南国風な桃の装飾を施した黒い帽子に腰下まで伸びた青い髪。初夏の日差しを受けてきらきら光る清流の中に、彼女は立っていた。手にしているのはその背丈ぐらいの長さの魚取り用の大きな網。まだ作ってそこまで間が経っていないらしく、緑の残る青竹の柄はこの蒸し暑い空気の中で特別瑞々しく感じられる。
「えいっ」
暫くじっと水を見つめていたが、獲物を見つけたのか水底を大きな動きで手早くさらう。体には不釣合いなほど大きい網を扱っていても全く体勢を崩す様子はなく、日頃から慣れていることのようだ。
「ち」
残念そうに舌打ち。どうやら何も獲れなかったらしい。網を流れに浸して代わりに入ってしまった石や葉っぱを取り除く。網を動かすのにあわせて体を揺らすたびに、長く青い髪の先がゆらゆらと水面を叩いている。
「ここにいらしたのですか、総領娘様」
ふう、と溜息を一つして再び網を構えなおしたときだった。突然涼風が沢辺を吹きぬけて、ほんの一瞬だけ川も木々も警戒するようにざわめく。しかしすぐに元の場所に落ち着いて、また同じように時が刻まれ始めた。
「あなたは……確か衣玖だっけ?」
「まさかとは思いますが……忘れていらっしゃったのですか」
燃えるような緋の衣を靡かせながらその場にふわりと舞い降りる少女――永江衣玖は呆れたように言う。触角を思わせる装飾がついた黒い帽子に肩上までの紫の髪が印象的だった。
「まあまあ、そんなことはどうでもいいじゃない。最終的に衣玖であってるんでしょ?」
どうやら二人は知り合いらしい。青い髪の少女――比那名居天子はこの闖入者に対して別に気兼ねした様子もない。むしろからかっているような感じだった。
「どうでもよくありませんよ。私とて毎回忘れられているとさすがに傷つきます」
人差し指をぴんと立ててちなみに永江の、ですよ、と付け加える。
「忘れてなんかいないわ。さっきから魚のことばかり考えていたから、すぐに貴女の名前が思い浮かばなかっただけ」
魚っていっぱい種類いるから迷うのよねー、と目の前を何度も横切るイトトンボに興味が移ったのか、今度は網を空中でぶんぶん振り回しながら衣玖に言葉を返す。
「……魚と私が何か関係があると言われるのですか」
至って落ち着いている衣玖の口調だったが、その裏には隠し切れない何かが覗いていた。
「そんなこと言ってないでしょ。それより貴女、最近魚が減ったと思わない?ここのところ全然捕れないのよ」
網を動かす手を止めた天子は脚で足元の水をばしゃばしゃと蹴ってみせる。
「そうですか?減ったというか……、知恵をつけただけなんじゃないでしょうか。ここの魚は普通のとは違いますし」
「知恵ねえ。いくら魚が賢くなったところで私の策から逃れられるはずがないんだけど」
不敵な笑みを浮かべて胸を張る姿は無駄な自信に溢れている。小柄な身体には違いないのだが、そこには人らしからぬ威厳が確かにあった。
「策ですか」
しかし天子とは対照的に、衣玖はあくまで白けたような態度で問い返す。
「策よ。文句があるの?」
「いえ。でもさっきから見ていたのですがとても何か考えがあるようには思えませんでしたが……」
ジト目で睨んでくる天子に、半ば呆れたように尋ねる衣玖。ある程度付き合いのある彼女には聞かずとも分かるような質問ではあったが。
「失礼ね。中途半端に頭が回るような奴に対してはむしろ力押しのほうが効くのよ」
予想通り天子にとってそれは当然のことらしい。
「結局策でも何でもないじゃないですか」
「うるさいわね。大体貴方、なんでここに来たの?お父様たちから何か言われたのかしら?」
衣玖から視線を外してまた水面を凝視し始める。
「あ!そうです。比那名居様からあなたに早く帰ってきて欲しいということづてを承って来ていたのでした」
思い出したとばかりにぽんと手を打つ衣玖。その途端に天子の目が胡散臭そうに細められた。
「やっぱり。でも私はまだ帰らないわよ。せめて一匹くらい捕まえるまではね」
「でしたら私は暫くここでお待ちします」
言いながら衣玖はふわふわと手近な木陰に移動する。
「帰らないの?」
尋ねる天子の口調はこの上なく訝しげで、むしろ帰れと言っているようにも聞こえなくもない。
「ふぁ……私の仕事は総領娘様をお屋敷までお連れすることですから」
木の幹に体を預け、口元に手をあてて眠そうな欠伸を一つ。仕事とは言いつつも、待っている間衣玖はここで昼寝でもするつもりなのだろうか。ふう、とどこか諦めた様子で天子は衣玖から視線を外す。だが天子には、真面目でお堅いように見えてどこか世間ずれしている、衣玖のそんなところが気に入っているのもまた事実なのだった。
「ふん、勝手にしたら」
くるりと衣玖に背を向け、天子は少し水の深いところに網を差し入れる。所構わず探る様子はもはや手当たり次第と言った方がいいかもしれない。一方の衣玖はと言えば既に腰を下ろしてうとうととまどろみの態勢に入っていた。今頃泳いでいるのは夢の中だろうか。
はあ。そんな姿に気付いてまた一つ、天子の口から溜め息が漏れるのだった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
「うあー、つかれる~」
いつの間にか日は中天に差し掛かり、川にまで延びていた木々の影は最早ない。ただ鋭い陽光がじりじりと天子の帽子を焦がしていた。そのうえに乗った桃の飾りでさえ暑さに湯だっているように見える。大きな石がごろごろ転がる涼しげな渓流でも、この時期は一段と気温の上昇が感じられるのだ。
「あの……、先程から気になっていたのですが、どうして網なんですか?釣竿を使った方が良さそうな気もしますが」
いつの間にか傍で川の中を覗き込んでいる衣玖が怖ず怖ずと尋ねる。ゆったりしたスカートの端が完全に水に浸かるほどのところにまで来ていた。天子は腕で額の汗を拭いながら、再び網についたごみをとる作業に入っている。あれだけ乱暴に扱っていたのに網は全く傷んでいないようだ。
「釣竿はこの前貴方が黒コゲにしちゃったじゃないの」
ゆらりと顔を上げてそのまま衣玖の方を見る。呆れたような顔だった。
「え?」
なんのことでしょう、といった様子で目を点にする衣玖。
「山一つ向こうの湖で釣りしてた時に」
「あ、あれは総領娘様が」
畳み掛けるように言う天子から、思わず衣玖は目を逸らす。どうやら何か心当たりがあるらしい。
「偶然貴方に針がかかっちゃったただけじゃない」
天子はさも残念そうにため息をつきながら、目を細めて衣玖をじぃ、と見る。
「それは壊したのは謝りますけど、私は魚とは違うじゃないですか!釣られる理由が分かりませんよ。だいたい針がかかったら誰でもおどろきますって!」
「嫌ねえ。ちょっとしたジョークよジョーク」
数秒前までのとは打って変わって、すぐに元の掴みどころのない表情に戻り、からかうように手を振ってみせた。
「……はぁ。もう分かってますけど。それにしても考えれば考えるほど天人らしくない方ですよね、総領娘様も」
「柔軟そうにみえるけど本当は皆頭が堅いのよ。お父様も、上の人たちも。第一、天人らしさ、なんて誰が決めたの?」
呆れたように額を押さえる衣玖だったが、一方の天子には何の悪びれた様子もない。聞かないほうがよかったかな、と今更ながら思う。
「それは……」
衣玖は思わず口ごもる。そんなこと分かりませんよ!と口の中で叫んではいたのだが。
「そんな考え方があるせいで私は自由に過ごせない。たまったもんじゃないわ」
「でも天人の方々は結構自由そうにみえますが」
目の前を泳いで過ぎていく魚たちを見ながら答える。天子がここまで苦戦していたにもかかわらず、川の中には意外にもたくさんの魚がいるようだった。
「あれは自由なんかじゃない。何の刺激もないただの退屈だわ」
衣玖と同じように天子もまた魚を見ていた。しかしこちらの方は隙あらば捕まえてやろうと網をしっかり構えているのだが。
「それは総領娘様だけでは……。他の方はその生活に満足しておられるようですよ」
「分かってないわね。私たちはいくら天に近づいたとはいっても、所詮天”人”なの。求めることをやめるなんてできない。ましてや私は中途半端な比那名居の者。要はそういうことをごまかしてるのよ、あの人たちは。貴女もそう思うでしょ?」
ばしゃり、と水が撥ねる。タイミングを計っていた天子が満を持してもう一度挑戦したのだが、結局網には何も入っていなかった。悔しそうに頬を膨らませて衣玖に向き直る天子。
「私にはよく分かりませんが……あなたが不思議な方だというのはなんとか理解できます」
軽く微笑んで、両手で網の柄を握り締める天子を見る。
「ふん。褒め言葉だと受け取っておくわ。でも実際貴女も相当変わり者よね」
「え?何処がでしょう。これでも私は平凡をモットーに仕事一筋で生きているんですが」
心外だ、とばかりに口元に手を当てる。
「貴女、完璧そうに見えて馬鹿みたいに抜けてるところがあるじゃない。それに他の子たちはもっと事務的で、こういうふうに私と用件以外の話をしたりしないしね。とてもいいことだと思うわ」
「いいことって…もしかして褒めてらっしゃるんですか?」
真顔で言う天子は一見真剣そうにみえる。しかしあまり褒めているようには聞こえない。彼女と長い付き合いの衣玖には今ひとつその真意が量りかねるのだった。
「当然よ。私は貴女のそういうところが好きなんだもの」
「!……っ、どど、どういう意味ですか!」
天子の言葉はあくまで大真面目な口調だった。これはいつものことだったが、分かっていても衣玖は焦ったように聞き返してしまう。
「どうって……そのままの意味に決まってるじゃない。それはそうと、もう少ししたら土用の丑の日ね。そろそろ鰻の蒲焼きとか食べたいわねー」
衣玖の疑問なんてなんのその、けろっとした顔で話題を変えてしまう天子。
「ぐ、なんでそこで蒲焼きが…って、だからそこでなんで私を見るんですか! それも獲物でも見るような目で!」
慌てて川から上がろうとする衣玖。しかし天子にがしっと衣の袖を掴まれてしまう。辛うじてこけるのは免れたものの、このままでは逃げられない。
「どっちも体が長いじゃない、って言うのは冗談で……まあ、貴女なら私よりも魚がいる場所とか詳しいでしょ。連れてってくれる?」
天子はにやりと口の端を吊り上げる。
「わか……分かりましたから! ちょ、私に向かって網を構えるのは止めてください!結構それ怖いんですよ?! だから!何か獲れるまでは私がお手伝いしますから!」
~END~
「えいっ」
暫くじっと水を見つめていたが、獲物を見つけたのか水底を大きな動きで手早くさらう。体には不釣合いなほど大きい網を扱っていても全く体勢を崩す様子はなく、日頃から慣れていることのようだ。
「ち」
残念そうに舌打ち。どうやら何も獲れなかったらしい。網を流れに浸して代わりに入ってしまった石や葉っぱを取り除く。網を動かすのにあわせて体を揺らすたびに、長く青い髪の先がゆらゆらと水面を叩いている。
「ここにいらしたのですか、総領娘様」
ふう、と溜息を一つして再び網を構えなおしたときだった。突然涼風が沢辺を吹きぬけて、ほんの一瞬だけ川も木々も警戒するようにざわめく。しかしすぐに元の場所に落ち着いて、また同じように時が刻まれ始めた。
「あなたは……確か衣玖だっけ?」
「まさかとは思いますが……忘れていらっしゃったのですか」
燃えるような緋の衣を靡かせながらその場にふわりと舞い降りる少女――永江衣玖は呆れたように言う。触角を思わせる装飾がついた黒い帽子に肩上までの紫の髪が印象的だった。
「まあまあ、そんなことはどうでもいいじゃない。最終的に衣玖であってるんでしょ?」
どうやら二人は知り合いらしい。青い髪の少女――比那名居天子はこの闖入者に対して別に気兼ねした様子もない。むしろからかっているような感じだった。
「どうでもよくありませんよ。私とて毎回忘れられているとさすがに傷つきます」
人差し指をぴんと立ててちなみに永江の、ですよ、と付け加える。
「忘れてなんかいないわ。さっきから魚のことばかり考えていたから、すぐに貴女の名前が思い浮かばなかっただけ」
魚っていっぱい種類いるから迷うのよねー、と目の前を何度も横切るイトトンボに興味が移ったのか、今度は網を空中でぶんぶん振り回しながら衣玖に言葉を返す。
「……魚と私が何か関係があると言われるのですか」
至って落ち着いている衣玖の口調だったが、その裏には隠し切れない何かが覗いていた。
「そんなこと言ってないでしょ。それより貴女、最近魚が減ったと思わない?ここのところ全然捕れないのよ」
網を動かす手を止めた天子は脚で足元の水をばしゃばしゃと蹴ってみせる。
「そうですか?減ったというか……、知恵をつけただけなんじゃないでしょうか。ここの魚は普通のとは違いますし」
「知恵ねえ。いくら魚が賢くなったところで私の策から逃れられるはずがないんだけど」
不敵な笑みを浮かべて胸を張る姿は無駄な自信に溢れている。小柄な身体には違いないのだが、そこには人らしからぬ威厳が確かにあった。
「策ですか」
しかし天子とは対照的に、衣玖はあくまで白けたような態度で問い返す。
「策よ。文句があるの?」
「いえ。でもさっきから見ていたのですがとても何か考えがあるようには思えませんでしたが……」
ジト目で睨んでくる天子に、半ば呆れたように尋ねる衣玖。ある程度付き合いのある彼女には聞かずとも分かるような質問ではあったが。
「失礼ね。中途半端に頭が回るような奴に対してはむしろ力押しのほうが効くのよ」
予想通り天子にとってそれは当然のことらしい。
「結局策でも何でもないじゃないですか」
「うるさいわね。大体貴方、なんでここに来たの?お父様たちから何か言われたのかしら?」
衣玖から視線を外してまた水面を凝視し始める。
「あ!そうです。比那名居様からあなたに早く帰ってきて欲しいということづてを承って来ていたのでした」
思い出したとばかりにぽんと手を打つ衣玖。その途端に天子の目が胡散臭そうに細められた。
「やっぱり。でも私はまだ帰らないわよ。せめて一匹くらい捕まえるまではね」
「でしたら私は暫くここでお待ちします」
言いながら衣玖はふわふわと手近な木陰に移動する。
「帰らないの?」
尋ねる天子の口調はこの上なく訝しげで、むしろ帰れと言っているようにも聞こえなくもない。
「ふぁ……私の仕事は総領娘様をお屋敷までお連れすることですから」
木の幹に体を預け、口元に手をあてて眠そうな欠伸を一つ。仕事とは言いつつも、待っている間衣玖はここで昼寝でもするつもりなのだろうか。ふう、とどこか諦めた様子で天子は衣玖から視線を外す。だが天子には、真面目でお堅いように見えてどこか世間ずれしている、衣玖のそんなところが気に入っているのもまた事実なのだった。
「ふん、勝手にしたら」
くるりと衣玖に背を向け、天子は少し水の深いところに網を差し入れる。所構わず探る様子はもはや手当たり次第と言った方がいいかもしれない。一方の衣玖はと言えば既に腰を下ろしてうとうととまどろみの態勢に入っていた。今頃泳いでいるのは夢の中だろうか。
はあ。そんな姿に気付いてまた一つ、天子の口から溜め息が漏れるのだった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
「うあー、つかれる~」
いつの間にか日は中天に差し掛かり、川にまで延びていた木々の影は最早ない。ただ鋭い陽光がじりじりと天子の帽子を焦がしていた。そのうえに乗った桃の飾りでさえ暑さに湯だっているように見える。大きな石がごろごろ転がる涼しげな渓流でも、この時期は一段と気温の上昇が感じられるのだ。
「あの……、先程から気になっていたのですが、どうして網なんですか?釣竿を使った方が良さそうな気もしますが」
いつの間にか傍で川の中を覗き込んでいる衣玖が怖ず怖ずと尋ねる。ゆったりしたスカートの端が完全に水に浸かるほどのところにまで来ていた。天子は腕で額の汗を拭いながら、再び網についたごみをとる作業に入っている。あれだけ乱暴に扱っていたのに網は全く傷んでいないようだ。
「釣竿はこの前貴方が黒コゲにしちゃったじゃないの」
ゆらりと顔を上げてそのまま衣玖の方を見る。呆れたような顔だった。
「え?」
なんのことでしょう、といった様子で目を点にする衣玖。
「山一つ向こうの湖で釣りしてた時に」
「あ、あれは総領娘様が」
畳み掛けるように言う天子から、思わず衣玖は目を逸らす。どうやら何か心当たりがあるらしい。
「偶然貴方に針がかかっちゃったただけじゃない」
天子はさも残念そうにため息をつきながら、目を細めて衣玖をじぃ、と見る。
「それは壊したのは謝りますけど、私は魚とは違うじゃないですか!釣られる理由が分かりませんよ。だいたい針がかかったら誰でもおどろきますって!」
「嫌ねえ。ちょっとしたジョークよジョーク」
数秒前までのとは打って変わって、すぐに元の掴みどころのない表情に戻り、からかうように手を振ってみせた。
「……はぁ。もう分かってますけど。それにしても考えれば考えるほど天人らしくない方ですよね、総領娘様も」
「柔軟そうにみえるけど本当は皆頭が堅いのよ。お父様も、上の人たちも。第一、天人らしさ、なんて誰が決めたの?」
呆れたように額を押さえる衣玖だったが、一方の天子には何の悪びれた様子もない。聞かないほうがよかったかな、と今更ながら思う。
「それは……」
衣玖は思わず口ごもる。そんなこと分かりませんよ!と口の中で叫んではいたのだが。
「そんな考え方があるせいで私は自由に過ごせない。たまったもんじゃないわ」
「でも天人の方々は結構自由そうにみえますが」
目の前を泳いで過ぎていく魚たちを見ながら答える。天子がここまで苦戦していたにもかかわらず、川の中には意外にもたくさんの魚がいるようだった。
「あれは自由なんかじゃない。何の刺激もないただの退屈だわ」
衣玖と同じように天子もまた魚を見ていた。しかしこちらの方は隙あらば捕まえてやろうと網をしっかり構えているのだが。
「それは総領娘様だけでは……。他の方はその生活に満足しておられるようですよ」
「分かってないわね。私たちはいくら天に近づいたとはいっても、所詮天”人”なの。求めることをやめるなんてできない。ましてや私は中途半端な比那名居の者。要はそういうことをごまかしてるのよ、あの人たちは。貴女もそう思うでしょ?」
ばしゃり、と水が撥ねる。タイミングを計っていた天子が満を持してもう一度挑戦したのだが、結局網には何も入っていなかった。悔しそうに頬を膨らませて衣玖に向き直る天子。
「私にはよく分かりませんが……あなたが不思議な方だというのはなんとか理解できます」
軽く微笑んで、両手で網の柄を握り締める天子を見る。
「ふん。褒め言葉だと受け取っておくわ。でも実際貴女も相当変わり者よね」
「え?何処がでしょう。これでも私は平凡をモットーに仕事一筋で生きているんですが」
心外だ、とばかりに口元に手を当てる。
「貴女、完璧そうに見えて馬鹿みたいに抜けてるところがあるじゃない。それに他の子たちはもっと事務的で、こういうふうに私と用件以外の話をしたりしないしね。とてもいいことだと思うわ」
「いいことって…もしかして褒めてらっしゃるんですか?」
真顔で言う天子は一見真剣そうにみえる。しかしあまり褒めているようには聞こえない。彼女と長い付き合いの衣玖には今ひとつその真意が量りかねるのだった。
「当然よ。私は貴女のそういうところが好きなんだもの」
「!……っ、どど、どういう意味ですか!」
天子の言葉はあくまで大真面目な口調だった。これはいつものことだったが、分かっていても衣玖は焦ったように聞き返してしまう。
「どうって……そのままの意味に決まってるじゃない。それはそうと、もう少ししたら土用の丑の日ね。そろそろ鰻の蒲焼きとか食べたいわねー」
衣玖の疑問なんてなんのその、けろっとした顔で話題を変えてしまう天子。
「ぐ、なんでそこで蒲焼きが…って、だからそこでなんで私を見るんですか! それも獲物でも見るような目で!」
慌てて川から上がろうとする衣玖。しかし天子にがしっと衣の袖を掴まれてしまう。辛うじてこけるのは免れたものの、このままでは逃げられない。
「どっちも体が長いじゃない、って言うのは冗談で……まあ、貴女なら私よりも魚がいる場所とか詳しいでしょ。連れてってくれる?」
天子はにやりと口の端を吊り上げる。
「わか……分かりましたから! ちょ、私に向かって網を構えるのは止めてください!結構それ怖いんですよ?! だから!何か獲れるまでは私がお手伝いしますから!」
~END~
結構好きかも。
久し振りに良い天子&衣玖でした。
良いですねぇ、実に良い。