さすがに無いわー、と小悪魔は思った。
彼女の敬愛してやまないパチュリーが、そのご尊顔ともいえる顔をゴム状のマスク――つまりはいわゆるガスマスクで覆っていたからだ。
ちなみに顔全体をすっぽりと覆うタイプ。
目の部分は厚みのある硬化プラスティックで覆われており、モノアイのように真っ赤に染まっている。
そして、口元の昆虫の目のような小さな穴からは、くぐもった『コホー、コホー』という音が聞こえていた。
おそらく悪のなんたら卿のコスプレではあるまい。ガチだこの人、と小悪魔はひそかに思った。
服のほうは普通のネグリジェというかパジャマというか、いつもの服装であることが救いである。
「えーっと、パチュリーさま。その格好はいったいなんなのですか?」
「あー、小悪魔、コホー、たいしたことは、コホー、ないのよ」
「すごく聞き取りにくい……」
「最近、コホー、あいつらがよく侵入してくる、コホー、でしょ?」
「あいつらとは? 白黒やら紅白やらのことですか」
「違うわ。コホー、あいつらよ。コホー、白くてふわふわしていて、多線形の……」
「ああ、もしかして毛玉のことをおっしゃっているのですね。それが?」
「やつらは、コホー、肺臓を、コホー、犯すわ」
「花粉症じゃあるまいし」
「繊維質は、コホー、危険なのよー」
「はいはい。わかりましたから、お脱ぎくださいませ」
小悪魔は軽い口調で言ったが、内心ではわりと切実だった。なにしろパチュリーのムスっとした表情を一日三時間は見つめないと生きていく気力が湧かない。
「無理よ。コホー。あいつらの前で裸身を晒すなんてできないわ。こら、小悪魔。脱がせようとしないの」
「しかし――これでは私のモチベーションが下がりまくりです。ああ――そうだ。咲夜さんからケーキの差し入れがありましたよ。ごいっしょに食べましょうよ」
「コホー。無理よ。この時期の毛玉遭遇率の高さを考えてみなさい。ケーキを食べている途中で、それが口の中に入ったら、私はおそらく死ぬ」
「毛玉ごときで魔女が死ぬわけないでしょう」
「違うのよ。コホー。喘息にはああいうのは大敵なのよ」
「そのままでは餓死してしまいますよ。というか、毛玉はそうそう地下の図書館までやってくることはないと思いますけど」
「レミィが霧だしたときには、いっぱいいたわ」
パチュリーは少しばかり涙目。
小悪魔はなぜか背中のあたりにゾクゾクした電気のような快感がたちのぼってくるのを感じていた。げに度し難いのは悪魔の眷属である。
「実はあのときの毛玉は、私が本丸を防衛するために配置したものでして、往時はたくさんたゆたっていましたが、平時は一匹もいませんよ。ご安心ください」
「あれが防衛ね……」
むしろ『点』になっただけじゃないとパチュリーは思ったが、よくよく思いなおしてみると、確かに最近は見かけないというのも本当だった。
パチュリーは再び確認する。
「本当ね?」
「本当ですよ。私が嘘をつくことはそうそうありません。パチュリーさまもご存知でしょう」
「まあ確率的にはそのようね」
パチュリーは少しだけ安心したのか、ガスマスクを装備からはずした。
はずしたガスマスクを机のうえに放り投げて、パチュリーは大きく息をする。
「苦しそうでしたね」
「息苦しさ128パーセントって感じだったわ」
小悪魔はガスマスクに興味深々といった感じで、それを手にとって眺めすがめつしている。
「どうしたの。小悪魔」
「いえね。パチュリーさまの口元やら頬やらあるいはおでことかに接着したのだなと思うと、このガスマスクがとても貴重なものに思えてきたのですよ」
「あげないわよ」
「パチュリーさまってわりとケチですよね」
「うるさいわね。魔女はケチなのよ。属性的に、本来的にそうなの。それにあなたは使い魔にすぎないわけで、私があなたに何かモノをあげるなんて、たちの悪い冗談以外のなにものでもないわ」
「確かにそのとおりです。それでこそ私も欲しがる甲斐があるというものなのですよ」
「何か欲しいものでもあるの。参考までに聞いてあげるわ。絶対にそれをあげないようにするために」
「べつに具体的に何が欲しいというわけではないですね。パチュリーさまが私に与えてくださるものならなんでも良いと思っていますよ」
「あっそ。じゃあ、私はあなたに何も与えなければいいわけね」
「そういうことになりますねぇ」
小悪魔はなぜか嬉しそうに笑うのである。パチュリーももちろん笑った。端から見れば、主従が笑顔で微笑みあっているとても心温まる風景である。
最近、パチュリーが思うことは、どうも小悪魔に押されすぎているのではないかということ。
精神的な増長がはなはだしく、何を命令してもとりあえずのところ誠実に任務はこなすのであるが、心の底から敬愛しているわけではないというのがありありと見て取れる。なんというか――貶めることに全力を傾けているというか。
もちろん、そういう精神性を持つのが悪魔という眷属のありようなので、小悪魔は小悪魔なりにパチュリーを慕っているということなのだろうが、たまには小悪魔をやりこめたいと思うのも主人としては当然ということなのかもしれない。
そんなわけで――パチュリーは思う。
なにか、小悪魔をやりこめる方法はないものか。
「いや――無視するのが一番いいのだろうけど。ごほ……ごほ」
最近喘息の調子があまりよくない。
こういうエネルギーを無駄に喰うときにはおとなしくしていたほうがいいことも知っている。
ただ、小悪魔を抑えるのはパチュリーの責務でもある。
今のところ小悪魔がなんらかの反抗的な行為を直接的にパチュリーに向けたことはないが、用心するに越したことはない。
相手は悪魔なのだ。小さいがつくとはいえ、悪魔の眷属を舐めたらどうなるかわからない。
ガスマスクを装備してみたのも、一種の防衛作である。これ以上喘息が悪化すると、どうなるかわからない。自分が弱れば小悪魔が闊達な舌で紅魔館に住んでいるものを幻惑することもありえる。最低でも小悪魔を消さなければならないことも考えられた。
そこまで浅慮ではないと信じたいところではあるのだが――、弱気になってしまうのが病魔に犯された魔女の心境というものである。
「ああー、呼吸が苦しいわ」
椅子に体重を預けて、ゆるく長く息を吐く。
しばらくそうしていると、小悪魔が本棚の向こう側から銀色のトレイを持って現れた。
「さて、パチュリーさま。先ほど言いましたとおり、咲夜さんからいただいたケーキですよ。二人で食べましょう」
じっとトレイを見つめるパチュリー。
そこには二つの等分化されたケーキが仲良く並んでいた。
その頭蓋におさまるスパコン並の頭脳で、コンマ数秒だけ考える。
もし――『小悪魔あなたの分はないわ』と言ったら、こいつはなんと答えるかしら。
おそらくは不敵に微笑んで、太りますよとか言って、それで終りだろう。小悪魔の心境としてはそういう悪意もまた与えられるものであり、喜びの一種に違いないのだ。べつにマゾというわけではなく――、そういう悪意こそが真の意味で人間を救済するとナチュラルに信じているところがある。
ああ、おぞましい。おぞましい。
自分で召喚しておきながら、パチュリーはときどき小悪魔の心のありようがわからなくなることもあった。
それで、結局は消極的な行動をとらざるをえなくなるのだ。
つまり、パチュリーは小悪魔と一緒にケーキを食べることにした。べつにそうしたいからそうするわけではなく、そうすることが最善であると信じているからだ。
ケーキ。
白いショートケーキだった。白くないショートケーキがあるのかは知らない。紅いケーキがあるのは知っているが、それをショートケーキと名づけてよいものか……。
文化的かつ言語的な考察を頭のなかでおこないながら、パチュリーはよく磨かれた銀のスプーンでケーキを小さくよりわけて、口の中にいれた。
「ふむ……甘いわね。というより――なぜフォークじゃないの」
「いえね。パチュリーさまの愛らしいお口が傷ついてはいけないと思いまして。魔女にとっては呪文を唱える口は大事でしょう」
「ふん……、一応、良い判断だと褒めてあげるわ」
「おお、お褒めの言葉をいただけるとは、今日の夜は気持ちよく過ごせそうです。パチュリー様のおことばをひとことひとこと思い出しながらイケナイことしちゃいますよ」
「黙って食べなさい」
「はーい」
パチュリーは横目でチラリと観察する。
小悪魔がもぐもぐと小動物のように食べている様は、普通の可愛らしい少女そのものである。
蝙蝠の羽によく似た羽がついているが、それは友人であるレミリアもそうであるし、べつにたいしたことではない。
そう――問題は精神力が尋常ではないということ。
小悪魔の実力というか、魔力、あるいは物理的な力を行使する程度の能力については、たいしたことはなく、せいぜいがちょっと強い妖精程度なのであるが、問題は――やはり精神力のひとことに尽きるだろう。例えば、将棋やチェスをやらせたら相当うまいんじゃないか。
あるいは『さとり』とか呼ばれる、あの気味の悪い妖怪にもうまくすれば勝ちようがあるかもしれない。
自分には無理だ。思考に潰される。精神が思考の圧力に耐えられない。逆に言えば、そこが小悪魔の強さ――。思考のスピードや思考の正確さが上ということではなく、端的に言えば、思い切りの良さが怖い。思考を捨てるスピードが速いのだ。
「ねえ」パチュリーは紅茶をゆっくりとすすりながら言った。「小悪魔。ちょっといいかしら」
「はい。なんですか。パチュリーさま」
「あなた苦手なものとかあるの? 饅頭は怖い方式の遁辞を構えてはダメよ。魔女の命令」
「べつにそんな契約による拘束力を使わないでもきちんと答えますよ。私に関する情報はすべてパチュリーさまのものですからね」
「で、どうなのよ」
「そうですね。わたしは基本的に暴力に弱いです。例えばの話。右ストレートでぶっとばされたらやっぱり痛いわけで、暴力という概念自体は好きなのですが、暴力を受けることはやはり苦手といえば苦手でしょうね。それで仮に暴力を使う相手に暴力をつかって勝てといわれてもおおかたの場合、私は負けます」
「でしょうね。他には無いの? もっと具体的に苦手なものよ」
「パチュリーさまにとっての毛玉みたいなものですか」
「いやぁぁぁ。毛玉こわい」
「ひひ」
「なんて言うとでも思ったの。毛玉は嫌いなだけ。嫌いなものは撲滅しようとするタイプよ。私は」
「そのほうがパチュリーさまらしいですね」
「私のことはどうでもいいのよ。あなたの苦手なものを言いなさい」
「そうですねぇ……これといって苦手なものが無いので、うーん……難しいですね。嘘偽りなく特に苦手なものはないのですよ。あえて言えば、未知なものに対する恐怖ぐらいしかないのではないでしょうか。経験していることのなかでは苦手なものがないので、そうとしか言いようがありませんね。パチュリーさまのご期待に添えなくて申し訳ございません」
「ふん。あなた嘘ついてないでしょうね」
「いいえ。仮に苦手なものがあったとしたらきちんとパチュリーさまにご報告して、その苦手なもので責められてみたいとも思っているのですよ。言うまでもないことですが陵辱も大好きです」
「……ああ、そう」
結局、苦手なものがわかったところで小悪魔をへこますことは無理そうだ。
「それにしても、もしかするとパチュリーさま。私のことが気になってしょうがないようですね。なにかあったんですか。いつもは無視してばかりなのに」
「べつにたいしたことじゃないわ。あなたがこのところ少し調子に乗りすぎているようだから、拘束を強めようかと検討しているところ」
「仕事はきちんとしていますが」
「それ以外のところよ。例えば砂糖壷に塩混ぜたり、美鈴を貶めようとしてみたり、妹様によくないことを吹き込んだりもしていたわね」
「まあ悪魔なので」
「私も魔女なので、悪魔をこきつかってみようかと思っただけよ……ごほ、ごほ」
パチュリーが少しむせた。小悪魔は仕事はきちんとこなすほうなので、当然のようにパチュリーにかけよって、優しく背中をさすった。
すりすり。すりすり。
こする指先に少しだけ嫌らしさを感じなくもないが、ソフトなタッチはあくまでも柔らかく、その行為自体は不快ではない。
したがって、功利を尊ぶ魔女としては、されるがままでもよいと判断した。
「パチュリーさま。喘息の調子が悪いのでしたら、そんなに無理して長文を話す必要はないと、小悪魔は浅薄ながらも提案しますよ」
「うるさいわね。魔女が言霊を行使しないでどうするのよ」
「魔法が使えないと、ただのラブリーな病弱もやしっ子ですもんね」
「ん」
パチュリーは小悪魔を一睨み。
「いえいえ。言ってみただけです。ともかくおからだの調子が悪いのでしたら、早めに就寝なされてはいかがですか」
「そうして、あなたは自由な時間を得るわけね」
「ええそうです」小悪魔は小さく笑った。「自らの利するように動くのは魔女も悪魔も変わらないというわけです」
「まだ寝ないわよ。そもそも――魔女は眠る必要がない」
「身体は疲れますからね」
「私のことは私が決めるわ」
「もちろん、パチュリーさまのしたいようになさってください。小悪魔は単に選択肢を提示する機能しか有していませんからね」
「どっちも地獄行きの選択肢でしょう」
「ゲヘナ良いとこ一度はおいで」
「あなた、たまには実家に帰ったらいかが? もちろんずっと帰ってこなくていいわ」
「パチュリーさまを家族に紹介するっていうのなら、帰りますけどね。まあ、いまのところはこちらが気に入っているので、ここに居させていただきますよ」
「ラフレシアみたいなやつね。いや――ラフレシアのほうがまだ愛嬌があるわ」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「はぁ……もういいわ。今日は身体がだるいんで、少し休むことにするわ」
「それがいいでしょうね。パチュリーさまがお眠りの間もきちんと仕事はしておきますよ」
「べつにどうでもいいわ」
パチュリーはできる限り興味が無いふうを装った。
そうすることが最も小悪魔にダメージを与えられると信じたからだ。もちろん小悪魔にとってはその程度の言動はもはや手馴れたものであり、たいして衝撃も受けなかった。
パチュリーは図書館内にある自分の書斎に引きこもり、そこで身体を休めることにする。
小悪魔は、入ってこない。
そう命じている。
一刻ほど経過して、パチュリーは目が覚めた。
あいかわらず身体が重く、肺臓のなかに綿かなにかが充満しているように感じる。呼吸をしても息を吸ってる感覚がなく、苦しい。
頬のあたりに冷たい感覚があった。汗ではない。息苦しさのあまり涙ぐんでいたらしい。パチュリーは右手でごしごしと顔をこする。
苦しい。
ほとんど眠れない。
呼吸が乱れすぎてなかなか寝つけない。寝ても、夢うつつのなかでどこか息苦しさを感じていて、不快さが充満していた。
「小悪魔!」
「はいはい。なんでしょう」
「水」
「苦しそうですね。ずいぶんと」
「いいから早く」
「わかっておりますよ」
小悪魔はすぐに戻ってきた。トレイには透明なカップのなかに冷たい真水が注がれている。小悪魔はトレイのままさしだす。パチュリーはそれを手に取り、胃がびっくりしないようにゆっくりと飲み干した。
落ち着く。
「ごほ……ごほ……」
「大丈夫なんですか。お医者さまをお呼びしたほうがよろしいのでは?」
「永遠亭のあいつの世話になるぐらいなら、自分で薬草を煎じたほうがマシ」
「さようで」
「というより、魔女のくせに自分の病気も治せないでどうするのよ」
「いやー、喘息は厄介ですよ。わたしも幼少のころ小児喘息だったりしましたが、呼吸が満足にできなくて一晩中苦しんでいましたからね」
小悪魔は言って、パチュリーの背中を優しくさすりはじめた。
そしてしばらくそのまま時間が経過する。
ん、と小さく声。
「どうしたの?」
「いやー、これはこれは……パチュリーさま、すごい汗びっしょりですね。お着替え手伝いましょうか」
「自分でそれぐらいできるわよ」
パチュリーは立ち上がる。
どうもいつのまにやら体力が消耗しているようで、フラフラだった。
小悪魔を一瞥し、部屋から出て行くように促す。小悪魔は命じられたところに逆らうことは滅多にないといっていい。したがってこの場合も、すぐに部屋の外にでた。盗撮の類もないだろう。
パチュリーは着ている服を脱いで、裸身になる。すぐに、小奇麗な衣装タンスから、いつもとまったく同じタイプの服を着た。
「そろそろよろしいですか?」
部屋の外からノック。
小悪魔の声だ。
「なによ、もう用は済んだわよ。仕事をしなさい」
「いえいえ――なんといったらよいか。パチュリーさまがお気づきでないようでしたので、僭越ながらもご指摘をさせていただこうかと思いまして」
「なにか問題でも?」
パチュリーはドアを開けた。
小悪魔はにこやかに笑って、そのまま部屋の中に侵入する。パチュリーは思わずあとずさった。身体中の筋肉から力が抜けていっているようで、どうもいま仮に襲われたらたとえ小悪魔であろうと負けるような気がしたからだ。
つまり、パチュリーは本能的に恐怖した。
しかし、そういった恐怖心を召喚の対象である小悪魔に感じたことが、パチュリーには我慢ならなかった。
パチュリーの視線は不機嫌そのものになる。
小悪魔は知ってか知らずか、いつものようにうっすらとした笑いを浮かべているのみだ。
「何か用があるなら早く言いなさい……」
「たいしたことではないのですけどね」
小悪魔は一歩近づく。パチュリーは後退した。その結果、ベッドにつまづいて、自分の身体を支えることができなくなり、そのまま意図せず腰掛けることになった。小悪魔は自然とパチュリーを見下ろす形になって、冷えた視線で見つめている。
「ああ……パチュリーさまって、本当に」
そこから先は言葉が発せられない。おそらくは『愚か』だとか『かわいい』とか、たいして脈絡もない言葉がくるのだろう。
「いいからさっさと何か伝えることがあるのなら言いなさい」
「では、少々失礼させていただいて……」
ずい、と小悪魔の顔が迫った。
パチュリーはせめて目だけはつぶらないように耐えた。今、反撃すると小悪魔を消滅させるぐらいしか手はない。しかし――
ある種の経験則からくる信頼だけはあったので、されるがままにした。
そうすると、小悪魔は細長い前髪をかきあげて、パチュリーのおでこに自分のおでこをくっつけた。
ぴと、と肌が吸いつき、ゼロ距離で小悪魔は納得顔。
「やっぱり――パチュリーさま、お熱がありますよ」
「熱?」
「はいそうです。つまるところ――、パチュリーさまの咳は、喘息というよりは風邪なのではないですか」
「ん……」
パチュリーはしばし考える。確かに常時喘息もちで咳をしているから逆に咳をすることの意味が薄れてしまっているということはあるかもしれない。考えてみれば、身体がだるかったり、妙に汗をかいたりしているのも風邪の徴候だった。
「お風邪を召していらっしゃるようで」
「ふん。そうみたいね。魔女が風邪ごときに負けるなんて――我慢ならないけど」
「いかがいたしますか」
「べつに。風邪には暖かくして寝るのが一番よ。いちおう、咲夜にも伝えてちょうだい」
「わたくしが看病しますけど、それでよろしいのですね」
小悪魔は喜悦満面といった様子。
すぐにパチュリーは嫌な顔になる。しかし、ここで紅魔館のメンツに看病を任せるというのも気が引けた。紅魔館にとってはあくまでもパチュリーは客人であり、身内にあたるとすれば、小悪魔だけだ。小悪魔に看病させるということを思い描くと、ぞっとしないが――。
しかし、それでも小悪魔に看病させる以外に手はないだろう。
「……」
パチュリーは無言のまま肯定するよりほかなかった。
「では、すぐに氷嚢を用意してきますねー」
ああ、なんて楽しそうな声なんだろう。パチュリーは体感的に熱があがるのを感じた。
しかしながらと言うべきか、小悪魔の看病は実際には思っていたよりもずっと普通だった。いや、むしろ献身的とさえ言えた。仕事に対して忠実な彼女にとっては、言葉以外の部分ではそれほど異常な行動をとることはないということなのかもしれない。
しかし――まだ、パチュリーは諦めたわけではない。小悪魔になんらかのアドバンテージをとるというのが近時の目標だ。
「小悪魔。なにか軽く読める本を持ってきなさい」
「いやいや、さすがに今はやめておいたほうがよろしいのではないですかね」
「魔女は知識を糧にして生きているのよ。いいからさっさともってきなさい」
「わかりました」
小悪魔はポケットサイズの辞書をもってきた。
これをどう読めと……。
パチュリーは無言のまま非難の目を向ける。
「私、こういうのを読んでいるとすぐに眠くなっちゃうんですよねー」
「あなたの裁量に任せた私が愚かだったわ。そうね。ネクロノミコンでも持ってきなさいよ」
「あれを軽く読める本に分類しちゃう時点で、私がパチュリーさまのご期待に沿うことは、ほぼ絶望的だったように感じます」
「うるさい。早く行きなさい」
「病人様は最強ですねー」
小悪魔は嫌味を言うことを忘れないが、仕事を完遂することも忘れないから、ますます憎らしい。
仕事について怠惰なところを見せないから叱りにくいのだ。
では――。例えば、ここと図書館をずっと往復させてみるのはどうだろう。体力はどうやら人並程度であるから、小悪魔もいつかは根をあげるだろうか。
いや、それでは単なる部下いびりと同じで、精神的にやりこめることとは違う。ぼーっとした頭で考えても、うまいアイディアは浮かばない。
少しベッドに身体を預ける。
小悪魔が持ってきた辞書をぱらぱらとめくっていると、毛玉についての生物学的な説明が数行に渡り記してあった。
そこでパチュリーは不意に思いついた。
そういえば、必勝の命題がある。
例えば毛玉を手のひらの中に畳みこみ、相手に対して『毛玉は生きているか』と聞く。相手が毛玉は死んでいると答えれば、ふわふわの毛玉を空中へと散逸させればいい。
もしも、逆なら――
毛玉をその場で握りつぶしてしまえばいい。
生命とともに選択肢を殺してしまえばいいのだ。もちろん今のは比喩的な表現であり、本当は毛玉を触るなんてとてもできそうにないが、同じような論理構成をとれば、小悪魔に意趣返しができるだろう。なにしろ、小悪魔がよく使いまわす論理であるから。
――少し試してみるか。
パチュリーは、ある準備をおこない、それから小悪魔を呼んだ。
「小悪魔。さきほどのケーキには毒がしこまれていたわ。咲夜もよくよくレミィと同じような感覚で用意してしまったのでしょうね」
「ほぉ。そうですか。毒ですか」
「それで解毒剤を作ったの」
パチュリーは用意しておいた透明なコップを小悪魔の前に差し出す。
「時間の都合上、一人分しか作れなかったわ」
ぴくりと、小悪魔の動きが止まった。
「だから」パチュリーは言った。「あなたが決めてちょうだい。あなたが飲むか。私が飲むか」
「それはずいぶんと冷たい方程式ですね」
「冗談で言っているのではないのよ」
そう――
冗談ではない。
この提案は明らかに作為的ではあるが、それに嘘であるとおそらくばれているだろうが、冗談ではない。
パチュリーがしかけた論理は『別離』を機軸とする。この機軸をはずさない限り、パチュリーの勝ちは決定している。最初から最後まで。
つまりこういうことだ。
もしも小悪魔が飲むことを選択すれば、契約を継続するのに必要な信頼が失われたことを主張しうる。これは説明がいらないところだろう。継続的な契約は信頼関係を基礎においている。信頼がなくなれば、契約を続けることは不可能になるということだ。
逆に、もしもパチュリーが飲むように勧めれば――つまりは小悪魔が自分が死ぬことを肯定すれば、契約を継続する意思がないと主張しうる。
これについてはパチュリー自身、論理に屁理屈めいたものを感じなくもないが、契約の主体者がいなくなれば、契約は当然に消滅するので、別に問題はない。
図式化すれば、
小悪魔が自分の消滅を肯定する。→契約の主体者がいなくなることを肯定したことと同値。→契約の消滅
といった感じだ。
いずれにしろ、『別離』はもたらされる。
パチュリーとしてはともかく、小悪魔が泣いて契約の継続を請う状況をつくりだしたかった。そうすれば、契約を有利な条件で結びなおすこともできるだろう。
そうでなくても少なくとも小悪魔の増長を食い止めることができる。
「さぁ……残された時間はないのよ。小悪魔、決めなさい」
「パチュリーさま、ひとつ質問よろしいですか」
「なによ」
「どうして私に決定権を与えてくださったのですか」
「……あなたの生命を私の選択で奪うのが忍びなかったからよ」
パチュリーとしては、そう答えるしかない。普段の考えとは百八十度違うところであるが、論理を破綻させないためにはしかたないといえるだろう。
小悪魔はうっすらと微笑んでいる。
「さぁ。とりあえず決めるがいいわ。あなたの心の望むとおりにね」
「パチュリーさまもいよいよ思考が魔女めいて来ましたね。これは例の毛玉の論理ですか」
パチュリーはいつもの眠たげで不機嫌そうな表情を崩さない。
小悪魔も普段からパチュリーの思考には触れてきたのだから、毛玉の論理を知っている可能性は最初から考えていた。しかし問題ない。選択肢を握っているのはパチュリーであり小悪魔ではないのだから。
「ふふ……しかし、パチュリーさまも無意識にですが、私を信頼なさっているのですね」
「なにが言いたいの」
「いえね。仮に毛玉の論理で構築されているのだとすると――、私が契約の継続を願うことが前提になっているわけですよね。つまり、私がパチュリーさまを敬愛していることをパチュリーさまは信頼なさっておられるわけです。それが、嬉しいと思ったのですよ」
「あなたこそ勘違いしているわね。私はただ単に契約を解消したかっただけよ。さあ、どうするの、さっさと選択しなさい」
「しかたありませんね……」
小悪魔は透明なコップを受け取る。
そして、一秒も待たずに、コップの中身をその場でドバドバと捨てた。解毒剤と称したただの水は図書館の床を濡らして、じゅうたんの染みとして広がった。あとで掃除が大変そうだが、小悪魔に命じてしまえばいい。パチュリーは無意識に近い領域で、そう考える。
そして他方で冷たく口を開いた。
「解毒剤を捨てる。その選択肢も結局は同じことよ。私の言葉を信頼していないということになるわ……」
小悪魔は首を横にふった。
「こうするしかないじゃないですか。信じていないというわけではないですよ。むしろ信じているからこそ、死なばもろともというわけです。私はパチュリーさまを敬愛していますし、その言葉には嘘はありません。パチュリーさまがご存知のとおり、私はあまり嘘をつかないのですからね。それに私はパチュリーさまが私を信頼していることを信頼しているわけです」
「それでは無限後退になってしまうでしょう。私が信頼するあなたが私を信頼するとか言ってたら切りがない」
「それは笑い話ですね――、しかしもう一つ。私がパチュリーさまの手のひらでたゆたう忌み嫌われた毛玉だとすると……、パチュリー様が必勝するためには必ず必要な条件があるはずです。それは毛玉=私は生きていなければならないということ……」
小悪魔は胸のあたりを、きゅっと押さえた。
なんとも小悪魔らしくないいじらしい姿態に、パチュリーは視線を少し逸らして答える。
「なら……、もう少し言うことを聞きなさいよ」
「仕方ないでしょう。私は悪魔なのですからね。ですが、パチュリーさまの不利益になるようなことはさほどしないように気をつけてもいるのですよ。なぜなら、私の利益とパチュリーさまの利益は接着しているからです。それは悪魔の論理とさほど矛盾しないので問題ないはずです。そう、つまり、自分の利益を追及しているに過ぎないわけでして」
小悪魔は普段あまり見せない苦笑めいた笑いを見せた。
おそらく演技だろうが。
「あなたらしいわね」
「それと、もうひとつ……。毛玉の論理を使うということは、私は最終的には望まれていると考えてもよろしいのでしょうか。それともそれは私の自惚れにすぎないのでしょうか」
「あなた次第よ」
パチュリーは淡々と言った。いつもと変わらない調子に聞こえたはずだ。それで伝わればいいと考えている。
「では、私も少しパチュリーさまにおねだりをしてみましょう。私の利益になることでなければ、パチュリーさまの『お願い』も聞きたくないのでしてね。まったく――小悪魔を契約で拘束することなく、願いで意のままに操ろうとしたのはパチュリーさまぐらいなものですよ」
パチュリーは沈黙を通した。
それは、小悪魔が何を願うのか少しだけ興味が湧いたということもあるし、もしも利益考量次第では、小悪魔の願いをかなえてやってもいいとさえ思ったからだ。
いや――その思考はすでに小悪魔に負けているような気がしないでもない。
思いなおして口を開こうとしたときには、すでに時遅く。
小悪魔はベッドに腰かけて、爪先をついとパチュリーの額に当てていた。
「いただきますよ。パチュリーさま」
「なにを?」
命か? それとも魂か。
一瞬だけ完全に無防備になっていて、あらゆるシールドの詠唱はもはや無意味。
パチュリーはごくりと唾を飲みこみ、来るべき災厄に覚悟した。
しかし、災厄のときはいつまで経っても訪れなかった。
「なにをしたの」
「特には……そう、分配ですよ」
パチュリーはハッとした。
「風邪は人に移せば治る。あなた、私の風邪を奪ったわね」
「ひひ。小悪魔としては……、ごほ……ごほ。パチュリーさまから与えられるものはなんでも欲しいと思っておりますからね」
「ずるいわ。それは私のよ。返しなさい」
仲良く半分こにしたせいか、どうやら風邪の威力も弱まったらしく、パチュリーも小悪魔も三日もすればだいぶん調子を取り戻していた。
パチュリーはあいかわらず喘息は治っていなかったが、とりあえずのところ風邪は治っている。
身体の調子もいつもと同じぐらいまでは回復した。
それでも――
パチュリーは不機嫌そのものだった。
結局、小悪魔にしてやられた感がぬぐえない。いやそれどころか状況は悪化していないだろうか。小悪魔はまるでパチュリーが自分の存在を認めてくれたかのように振舞っているし、それはある意味では正しくもあるのだが、そういう形として認めたわけではなかった。
パチュリーは思う。
――本を読むときは、誰にも邪魔されず自由で、なんというか救われてなきゃあダメなのよ。独り静かで豊かで……。
それなのに、どこかしら小悪魔という存在を認めてしまう自分が一番許せなかった。
小悪魔との契約を継続する結果としてもたらされるのが最終的には破滅であるとか、契約の最終的な段階には魔女は地獄へご招待とか――そんな瑣末なことはどうでもよく、自分の孤独という名の絶対的な障壁がいともたやすく越えられることに我慢ならない。
消してしまいたいと思うほどだ。
しかし、消したところで――死なばもろともな心意気の彼女にはほとんど無意味だろうか。
「やれやれ……厄介な存在を抱えこんだようね」
なら、勝ち続けるしかないだろう。
本を読むリソースの半分ほどを割いて、精神力で圧倒してやる。
「小悪魔」
「はい。なんですか。パチュリーさま」
「そうね。もう一歩前で止まりなさい」
「はい。止まりましたけど。なにかしましたか。私」
「次、目を閉じなさい」
「お叱りを受けるようなことは何もしていないと思うのですが」
「なにもしてないから、あなたに何かしたらいけないわけではないわよね」
「ええ。その通りです」
「じゃあ、するわ」
それから刹那。
パチュリーは小悪魔の両の腕をつかんで、電光のような勢いで唇をあわせた。
「は?」
小悪魔は何をされたのか、瞬間的にはわからず固まっていた。
それから――、数秒後、ようやく事態が飲みこめたのか、小悪魔の身体が小刻みに震えだす。顔はゲヘナの第一層にある炎よりも紅く染まり、いまにも湯気がふきだしそうな雰囲気である。
「ぱぱぱぱ、パチュリーさま、なんということをなさるのですか。は、はははしたない。淑女が、魔女がそんなことを――っ!」
「私は魔女よ。魔女は目的達成のためならなんでもする。忘れたの?」
不敵にパチュリーは微笑んだ。
あまり身体的な接触をしてこないからもしかすると思っていたが、どうやら当たりらしい。
これがパチュリーの賭けだった。
分の悪い賭けのように見えて、周到に用意された最後の弾丸でもある。
小悪魔がいずれにしろ、飲み物を捨てるなりなんなりして契約の更新を願うのなら、それはパチュリーを敬愛している証明に他ならず、そうであるならば最終行為の衝撃力はある程度強力なものになりうるはずだ――
そういう論理構成。
隠された論理である。もちろん最後の手段を使う事態に陥ったのは不本意であるし、あまり気持ちの良いものではない。キスが気持ち悪いというわけではないが、これで勝てるかどうかも怪しいとは思っていたし、そういう不確定な要素を抱え込むこと事態があまり好ましくないといえたのだ。
これでは僅少な差で勝ったようなもので、客観的には馴れ合ってるようにしか見えない。
そういう誤解を誰かにされたとしたら、パチュリーは憤死したい気分である。
しかしともかく――
なんとか勝ちを拾えたようだ。
先ほどの微笑みには安堵の意味もこめられていたのだった。
小悪魔のその日の行動はまるで往年のドジっ娘を思わせるほど、ちぐはぐであった。
そんな行動をパチュリーは横目に見ながら、ひそかに勝利の美酒に酔っていた。
そしてふと考える。
想いを先に確認し、嫌われないことを確認してから、破壊行為のようなキスをすることを彼女はズルいと感じるだろうか。
問題ない。
小悪魔が悪魔としての精神を有するのと同様に、魔女は最初からずる賢いものと相場が決まっているのだから。
ごちそうさま
色々と小悪魔の反応にやられました。
遅れを取るのは絶対に嫌なパチュリーさんの行動が超かわいい♪
ソノ後の小悪魔の様子も絶品です。
信頼しあっているくせに足の引っ張り合いを欠かさない関係はなかなかに楽しそうですね。
作者様が加納朋子さんをお好きだと聞いて嬉しいです。
この小悪魔はいいなぁ
というか,あもりにも羨ましすぎるでしょうw
うまい
と思ってしまった
やっぱり根っこではまるきゅーさんの講ミス臭いwセンスは素晴らしいと思う。
紅魔館はミステリ似合いますよね。森博嗣といい。
小悪魔視点でも面白そうですね。むきゅー。
優位を勝ち取ろうと必至になってるパチュリーがとってもかわいかったです。
むっきゅんむっきゅんww
私のSSで加納朋子さんの「掌の中の小鳥」をパク……もといオマージュしたときのまるきゅーさんのコメントを読んだときに感じた、
ばれた!!感が蘇ってきました。
私も加納朋子さんのミステリは大好きです。とても楽しめました。