※オリ設定を多大に含みます。ご注意ください。
0 ひらかれる翼、夜に星が降る
最近はそこらへんの動物とか果物とかしか食べてないなあとぼんやり思い、そうだ、ミスティアの屋台でヤツメウナギを食べようそうしようと勇み立ち上がったのが綺麗な夕暮れ、赤と藍のまだらに混じり合う空を、ぽっこりお饅頭みたいな闇に包まれて、誰からも見えない聖者十字架ポーズで鼻歌混じりにまろび飛ぶルーミアさん。
ついでにミスティアのあの長くてふさふさな耳をほにょほにょして楽しもう、などとにやにや姦計を巡らせながら森の端っこに着いてみると、目に入るのは店仕舞いじみたことをしている夜雀の姿だった。
ちょっとへこみながらルーミアは闇を薄めて地面に降り立ち、ランラン歌っているロマンティックな夜雀の元へ歩いて行った。とぼとぼ。
「もう店仕舞い?」
もしかしてわたしのためにまた店を開けてくれないかな、なんていう願いを込めて、ルーミアがちょっとすねたような声をかけると、ミスティアは歌をやめてこちらを振り向き、パッと咲かしたのが陽気な笑顔。
「ううん。今日は元々やらない日だよー。なんていうの、定休日?」
「そーなのかー……」
ルーミアは心持ち肩を落として残念に思った。ついでにきゅるると、お腹も鳴った。
「ざーんねん、ルーミア」
ミスティアは少し意地悪そうな声を出したが、その後なにか思いついたように、暖簾をそこらへんの木の枝にひょいと引っ掛けると、今や太陽を雄大な背に完全に隠している暗い山のほうを見た。それからこっちをまた振り向き、いくぶんか優しくなった声音で次のように言う。
「ねえねえ、このあと時間あるかな?」
「うん、あるよ」
ミスティアはにっこりと笑った。
「じゃあさ、これからわたしと一緒に、歌を探しにいかない?」
どろどろと沈む夏の夜。熱く甘く流れる風。生い茂る木々の葉は露をたたえてみずみずしく、月の光の下でちろちろまたたく。空に広がる闇の砂漠には色とりどりの宝石が無造作にばらまかれたようで、さながら夜の子供の愉快な星屑おもちゃ箱といった感じである。
こんな輝かしい夜に歌を探しにいくというのは、なかなか素敵なことではあるけれど。
それっていったいなにをどうするんだろう?
ルーミアが首をかしげてそう尋ねると、ミスティアはウィンクをして歌うようにいった。
「そんなのかんたーん。歌はそこらへんに落ちてるよ。草むらに隠れてたり、木のうろのなかで息をひそめてたり、湖の底で膝を抱えて月を見上げてたりとかね。だから夜の中を飛び回ってれば、自然にばったり行きあたるはずなの」
「へー」
「もちろん見つかるかどうかは運次第。果たして見つかってみてもまた、そこからが難問なんだなー」
ミスティアは腕を組んで、小難しそうに眉をひそめた。
「歌には歌の気分ってものがあるの。楽しい歌なら楽しい気分。悲しい歌なら悲しい気分。その歌がどんな気分か見極めてから、こっからが難しいんだけどね、わたしたちもその歌と同じ気分にならないと、歌はわたしたちの中に入ってこないんだ。だから自分の気持ちをコントロールしなきゃなんないわけ」
「うーん。難しいよー。もっと簡単にいってー」
ルーミアの、頭のなかが、ぐーるぐる。
「つまりね」
ミスティアは目を爛々と輝かせて、茶色の小さな翼をできるかぎり大きく広げた。
星々は土砂降りのようにまたたきはじめ、熱い空気がもわっと吹き付けてくる。森が一斉にざわめきだす。どこかでなにかの獣の咆哮。それが合図となって、妖怪たちの楽園、
「この夜を精いっぱい満喫すればいいんだよ!」
愉しい夜が始まった。
1 夢幻グライダー激励会
「すぐ出発するの?」
「いや、ちょっと待ってね。最初にまずやることがあるんだ」
そう言うと、ミスティアは右手の人差し指と親指で輪を作り、その穴からルーミアをのぞきこんでウィンクした。ルーミアもあたふたとウィンクを返そうとしたけれど、その前に夜雀は輪っかを口にくわえ、思い切り息を吹きこんで一回だけ鳴らした。笛のように澄んだ音が、楽しくざわめく夜の森に高く鋭く響き渡り、その一瞬後、重たい沈黙のとばりがふわりと落ちた。
きょとんとしてミスティアを見ると、彼女は両手を開いて両耳にあて、何かを聞こうと待ち構えているようだ。目を閉じた彼女の表情がいつになく真剣だったので、ルーミアは思わず息をのんだ。
やがて、遠くからなにかの羽ばたく音が聞こえてきた。聞こえてきたなんてものじゃない。それは空気全体をビリビリ震えさせるほどの大音響、まるで幾千幾万もの団扇で手を一斉に力いっぱい叩いているかのようである。
鳥だ。
たくさんの鳥が近づいている。
鳴き声がどんどん迫って、大きくなってくる。小鳥の可愛らしく歌うような声、いささか濁音の混じった美しいとはいいがたいダミ声、ふくろうの謎めいた深みを含んだような声など様々だ。
軍団は周りの木立からざわざわと出てきた。みな一様に小さな体だけれど、それが優に数百羽はいるのだから凄まじい迫力がある。彼らは翼をはためかせ、空を一回転ぐるりと巡ると、ふっと動きを止めて滑空し、ひらひらと花びらのようにルーミアとミスティアの周りに舞い降りた。ぱさ、どさ、ぱたた。着陸し、翼を閉じる。ばたばた。
視界を埋め尽くす、鳥、鳥、鳥。
ルーミアは少し怖くなってミスティアを見た。夜雀はまだ瞑目したまま耳を澄ませていたが、ふと目を開けるとルーミアに向かって微笑んだ。安心して、と口を動かして伝えてくる。
数百羽の鳥たちは今やルーミアとミスティアの周りの地面にぞろりぞろりとひしめき合い、それぞれ好き勝手わめきたてていた。ピーチクパーチクギョンギョンホーホー。耳がどうにかなってしまいそう。
ミスティアがすっと指揮をとるように両手を上げると、一瞬にして沈黙がざわめきを根こそぎかっさらっていった。この場に集ったおびただしい数の烏合の衆は、期待をこめたまなざしでルーミアたちを見つめてくる。
ガサリと、鳥たちを超えた向こう側の茂みが揺れた。低い木の枝々はズラリと並んだ鳥たちの合唱台となっていたが、それをかきわけて、人型だけれど人間ではないモノたちが大勢姿を現した。夜の王者、妖怪たちの御到着だ。
「行くんだね?」
声がして、ルーミアは後ろを振り向いた。深緑色の髪、細く長い触角、黒のマント。リグル・ナイトバグが厳かな顔をしてそこに立っていた。彼女の周りにはうぞうぞとひしめく小さな生き物たちがいる。
一面の黒いモノたちはまるで、微細な生命の集合が一つのより巨大な生命体を形作り、その毛並みを絶えず蠕動させる気色悪い絨毯のよう。
数百羽の鳥の次は数千匹の虫だ。勘弁してほしい。ルーミアは血の気が引いて、背筋がだんだん冷たくなってくるのを感じた。
「うん、いってきまーす」
ミスティアが明るく答えた。ルーミアは現実から目をそらすため、頭の中に「虫」という漢字を何個も書き、それを幻視しているうちにゲシュタルト崩壊あーうーとどうにかなってしまいそうだったが、なんとか意識をこちら側に引き戻すと、ミスティアにならって朗らかに「いってきまぁす」と言った。何をしにいくのかもよくわからないけれど、とりあえず。
それにしても、リグルはどうしてここへ来たのだろう?
「さて、みんな」
ミスティアがくるりと向き直って、地面を埋め尽くす鳥たちに語りかけた。
「今日もわたし、ミスティア・ローレライは歌を集めにいってきます」
無数の目が、両手を腰に当てて自信満々にふんぞりがえっているミスティアに集まる。
「鳥たちは、つまり、わたしと、みんなは、歌がないと生きられない。
歌にもたっくさんの歌があるよね。喜びの歌、怒りの歌、哀しみの歌、楽しい歌。生きるために特に重要なのは最初と最後の歌だけど、時には悲しみをなぐさめたり、怒りを鎮めたりすることも必要なの。
だから歌うことがすなわち生きることである鳥のみんなは、古今東西のあらゆる歌を知っていなければならない。
わたしはこの幻想郷で、いつまでも楽しく生きるため、そこかしこに散らばる歌をかたっぱしから集めてくる。
それがわたしたちの繁栄にとって一番大切なことだからね。
それじゃあ、いってきます!」
ミスティアが透き通る声で軽やかに言い放つと、今まで黙って聴いていた鳥たちが一斉に鳴きだした。ルーミアには鳥たちの言葉はわからなかったが、たぶん「いってらっしゃい」とか「気をつけて」とか言っているのだろう。激励会。これは自分たちのために歌を集めてくれる者への感謝を込めた激励会なのだ。
「リグルもいくの?」ルーミアは尋ねた。
「いや、わたしはいかないよ」リグルは首を振る。
「じゃあ、なんでミスティアに呼ばれてきたの?」
「うん、まあ、激励をするためかな」
「虫なのに?」ルーミアは首をかしげる。
「だって、鳥が唄を歌っている時は、少なくとも虫を食べたりしないじゃない!」
「おおー、そーなのかー!」ポンっと手を叩いて、ルーミアは完全に納得した。
「ほら、ルーミア、そろそろ行くよ~」
「あ、うん」
うなずいて、ルーミアはミスティアの隣に並んで立った。鳥たちは二人を叱咤激励するように、さかんに声を張り上げている。喉も枯れよといわんばかりの勢いだ。
「それでは」
ミスティアが小さな翼を精いっぱい広げる。それにならって、ルーミアもお得意の人類十進法の構えを取った。
「みんな、幸運を祈っててね!」
ふわりと体が浮き上がる。鳥たちの歓声がこだまする。妖怪たちが咆哮を上げている。リグルが手をひらひらと振る。この場にいるすべてのものに背中を押されて、二人は悶えるほどに暑い夏の夜空へと飛び立っていった。
2 泣きじゃくる青の歌
空を飛ぶことは、ルーミアにとってそれほど特別なことではない。
そもそもどうやって空を飛ぶのか、自分でもよくわかっていない。人間でも妖怪でも、気がついたら歩いていて、気がついたら物を食っていて、気がついたら生きている。それと同じく、ルーミアも物心ついた時から飛んでいた。それを何ら特別なことだとは思わなかった。
日常においても、ただ単に飛べば徒歩よりも早く目的地に着ける、弾幕ごっこの際には避ける方向の選択肢が飛べない場合よりも格段に増える、といった程度の認識で、飛行それ自体を楽しむようなことはあまりない。
でも今日ばかりは、それがなぜか特別なことであるような気がした。
ビョウビョウと風が鳴る。スカートがバタバタとはためく。思い切り広げた両腕で、空間を切り裂くように早く鋭く前へ前へと飛んでいく。
夜空から見下ろす幻想郷は、天から注ぎ込む絶え間ない星々の光を反射して、淡い銀色にきらめいていた。黒々と不気味なばかりの魔法の森も、闇の底に沈んで水圧に押し縮められてしまったかのようなちっぽけな人間の里も、どこが入り口でどこが出口なのか見当もつかない迷いの竹林も、すべてがなにか素敵な秘密を隠しているようにルーミアには思えた。
すぐ横を飛ぶミスティアが何かを叫んだけれど、耳元をうねり通り過ぎていく風の音でよく聞こえなかった。
「なあにー!?」ルーミアは大声で訊き返す。
「最高だね!!」ミスティアの顔は興奮で上気していた。
上空に向かうにつれて、空気はかなり冷えこんできた。ルーミアは両腕で身体を抱き、ミスティアに答える。
「うん、でもちょっと寒いかも」
「じゃあ、早くどこかに降りよう」
「どこに降りるのー?」
「そうだなあ」
ミスティアが小さな翼をせわしなくパタパタさせながら、あたりをきょろきょろ見渡している。森からはだいぶ離れて、眼下にはなだらかな丘陵が連なっている。単調な風景でも、物凄いスピードで切り抜けていけば、すべてがどこか新鮮に見える。ところどころにまばらに生えている灌木が、強めの風にゆさぶられて、生い茂る葉の下に隠した秘密をぽろぽろ零してくれそうだった。歌はそういうところに隠れているのかなあ、とルーミアはぼんやり思った。
少し行くと、強い風が吹いているにもかかわらず頑固で濃厚な霧に覆われている地帯が目に入った。
あそこはたしか、
「霧の湖!」と、ミスティア。「いかにもなにか隠してそうな感じだよね。まずはあそこに降りてみよっか」
「うん、わかったー」
二人は目を合わせてうなずくと、湖を取り巻く霧の中へと飛びこんでいった。
「チルノちゃん、待ってよぉ!!」
ルーミアとミスティアが湖の岸辺に降り立つと、近くから声が聞こえた。子供のように愛らしいけれど、なにかに追いすがるような必死な声だ。二人は顔を見合わせて、声のしたほうに行ってみることにした。
足音を立てないようにこっそり近寄ると、湖のすぐそばから始まる小さな森の入口に、セミロングの緑髪の妖精と、水色の服を着て、少し目に涙をためながら強引に歩き去ろうとする氷の妖精の姿があった。大妖精とチルノ。ルーミアとミスティアとは旧知の仲である。なんだか容易に割って入れない雰囲気だったので、近くの茂みに隠れて座りこみ、様子をうかがうことにした。幸いなことに霧が少し晴れていたので、二人の様子がはっきりと見てとれた。
「チルノちゃん!」
「うるさい! ついてこないで!」
激しい声でチルノが叫ぶ。手でごしごしと目をこすりながら、早足でなんとか大妖精を振り切ろうとしているようだ。
大妖精が小走りで追いすがりながら、困惑した口調で声をかける。
「どうしたの。なんで泣いてるの? 言ってくれなきゃ、わかんないよ」
「わかんなくていい!」
「なんで、ねえ、待ってってば! こっち向いて」
大妖精がチルノの手をつかんだ。チルノは振り向き、涙でいっぱいの目で大妖精を睨みつけると、手をぐいと引っ張って振りほどこうとする。
しかし大妖精も負けてはいない。彼女はチルノの右手を両手でつかむと、その場にしゃがみこんで、全体重を持って振りほどかれるのを阻止する構えだ。
「はなせ!」
「チルノちゃんが言ってくれるまで、はなさない!」
「このわからずや!」
「それはチルノちゃんのことでしょ!」
「いいから、はなせ!!」
「絶対にいや!!」
「はーなーせーっ!!」
「いーやーっ!!」
どうしてこの二人が喧嘩をしているのか、ルーミアにはさっぱり見当もつかなかったけれど、大妖精がここまで感情をむき出しにしているのは新鮮だった。普段では大人しめのイメージしかなかったのだ。それが、こと大事な友人のためともなると、ここまで激情を露わにすることもあるのだろうか。
周囲の温度が急激に下がり始めた。チルノが興奮すると、よくこういうことがある。ルーミアは思わずくしゃみをした。ミスティアは隣でじっとしていたが、その吐く息が白くなっている。この冷気の発信源のすぐそばにいる大妖精にとっては、寒さはさらに耐えがたいものとなっているはずだ。
見ると、大妖精の両手は甲まで痛々しくあかぎれていた。それでも彼女は、必死にチルノの手を放さずに、うわごとのようになにかを繰り返し呟いている。意識が朦朧としているのだろう。チルノもパニックに陥っているらしく、右手は大妖精の手をなんとか引き剥がそうとしながらも、左手は自分の頬をとめどなく流れ落ちる涙をぬぐいつづけている。
もう二人とも、ぐちゃぐちゃだった。
悲しくなったルーミアは、ミスティアに声をかけた。
「ねえ、なんとかしてあげられない?」
「……うん、やってみる」
ミスティアはじっと二人の様子を見つめていたが、不意に決心したようにうなずくと、その場に立ちあがって、小さな胸に片手をあて、息を大きく吸い込んだ。
それは最初、ごく静かな歌声だった。
霧がうっすらと覆う謎めいた湖に、切なく物悲しい旋律が流れていく。
小さく、小さく、だが徐々に明瞭に聴こえ始める。
健やかな朝、鳥たちの可愛らしい鳴き声がいつの間にかそこにあるように、ミスティアの歌もまたずいぶん前からあったかのようにごく自然に響いていた。
透き通った歌声は悲哀の情を多分に含んではいるけれど、不思議と心が落ち込むような感じはしない。むしろ頭のなかが澄みきって、感情が緩やかになっていくのだった。
妖精たちは、夜雀の歌声に気づいてはいなかった。それでもちゃんと効果はあらわれているらしく、彼女たちは激情を鎮め、落ち付きを取り戻したようだった。なんで急にこんなに落ち付くのかわからずにきょとんとしていたが、やがてお互いに顔を見合わせ、また少し顔をゆがめ、ぐじゅぐじゅと泣き始めた。
今度はチルノから凍りつくような冷気は発散されなかった。
その湿気に満ちた沈黙からは、むしろ喧嘩して仲直りした後の、自分の馬鹿さ加減を悔やんだり、相手をまた少しだけ強く思いやろうとする気持ちが感じ取れた。
「そろそろ行こっか」と歌い終えたミスティアが言ったので、ルーミアは頷いて立ち上がる。
どうしてこの二人が喧嘩をしたのかルーミアにはわからず仕舞いだったが、やはりそれはチルノと大妖精の二人だけの問題で、自分が入っていいようなものじゃないんだろうなあ、とぼんやりと思った。
えぐえぐと向かい合って泣き続ける妖精たちを後に残して、ルーミアとミスティアは湖から飛び去った。
しつこくまといつく霧を抜けると、また満天の星空と再会することができた。星の位置が、出発するときと少しだけ違っている。満月もかなり高いところにどっしり腰を落ち着けて、ルーミアとミスティアを傲慢そうに見下ろしていた。
「ねえねえ、なにか歌は見つけたの?」ルーミアはゆっくり飛びながら尋ねる。
「うん、見つけたよ」ミスティアは嬉しそうに言った。小さな翼がぱたぱたとはためいている。
「なんの歌?」
「うん、これはねえ……」ミスティアは目を閉じた。「……ともだちの歌、それと、青の歌かな」
「青の歌?」
「うん」
「それって、チルノのこと?」
「そう。ルーミアは、あの二人のことを見た時に、どんな感じがした?」
「ちょっと悲しくなっちゃったかなー。でももう平気。仲良いね、あの二人」
「そうだね。あの二人の気持ちがわかったのなら、もう大丈夫。歌はルーミアの中にもちゃんと入ってるよ」
「わたしの中にも?」ルーミアはきょとんとした。自分の体を見おろしてみる。特にどこかが変わったというような感覚はない。しいていえば、いつもよりも少しだけ余計にお腹が空いていることくらい。
「大丈夫、そのうちわかるから」ミスティアはからからとあけっぴろげに笑った。「さ、次行こう、次。まだまだ夜は長いよー!」
二人はまた当て所のないフライトを続けることにした。歌はどこに隠れているかわからない。わからないから、探さなければならない。もし見つけ出したら、その時は。
詩的にじっくり味わってしまえばいいのだ。
たとえばチルノの涙の色は、いったい何色だったろうか?
3 ある丘の群青
竹林の外、人間の里とは反対の方向にある広い草原に、一つだけぽつんと小高い丘がある。
周囲の草原には青々と草花が茂り、いかにも生命力に満ち溢れているのとは裏腹に、その丘にはところどころに恐ろしい破壊の爪痕が残されていた。かつては緑に覆われていたその肌も今や黒ぐろとした地面を剥きだしにしていて、そこかしこに凄まじい力でえぐり取られたような大穴がぽっかりと深淵を覗かせている。
頂上には焼け焦げた一本の木が、まるで儚さかなにかの象徴のように寂しげに立ちつくしていて、この丘の近くを通り過ぎる妖怪や動物を恨めしげに見つめていた。
さて、人っこ一人訪れそうもないこの丘は今、せわしなく繰り返される目映い閃光によって、その姿を夜の闇に鮮烈に浮かび上がらせていた。
まず紅い炎が立ちあがった。まるで浮かんでいる雲をすべて焼き払い消してしまおうとでもするかのように、凄まじい勢いで天空へと解き放たれた地獄の業火は、時が経つに従って徐々に形を整えはじめた。現れたのは忌々しさなど微塵も持ち合わせていない、むしろすべてを浄化する炎が鳥の形をとってこの世に具現したような姿。それは鳳凰とでも呼べそうな清らかな存在だった。鳥はめらめらと燃え盛る炎の両翼を左右に大きく広げ、一度だけ緩やかに羽ばたくと、むせかえるような熱風が草原を焦がし、はらはらと舞う焔の粒が丘の上に一斉に降り注いだ。
紅蓮の炎塊の直撃を受けた個所はクレーターのように陥没し、僅かに生き延びていた緑は一瞬のうちに空しく灰塵へと帰してしまった。頂上の木は火砕流のように激しい炎の猛攻にすくみあがり、周囲にきらめく光によってせわしなく角度を変えるその影が、助けを求めて四方へ逃げだそうとしているみたいだった。
夜空に君臨する炎の鳥の胴体部分の中央に、白く長い髪の、危険に光る紅い瞳を持つ少女の姿が見えた。彼女は歯をむき出しにして、狂ったように笑いながら楽しげに炎をまき散らしている。
それに応えて緩やかに微笑んだのは、丘のふもとに立つ黒髪の女性だった。少しくすんだ桜色の着物に身をつつみ、そのふぁさりと垂れた袖の中から、宝玉をちりばめた一本の枝がつきだしていた。
彼女がそれを持つ右腕を高く上げると、輝きをなくしていた玉がだしぬけに鮮やかな色を紡ぎ出した。いったん右腕を斜めに振り下ろし、腰をかがめて前傾姿勢を取ると、周囲に降り注ぐ火花をものともせず、だっと地面を蹴ってオレンジ色の宙に踊りあがった。
一枚の桜の花弁に過ぎないくらいちっぽけな彼女から、極彩色の巨大な銀河が放射状に展開し、その鮮やかな面は一瞬にして微細に分断された。粉々に割れたガラスのようにきらめく星弾が降り注ぐ炎とぶつかり合い、刹那の強烈な印象を網膜に焼きつけ、そして夢のように霧散した。見上げれば夜空は、虹を織り成す七彩の直線群によって幾つにも切り取られていた。
それは絵画にして残したいほど美しい光景で、それを作りあげている二人の少女は心の底から楽しんでいるのだった。二人にとって、何ものにも代えがたいくらいに大切な殺し合いだった。
その神さえも目を見張るような厳かな光景を見守っている者たちがいた。
「たーまやー!」
……救いがたいほど呑気な二匹の妖怪だった。
「ねえ、ミスティア」
「なあにー?」
「たまやってなにそれ。おいしいの?」
「さあ? 食べたことないからわかんないけど、おいしいんじゃないかな? 卵みたいな味がするんだよ、きっと」
ルーミアのお腹がくきゅるると鳴った。
ちなみにルーミアとミスティアがいるのは今恐るべき戦場と化している丘のど真ん中である。深く穿たれたクレーターの一つに一緒に座り込んで、手を叩きながら観戦しつつ、きゃっきゃと楽しく談笑中。
「あの二人って、なんでたたかってるのかな」ルーミアはちょっと弾幕に飽きてきて、疑問に思っていたことをミスティアにぶつけてみた。
「きっと、楽しいんだと思うよ」ミスティアは目を輝かせながら空に浮かぶ炎の鳥を見上げていた。「かっこいいなぁ。きっと、わたしなんか及びもつかない歌を知ってるんだろうなー」
「楽しいって、死んじゃうのに?」
「死んじゃうから、楽しいんだよ」
「よくわかんない」
「わかんなくていいと思うよ。うーん、凄いなあ。また歌がわたしたちの中に入ってきたよ」
「今度はなんの歌?」
「輪廻の歌、あと孤独の歌。うわー、なんだか二つともシリアスな歌だね」
「リンネ?」ルーミアは訊き慣れない単語に首をかしげ、口の中で何回か呟いてみる。「りんね、リンネ……なんだか美味しそうな名前の歌だね。くるっとしてて、食べると茹でた小麦粉の味がするんじゃないかな。なんとなく」
ミスティアはくすくすと笑った。
先ほどまで一羽の巨大な鳳凰を身に宿らせていた方の少女は、それよりもいくらか小さめのサイズの炎の鳥を乱発する攻撃に切り替えていた。その鳥の飛翔の軌跡には、鬼火のようにゆらゆら揺れる赤い塊が幾つも残されていた。黒髪和服の少女は相変わらず虹色の線で夜空を区切ることにご執心だ。
突然、周囲を照らしていた目映い光が消え去って、丘は青みがかった闇の中に再び沈み込んだ。争っていた二人が倒れたのだ。火の鳥を飛ばしていた少女は空間をつらぬくレーザーに焼かれ、その後何百もの細かな星弾を一身に浴びて地面に叩きつけられた。黒髪の少女は鳥の直撃を受けて火だるまになり、数秒悶えたあとでクレーターの中に落ちてしまった。
しんとあたりが静まりかえる。
青暗い闇が忍び寄る。
すべてのものが息をのみ、次に起こるなにかを今か今かと待ち受けているようだった。
数秒後、再び光が丘に満ち溢れた。死んだはずの二人が、また生き生きとした笑みを浮かべて空中に踊りあがる。燃え盛る紅蓮の炎、光輝く虹色の弾幕。終わることのない殺し合いだった。何千回も何万回も繰り返して、得るものといえば一瞬の死の幻想のみ。それでもきっと、死のない者たちにとっては極上の時間なのだろう。
「ねえ、行こう?」今度はルーミアが声をかけた。「そろそろお腹空いちゃったよー。なにか食べたいな」
「そうだね。じゃあなにか食べれるものを探そうか」ミスティアが立ちあがって、お尻についている土をパンパンと払った。「そこの竹林の中に――――あれ?」
突然二人の頭上が昼間のように明るくなった。
見上げるとあら素敵。星屑弾幕の大軍が―――
「みぎゃー」
まあ、お約束である。
4 宵闇ロケット、月を撃て
やることなすことうまくいかない。そんな日だってある。
薬の調合に失敗するとか、そのせいでお師匠様に冷たい目で見られるとか、姫様の不興を買って言葉責めにされるとか、竹林でばったり会った妹紅がちょうど虫のいどころが悪かったらしくウサ晴らしの標的にされるとか。兎だけに。笑えんわ。
特に2つめのはきつい。
肉体的にきついのは慣れてるけど、精神的にきついのは勘弁してほしい。
そんな日はお酒をかっくらって酔いにまかせ愚痴を延々とこぼしまくるに限る。
ちなみに晩酌のお相手はてゐである。
なんでストレスがたまっている時に、さらなるストレスの種になりそうな奴に酌を任せるのか、と思われる向きもあるだろう。
そこはそれ、毒を食らわば皿まで、というやつである。
もうね、あんまり疲れてる時とか、この憎たらしい幸せ兎の顔とかつくづく眺めてみると、なんだかひょっとしてこいつ可愛いんじゃないか、とか思えてくるから不思議。 疲れてるからしょうがないね。
そんなわけで、もう何年も前から主にわたしのために不定期的に開催されるプチ酒宴のお相手はにっくき嘘つき兎なのである。
不思議なことに、わたしが嫌ぁな気分に陥っている時に限って、決まってこの兎の方から「ねーねーお酒飲もうよ」とか声をかけてくる。はいそこ。いい奴じゃないかとか思わない。この兎の魂胆といえば、精神的に参っているわたしをあの手この手で酔っ払わせて、お師匠様とか姫様とかに対する本音と愚痴を無理やり引き出した挙句、後日それを脅迫の材料にしてなんやかんやと要求してくる嗚呼なんという腹黒鬼畜まったく唾棄すべきくらいに腐りきっているのだから。
それでも毎度のこと、どうしても淀んだ心の中身を吐き出してしまいたくて、自室に隠してある秘蔵のお酒を片手にぶら下げ、誘われるままホイホイついていってしまうわたしもわたしである。ええいどうにでもなれ。てゐが要求してくることなんてどうせ大したことないのだから。文々。新聞にわたしの赤裸々生着替え写真が載るのなんてもう慣れてるからだいじょぶだいじょぶ。みたいな感じの捨て鉢気分なのでした。
さて、ところは永遠亭の屋根の上。姫様やお師匠様の居住する部屋からはだいぶ遠い個所である。三角屋根のてっぺんに並んで腰かけて、持ってきたお酒とおつまみをあれこれ工夫してバランスよく屋根の上に置き、遥かなお方が鎮座まします空高く天上の月を仰ぎつつ、杯でクイクイ「いざ、まゐる」の掛け声ぞいとをかし。
折しも今日は満月である。月の光に妖しい魔力を与えられるのか、夜気はまるで媚薬のようにわたしの心と体を浮き立たせる。自然と口もなめらかになって、ちょっと強めのお酒を時たま喉に流し込みながら、おつまみもポリポリつまみつつ、興味深そうに相槌を打つてゐにむかって愚痴をこぼしまくっていた。
「お師匠さまはねえ、わたしの話をきいてくれないのよう」
ひっく、とわたしはしゃっくりをする。
「そんなの、今にはじまったことじゃないじゃーん」てゐがからからと笑う。
「そうだけどー……ううー、これは何回言っても言い足りないわ。一人でどんどん前に進んじゃって、わたしだって説明してくれればきちんとわかるはずなのにぃ……たまーに意見をきいてくれると思ったら、次の瞬間には別の実験の話をしてたりとか。ああもう、ああもう」
「酔ってるねー。話題がループしてるよ」
「うるさいなあ。大体あんた、なんでそんなにちっこいのにわたしよりお酒強いわけ」
「ま、努力のたまものかね」
「どんな努力よ……」
解せぬ。まったく解せぬ。
わたしがまたお酒を飲み干すと、てゐが「ままま」とにやにや笑いながらこぽこぽと追加する。
そう、こいつはなぜかお酒に滅法強いのだ。
どれだけ呑んでもお酒に呑まれることはないし、顔が赤くなることすらない。いつ見ても素兎(しらふ)である。だからこいつは心おきなく宴会を楽しみつつ他人の弱みを探り出すことができるわけだ。それもまた、わたしにとっては癪の種なのである。憎たらしいああ憎たらしい、憎たらしい。ほっぺたをうにってつねってやりたい。
「あとねーあとねー」わたしの口はとどまるところを知らない。
「お、まだあるの?」
「おっしょーさまはね、姫様に甘すぎるのよ……」
「ほう。その心は?」
「見ればわかるでしょ、そんなの……ひゃっく……いくら姫様のことが好きだからって……姫様はきっとなにも返してくれないのに、それをおっしょーさまはわかってるはずなのに……」
「なかなかわかってらっしゃる」
「うあー、もうだめだー」
わたしはごろりと屋根の上に寝っ転がる。ごつごつと背中に瓦があたって痛いけれど気にしない。
「頭ん中ぐちゃぐちゃ……」
満天の星空を見上げ、力なくぽろりと呟く。空って綺麗だけど、なんの役にも立ってはくれない。ただそこにあるだけ。
「あれー、そんな無防備にしてていいのー?」
「なにがよ……こんなところに敵なんていないわよ。月じゃあるまいし」
月。
満月だ。
ただひたすらに暗黒が続く宇宙の中で、ぎらぎらときらめく太陽の光を受け、つつましくも煌々と不朽の光を放つ宝玉。
それがぽっかりと闇空に浮かんでいる。
周囲に満ちている星々の中でも、一際強く輝いている。
不意に、両脚になんだか暖かいものが抱きついた。
「なにやってんのよう」
「ウドンゲの太ももおいしいです」
てゐがなんか頬をスリスリしてくる。まさか酔ってんのか、こいつ。
「らめぇ、わたしのことウドンゲって呼んでいいのは、おっしょーさまだけなの」
「あ、そっちなんだ。というかやっぱりお師匠様好きなんじゃん」
わたしは月をじっと見据える。
夏の空気は淀んでいて、月の胡乱な輝きをゆらゆらとおぼろに魅せる。
あの光は、懲りもせずにわたしを追ってくる。
ずっとずっとわたしを見ていて、罪悪感を掻きたてるのだ。
いつもいつでもいつまでも、決して許してはくれないだろう。
「……むかつくなあ。なによ、えらそうにふんぞりがえっちゃって」
わたしは右腕をまっすぐ伸ばし、手を銃の形に構え、憎い憎い黄色の宝玉に狙いを定める。
「撃ち落としてやる」
ポンッと軽い音がして、指先から弾が発射される。願うことなら月まで届け。もしできるなら貫いてと、叶うはずのない祈りを込めて。
と、
「もらったぁぁぁぁぁぁぁぁァァァァッッ!!!」
甲高い叫び声が響き渡った。すると、屋根の上から見える風景をもったりとした深い闇が一瞬にして黒く塗りつぶしてしまった。月の光も、星の瞬きも、刹那のうちに消え去って、わたしはすべての生き物が死に絶えた宇宙の中にぽっかりと浮かんでいるような気分になった。
「え、うわ、な、なに?」
わたしは驚いて身を起こす。なにも見えない。どうなってるのか、さっぱり把握できなかった。けれど、体の下にある屋根の瓦と、脚にしがみついているてゐの暖かい感触があったおかげで、なんとか自分を見失わずには済んだ。
しばらく暗黒の中に取り残されてぼーっとしていると、風に吹き飛ばされる雲のように闇がどこか遠くへ流されていった。月の光が再びわたしとてゐを照らし出す。てゐは、わたしの両脚に抱きついたまま、いつの間にかぐうぐうと幸せそうに眠っていた。
わたしはそのくしゃくしゃの黒髪を撫でる。そう。黙ってればこいつは可愛いのだ。それはもう存分に。
「……あれ」
ふと見ると、隣に置いてあったお酒とおつまみがごっそり消えていた。
この不可解な事態を前に、わたしは
「どういうことなの……」
と呟くしかなかった。
5 夏の夜、残像
空を飛ぶのは素適なことだと、初めて思った夜だった。
いや、これまでに何度か、そういう思いを抱いたことはあったかもしれない。ルーミアは忘れっぽいから、忘れてしまっているだけかもしれない。
でも、今夜のことは、これから先もずうっと覚えていたいなぁ、と思った。
先ほどまでえらく傲慢ぶっていた月は、時間の経過とともに段々しょんぼりと傾いていき、いまその威厳たるや皆無に等しい。もうそろそろ月が夜の王を務める時間を終えて、明朗快活な太陽に地上の支配権を譲り渡そうとしていた。
星々はようやく月の支配下から抜け出すことができて、ひどく喜ばしそうな囁き声を交わしあっていたけれど、もうすぐ自分たちも同じように地平線の下へ沈まなければならないので、ちょっとだけ可哀そうだった。
ルーミアとミスティアは出来るだけ高く飛翔した。二人を縛り付けるものはなにもない。二人をさえぎるものは、強く楽しげに吹き荒れる風以外にはなにもないのだ。今二人はその風すらも味方につけて、向かうところ敵なしだった。
ミスティアが両手を伸ばして、ルーミアの両手をそっとつかんだ。長く鋭い爪で手の甲を傷つけないようにと、ちょっとした優しさのこもった握り方。ルーミアもその手を握りかえした。自分と大体同じサイズの小さな手。掌が少しだけ汗ばんでいて、そのほっこりとしたぬくもりが、愛おしくてたまらなかった。それだけではない。ルーミアは今ありとあらゆるものが愛おしくてたまらなかったのだ、何故だか。
空から見る、夢のような幻想郷。
遠くから見ればたいていのものは綺麗に見えるけれど、そういうものは近くでもきっと綺麗に見えるのだろう。いったんよく見慣れている日常から離れてみて、違った視座からじっくりと見つめなおしてみれば、それはもはや同じものではありえない。
ルーミアが笑うと、ミスティアも笑った。二人とも服にきらきらとした星の欠片がくっついている。月のお姫様からのプレゼントだ。それが、強い風の洗礼を受けるにつれて、少しずつぽろぽろ落ちていってしまうのが残念だった。でもそれも当たり前かもしれない。いつまでも綺麗なものをくっつけたまま、生きていくことは出来ないのだ。
片手だけを離す。片手はまだつないだままだ。近くに分厚い雲が固まっているところがあったので、そこに向かって飛ぶことにした。
ぶわっと雲の中に飛び込む。中は、なんだかよくわからないことになっていた。ルーミアはミスティアの手を握る力を強くした。向こうも強く握り返してきた。耳元を轟音が過ぎる。体がわやくちゃに攪拌される。それでも、この手さえ離さなければ、すべてが大丈夫なのだと、ルーミアにはわかっていた。
まったくだしぬけに雲を抜けた。ただ星空だけがあって、他にはなにもない世界だ。音すら消えて、命も消えた。星空から降り注ぐ妙なる光が、ミルクのように柔らかな雲の絨毯を照らし出していた。二人は雲にお腹をこすりつけるようにして飛んだ。感触があるのか、それともないのかわからなくて面白い。ルーミアは手をのばしたけれど、残念ながら綿飴はつかみ取れなかった。
少しだけ上昇する。二人は一羽の鳥のように呼吸をそろえて飛んでいた。凹凸のある雲にうつる陰影は、もはや一個の生命体にしか見えなかった。
きっと、雲と宇宙の間のこの不思議な空間には、ルーミアとミスティア以外に到達したものはいないだろう。みんな、空を飛ぶことは当たり前だと思っていて、だからこの特別な場所にたどり着けないのだ。もったいない。
ルーミアは、もう全然寒くないことに気づいた。身体の内側からほくほくと暖かいものがわきあがってくるようだ。それを生気と呼ぶならば、今ルーミアは、命のない世界で、最も強く生命を感じていることになる。
二人は再び雲を抜けて、下界へと降りることにした。
湖の霧はもうすっかり消え去って、鏡のように夜空を写す湖面がはっきりと見渡せた。周囲の森は、夜明け前の厳かな静けさに満ちていた。
湖面の上を滑るように飛んでいく。素晴らしいハイテンション。どちらからともなく自然に笑いだした。その姿が水面にはっきり写し出されてなお愉快だった。
夜のはじめのころ、チルノと大妖精が喧嘩をしていた場所に戻ってきた。着地する時、二人は少し足元が覚束なかった。酔ったのかもしれない。頭がぽわぽわしている。もしかしたらさっきの兎たちの酒精にあてられてしまったのかも。お酒を飲んでないのに酔えるなんて、それなりに素敵だった。ルーミアは脚がもつれて転びそうになったけど、ミスティアが支えてくれたおかげでなんとか持ちこたえた。二人とも顔が赤い。恥ずかしかったからではなく、酔っていたから。大声を出してわめき立てたい気分だ。
妖精たちが座り込んでいたところはすぐにわかった。そこだけまるで土俵のように、ぶあつい氷が張っていたから。ルーミアはそれに触れてみた。冷たくて心地が良い。あの妖精たちも、これくらい心地の良い関係になれてたらいいなと願う。
二人は湖の岸辺に座り込んで、今日の収穫物を一つ一つ数えあげていった。
服についていた星の欠片は二つだけ残っていた。それと兎たちから盗んだ空のお酒の瓶とおつまみ。ルーミアはお腹が空いていたので、すぐにでも食べてしまおうとおつまみに手を伸ばしたが、それをミスティアが押しとどめた。
「どうしたの?」
「食べる前に、ちょっとだけ」
ミスティアはなんだか悲しそうな表情だった。
「ちょっとある歌をね、ある人に捧げたいと思うの」
「ある歌って、どんな歌? それを誰に?」ルーミアは首を傾げた。
「歌の名前はね、『亡き友に送る歌』っていうの」
ミスティアが厳粛な面持ちで、その名を告げた。
「捧げるのは、ジョニーっていう人。彼はね、英雄がとてつもない危機に瀕している時、いつもその近くにいて、彼を助けてくれたの。自らの身の危険を省みず――身の危険っていうのは、大抵お腹の調子が悪くなることなんだけどね。それでもジョニーは英雄を助けた。悲しいことだけれど、今はもういない。良い人間ほど早く逝ってしまうものなの。だからせめて今日くらいは、彼のことを弔ってあげたい。たとえ死んでしまっても、彼の魂はみんなの心の中にある。それを忘れてはいけないの。だから――」
なんだか色々と滅茶苦茶な気もしたけれど、ミスティアの顔があまりにも悲痛だったため、ルーミアもなんだかしょぼんとしてしまって、しばらく黙りこんだ。柔らかな微風が湖の水面を静かに揺らす。二人は、今はもうか弱い月の光に照らされる岸辺で、体育座りをしながら黙とうをささげた。精一杯の悲しみを浮かべた表情で。ルーミアの脳裏には、こちらを向いて敬礼をするマスクをかぶった男の顔が浮かび上がっていた。
「ねえ」ルーミアがポツンと呟いた。
「なあに?」ミスティアもポツンと答える。
「…………ジョニーって誰?」
「さあ?」ミスティアはいい笑顔で首を傾けた。
さてそんなことはすっぱり忘れて、二人はおつまみをぽりぽりとつまみはじめた。不思議な味で、たった一粒でお腹が結構膨れた。永遠亭の住人は、いつもこんなに美味しいものを食べているのかと、ルーミアは妬ましく思った。ポリポリ、ポリポリと、二人がおつまみを食べる音だけがあたりに響いている。
脇においた二つの星の欠片が、優しく微笑んだように見えた。
夜明け前の静かな時間。太陽も月も見えない、マジックアワーだ。
「夜が終わるね」と、ルーミア。
「朝が始まるの」とミスティア。
「今夜は楽しかったね」
「あ、まだやることが残ってた」ミスティアがポケットの中を探り始めた。
「なに?」
「これこれ」
ミスティアの手の上に、小さな円筒形の、先が尖った奇妙なものが乗っていた。こういうのを一度、ルーミアは見たことがある。
「ロケット? 月兎の指から出たやつ?」いつの間にとったのだろう、とルーミアは思った。
「そうそう。これを空に帰してあげよう」
「どうして?」
「さっきの月兎のこと、見てたでしょ? これはね、あの兎が月へのいろんな思いを込めて、月へと届くようにって祈って出したロケットなの。このまま地上で腐らせてちゃ、ロケットが可哀そうだよね」
「じゃあ、さっきとらなければよかったんじゃないかなぁ」
「うー、だっていい歌がとれそうだったんだもん」
「そういえば、竹林ではなにか歌はとれたの?」
「うん、いくつかね。まず酔いどれの歌。さっきわたしらが酔ってたのは、この歌が中に入ってきたからだね。それと幸せの歌。これはあのてゐってやつがいたからかな。で、このロケットからは、ふるさとの歌。あの月兎、なんだかんだで故郷の月が恋しいみたいね」
「結構歌あつまったね。あまり実感わかないけど」
「うん、じゃあ、そろそろ今夜の総集編やろう。いよいよクライマックスだよ。楽しかった夜もこれで終わり。その前に歌を幻想郷にばらまかなきゃ。歌は、みんなのものだからね」
そう言うと、ミスティアは立ち上がって、上に向けた右の掌にロケットを置いた。きらりと光る先端はまっすぐ空を向いている。
ルーミアもミスティアの隣に並んだ。二人の目の前では、薄明に照らし出される湖が眩しそうに目を細めていた。
もう、朝だ。
「じゃあ、飛ぶよ!」
ミスティアが短く叫んだあと、地面を強く蹴って空に舞い上がった。少しだけ遅れてルーミアも続く。
バタバタと強風で服がはためく。耳元を轟音が通り過ぎる。輝く湖面は次第に遠くなる。いくつもの空気の膜を抜けて、ただひたすらに上を目指す。どこまで昇っていけるのかわらないけれど、どこまでも昇っていけそうな感じだ。二人の横顔を、細く鋭く切れ込む太陽の光が暖める。確かに、朝は近い。でもまだ夜は残っている。焦躁に駆られながら、ルーミアは必死に上を目指した。
不意にミスティアが上昇をやめたので、ルーミアは驚いて止まった。雲を一つ抜けて、空にだいぶ近づいていた。眼下には目覚めつつある幻想郷の全景。人里のほうが何故か色鮮やかに見えた。悔しいけれど、やっぱり朝は人間の天下なのだ。
気がつけば、夜雀は歌をうたっていた。聴いたこともない不思議な旋律。チルノと大妖精に聴かせたものとは違う。体がふつふつと沸き立って、今にも踊りだしたくなるほどだった。空気がびりびりと震動している。
歌は今、ルーミアとミスティアの中からあふれ出して、二人の周りの宙を輪になってぐるぐる巡っていた。目には見えない音だけの存在だけれど、ルーミアにはそれがわかった。楽しい歌は陽気な笑い声をあげてしきりに二人に話しかけ、悲しい歌はむっつりと黙りこんで二人からは距離を置いた。いずれにしても、幻想郷の空は透明な光と歌に満ち溢れて明るくざわめいていた。
ルーミアとミスティアは、その輪の中心で、ただひたすらに歌の言うことをきいていた。また前と同じように手をつないで。もう自ら飛ぼうとしなくても、不思議な揚力が二人を浮かせているみたいだった。
やがて、朝日が完全に上りきった。太陽の雄大な姿は、妖怪の目にはただただ毒となるだけ。もう夜は終わったのだ。
月兎の小型ロケットはミスティアの掌でぶるぶると震動していた。もしかしたら、空に満ち溢れるこの不思議な揚力に反応しているのかもしれない。ミスティアが小鳥を空に放つように、ロケットを上へと放り投げた。ロケットはしばらくぐずぐずと空中で渋っていたが、やがて決意したようにそのお尻から火を噴きだすと、沈みつつある月へ向かって勢いよく飛んでいった。どうかたどり着けますように、とルーミアは願った。
歌たちともお別れの時がきたようだ。空を巡っていた透明な音と言葉の群れは、やがて二人に別れを告げ、パッと拡散して幻想郷中に散らばっていった。なごりおしかったけれど、確かにミスティアの言う通り、歌はみんなのものだった。ルーミアは大きく手を振った。ミスティアもそれにならった。
すべてが終わってから、二人はまた湖の岸に戻ってきた。チルノの創りだした氷は、太陽の熱によって溶かされて、あとには水たまりが残されていた。
星の欠片が二つ、輝きを失ったまま転がっていた。星は夜にしか輝けないのだ。太陽の光は、彼らにはちょっと強すぎる。
ルーミアとミスティアはその場にゴロンと寝ころんだ。
「おやすみ」
「うん、おやすみ」
眠りの挨拶を済ませると、ルーミアは二人の周りをぽっこりと闇で包み込んだ。
太陽すら、赤子のように眠る二人を邪魔することはできないだろう。
朝の鳥がどこかで、可愛らしく鳴いた。
(The Night Flight Afterdark)
何と言うか、ふわふわとした気持ちになれました。
うん、凄かった。
みずあめ。氏の書くてゐが大好きですぜ。
こういう作品大好きです。
「もらったぁぁぁぁぁぁぁぁァァァァッッ!!!」と
ミスティアがジョニー一族を知ってたところでかなり笑いそうになりました。
マスクの彼を幻視するルーミアの想像力に脱帽。
読みながらア〇カンの曲が脳内再生されたが全く違和感なかったぜ……。
「月曜ジョニーは戦場に行った」いやなんとなく
絵本みたいな世界ですごく素敵じゃないか。
ことに夏には。
こういうことだったらいいな、とか思いました。
色彩や音の表現がいちいち印象的でした。いい夜を、ありがとうございます。
登場人物にも味があって好かったです。
チープな言い回しになりますが、子供の時に読み聞かせてもらった御伽噺のように
胸が高鳴りました。脱帽です。
一体どんなふうにみえるんでしょう?
久々に作品を読んで癒されたので、コメントしてしまいました。
とにかく、二人の会話がとっても可愛らしく、温かい。
読み終えた時、何とも言えぬ多幸感に包まれました。素敵な作品をありがとう。