。
夜はゆっくりと更けてゆく。空を映してきらめく酒をちびりちびりと呑み干して、そうして僕は、思索に耽る。
オルゴールの音一つ。遠いどこかでこだました。とある月の美しい晩のことであった。
夏の夜、萃香と霖之助の会話。ほのぼのとした印象だったのに、萃香の「儚いねぇ」からガラッと印象が変わりました。
面白かったです。この不思議な空気が大好きです。これからも頑張ってください。
季節の変わり目ですので、与吉さんも萃香みたいに体調崩さないように気をつけて下さいね。
次回作も楽しみに待ってます。
二人の作り出す空気がゆったりとしてて、会話なども面白かったです。
氏の書く霖之助たちの会話やその知識など、とても惹き付けられますね。
その知識や文章力に毎回驚かされてます
次回作楽しみです
私は毎度毎度驚き・楽しみ・尊敬してしまいます。
人生で一度でも同じレベルのものが書けたらなぁ……
萃香に対して敬語の霖之助も斬新ですねw
陰陽の薀蓄もさることながら、幻想の世界、幻想郷とはこういう世界かと思わせる文章。
うまく表現できませんが…
香霖堂は心地良いんでしょうね、人にも妖怪にも。
丁寧で、ある種詩的な文章が素敵。
この荘厳な雰囲気に飲まれそうになりながらも光り輝く一筋の軌跡
あっという間に消えて無くなる儚い流れ星はその名も「あぅ」
俺も香霖堂に行きたいなぁ…。
素晴らしいです。
こう、好きな組み合わせだとか、そういうこともどうでもよくなってしまう。
深い・・・
素敵なお話をありがとうございました。
この静謐さと深遠さは物語というより、対談形式をとった前衛的な詩のようです。
今日の夜は星を見ながら飲むってのもいいなあ。
老成と幼さが同居している、こういうつりあいのとれた彼女がいいんですよねえ。