Coolier - 新生・東方創想話

キズイロ

2009/06/07 00:49:45
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 「痛い」という感覚は、遠い昔に失ったのかもしれない。




 私が感じるのは、生暖かい液体が流れる感触。それだけが私の身体を支配して止まない。ただひたすらに、それを感じる。
 月明かりはカーテンに阻まれていても、部屋の中はうっすらと明るい。体育座りのベッドの上、左手をそっとシーツに投げ出す。生暖かい液体がゆらりと流れ、シーツに染みを作った。

 気付けば私の瞳からも、温かい液体が零れ落ちた。声に出さず、鳴咽すら無く、ただただ流れていくだけ。頬を伝って、顎から落ちる。手首を伝って、シーツに染みる。




 そっと、剃刀をテーブルに置く。痛いという感触は、本当に感じなかった。










 『キズイロ』










 -1-




「さなえ~、どこか具合悪いの?」
 朝ご飯の席での諏訪子様の言葉が、私の箸を止めました。別にどこも具合が悪いような感覚も無いので、さらりと否定します。…心当たりはあるのですが。

「いえ、別にそんな事はありませんけど…。私の顔色、悪いんですか?」
「う~ん、悪いって事じゃ無くて…、なんか疲れてるなぁって思っただけ。」
「そうですか? …それはきっと、諏訪子様の気のせいです。」
「いやいや早苗。」
 そこで声を挟むのは八坂様。神奈子様も心配そうな表情で私を見つめていました。

「確かにどこかやつれてるというか…。ああ、いつもと違うよ。元気が無い。」
「八坂様まで何をおっしゃっているんですか。全然大丈夫ですよ。」
「そうか? いや、でも諏訪子だってそう言っているだろう。早苗の自覚が無いだけだ。」
「そうだよさなえ。疲れってのは知らず知らずに溜まるんだから。」
 お味噌汁のお椀を置きながら諏訪子様が言います。八坂様は食べ終わったようで、「ごちそうさま」と丁寧におっしゃってからちゃぶ台を離れていきました。

「実は無理してるんじゃない? 家事とか神社の仕事とか。」
「いえ、私は全然…。」
 否定しながらまた箸を動かします。二柱のおっしゃる通り、確かに今朝は食欲があまりありません。しかしそれを表に出すわけにもいかず、私はもくもくと、ちょっと冷たくなったご飯を口に運びました。

「そう? ならいいけど…。さなえ、疲れたり辛かったりしたら言っていいんだからね。」
「…ありがとうございます。」
 諏訪子様は優しい神様です。どうやらかなり心配していらっしゃるらしく、私の顔を覗き込んだりしています。ビー玉のような瞳が綺麗でした。

「ですが諏訪子様。」
「ん?」
「そんなにお顔を近づけていただけるのは嬉しいんですが…。私のご飯が食べられません。」
「あ。 …そうだったね、ごめんごめん。」
 顔を離して、残り少ないお味噌汁を飲む諏訪子様。私のもほとんど無くなっていました。八坂様や諏訪子様と食べるご飯は、どうしてこうもおいしいのでしょうか。




「ん、と。ごちそうさまでした。」
「ごちそうさまでした。」
 私と諏訪子様が同時に箸を起きます。ちょっと食休みをしていたところで、八坂様がやって来ます。どうやら諏訪子様をせかしにきたようです。

「ちょっと諏訪子、そろそろ行かなきゃまたどやされるじゃないか。」
「え? もうそんな時間? ああさなえさなえ! 悪いけど片付けしといて~!」
 ばたばたと立ち上がり居間から出ていく諏訪子様。その愛らしい姿に、クスリと笑ってしまった。
「全く…。諏訪子は昔からこうだ…。」
「いいじゃないですか。八坂様も、たまにはああやってどたばたしてみてはいかがですか?」
 きっとかわいいですよ、と軽く冗談を言ってみたりする。八坂様は頬を朱らめて私を小突いた。力の全く篭っていないげんこつ。叩かれた所を押さえながら八坂様を見る。笑っていました。

「早苗も変わっていないな。」
「…何がですか?」
「そういう所がだよ。」
 はて、一体どういう所がだろうか。ぼんやりと考えてみますと、何か暗いものがずるずるとはい上がって来る気がしました。私はそれを無理矢理押さえ込んで、八坂様に尋ねます。

「ところで、今日は一体どういったご用事でしょうか?」
「ああ、今日は天狗達と話し合いでだな…。こっちに来た時のいざこざが少々残っていて、それをちょっとね。」
「そうですか…。」
「でも心配しなくていいんだ。大分片付いたからな、多分また宴会だろう。済まないな、早苗。」
「いいえ、良い方向に向かっているのなら良かったです。」
「あ、そういう事じゃ無くて…。あれだ、こう、いつも早苗を1人にしておくのが申し訳ないというか…。」
 畳に座り込みながら八坂様がおっしゃります。八坂様は、どうやらそんな事を気にかけていた様でした。

 私はそういう事を気にしません。むしろ1人になる時間は、私にとっては貴重なものです。もちろん八坂様や諏訪子様と居たくないという気持ちではなく、ただ、何となくです。
 でも、そんな事は口にはしません。きっと二柱は、悲しむでしょうから。


 だって私が二柱にとって、どのような存在か…


「早苗?」
「え? ああ。別に気になさらなくていいんですよ。」
だって八坂様は、神様じゃあないですか。

「神奈子~。」
 遠くから聞こえる諏訪子様の呼ぶ声。八坂様はそれを聞いてから立ち上がりました。相変わらずの凛々しいお姿に惚れ惚れします。

「おっと、私が待たせているようだ。それじゃあ早苗、ちょっと行ってくるよ。」
 玄関へと向かう八坂様。私は1歩下がってついていきます。


 だって私は人間ですから、神様のお隣りには立てません。


「はい、お気をつけて。」
「さなえ。あんまり無理しちゃ駄目だからね。」
「だから大丈夫だって言ったじゃないですか。諏訪子様、心配し過ぎですよ。」
「だって…。」
「いいじゃないか早苗。心配してもらいな。」
 微笑みを浮かべながら飛び上がる八坂様。諏訪子様も後に続きます。二柱の姿が見えなくなった頃、私は1人の神社に帰っていきました。










 -2-




 私の午前中は、ほとんどが家事に追われます。

 朝ご飯に使った食器を台所に運び、手早く洗います。食器は自然乾燥、その間に洗濯機を回さねばなりません。洗濯機を回している間には掃除です。さすがに掃除機で畳を掃除するわけにはいけませんので、やっぱり箒です。
 こうやって昔ながらの掃除をしていると、いかに電力が素晴らしいかを感じます。洗濯機や冷蔵庫などは、地底での核エネルギーを利用した八坂様や発明好きな河童の河城にとりさんの協力で使えますが、その他まで供給するだけの電力システムはありません。

 それでも掃除は楽しいのですが、今日は気が晴れませんでした。箒を動かす手が何度も止まり、複雑な畳の目を見る。そんな時間が多々あったのです。理由は簡単です。ちょっぴり考え込んでしまうから。

 八坂様や諏訪子様は、私の「病気」を見抜いているのかもしれません。今までも朝ご飯の席でよく尋ねられましたから。 …特に諏訪子様から。


「さなえ? 大丈夫?」
「さなえって低血圧なのかな? 朝、きつそうだよね。」
「無理してるんなら私が代わるよ? だって、私達家族じゃん。ね、神奈子。」


 手を変え品を変え、そんな風に尋ねる朝が幾度と無くありました。そしてその度に私は、「なんでもない」と突っぱねていました。諏訪子様の気遣いを、踏みにじっていました。
 八坂様もそんな朝には、必ず諏訪子様と同調します。八坂様が私の変化を悟っているかどうかは分かりませんが、きっと分かっているのでしょう。そしてその気遣いを、私は突っぱねていました。八坂様の気遣いを、踏みにじっていました。

「ごめんなさい…。八坂様…、諏訪子様…。」
 すみません、じゃなくて、ごめんなさい。そうやって謝れるのは、1人の時だけです。
 私が1人の時を求めるのは、謝罪がないと自らへの罪悪感に押し潰されそうだから。でも、面と向かっては謝れない。私は怖いんです。私の告白を、八坂様が、諏訪子様がどう受け止めるのか。それを見るのが、怖いんです。




 あらかたの掃除が終わる頃には、洗濯物が出来上がります。その籠を持って、次は境内へと向かいます。外に出ると、暖かな陽射しが射していました。今日はいい洗濯日和だなぁ、と1人ごちて、物干し竿に吊します。たいした量は、ありませんが。

 そして次は境内の掃除。私の午前中は掃除ばっかりです。竹の箒で地面を撫でると、滑らかな音が流れます。落ち葉の季節では無いのですが、儚い命を散らした虫の死骸や、よく分からない塵を掃いていかなければなりません。神社は神聖な場所、常に綺麗に保つのがたしなみなのです。

 それでも、私は汚れています。外見は知りませんが、内面は確実に汚れています。
 こびりついた汚れは、私1人の力では落とせません。かといって、誰かに落として貰うわけにもいきません。1人の力で落とせなくとも、自分1人で解決していかないといけないのです。思い出したように痛む傷が、その事を教えてくれました。

「はぁ…。」
 綺麗な空を見上げてみます。どこまでも青い空でした。風が吹きました。優しく頬を撫でるそれは、けれども傷にはしみます。思わず顔をしかめてしまいました。そしてまた、境内の掃除を再開します。八坂様や諏訪子様、それに幻想郷の色々な方々との場所を、丁寧に掃きます。汚れないように、丁寧に。

 でも、私の心は、どんどん汚れていきます。誰のせいでも無く、止まらない思考が容赦無く私を追い詰めていきます。傷の痛みは連続したものとなっていて、それが更に拍車をかけます。




 じわり、と地面が揺れました。


 ふわり、と風が吹きました。


 ぽろり、と涙が落ちました。




「あ……。」
 突然流れ出した涙を袖で拭って、私は神社へと戻って行きます。ずきずきと疼く傷の痛みは、きっとしばらく止まらない。箒は境内に置きっぱなしで、小走りで戻りました。










 -3-










 私はぼんやりと、縁側でお茶を啜っていました。お昼ご飯は朝のご飯をおむすびにしたものと、漬け物だけ。もともと食は細いので、これくらいで充分なのです。 …とはいえおむすびは結構な数を平らげてしまいましたが。

 両手を床について、体重をちょっぴり後ろに傾けて。私は何もせずにぼーっと過ごしていました。どんな表情をしているのかは分かりませんが、きっと憂鬱そうな表情だったのでしょう。頭の中ではぐるぐると、八坂様や諏訪子様の心配そうな表情が回っています。早苗…。さなえ…。それぞれの声色で、私に呼び掛けます。幻聴なのでしょうか。かなりリアルな声色でした。

「やっぱり…、言えませんよね…。」
 ぽつり、と1人の呟きは、青い空に吸い込まれました。身体を起こして、「言えない事」と向き合います。青い風祝装束の、脇から下を包む袖。それに隠された左の手首に刻まれた、「言えない事」と。
 そこには、赤い糸キレみたいな傷が、プツプツと並んでいます。私の几帳面な性格をそのまま、平行に、均等な長さで並んでいます。真新しいものから古いものも。それら全てが、私の「言えない事」です。
 そしてそのうちの1つからは、僅かながら血が滲んでいました。指でなぞって潰すと、血の薄い赤が消えました。これは昨日付けたばかりの、1番新しい傷。

 きりきりと、胸が締め付けられるような気がします。いえ、きっと気のせいではありません。その左手で、ぐっと胸を押さえました。そうでもしないと、大声で泣き出してしまいそう。そんなぞっとする感覚に、襲われたからです。

 でも、泣きません。声を上げて泣く権利なんて、私にはありません。なぜなら、これは自分の問題だから、他人を巻き込んではいけないんです。自分で悩んで苦しんで、それで答えを見つけなければなりません。八坂様や諏訪子様に甘えて、それで何とかしよう、そんな権利なんて私にはありません。理由なんて、ありません。




 急須のお茶が無くなりました。だから私は、ちょっぴり重い足取りで台所へ向かい、戸棚を覗きます。

「お茶の葉っぱ…、切らしてたっけ?」
 目的のものはありません。私は思い返します。 …ああ、そういえば無くなっていました。この間八坂様が無くなったとおっしゃっていました。それを思い出したので、私は人間の里へ買い出しに行く事にします。今はそんな気分ではないんですけど、私の気分で八坂様達のお茶が無い事にはしたくありません。溜め息をつきながら玄関を出ます。午前中に比べて、少し雲が増えた空でした。明日は雨になるかもしれない、勝手にそう推測して飛び立とうとした時です。

「早苗~、いる~?」
 聞き覚えのある声が、鳥居の辺りから聞こえて来ました。やる気のあるような無いような、何事にも縛られない声。そんな声を持つ人は、あの人しかいません。

「いるんなら返事しなさいよ~。」
 人間の里へ向かうのを止めて、私は小走りで鳥居に向かいます。そこには紅白装束の巫女さんが手に袋を持って立っていました。私の姿を見て、ふっと笑顔を浮かべます。

「霊夢さん…。あ、今日は何かご用ですか?」
「おみやげ持って来たの。いっぱいあるから貰ってよ。」
 ん、とぶっきらぼうに手に持つ袋を渡す霊夢さん。私はそれを受け取って、早速中身を見てみました。そこには溢れんばかりのお茶の葉っぱが詰まった袋。一体どうしたのでしょうか。理由を尋ねると、「だいたいさぁ。」と話し始めました。話というよりは、愚痴ですね。

「ほら、里のお茶屋さんあるじゃん?あんたもよく行くさ。」
「ああ、はい…。 買い過ぎじゃないですか?」
「私が買ったんじゃないのよ。貰ったの、全部。」
「えぇ!?」
「今あんたにあげたのが5セット。1セット10袋入りで、そのセットを10個。福引きで当てちゃったのよ。」
 福引きで当てるほうが凄いと思いますが。 …ていうか私、50袋も飲めませんけど。まあ、それでも有り難くいただきます。

「500袋も飲めるわけないじゃない! ってお店の人に言ったらさ~。『博麗の巫女さんのお仕事はお茶を飲むことじゃあないんですかね?』って。」
「当たってるじゃあないですか。」
 私が博麗神社に行くと必ずお茶を啜っていますし。 …あ、霊夢さん、頬っぺた膨らまして怒っています。かわいいですね。

「当たってない!」
「そうですか? じゃあ、今からこちらで1杯いかがでしょう? お茶菓子ありますよ。」
「む~。」
「ちょうどお茶切らしてたので、助かりました。ありがとうございます、霊夢さん。」
「あ! じゃあもっと貰っ」
「いりません。」
 霊夢さんの期待を受け流し、私は神社へと戻ります。霊夢さんは残念そうな表情で、私の隣に駆け寄って来ました。「貰ってくれてもいいじゃない」とまだ文句を言っています。まあ、500袋位霊夢さんならすぐに飲んでしまいそうなのですが。




 私の寂しさは、今だけはどこかに消えていました。左手首が霊夢さんの視界に入らないよう、貰った袋を左手に持ち替えて、霊夢さんの話に答えます。今だけは、寂しくありませんでした。










 -4-










「これだけあれば、しばらくは大丈夫ですよ。」
「そっちは3人いるじゃない。だから減りは3倍でしょ。もっと貰ってよ。」
「いえいえ、八坂様も諏訪子様も、お茶よりお酒です。」
 縁側でお茶を啜る事は、ついさっきまでとは変わりません。が、今は隣に霊夢さんがいます。お茶とお饅頭が乗ったお盆を挟んで、程よい距離で腰掛けていました。私の右側から、声がします。

「あ、でもこうやって配って歩けば減るじゃないんですか?」
「そうじゃないのよそれが。」
 お茶を啜る霊夢さん。本当に綺麗なフォームです。少しの無駄も無く、かといって緩慢な動きでも無く。コンテストなんかはありませんが、もしあるのなら断トツで幻想郷ナンバーワンでしょう。

「実際色んな場所に行って、あんたにした説明と同じような事を言うんだけど…。」
 そんな姿の霊夢さんを想像してみます。両手にあの袋を抱えて、ぶっきらぼうな言い方で貰ってくれと頼む姿は、どこか様になっていました。
 私の顔に出ていたのでしょうか。霊夢さんが、「何笑ってんのよ。」と言って、またお茶を啜ります。

「紅魔館は紅茶がメインだからって断られたし…。魔理沙やアリスも日頃は紅茶なのよ。私の家に来た時には緑茶のくせに。」
「そういえば…、そうですね。」
 前にアリスさんの家にお邪魔させて頂いた時も、そういえば紅茶が出ていました。

「だから妖夢のとこと、後は輝夜のとこ。それから霖之助さん。それくらいしか受け取ってくれなかったわ。」
 霊夢さんがぼやきます。お茶が無くなったようなので、私が霊夢さんの急須に注ぎます。「ありがと」と一言言ってから、またすぐに湯呑みに口をつけていました。

「霊夢さん、知り合いが多いんですね。」
「知り合いっていうかねぇ。あ、そういや神奈子達は?」
「八坂様はですね、今日は天狗さん達と宴会です。」
「ふ~ん…。早苗は誘われなかった?」
 霊夢さんは自然な声で尋ねました。私はそれに、心がちくりとするのを感じます。


八坂様達は仕事で行っているのだから、私に出る幕は無いんですよ。


 その事を霊夢さんに話すのは、嫌でした。いえ、嫌なのは自分。こんな事を思う自分が嫌なのです。霊夢さんに話したところで、何ら変わりはありません。私は、それを分かっています。
 だから私は、霊夢さんの質問には答えませんでした。霊夢さんも答えを急かしません。何となく分かっていただけたのでしょう。しばらくの間、沈黙が流れました。湯呑みから立ちのぼる湯気が、ふわりと浮かんでは消えます。ただ流れる時間を、2人でいて、1人で過ごしました。




「ねぇ。」
「何ですか?」
 ふと、霊夢さんが口を開きます。

「早苗さ、何か…、悩み事あるの?」
「えっ…?」
 今朝の諏訪子様と、霊夢さんの表情が重なりました。

「どうして…。」
「ううん、勘よ勘。」
「そうですか。それじゃあその勘は、ハズレです。」
 また、です。
 また私は、思いを踏みにじりました。こうやって他人が私に気遣ってくれているのを、こうも簡単に踏みにじります。本当に…、嫌ですね、私。

「そうかなぁ…。」
「ええ、そうですよ。」
 だって、八坂様や諏訪子様ですら分からないのに。

「私の勘はよく当たるって評判よ?」
「当たるのは福引きだけです。」
「あんた達を懲らしめに行ったのも、勘なのよ。」
 そういえば、そんな事がありました。
 守矢神社をまるごと幻想郷に持って来て、信仰を集めて牛耳ろうという八坂様のお考え。でもそれは、霊夢さんや魔理沙さんの手によって潰されました。 …今になってはこうやってお茶を飲む間柄なのですが。

「私は勘で負けたんですね…。」
「あ、ちょっと落ち込まないでよ早苗。」
 勘でやって来た見知らぬ巫女さんに負けた事は、自分の力を信じていた私にとってなかなかショックな事実でした。「お饅頭でも食べな。」と気を遣ってくれる霊夢さんから、その甘味を受け取ります。口に入れると、甘い味が広がりました。

「まぁ、あんたの性格なら落ち込むだろうけどね。」
「…どういう意味ですか?」
「だって早苗、真面目じゃない。それに、自分の力は絶対だって信じてるでしょ。」
「……………………。」
「勘だけど、当たり?」
「……………………当たり、です。」
 不覚にも、見抜かれてしまった。私の性格を。本当の、私の性格を。

「ほらね。私の勘は鋭いの。」
「ですね…。」
 もう一口、お饅頭を口にしました。先程感じたような甘さはあまり感じられません。ざらざら、かさかさとした餡子の食感が舌に纏わり付きます。それが不快で、私はお茶を飲み干しました。

「真面目なのはいい事じゃない。あんたの真面目な性格が、自分を信じる事に繋がるんだろうけどさ。」
「霊夢さんの…、言う、通り…、です。」
 でも、霊夢さんが思うような「自分を信じる」と、私が思う「自分を信じる」は、きっとズレているんでしょう。そう思うと、また、胸がきりきり締め付けられます。からっぽの湯呑みに、もう一度お茶を注ぎました。

「霊夢さん。」
「ん~?」
「霊夢さんは、そういうの、どう、思いますか…?」
「そういうのって?」
「そのままの意味ですよ。」
 自分を信じる事。自分を信じすぎる事。それはいい事なのか、そうじゃないのか。私では見つけきれない答えを、この人なら見つけきれるのかもしれない。私の勘が、そう教えてくれました。

「早苗の質問はさ、『自分の事、好き?』って聞いてるように聞こえるけど?」
「え?」
「自分の事信じれる人は、自分の事を、自分で抱きしめられる人よ。ま、早苗は出来るんだろうけどね。」
 何も、言えませんでした。
 私は霊夢さんに、そう思われているんですね。霊夢さんだけでなく、周りの色々な方々からも。 …もちろん、八坂様や諏訪子様からもでしょう。
 だってよく言われますから。「早苗は、自分の力をちゃんと信じてるね。」って。でもそれはいい事だよと、いつも続きます。

「早苗?」
 それは、そういう意味だったんですか?


「さ~な~え~?」
 私は、そんな風に見えているのですか?


「…ちょっと、どうしたのよ。」
 だとしたら、それは。


「霊夢…、さん。」
「…どした?」
 誰も、私を。


「霊夢さんは…、自分の事を、自分で、抱きしめられますか?」
「そりゃあ、ねえ。自分がそれなりに好きじゃないと、生きていけないわよ。」
 私の事、見てはくれていないのですね。


「早苗は?」
「えっ?」
「早苗は、自分の事好き?」
 霊夢さんが尋ねているのは、虚像の私です。本当の私には、尋ねていません。だから、答えは決まっています。すらり、と出て来るはずです。


「好きです。」
 ほら、言えた。
 簡単な事じゃないですか。


「…そう。」
でもね霊夢さん。


「それならいいけど、悩み事あるんならちゃんと誰かに吐き出しなさいよ?」
 嘘、なんですよ。




「結構喋ったわね。 …さて、お茶を配りに行きますか。」
 霊夢さんが立ち上がり、のびをしました。私は湯呑みを縁側に置いて、歩き出した霊夢さんに付き添います。

「お茶、ありがとうございました。」
「こちらこそ、お饅頭ありがとね。」
 何事にも縛られないように、霊夢さんが飛び立って行きました。その姿を見送っていると、ふと、胸の中を走る何かに気付きます。 …今までで1番、怖い感情でした。




 周りがそうやって私を認識しているのなら。私は、ずっと1人。




「誰も…、いない…。」
 本当の私を。
 弱くて見えっ張りで、自分が大嫌いな、私を。
 自分を傷付けなきゃ、笑えない私を。




「八坂様…、諏訪子様…。」
 大好きな家族ですら、そんな私を知りません。私にはもう、誰もいませんでした。名前を呼んでも届かない。そう思ってしまう自分が、嫌でした。













 -5-










 いつの間にか、夜が来ていました。机に突っ伏していた頬が痛みます。まだ頭もぼんやりしていて、自分が眠っていた事に気付くのはしばらく経ってからでした。
 霊夢さんと別れてから、私は1人泣いていました。お茶とお饅頭を片付けて、ふっと一息ついたとき、気付けばみるみるうちに涙が溢れ、泣き崩れました。
 最初は鳴咽くらいで、まあすぐに止まるかなとちゃぶ台に頬杖をついて泣いていましたが、昼間の会話を思い出すと、止まるどころかますます勢いは増しました。鳴咽はだんだん泣き声になって、わんわん泣きました。あんなに泣いたのは、いつ以来でしょうか。

 「泣く」といい行為は、酷く自分を疲弊させます。人間の心のシステムというのは不思議で、心に溜まった嫌な物を吐き出すために涙にして流すんでしょうが、私の場合は、泣いたら逆にそれが溜まってしまいます。嫌な物の中身は泣く前と泣いた後では異なりますが、結局は変わりません。永遠に終わらないいたちごっこ。いつまで繰り返すんでしょうか。

「ご飯…、食べなきゃ…。」
 自分にそう言い聞かせて、台所へと向かいます。食欲は全くありませんので、昼のおむすびの残りを押し込みました。何の味も、しませんでした。だからといって、まずいとも思いませんでした。




 食事とは言えない食事をした後も、私はぼんやりとしていました。電気は省エネの為に豆球しか点けません。オレンジ色の光が1つだけ、天井に浮いています。瞬きをしていないと、それがふわりと2つに増えます。目を閉じて、再び見ると1つに戻ります。ただそれだけを、していました。身体に力は入りません。酷く疲れているのが、分かりました。
 それでも女の子ですから、きちんと入浴はします。普段は八坂様、諏訪子様、私の順に入ります。でも今日は二柱がいらっしゃいませんので、私が先に失礼します。待っていたら日付が変わってしまうので、最近はずっとこうなのですが。

 立ちのぼる湯煙を見ながら、私の頭は皮肉にもフル稼動していました。動いて欲しいときに動かないのに、こういう時だけ動きます。全く、迷惑な身体です。




…自分がそれなりに好きじゃないと、生きていけないわよ。




 霊夢さんの声が蘇ります。はっとして、私は浴槽のお湯をすくって顔に当てます。熱い温度が、肌にありました。浴槽の中では、私の脚がゆらゆらと揺れています。八坂様によく羨ましいと言われる細い脚。私はどこが良いのか、よく分かりませんが。




…早苗は自分の事、抱きしめられるんだろうけどね。




「どうだろ…。」
 微かに震える手で、そっと肩を抱えてみました。ちょっとふっくらした掌が、骨張った肩を撫でます。触れるか触れないかの感覚でした。
 ぎゅっと、力を入れてみます。温まった身体の熱が、先程よりもダイレクトに伝わります。とくん、とくんと、血液が流れる鼓動が腕に当たります。呼吸で胸が上下するのが分かります。

 弾かれたように、私はその手を話しました。背筋がぞくぞくします。呼吸のテンポが高まっていました。私は何に、怯えているのでしょうか。

「なに…、これ…。」
 分かりません。怖いです。抱きしめられた感触が、怖いです。抱きしめた感触が、嫌です。

 自分を好きになるのは、こんなにも怖いものでしょうか。
 自分を抱きしめる行為は、こんなにも不快なのでしょうか。

「――――――っ!」
 ざばり、と浴槽から上がって、お風呂場から飛び出します。本当に、恐怖でどうにかなってしまいそうでした。カタカタと笑う膝が、私が怯えていることを教えます。どうしてなのか全く分かりません。先程出ていたはずの答えは、とうに消え失せていました。
 慌てて寝間着を着込み、逃げるようにその場所を去りました。




 部屋に戻って、私はようやく落ち着きました。ベッドに寝転がると、何となくホッとしました。あのままだったら、私は確実にどうかなっていた。そんな確信がありましたから。今日は八坂様も諏訪子様も帰ってきません。次に会えるのは明日の朝、酔い潰れて居間で眠っているんでしょうか。天狗はよく呑む種族ですから。
 でも、私は会いたかったんでしょう。八坂様に、諏訪子様に。ただ会いたかった。抱きしめて欲しかった。切実に、そう思いました。そう、思ってしまいました。

「違う…。」
 違います。私は、そんな人ではありません。体温を求めるような、そんな甘い人とは、認識されていません。


「違います…。」
 でも、私は求めています。きりきり締め付けられる胸が、確かに求めています。自分が2人になってしまったかのよう。とにかく不快で不快で、嫌でした。


「そんなんじゃ…。」
 助けて欲しいです。
 ボロボロになった私を、助けて欲しいんです。


「無いんです…。」
 叶いません。分かってます。分かっているから、こんな事になります。きりきりと、締め付けられます。ひびが入る位に、きりきりきりきり。


「八坂様…、諏訪子様…。」
 助けて下さい。こんな私を、助けて下さい…。




 ぱきり、と何かが音を立てました。後はおかしい位に、さらさらと壊れて行きます。たやすく崩れて行きます。
 壊れ始めた砂の山を固めるには、水が必要です。砂の山と私の心は、どこか似ているのでしょうか。だから私は、水を使います。自分を流れる、紅い水です。




 引き出しの中の剃刀が、私の手で握られて、私の手首を傷付けました。
 躊躇いなんてありません。力の加減なんて出来ません。次々と走る真新しい傷。すぐに紅い水が溢れて来ました。やがてそれが、少しずつ私を固めます。ずきんずきんと、鋭い痛みを湛えながら、固めていきます。
 切って、泣いて。そうして寝てしまえば、いいんです。


 それだけで、救われます。








 ガチャリ、と扉が開きました。








「早苗、まだ起きて…」
 八坂様の声は、ぷっつりと途切れました。










 -6-











 私が仕える神様は、どうお思いになったのでしょうか。
 遅く帰って来て、寝てるであろう自らの風祝の部屋の前をわざわざ通ると、まだ電気が点いています。今日は話せなかったから、寝る前の逢瀬くらいはと、扉を開けたら。

「八坂…、様…。」
 私が涙目で八坂様を見て。それでいて左手を真っ赤にして。側には血の付いた剃刀があって。
 こんな風景を突き付けられて、八坂様はどうお思いになるのでしょうか。

 唖然と立ち尽くしていた八坂様が、私の傷を見て、早足で部屋に入っていきます。ぐっと左手を掴まれました。強い力でした。

「早苗! お前怪我してるじゃないか!」
 ああ、当たり前ですよね。八坂様が大慌てで声を上げました。神様だろうと人間だろうと、こんなに流れる血を見て堂々としていられるはずがありません。掴まれている間にも、新しい鮮血が八坂様の手を汚します。
 でも違いますよ、八坂様。これは私がやったんです。自分で切ったんですよ。

「大丈夫…、ですから。」
「大丈夫じゃないだろう! ほら、私が診てやるから。応急処置位なら…。」
 八坂様が私の右手を引いて、居間へ連れていこうとしました。暖かい手ですけど、私はそれに、甘んじてはいけないんです。

「早苗…?」
 動かない私を怪訝そうな目でご覧になる八坂様。ああ、八坂様はお気づきになっていないのでしょう。私が自分で切った事に。

「大丈夫です…。これ、くらい…!」
 急に、痛みの波が来ました。思わず顔をしかめると、八坂様が無理矢理私を立たそうとします。私は頑なに動きません。血は、止まりません。

「早苗…。お前まさか…。」
 八坂様が、手を離しました。私の側に落ちていた、血が付着した剃刀。それにくぎづけになって離れないようです。やがて私の顔を見ます。私は、そのお顔を見たくありませんでしたので、そっと視線を外しました。

「自分で…、切ったのか…?」
 ああ、やっと。やっとお気づきになったんですね。
 ええ、そうですよ八坂様。
 私は。早苗は。あなたの好きな早苗は、こういう人なんですよ。

「自分で…、切りました。」
「何故だ…。」
 ぽろり、と。
 八坂様の温もりが、私の手から消えました。

「どうして、そんな事を…。」
「…覚えていません。」
 だって、最初に切ったのはもう遠い昔ですから。それこそ、幻想郷に来る前の話です。周りの常識からちょっぴりズレた私は、いつの間にか、1人でしたから。

「でも、平気です…。」
「嘘だろう。」
「嘘なんかじゃありません。私は、平気です…。」
 話せる相手がいなかった訳でも、いじめられていた訳でもありません。でも心のどこかで、寂しさばかりが積もっていったんでしょうか。

「嘘は止めなよ、早苗。傷付くのは嫌だろう? しかもそんなに深く切って、平気なわけないだろう? 私だって、そりゃあ傷付くのは…」
「八坂様には…、分かりませんよ。」
 すうっと、私の口からは、そんな言葉が出ていました。八坂様の顔色も、すうっと悪くなりました。
 普段なら、このような事は決して言いません。でも私は、言葉を止めませんでした。いえ、もう、止められませんでした。


「私は…、病気なんです…。」
 リストカット症候群。自分で自分を、傷付ける病気。
 寂しさからか、自己嫌悪からか。そんな些細なきっかけで、ボロボロと自分を傷付ける。そんな病気。


「ご存知ですか、八坂様。私はこうやって、自分で自分を傷付けて、それで生きて来たんですよ…?」
 いつの間にかコンプレックスになっていた、自分への信頼。


「だってそうでもしないと、私は、壊れそうでしたから…。」
 自分をなじって、罵って。
 言葉と涙だけじゃ足りなくて。だから、形にして。


「どうして、言ってくれなかったんだ。」
 八坂様がお尋ねになりました。明らかに怒りの篭った声。でもその中には、哀しさや虚しさ、そんなものも混じっている気がしてたまりません。都合のいい解釈に、自分が嫌になります。だから。

「こんな事…、言えるはずないじゃ無いですか…!」
 私は吐き出しました。涙は出てきません。でも、傷口からは血がじわじわ溢れます。ずきん、ずきんと、痛みが走ります。


「最初は、八坂様に頼りたかったんです。諏訪子様にも、頼りたかったんです。でも…」
 そうは思われていないから。


「でも、そんな事話して、どう思われるか…、怖かったんです…。そんな卑しい事、考えてたんですよ…。」
 皆さんの中の東風谷早苗は、真面目で過信で、それでいて強さを持った人。でも、そう言われる度に。


「私は…、強くて真面目で努力家で…。そう思われているって、何となく知っていました。」
 八坂様もそうですよね? そう尋ねると、黙って頷きました。それを見て、私は続けます。もう止まりません。だって、八坂様もそうだったから。


「でも…、そんなんじゃありません。」
 そうなんです。皆さんが知っている東風谷早苗は、「東風谷早苗」でしかないんです。誰も、「私」を知らないんです。
 悲鳴のような声で、私は八坂様に訴えました。


「私はそんな人じゃないんです! そうやって皆さんを騙して、皆さんの優しさを踏みにじって…。 そのくせそれを嘆き、悲しんで。こうやって自分を傷つけて…!」
 八坂様の表情は、見えません。見る権利なんて、ありません。




「私は…、最低な人なんですよ…。」
 そう、言いました。大好きな八坂様に、言いたく無かった事を言いました。傷の痛みが増しました。そんな事よりも、今はひたすら、胸が苦しいです。


「だから…。だから、傷付いていいんです…。」
 こんな最低な私は、傷付いて当たり前ですから。


 だから。


「傷付いたって苦しんだって、私がいなくなったって、どうだっていいんですよ!」
 ぱしん、と。


「そんな訳…、無いだろう…!」
 八坂様の右手が、私の左の頬を打って。それから聞こえて来た言葉が、ありました。

「勝手な事…、言ってんじゃないよ…、早苗…。」
 私は唖然としていました。何も、本当に何も考えられませんでした。
 打たれた頬は、痛いというよりも熱いものでした。右手で触れると、そこには血が付いています。 …私の、血でした。八坂様が私の手首を触った時に付いた、私の命の一部でした。

「八坂、様…。」
「早苗…。気付いてやれなくて、済まなかった。」
 それっきりでした。すっと踵を返した八坂様は、黙って私の部屋を出ていきます。私はそれを茫然と見ていました。泣き叫ぶ事も、名前を呼ぶことも出来ず、ただただ、見ていました。




 ずきり、と
 一度意識してしまうと、いとも簡単に飲み込まれました。焼けるような痛みが、手首から広がります。容赦無く広がる痛みが、ボロボロになった私を支配します。
 私は傷を強く握って、うずくまって泣きました。もう何の為に泣けばいいのか分からないけれど、私は確かに泣いていました。八坂様に謝りたいとは、微塵も思いません。それがますます、私の涙に拍車を掛けます。

 ただ、自分が嫌で、泣いているのかもしれません。理由は分かりませんけど、涙は止まりませんでした。











 -7-











「早苗。」
 うずくまって泣いている私の肩に、小さな手が置かれました。パジャマ越しに伝わる手は、八坂様とは違った温もりを持っていました。
 顔を上げると、もう一柱の神様が。諏訪子様が、心配そうに私を見ていました。いつもの可愛いげな声で私を呼ぶことも無く、「早苗。」と、もう一度私の名前を呼びました。

「諏訪子…、様…。」
「やっぱり、元気無かったんじゃない。」
 神奈子から聞いたよ、と、諏訪子様はいつもながらの口調で言いました。私はやっぱり、諏訪子様とも向き合えません。顔をちらりと見てからは、ずっと視線を逸らしていました。

「早苗。あんた神奈子に何したか分かってるの?」
「…はい。」
 分かってます。私はリストカットで。自分だけを傷付ける行為で。八坂様も傷付けてしまいました。
 尊敬する神様を。私にとって、大切な理解者を。

 裏切って、傷付けて。それなのに私は、自分の為だけに泣いていました。


「天狗達と呑んたら、神奈子が先に帰るって言い出したのよ。」
「…八坂様が?」
 にわかには、信じられませんでした。あのお酒好きで宴会好きな八坂様が、その宴会をほったらかして先に帰るだなんて。その理由を諏訪子様に尋ねると、肩の手を頭に乗せ換えて、おっしゃりました。

「早苗の事が心配だって、そう言ったのよ。」
 言葉を失いました。何も言えませんでした。そんな私を差し置いて、諏訪子様は続けます。

「今日は早苗が元気無いから、ちょっと帰って様子見とくってさ。神奈子は早苗には過保護だから。まあ私もそうなんだけど…。 神奈子が表に出すなんて珍しいから、私も天狗もびっくりしたのよ。」
 確かに八坂様は、諏訪子様のように露骨に甘えたりはしません。でもたまに、甘えるような声でお話しされる事があるのです。カリスマを保つためだろうと、諏訪子様はおっしゃりました。

「で、私もちょっと前に向こうを出てさ。こっちに向かう途中で神奈子に会った。」
「そう…、ですか。」
「神奈子、何て言ってたと思う?」
 そんな事、分かるはずがありません。仮に分かったとしても、口に出してはいけません。それはただの、私の傲慢になるからです。
 でも何となく、私は分かってしまいました。

「『早苗の事を裏切って、それで私も裏切られたんだ』だって。」
「そんな…。」
 やっぱり、そんな答えでした。そしてやっぱり、私は八坂様を裏切りました。
 あんなに好き勝手言って、八坂様を罵って。大好きな八坂様を、傷付けて。




「ねぇ早苗。私達って、早苗にとって何なの?」
 唐突に、諏訪子様が尋ねました。その質問の内容に、私ははっと顔を上げました。諏訪子様とまともに目が合います。ビー玉のような瞳が、微かに揺れて光っていました。

「信仰の対象? 使えるべき神様? 仕事仲間?」
「そんな事…。」
「あんたは神奈子に、そして私にもそう言ったの。」
 諏訪子様の両手で頬を挟まれて、ぐっと顔を近付けられます。八坂様に叩かれた場所にも、諏訪子様の小さな手が触れます。温かい、手でした。

「私は確かに神様。神奈子だって神様。それで早苗は人間。 …だからどうしたのさ。」
 じっと、目を見つめられました。諏訪子様の荒い呼吸が手の震えになって、私の頬に伝わってきます。

「私達は家族じゃないの? 辛い事も苦しい事も、一緒に分け合って支え合って生きていくような、家族じゃないの?」
 私は人間です。諏訪子様は神様です。八坂様も神様です。それは私が、心のどこかで気にしていた事でした。

「私はそう思ってたのよ! 早苗にご飯作ってもらって、神奈子とお酒呑んで! 3人でどっか出掛けたり、たまには喧嘩したり! フツーの家族と何が違うってのよ!?」
 ただ一緒にいるだけで楽しかった日々を、私は思い出していました。私が守矢の風祝になってから、二柱は私と家族のように接してくれました。


 なのに、私は。


「神奈子もそう思ってるのよ! 早苗が来てから毎日楽しいなって、お酒呑む度に私に言ってさぁ。それで私が神奈子に、私とだけじゃ退屈かって聞いたらさ、神奈子がさ、そんな事言わなくていいじゃないかって! 早苗は神奈子にとって…! 私達にとって、そんな存在なのよ!」
「諏訪子…、様…。」
 諏訪子様の叫びが、ひしひしと私を震わせました。心の中にあったもやもやがゆっくりと晴れ始めます。
 気付けば私は、目を袖で拭って、立ち上がっていました。今の私がやるべき事は、たった1つ。どんな結果になったって、やらなきゃいけません。

「神奈子様は、どちらにいらっしゃるんですか?」
 神奈子様。初めて下の名前で呼んでみましたが、何となく親しげに呼べる気がします。

「早苗が思う場所に、行けばいいよ。」
「…ありがとうございます。ねぇ、諏訪子様。」
 手首の切り傷の血は、近場にあったシーツで拭いました。それでも血は溢れて来ます。見兼ねた諏訪子様が私を止め、服の袖を破ってそこを縛りました。ちょっと痛みますが、今はそれが心地よい気がします。

「いいんだよ、早苗。早苗の気持ちをそのままぶつけて来な。そうすりゃ、神奈子も分かってくれるよ。」
「はい。」
 自分嫌いな私が、そんな私が大好きな家族を2人も傷付けました。それと一緒に、そんな自分をも傷付けました。私のせいで、3人の人を傷付けました。
 だから私は、ちゃんと責任を取らなくてはいけません。その責任は、マイナスイメージのものではありません。

 温かいプラスイメージのために、私は神社を飛び出しました。綺麗な三日月の夜だと、今日初めて気がつきました。











 -8-










 巫女や風祝といった神職に就くと、勘が鋭くなるのでしょうか。飛び出した私が向かう先はたった1つ。そこに神奈子様はいるのだろうと、私は信じていました。もしかしたら、自然と導かれていたのかもしれません。

「神奈子様。」
 私の神様。私が仕える、偉大な神様に。


「神奈子様。」
 偉大な神様の名前を、私はひたすらに呼びました。三日月だけの空を切り裂いて、私はひたすらに呼びました。


「神奈子様。」
 私の、家族。大切な、家族。


「神奈子様!」
 私が傷付けてしまった、大切な家族。謝らなきゃいけない、私の家族。




 神奈子様は、湖のほとりにいました。御柱が並ぶ湖で、1人湖を眺めていました。その姿を見て、私の足がすくみます。
 だって、私はわがままです。あんな酷い事を言っておきながら、無かった事にしてくださいと、そんな事を頼むつもりですから。本当に、嫌です。

 でも。
 このまま逃げて、うやむやにしてしまうほうが、もっと嫌です。ちゃんと話して、それで理解し合いたい。そんな思いが、強い気がしました。

「かなこさまぁ!」
 私の叫びが届いたのでしょうか。神奈子様の肩が、ぴくりと揺れました。しめ繩も御柱も付けていない神奈子様。私はもう一度、神様の名前を呼びます。足を踏み出します。

「かなこさまぁ!」
 どんな表情をしているのかは、私には分かりません。私の表情も、私には分かりません。でも今はただ、大切な家族と話したかった。それだけが、ボロボロだった私を後押ししてくれました。

 手を伸ばせば届きそうな、そんな距離まで近付いても、神奈子様は振り返りません。まるで私なんて存在しないかのように、ただただ湖を眺めるだけでした。

「神奈子…、様…。」
 じゃり、と。1歩踏み締めました。

 それを遮るかのように、巨大な柱が私の目の前に落ちてきました。あまりに突然な出来事に、私は思わず尻餅をついてしまいます。

「御柱…、ですか…。」
 この柱の向こう側にいるのに。私はその方に、拒絶されてしまいました。私が神奈子様にしたように、神奈子様も私を拒絶したのでしょう。話したいのに話せない、そんな葛藤がもどかしくてしょうがありません。
 ですが私は、神奈子様に従うようにしました。やっぱり神奈子様は神様ですから、きちんと従います。また日を追ってという事なのでしょう。踵を返して、神社へ飛び立とうとしたとき。




「早苗。」
 神奈子様の一言が、私を繋ぎ止めました。びくり、と身体が震え、私はその場に立ち尽くしてしまいます。振り返る事も出来ずに、私はただただ立ち尽くしていました。膝が微かに震えています。

「座りな。」
「……はい。」
 言われるがままに、私はゆっくりと腰を下ろしました。御柱を挟んだ向こう側には、神奈子様がいます。今すぐ会いたいのに、会えません。御柱にもたれると、ごつごつした感覚が私の背中を撫でました。

「どうしてここが…、分かったんだい?」
「…勘です。」
 正直に、話します。どんな答えでも、私は神奈子様に受け止めて欲しかったのですから。今さら嘘なんて言えませんけど。

「そうか、勘か。 …流石だな、早苗。」
「ありがとう、ございます…。」
「ここはな、私にとって大切な場所だ。静かで美しくて、色々な表情を見せてくれる湖。昔はよくここで、1人で酒を煽っていたものだよ。」
 淡々とお話しになる神奈子様。私は口を挟まずに、ただ耳を傾けていました。気品溢れる声色がまるで湖を震わせているように。静かに、風が吹きました。

「酒は旨かったが…。 何と言うか、こう、あまり満たされなかったんだよ。1人でちびちびと呑む酒は、あまりいいものではないのさ。」
「それは何となく…、分かります。」
 学校の昼休み。私は1人でお弁当をつつくのが日課でした。すきっ腹には美味しいはずの、お母さん手作りのお弁当。でも1人でしたから、心までは満たされませんでした。

「そしたら諏訪子がここを見つけてだ。それからはしょっちゅう私との酒に付き合ってくれた。たいていは諏訪子から誘われるんだが、その時は決まって呑みたい時でねえ…。 あいつはそういうの、昔から敏感なんだよ。」
 だから諏訪子様は、私にああも気を遣っていたのでしょうか。私が切った翌朝は決まって、諏訪子様に問い掛けられている。そう認識していました。

「早苗。お前、諏訪子に何か言われたのか?」
「…はい。神社に戻る途中、神奈子様にお会いになったと。そうおっしゃっていました。」
「そうか…。 ったく、あいつは…。」
 苦笑する神奈子様。その姿が簡単に想像出来ますが、その姿をこの目で見る事は出来ません。それは寂しいものでした。

「私はあいつに聞かれたさ。『早苗の事でしょ?』ってな。諏訪子を前に言い逃れは出来ない。私は諏訪子に、それなりに話した。 …お前のその傷の事は諏訪子に話してない。でも、諏訪子は分かってた。」
「分かっていた…?」
「『早苗が切ってたの、見たんでしょ』ってさ。」
 神奈子様の言葉に、私は絶句しました。だって、それから読み取れる事はたった1つでしたから。

 諏訪子様は、私の病気を知っていたということ。それしか、考えられませんでした。


「諏訪子様は…、知っていたのでしょうか。」
「諏訪子は前々から、早苗の事を心配していたらしい。『早苗は危うくて、あの子が一度折れたらどうなるんだろ。自分の事、物凄く責めて傷付けるんじゃないかな。』って、そういう事を口にしていた。 …そして諏訪子の予感は、当たってしまったんだ。」
「私の行為が、神奈子様に見られたから…。」
「ああ、そういう事だ。」
 ずきり、と。覚えのある痛みが手首を走りました。もたれている御柱の感覚が、背中を圧迫して痛みます。風がやや強く吹いて、私の身体を舐め回しました。

「早苗。よく考えてみな。」
「…はい。」
「お前は私の信頼を裏切って、諏訪子の優しさ傷付けた。風祝として仕えるべき神への、愚かな行為でしかない。お前がどれだけ辛いかなど分からないが、私達から見ればそういう事だけでしかないんだ。 …風祝として、お前は失格だよ。私達に仕える資格など、今の早苗には無い。二度と私達の前に現れるな、二度と守矢の名を語るな。 …そこまで言いたいんだ、正直。」
「…申し訳ございません。」
 申し訳なさで、心が一杯になりました。風祝としても失格で、人間としても最低です。決して許されないであろう過ち。きりきりと胸が締め付けられ、呼吸が苦しくなります。右手を胸に当てて、ぎゅっと握りました。爪の食い込む感覚が、私の思考をクリアにします。

「でもな、早苗。それは私が神様だからだ。」
「…どういう事でしょう。」
 不意に柔らかくなった神奈子様の声色の真意が分からず、私は首を傾げました。


 そっと。
 神奈子様の手が、御柱の向こう側から伸ばされました。神奈子様の右手が、私の左手を包みます。大きくて温かい、優しい手の温もりに触れました。

「私が神様だから、そうやって早苗を叱るのさ。きつい言葉だったろう?」
「正直…、こたえました。」
 事実上のリストラでしたから。もう守矢神社の風祝として、私は生きてはいけないのだと、そう思いました。私のせいで私の居場所が無くなるのでしたから、もしそうなれば迷う事無く深い傷を残す。そんな断定さえ出来ました。

「あのな、早苗。」
 女々しい事を言うけどなと、神奈子様が切り出しました。私はちょっとだけ握る手に力を込めて、神奈子様のお言葉を待ちます。

「神様だから。人間より位が高いから。たったそれだけで早苗と向き合えないのは辛いなって、私も思っていたよ。」
「それは…、どういう…。」
「早苗が傷付いていると諏訪子に言われてから、私は考えた事がある。 …もし私が人間だったなら、私の言葉は早苗にどう伝わるか、ってな。」
「神奈子様が人間だったら、ですか。」
「私や諏訪子の本気の言葉を、神様からの言葉とだけしか捉えてくれないだろう? 日常の些細な会話はとにかくとして、踏み込んだ話題になると、早苗はいつもそうだった。無意識のうちに、お前はそうしていたんだよ。」
 硬い物で殴られたかのように、私の意識はぐらりと揺れました、神奈子様は私の潜在意識まで見抜いていて、そのうえで今まで私と接していて…。

「だから、ずっと1人で耐えてきたんだろう?」
「はい…。」
 気がつくと、私の瞳からはポロポロと涙が零れていました。私が考えられる理由は2つ。やっぱり1つは、いつもの悲しみや自己嫌悪。これはどうしても振り切れませんね。 …そしてもう1つ。それは。




「神奈子様は…、本当の私を…、見てくださっていたんですね…。」
 涙声を必死で絞り出して、私は愛おしい神様に伝えました。ただただ嬉しくて、神奈子様の手を強く握ります。それに答えてくださるかのように、私の左手を包む温もりが、そっと強くなりました。






「私が言いたかった事は、これでおしまいだ。」
 私の涙が落ち着いた頃を見計らって、神奈子様が呟きました。左手首に巻かれていた諏訪子様の袖の切れ端ね上を、神奈子様の指がなぞります。外していいか、とお尋ねになりましたので、私は了解の言葉を返しました。
 左手首にあった布の感触が無くなり、汗と血で濡れたその場所が風に吹かれます。ひんやりと冷たい肌触りを感じました。神奈子様が息を飲むのが何となく分かります。その場所にある傷痕の数々は、他人が見る限りは生々しさと痛々しさ以外の何も伝えませんから。

「…痛まない、のか?」
「もう、慣れました…。」
「こんなになるまで溜め込んで…、切って…。」
 傷痕を直接撫でる神奈子様の指。痛い、という感覚は本当にありません。本来感じられるべき「痛み」は、私の中では「安心感」に変わっていたのでしょう …こうでもしないと崩れそうな時が、星の数ほどありましたから。

「話してくれるか?」
「…分かって、います。」
「私達でよければ、聞いてやるから、だから」
「好きなだけ話していいんだよ、さなえ。」
 もう1つの温かい声と、温もり。御柱の向こう側から、覚えのあるものが伝わって来ました。

「諏訪子様…? どうしてここに…?」
「私だって家族なんだよ。だからさ、さなえの気持ちを受け止めに来た。 …って言ってもついさっき着いたんだけど。」
 それは嘘なんだろうなと、私は思いました。きっと諏訪子様の粋な計らいで、神奈子様が自身の思いを私だけに伝えられるような機会を準備していただいたんでしょう。身勝手で都合のいい考えで失礼なんですが、今はそう思う事にします。

「大丈夫だって。どんな事だって私も神奈子もちゃあんと聞くよ。さなえは泣いたって喚いたって、好きにしたっていいんだ。それがさなえの気持ちなんだなって分かるんだしね。」
 小さな手が、私の手を握っています。大きな手が、私の傷を撫でています。
 ああ、私は。私はなんて幸せだったのでしょうか。こんなにも愛されて、こんなにも思ってもらえて。なんて私は、幸せなんでしょうか。

「神奈子様、諏訪子様。」
 すっと、息を吸います。

「今まで黙っていて、ごめんなさい。」
 全て、伝えますから。











 -10-











「神奈子様も諏訪子様も、ご存知ですよね。私は人間でもなく、神様でもなく、そんな存在だという事を。」
 これが、1番言いたいことです。私は人でも神でもない。ならばどうなのだろう。 …まだ幻想郷に訪れる前、一人ぼっちの私の胸に、ぽっかり開いた穴でした。

「私はズレていたんです。周りの友達や先生の持つ常識と私の中の常識は、全く異なっているって事。そんな事を知ったのは、随分後でした。 …私が浮いてしまうようになった時、です。」
 別にいじめではありませんでした。靴を隠されたり教科書に落書きされたり、そんなベタなものは存在しません。
 ただ、「東風谷さんは私達とは違うから、あんまり話さないほうがいいんじゃない?」という無言の常識。それが私の日常世界には蔓延していました。

「それを知った時は…、本当にショックでした。」
 同じ人間なのに、同じ仲間ではない。学生にとって全てである教室に蔓延するそんな空気。肩身が狭いどころではありません。

「この事は…、神奈子様や諏訪子様には打ち明けていませんでしたよね?」
「ああ、初耳だ。」
 神奈子様が呟きます。諏訪子様もきっと同じ反応をしていらっしゃるのでしょう。私はもう一度、もう一度短く息を吸い、話しを続けます。

「当時の私は…、こう認識していました。『私がみんなと違うのは、私が神に仕える風祝だからだ。』と。 …最低な考えだと、今でも深く反省しています。」
 自分の立場を、呪いました。
 私はただ、みんなと普通に話したいだけなのに。私は何も悪くないのに。ただ考えがズレているだけで、こうも迫害されてしまうのでしょうか。私は悪くない。私は悪くない。そればかりが、私の心を渦巻きます。

「神奈子様や諏訪子様を…、守矢の神社を怨みました。」
「そうだったんだ…。」
 諏訪子様が悲しそうな声を漏らします。

「そしてなにより、そう考える自分が…、許せなかったんですよ。」
 左手首に痛みが走ります。ぎゅっ、と拳を握ると、2つの温かさが驚いたかのように消えていきました。それが何となく、寂しいです。

「もちろん逆からも考えました。『風祝で、神職について何がいけないのか。』とも思っていました。 …でもそんな事を伝える友達なんて、私にはいませんでしたし。」
 思い出せます。
 昼休み、1人つついたお弁当の味。放課後の予定を話す友人達の声。悩みや恋愛、心を割って泣き合う真の友情を見た風景。


 そのどれもが、私からは疎遠で、無関係でしたけど。

「いつしか私は…、自分が分からなくなっていました。何を怨むのか。何を愛し、何を信じるのか。所詮忘れられた神様に仕えるよりは、温かい現実の友達と笑い合うほうが…。 すみません、神奈子様、諏訪子様。」
「いいんだ、続けてくれ。」
 私の酷い言葉に感情を荒くする事なく、神奈子様は堂々と受け止めていました。

「それである日、ふっと思ったんですよ。」
 胸が、傷が、ずきずきと痛んで止みません。右手でパジャマの胸元を強く握ります。左手首が、痛みます。
 もうずっと、当たり前のように接しているはずの感情。それを言葉に、しかも大切な神様に伝えるのが、これほどまでに辛いとは…。 私は思いませんでした。

「『どちらも想えないなら、私はどちらでも無い』って。 …これって、死んでいるに等しいって事だなぁって、思ってしまいました。」
「だから…、切ったの?」
「はい。」
 諏訪子様の問い掛けに、私は素直に答えます。初めてのリストカット。初めての、自傷行為。

「早苗は昔から…、痛い事は嫌いじゃなかったか?」
「…確かに私は、痛い事は嫌いでした。転んだりぶつけたり、その度に嫌だなって思っていました。いえ、思えていました。」

 痛いのは嫌。最後にそう思ったのはいつだったでしょうか。

「最初は…、本当に死ぬつもりでやりました。遺書だって書いて、身の回りだってそれなりに片付けていました。 …でも、さあ切ろうっていう段階で、です。」
 あの激痛。あの感触。あの吐き気に、あの恐怖。

「まず、深く切れないんです。カッターナイフ程度じゃひたすら痛いんですよ。剃刀とかそういう物を持っていなくて…、それでも、無理矢理切りました。」
 ブスブスと肉をえぐり、激痛に悶えながらもひたすらに傷付ける。私の1番初めてのリストカットは、最上級のトラウマです。

「かなりの出血でした。それよりもただ、痛かったんです。そしてなにより…、死にたくないって、思いました。」
「自ら命を絶つ時、誰しも気付くのさ。結局自分は生きたい、そんな風にな。」
「…神奈子様のおっしゃる通りです。」
 必死で血を止め、傷痕を押さえ。それでも溢れ出す自らの命の鮮血。頭は真っ白になって、ただ痛みを伝えました。

「結局その夜は一睡も出来ず、ただひたすら痛みと出血で泣いていました。もうパニックでしたから。」
 クスリ、と笑みが零れてしまいます。それに諏訪子様が「笑い事じゃないでしょ!」と間髪入れずに叫びました。

「それが、きっかけです。」
「なあ早苗。1つ聞いていいか?」
 神奈子様が尋ねます。その手はやはり私の傷痕を撫でていて、消えるように、治るようにと、そんな願いが感じられました。

「痛いのは嫌だったんだろう? それなら、どうしてその1回で止めなかった?」
「そうだよさなえ。私だって痛いのヤだし…。自分でやるなんて…。」
 ご心配しないで下さい。それもちゃんとお話ししますから。だから。




「お話ししますが…。私を軽蔑したって構いませんよ?」
 だって、今から語る内心は…、とても常識ある人間や神様には理解出来ない、そんな「常識」だと、私にあるから。

「いいんだ。」
「聞かせてよ、さなえ。」
 ですが、この二柱になら話せます。ちゃんと話す、ちゃんと受け止めて貰うと、お互いに誓ったのですから。

「あの日の凄まじい痛みの中、私の中には新しい感情が生まれました。 …思えばそれが、こんな私を作るきっかけになってしまったんですけど。」
 痛い。痛い。血が止まらない。痛い。痛い。誰か、誰か私を助けて…! そう苦しみ悶えるなか浮かんだ、卑しい感情。




「結局誰も、助けてはくれないんだなぁって。そんな考えに向かういきさつは忘れてしまいましたけど、たどり着いてしまいました。」
「そんな事…。違うでしょさなえ…!」
「諏訪子。」
 涙声に近くなった諏訪子様の叫びが、私の胸を突きます。これ以上は言いたくない。これ以上、私をさらけ出したくない…。 そんな臆病な私が、ちらちらと顔を出し始めました。

「早苗、済まない。続けてくれないか。」
 ですが、ここで話を断ち切るのが1番失礼でしょう。私は口を開き、お互いにとって苦しい毒でしかない、私の内心をぶちまけます。

「私を救えるのは、痛みと傷痕。それだけなんだなぁって。気付いてしまえば、あっさりでした。」
 渇いたスポンジが水を吸うかのように、かさかさだった私の心は、いともたやすく私の痛みと血を受け入れました。




「それからはもう…、嫌な事があれば切る、そんな繰り返しでしたね。どんな些細な事であれ、切りたくなったら躊躇い無く切る。心と身体はバラバラでした。 …神奈子様が幻想郷へ神社ごと移動させるという話が出るまで、ずっとです。」
「…だから、なのか?」
「私にとってその話は、まさに救いの手でした。」
 東風谷早苗を人間世界から断ち切り、「風祝」だけを切り出すための儀式。私の中では、それに縋るしかなかったのでしょう。

「神奈子様や諏訪子様に対する信仰は、偽りではありません。それは信じて下さい。 …でも、幻想郷への移動に私が乗り気だったのは…、ほとんどが、自分を救うためだったんです。」
「そうか。」
 私はわがままのために。それと、答えのために。人間である東風谷早苗を簡単に殺して、風祝だけを生かしました。




「幻想郷に来てからは、私のリストカットは収まりました。リセットされた楽園の中で、私は幸せで、やっと生きていられる場所を見つけた。そう、実感出来ました。」
 息苦しかったあっちの世界とは裏腹に、幻想郷はまさに楽園でした。神奈子様は自身の目的の為にいろいろと行っていて、私はそれに巻き込まれたりはしましたけど、それはそれで幸せでした。

「こちらの常識は、私のそれと似ていて…、とにかく、楽でした。神奈子様と諏訪子様、それに、霊夢さんや魔理沙さん。そんな皆さんに囲まれての生活は、本当に楽しくて…。」
 キラキラと輝いていて、今までで1番楽しくて。こんな毎日がずっと続けばなと、私は何度も何度も祈りました。
 もうあんな日々には戻りたくない。もう、あんな痛い事はしたくない。そればかりを祈っていて、それが逆に私の心をずるずると引きずり始めたんでしょう。

「それでも、癖というものは抜けませんね。 …とある夜、切ってしまいました。」
「また突然…。早苗、どうしてこっちでまで…。」
「すみません…、本当に覚えていないんです。」
 誰かと揉めたという事では無いのでしょう。きっと私が勝手に色々考えて、それで苦しんで。まるで負の連鎖のように堕ちていった果ての行為。ただ、それだけ。

「でも、たった1つ覚えている感情が…。あり…、ました…。」
 じわり、と視界がぼやけます。ゆらゆらと揺れる木々や月明かり。ああ、私は泣いているんだなと、そんな風景を知って初めて分かりました。
 この温かい掌を。2つの掌を。


 裏切って傷つけて、それでいて私は泣く。私はどれだけ、わがままなのでしょう。




「『こうでもしないと、私は生きていると思えない』…。 いつしか痛みは…。いつしかリストカットは…、私の生存意義そのものになっていたんです…!」
 痛みの中に、自分を見出だす。
 血の流れの中に、命を見出だす。




「どんなに素晴らしい楽園にいたって、結局私は、痛みに…、依存しなきゃ、生きて…!」
 宙ぶらりんの私を留めてくれた、リストカットによる痛み。毒は気付けば私にとって、痛みをごまかす甘い媚薬になっていました。そしてそれは、フラッシュバックのように蘇ります。

「皆さんが私に優しく接して頂いた事…。本当に、感謝しているんです…。心の底から…。私を教えてくれた、恩人ですから…。」
「じゃあ…。」
 神奈子様が声を荒らげました。当たり前の事なのでしょう。私の言葉と私の行為。それらが結び付かず、完全に矛盾していますから。

「どうして早苗は、早苗が大切だと思える皆を、裏切るような真似をしたんだ。」
 それは、簡単です。私はただ寂しくて。ただ、寂しくて。そして、気付いたから。




「誰にも…、分かって貰えないなぁって、分かっちゃったからですよぉ…!」
 とうとう、声を上げて泣いてしまいます。堪えようと必死になればなるほど、私の弱さは瞳から溢れ、ポロポロと零れ落ちていきます。
 それが寂しさからなのか、話せた故からの開放感からなのかは分かりません。ただひたすらに、泣きました。


 だって、本当は。


「本当は、誰かに伝えたくて…、でも、誰も分かってくれなくて…! 大好きな皆さんといられるのに…、私は勝手に……っ!」
「勝手でよかったんじゃあないか?」
 泣きじゃくる私を、神奈子様がそっと制しました。温かな声で、それでも、強く優しく。私が今まで聞いていた神奈子様の声の中で、最も。

「早苗がそう思うのは、早苗の勝手だろう? けれどな、私は早苗を待っていたんだ。もちろん、諏訪子も。」
 傷痕から手を離し、私の左手を解放してから、神奈子様が諭すようにおっしゃいました。温かさが無くなった左手を見つめると、どこか、寂しいものが揺らめきました。

「今の早苗の話を聞いていて、私は物凄く後悔していた。どうして気がつけなかったんだろう。どうして頼れるような存在であれなかったんだろう。ずっと、そうな。」
「そんな事…。」
「いや。早苗がそう言ってくれても、私は早苗から見て、頼られるような存在になっていない。 …早苗の行動が、答えだ。」
 神奈子様が物悲しそうな声色で語ります。私は申し訳なさで一杯で、今にも爪で傷痕を刺してやろうかと思ってしまいました。そのどす黒い感情を押し殺し、私は言葉を待ちます。

「さなえ、あのね。」
「諏訪子様…。」
「神奈子はそんな事言ってるけど、それはホントなんだよ。 …私が気付いた時、さなえにストレートに言ってしまおうって思って、それを神奈子に相談したことがあるのよ。そしたら神奈子がさ。」
「ちょっと諏訪子…。」
 神奈子様が諏訪子様を止めようとしますが、諏訪子様は構わず進めます。私よりちょっと高い声色で、それでもしっかりと響く言葉でした。

「『早苗が打ち明けるのを待ってやりな。今、私やあんたが無理矢理言わせたところで、それは早苗の言葉じゃないだろう。』って。 …そうだね、って私妙に納得しちゃって。だから私、ずっと待ってたんだけど…。今日ちゃんと聞けて、嬉しかったよ。」
 諏訪子様の言葉があまりにも嬉しくて、私は泣き声を抑えるのに必死でした。こんなにも。こんなにも思って貰えて。私はどれだけ、幸せなのか。
 それを、「偽物」の「私」じゃなくて、「本物」の「私」がちゃんと理解していました。

「さなえはさ、辛いな悲しいなって思った時、手首傷付けてたじゃん。それって悲しむの、さなえだけだよ。その悲しみをさ、せっかくなら私や神奈子にも、分けてほしかったなあって。」
「すみません…。」
「謝る事じゃ無いんだよ。分けなかったのはさなえ自身の判断だから、私が色々言う権利は無いけどさ。でもやっぱり今の聞いたら…、寂しいなって私は思ったかな。」
「早苗は相変わらずそうなんだよ…。昔から自分の中だけで抱え込んでさ、それで平気な顔して歩いてる。それが…、どれだけ辛かったんだか。」
 どれだけ辛かったかなんて、比較する対象が無いくらいでした。もう何もかもが辛くて。それでも、笑っていなきゃいけない事が辛くて。

「死にた…、い、くらい…、つらかっ…た…、です…!」
 だから。
 だから私は、自分を傷付けました。きっとそれが原点で、それがきっかけ。神奈子様のおかげで、何となく思い出してしまいました。私の涙を、もう自分の力では制御出来ないくらいまでに。

 強く、強く思い出しました。





「なあ早苗。聞かせて欲しい事があるんだ。」
「…何でしょうか?」
「多分諏訪子も同じ事を聞くだろうが…。今の早苗の気持ちをそのまま、答えてくれ。」
 改まった雰囲気で、神奈子様が切り出しました。ここまで話しておいて、それでいて何を続けるのでしょうか。もう結論は出ているだろうと、自分自身の中で終わらせていた私にとって、その問い掛けは怖いものでした。

「まあ…、今日こうやってな、私達はお互いに確認出来たじゃないか。この機会はいいものだったがな、早苗。 …これからまた、早苗が辛くなって、それで切りたくなった時の話なんだが。 …そんな時、お前は、切るのか?」

 それはとても深刻で、重たい問題でした。神奈子様はきっと、今ここで私に決めさせようとしているのでしょう。痛みか温もりかの二択、それは私にしてみれば究極の命題でした。

「私は…。」
 やはり、言葉に詰まります。ここはきちんと空気を読んで、もう切らないと、リストカットはしないと神様に誓うべきでしょう。しかし、私が誓う神様は私の家族。そしてその家族には、正直に打ち明けると誓ったばかり。それを裏切る訳には、いきません。

「早苗が思うがままに答えな。私達に気を遣う必要など全く無い。むしろそれは、こちらが逆に辛いんだ。」
 そうやって神奈子様がフォローします。ですが、もうこの時には、私の中で答えは決まっていました。 …それをいかにやんわりと伝えるか。そんな事を必死に計算していたのです。
 ふと、空を見上げます。神社を飛び出した時と同じ三日月は、変わらないままに空にあります。黒々と塗られたパノラマの中、か弱い黄色を刻むような、そんな健気な月でした。
 そしてそれは、きっと私もそうなのでしょう。黒々と広がる私の中の闇に照らされた、二柱というか細い輝き。それを暗雲で掻き消すか、その光に手を延ばすか。それは、私にかかっています。

「早苗?」
 黙り込む私を奇妙に思ったのでしょう。神奈子様が私の名前を呼びます。諏訪子様もきっと、散々焦らされてもう我慢の限界に近いはず。それでも、私は言葉に出来ません。
 伝えたい気持ちは分かっているのに、それを伝えるための語彙が無くて。それでもいいかなと思って、私は綴り始めます。




「きっと…、切りたくなると思います。」
 だって私は、弱いから。


「決して神奈子様達を信じていないと、そういうつもりではございませんけど…。」
 やっぱり私は耐え切れないと、いつか分かるから。


「それでも本当に辛くて辛くて…。そんな時はやっぱり、切りたくなると思います。」
「さなえ…、どうして…。」
 すみません、諏訪子様。私は諏訪子様を悲しませるような、そんなつもりでこんな言葉を選んでいるという訳では無いんです。ただ私は不器用だから、こうでしか伝えられないんですけど。

「やっぱり私達じゃ…、駄目なのか?」
 そんな事ではありません、神奈子様。伝えたい気持ちは、そんな裏切りのようなものではありません。


「でも…、それを抱え込むのは…。」
 やっと伝えられる、私の気持ち。本当の家族に伝える、私の叫び。誰にも知られずに、ずっと抱えて行こうと決めたどろどろのものを、こうやって話して、救って貰える時が来るだなんて。




「そういうのを抱え込むのは、本当に嫌ですから…、だから。」
 さっきから止まらない涙と、震える声。自分でもドン引きしてしまう位に、私の顔はぐしゃぐしゃになっています。
 この表情も、ずっと見せずに生きていこうと、決めたはずのものでしたけど。




「そんなとき…。壊れそうなときは…、私を…、支えて下さい…。」
 大きく息を吸って、黒々とした夜空を見つめて。だけどそこにはぽつぽつと儚い光を放つ、今にも消えそうな、小さな星達があって。ぼんやり浮かぶ三日月があって。全部が私の涙に滲んで、揺れて流れます。

「お願いします…。神奈子様…、諏訪子様…!」
 背中越しに伝わってくれるようにと、私はただ、滲んだ世界に祈っていました。








 ぐらり、と。
 私のか細い背中を支えていた御柱の感触が無くなり、私の身体が後ろに傾きました。何が起こったのか分からなかった私は、その傾きに身を任せます。
 …温かな膝が、私のぐしゃぐしゃになった顔を受け止めました。滲みっぱなしの視界を袖で拭います。そこには、うっすら笑みを湛えた神奈子様のお顔と、私と同じように涙で濡れた諏訪子様のお顔が、すぐ近くにありました。


「この…、馬鹿。」
 いつもの調子で言う、神奈子様。

「ホントだよ…。さなえは…、もう…。」
 頬を膨らまして言う、諏訪子様。

 やっと私の、家族のお顔を見る事が出来ました。全てを打ち明けて、そのうえで向き合うこんな関係。私はどんな言葉をかけていいか、分かりません。

「もう無理しなくていいんだ。辛いなら辛いと言えばいい。苦しいなら苦しいと訴えればいい。神様だから人間だから、そういうのもあるけどな、伝えたい気持ちは、私達に伝えていいんだよ。」
 すっと、私の頬に当てられた神奈子様の掌は。私が今まで触れてきた中でも1番温かく、それでいて1番心地よいものでした。

「どんなにお前が取り乱したり、泣きわめいたりしたって、ちゃんと聞いてあげるから。だから…。」
 頬の温もりがゆっくりと動き、私の瞼に重なりました。泣き腫らしたそれを冷ますかのように、ふんわりと置かれたその上に、もう1つの温かいもの。

「1人じゃないんだよ。お前は。」
 神奈子様の言葉に、嘘偽りはありません。その証明は、私の瞼に乗せられた温かい2つの掌。それが私を支えてくれること、私と暮らしてくれることを教えてくれます。 …そんな事が、今の私にとっては、1番の幸せでした。




 だから、でしょうか。




「ごめんなさい…、神奈子様…。ごめんなさい…、諏訪子様…。」
 溢れ出る涙は止まらずに、啜り泣きは泣き声になって。温かな掌に、優しく受け止められていることを私は実感しながら。私はただただ、謝り続けました。
 私の謝罪を、神奈子様や諏訪子様がどう受け取っていただけるのかは分かりませんが、出来ることならそれを仕方がないなと、笑って聞いてくれる。そんな最後のわがままを思いながら、いつしか私は…、温かい膝と掌の中で、私は眠りに落ちていました。










 -11-










 泣き腫らした翌朝というのは、いつも重苦しく訪れていました。昨日はあんなに悲しんでたのに、今日を平気で迎えている…。そう思うと、新鮮な朝の空気も台なしでした。
 そして今朝も。涙で重くなった瞼に違和感を覚えながら、私はぼんやりと天上を見つめていました。けだるいままに身体を起こし、ふと、いつも通りに左手首を見て…。

「そっか…。」
 夢、だったんでしょうか。
 あんなに泣いて、あんなに訴えて。夜中の湖畔で神奈子様と諏訪子様に、私の気持ちを伝える夢。それは私の無意識の奥底で、私の望みが見せた夢なのかと決め付けて、私は眠い目を擦りながら居間に向かいました。




「あ~、さなえ寝坊した~。」
「全くだな。私達が3人での朝食をどれだけ楽しみにしているか、知らないとは言わせないが、早苗。」
 居間には既に二柱が座っていて、朝ご飯の無いちゃぶ台をバンバン叩きながら、私に文句を言っていました。

「寝坊…?」
「今何時でしょ~か?」
 諏訪子様が時計を指差しながら言います。それは短針が9を指していて、いつもなら私はそれが7の時には起きていて、つまり私はいつもより2時間…。




「あああああああ! すみませんすみません諏訪子様今からすぐ作っちゃいますからてゆーか私の分はいいですからだからちょっとだけお待ち…」
「あ、私達もう食べたよ。」
 物凄いスピードで台所に向かった私の目と耳に飛び込んで来たのは、諏訪子様のその宣告と、2人分の使われた食器でした。

「後は早苗だけだ。さっさと食べて布教活動に行こうじゃないか。 …私達はもう準備出来てるんだから、手早くな。」
「あ、はい…。すみません…。」
 日常からちょっと外れた二柱の様子に小首を傾げながら、私はさっさと朝ご飯を掻き込みます。その様子をえらくまじまじとご覧になる二柱。あんまり見られると、食べづらいんですけど。


「あの、今朝はなんで私を起こさなかったんでしょうか?」
 朝食を食べている途中、私は気になった事を尋ねました。
 いつもなら私が起きていないと、私が二日酔いだろうがなんだろうが蹴り起こしさえもする神奈子様なんですが、今朝に限ってはそれがありませんでした。諏訪子様に関しても同じくですけれど。

「そりゃあ…、早苗が…。」
 神奈子様はばつの悪そうな表情で諏訪子様を流し目で見ます。諏訪子様もじと目で神奈子様を見ていて、やがて口を開きました。

「昨日散々泣いたのはどこの誰だったっけな~、さなえ~?」
「昨日…?」
 ぴたりと私の箸が止まりました。どうやらあれは夢ではなく、本当にあった現実。 …現実だと私は認識していましたが、自分自身が受け入れはしなかっただけなのでしょう。それがじわじわと、戻って来ました。

「ああ、昨日ですか…。」
「そうだよ。あのままさなえが泣き疲れて寝ちゃってさ~。神奈子がニヤニヤしながらおぶって帰ってたのが気持ち悪くて。」
「諏訪子お前!」
「え~、だってホントじゃん。」
「いや、本当だがな。それを本人の目の前で言う必要は無いだろうが!」
 諏訪子様が飄々とした口調でからかい、神奈子様がそれに微かに顔を朱らめました。私はそれを見ながら、とある事を思います。あれを捨てよう、だって、もういらないじゃないか。

「ごちそうさまでした。あ、すぐ準備しますから。」
 私はそう言い残し、さっさと自分の部屋へと向かいます。神奈子様と諏訪子様は、なにやら気味の悪い笑顔を浮かべながら口げんかです。まるで今の日常を楽しんでいるかのようだと、私はそう思いました。




「一体何処なんだ? 早苗が行きたい場所だなんて。」
「もうすぐ着きますから、ちょっと付き合って下さいよ。布教活動だなんていつでも出来ますって。」
「寝坊したのは誰なのよ。」
「…すみません。」
 布教活動の為に人里を訪れる前、私は神奈子様と諏訪子様をとある場所に連れて行く事に決めました。いつもの正装で空を飛ぶと、やはり温かい風が気持ちいいです。神奈子様と諏訪子様は面倒そうにはしていましたが、私の頼みに応じてくれました。

「ってここ、いつもの湖じゃないか。今更何の用だ?」
 私が留まった場所は、湖畔に御柱が立ち並ぶ湖。夜とは違った表情を見せる湖は、朝はキラキラと光を輝かせています。澄み切った青をしていました。

「神奈子様。」
「うん?」
「この湖に1つ、沈めたいものがあります。」
 手に持っていた巾着袋からそれを取り出しながら、私は神奈子様と諏訪子様を見つめました。二柱もそのものをじっと見ています。何かいたたまれないような表情で、見ていました。

「それで切ってたの?」
「ええ。 …ほら見て下さい。これとか、血なんですけどね。」
「あ~、ちょっと私パスかも…。そんなのリアルに無理…。」
 諏訪子様が顔を背けます。神奈子様はそれを厳しい目付きで見て、やがて私に顔を向けました。

「早苗なりの決別ってやつか。」
「はい。だってもう、必要ないじゃないですか。」
 鈍く輝くシルバーの刃。微かに滲んだ紅い血痕。これに私は依存して、毎日を生きて来たんでしょうか。今改めて、日の下でそれを見ると何となくおぞましい気持ちになりました。

「私はもう…、切りません。切りたくなったってぐっと我慢して、神奈子様達に、泣き付かせて貰いますからね。 …だからもう、さよならです。」
 ふわり、と剃刀を手放すと、それはあまりに呆気なく湖に吸い込まれて、音もなく、水しぶきもなく消えました。それをしばらく眺めていると、何となく感慨深いというか。とにかく、不思議と満たされるような気持ちでした。




「…行こうか、早苗。」
「誰かさんが寝坊した分、頑張ってもらうからね~。」
 傷は消えなくとも、それを癒す事は出来ます。私はぎゅっと左手首を握って、そこに走る痛みを覚えて。それから、大好きな神様の隣へ飛び立ちました。




 これから始まる毎日が、温かくて幸せでありますようにと、こっそり願いながら…………。
あ、どうも、はじめまして。からばれというものです。
小説は1年半、ポケモンを元ネタとした共鳴モノを別サイトで連載していて、その過程で出会った東方シリーズで書こう!ということで書いた作品がこちらです。

えっと、自傷行為モノでしたけど、いかがだったでしょうか。
まぁ自身の経験に基づいて書きましたので、それなりにリアリティがあるようなないような、そんな感じに仕上がったかなと思っております。

自身の経験とはいえ、こんなに出血するほど深くは切らず、まぁせいぜい血が滲む程度で半年間、辛けりゃ切るみたいな生活送ってました。今じゃ治りましたけど。
そんな時期の感情とか、そういう行為との決別の意味でもこのような作品を書かせていただきました。

初投稿で戸惑っていますので、皆さんの感想や批判などを容赦なく書いていただければ幸せです。
また何かいんすぴが浮かび上がってきたら書きに来ますので、その際はよろしくお願いします。

それでは。


タグ変えました。
から☆ばれ
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コメント



0.1530簡易評価
5.100名前が無い程度の能力削除
かなり重くて話題にしにくい話をよくぞここまで練り上げたと思います。そして圧倒される程のリアリティ。感服です。
重い話題にも関わらず、途中まで読んだら引き込まれてしまい、一気に読みました。
私の彼女が昔このような症状で、そのときこんな心境だったのかと思うと涙が出てきました。二次創作物で泣いたのは初めてです。
生々しくとも逃げずにこれを書いたあなたに乾杯。そしてありがとう。
12.100名前が無い程度の能力削除
おもしれー
13.無評価朋夜削除
素晴らしかったです、
感服しました。

実を言うと私も数年前までリストカットの常習者でした、
なのでこの話はじっくりと時間をかけて、
一字一句、読み漏らさないように、殊更に慎重に、
三度繰り返し。
自分の過去と重て、三度、深夜にも拘わらず、
泣きました哭きました。

本当に有り難うごさいました、家族の大切さを、
改めて実感させていただきました。

私にはこの作品に点数をつける術を持ちません、
些か不粋とも思います、
なのでこれにて……。
17.100名前が無い程度の能力削除
思わず読みながら泣いてしまいました。
私も自分の生き方について考え直すべきだとも感じさせられました。
素晴らしい作品を本当にありがとうございます。
18.100名前が無い程度の能力削除
自傷癖とは、またコアなのを持ってきましたね。
まさにネガティブ・フェイス。
早苗さんには頑張ってほしい、神じゃなく人間として。
20.無評価名前が無い程度の能力削除
色々と飲み込んで、ふたつだけ。
ひとつ、決別を誓うのは早苗さんではなくてあなた自身であるべきだと思います。
ふたつ、テーマも構成も悪くないですが、あの世界観にこのお話自体がそぐわない。
「また切っちゃったわ~(はぁと」とか平気で抜かす輩が跋扈してますよ。きっとね。
30.80名前が無い程度の能力削除
身近にリストカットしてる人がいて、それに気付いていても自分は何も出来ない。もう5年程切っているんだと。気付いたのは最近。
自分はあいつの何を見ていたんだろうって思った。
読んでいて辛かったけど何故か最後まで読んでしまった。不思議だなあ。
37.100名前が無い程度の能力削除
ヤンキーだな
38.100名前が無い程度の能力削除
読んでいる最中に専門書を参考にされたのかと思っていましたが、
作者自身が経験者であると知って納得の描写でした。