*ご注意*
このお話は
作品集63「星熊勇儀の鬼退治」
作品集64「エンゲージ~続・星熊勇儀の鬼退治~」
作品集65「おにごっこ~星熊勇儀の鬼退治・参~」
作品集65「温泉に行こう!~星熊勇儀の鬼退治・肆~」
作品集67「そらのしたで~星熊勇儀の鬼退治・伍~」
作品集72「貴方が妬ましい~星熊勇儀の鬼退治・陸~」
作品集73「葡萄酒と香辛料~星熊勇儀の鬼退治・漆~」
作品集75「黒猫一匹~星熊勇儀の鬼退治・捌~」
作品集77「嫉妬の橋姫~星熊勇儀の鬼退治・玖~」
の流れを引き継いでおります。
特に「嫉妬の橋姫~星熊勇儀の鬼退治・玖~」からは直接繋がってますのでご注意ください。
木陰に、その姿があった。
肩で息をしていて、疲れ果てていて。
されど顔に浮かぶのは安堵の色。
――逃げ切れたと錯覚している。
ああ嫌になる嫌になる嫌になる。
愚かし過ぎて嫌になる。
だって私はもう、
「なにしてるの?」
触れれるほど近くに来ているのに。
「ひ――っ!?」
逃げられないように鉈みたいになった剣を打ち込む。
だけど逃げられる。
非力な私には折れた剣でも扱い切れない。狙いが逸れてしまった。
目で追う。
天狗の足は速い。私の足では追い切れない。
それでも。
「逃がさない」
呪いからは逃げられない。
「――『生への嫉妬を取り除く』」
白狼天狗は倒れ込む。
「は、か……っ!?」
なにをされたか理解できずとも、呪いは容赦なく力を奪う。
どんなに強くても――心を操られたらどうしようもないのだから。
「これであなたは逃げることも出来ない」
一歩一歩近づく。
その間に、倒れていた天狗は木を支えに立とうとしていた。
立ち上がっても歩くことは出来ないのに。無駄なことを。
もう一度剣を振り下ろす。
また外れてしまう。こいつが寄りかかる木に当たって止まってしまう。
だけど、天狗は恐怖に顔を引き攣らせながらも避けることさえしなかった。
狙われた首を庇うことさえ――出来なかった。
もう一度、今度こそ叩き斬ろうとするけれど、木に刺さった剣が抜けない。
……彼女を斬った剣で殺してやろうと思ったのに。
「ば、ばけ――化物――っ!」
息を乱して、目に涙を浮かべて、天狗が震えている。
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
きょとんとしたその隙に、組み伏せられ首を掴まれる。
私に触れれることに驚いた。術がかかってないのかと疑ったが……
――ああ、私への嫉妬は取り除いていなかった。
斬ってしまいたいけれど、生憎剣は木に刺さったまま。結局抜けなかった。
指が喉に絡みついてくる。
おかしいな。反撃なんて出来ない筈なのに。
自分の命を守ろうとすることは出来ない筈なのに。
「は、あぁ……っ!」
なんで抵抗できるのか不思議だったけれど……
ああ、そういえばこいつは仲間の為に鬼と戦ったんだっけ。
私が仲間にとって危険だと思ったから……動けたのか。
身を守ることなんて考えないで、仲間を守ろうと殺しに来た。
愚かなほどに実直で、妬ましいわ。
首を、絞められる。
マフラーも鉄の枷もなくなった私の首はさぞ絞め易かろう。
「こ、の……! 化物、化物め――!」
「ばけ、もの?」
それは――私のことを言ってるの?
ぎり、と指が喉に食い込む。
苦しい。
苦しくて、痛くて、気が触れそう
でも、それ以上に――こいつの馬鹿さ加減に呆れてしまう。
「今更、気づいたの?」
ゆらりと、私を取り囲む空気が歪んだ。
「――ぇ」
目に見えぬ怪物が。
嫉妬の末に殺された獣が。
欲を喰らわんとする悪鬼が。
怨念の果てに現れる化物が。
呪いを帯びて蘇る。
スペルの枷を外された――私の狂気のカタチ。
「ぐぁ――っ!?」
天狗が突き飛ばされる。
ごろごろと転がって、木にぶつかり止まった。
「ぁ……う、ぁ……」
もう立ち上がる気力もないのか、倒れたまま動かない。
「……けほっ」
痛い……力いっぱい絞めてくれて、痣になるじゃない。
首を絞められたからか、目眩がする。
押し倒された時にぶつけたせいか、体中が痛い。
全部、無視する。
今必要なのは体を労わることじゃない。
怪物たちを引き連れ、横たわる天狗を見下ろす。
悲鳴も出せないで、震えていた。
「私が怖い? 後悔してる?」
答えを聞くつもりの無い問い。
許しを期待したのか少女は必死に口を開こうとしている。
「赦さない」
そんなことはあり得ない。
「殺してやる」
簡単な理屈だ。故に覆らない。
誰かを守るということは――誰かを排するということなのだから。
号令一下怪物たちが牙を剥く。
その瞬間。
「神祭「エクスパンデッド・オンバシラ」」
地響きを伴う轟音が響き渡った。
「な――」
なによ、これ。
柱? 何本もの柱が、私の怪物たちを潰している。
馬鹿な。ただの柱で私の怪物たちが潰される筈がない。
この柱は――
「――そこまで」
圧倒的な威圧感。
零落した成れの果てなんかじゃない、紛うこと無き神威。
身動きすら取れぬ私の前に、赤い服を着た、風を纏う蛇神が現れた。
蛇神の背後に怪物たちを潰した物と同形の柱が何本も浮いている。
神威を纏った柱……神の象徴たる御柱か。
それなら、私の怪物たちを一撃で滅することも不可能ではないが……
不可能ではないというだけ。それを実際に行うのにどれだけの神力が要るというのか。
「この山を根城にしている神、八坂神奈子だ――自己紹介を聞く余裕はあったかな?」
……神としてのランクが、桁違いに過ぎる。
幻想郷に来る前、百年以上の昔にも……こんな強大な力を持った神など見たこともない。
ただそこに居るだけで……肌がぴりつく。膝をついてしまいそうになる。
――邪魔されてなるものか。
なんでこんな大神が出てくるのか知らないが今の私にとっては邪魔者でしかない。
私の狙いはあの天狗、一人だ。
武器も怪物も失ったけれどまだ殺せる。殺す手段なんていくらでもある。
――風が吹く。
駆け出そうとする私を、大きな手が捕まえた。
「――ゆう……」
しっかりと掴まれて、動けない。
違う。彼女のことは忘れろ。今は天狗を。
いない。天狗が居ない。倒れたままだった天狗の姿が無い。
探すと――居た。
黒髪の天狗に抱えられている。守られている。
邪魔……だ。殺せ、ない。
「パルスィ」
ぐいと引き戻される。
なんで、動けるのよ。私は術を解いてない。
意志を捻じ曲げる私の力を、解いてない。
「パルスィ」
やめ――て。あなたの声は、聞きたくない。
「放して」
掴まれた腕が、熱い。
「駄目だ」
あなたの温度を、感じてしまったら、私は。
「おまえが望まぬことをさせられない」
望んで、ない?
なにを言っているの。これは私の意志。
私がやろうとしてやっている。
私、が、殺そうと、して……
「ぁ――あなたに、は……関係……な……ぃ!」
何故……体から力が抜けていく……
これでは、術が保てない。私の力が、端から崩れていく。
ほら、黒髪の天狗に抱かれた、あの妬ましい白狼天狗が、動けちゃうじゃない。
これじゃ、あいつを、殺せない、じゃない。
「やめ……てよ……これは、私、が……わたし、の」
「いいや。これは――」
「――よもやここまで危険な妖怪とは思いませんでしたよ嫉妬の橋姫」
びくりと体が震えた。
白狼天狗を抱えた黒髪の天狗が、射殺さんばかりに私を睨む。
「三下妖怪と侮っていました。ここまで有害とわかっていれば」
「やめろ」
殺気を孕んだ声。
彼女が、怒っている。
それでも黒髪の天狗は口を止めない。私を睨み続ける。
「いいえやめません。椛を、仲間をこんな目にあわされては引っ込みがつかない。
彼女はある意味あなたより危険ですよ四天王様」
「やめろと言っている」
互いの殺気は膨れ上がる一方。
一触即発どころではなかった。
「あんな心を操る外法、野放しになど出来ません。外道は外道らしく」
「死にたいか、貴様――」
「双方動くなっ!!!」
神鳴る怒号。
紫電の錯覚を見るほどの神威に、二人は止まる。
「先程のは私の目の届かぬ処での争いであった故見逃すが――」
凍てつく蛇の目で睨め付ける。
「今、私の目の前でおっぱじめるというのなら、両者叩きのめす」
――気勢を削がれる。どれだけ怒りに煮え滾っていてもこれでは戦うなど不可能だ。
黒髪の天狗も不服そうながらも引く。
それを見届け、蛇神はゆ、彼女に、顔を向ける。
彼女は無言だった。私の背後で、どんな顔をしているのかもわからない。
空気が張り詰めていく。僅かに蛇神が顔を顰める。
先に動いたのは、彼女だった。
「……わかった。あんたの顔を立てよう」
彼女の答えに、うむ、と蛇神は鷹揚に頷いた。
「よろしい。で、発端は山への無断侵入だろう?」
「あ、はい。四天王様が数日前に山を通り過ぎて……それから騒ぎに」
「ふむ」
思案顔をするがそれはすぐに消え、代わりに薄い笑みを浮かべる。
「入山の許可は私が出した。おまえの上役にも話は通しておこう」
とんでもないと黒髪の天狗が食ってかかる。
「それは、いくら八坂様の言でも……」
「私の客だ。文句は言わさないよ」
「む……ぅ」
「許可は下りている。なんの問題もない」
……強引な。それで済めば此度の諍いは起こらなかった。
口で言っても治まらぬから、争い血が流れる。
互いを理解しようとしないから、憎しみが――連鎖する。
「……いいのかい? そんな無理をしたらあんたの立場が」
彼女が口を挟む。
「構わんさ。私の膝元でドンパチやられるよりマシだよ」
蛇神は微塵も揺らがない。
絶大な自信。人の上に立つ器。神故に、だろうか。
「……わかりました。一応私からも報告を上げておきます」
「ん。後で挨拶に行くよ。というわけで、一件落着だ」
鷹揚さは変わらず、蛇神は言葉だけで一連の騒ぎを終わらせた。
こうもはっきりと終わりと言われてしまえば……動きようがない。
己の権威と懐の広さだけで治めてしまった。
大したものだとは思うが……それでも……遺恨は消えるわけじゃない。
「では――あとはこちらの処罰です」
言って、黒髪の天狗は抱えていた白狼天狗を下ろす。
「なにをやってるのあなたは!」
怒鳴りつける。
己の力量を弁えろ、口伝であの方の恐ろしさは伝えた筈だ。
独断専行がどれだけ組織にダメージを与えるか、などなど……
息継ぎすらせずに説教が飛び出す。それを天狗は黙って受け入れていた。
見かねたのか、彼女が助け船を出した。
「あー……そう怒らんでおくれ。そいつも悪気があったわけじゃないんだよ」
「悪気がなくともあなたを怒らせればどうなることか。危うく全面戦争です」
……事実、この黒髪の天狗は彼女と戦うつもりだった。
白狼天狗をきっかけにして山の妖怪全てが巻き込まれるところだった。
「承知の上さ。だから命までかけて私を討ち取りに来たんだ」
言葉少なに、彼女は天狗の行いを肯定する。
「私を倒せればよし。倒せなければ己の命で償うつもりだったんだろう。
だから……おまえ上司か? まぁ兎に角、おまえも連れずに単身私に挑んだ」
「それは……」
「私も悪かった。お相子だよ」
顔に、長い髪がかかる。
彼女は……頭を下げていた。
「いや、そんな……あなたに頭を下げてもらわずとも……」
狼狽している。四天王が自ら謝るなんて思いもしなかったのだろう。
普段のエゴイストな振る舞いからは想像も出来ないだろうが、彼女は誠実だ。
自分が悪いと思えば躊躇なく謝る。
そんなこと、この黒髪の少女は知りもすまい。
「命をかけて、ね。……確かに」
蛇神も口を挟んできた。……彼女を見ている。
力量を量っているのか――その眼は鋭い。
「若いのにしちゃ立派な覚悟だよ。褒められこそすれ、怒られるもんじゃない」
またもや天狗を庇う発言。
流石に、黒髪の天狗は言葉に窮した。
どれだけの力を持ってどれだけの地位に居るのか知らないが……
この二人にこうまで言われてしまっては何も言い返せないだろう。
頃合いと見たのか、蛇神は再びまとめに入った。
「小天狗に関しては不問に処す。もう十二分に罰は受けたからね」
視線を……感じる。
「異存は?」
「無い。それで構わんよ」
「……ですが」
「私は気にしちゃいない。当人の私が言うんだ。これで手打ちさ」
「…………恩に着ます」
「今度美味い酒でも馳走しておくれ」
彼女が笑みを浮かべるのが気配で伝わる。
「それで、その」
「……あぁ」
だが、それも一瞬――感じた気配は、笑顔が消えたことを示していた。
そう、笑える、筈なんか、ない――
「こっちは、なんとかするよ」
重々しい、言葉。
「……お願いします」
彼女は頷いて――白狼天狗に声をかけた。
「おい犬っころ」
「……はい」
返事は弱い。
もう私の力は抜けているだろうが……殺されかけた事実は消えない。
その恐怖も、その――恨みも……
「名、もう一度聞かせてくれるかい」
反して彼女の声は力強かった。
過去を洗い流すかのように晴れ晴れとした声。
もちろん、それでなかったことになど出来はしないが……天狗は応えた。
「……犬走、椛です」
弱弱しく――されど鬼の度量に応えようと。
「犬走。強くなっておけよ。今度はちゃんと遊ぼう」
彼女は涼やかに言ってのけ、今度こそ全てに幕を下ろした。
強引に……終わらせられた。
「では、失礼します。――重ねて、彼女のこと……よろしくお願いします」
――天狗たちは、一陣の風となって去って行った。
胸が、痛い。
何も言えぬまま、終わった。
私は、まだ、なんの……
「――さて。天狗の方はこれでいいとして」
痛い。苦しい。
まだ胸の内で暴れ続けている。
「こっちは――」
目的が居なくなっても私の、私は、まだ――
「――ひっ」
蛇神が、近寄ってくる。
動けない。彼女に掴まれてるからってだけじゃなく、動けない。
文字通り蛇に睨まれた蛙だ。
怖い。
間近で見ると、大きい。彼女といい勝負だ。
背の高さすら威厳を示している。
こわ、い。
なのに、胸の中で暴れ回るものは、委縮すらしない。
いた――い、苦しい……
「……もう罰を受けているって風だね」
なに、を。わたしは、何もされて、ない。
許される、筈、ない。だから、私は、まだ。
私は、彼女に、ゆう――
「おまえは……」
「――――」
体が、揺れる。
私を掴む彼女が、首を振っている。
蛇神は柳眉を歪めて……口を噤んだ。
「世話になった。私は星熊勇儀、元山の四天王だ」
「世話ってほどでもないがね。私は八坂神奈子。今は山の神をしている」
話の焦点は――またも私から逸れていく。
「星熊、か。聞いた名だ」
「古い名さ。今更語られるものでも、ない」
手から、呼吸が伝わってくる。
それは、僅かに、乱れている。
……彼女が、息を乱したところなんて見たことが無い。
どんなに暴れまわった後でも、平気な顔をして……
「気が乱れてるね。なんらかの術を力業で破ったか――無茶をする」
「……この程度、無茶の無の字にも値せんよ」
「…………」
胸が、締め付けられる。
未だ暴れ回るものごと、押し潰すように締め付けられる。
怖い。
彼女がどんな顔をしているのか、怖くて見れない。
だけど、それだけは、見ない、と。
「……どうした? パルスィ」
振り返り、見上げた彼女は、笑って。
でも、その笑みは、無理に、僅かに、歪んで、いて。
「――ぅ、ぁ……」
「大丈夫だ。なんともない。気にしなくていい」
「う、うぅ……っ」
口からは、呻きしか出なかった。
謝る、べきなのに。
こんなことに、なったのは、私の、力で。
そんな、傷つけたくなんか、でも、私は。
私が、彼女を……!
「――また、吹雪くな」
涼やかな声が――罅だらけの心に滑り込む。
「山で遭難されても困る。うちに来なさい」
彼女が頷いて――私は、またも……逃げ場を失った。
――彼女に手を引かれて歩く。
まるで子供だ。……子供だったら、よかったのに。
叱られて終わる、そんな悪戯で……済んだだろうに。
足取りは、重い。
目に見える疲労は重く圧し掛かり一歩を進むことさえも苦痛とした。
手を引かれねば、座りこんでしまうほどに。
先を歩く蛇神は――八坂何某は、歩調を緩め、遅い私を待ってくれている。
その優しさが、酷く……煩わしい。
なんで私なんかを、彼女を、彼女だけを構えばいいのに。
私は、あなたとなんか関わりたくないのに。
どれだけ歩いたのか、気づけば石段を登っていた。
……何度か、見たことがある。神社に続く、石段だ。
「もう少しだ。悪いね無駄に長くて」
言われても、距離など最早わからない。
記憶が飛び飛びで、あれからどれだけ時間が経ったのかも判然としない。
いつの間にか、風に雪が混じっていた。
境内に入る。――立派な神社が見える。
「おやおや珍しいねぇ。神奈子が客を連れてきた」
突然聞こえた声に、びくりと震える。
見れば妙な帽子を被った少女が、石燈籠の上に狛犬のような格好で座っていた。
「お黙り。訳ありだ。手出し無用だよ諏訪子」
「ふぅん? 訳あり、ねぇ……」
諏訪子、と呼ばれた少女が私の顔を覗き込む。
嫌な目だ。何もかも見透かすような……怖い、目。
「へぇ――私と同じ、恐れられる神の臭いがするね」
きゅう、と口の端が吊り上る。心底楽しそうな笑み。
そんな笑みが何故私に向けられるのか、わからない。
ただ――怖い。
「諏訪子」
少女は口を尖らせて、不満げに燈籠から飛び降りる。
「へいへい。お邪魔なようだし私は遊びに行ってるよ」
背を向け、受けた印象とは真逆に子供のように走り出す。
――雪に混じって、その声は聞こえた。
「また会えたらいいねぇ、お姫さん」
通された部屋はごく普通の和室だった。
蛇神の神格からして祭神だろうし、本殿にでも連れて行かれると思っていたのだが。
もしかしたら、寒いから本殿ではなくこの部屋、なのだろうか。
目の前の火鉢を見ながら思う。神社のことはよく知らないが、火の気は入れないものだろうし……
――随分気遣われている。その事実が殊更に、重い。
関わられたく、ない。関わられることが……恐ろしい。
出て行ってしまいたいけれど、それは許されない。
手は、彼女に握られたままだから。
決して私を逃がさぬと、握られた手。
熱くて、痛い。
「…………」
視線を感じる。彼女が私を見ている。
話しかけられないことだけが救いだ。今は口を開くことも出来ない。
言葉を交わすなど、不可能だ。
がらりと襖が開く。
「悪いが、神職が出払っててね。大したもてなしは出来ん」
お酒を持ってきながら言う。
「……いや、お構いなく」
「大丈夫かね? ……顔色が優れんようだが」
明らかに――彼女は無理をしていた。
致命的でこそないが……耐え切れぬほどに疲労している。
「なにか精のつくものでも出した方がいいかな?」
「大丈夫だ。ほっときゃ治るさ」
声にも、無理が表れている。
……苦しい。見ることも、聞くことも、耐え難い。
「それにしても、見ていて寒いな」
突然、蛇神の方から話を逸らした。
「あぁ……上着、拾いに行かんとなぁ」
彼女もそれに乗る。白々しささえ感じられる話題の変更。
私に話が及ぶのを、止めた。
「私の服を貸そうか? 冬物なら余っていた筈だ」
「そこまでしてもらうのは――というか、神の服なんて着て大丈夫なのかい?」
「なぁに、ただの市販品でセール品さ。……と言ってもわからんか」
言って盃にお酒を注ぎ、彼女に渡す。
彼女はそれを受け取り、動きを止める。
「安心おしよ。神変鬼毒酒ってわけじゃあない」
「失敬。神と呑むなんざ久方ぶりにも程があってね」
「つれないねぇ。こちらは昔日を懐かしもうってだけなのに」
「何分小物で、ね。弱っちぃのさ」
自棄気味に盃を干した。
「本当に、弱くて――嫌になる」
「……根が深そうだ」
それからは、無言だった。
互いにただ盃を傾け続け時間だけが過ぎていく。
火鉢の中で炭が焼ける音がいやに大きく聞こえた。
「あー……星熊」
先に沈黙を破ったのは蛇神。
「今日泊まっていくかい? 本格的に吹雪そうだけど」
空になったとっくりを振りながら気だるそうに言う。
「いや……麓の館で世話になっててね。無断外泊ってのは気が引ける」
「それじゃあ強くは言えないね。でも吹雪は大丈夫かい?」
「なんとかなるさ。道は憶えてるからね」
「まぁ無理そうだったら遠慮なく言いなよ。部屋は余ってる」
じゃあ酒を持ってくるよ、と蛇神は席を外した。
また、沈黙。
彼女は私の手を握ったまま黙っている。
「――離して」
身じろぎして、彼女の手を振り払おうとするが力が入らない。
「駄目だ」
返事は短い。
より握る手に力を籠められてしまう。
彼女は言葉よりも行動で示した。
「……離してよ」
「どこに行く気さ」
答えられない。答えなど無い。
それでも私の口は動いた。
「水、を……気分が、悪い、から」
最早嘘を吐くことに罪悪感など感じない。
それ以上の罪を犯したのだから。
もう一度身じろぎすると、手は離された。
「……そうかい」
立ち上がる。それだけで酷く疲れてしまうけれど、休むことはできない。
「早く戻ってきなよ」
彼女の言葉を背に受けながら、無言で襖を閉める。
もう、戻らない。
――戻れない。
広い境内を駆け抜ける。
うっすらと雪が積もった玉砂利は走りにくくてしょうがない。
転んでしまいそうだけれど、転んでる暇なんてない。
一分一秒でも早く、遠くに行かないと。
――どこに行ける、と冷静な私が囁く。
どこでもいい。どこにも行けなくてもいい。ここから離れられればそれでいい。
――神社から一人で出れば死ぬかもしれないのに、と囁かれる。
復讐されても構わない。されるだけのことはしたのだから。
――彼女を裏切ることになる。
……それで、いい。これ以上彼女に迷惑は、かけられない。
――彼女と離れたくないのに。
……黙れ。
――彼女の傍に居たいのに。
黙れ。そんなこと、出来る筈がない。
――彼女に
黙れ……っ! 黙れ黙れ黙れっ!
私は、もう、駄目なのよ……! 誰かの傍になんて居られない……!
ここから、離れないといけない……
早く、早く――
「どこに行くんだい?」
逃げないと、いけなかったのに。
玉砂利の軋む音。
彼女は石燈籠に寄りかかりながら私を待っていた。
「八坂の前じゃ話しづらかったからね。……ここなら幾分話し易い」
私が逃げる気だって、気づいてたのか。
「…………」
私に、話すことなんてない。
ただ――離れたい、だけだ。
「……今回は、すまなかった。完全に私の落ち度だ。
レミリアにも釘を刺されていたというのにな――我ながら、情けない」
なんで、謝るのよ。
謝るのは私でしょう?
私が勝手にやって、私が勝手に酷くした、それだけじゃない。
「謝る必要はないわ――『鬼』」
――仮面を被る。
今の私では言葉を交わすこともままならないから、ずっと被ってきた仮面を。
……『嫉妬の橋姫』の仮面。
冷笑を浮かべた、心無い鬼女の仮面。
「パル――」
「あなたと私はもうなんの関係もないのだから」
話したくないから、終わらせる。
大丈夫。この仮面を被っていれば――大丈夫。
お芝居は……得意なのよ。
「関係はある」
彼女は食い下がる。予想の範疇だ。
「どこに? あなたの欲しがる証なんてどこにも残ってない」
冷たい笑みで告げる。
「あの重たい枷もマフラーも、もう私の首には掛かってないのよ」
襟を開いて首を見せる。
なにもない首を見せる。
「そんな、もの――なくたって」
「あなたはもう私を縛れない。繋いだ鎖は外れてしまったのだから」
まだ何か言おうとするが、彼女はそれを紡げない。
口では私に勝てやしない。この仮面を壊せない。
彼女の横を通り過ぎる。
腕を掴まれる。
「――行かさない」
あつ、い。
「おまえを一人にはさせない」
彼女の手の熱さに――屈してしまいそうになる。
でも、それは出来ない。仮面は、まだ壊れていない。
壊れて、いないのだ。
「逃げても――捕まえると言ったろう」
罅が、走る。
「駄目よ」
駄目だ。
「あの時は大丈夫だと思った。あなたと一緒なら平気だと思った」
割れるな。
「でも……駄目だった」
この仮面を、壊してしまっては。
「私は私の力を全く制御できない。無理に抑え込めば暴発する」
被り、直せ。
「私は変わらず狂っていて、こんな簡単に誰かを殺そうとしてしまって」
まだ、仮面は壊れていない。
「一緒になんて、いられないじゃない」
――再び冷笑を浮かべる。上手く出来たか自信がない。
彼女の目にはどう映ったのか……ひどく、痛々しい眼を、向ける。
「……だから、か」
声さえも、痛々しい。
「だからいつも私から距離をとっていたのか。紅魔館の連中にも触れないようにしていたのか」
だけど、仮面を被っている。
彼女の声は……届かない。
「ええそうよ。だっていつ狂わせてしまうか知れたものじゃないのだもの。
触れるだけで狂わせてしまうかもしれない。私がその人を想えば狂わせてしまうかもしれない」
冷笑を顔に貼り付かせる。
「怖くて、誰かと触れ合うことなんて出来ないじゃない?」
彼女は、否定する。
「私は……おまえに狂わされたりなんかしない」
あぁ――そうだったら、どんなによかっただろう。
言葉で紡いだことが現実になったら……どれだけ救われただろう。
どれほどに、それを願っただろう。
仮面が……罅割れる。
「そんなの、わからない」
作った表情が、抜け落ちる。
「私の力はそういう力。制御なんてできない忌み嫌われた力。あなたにだって」
指先の震えが
「――使いたくなんか、なかったのに」
止まらない
「ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい……」
私は――耐えられなかった。
己の力に。己の狂気に。
耐え切れずに、色んな人を傷つけてしまった。
あなたを、傷つけてしまった。
「ごめんなさい、ごめんなさい……っ!」
それなのに、まだこうしてあなたに負担をかけている。
涙が滲む。
己の不甲斐なさに、情けなさに、涙が零れる。
「……もう自分を責めるな。おまえは十分に悔いたよ」
「だって、私、なんの躊躇もせずにあなたに力を――っ」
「大丈夫だ。私はこの通り無事だ。おまえに狂わされたりなんかしてない」
激情が、堰を切る。
「あなたを狂わせたくないのに……! 私は、私じゃ」
「そんなのは、私だって」
「駄目なのよっ! 自分じゃ止められない! 狂ってる私には止められないのっ!!」
「パルスィっ!」
「あなたが美鈴と闘った時もそうだった! 狂いそうで、暴れ出してしまいそうで!」
「それは、私を守ろうと……」
「あなたが好きで狂ってるんじゃない! 独りよがりですらない!」
「もうやめろ……っ!」
「初めから、どうしようもなく私は狂っててっ! 些細な事で止まらなくなって……っ」
「パルスィ……っ」
「――ぅ、あ、ぁぁぁ……」
「ゆう、ぎ――」
「……助けて……勇儀……」
膝を折る。
泣き崩れてしまう。
――あぁ。なんて、不様。
気づいていた
とっくに気づいていたのに
彼女に縋って頼って私は
「ゆぅ……ぎ……」
弱くなっていたって
初めて出逢った時から彼女は輝いていた。
大きく強く、太陽のようだと思っていた。
いつだって型破りで、私が何度拒もうと傍に居てくれた。
そしていつの間にか彼女が居るのが当然になって――
何もかも、奪われていた。
彼女の居ない日など考えられなくて。
彼女と一緒にならどんなことにも耐えられると信じて……
――幸せな日々を送れると、夢想した。
そんなこと有り得ないと知っていても……願った。
幻想が現実に打ち破られる今日この日まで、演じ続けてきた。
知っていたのに、知らないふりを続けてきた。
大丈夫、もしものことがあったって、彼女なら耐えられる。
彼女なら笑ったまま吹き飛ばしてくれる。
彼女なら――――
そんな思い込みは一瞬で砕かれた。
思い浮かぶのは倒れた彼女。
私の所為で息を乱したあの表情。
苦しみに、歪められた彼女の、顔。
淡々と、事実を告げられる。
――私の狂気は、いとも容易く彼女を殺してしまうのだと。
「はな……して……」
もうあんな想いは、したくない。
「はなして……よぉ……」
彼女を喪うことが――何より恐ろしい。
「……はなして……」
なのに、彼女はしっかりと掴んで、放さない。
「……駄目だ」
あなたに触れたくないのに。
あなたに触れることが恐ろしいのに。
「私の名を、呼んだじゃないか」
あたまが、まっしろになる。
「ち、が――あれ、は……」
「私を、頼ってくれたじゃないか」
「違う……っ! あんなの、ただの、弱音で」
「弱音でもいいさ」
そっと――抱き締められる。
「私は……おまえに嘘を吐かれる方が辛い」
必要な……嘘だった。
だって、あなたから離れないと、私。
「私から逃げたいなんて嘘は、辛いよ」
嘘じゃ、ない――
それは、あなたを傷つけたくないという、私の願い、なのに。
だから……必死に、あなたの名すら呼ばぬように、していたのに。
「だから――おまえを絶対放さない」
いや……放してよ……また、わたしは
「おまえの鬼を殺す。パルスィが欲しいから、おまえの忌む鬼を殺す」
告白の、言葉。
もう随分昔のことに思えるあの告白。
「絶対に殺してやる。鬼は、嘘を吐かないんだ」
そんな、の……
「無理、よ。百年以上疎んで、嫌って、忌んで、呪って」
例え彼女でも――殺せない。
「それでも、消せなかった」
「私は信じてる」
「……え?」
「見ず知らずの誰かを守り続けたおまえが負ける筈がないって。
私をずっと守ってくれたおまえが勝てない筈ないって。
誰が否定しようが私が信じる。おまえは変われるよ」
かしゃりと、鉄の枷が填められる。
「そして、私も負けない。おまえに狂わされたりなんかしないと約束する。
私は狂わずにずっとずっとおまえに寄り添うよ」
そっと――マフラーをかけられる。
「一緒に、おまえの鬼を退治しよう」
「ゆう――ぎ」
逃げ出し――たい
辛いって、耐えられないって、わかっているから
なのに、私の腕は差し出された手を掴む
もう……私はこの手を振り払えない
例え破滅以外の終わりがないとしても――
「勇儀……」
戦うと――決めたのだから
彼女と共に、戦うのだから
このお話は
作品集63「星熊勇儀の鬼退治」
作品集64「エンゲージ~続・星熊勇儀の鬼退治~」
作品集65「おにごっこ~星熊勇儀の鬼退治・参~」
作品集65「温泉に行こう!~星熊勇儀の鬼退治・肆~」
作品集67「そらのしたで~星熊勇儀の鬼退治・伍~」
作品集72「貴方が妬ましい~星熊勇儀の鬼退治・陸~」
作品集73「葡萄酒と香辛料~星熊勇儀の鬼退治・漆~」
作品集75「黒猫一匹~星熊勇儀の鬼退治・捌~」
作品集77「嫉妬の橋姫~星熊勇儀の鬼退治・玖~」
の流れを引き継いでおります。
特に「嫉妬の橋姫~星熊勇儀の鬼退治・玖~」からは直接繋がってますのでご注意ください。
木陰に、その姿があった。
肩で息をしていて、疲れ果てていて。
されど顔に浮かぶのは安堵の色。
――逃げ切れたと錯覚している。
ああ嫌になる嫌になる嫌になる。
愚かし過ぎて嫌になる。
だって私はもう、
「なにしてるの?」
触れれるほど近くに来ているのに。
「ひ――っ!?」
逃げられないように鉈みたいになった剣を打ち込む。
だけど逃げられる。
非力な私には折れた剣でも扱い切れない。狙いが逸れてしまった。
目で追う。
天狗の足は速い。私の足では追い切れない。
それでも。
「逃がさない」
呪いからは逃げられない。
「――『生への嫉妬を取り除く』」
白狼天狗は倒れ込む。
「は、か……っ!?」
なにをされたか理解できずとも、呪いは容赦なく力を奪う。
どんなに強くても――心を操られたらどうしようもないのだから。
「これであなたは逃げることも出来ない」
一歩一歩近づく。
その間に、倒れていた天狗は木を支えに立とうとしていた。
立ち上がっても歩くことは出来ないのに。無駄なことを。
もう一度剣を振り下ろす。
また外れてしまう。こいつが寄りかかる木に当たって止まってしまう。
だけど、天狗は恐怖に顔を引き攣らせながらも避けることさえしなかった。
狙われた首を庇うことさえ――出来なかった。
もう一度、今度こそ叩き斬ろうとするけれど、木に刺さった剣が抜けない。
……彼女を斬った剣で殺してやろうと思ったのに。
「ば、ばけ――化物――っ!」
息を乱して、目に涙を浮かべて、天狗が震えている。
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
きょとんとしたその隙に、組み伏せられ首を掴まれる。
私に触れれることに驚いた。術がかかってないのかと疑ったが……
――ああ、私への嫉妬は取り除いていなかった。
斬ってしまいたいけれど、生憎剣は木に刺さったまま。結局抜けなかった。
指が喉に絡みついてくる。
おかしいな。反撃なんて出来ない筈なのに。
自分の命を守ろうとすることは出来ない筈なのに。
「は、あぁ……っ!」
なんで抵抗できるのか不思議だったけれど……
ああ、そういえばこいつは仲間の為に鬼と戦ったんだっけ。
私が仲間にとって危険だと思ったから……動けたのか。
身を守ることなんて考えないで、仲間を守ろうと殺しに来た。
愚かなほどに実直で、妬ましいわ。
首を、絞められる。
マフラーも鉄の枷もなくなった私の首はさぞ絞め易かろう。
「こ、の……! 化物、化物め――!」
「ばけ、もの?」
それは――私のことを言ってるの?
ぎり、と指が喉に食い込む。
苦しい。
苦しくて、痛くて、気が触れそう
でも、それ以上に――こいつの馬鹿さ加減に呆れてしまう。
「今更、気づいたの?」
ゆらりと、私を取り囲む空気が歪んだ。
「――ぇ」
目に見えぬ怪物が。
嫉妬の末に殺された獣が。
欲を喰らわんとする悪鬼が。
怨念の果てに現れる化物が。
呪いを帯びて蘇る。
スペルの枷を外された――私の狂気のカタチ。
「ぐぁ――っ!?」
天狗が突き飛ばされる。
ごろごろと転がって、木にぶつかり止まった。
「ぁ……う、ぁ……」
もう立ち上がる気力もないのか、倒れたまま動かない。
「……けほっ」
痛い……力いっぱい絞めてくれて、痣になるじゃない。
首を絞められたからか、目眩がする。
押し倒された時にぶつけたせいか、体中が痛い。
全部、無視する。
今必要なのは体を労わることじゃない。
怪物たちを引き連れ、横たわる天狗を見下ろす。
悲鳴も出せないで、震えていた。
「私が怖い? 後悔してる?」
答えを聞くつもりの無い問い。
許しを期待したのか少女は必死に口を開こうとしている。
「赦さない」
そんなことはあり得ない。
「殺してやる」
簡単な理屈だ。故に覆らない。
誰かを守るということは――誰かを排するということなのだから。
号令一下怪物たちが牙を剥く。
その瞬間。
「神祭「エクスパンデッド・オンバシラ」」
地響きを伴う轟音が響き渡った。
「な――」
なによ、これ。
柱? 何本もの柱が、私の怪物たちを潰している。
馬鹿な。ただの柱で私の怪物たちが潰される筈がない。
この柱は――
「――そこまで」
圧倒的な威圧感。
零落した成れの果てなんかじゃない、紛うこと無き神威。
身動きすら取れぬ私の前に、赤い服を着た、風を纏う蛇神が現れた。
蛇神の背後に怪物たちを潰した物と同形の柱が何本も浮いている。
神威を纏った柱……神の象徴たる御柱か。
それなら、私の怪物たちを一撃で滅することも不可能ではないが……
不可能ではないというだけ。それを実際に行うのにどれだけの神力が要るというのか。
「この山を根城にしている神、八坂神奈子だ――自己紹介を聞く余裕はあったかな?」
……神としてのランクが、桁違いに過ぎる。
幻想郷に来る前、百年以上の昔にも……こんな強大な力を持った神など見たこともない。
ただそこに居るだけで……肌がぴりつく。膝をついてしまいそうになる。
――邪魔されてなるものか。
なんでこんな大神が出てくるのか知らないが今の私にとっては邪魔者でしかない。
私の狙いはあの天狗、一人だ。
武器も怪物も失ったけれどまだ殺せる。殺す手段なんていくらでもある。
――風が吹く。
駆け出そうとする私を、大きな手が捕まえた。
「――ゆう……」
しっかりと掴まれて、動けない。
違う。彼女のことは忘れろ。今は天狗を。
いない。天狗が居ない。倒れたままだった天狗の姿が無い。
探すと――居た。
黒髪の天狗に抱えられている。守られている。
邪魔……だ。殺せ、ない。
「パルスィ」
ぐいと引き戻される。
なんで、動けるのよ。私は術を解いてない。
意志を捻じ曲げる私の力を、解いてない。
「パルスィ」
やめ――て。あなたの声は、聞きたくない。
「放して」
掴まれた腕が、熱い。
「駄目だ」
あなたの温度を、感じてしまったら、私は。
「おまえが望まぬことをさせられない」
望んで、ない?
なにを言っているの。これは私の意志。
私がやろうとしてやっている。
私、が、殺そうと、して……
「ぁ――あなたに、は……関係……な……ぃ!」
何故……体から力が抜けていく……
これでは、術が保てない。私の力が、端から崩れていく。
ほら、黒髪の天狗に抱かれた、あの妬ましい白狼天狗が、動けちゃうじゃない。
これじゃ、あいつを、殺せない、じゃない。
「やめ……てよ……これは、私、が……わたし、の」
「いいや。これは――」
「――よもやここまで危険な妖怪とは思いませんでしたよ嫉妬の橋姫」
びくりと体が震えた。
白狼天狗を抱えた黒髪の天狗が、射殺さんばかりに私を睨む。
「三下妖怪と侮っていました。ここまで有害とわかっていれば」
「やめろ」
殺気を孕んだ声。
彼女が、怒っている。
それでも黒髪の天狗は口を止めない。私を睨み続ける。
「いいえやめません。椛を、仲間をこんな目にあわされては引っ込みがつかない。
彼女はある意味あなたより危険ですよ四天王様」
「やめろと言っている」
互いの殺気は膨れ上がる一方。
一触即発どころではなかった。
「あんな心を操る外法、野放しになど出来ません。外道は外道らしく」
「死にたいか、貴様――」
「双方動くなっ!!!」
神鳴る怒号。
紫電の錯覚を見るほどの神威に、二人は止まる。
「先程のは私の目の届かぬ処での争いであった故見逃すが――」
凍てつく蛇の目で睨め付ける。
「今、私の目の前でおっぱじめるというのなら、両者叩きのめす」
――気勢を削がれる。どれだけ怒りに煮え滾っていてもこれでは戦うなど不可能だ。
黒髪の天狗も不服そうながらも引く。
それを見届け、蛇神はゆ、彼女に、顔を向ける。
彼女は無言だった。私の背後で、どんな顔をしているのかもわからない。
空気が張り詰めていく。僅かに蛇神が顔を顰める。
先に動いたのは、彼女だった。
「……わかった。あんたの顔を立てよう」
彼女の答えに、うむ、と蛇神は鷹揚に頷いた。
「よろしい。で、発端は山への無断侵入だろう?」
「あ、はい。四天王様が数日前に山を通り過ぎて……それから騒ぎに」
「ふむ」
思案顔をするがそれはすぐに消え、代わりに薄い笑みを浮かべる。
「入山の許可は私が出した。おまえの上役にも話は通しておこう」
とんでもないと黒髪の天狗が食ってかかる。
「それは、いくら八坂様の言でも……」
「私の客だ。文句は言わさないよ」
「む……ぅ」
「許可は下りている。なんの問題もない」
……強引な。それで済めば此度の諍いは起こらなかった。
口で言っても治まらぬから、争い血が流れる。
互いを理解しようとしないから、憎しみが――連鎖する。
「……いいのかい? そんな無理をしたらあんたの立場が」
彼女が口を挟む。
「構わんさ。私の膝元でドンパチやられるよりマシだよ」
蛇神は微塵も揺らがない。
絶大な自信。人の上に立つ器。神故に、だろうか。
「……わかりました。一応私からも報告を上げておきます」
「ん。後で挨拶に行くよ。というわけで、一件落着だ」
鷹揚さは変わらず、蛇神は言葉だけで一連の騒ぎを終わらせた。
こうもはっきりと終わりと言われてしまえば……動きようがない。
己の権威と懐の広さだけで治めてしまった。
大したものだとは思うが……それでも……遺恨は消えるわけじゃない。
「では――あとはこちらの処罰です」
言って、黒髪の天狗は抱えていた白狼天狗を下ろす。
「なにをやってるのあなたは!」
怒鳴りつける。
己の力量を弁えろ、口伝であの方の恐ろしさは伝えた筈だ。
独断専行がどれだけ組織にダメージを与えるか、などなど……
息継ぎすらせずに説教が飛び出す。それを天狗は黙って受け入れていた。
見かねたのか、彼女が助け船を出した。
「あー……そう怒らんでおくれ。そいつも悪気があったわけじゃないんだよ」
「悪気がなくともあなたを怒らせればどうなることか。危うく全面戦争です」
……事実、この黒髪の天狗は彼女と戦うつもりだった。
白狼天狗をきっかけにして山の妖怪全てが巻き込まれるところだった。
「承知の上さ。だから命までかけて私を討ち取りに来たんだ」
言葉少なに、彼女は天狗の行いを肯定する。
「私を倒せればよし。倒せなければ己の命で償うつもりだったんだろう。
だから……おまえ上司か? まぁ兎に角、おまえも連れずに単身私に挑んだ」
「それは……」
「私も悪かった。お相子だよ」
顔に、長い髪がかかる。
彼女は……頭を下げていた。
「いや、そんな……あなたに頭を下げてもらわずとも……」
狼狽している。四天王が自ら謝るなんて思いもしなかったのだろう。
普段のエゴイストな振る舞いからは想像も出来ないだろうが、彼女は誠実だ。
自分が悪いと思えば躊躇なく謝る。
そんなこと、この黒髪の少女は知りもすまい。
「命をかけて、ね。……確かに」
蛇神も口を挟んできた。……彼女を見ている。
力量を量っているのか――その眼は鋭い。
「若いのにしちゃ立派な覚悟だよ。褒められこそすれ、怒られるもんじゃない」
またもや天狗を庇う発言。
流石に、黒髪の天狗は言葉に窮した。
どれだけの力を持ってどれだけの地位に居るのか知らないが……
この二人にこうまで言われてしまっては何も言い返せないだろう。
頃合いと見たのか、蛇神は再びまとめに入った。
「小天狗に関しては不問に処す。もう十二分に罰は受けたからね」
視線を……感じる。
「異存は?」
「無い。それで構わんよ」
「……ですが」
「私は気にしちゃいない。当人の私が言うんだ。これで手打ちさ」
「…………恩に着ます」
「今度美味い酒でも馳走しておくれ」
彼女が笑みを浮かべるのが気配で伝わる。
「それで、その」
「……あぁ」
だが、それも一瞬――感じた気配は、笑顔が消えたことを示していた。
そう、笑える、筈なんか、ない――
「こっちは、なんとかするよ」
重々しい、言葉。
「……お願いします」
彼女は頷いて――白狼天狗に声をかけた。
「おい犬っころ」
「……はい」
返事は弱い。
もう私の力は抜けているだろうが……殺されかけた事実は消えない。
その恐怖も、その――恨みも……
「名、もう一度聞かせてくれるかい」
反して彼女の声は力強かった。
過去を洗い流すかのように晴れ晴れとした声。
もちろん、それでなかったことになど出来はしないが……天狗は応えた。
「……犬走、椛です」
弱弱しく――されど鬼の度量に応えようと。
「犬走。強くなっておけよ。今度はちゃんと遊ぼう」
彼女は涼やかに言ってのけ、今度こそ全てに幕を下ろした。
強引に……終わらせられた。
「では、失礼します。――重ねて、彼女のこと……よろしくお願いします」
――天狗たちは、一陣の風となって去って行った。
胸が、痛い。
何も言えぬまま、終わった。
私は、まだ、なんの……
「――さて。天狗の方はこれでいいとして」
痛い。苦しい。
まだ胸の内で暴れ続けている。
「こっちは――」
目的が居なくなっても私の、私は、まだ――
「――ひっ」
蛇神が、近寄ってくる。
動けない。彼女に掴まれてるからってだけじゃなく、動けない。
文字通り蛇に睨まれた蛙だ。
怖い。
間近で見ると、大きい。彼女といい勝負だ。
背の高さすら威厳を示している。
こわ、い。
なのに、胸の中で暴れ回るものは、委縮すらしない。
いた――い、苦しい……
「……もう罰を受けているって風だね」
なに、を。わたしは、何もされて、ない。
許される、筈、ない。だから、私は、まだ。
私は、彼女に、ゆう――
「おまえは……」
「――――」
体が、揺れる。
私を掴む彼女が、首を振っている。
蛇神は柳眉を歪めて……口を噤んだ。
「世話になった。私は星熊勇儀、元山の四天王だ」
「世話ってほどでもないがね。私は八坂神奈子。今は山の神をしている」
話の焦点は――またも私から逸れていく。
「星熊、か。聞いた名だ」
「古い名さ。今更語られるものでも、ない」
手から、呼吸が伝わってくる。
それは、僅かに、乱れている。
……彼女が、息を乱したところなんて見たことが無い。
どんなに暴れまわった後でも、平気な顔をして……
「気が乱れてるね。なんらかの術を力業で破ったか――無茶をする」
「……この程度、無茶の無の字にも値せんよ」
「…………」
胸が、締め付けられる。
未だ暴れ回るものごと、押し潰すように締め付けられる。
怖い。
彼女がどんな顔をしているのか、怖くて見れない。
だけど、それだけは、見ない、と。
「……どうした? パルスィ」
振り返り、見上げた彼女は、笑って。
でも、その笑みは、無理に、僅かに、歪んで、いて。
「――ぅ、ぁ……」
「大丈夫だ。なんともない。気にしなくていい」
「う、うぅ……っ」
口からは、呻きしか出なかった。
謝る、べきなのに。
こんなことに、なったのは、私の、力で。
そんな、傷つけたくなんか、でも、私は。
私が、彼女を……!
「――また、吹雪くな」
涼やかな声が――罅だらけの心に滑り込む。
「山で遭難されても困る。うちに来なさい」
彼女が頷いて――私は、またも……逃げ場を失った。
――彼女に手を引かれて歩く。
まるで子供だ。……子供だったら、よかったのに。
叱られて終わる、そんな悪戯で……済んだだろうに。
足取りは、重い。
目に見える疲労は重く圧し掛かり一歩を進むことさえも苦痛とした。
手を引かれねば、座りこんでしまうほどに。
先を歩く蛇神は――八坂何某は、歩調を緩め、遅い私を待ってくれている。
その優しさが、酷く……煩わしい。
なんで私なんかを、彼女を、彼女だけを構えばいいのに。
私は、あなたとなんか関わりたくないのに。
どれだけ歩いたのか、気づけば石段を登っていた。
……何度か、見たことがある。神社に続く、石段だ。
「もう少しだ。悪いね無駄に長くて」
言われても、距離など最早わからない。
記憶が飛び飛びで、あれからどれだけ時間が経ったのかも判然としない。
いつの間にか、風に雪が混じっていた。
境内に入る。――立派な神社が見える。
「おやおや珍しいねぇ。神奈子が客を連れてきた」
突然聞こえた声に、びくりと震える。
見れば妙な帽子を被った少女が、石燈籠の上に狛犬のような格好で座っていた。
「お黙り。訳ありだ。手出し無用だよ諏訪子」
「ふぅん? 訳あり、ねぇ……」
諏訪子、と呼ばれた少女が私の顔を覗き込む。
嫌な目だ。何もかも見透かすような……怖い、目。
「へぇ――私と同じ、恐れられる神の臭いがするね」
きゅう、と口の端が吊り上る。心底楽しそうな笑み。
そんな笑みが何故私に向けられるのか、わからない。
ただ――怖い。
「諏訪子」
少女は口を尖らせて、不満げに燈籠から飛び降りる。
「へいへい。お邪魔なようだし私は遊びに行ってるよ」
背を向け、受けた印象とは真逆に子供のように走り出す。
――雪に混じって、その声は聞こえた。
「また会えたらいいねぇ、お姫さん」
通された部屋はごく普通の和室だった。
蛇神の神格からして祭神だろうし、本殿にでも連れて行かれると思っていたのだが。
もしかしたら、寒いから本殿ではなくこの部屋、なのだろうか。
目の前の火鉢を見ながら思う。神社のことはよく知らないが、火の気は入れないものだろうし……
――随分気遣われている。その事実が殊更に、重い。
関わられたく、ない。関わられることが……恐ろしい。
出て行ってしまいたいけれど、それは許されない。
手は、彼女に握られたままだから。
決して私を逃がさぬと、握られた手。
熱くて、痛い。
「…………」
視線を感じる。彼女が私を見ている。
話しかけられないことだけが救いだ。今は口を開くことも出来ない。
言葉を交わすなど、不可能だ。
がらりと襖が開く。
「悪いが、神職が出払っててね。大したもてなしは出来ん」
お酒を持ってきながら言う。
「……いや、お構いなく」
「大丈夫かね? ……顔色が優れんようだが」
明らかに――彼女は無理をしていた。
致命的でこそないが……耐え切れぬほどに疲労している。
「なにか精のつくものでも出した方がいいかな?」
「大丈夫だ。ほっときゃ治るさ」
声にも、無理が表れている。
……苦しい。見ることも、聞くことも、耐え難い。
「それにしても、見ていて寒いな」
突然、蛇神の方から話を逸らした。
「あぁ……上着、拾いに行かんとなぁ」
彼女もそれに乗る。白々しささえ感じられる話題の変更。
私に話が及ぶのを、止めた。
「私の服を貸そうか? 冬物なら余っていた筈だ」
「そこまでしてもらうのは――というか、神の服なんて着て大丈夫なのかい?」
「なぁに、ただの市販品でセール品さ。……と言ってもわからんか」
言って盃にお酒を注ぎ、彼女に渡す。
彼女はそれを受け取り、動きを止める。
「安心おしよ。神変鬼毒酒ってわけじゃあない」
「失敬。神と呑むなんざ久方ぶりにも程があってね」
「つれないねぇ。こちらは昔日を懐かしもうってだけなのに」
「何分小物で、ね。弱っちぃのさ」
自棄気味に盃を干した。
「本当に、弱くて――嫌になる」
「……根が深そうだ」
それからは、無言だった。
互いにただ盃を傾け続け時間だけが過ぎていく。
火鉢の中で炭が焼ける音がいやに大きく聞こえた。
「あー……星熊」
先に沈黙を破ったのは蛇神。
「今日泊まっていくかい? 本格的に吹雪そうだけど」
空になったとっくりを振りながら気だるそうに言う。
「いや……麓の館で世話になっててね。無断外泊ってのは気が引ける」
「それじゃあ強くは言えないね。でも吹雪は大丈夫かい?」
「なんとかなるさ。道は憶えてるからね」
「まぁ無理そうだったら遠慮なく言いなよ。部屋は余ってる」
じゃあ酒を持ってくるよ、と蛇神は席を外した。
また、沈黙。
彼女は私の手を握ったまま黙っている。
「――離して」
身じろぎして、彼女の手を振り払おうとするが力が入らない。
「駄目だ」
返事は短い。
より握る手に力を籠められてしまう。
彼女は言葉よりも行動で示した。
「……離してよ」
「どこに行く気さ」
答えられない。答えなど無い。
それでも私の口は動いた。
「水、を……気分が、悪い、から」
最早嘘を吐くことに罪悪感など感じない。
それ以上の罪を犯したのだから。
もう一度身じろぎすると、手は離された。
「……そうかい」
立ち上がる。それだけで酷く疲れてしまうけれど、休むことはできない。
「早く戻ってきなよ」
彼女の言葉を背に受けながら、無言で襖を閉める。
もう、戻らない。
――戻れない。
広い境内を駆け抜ける。
うっすらと雪が積もった玉砂利は走りにくくてしょうがない。
転んでしまいそうだけれど、転んでる暇なんてない。
一分一秒でも早く、遠くに行かないと。
――どこに行ける、と冷静な私が囁く。
どこでもいい。どこにも行けなくてもいい。ここから離れられればそれでいい。
――神社から一人で出れば死ぬかもしれないのに、と囁かれる。
復讐されても構わない。されるだけのことはしたのだから。
――彼女を裏切ることになる。
……それで、いい。これ以上彼女に迷惑は、かけられない。
――彼女と離れたくないのに。
……黙れ。
――彼女の傍に居たいのに。
黙れ。そんなこと、出来る筈がない。
――彼女に
黙れ……っ! 黙れ黙れ黙れっ!
私は、もう、駄目なのよ……! 誰かの傍になんて居られない……!
ここから、離れないといけない……
早く、早く――
「どこに行くんだい?」
逃げないと、いけなかったのに。
玉砂利の軋む音。
彼女は石燈籠に寄りかかりながら私を待っていた。
「八坂の前じゃ話しづらかったからね。……ここなら幾分話し易い」
私が逃げる気だって、気づいてたのか。
「…………」
私に、話すことなんてない。
ただ――離れたい、だけだ。
「……今回は、すまなかった。完全に私の落ち度だ。
レミリアにも釘を刺されていたというのにな――我ながら、情けない」
なんで、謝るのよ。
謝るのは私でしょう?
私が勝手にやって、私が勝手に酷くした、それだけじゃない。
「謝る必要はないわ――『鬼』」
――仮面を被る。
今の私では言葉を交わすこともままならないから、ずっと被ってきた仮面を。
……『嫉妬の橋姫』の仮面。
冷笑を浮かべた、心無い鬼女の仮面。
「パル――」
「あなたと私はもうなんの関係もないのだから」
話したくないから、終わらせる。
大丈夫。この仮面を被っていれば――大丈夫。
お芝居は……得意なのよ。
「関係はある」
彼女は食い下がる。予想の範疇だ。
「どこに? あなたの欲しがる証なんてどこにも残ってない」
冷たい笑みで告げる。
「あの重たい枷もマフラーも、もう私の首には掛かってないのよ」
襟を開いて首を見せる。
なにもない首を見せる。
「そんな、もの――なくたって」
「あなたはもう私を縛れない。繋いだ鎖は外れてしまったのだから」
まだ何か言おうとするが、彼女はそれを紡げない。
口では私に勝てやしない。この仮面を壊せない。
彼女の横を通り過ぎる。
腕を掴まれる。
「――行かさない」
あつ、い。
「おまえを一人にはさせない」
彼女の手の熱さに――屈してしまいそうになる。
でも、それは出来ない。仮面は、まだ壊れていない。
壊れて、いないのだ。
「逃げても――捕まえると言ったろう」
罅が、走る。
「駄目よ」
駄目だ。
「あの時は大丈夫だと思った。あなたと一緒なら平気だと思った」
割れるな。
「でも……駄目だった」
この仮面を、壊してしまっては。
「私は私の力を全く制御できない。無理に抑え込めば暴発する」
被り、直せ。
「私は変わらず狂っていて、こんな簡単に誰かを殺そうとしてしまって」
まだ、仮面は壊れていない。
「一緒になんて、いられないじゃない」
――再び冷笑を浮かべる。上手く出来たか自信がない。
彼女の目にはどう映ったのか……ひどく、痛々しい眼を、向ける。
「……だから、か」
声さえも、痛々しい。
「だからいつも私から距離をとっていたのか。紅魔館の連中にも触れないようにしていたのか」
だけど、仮面を被っている。
彼女の声は……届かない。
「ええそうよ。だっていつ狂わせてしまうか知れたものじゃないのだもの。
触れるだけで狂わせてしまうかもしれない。私がその人を想えば狂わせてしまうかもしれない」
冷笑を顔に貼り付かせる。
「怖くて、誰かと触れ合うことなんて出来ないじゃない?」
彼女は、否定する。
「私は……おまえに狂わされたりなんかしない」
あぁ――そうだったら、どんなによかっただろう。
言葉で紡いだことが現実になったら……どれだけ救われただろう。
どれほどに、それを願っただろう。
仮面が……罅割れる。
「そんなの、わからない」
作った表情が、抜け落ちる。
「私の力はそういう力。制御なんてできない忌み嫌われた力。あなたにだって」
指先の震えが
「――使いたくなんか、なかったのに」
止まらない
「ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい……」
私は――耐えられなかった。
己の力に。己の狂気に。
耐え切れずに、色んな人を傷つけてしまった。
あなたを、傷つけてしまった。
「ごめんなさい、ごめんなさい……っ!」
それなのに、まだこうしてあなたに負担をかけている。
涙が滲む。
己の不甲斐なさに、情けなさに、涙が零れる。
「……もう自分を責めるな。おまえは十分に悔いたよ」
「だって、私、なんの躊躇もせずにあなたに力を――っ」
「大丈夫だ。私はこの通り無事だ。おまえに狂わされたりなんかしてない」
激情が、堰を切る。
「あなたを狂わせたくないのに……! 私は、私じゃ」
「そんなのは、私だって」
「駄目なのよっ! 自分じゃ止められない! 狂ってる私には止められないのっ!!」
「パルスィっ!」
「あなたが美鈴と闘った時もそうだった! 狂いそうで、暴れ出してしまいそうで!」
「それは、私を守ろうと……」
「あなたが好きで狂ってるんじゃない! 独りよがりですらない!」
「もうやめろ……っ!」
「初めから、どうしようもなく私は狂っててっ! 些細な事で止まらなくなって……っ」
「パルスィ……っ」
「――ぅ、あ、ぁぁぁ……」
「ゆう、ぎ――」
「……助けて……勇儀……」
膝を折る。
泣き崩れてしまう。
――あぁ。なんて、不様。
気づいていた
とっくに気づいていたのに
彼女に縋って頼って私は
「ゆぅ……ぎ……」
弱くなっていたって
初めて出逢った時から彼女は輝いていた。
大きく強く、太陽のようだと思っていた。
いつだって型破りで、私が何度拒もうと傍に居てくれた。
そしていつの間にか彼女が居るのが当然になって――
何もかも、奪われていた。
彼女の居ない日など考えられなくて。
彼女と一緒にならどんなことにも耐えられると信じて……
――幸せな日々を送れると、夢想した。
そんなこと有り得ないと知っていても……願った。
幻想が現実に打ち破られる今日この日まで、演じ続けてきた。
知っていたのに、知らないふりを続けてきた。
大丈夫、もしものことがあったって、彼女なら耐えられる。
彼女なら笑ったまま吹き飛ばしてくれる。
彼女なら――――
そんな思い込みは一瞬で砕かれた。
思い浮かぶのは倒れた彼女。
私の所為で息を乱したあの表情。
苦しみに、歪められた彼女の、顔。
淡々と、事実を告げられる。
――私の狂気は、いとも容易く彼女を殺してしまうのだと。
「はな……して……」
もうあんな想いは、したくない。
「はなして……よぉ……」
彼女を喪うことが――何より恐ろしい。
「……はなして……」
なのに、彼女はしっかりと掴んで、放さない。
「……駄目だ」
あなたに触れたくないのに。
あなたに触れることが恐ろしいのに。
「私の名を、呼んだじゃないか」
あたまが、まっしろになる。
「ち、が――あれ、は……」
「私を、頼ってくれたじゃないか」
「違う……っ! あんなの、ただの、弱音で」
「弱音でもいいさ」
そっと――抱き締められる。
「私は……おまえに嘘を吐かれる方が辛い」
必要な……嘘だった。
だって、あなたから離れないと、私。
「私から逃げたいなんて嘘は、辛いよ」
嘘じゃ、ない――
それは、あなたを傷つけたくないという、私の願い、なのに。
だから……必死に、あなたの名すら呼ばぬように、していたのに。
「だから――おまえを絶対放さない」
いや……放してよ……また、わたしは
「おまえの鬼を殺す。パルスィが欲しいから、おまえの忌む鬼を殺す」
告白の、言葉。
もう随分昔のことに思えるあの告白。
「絶対に殺してやる。鬼は、嘘を吐かないんだ」
そんな、の……
「無理、よ。百年以上疎んで、嫌って、忌んで、呪って」
例え彼女でも――殺せない。
「それでも、消せなかった」
「私は信じてる」
「……え?」
「見ず知らずの誰かを守り続けたおまえが負ける筈がないって。
私をずっと守ってくれたおまえが勝てない筈ないって。
誰が否定しようが私が信じる。おまえは変われるよ」
かしゃりと、鉄の枷が填められる。
「そして、私も負けない。おまえに狂わされたりなんかしないと約束する。
私は狂わずにずっとずっとおまえに寄り添うよ」
そっと――マフラーをかけられる。
「一緒に、おまえの鬼を退治しよう」
「ゆう――ぎ」
逃げ出し――たい
辛いって、耐えられないって、わかっているから
なのに、私の腕は差し出された手を掴む
もう……私はこの手を振り払えない
例え破滅以外の終わりがないとしても――
「勇儀……」
戦うと――決めたのだから
彼女と共に、戦うのだから
神奈子の計らいで双方が矛を収めたりと、とりあえず無事に済んで良かったです。
これから勇儀のパルスィへの告白や二人で戦うという決意が素敵でした。
後書きを見てるとなんだかこれで終わりという気もしてきますけど……続きますよね?
次回などあるとしたらどんなことが二人に待っているのか楽しみです。
最後の文で一気に流れが転換され、ぐっと来ました。
鬼の勇儀は嫉妬の鬼を殺すと約束した。勇儀が勇儀であるかぎりその約束は果たされる……
自分が何言いたいかわからなくなったのでこの辺で失礼します。
勇儀さんも神奈子さんもカリスマあふれすぎる。
それにしても二面ボスがこれほどまで広大で強大になるなんてなあ・・・。
そして椛はやっぱり下っ端なんだよなぁ、と再確認。
その気がないのに怖がられてしまうのも鬼の業なんでしょうかね。泣いた赤鬼的な。
コメントに反応して悪いですが、続きがあるなら~というコメントについて。忘れてはいけない。彼女らは温泉宿を探しにきているのだ!
ああ、しかし、この気まずさが堪らない!もう温泉なんていいから、もっと昼ドラで、なおかつスリリングでサスペンスな内容を繰り広げましょう!サスペンスはどこにあった?ってのはスルーで。つーかむしろ湯煙温泉殺人(~霧雨魔理沙は嫉妬の香り~)?
もちろん10割冗談です。
・・・すみません、持病の発作が
このシリーズ、やはり全体的にシリアスですね
しかし勇儀の姐さんならやってくれると信じてます
続き!続きはどこに!!
神奈子様素敵すぎます