「諏訪子様、今日から宜しくお願いします!」
「うむ、良きに計らおうとも。須らく努め上げよな。」
まだ霧晴れぬ早朝の境内。
そこには守矢神社の風祝、東風谷早苗ともう一柱、洩矢諏訪子の姿があった。
方や深々とお辞儀をし、方や小さい背丈を一杯に伸ばして胸を張っている。
昨日の夕飯、出てきた吹野等やタラの芽の天ぷらを前に、諏訪子はお預けをくらっていた。
早苗が、諏訪子の神力も貸して欲しいと切り出してきたのだ。
聞けば神奈子の神力だけでなく、諏訪子の神力も身に付け、守矢の風祝として信仰をさらに得ると共に、両二柱の力になりたいのだと言う。
そういう事は食事の後でも、と言おうとした諏訪子だったが、早苗の鬼気迫る目に見据えられてしまい、終ぞ言い出せなかった。
そして好物を目の前にしては、流石の土着神の頂点も首を縦に振らざるを得なかった。
『じゃあ、あした、あしたからな。……分かったからもう食べてもいい?』
早苗は明日からの修行の約束を取り付けたのだった。見事、海老で鯛を釣るを体現したのだ。
「ではまずは湖の周りをランニング。手始めに二周といこうな。」
「い、いきなりですか…。結構大きいですよね?」
守矢神社は湖から高い位置にある。
その為境内からは朝霧に曇り、たゆたう湖の姿を見ることが出来た。
「大体、周囲四里強といったところか。なぁに、昔のほうが大きかった大きかった。」
「(計算中)……。一周約16キロ、掛けることの二周か……。」
答えは早苗の胸の中に仕舞われた。口に出せば挫けそうなこともある。
「神力は一に体力、二に体力、三四が無くて五に体力よな。何事も基本が大切と云うだろう?」
「心技体バランス良く鍛えるとか、そういうのとかは……。」
「不思議なもので身体を鍛えるともれなく精神も鍛えられるという。」
「なにかのキャンペーンですか。」
「私も共に走ろう。さぁさ、行くぞ。夜露の引かぬうちでないと私が乾いてしまう。」
諏訪子は未だ覚悟の出来ていない早苗の手を取り、半ば強引に早朝のランニングを始めた。
学校に通ってた頃のジャージ姿で諏訪子に続く早苗。
前を駆ける神様といえばスカートに袖の長い服と、とても走るような格好ではなかった。
それなのに藪を越え、木々を避け、荒々しい獣道を飛ぶように駆け抜ける。
いや、よくよく目を凝らせば草木の方が諏訪子を避けているようだ。
諏訪子が足を上げる以前に藪は低く屈むし、左右に避ける以前に木々は反り進路を造る。
「ねこバス……!」
早苗は子供の頃に見たアニメの1シーンを思い出していた。
流石は土着神、自然を従えるのも容易いようだ。今更気付いたが、諏訪子は息さえ荒げていない。
「…………。」
それはまぁ、自然と、諏訪子のすぐ後ろを走りたくなるものだ。
早苗も類に漏れず、何気なしに進路を変え、諏訪子の直後に体を持ってくる。
「ん?」
「あっ。」
早々に気付いた諏訪子と目が合い、早苗もつい声を出してしまった。
正直すぎる反応を見て諏訪子に笑みが零れ、早苗は顔を赤らめて横に背ける。
「こらこら、それでは修行にならないよ。どら。」
諏訪子はスピードを緩め、早苗と並走する。
走りながら早苗の手を取り、自分の側まで寄せてやった。
すると早苗にも諏訪子の神力が得られたかのように、草木は二人は避けていく。
それは木々のトンネル、二人を包むほどに環を描いて、緑のトンネルが早苗には見えた。
夜露の残る葉、透ける緑が霧に霞んだ淡い日光を乱反射し、まるで万華鏡の中のようだった。
「うわぁ……綺麗……。」
目まぐるしく入り乱れる緑の光線は、一つになったかと思うと弾け別れて後方へと飛び去る。
早苗と諏訪子を取り囲みながら葉が踊り、枝々は弓を張り、また光に飲み込まれる。
その中では風もまた演者の一つに過ぎず、葉を舞い上げ、吹奏を歌い広げる。
まるで一つの物語のように自然が溢れ満ちては流れ行く。
その様子を瞬き出来ずに見つめる早苗はふと気がついた。
諏訪子が早苗の手を握りなおしたのだ。走りながらで揺れるから手が離れそうになってしまったからだ。
ただそれだけだったのに、伝わる体温が何かを思い出させる。
「…………? …………!」
早苗は一瞬のフラッシュバックに眩暈を覚えた。
微かな記憶だったものが大きく拡大し、早苗の目の前に現れる。
それは早苗が幼き頃に、一度だけ連れて行ってもらったサーカスだった。
ピエロが舞い踊り、ライオンやゾウが見事な芸を見せ、空中ブランコでドキドキした。
そこはやはり、光が入り乱れる万華鏡だった。
しかし夢のような時間の後には孤独が待っていた。
一斉に帰り支度する観客の波に呑まれ、早苗は両親とはぐれて迷子になってしまった。
見知らぬ顔、見知らぬ場所。
少女の心を揺さぶるには充分で、恐怖に耐え切れなくなって泣き出しそうになった、 その時だ。
『よく泣かなかったね。エライな。』
早苗に、手を伸ばす存在が居た。
姿は自分よりも少し背が高い程度、おかしな帽子をかぶった少女であった。
初めて見る笑顔にしては人懐っこく、そして何処かで会ったような懐かしい雰囲気。
早苗と比べても大差ない小さい掌は、結べば母親に似た暖かさを持ち、少女の恐怖を拭い去るには充分であった。
両親に出会えるまでずっと側に居てくれたヒト。
私の話を頷きながら、手を握って聞き続けてくれたヒト。
見つかった両親に紹介しようと、お礼を言おうと振り向いた時にはもう居なかったヒト。
(……そうだ。あの時初めて……。)
諏訪子に手を引かれ、早苗は緑光の万華鏡を見つめて呆けてしまった。
そしてそれ故に走ることを疎かにしてしまい、諏訪子にもたれ掛かるかたちになった。
バランスも悪いし、何より早苗の様子がおかしかった。
諏訪子は足を緩め、すぐに停止した。
「あっ、すみません。」
「どうしたの早苗。疲れちゃった?」
「そうじゃなくて、あの……私……。」
心配そうに覗き込む諏訪子を、早苗は何故か直視出来なかった。
「……いえ、大丈夫です。まだ途中ですから、走ってきますね。」
「無理しなくていいんよ……?」
それでも駆け出そうとしている早苗を、止めようとはしなかった。
修行を辞めさせる理由などいくらでも作れたが、早苗から言い出したことであるし、諏訪子が口にすることではない。
見れば足もしっかり踏み込んでいるし、先程までの雰囲気ももう無いように見えた。
森の中に消えていく早苗の背中を見送り、諏訪子は頬を少し掻いた。
(今日はこれでお仕舞いかな。)
諏訪子はこのランニングが終わったら適当な話でも作って、早苗を早めにあがらせることにした。
まだ修行一日目だ。急ぐ必要もないだろうと思われた。
諏訪子は守矢の社殿の方向に向き直った。
「寝坊助な。やっとこさ起きたと思ったら……。」
両足を力ませ、諏訪子は社殿へ向けて跳び上がった。
所謂、飛翔ではなく跳躍なので諏訪子は放物線を描いて落下する。
だがしかし、優に数kmの距離を一跳びで跨いでしまい、着地さえ静かにこなした。
下り立った境内は未だ夜露が残っていたが、本殿から漂う気配で、先程とは空気が変わっている。
諏訪子は本殿へと数歩近づき、そこの主に問い質した。
「覗き見るとは、些か好色が過ぎるのではないかな?」
「自分に仕える風祝を心配するのを悪く言わないでほしいわね……。」
守矢神社の表の主、八坂神奈子は、涅槃の格好のままで応えた。
足は畳の間からはみ出て、木の床まで投げ出していた。
起きたばかりなのか、欠伸をしている。
とてもヒトに対応する態度には見えなかったが、それが神奈子なりの神としての演出らしい。
実際、食事をする時など、礼節に最も煩いのが神奈子である。
やれ箸の使い方が悪い、肘を付いて食べるな、テレビを見ながら食事禁止。
それが原因で喧嘩になったのも二度三度ではない。
仕舞いには神奈子に仕える女児たちの躾をも自ら行う始末。食卓周りのみだったが。
「早苗なら見ての通り、湖の周りを走り込み中さね。妖精は多いが危険な妖怪など出やしないさ。」
「見ていたわ。なにやら良い雰囲気だったじゃないの。」
「呆れた、ずっと見てたのかい。……心配しなくても、手を出したりしないよ。」
「どうだかねぇ。」
神奈子はそう言って、口の端を吊り上げる。
その様はまるで、蛇が獲物を見つけて浮かれているようだった。今にも口元から舌が這い出てきそうで悪戯に諏訪子の心を粟立たせる。
「冗談はさて置いて。」
神奈子はふと真面目な顔をとり、投げ出していたその身を正して胡坐を組んで諏訪子に向き直った。
それを見て、苦い顔をしていた諏訪子も一先ず気にしないことにした。
「早苗は何故急にあんなことを言い出したのかねぇ。」
「たぶん、麓の巫女だろう。早苗はあれで負けず嫌いな分がある。」
「八百万の神々を身に降ろして月まで行ったって?」
「それに先日のサトリ妖怪の妹が来た時の件。あの盗人にも返り討ちにあったと。」
「魔理沙か。散々懲らしめてやったわね。別に早苗の仕返しってわけじゃないけど。」
「それとは関係なしに、納得するような子ではないさな。」
諏訪子は社殿の軒下に腰掛け、神奈子に背を向けて喋り始めた。
「あの子は良くも悪くも正直だから。外から来たというのもあるとは思うが、幻想郷の者達にライバル心を抱いてる。だのに未だ勝ててないからなぁ、でもそれを糧に日々の修行に身が入れば幻想郷に来た価値はあるだろう。」
「ええ。信仰の為、力になりたいというのも建前ではあっても嘘ではないのよね。」
「それなら心配する事もないだろう?」
「というかぁ……、貴女はどうなのよ?」
「私っ?」
神奈子の不意の問いに驚いて、諏訪子は後ろを振り向いた。
思ってもみなかった事なのでバランスを崩して右手を床に突いてしまった。
「早苗が力を使えるのは貴女からの血筋があるからよね。私が出来るのはそこに上乗せするくらいで補助的なもの。元々が諏訪子の力ならこの修行はあまり意味がないけど、貴女今まで早苗に力貸すの嫌がってたじゃない。」
「あー、それはー、うー、そのねぇ……。」
「早苗は自分が貴女の子孫だと知らないし、力もその殆どが自力なのに私から借りていると思っている。その事を話す気はないのでしょう?」
「…………。」
「諏訪子、貴女またどうとでもして、うやむやに終わらすつもり?」
神奈子の元来力強い眼が、今はそれに輪をかけて光を増し諏訪子を見据える。
諏訪子はといえば、突いた手を握り締め、帽子のツバで神奈子の眼力を遮る様に顔を下げている。
見える床の木目は複雑な紋様を描き、色合いを濁流のように感じさせた。
「あの時は仕方がなかった。でも今は違うはずよ。早苗とちゃんと向き合いなさい。」
「……その結果が悪くてもか?」
「それを決めるのは早苗よ。他の誰でもないわ。」
「見知った風な口を利くよな。全盛期の余力は失われたと思っておったが。」
「そのくらい分からずして何が神か。」
神奈子は、体を屈め、俯く諏訪子の帽子にゆっくりと手を掛けた。
「諏訪子、貴女もよ……。」
指を沿わせ、その頑なな帽子を持ち上げようとする。
だが、諏訪子が急に立ち上がったため、神奈子の手は空を切った。
「そろそろ戻らにゃ。……分かってはいるのだがな、すまん。」
「…………。」
諏訪子は賽銭箱を飛び越え、社殿から続く石畳の上でしゃがみこんだ。
「私は未だ踏み出せないでいるよ。忘れられないでいるよ。」
その身は、空高く跳躍した。
夜露も乾かぬほどの間であった。
「……幻想郷は全てを受け入れると言うがな……。」
言の葉は朝日に当てられ、掻き消えるように、誰も居ない境内に響いた。
やっと四分の三過ぎたろうか、早苗は息を整え余力を残す準備をした。
吐いた息は春先にしては重く白く濁り、朝霧との見分けは容易ではなかった。
周囲の草木は、もう自分の言う事を聞かず、早苗の進路を容赦なく遮る。
湖の近く故に起伏が少ない分幾らかマシではあった。
(あの時、初めて会ったんだ。諏訪子様と……。)
先程の光景が思い出される。そしてその時までずっと忘れていた事も。
緑光のトンネルから幼き頃に見たサーカスの思い出に至った理由を、なんとなく早苗は理解していた。
そのどちらにも諏訪子の存在があったのだ。
(それからしばらくお会いできなくて、次会えたのは中学に入ってからだったっけ。)
初めて会ってから数年が経っていた。
早苗は一度目のことは残念ながら覚えておらず、だが諏訪子は同じく初めてのように接してくれたようだった。
忘れていたのは幼かったからもあるが、その後起こった事も影響されたのであろう。
啄ばんで言えば、早苗は憑かれたのだ。
最初は青い煙が左手から昇っていた。それが段々黒く濃く身に纏わり付くようになり、やがて周囲にも影響を及ぼし始めた。
飼っていた小鳥が変死し、一緒に遊んだ子が滑り台から落ちて大怪我をした。祖母が入院したのもこの時期だった。
その頃になってようやく先代の風祝が気付き、これを祓い清めたが、早苗の心にはトラウマが残ることとなった。
幼かった故に自分ではどうしようもなく、周りが傷付くのを黙って見ていただけだった。
そして先代からこう諭された。
『貴女がお会いしたのはミシャグジ様です。自らに力が備わるまで、不用意にお側に寄らないように。』
子供心にでも、諏訪子が敬遠されていることは理解出来てしまった。
どうやら諏訪子の姿は、今では家の者でも誰も視る事が出来ず、早苗は数十年ぶりの才ある娘と持て囃されたが、同じくらいに疎まれるようになった。
人は眼に見えぬモノを恐れる。
半端な力で神奈子を視覚出来たり、古代の悪しき風習をなまじ知っているから、余計に存在のみ伝えられる諏訪子を恐れたのだろう。
ましてや祟り神である。
そんなものが境内をうろついてるなど、虫唾が走るわ。
その先代の言葉が、早苗の幼き心に錠を掛けた。
そして最初の出会いを封印して数年後、諏訪子に再会することとなる。
今にして、早苗が身を護る術を得るのを待ってから会ってくれたのだと思う。
神奈子からの紹介だったし、早苗の質問に諏訪子が言った答えも暗に示していた。
『お姿をお見かけしなかったのですが、何処にいらっしゃったのですか?』
『ずっと不貞腐れて寝ていたよ。』
諏訪子は悪戯に祟りを広めぬよう、ずっと一箇所に籠もって寝ていたのだ。
先代の風祝や諏訪子を視覚できぬ家の者達は、そんな事にも気付かず、勝手に恐れ怖がっていたのだった。
誰かに声を掛けられる事もなく、ずっと孤独に眠る諏訪子の気持ちも知らずに。
(諏訪子様は人間より人間っぽいところがあるからなぁ。)
たとえ忌み嫌われていても、助けなくてはならないと諏訪子は思っているのだろう。
それ故に、早苗には率直に気になる事があった。
(祟られると知って私を助けてくださったんだろうか……。)
どうしても、早苗にはそれが引っ掛かっていた。
早苗はまだ幼く、自分を祓い清める力さえ無いのは諏訪子にも分かっていたはずである。
祟られてしまうのは仕方ないとしても、その後何故助けてくれなかったのか。
憑きものに怯え震える早苗に、どうして手を伸ばしてくれなかったのか、と。
封印した記憶を思い出してから、ずっとその事が頭の片隅で渦を巻いていたのだ。
諏訪子の顔を直視出来なかったのも、それが原因であった。
(こんな事なら、聞いてしまえば良かったかな。)
軽い後悔がよぎるが、それはこれから聞けば良いことだ。
修行は始まったばかりだし、諏訪子が見てくれるならば聞く機会は幾らでもある。
別に深い意味はないだろう。
あの頃よりも早苗はずっと大人だ。心に傷は負ったものの、今では許容範囲である。
モノのついでに聞いてしまえば良い。昔話にだって花が咲くかもしれない。
早苗にとっては大したことではないのだ。
「……ヨシッ! ラスト一周! 根性だ、根性ッ!」
もうそろそろスタート地点だ。早苗は気持ちを昂ぶらせるため頬を叩く。
思ったよりもへばっていたが大丈夫、今日はみっちりシゴいて貰うつもりだから、こんな事でヘコたれていられないのだ。
何事も体力が大事。諏訪子もそう言っていたではないか。
早苗は膝をさらに高く上げることを意識しながら、スタート地点に差し掛かった。
「早苗、早苗。」
「ふえっ? あれっ? 神奈子様??」
スタート地点と定めた、湖に半分浸かった岩。
その上に神奈子が座っていて、早苗にこっち来いと手招きしている。
神奈子は背に注連縄も付けず、なにやら笑顔で早苗を待っていたようだ。
早苗は急いで方向を変え、息を整えつつ、神奈子に近づいた。
「おはようございますっ!」
「お~お~、おはよう。」
「もう起きてらっしゃったんですね、失礼致しました。……こんな格好でご拝顔して申し訳ありません……。」
早苗はジャージの胸元を指で掴み上げ、申し訳なさそうに神奈子を見上げた。
「構わないわよ。その格好も可愛いじゃないなんだか母親参観日みたいで嬉しいわ。」
「はぁ……。そう仰られると恥ずかしいのですが。」
「照れない照れない。所で、昨日渡し忘れてたんだけど、早苗宛にこんなものが届いていてねぇ。」
「私宛、ですか? あっ、わざわざありがとうございますっ。」
そう言い、早苗は神奈子から封筒を手渡された。
だが早苗にはそんなモノが届く理由が分からなかった。裏を見ても差出人の名も無い。
訝しげにしている早苗に、神奈子は素知らぬ顔で言う。
「どうやら果たし状のようね。」
「……はっ、はたっ!?」
「悪いけど、中を見たわ。麓の巫女よ。」
「は、果たし状……。こ、これが世に聞く果たし状かぁ……。って、霊夢!?」
早苗はくるくる目玉を回している。よほど驚いたのか手も震えている。
それを尻目に、神奈子は続ける。
「彼奴も追い詰められているのであろう……。こんなものを寄こすとは……。」
「え、まっ、ええっ?」
「思えば博麗も厳しいのだな。信仰はダダ下がるばかりで一向に回復せず、賽銭箱には日々虚しさばかり貯まっていく……。嗚呼、悲しいことだわ……。」
「あ、あの、あの、あの……。」
「しかし、その苦しい中でも希望を忘れなかった。それが掃き掃除と白湯を啜ることを延々続ける地獄のような日々であってもなぁ……。そして切羽詰ってこの果たし状だ。彼奴の覚悟、見事だとは思わないかい? コレを綴る筆に血が滲む様が手に取るように想像できるよ……。人の世の酸いも甘いも噛み分けた顔してなぁ……。」
「?????」
早苗はすでにいっぱいいっぱいだ。
神奈子は腕を大きく掲げ、朝日の後光を背に受け、声の限りに叫んだ。
「背水の陣で挑まれてはこちらも引けぬ。その覚悟見事と叫び、今こそ神の鉄槌を下してよろうぞ! ここで彼奴の苦しみをその身ごと粉砕してやるのが一縷の情けというもの。彼奴の望み、叶えてやらぬはあまりに酷だ! 神の名折れだ! 紅き地に伏させてやろうとも、絶望を与えてやろうとも。その身高揚させて挑んでくるがいい。八坂に奉じる風祝の東風谷早苗が! 一片のッ! 情けもなくッ! 打ち滅ぼしてやろうッ! しかして憂慮などないぞ。決した暁にはその御霊、我が守矢にて尊く貴く祀ろうではないか! そしていざ参れ我が胸に! 愛溢るる我が両腕にて事切れるのを許してやろうではないか! 兵たるそなたの最後の寝顔、とくと見せよッ! さぁッ! 我が胸にッ!!」
「わ~~、わ~~。」
「ということで、行って来い。」
「ふぁい。」
早苗は飛んでいった。
「どうやら、催眠は上手くいったみたいね。別に演説は要らなかったのだけど。」
ノリでやってしまったらしい。
催眠というよりもまじないに近いもののようで、悪く言えば洗脳だった。
早苗は神奈子が思っていたよりも呆けた顔をしていた。
「道すがら解けるとは思うけど。あっ、ジャージのままで行かせてしまったわ。」
果し合いにあの格好はまずい。雰囲気に欠ける。
学校指定ジャージ姿の早苗と対峙する霊夢を思い浮かべ、ちょっと笑いが込み上がる神奈子であった。
「さて次はあの巫女だな。骨が折れそうね。」
幻想郷の端、外界との境界に鎮守する博麗神社。
毎日なにかしらの妖怪どもがたむろするそこには、自称『楽園の素敵な巫女』博麗霊夢が住んでいる。
今は早朝で境内には一人の影しか見えないが、日中に別段人が居るわけでもなく、閑散
としているのが常であった。
そのぽつんと見える人影、境内を掃除しているのが博麗霊夢だ。
「ふわぁ……あふっ……。」
大きな欠伸を一つ、霊夢は箒を休めて空を眺めた。
最近は大きな異変が無い。
それ自体は全く問題無いのだが、こう毎日暇では飽きがくる。
「なんかさぁ、大きな事件でも起きないかねぇ……。」
「巫女にあるまじき発言だわ。」
だらける霊夢の後ろには何時の間にやら神奈子の姿が、だが霊夢はキョトンともせず会話を続ける。
「いいのよ、どうせ私が解決するんだから。あんたには二度も世話になったんだから、分かるでしょ。」
「耳が痛いわねぇ。せいぜい心に刻むとしようかね。」
「胡散臭いわ。神様って皆そうなのかしら?」
「おいおい、本当に貴女巫女? 世の信心深い迷える子羊達を敵に回す気かい?」
「その子羊達に逃げられて幻想郷に来たくせに。」
(相変わらず口の減らない素敵な巫女だ。先程の演説をこの場で聞かせてやろうか。)
「何しに来たのよ。」
「……博麗の巫女よ。折り入ってやってもらいたいことがある。」
神奈子は真剣な面持ちで霊夢を見据える。
だが霊夢は箒の柄の先で遊びながら、神奈子の方を向きもしない。
「これから早苗がここに来るわ。果し合いという名目よ。貴女には全力で迎え撃って欲しいの。」
ここで初めて霊夢は神奈子と眼を合わせた。と言っても霊夢は流し目である。
「……はぁ~~っ。諏訪子もそうだし、あんた達は巫女を可愛がり過ぎよ。羨ましいのやら羨ましくないのやら……。」
「まったくもって面目ないのは充分承知している。何分あいつは不器用なのよ。」
「それはあんたも、でしょ。早苗も苦労するわ。」
霊夢はもう一度大きな溜め息をして、空を見上げた。
朝日は完全に顔を出し、群青色など何処にもなかった。
ただ、明星がしつこく輝やいていた。
神奈子は黙ったまま霊夢の次の言葉を待っている。
「良いわよ。コテンパンにしてやろうじゃない。後悔しても知らないわよ。」
「博麗の……。」
「あんたの分社のお陰でちょっとはお客増えたし。それにね……。」
霊夢は神奈子の顔を見ない。
「……家族は、大切にするものだと思うわ。」
神奈子は、霊夢の顔を見ようとはしない。
「立場上、ただの人間一人に頭を下げる事はできないが、言いたい事があるわ。」
空の明星はまだしつこく居座り続ける。
「ありがとう、霊夢。」
鳥居から境内へと風が流れる。
早朝とは言えども、春先の風は新芽の香りを纏って、一人と一柱を包む。
それはなんともむず痒いけど、指先で感じる暖かさに似ていた。
霊夢は、明星が未だ衰えを知らず輝いているのに気付いた。
「山菜っ、山菜持ってきなさいよ。絶滅させるほど持ってこないと承知しないわよ。」
「ああ、今度酒と共に持ってこよう。守矢神社総出でもてなしてやるわ。」
「ふふふっ、それは楽しみね。」
年齢に見合った霊夢の笑顔。
この少女だけでなく、人間には笑顔が一番似合うと思う八坂神奈子だった。
「ということで、はい、これ台本。」
「……えっ?」
「設定は貴女がひもじさに負けてうちの神社に逆恨みする、ってことで。」
「誰が万年金欠貧乏腋巫女よッ!」
「そして私はそれに手を差し伸べる☆神☆ 早苗は正義に仕えし風の使者。」
「私の感動を返せぇぇ~~ッ!!」
空に響くは虚しき心の叫びか、はたまた嘆きの遠吠えか、その両方か。
浮かび見守る明星は、力亡くして消え失せた。
「な、なんでこんな事になったんだっけ……?」
軽い痛みが残る額に手を置き、早苗は下を見やった。
神奈子に挨拶してから後の記憶が曖昧だったが、もうここは博麗神社の真上。
神社の石畳の上には、霊夢が仁王立ちで待ち構えている。
その顔はものすごく不機嫌そうで、なぜか足元には細切れになった紙切れが無数に散らばっている。
「……? 果し合い、そうよ、果し合いをしにきたのよね、私は。」
不自然な記憶の配列から『果し合い』という言葉が浮かび上がる。
とにかく霊夢と果し合い。それの割には、自分がジャージ姿なのが気になる。
「さっさと降りてきなさい! コテンパンにしてやるわ。」
何時になく語気を荒げる霊夢に、早苗は己の使命を再確認した。
「霊夢、信仰はお賽銭だけではありませんよ? 執着は盲を呼び、物事の……。」
「御託はいいから、始めるわよ。スペルカード枚数を宣誓なさい!」
「ちょっと! 話くらい聞きなさいよ! こういうのは雰囲気が大事なんだから。」
「こちとら朝っぱらから純情を弄ばれてハラワタ煮えくり返ってるのよ!」
霊夢は御札と陰陽玉を取り出し、臨戦態勢に入る。
明らかな敵意と迫力に、早苗は少し怖気づく。
「まっ、待ちなさい!」
「……。どうしたの? まさか怖いなんて言うんじゃないでしょうね、変な格好で。」
「変って……! 腋出した巫女服の方がよっぽど変じゃない!」
「誰が白湯啜りの極貧腋巫女よッ! 背中に注連縄、カエルの帽子! あんた周り見たことないの? 変な神様ばかりじゃない!」
「神奈子様と諏訪子様をバカにしたな! もっ、もう許さない!!」
早苗は御幣とスペルカードを取り出し、霊夢に見せつける。
先程の霊夢への恐れはなく、代わりに守矢の二柱を貶された怒りが向けられた。
「スペルカードは五枚ッ!」
「私は六枚ッ! さぁ、始めるわよ。まずは一枚目……ッ!」
相対する二人は同時にスペルカードを掲げ、宣誓する。
夢境『二重大結界』ッ!
奇跡『客星の明るすぎる夜』ッ!!
互いのスペルが具現化し、早朝の博麗神社に弾幕の嵐が吹きすさぶ。
早苗と霊夢はその身を空中に投じて雷鳴のようにぶつかり合った。
弾幕戦が、始まった。
※
朝霧も晴れた湖の畔、諏訪子は二周目を終えて戻ってくるであろう早苗を待っていた。
一周目の時は声を掛けられなかったから、大いに労ってやろうと思っていた。
スタート地点と定めた岩に腰かけ、彼女を待つ。
きっとへろへろになりながらも、笑みを自分に向けてくれるだろう。
早苗はいい子だ。そんな事は、生まれたときから早苗を見てきた諏訪子にとって、言われるまでもない当たり前の事だった。
人と違う力に翻弄され、だがそれに屈することなく耐える強さを持っていた。
他人の心を汲み取り、自分のことを省みないやさしさがあった。
なにより、諏訪子は自分を見ることの出来る早苗の存在を愛した。
それに気付いた時の事は、今でも鮮明に憶えている。
生まれたばかりの幼き赤子。
神奈子への拝謁のとき、神奈子の後ろに居た諏訪子は赤子と目が合って鳥肌が立った。
近づいて手を左右に振れば、小さな手でそれを追いかけ、諏訪子は自分の鼓動が早まるのが分かった。
人差し指を握られたら、涙が止まらなかった。
神奈子に軽く咎められすぐ手を離したが、遠ざかることなど出来なかった。
久しく忘れていた人のぬくもり。数十年間味わえなかった感覚。
この小さい小さい赤子は私という存在を受け入れてくれた。
薄まり続ける洩矢の血と、光陰早き時代に取り残された私を。
その儚げな両眼で見つけてくれた。
諏訪子にとって、それは何物にも変えがたい存在であった。
それから数年、なるべく接触を避けて見守ってきた。
諏訪子は祟り神であるミシャグジの化身だ。
有象無象、魑魅魍魎の行き場無き恨みや憎しみ、それらが人に向けられれば祟りとなる。
諏訪子はミシャグジを制御できると共に、諏訪子本人にも祟りが集まり、自身の意識無く広めてしまう。
だから、早苗が自衛の術を身に付けるまで、手を触れることはもちろん、一目会うことさえ我慢してきた。
それがお互いにとって一番の良策と信じて。
神奈子の言ってたことは、理解できるのだ。
早苗はあの頃よりも成長したし、家の者の中でもずば抜けた能力を発揮した。
正直、今の世であれば早苗にはもう、自分の力は必要無いのだと思う。
『……でも今は違うはずよ。早苗とちゃんと向き合いなさい』
そう、あの時とは違う。
分かってはいるが、納得出来るかどうかは別だ。それが早苗のことなら尚更だ。
「それでも私は、あの子に何をしてあげられるだろうか……。」
諏訪子は岩の上で、膝を抱えて項垂れる。
自らの存在、早苗のこと、そして忘れられぬ悪夢。
全てを一度に解決できぬ己の神徳の無さに、腹が立った。
「あら、まだこんな所にいた。」
「……何よ? 今は貴女と話したい気分じゃない。」
小さく縮こまる諏訪子に、話し掛ける声があった。
諏訪子が見上げると、そこには先程自分に説教した女の姿があった。
「もう勘弁してくれな……。早苗には気を掛けるようにするから……。」
「…………。」
「分かってるから、なんとかするから、どうにかするから。」
「貴女の弱音なんて聞きたくないわよ。」
「…………。」
「早苗はここには来ないわ。今頃麓の巫女と弾幕ってるわね。」
「 」
今の今まで頭の中に蠢いていたものが飛んでいくのが分かった。
「なんて!?」
※
神霊『夢想封印 瞬』ッ!!
霊夢のスペルが容赦なく早苗を襲う。
「くッ、このッ!」
すでにこれで霊夢のカードは三枚目。
ここまでなんとか引き出してやったが、早苗も弾幕に追い込まれスペルカードを使わざるを得なかった。
これで早苗は二枚目だ。
秘法『九字刺し』ッ!
スペルは格子状のレーザー弾幕を形成する。
レーザーは隙間無く前方を覆い霊夢のスペルを相殺した。
続いて発生する螺旋状の弾幕が無防備な霊夢に飛んでいく。
「甘いわよ。」
そう言う霊夢は最小限の動きで早苗の弾を避けてみせた。
弾幕の隙間は殆どなかったはず。
だが線を描くように回避経路は正確だった。
その動きは被弾面積が小さいように錯覚させる。そんなはずは無いのだが。
「なんで、当たらない!?」
「神様の御加護があるのかしら?」
霊夢は御札と陰陽玉を交互に射ち込み早苗に接近してきた。
「またバカにしてッ!」
早苗もこれに応戦するが陰陽玉の変則的な動きが邪魔をする。
結果、霊夢の接近を許してしまった。
「うわッ! …………!?」
霊夢は高速で早苗のすぐ横をすり抜けていった。
不意を突かれ慌てて振り向くが霊夢の姿が見えない。
「よそ見してるんじゃないわよ。」
声は早苗の上方から聞こえた。
宝具『陰陽鬼神玉』
霊夢の静かな宣誓に反して、恐ろしく巨大な陰陽玉が現れた。
一瞬反応が遅れた早苗が見上げた時には、すでに霊夢の腕が振り下ろされていた。
極大陰陽玉が急速に落下してくる。
「いいッ!?」
迫る陰陽玉に対して、早苗は打てる手段が少なかった。
「早苗……。」
諏訪子が見たものは巨大な陰陽玉が早苗に迫る場面であった。
どうして早苗が麓の巫女と弾幕ってるのか? 神奈子に問い質したが一向に要領を得なかった。
神奈子など放っておけと意識が叫び、その場からすっ飛んできたのだ。
あの陰陽玉は早苗を押し潰す勢いだ。
しかし、次の行動に移り切れない早苗はその場で固まってしまっている。
「早苗ッ!」
諏訪子は叫び、早苗を助けようと身を躍らせる。
しかし、それは右手首を捕まれ未遂に終わる。
「手出ししなさんな。」
「神奈子、お前神社の分社から……! 何故邪魔をする!」
諏訪子を制止したのは神奈子だった。
神奈子は博麗神社に建立した守矢神社の分社を介して、山から移動してきたのだ。
その手には力が籠もり、易々と剥がせそうにない。
「今早苗を助けてどうする。また半端に手を出して後悔するのか?」
「それどころじゃないだろ! 早苗がッ!」
二柱が居る位置からでは陰陽玉の影に隠れて早苗の姿が見えない。
諏訪子は神奈子の手を振り解こうと力一杯動かすが、ビクともせずに離れない。
「絶対に手は出させない。諏訪子、早苗を信じなさい。」
「……ッ! このッ!」
巨大陰陽玉は早苗の姿を隠したまま、目下に広がる森へと落ちていく。
「早苗を、信じるのよ……。」
神奈子の手に、一層力が籠もる。握った腕が震えるほどに。
陰陽玉は森に落下した。
だが勢いを緩めず、移動方向を変え突き進む。
「上手く逃げたみたいだけど無駄よ。それはあんたに当たるまで追いかけ続ける。」
霊夢が状況を感じ取り、静かに呟いた。
早苗は間一髪、森の中に逃げ込んでいた。
だが霊夢の言う通り、陰陽玉は木々を薙ぎ倒しながら早苗を追いかけてくる。
「森に逃げたのが仇になったわね。そこじゃろくにスピードが出せないでしょう。」
森は木々が乱立していた。人間の手が入ってない森は木の一本一本が勝手に伸び、生存の為に自らを主張させ、他の木より高く伸びようとする。
「わっ、こんなにっ、ひどい、なんてっ!」
そこにさらに蔦が絡み、背の高い草が群生し、森はまるで大きな蜘蛛の巣になって早苗の行く手を遮ってしまう。
ここじゃそれらに邪魔され速く飛べない。
このままではいずれ陰陽玉に押し潰されてしまう。
ぎりぎりで避けるも、かする草木は刃と化し、早苗の頬や手を裂いていく。
「このままじゃ、反撃出来ない……!」
かといって上昇してもそこには霊夢がいる。それでは陰陽玉と挟み撃ちだ。
陰陽玉を破壊するにしても、その隙を突かれたらひとたまりもない。
早苗は何か手があるはずだと、考えあぐねた。
森を隠れ蓑に反撃出来ないか……。あるいは霊夢の予想を超えるような……。
「そうだ、諏訪子様の真似をして……。」
早苗は先程諏訪子が起こした緑のトンネルを思い出した。
あれなら木々を操り、進路を確保出来れば陰陽玉から逃げられる。
「上手くすれば霊夢を出し抜ける……!」
しかし一度諏訪子に見せてもらっただけだ。
どのようにするか教えてもらってさえいないのに、出来るかどうかは分からなかった。
(思い出せ、諏訪子様の力の使い方……。あれは操るというよりも……。)
あの時の感覚をよく考えろ……。
自分はこの森でどういう存在なのか……。
屈服させるのではなく、草木の存在を尊重し、そのうえで己の我を通す感じ。
諏訪子様は草木に命令ではなく、信頼を寄せていた……。
「 ……ッ!! 諏訪子様ッ!」
巨大陰陽玉が地響きと共に動きを止めた。理由はただ一つ、目標にぶつかったのだ。
「……少し、やり過ぎたかしら。」
霊夢は後頭部に手を回し、申し訳なさそうに呟いた。
自分でやっておきながらとは思うが、やってしまったものは仕方がないとも思う。
「お~い、さ~なえ~、だいじょぶか~。」
とりあえず、陰陽玉に近づく霊夢。遥か上方からの視線が痛い……。
その視線は諏訪子のものであった。
結局、神奈子に右手を抑えられ、早苗の元に行けなかったのだ。
一度目の危機はなんとか抜け出せたようだが、今度ばかりは状況が物語っていた。
「……いい加減、放したらどうだ……。」
諏訪子は左手に鉄輪を構えている。
「…………。」
神奈子はずっと陰陽玉を見つめ、尚も諏訪子を掴む手を放そうとしない。
その態度に、諏訪子は歯噛みする。
「お~い、とうふや~。 ……?」
早苗の名を呼び、姿を探していた霊夢はあることに気付いた。
この陰陽玉、いつまで居るのであろうか。もうそろそろ消えてもいい頃だ。
早苗に衝突してればとっくに消えていいはずなのに。
「あれ?……うそ。」
「神様は、嘘なんて吐きませんよ?」
声と共に風が舞い、木々のざわめきが拡散した。
霊夢の後ろ、大きく茂っていた林が割れた。そう、木々が左右に綺麗に分かれたのだ。
その中心に『祀られる風の人間』東風谷早苗の姿が現れ出でた。
「さぁ! 反撃開始ですッ!」
「なによそれぇ~!?」
開海『モーゼの奇跡』ッ!!
「奇跡を起こすのが私の仕事ですからッ!」
具現化した弾幕はスペル名通り、左右にうねり狂う波を造る。
慌てふためく霊夢は荒波のあいだで立ち往生だ。
「今ですッ! それ!」
銛のような弾幕を霊夢に放つ。
左右の動きを制限されるも絶妙なバランスでそれを霊夢は避ける。
「ちょ、ちょっとタンマ!」
「問答無用! それ! それッ!」
二本三本、さらに四本五本六本と銛の波状攻撃を繰り出す。
「こいつは驚いたよ……! 早苗もなかなかやるじゃないか!」
早苗達の遠く上方から神奈子は感嘆の声を漏らす。
神様二柱は早苗の復活に大いに驚いた。
諏訪子など手に持っていた鉄輪を危うく落としそうになり、今も口をあんぐり開けている。
「早苗は貴女の真似をして草木を操った、そうだろう? 諏訪子。」
そう、早苗は森の木々、蔦や草を操り陰陽玉の動きを止め、さらに己の姿を隠した。
諏訪子の起こした奇跡を、見事自分のものにしたのだ。
「そう、そうだけど……。私教えてないし……?」
諏訪子は未だ信じられないといった顔をしている。
そりゃあ実際見せてはみたが、それはつい今朝の話で、ここまで早く己のものにするなんて。
諏訪子は早苗の息災を喜ぶ間も無く、早苗の能力に驚いた。
「ときに人の子は驚くような早さで成長するわ。まるで羽が生えたみたいにね……。」
「成長……か……。」
「早苗は人の子だわ。神に人は必要だけど、人に神は必ずしも必要ではない。それは私も貴女も痛いほど実感してきた。」
「…………。」
諏訪子は小さな小さな赤子を思い出した。
「早苗にも、私たちはもしかしたら必要ないのかもしれないわ。幻想郷に来て、少しあの子は変わった。自分は特別ではないと気付いた。」
その赤子は開いたばかりの小さな眼で、諏訪子の姿を見つめていた。
「同じように、ここでは新しい信仰を見つけることができたわ。私たちも変わる時かもしれない。変わらなければいけないのかもしれない。」
諏訪子の指を掴む小さな手の、なんと温かいことか。
「人の命は儚く短く強いものよ。その意思は愚かで卑しく高貴なものよ。だから私たちは人を掬い救う。人を信じられる。人は成長するものだから……。」
小さな手の、なんと力強いことか。
「……違う。」
小さな手は今や大きく、より温かく、より力強く……。
「早苗には私たちが必要だよ。だって私たちは……。」
諏訪子は森を見下ろす。
その森では、早苗が霊夢と力強く、戦っている。
「家族だから。」
森に轟音が響く。早苗のスペルが巨大な陰陽玉を粉砕した。
「こなくそッ! どーだ、避け切ったわよ!」
流石は幾多の異変を解決してきた巫女である。
不意を突かれた状態で、あの弾幕を避けるとは、早苗も驚きを隠せない。
「……ですが、陰陽玉は破壊させていただきましたよ。」
これで早苗は霊夢の四枚目のスペルカードを突破した。
だがその為に早苗もカードの三枚目を消費してしまった。
元々霊夢めがけて撃った銛がその後ろにあった陰陽玉に命中したのだ。
霊夢は撃墜出来なかったが、もうあの玉に追いかけられる事はない。
「続いていきますッ!」
「調子に乗るんじゃないわ、私も五枚目ッ!」
早苗と霊夢は競うように上昇する。
準備『サモンタケミナカタ』ッ!
大結界『博麗弾幕結界』ッ!
またも両者同時にスペルカード宣誓。瞬間、弾幕が現れる。
早苗のスペルは弾を三重の星型に飛ばす。
そこから大きさが違う弾が数種飛び散り、相手の避けを惑わす。
一方の霊夢のスペルは完全に待ち受け型の弾幕。
霊夢を中心に結界が現れ、内側に居る敵に弾幕を浴びせる。
「そのスペル、貴女に近づかなければどうってことないです!」
早苗は距離を置き、弾幕を放ち続ける。
そこであれば霊夢の攻撃は届かないと思われた。だが。
「だから、甘いって言ってるの。」
「えっ。」
早苗に赤と白の弾幕が襲い掛かる。
すでに早苗はもう、霊夢の結界内に入っていたのだ。
弾幕結界は早苗の予想より遥かに大きく、四方数十メートルにも及んでいた。
「くぅ、でもパターンを読めば……ッ!」
前後から飛んでくる弾幕にはパターンがあった。
前方の弾が来る瞬間、後方に避ける隙ができる。後方の弾はその逆だ。
早苗は避けながらも懸命に弾を星型に放つ。
「そんなもの、当たらなければどうってことないですぅ~。」
早苗の弾幕はその殆どが霊夢の弾幕に相殺される。
霊夢まで届いてもスカスカで容易く避けられてしまう。
「早苗のマネ。」
「真面目にやりなさいッ!」
余裕の霊夢に対し、早苗は弾避けに必死だ。
さらに息も荒れてきた。ここへきて早朝ランニングが響いてきたようだ。
「あら、疲れてきた? 私はカードもう一枚あるのよ?」
笑みをこぼす霊夢に早苗は作り笑いを投げ返す。
「私もまだいち、枚残って、ます。お忘れ、なく……ッ。」
「……あんたもさぁ、神様二人に振り回されて大変ねぇ。」
「どういう、意味です……。」
「だから、どうして人間のあんたが信仰、信仰って必死になるのかって。神様に助けて貰えばいいじゃない。ただの人間として生きる手もあるわ。」
本当に巫女の台詞とは思えないが、今の早苗にそこを考える余裕はない。
弾幕は未だ止まず早苗に降り掛かる。
「簡単な、ことです、よ……ッ?」
「ほほう?」
疲労困憊で俯いていた早苗が前を向いて霊夢を見据える。
その目には消えない星が輝いていた。
「お二人が、私の家族だからです。」
「続けて続けて。」
「家族は支えあって、生きるもの。……人が生きる理由は『誰かの為』で充分です。」
幻想郷には家の者は誰もついて来なかった。……つまりはそういうことだ。
でも早苗は批難しない。あの人たちも誰かの為に生きていると信じているから。
「一人で生きるなんて、自分の為に生きてるなんて、言わせない……!」
そして二柱の為に生きることを許してくれた、両親に感謝していた。
「それが、わっ、私の信仰ですッ!」
ついに弾幕の嵐が止んだ。
早苗は霊夢のスペルを耐え切った。
「……格好いいこと言ってくれるじゃない。そんな変な格好で。」
早苗のジャージは森を突っ切ったので泥だらけだった。
「ですからぁ、腋出した巫女服の方がぁ、よっぽど変なんですってばぁ……。」
「誰がぐーたら乱弾撃ちの頭が紅白貧乏腋巫女よ。あんただっていつもは似たような格好じゃないの。」
「そうですよ、私は守矢の風祝、ただの巫女に負けるものですか!!」
早苗は不屈の笑みで最後のスペルカードを引き出す。
霊夢も不敵に笑いスペルカードを取り出す。
「私に喧嘩売るなんていい度胸してるわ。来なさい、お互い最後の一枚ッ!」
大奇跡『八坂の神風』ッ!!
『夢想天生』ッ!!
弾幕の華がひらく。美しい弾幕が一斉に乱れ咲く。
それは弾幕で彩る幻想の戦い。現という夢に生きる者たちの戦い。
自我、夢、心、プライド。人の形、生、死、混沌。希望、永遠、絶望。信仰、優しさ。
その全てを幻想郷は受け入れる。
それはそれは残酷なことですわ……そして、
「いけーッ! 早苗ぇーッ!!」
諏訪子の声が聞こえた。
※
……? 誰かが私の手を握ってる。
ごめんなさい、私、今疲れてて、握り返す事が出来ないんです。
なんだか目も開けられないし、歩こうにも、足が、前に進まないんですよ。
これでも進もうとしてるんですよ? 可笑しくなっちゃいます。
というか、私、今、立ってるんですか? それとも、寝てますか?
どうでもいい事かもしれないけど、私には大切な事なんです。
どうですか? 私は立って歩けてますか? あなたの目にはどう映ってますか?
……何も聞こえないけど、きっと誰かが見てくれています。
あ、でも大丈夫です。私は大丈夫なんです。
ほら、分かります? 見てください。私の顔。見てくださいよ。
かわいく笑えてると思いません? あなたに見えてますかね?
今は、何も出来ないけど、ここが何処かも分からないけど。
私はこんなに笑顔でいられますよ。あなたは、どうですか……?
だいじょうぶ、だいじょうぶ。こんなにあったかい手をしてるから。
ほら、あなたはだいじょうぶですね。
※
早苗が目を開けたら、そこは空の上だった。
眼下には人里が見える。河も見えた。
(……そうだ、村でお買い物しないと。お酒がきれてたんだ。)
そう思い、手を伸ばすとバランスが崩れて視界が揺れた。
「おっとっと、起きたかい、早苗。」
「…………諏訪子様、私お買い物しないと。」
「あ~? それは後で良いよ。先ずはうちに帰ろうな。」
諏訪子にそう言われ、早苗は静かに諏訪子の背に顔を埋める。
空の上で太陽が近いからだろうか、諏訪子の背中はとても温かくて落ち着いた。
(……?)
早苗は急に体を起こし、諏訪子はまたバランスを崩してよろけてしまう。
「諏訪子様!? 私おんぶされて、えぇ??」
「改めておはよう早苗さん。」
「降ります、降ります。」
「いいよぉ、早苗重くないから、大丈夫さな。」
早苗は諏訪子におんぶされ、空の上にいた。
仕えるべき神様におんぶされて申し訳ないのか、早苗はすぐに降りようとする。
だが諏訪子は足を怪我してるからと言って、降ろしてくれない。
早苗は恥ずかしがりながらも、諦めて諏訪子に体を預けた。
「……負けちゃったんですね、私……。」
「うん、惜しかった。博麗の最後のスペル、あれはズルイよ。」
諏訪子は笑いながら言う。
だが、早苗は逆に肩を落として残念そうに言う。
「霊夢が強いのは分かっていました。前に負けましたからね。」
「うん。私も。」
「それでも、戦って、また負けて。」
早苗の声が震えている。
「お二人の、力になる、って、自分で、決めたのに……。」
「うん。」
「ぐすっ、うええぇぇ~~……、わああぁぁぁ~~……!」
「…………。」
早苗は耐え切れずに感情を溢れさせた。
一度火が着いたら自分では止める事が出来ず、ただただ止むのを待つしかない。
「ひぃぃぃ~っ、ひっひぃぃぃ~~……っ!」
涙は昂ぶる感情に合わせ、脈打つように流れ出る。
声は上ずり、意味のない言葉が喉を振るわせる。
「早苗、ねぇ早苗。サーカスの時のこと、憶えてる?」
「ひっっ、ぐずぅ……ひっく……。」
「迷子になって、一所懸命に探して。それでも見つからなくてしゃがみ込んで。」
「うっく……、うう~……ひっく。」
「私が声を掛けたら、今と同じような顔しててなぁ。よいしょっ。」
諏訪子は早苗がずり下がってきたので担ぎなおした。
「あの頃からだいぶ大きくなった。こんなに重くなった。」
「……ひっ、やっやっぱり……降りますっう。」
「いいよいいよ。……あの時は私も我慢出来なくて、つい手を出してしまった。」
早苗は涙を拭いた。思いがけず自分の疑問の答えを聞けるのだ。
泣いてる時ではない。
諏訪子は静かに語りだした。
「私は分かっていた。私が手を貸せば早苗が憑かれることを。後で早苗が辛い思いをするって分かっててやったんだ。助けてやりたかった。その時はその一心だったけど、早苗が憑かれてからは何もしなかった。私は、お前を見捨てたんだ。苦しんでる早苗を横目に私は眠っていた。私が側に居ればさらにお前に祟りを与えてしまう。これ以上、辛い思いをさせたくなかった。」
寝ているあいだ、諏訪子は夢を見ていた。
幼い早苗が何も言わず、じっとこちらを見ているのだ。
悪夢に等しかった。
「そして、お前が憶えていないのをこれ幸いと黙っていた。卑怯だろう、神にあるまじき行いだ。忘れてしまうほど早苗は辛かったのに、私は都合が良い方に逃げたんだ。早苗が術を身に付けてからも、私は力を貸すのを拒んで逃げた。またあのような事になるのが怖かった。早苗と離れ、またあの棺桶のような狭い場所で、眠ることがたまらなく恐ろしくなった。次に起きたら、今度こそ早苗は私を完全に忘れてしまうのではないかと、想像するだけで足が震えたよ。だから力を貸さない、貸したくない。全部自分の為だ。早苗の為なんかじゃない、自らの保身の為にやった。」
懺悔のような独白が終わった。
諏訪子はそれ以上何も言わず、空の上を守矢神社に向けて飛翔する。
背中の早苗も顔を埋めたまま黙っている。
幾ばくかの時間が流れ、先に堪えきれなかったのは諏訪子だった。
「さな……」
「どうして、私が今泣いてると思います?」
「早苗……?」
「私が霊夢に負けて悔しくて泣いてるって思ってるんですか?」
「…………。」
早苗の声は諏訪子にこっち向くなと知らせている。
諏訪子はそれには気付けたが、早苗の発言の意図が分からなかった。
「ち、違うのかな?」
「……半分は当たってます。あの貧乏巫女に一矢報えられなくて悔しいです。」
その声の様子から、なんだかどうでもよくなった感じがある。
「あの貧乏巫女めぇ~、どんなに撃ってもスルスル避けて、あの人一体何なんですか?
信仰は絶対ウチが勝ってるのに~。くそぉ~!」
「早苗、落ち着いて早苗。」
早苗は諏訪子の背中で鼻をすすりながら腕を振り回す。
なにかスイッチが入ってしまったようだ。
「諏訪子様ッ!」
「は、はいッ!」
「私は、諏訪子様のお力を借りれなくてあとの半分泣いてるんです。それなのに、昔のことなんて掘り返して、私が迷子になった、なんて恥ずかしいじゃないですか!」
「あーうー……。」
諏訪子は早苗の迫力に押され気味だ。
鼻を垂らしながら怒る早苗はそれなりに鬼気迫るものがあった。
「私はですね、諏訪子様。あの時私を見つけてくれて嬉しかった。周りが知らない顔ばかりで私は不安で不安で、本当はみんな私を見てるんです、でも、みんな知らんぷりして通り過ぎてく。世界にただ一人取り残されたみたいな気がして、世界には私だけが居ない気がして、寂しくてしかたなかった……!」
「早苗……。憶えていたのか……。」
早苗はまた涙を滲ませた目をしていた。
必死に両腕で拭うけど、また止まらなくなってしまった。
「ぐず、そんな時に諏訪子様は私に手を差し伸べてくだざっだ! ひっ、いつまでも一緒に、居てぐださっだ。ずっど、ひっぐ、手を握っでいてぐれた……。わた、私は、うううっ、うれじかったから……私を見づげでぐれて、本当にうれしかっだから……!」
どんどんどんどん溢れてくる涙を、早苗はもう拭う事を止めていた。
もう遠慮することなどない。
早苗は世界一の幸せ者だから。
霊夢や魔理沙より、幻想郷の住人より、それに元いた世界の誰よりも幸せだと、確信していた。
天狗の新聞に載せてやろう。なんなら大声で叫んでやったって構わない。
東風谷早苗は世界で一番幸せです、と。
「な、なのに、ひっぐず……諏訪子様は、ま、まるで私と会わなければ良かっだみだく言って、ううぅ~ほんどに自分のごどばかりでぇ。私、わだし、私たちは、家族、なのに。ひっひいいぃぃぃ~~~~……っ! わああぁぁぁぁぁぁぁ……ッ!」
「……すまない。ごめん、ごめんね、早苗。悪かったよ。」
諏訪子は思い知らされた。
この少女は自分と同じ寂しさを味わったのだ。
孤独という、檻の中で生きているにも関わらず、まるで存在しないかのような扱われ方。
存在を知っていながらそれを否定する。
その否定された者が味わうもの、それが本当の孤独だ。
孤独とは己自らが見つけるものじゃない。孤独は他人から与えられるものだ。
その生々しい悪意は、年端もいかぬ少女に与えていいものではない。
少なくとも諏訪子の知っている早苗には必要じゃないし、唾棄すべき行いだ。
自分が拒んで逃げた結果、それを分かってやることが出来なかったのだと。
そして、自分を見つけてくれたことへの喜びを。
その者への感謝を、この少女は知っている。
「ごめんな、早苗。」
この話をし始めてから、謝るつもりなんて諏訪子にはなかった。
許されると思ってなかったからだ。
だが、もう諏訪子には謝るしか出来なかった。
「ひいい~、ひ~……うぐっ、ぐす、ううう……。」
「早苗……?」
どうやら、早苗は泣き疲れて、また眠ってしまったようだ。
体力も消費していたし、無理もないように思えた。
「……どうやら、神奈子の言った通りだったな。」
春先の、心を透くような風に、一人と一柱の髪がなびく。
寝静まった早苗は微かな寝息をたてて、暖かな背中で夢を見る。
「人は成長する。私たち神格の思いを越えて、大木のように力強く。」
早苗は手を繋いでいる。あったかくて、懐かしさを感じさせるあのヒトの掌だ。
両の手にそれを感じながら、早苗は三人で歩いている。
「私たちはそれを見守ればいい。信じてやればそれでよかったんだな。」
そうだ、あのとき言えなかったことを言おう。
私を見つけてくれたことに、私といっしょに居てくれてことに。
こんな幸せを授けてくれたことに……。
「早苗、ごめんな。……でも、それ以上に……。」
ありがとう。
※
博麗神社の鳥居の下。霊夢はそこに腰掛けお茶を啜っている。
一応、うちで一番いい茶葉だ。お客には絶対に出さない、自分用の茶葉。
神社の階段が悠々と連なっているのが見える。その奥には幻想郷の全体が見渡せた。
「悪役ご苦労。なかなか様になってたわ。今度は貴女が異変を起こしてもいいかも。」
またも神奈子が霊夢の後ろに現れる。
いつもいつもしれっと出てくるので、これでは幽霊と変わらないと霊夢は思った。
「……役、じゃないわよ。八つ当たりに近いのよね。」
「ふーん。そうか。」
「さっき紫が来たわ。なんだか訳分からない事言ってたから追い返したけど。」
「ふむ、境界の賢妖か。そういえば居たわね。」
八雲紫は妖怪側の幻想郷を守護する存在。人間側は霊夢だ。
同じような立場とはいえ、その行動力は霊夢とは正反対であった。
だが、肝心なことは何も語らない、そんな不気味さも持ち合わせていた。
「……何か思う所があるのかな?」
「…………。」
霊夢は無言でお茶を啜る。
「……戦ってる途中からね、早苗が羨ましく思えたの。なんだか分からないけど。」
「そうか。隣、座るわよ」
「あの子はあんなに必死になってでもやることがあるのね。私には無いから。」
「そうか。」
「私には必要の無いものだって、紫が言っていたわ。それがなんなのかすら私は知らないのに。」
「そうね。」
「……私は何も知らないのね。」
霊夢は湯飲みを見つめる。
中に入ってるのは高級なお茶。誰にも飲ませない、自分だけのお茶。
それがぐるぐるぐるぐる、霊夢に暗示を掛けるように渦を巻いている。
「何も知らなければこれから知ればいい、そう思わないかい?」
「でも、紫が……。」
「おや、あんな木端妖怪の言う事を鵜呑みにする博麗の巫女だったかしら。」
「…………。」
「本人が知らないだけで、周囲は気付いていることもある。例えば魔法使いや人形使い、吸血鬼や天人、果ては鬼までこの神社には集まってくるわ。あら、貴女にもあるじゃない?」
「……。それって……。」
霊夢は顔を上げた。そこには見渡す限りの幻想が広がっている。
「それって、みんな私のことが……。」
一瞬にして顔を赤らめる霊夢を、神奈子は面白そうに口の端を吊り上げて見ている。
言葉を濁した霊夢は一気にお茶を飲み干す。
「お茶がなくなったわッ! ちょっと淹れてくるッ!!」
神奈子に顔を見られないよう、俯きながら立ち上がり、霊夢は母屋に駆け出す。
自分は今どんな顔をしているだろう、神奈子に見られてないだろうか、そんな心配をしながら霊夢は振り返って大げさに叫んでみる。
「あんたも飲みなさいよ! いいお茶なの、今持ってくるからッ!!」
神奈子は座ったまま後ろ向きで手を振った。笑いを堪えるのに必死だった。
誰にも出さない霊夢だけの茶葉は、今や霊夢の中でなんでもなくなっていた。
魔理沙やアリスにも今度来たら出してやろう。
レミリアは渋い顔するかもしれないけど、無理矢理飲ませてやる。
早苗とも、仲直りしなくちゃ。早苗はお茶は好きだろうか?
すごく美味しいお茶の葉なのだ、みんなもきっと気に入ってくれる。
霊夢は考えることで頭が一杯になった。
「これで良かったかねぇ?」
どこからか、小気味好い扇子の開く音が、聞こえた。
※
いよいよ満開の春を迎えた幻想郷は、そこかしこに新芽を溢れさせた。
妖精たちは所狭しとはしゃぎ回り、呼応するかのように花が咲き乱れる。
春告精などは、本当に頭がおかしくなったかのように転げ回っている。
世は新しい季節を向かえ歓迎ムードで一杯であった。
春を謳歌しているのは人間も同じようで、様々な所で宴が開かれている。
特に桜の美しい博麗神社は毎日宴会をしていた。
居座る鬼が萃めたわけでもなく、勝手に集まって勝手に騒ぐ。
神社の巫女は五月蝿いと漏らしていたが、神社は笑い声が絶えることがなかった。
そんな春も折り返しを経て、人々の生活もようやく落ち着きを取り戻していたある日。
幻想郷はある噂で持ち切りになった。
「空に船が浮かんでる?」
「それがありがたい七福神を乗せた船で、金銀財宝を積んでるんだそうだ……。」
「いろんな所で目撃されてて、何かを探してるみたいだって。」
幻想郷の空に不思議な船が飛んでいるそうだ。
きっと何かの見間違いだろう、夢でも見ていたのでは?
そう突っぱねる者もいたが、実際に見たという者も少なくなかった。
現に、妖怪の山、頂上付近の守矢神社など……。
「……………。…………………………。」
「どうした、早苗。そんな口開けてると虫が入るよ。」
「…………………。」
「なに、何か面白いもんでも見え…………。」
「…………………。」
「…………………。」
早苗と諏訪子は、そのまま無言で社殿の奥で寝入る神奈子を叩き起こす。
「なによ、二人して。虫が入るわよ。」
嫌がる神奈子を引きずり、外に出た途端、一斉に空に向かって指をさした。
「なんじゃぁあれわぁぁぁっっ!!」
山に轟く絶叫を合図に、守矢神社で家族会議が始まった。
出席者は神奈子、諏訪子の二柱に風祝の早苗と天狗の射命丸文(?)。
「なに、なんなのあれ? 新たな侵略者なの? 朝廷の差し金?」
「落ち着いてください、神奈子様。ま、まずはデビルスタワーに向かいましょう。」
「早苗も落ち着いて。それより水辺の近くに居るほうが安全じゃない?」
「皆さん落ち着いてください。あれが今噂されている空飛ぶ宝船です。」
射命丸文は自らの手帳になにやら書き込み、ニヤリと笑って語り出す。
「以前から目撃されていましたが、ここ最近特に顕著な動きを見せています。なんでも何かを探しているのだとか……。」
「ほらやっぱり。私を探してるんだわ。昔、帝にやった悪戯を根に持ってるのよ。」
「な、何をしたんですか、神奈子様……?」
「寝てる間に歯の神経を全部剥き出しにしてやった。」
「なんて事を、神奈子、お前……ッ」
「だから違いますってば。兎に角、アレは怪しいです。直ぐに手を打ちましょう。」
文は立ち上がり、また手帳に書き込む。
「そういうのは麓の巫女に任せよう。うん。そうしよう。」
「それじゃ何時までたっても信仰は得られませんよ? ここは博麗より先に異変を解決し、幻想郷に守矢神社の実力を見せ付けるんです。」
「し、信仰……。」
「か、神奈子様……。」
「そこで早苗さん、あなたですッ!」
書き込むペンを早苗に向け、文は突然叫んだ。
「はい!」
「貴女この頃修行してましたよね? 今こそその成果を発揮する時では?」
「な、なるほど……。」
「早苗、大丈夫?」
頷く早苗に諏訪子は言葉を掛ける。
だが、早苗には確信があった。
行き当たりばったりなものじゃなく、心からそう思える確信が。
その思いに早苗の眼には消えぬ星が輝く。
「大丈夫です、なぜなら私には諏訪子様のお力がついているから!」
早苗は新しいスペルカード蛙符『手管の蝦蟇』を身に付けていた。
それは紛れも無く諏訪子の力、信頼の形だ。
「早苗~、私も忘れないでおくれよ~。」
「あああ、すみませんすみません。」
神奈子の力で得た蛇符『神代大蛇』も心強い。
「ふふふふっ、面白くなってきました……。」
「それじゃあ、行って参りますッ!!」
天狗の思惑など何処吹く風。
東風谷早苗は異変解決に喜び勇んで乗り出していく。
「早苗! 帝によろしくね!」
「あははは、早苗、いってらっしゃい! きっと素敵な物を見つけるよッ!」
二人の家族に見送られながら。
了。
「うむ、良きに計らおうとも。須らく努め上げよな。」
まだ霧晴れぬ早朝の境内。
そこには守矢神社の風祝、東風谷早苗ともう一柱、洩矢諏訪子の姿があった。
方や深々とお辞儀をし、方や小さい背丈を一杯に伸ばして胸を張っている。
昨日の夕飯、出てきた吹野等やタラの芽の天ぷらを前に、諏訪子はお預けをくらっていた。
早苗が、諏訪子の神力も貸して欲しいと切り出してきたのだ。
聞けば神奈子の神力だけでなく、諏訪子の神力も身に付け、守矢の風祝として信仰をさらに得ると共に、両二柱の力になりたいのだと言う。
そういう事は食事の後でも、と言おうとした諏訪子だったが、早苗の鬼気迫る目に見据えられてしまい、終ぞ言い出せなかった。
そして好物を目の前にしては、流石の土着神の頂点も首を縦に振らざるを得なかった。
『じゃあ、あした、あしたからな。……分かったからもう食べてもいい?』
早苗は明日からの修行の約束を取り付けたのだった。見事、海老で鯛を釣るを体現したのだ。
「ではまずは湖の周りをランニング。手始めに二周といこうな。」
「い、いきなりですか…。結構大きいですよね?」
守矢神社は湖から高い位置にある。
その為境内からは朝霧に曇り、たゆたう湖の姿を見ることが出来た。
「大体、周囲四里強といったところか。なぁに、昔のほうが大きかった大きかった。」
「(計算中)……。一周約16キロ、掛けることの二周か……。」
答えは早苗の胸の中に仕舞われた。口に出せば挫けそうなこともある。
「神力は一に体力、二に体力、三四が無くて五に体力よな。何事も基本が大切と云うだろう?」
「心技体バランス良く鍛えるとか、そういうのとかは……。」
「不思議なもので身体を鍛えるともれなく精神も鍛えられるという。」
「なにかのキャンペーンですか。」
「私も共に走ろう。さぁさ、行くぞ。夜露の引かぬうちでないと私が乾いてしまう。」
諏訪子は未だ覚悟の出来ていない早苗の手を取り、半ば強引に早朝のランニングを始めた。
学校に通ってた頃のジャージ姿で諏訪子に続く早苗。
前を駆ける神様といえばスカートに袖の長い服と、とても走るような格好ではなかった。
それなのに藪を越え、木々を避け、荒々しい獣道を飛ぶように駆け抜ける。
いや、よくよく目を凝らせば草木の方が諏訪子を避けているようだ。
諏訪子が足を上げる以前に藪は低く屈むし、左右に避ける以前に木々は反り進路を造る。
「ねこバス……!」
早苗は子供の頃に見たアニメの1シーンを思い出していた。
流石は土着神、自然を従えるのも容易いようだ。今更気付いたが、諏訪子は息さえ荒げていない。
「…………。」
それはまぁ、自然と、諏訪子のすぐ後ろを走りたくなるものだ。
早苗も類に漏れず、何気なしに進路を変え、諏訪子の直後に体を持ってくる。
「ん?」
「あっ。」
早々に気付いた諏訪子と目が合い、早苗もつい声を出してしまった。
正直すぎる反応を見て諏訪子に笑みが零れ、早苗は顔を赤らめて横に背ける。
「こらこら、それでは修行にならないよ。どら。」
諏訪子はスピードを緩め、早苗と並走する。
走りながら早苗の手を取り、自分の側まで寄せてやった。
すると早苗にも諏訪子の神力が得られたかのように、草木は二人は避けていく。
それは木々のトンネル、二人を包むほどに環を描いて、緑のトンネルが早苗には見えた。
夜露の残る葉、透ける緑が霧に霞んだ淡い日光を乱反射し、まるで万華鏡の中のようだった。
「うわぁ……綺麗……。」
目まぐるしく入り乱れる緑の光線は、一つになったかと思うと弾け別れて後方へと飛び去る。
早苗と諏訪子を取り囲みながら葉が踊り、枝々は弓を張り、また光に飲み込まれる。
その中では風もまた演者の一つに過ぎず、葉を舞い上げ、吹奏を歌い広げる。
まるで一つの物語のように自然が溢れ満ちては流れ行く。
その様子を瞬き出来ずに見つめる早苗はふと気がついた。
諏訪子が早苗の手を握りなおしたのだ。走りながらで揺れるから手が離れそうになってしまったからだ。
ただそれだけだったのに、伝わる体温が何かを思い出させる。
「…………? …………!」
早苗は一瞬のフラッシュバックに眩暈を覚えた。
微かな記憶だったものが大きく拡大し、早苗の目の前に現れる。
それは早苗が幼き頃に、一度だけ連れて行ってもらったサーカスだった。
ピエロが舞い踊り、ライオンやゾウが見事な芸を見せ、空中ブランコでドキドキした。
そこはやはり、光が入り乱れる万華鏡だった。
しかし夢のような時間の後には孤独が待っていた。
一斉に帰り支度する観客の波に呑まれ、早苗は両親とはぐれて迷子になってしまった。
見知らぬ顔、見知らぬ場所。
少女の心を揺さぶるには充分で、恐怖に耐え切れなくなって泣き出しそうになった、 その時だ。
『よく泣かなかったね。エライな。』
早苗に、手を伸ばす存在が居た。
姿は自分よりも少し背が高い程度、おかしな帽子をかぶった少女であった。
初めて見る笑顔にしては人懐っこく、そして何処かで会ったような懐かしい雰囲気。
早苗と比べても大差ない小さい掌は、結べば母親に似た暖かさを持ち、少女の恐怖を拭い去るには充分であった。
両親に出会えるまでずっと側に居てくれたヒト。
私の話を頷きながら、手を握って聞き続けてくれたヒト。
見つかった両親に紹介しようと、お礼を言おうと振り向いた時にはもう居なかったヒト。
(……そうだ。あの時初めて……。)
諏訪子に手を引かれ、早苗は緑光の万華鏡を見つめて呆けてしまった。
そしてそれ故に走ることを疎かにしてしまい、諏訪子にもたれ掛かるかたちになった。
バランスも悪いし、何より早苗の様子がおかしかった。
諏訪子は足を緩め、すぐに停止した。
「あっ、すみません。」
「どうしたの早苗。疲れちゃった?」
「そうじゃなくて、あの……私……。」
心配そうに覗き込む諏訪子を、早苗は何故か直視出来なかった。
「……いえ、大丈夫です。まだ途中ですから、走ってきますね。」
「無理しなくていいんよ……?」
それでも駆け出そうとしている早苗を、止めようとはしなかった。
修行を辞めさせる理由などいくらでも作れたが、早苗から言い出したことであるし、諏訪子が口にすることではない。
見れば足もしっかり踏み込んでいるし、先程までの雰囲気ももう無いように見えた。
森の中に消えていく早苗の背中を見送り、諏訪子は頬を少し掻いた。
(今日はこれでお仕舞いかな。)
諏訪子はこのランニングが終わったら適当な話でも作って、早苗を早めにあがらせることにした。
まだ修行一日目だ。急ぐ必要もないだろうと思われた。
諏訪子は守矢の社殿の方向に向き直った。
「寝坊助な。やっとこさ起きたと思ったら……。」
両足を力ませ、諏訪子は社殿へ向けて跳び上がった。
所謂、飛翔ではなく跳躍なので諏訪子は放物線を描いて落下する。
だがしかし、優に数kmの距離を一跳びで跨いでしまい、着地さえ静かにこなした。
下り立った境内は未だ夜露が残っていたが、本殿から漂う気配で、先程とは空気が変わっている。
諏訪子は本殿へと数歩近づき、そこの主に問い質した。
「覗き見るとは、些か好色が過ぎるのではないかな?」
「自分に仕える風祝を心配するのを悪く言わないでほしいわね……。」
守矢神社の表の主、八坂神奈子は、涅槃の格好のままで応えた。
足は畳の間からはみ出て、木の床まで投げ出していた。
起きたばかりなのか、欠伸をしている。
とてもヒトに対応する態度には見えなかったが、それが神奈子なりの神としての演出らしい。
実際、食事をする時など、礼節に最も煩いのが神奈子である。
やれ箸の使い方が悪い、肘を付いて食べるな、テレビを見ながら食事禁止。
それが原因で喧嘩になったのも二度三度ではない。
仕舞いには神奈子に仕える女児たちの躾をも自ら行う始末。食卓周りのみだったが。
「早苗なら見ての通り、湖の周りを走り込み中さね。妖精は多いが危険な妖怪など出やしないさ。」
「見ていたわ。なにやら良い雰囲気だったじゃないの。」
「呆れた、ずっと見てたのかい。……心配しなくても、手を出したりしないよ。」
「どうだかねぇ。」
神奈子はそう言って、口の端を吊り上げる。
その様はまるで、蛇が獲物を見つけて浮かれているようだった。今にも口元から舌が這い出てきそうで悪戯に諏訪子の心を粟立たせる。
「冗談はさて置いて。」
神奈子はふと真面目な顔をとり、投げ出していたその身を正して胡坐を組んで諏訪子に向き直った。
それを見て、苦い顔をしていた諏訪子も一先ず気にしないことにした。
「早苗は何故急にあんなことを言い出したのかねぇ。」
「たぶん、麓の巫女だろう。早苗はあれで負けず嫌いな分がある。」
「八百万の神々を身に降ろして月まで行ったって?」
「それに先日のサトリ妖怪の妹が来た時の件。あの盗人にも返り討ちにあったと。」
「魔理沙か。散々懲らしめてやったわね。別に早苗の仕返しってわけじゃないけど。」
「それとは関係なしに、納得するような子ではないさな。」
諏訪子は社殿の軒下に腰掛け、神奈子に背を向けて喋り始めた。
「あの子は良くも悪くも正直だから。外から来たというのもあるとは思うが、幻想郷の者達にライバル心を抱いてる。だのに未だ勝ててないからなぁ、でもそれを糧に日々の修行に身が入れば幻想郷に来た価値はあるだろう。」
「ええ。信仰の為、力になりたいというのも建前ではあっても嘘ではないのよね。」
「それなら心配する事もないだろう?」
「というかぁ……、貴女はどうなのよ?」
「私っ?」
神奈子の不意の問いに驚いて、諏訪子は後ろを振り向いた。
思ってもみなかった事なのでバランスを崩して右手を床に突いてしまった。
「早苗が力を使えるのは貴女からの血筋があるからよね。私が出来るのはそこに上乗せするくらいで補助的なもの。元々が諏訪子の力ならこの修行はあまり意味がないけど、貴女今まで早苗に力貸すの嫌がってたじゃない。」
「あー、それはー、うー、そのねぇ……。」
「早苗は自分が貴女の子孫だと知らないし、力もその殆どが自力なのに私から借りていると思っている。その事を話す気はないのでしょう?」
「…………。」
「諏訪子、貴女またどうとでもして、うやむやに終わらすつもり?」
神奈子の元来力強い眼が、今はそれに輪をかけて光を増し諏訪子を見据える。
諏訪子はといえば、突いた手を握り締め、帽子のツバで神奈子の眼力を遮る様に顔を下げている。
見える床の木目は複雑な紋様を描き、色合いを濁流のように感じさせた。
「あの時は仕方がなかった。でも今は違うはずよ。早苗とちゃんと向き合いなさい。」
「……その結果が悪くてもか?」
「それを決めるのは早苗よ。他の誰でもないわ。」
「見知った風な口を利くよな。全盛期の余力は失われたと思っておったが。」
「そのくらい分からずして何が神か。」
神奈子は、体を屈め、俯く諏訪子の帽子にゆっくりと手を掛けた。
「諏訪子、貴女もよ……。」
指を沿わせ、その頑なな帽子を持ち上げようとする。
だが、諏訪子が急に立ち上がったため、神奈子の手は空を切った。
「そろそろ戻らにゃ。……分かってはいるのだがな、すまん。」
「…………。」
諏訪子は賽銭箱を飛び越え、社殿から続く石畳の上でしゃがみこんだ。
「私は未だ踏み出せないでいるよ。忘れられないでいるよ。」
その身は、空高く跳躍した。
夜露も乾かぬほどの間であった。
「……幻想郷は全てを受け入れると言うがな……。」
言の葉は朝日に当てられ、掻き消えるように、誰も居ない境内に響いた。
やっと四分の三過ぎたろうか、早苗は息を整え余力を残す準備をした。
吐いた息は春先にしては重く白く濁り、朝霧との見分けは容易ではなかった。
周囲の草木は、もう自分の言う事を聞かず、早苗の進路を容赦なく遮る。
湖の近く故に起伏が少ない分幾らかマシではあった。
(あの時、初めて会ったんだ。諏訪子様と……。)
先程の光景が思い出される。そしてその時までずっと忘れていた事も。
緑光のトンネルから幼き頃に見たサーカスの思い出に至った理由を、なんとなく早苗は理解していた。
そのどちらにも諏訪子の存在があったのだ。
(それからしばらくお会いできなくて、次会えたのは中学に入ってからだったっけ。)
初めて会ってから数年が経っていた。
早苗は一度目のことは残念ながら覚えておらず、だが諏訪子は同じく初めてのように接してくれたようだった。
忘れていたのは幼かったからもあるが、その後起こった事も影響されたのであろう。
啄ばんで言えば、早苗は憑かれたのだ。
最初は青い煙が左手から昇っていた。それが段々黒く濃く身に纏わり付くようになり、やがて周囲にも影響を及ぼし始めた。
飼っていた小鳥が変死し、一緒に遊んだ子が滑り台から落ちて大怪我をした。祖母が入院したのもこの時期だった。
その頃になってようやく先代の風祝が気付き、これを祓い清めたが、早苗の心にはトラウマが残ることとなった。
幼かった故に自分ではどうしようもなく、周りが傷付くのを黙って見ていただけだった。
そして先代からこう諭された。
『貴女がお会いしたのはミシャグジ様です。自らに力が備わるまで、不用意にお側に寄らないように。』
子供心にでも、諏訪子が敬遠されていることは理解出来てしまった。
どうやら諏訪子の姿は、今では家の者でも誰も視る事が出来ず、早苗は数十年ぶりの才ある娘と持て囃されたが、同じくらいに疎まれるようになった。
人は眼に見えぬモノを恐れる。
半端な力で神奈子を視覚出来たり、古代の悪しき風習をなまじ知っているから、余計に存在のみ伝えられる諏訪子を恐れたのだろう。
ましてや祟り神である。
そんなものが境内をうろついてるなど、虫唾が走るわ。
その先代の言葉が、早苗の幼き心に錠を掛けた。
そして最初の出会いを封印して数年後、諏訪子に再会することとなる。
今にして、早苗が身を護る術を得るのを待ってから会ってくれたのだと思う。
神奈子からの紹介だったし、早苗の質問に諏訪子が言った答えも暗に示していた。
『お姿をお見かけしなかったのですが、何処にいらっしゃったのですか?』
『ずっと不貞腐れて寝ていたよ。』
諏訪子は悪戯に祟りを広めぬよう、ずっと一箇所に籠もって寝ていたのだ。
先代の風祝や諏訪子を視覚できぬ家の者達は、そんな事にも気付かず、勝手に恐れ怖がっていたのだった。
誰かに声を掛けられる事もなく、ずっと孤独に眠る諏訪子の気持ちも知らずに。
(諏訪子様は人間より人間っぽいところがあるからなぁ。)
たとえ忌み嫌われていても、助けなくてはならないと諏訪子は思っているのだろう。
それ故に、早苗には率直に気になる事があった。
(祟られると知って私を助けてくださったんだろうか……。)
どうしても、早苗にはそれが引っ掛かっていた。
早苗はまだ幼く、自分を祓い清める力さえ無いのは諏訪子にも分かっていたはずである。
祟られてしまうのは仕方ないとしても、その後何故助けてくれなかったのか。
憑きものに怯え震える早苗に、どうして手を伸ばしてくれなかったのか、と。
封印した記憶を思い出してから、ずっとその事が頭の片隅で渦を巻いていたのだ。
諏訪子の顔を直視出来なかったのも、それが原因であった。
(こんな事なら、聞いてしまえば良かったかな。)
軽い後悔がよぎるが、それはこれから聞けば良いことだ。
修行は始まったばかりだし、諏訪子が見てくれるならば聞く機会は幾らでもある。
別に深い意味はないだろう。
あの頃よりも早苗はずっと大人だ。心に傷は負ったものの、今では許容範囲である。
モノのついでに聞いてしまえば良い。昔話にだって花が咲くかもしれない。
早苗にとっては大したことではないのだ。
「……ヨシッ! ラスト一周! 根性だ、根性ッ!」
もうそろそろスタート地点だ。早苗は気持ちを昂ぶらせるため頬を叩く。
思ったよりもへばっていたが大丈夫、今日はみっちりシゴいて貰うつもりだから、こんな事でヘコたれていられないのだ。
何事も体力が大事。諏訪子もそう言っていたではないか。
早苗は膝をさらに高く上げることを意識しながら、スタート地点に差し掛かった。
「早苗、早苗。」
「ふえっ? あれっ? 神奈子様??」
スタート地点と定めた、湖に半分浸かった岩。
その上に神奈子が座っていて、早苗にこっち来いと手招きしている。
神奈子は背に注連縄も付けず、なにやら笑顔で早苗を待っていたようだ。
早苗は急いで方向を変え、息を整えつつ、神奈子に近づいた。
「おはようございますっ!」
「お~お~、おはよう。」
「もう起きてらっしゃったんですね、失礼致しました。……こんな格好でご拝顔して申し訳ありません……。」
早苗はジャージの胸元を指で掴み上げ、申し訳なさそうに神奈子を見上げた。
「構わないわよ。その格好も可愛いじゃないなんだか母親参観日みたいで嬉しいわ。」
「はぁ……。そう仰られると恥ずかしいのですが。」
「照れない照れない。所で、昨日渡し忘れてたんだけど、早苗宛にこんなものが届いていてねぇ。」
「私宛、ですか? あっ、わざわざありがとうございますっ。」
そう言い、早苗は神奈子から封筒を手渡された。
だが早苗にはそんなモノが届く理由が分からなかった。裏を見ても差出人の名も無い。
訝しげにしている早苗に、神奈子は素知らぬ顔で言う。
「どうやら果たし状のようね。」
「……はっ、はたっ!?」
「悪いけど、中を見たわ。麓の巫女よ。」
「は、果たし状……。こ、これが世に聞く果たし状かぁ……。って、霊夢!?」
早苗はくるくる目玉を回している。よほど驚いたのか手も震えている。
それを尻目に、神奈子は続ける。
「彼奴も追い詰められているのであろう……。こんなものを寄こすとは……。」
「え、まっ、ええっ?」
「思えば博麗も厳しいのだな。信仰はダダ下がるばかりで一向に回復せず、賽銭箱には日々虚しさばかり貯まっていく……。嗚呼、悲しいことだわ……。」
「あ、あの、あの、あの……。」
「しかし、その苦しい中でも希望を忘れなかった。それが掃き掃除と白湯を啜ることを延々続ける地獄のような日々であってもなぁ……。そして切羽詰ってこの果たし状だ。彼奴の覚悟、見事だとは思わないかい? コレを綴る筆に血が滲む様が手に取るように想像できるよ……。人の世の酸いも甘いも噛み分けた顔してなぁ……。」
「?????」
早苗はすでにいっぱいいっぱいだ。
神奈子は腕を大きく掲げ、朝日の後光を背に受け、声の限りに叫んだ。
「背水の陣で挑まれてはこちらも引けぬ。その覚悟見事と叫び、今こそ神の鉄槌を下してよろうぞ! ここで彼奴の苦しみをその身ごと粉砕してやるのが一縷の情けというもの。彼奴の望み、叶えてやらぬはあまりに酷だ! 神の名折れだ! 紅き地に伏させてやろうとも、絶望を与えてやろうとも。その身高揚させて挑んでくるがいい。八坂に奉じる風祝の東風谷早苗が! 一片のッ! 情けもなくッ! 打ち滅ぼしてやろうッ! しかして憂慮などないぞ。決した暁にはその御霊、我が守矢にて尊く貴く祀ろうではないか! そしていざ参れ我が胸に! 愛溢るる我が両腕にて事切れるのを許してやろうではないか! 兵たるそなたの最後の寝顔、とくと見せよッ! さぁッ! 我が胸にッ!!」
「わ~~、わ~~。」
「ということで、行って来い。」
「ふぁい。」
早苗は飛んでいった。
「どうやら、催眠は上手くいったみたいね。別に演説は要らなかったのだけど。」
ノリでやってしまったらしい。
催眠というよりもまじないに近いもののようで、悪く言えば洗脳だった。
早苗は神奈子が思っていたよりも呆けた顔をしていた。
「道すがら解けるとは思うけど。あっ、ジャージのままで行かせてしまったわ。」
果し合いにあの格好はまずい。雰囲気に欠ける。
学校指定ジャージ姿の早苗と対峙する霊夢を思い浮かべ、ちょっと笑いが込み上がる神奈子であった。
「さて次はあの巫女だな。骨が折れそうね。」
幻想郷の端、外界との境界に鎮守する博麗神社。
毎日なにかしらの妖怪どもがたむろするそこには、自称『楽園の素敵な巫女』博麗霊夢が住んでいる。
今は早朝で境内には一人の影しか見えないが、日中に別段人が居るわけでもなく、閑散
としているのが常であった。
そのぽつんと見える人影、境内を掃除しているのが博麗霊夢だ。
「ふわぁ……あふっ……。」
大きな欠伸を一つ、霊夢は箒を休めて空を眺めた。
最近は大きな異変が無い。
それ自体は全く問題無いのだが、こう毎日暇では飽きがくる。
「なんかさぁ、大きな事件でも起きないかねぇ……。」
「巫女にあるまじき発言だわ。」
だらける霊夢の後ろには何時の間にやら神奈子の姿が、だが霊夢はキョトンともせず会話を続ける。
「いいのよ、どうせ私が解決するんだから。あんたには二度も世話になったんだから、分かるでしょ。」
「耳が痛いわねぇ。せいぜい心に刻むとしようかね。」
「胡散臭いわ。神様って皆そうなのかしら?」
「おいおい、本当に貴女巫女? 世の信心深い迷える子羊達を敵に回す気かい?」
「その子羊達に逃げられて幻想郷に来たくせに。」
(相変わらず口の減らない素敵な巫女だ。先程の演説をこの場で聞かせてやろうか。)
「何しに来たのよ。」
「……博麗の巫女よ。折り入ってやってもらいたいことがある。」
神奈子は真剣な面持ちで霊夢を見据える。
だが霊夢は箒の柄の先で遊びながら、神奈子の方を向きもしない。
「これから早苗がここに来るわ。果し合いという名目よ。貴女には全力で迎え撃って欲しいの。」
ここで初めて霊夢は神奈子と眼を合わせた。と言っても霊夢は流し目である。
「……はぁ~~っ。諏訪子もそうだし、あんた達は巫女を可愛がり過ぎよ。羨ましいのやら羨ましくないのやら……。」
「まったくもって面目ないのは充分承知している。何分あいつは不器用なのよ。」
「それはあんたも、でしょ。早苗も苦労するわ。」
霊夢はもう一度大きな溜め息をして、空を見上げた。
朝日は完全に顔を出し、群青色など何処にもなかった。
ただ、明星がしつこく輝やいていた。
神奈子は黙ったまま霊夢の次の言葉を待っている。
「良いわよ。コテンパンにしてやろうじゃない。後悔しても知らないわよ。」
「博麗の……。」
「あんたの分社のお陰でちょっとはお客増えたし。それにね……。」
霊夢は神奈子の顔を見ない。
「……家族は、大切にするものだと思うわ。」
神奈子は、霊夢の顔を見ようとはしない。
「立場上、ただの人間一人に頭を下げる事はできないが、言いたい事があるわ。」
空の明星はまだしつこく居座り続ける。
「ありがとう、霊夢。」
鳥居から境内へと風が流れる。
早朝とは言えども、春先の風は新芽の香りを纏って、一人と一柱を包む。
それはなんともむず痒いけど、指先で感じる暖かさに似ていた。
霊夢は、明星が未だ衰えを知らず輝いているのに気付いた。
「山菜っ、山菜持ってきなさいよ。絶滅させるほど持ってこないと承知しないわよ。」
「ああ、今度酒と共に持ってこよう。守矢神社総出でもてなしてやるわ。」
「ふふふっ、それは楽しみね。」
年齢に見合った霊夢の笑顔。
この少女だけでなく、人間には笑顔が一番似合うと思う八坂神奈子だった。
「ということで、はい、これ台本。」
「……えっ?」
「設定は貴女がひもじさに負けてうちの神社に逆恨みする、ってことで。」
「誰が万年金欠貧乏腋巫女よッ!」
「そして私はそれに手を差し伸べる☆神☆ 早苗は正義に仕えし風の使者。」
「私の感動を返せぇぇ~~ッ!!」
空に響くは虚しき心の叫びか、はたまた嘆きの遠吠えか、その両方か。
浮かび見守る明星は、力亡くして消え失せた。
「な、なんでこんな事になったんだっけ……?」
軽い痛みが残る額に手を置き、早苗は下を見やった。
神奈子に挨拶してから後の記憶が曖昧だったが、もうここは博麗神社の真上。
神社の石畳の上には、霊夢が仁王立ちで待ち構えている。
その顔はものすごく不機嫌そうで、なぜか足元には細切れになった紙切れが無数に散らばっている。
「……? 果し合い、そうよ、果し合いをしにきたのよね、私は。」
不自然な記憶の配列から『果し合い』という言葉が浮かび上がる。
とにかく霊夢と果し合い。それの割には、自分がジャージ姿なのが気になる。
「さっさと降りてきなさい! コテンパンにしてやるわ。」
何時になく語気を荒げる霊夢に、早苗は己の使命を再確認した。
「霊夢、信仰はお賽銭だけではありませんよ? 執着は盲を呼び、物事の……。」
「御託はいいから、始めるわよ。スペルカード枚数を宣誓なさい!」
「ちょっと! 話くらい聞きなさいよ! こういうのは雰囲気が大事なんだから。」
「こちとら朝っぱらから純情を弄ばれてハラワタ煮えくり返ってるのよ!」
霊夢は御札と陰陽玉を取り出し、臨戦態勢に入る。
明らかな敵意と迫力に、早苗は少し怖気づく。
「まっ、待ちなさい!」
「……。どうしたの? まさか怖いなんて言うんじゃないでしょうね、変な格好で。」
「変って……! 腋出した巫女服の方がよっぽど変じゃない!」
「誰が白湯啜りの極貧腋巫女よッ! 背中に注連縄、カエルの帽子! あんた周り見たことないの? 変な神様ばかりじゃない!」
「神奈子様と諏訪子様をバカにしたな! もっ、もう許さない!!」
早苗は御幣とスペルカードを取り出し、霊夢に見せつける。
先程の霊夢への恐れはなく、代わりに守矢の二柱を貶された怒りが向けられた。
「スペルカードは五枚ッ!」
「私は六枚ッ! さぁ、始めるわよ。まずは一枚目……ッ!」
相対する二人は同時にスペルカードを掲げ、宣誓する。
夢境『二重大結界』ッ!
奇跡『客星の明るすぎる夜』ッ!!
互いのスペルが具現化し、早朝の博麗神社に弾幕の嵐が吹きすさぶ。
早苗と霊夢はその身を空中に投じて雷鳴のようにぶつかり合った。
弾幕戦が、始まった。
※
朝霧も晴れた湖の畔、諏訪子は二周目を終えて戻ってくるであろう早苗を待っていた。
一周目の時は声を掛けられなかったから、大いに労ってやろうと思っていた。
スタート地点と定めた岩に腰かけ、彼女を待つ。
きっとへろへろになりながらも、笑みを自分に向けてくれるだろう。
早苗はいい子だ。そんな事は、生まれたときから早苗を見てきた諏訪子にとって、言われるまでもない当たり前の事だった。
人と違う力に翻弄され、だがそれに屈することなく耐える強さを持っていた。
他人の心を汲み取り、自分のことを省みないやさしさがあった。
なにより、諏訪子は自分を見ることの出来る早苗の存在を愛した。
それに気付いた時の事は、今でも鮮明に憶えている。
生まれたばかりの幼き赤子。
神奈子への拝謁のとき、神奈子の後ろに居た諏訪子は赤子と目が合って鳥肌が立った。
近づいて手を左右に振れば、小さな手でそれを追いかけ、諏訪子は自分の鼓動が早まるのが分かった。
人差し指を握られたら、涙が止まらなかった。
神奈子に軽く咎められすぐ手を離したが、遠ざかることなど出来なかった。
久しく忘れていた人のぬくもり。数十年間味わえなかった感覚。
この小さい小さい赤子は私という存在を受け入れてくれた。
薄まり続ける洩矢の血と、光陰早き時代に取り残された私を。
その儚げな両眼で見つけてくれた。
諏訪子にとって、それは何物にも変えがたい存在であった。
それから数年、なるべく接触を避けて見守ってきた。
諏訪子は祟り神であるミシャグジの化身だ。
有象無象、魑魅魍魎の行き場無き恨みや憎しみ、それらが人に向けられれば祟りとなる。
諏訪子はミシャグジを制御できると共に、諏訪子本人にも祟りが集まり、自身の意識無く広めてしまう。
だから、早苗が自衛の術を身に付けるまで、手を触れることはもちろん、一目会うことさえ我慢してきた。
それがお互いにとって一番の良策と信じて。
神奈子の言ってたことは、理解できるのだ。
早苗はあの頃よりも成長したし、家の者の中でもずば抜けた能力を発揮した。
正直、今の世であれば早苗にはもう、自分の力は必要無いのだと思う。
『……でも今は違うはずよ。早苗とちゃんと向き合いなさい』
そう、あの時とは違う。
分かってはいるが、納得出来るかどうかは別だ。それが早苗のことなら尚更だ。
「それでも私は、あの子に何をしてあげられるだろうか……。」
諏訪子は岩の上で、膝を抱えて項垂れる。
自らの存在、早苗のこと、そして忘れられぬ悪夢。
全てを一度に解決できぬ己の神徳の無さに、腹が立った。
「あら、まだこんな所にいた。」
「……何よ? 今は貴女と話したい気分じゃない。」
小さく縮こまる諏訪子に、話し掛ける声があった。
諏訪子が見上げると、そこには先程自分に説教した女の姿があった。
「もう勘弁してくれな……。早苗には気を掛けるようにするから……。」
「…………。」
「分かってるから、なんとかするから、どうにかするから。」
「貴女の弱音なんて聞きたくないわよ。」
「…………。」
「早苗はここには来ないわ。今頃麓の巫女と弾幕ってるわね。」
「 」
今の今まで頭の中に蠢いていたものが飛んでいくのが分かった。
「なんて!?」
※
神霊『夢想封印 瞬』ッ!!
霊夢のスペルが容赦なく早苗を襲う。
「くッ、このッ!」
すでにこれで霊夢のカードは三枚目。
ここまでなんとか引き出してやったが、早苗も弾幕に追い込まれスペルカードを使わざるを得なかった。
これで早苗は二枚目だ。
秘法『九字刺し』ッ!
スペルは格子状のレーザー弾幕を形成する。
レーザーは隙間無く前方を覆い霊夢のスペルを相殺した。
続いて発生する螺旋状の弾幕が無防備な霊夢に飛んでいく。
「甘いわよ。」
そう言う霊夢は最小限の動きで早苗の弾を避けてみせた。
弾幕の隙間は殆どなかったはず。
だが線を描くように回避経路は正確だった。
その動きは被弾面積が小さいように錯覚させる。そんなはずは無いのだが。
「なんで、当たらない!?」
「神様の御加護があるのかしら?」
霊夢は御札と陰陽玉を交互に射ち込み早苗に接近してきた。
「またバカにしてッ!」
早苗もこれに応戦するが陰陽玉の変則的な動きが邪魔をする。
結果、霊夢の接近を許してしまった。
「うわッ! …………!?」
霊夢は高速で早苗のすぐ横をすり抜けていった。
不意を突かれ慌てて振り向くが霊夢の姿が見えない。
「よそ見してるんじゃないわよ。」
声は早苗の上方から聞こえた。
宝具『陰陽鬼神玉』
霊夢の静かな宣誓に反して、恐ろしく巨大な陰陽玉が現れた。
一瞬反応が遅れた早苗が見上げた時には、すでに霊夢の腕が振り下ろされていた。
極大陰陽玉が急速に落下してくる。
「いいッ!?」
迫る陰陽玉に対して、早苗は打てる手段が少なかった。
「早苗……。」
諏訪子が見たものは巨大な陰陽玉が早苗に迫る場面であった。
どうして早苗が麓の巫女と弾幕ってるのか? 神奈子に問い質したが一向に要領を得なかった。
神奈子など放っておけと意識が叫び、その場からすっ飛んできたのだ。
あの陰陽玉は早苗を押し潰す勢いだ。
しかし、次の行動に移り切れない早苗はその場で固まってしまっている。
「早苗ッ!」
諏訪子は叫び、早苗を助けようと身を躍らせる。
しかし、それは右手首を捕まれ未遂に終わる。
「手出ししなさんな。」
「神奈子、お前神社の分社から……! 何故邪魔をする!」
諏訪子を制止したのは神奈子だった。
神奈子は博麗神社に建立した守矢神社の分社を介して、山から移動してきたのだ。
その手には力が籠もり、易々と剥がせそうにない。
「今早苗を助けてどうする。また半端に手を出して後悔するのか?」
「それどころじゃないだろ! 早苗がッ!」
二柱が居る位置からでは陰陽玉の影に隠れて早苗の姿が見えない。
諏訪子は神奈子の手を振り解こうと力一杯動かすが、ビクともせずに離れない。
「絶対に手は出させない。諏訪子、早苗を信じなさい。」
「……ッ! このッ!」
巨大陰陽玉は早苗の姿を隠したまま、目下に広がる森へと落ちていく。
「早苗を、信じるのよ……。」
神奈子の手に、一層力が籠もる。握った腕が震えるほどに。
陰陽玉は森に落下した。
だが勢いを緩めず、移動方向を変え突き進む。
「上手く逃げたみたいだけど無駄よ。それはあんたに当たるまで追いかけ続ける。」
霊夢が状況を感じ取り、静かに呟いた。
早苗は間一髪、森の中に逃げ込んでいた。
だが霊夢の言う通り、陰陽玉は木々を薙ぎ倒しながら早苗を追いかけてくる。
「森に逃げたのが仇になったわね。そこじゃろくにスピードが出せないでしょう。」
森は木々が乱立していた。人間の手が入ってない森は木の一本一本が勝手に伸び、生存の為に自らを主張させ、他の木より高く伸びようとする。
「わっ、こんなにっ、ひどい、なんてっ!」
そこにさらに蔦が絡み、背の高い草が群生し、森はまるで大きな蜘蛛の巣になって早苗の行く手を遮ってしまう。
ここじゃそれらに邪魔され速く飛べない。
このままではいずれ陰陽玉に押し潰されてしまう。
ぎりぎりで避けるも、かする草木は刃と化し、早苗の頬や手を裂いていく。
「このままじゃ、反撃出来ない……!」
かといって上昇してもそこには霊夢がいる。それでは陰陽玉と挟み撃ちだ。
陰陽玉を破壊するにしても、その隙を突かれたらひとたまりもない。
早苗は何か手があるはずだと、考えあぐねた。
森を隠れ蓑に反撃出来ないか……。あるいは霊夢の予想を超えるような……。
「そうだ、諏訪子様の真似をして……。」
早苗は先程諏訪子が起こした緑のトンネルを思い出した。
あれなら木々を操り、進路を確保出来れば陰陽玉から逃げられる。
「上手くすれば霊夢を出し抜ける……!」
しかし一度諏訪子に見せてもらっただけだ。
どのようにするか教えてもらってさえいないのに、出来るかどうかは分からなかった。
(思い出せ、諏訪子様の力の使い方……。あれは操るというよりも……。)
あの時の感覚をよく考えろ……。
自分はこの森でどういう存在なのか……。
屈服させるのではなく、草木の存在を尊重し、そのうえで己の我を通す感じ。
諏訪子様は草木に命令ではなく、信頼を寄せていた……。
「 ……ッ!! 諏訪子様ッ!」
巨大陰陽玉が地響きと共に動きを止めた。理由はただ一つ、目標にぶつかったのだ。
「……少し、やり過ぎたかしら。」
霊夢は後頭部に手を回し、申し訳なさそうに呟いた。
自分でやっておきながらとは思うが、やってしまったものは仕方がないとも思う。
「お~い、さ~なえ~、だいじょぶか~。」
とりあえず、陰陽玉に近づく霊夢。遥か上方からの視線が痛い……。
その視線は諏訪子のものであった。
結局、神奈子に右手を抑えられ、早苗の元に行けなかったのだ。
一度目の危機はなんとか抜け出せたようだが、今度ばかりは状況が物語っていた。
「……いい加減、放したらどうだ……。」
諏訪子は左手に鉄輪を構えている。
「…………。」
神奈子はずっと陰陽玉を見つめ、尚も諏訪子を掴む手を放そうとしない。
その態度に、諏訪子は歯噛みする。
「お~い、とうふや~。 ……?」
早苗の名を呼び、姿を探していた霊夢はあることに気付いた。
この陰陽玉、いつまで居るのであろうか。もうそろそろ消えてもいい頃だ。
早苗に衝突してればとっくに消えていいはずなのに。
「あれ?……うそ。」
「神様は、嘘なんて吐きませんよ?」
声と共に風が舞い、木々のざわめきが拡散した。
霊夢の後ろ、大きく茂っていた林が割れた。そう、木々が左右に綺麗に分かれたのだ。
その中心に『祀られる風の人間』東風谷早苗の姿が現れ出でた。
「さぁ! 反撃開始ですッ!」
「なによそれぇ~!?」
開海『モーゼの奇跡』ッ!!
「奇跡を起こすのが私の仕事ですからッ!」
具現化した弾幕はスペル名通り、左右にうねり狂う波を造る。
慌てふためく霊夢は荒波のあいだで立ち往生だ。
「今ですッ! それ!」
銛のような弾幕を霊夢に放つ。
左右の動きを制限されるも絶妙なバランスでそれを霊夢は避ける。
「ちょ、ちょっとタンマ!」
「問答無用! それ! それッ!」
二本三本、さらに四本五本六本と銛の波状攻撃を繰り出す。
「こいつは驚いたよ……! 早苗もなかなかやるじゃないか!」
早苗達の遠く上方から神奈子は感嘆の声を漏らす。
神様二柱は早苗の復活に大いに驚いた。
諏訪子など手に持っていた鉄輪を危うく落としそうになり、今も口をあんぐり開けている。
「早苗は貴女の真似をして草木を操った、そうだろう? 諏訪子。」
そう、早苗は森の木々、蔦や草を操り陰陽玉の動きを止め、さらに己の姿を隠した。
諏訪子の起こした奇跡を、見事自分のものにしたのだ。
「そう、そうだけど……。私教えてないし……?」
諏訪子は未だ信じられないといった顔をしている。
そりゃあ実際見せてはみたが、それはつい今朝の話で、ここまで早く己のものにするなんて。
諏訪子は早苗の息災を喜ぶ間も無く、早苗の能力に驚いた。
「ときに人の子は驚くような早さで成長するわ。まるで羽が生えたみたいにね……。」
「成長……か……。」
「早苗は人の子だわ。神に人は必要だけど、人に神は必ずしも必要ではない。それは私も貴女も痛いほど実感してきた。」
「…………。」
諏訪子は小さな小さな赤子を思い出した。
「早苗にも、私たちはもしかしたら必要ないのかもしれないわ。幻想郷に来て、少しあの子は変わった。自分は特別ではないと気付いた。」
その赤子は開いたばかりの小さな眼で、諏訪子の姿を見つめていた。
「同じように、ここでは新しい信仰を見つけることができたわ。私たちも変わる時かもしれない。変わらなければいけないのかもしれない。」
諏訪子の指を掴む小さな手の、なんと温かいことか。
「人の命は儚く短く強いものよ。その意思は愚かで卑しく高貴なものよ。だから私たちは人を掬い救う。人を信じられる。人は成長するものだから……。」
小さな手の、なんと力強いことか。
「……違う。」
小さな手は今や大きく、より温かく、より力強く……。
「早苗には私たちが必要だよ。だって私たちは……。」
諏訪子は森を見下ろす。
その森では、早苗が霊夢と力強く、戦っている。
「家族だから。」
森に轟音が響く。早苗のスペルが巨大な陰陽玉を粉砕した。
「こなくそッ! どーだ、避け切ったわよ!」
流石は幾多の異変を解決してきた巫女である。
不意を突かれた状態で、あの弾幕を避けるとは、早苗も驚きを隠せない。
「……ですが、陰陽玉は破壊させていただきましたよ。」
これで早苗は霊夢の四枚目のスペルカードを突破した。
だがその為に早苗もカードの三枚目を消費してしまった。
元々霊夢めがけて撃った銛がその後ろにあった陰陽玉に命中したのだ。
霊夢は撃墜出来なかったが、もうあの玉に追いかけられる事はない。
「続いていきますッ!」
「調子に乗るんじゃないわ、私も五枚目ッ!」
早苗と霊夢は競うように上昇する。
準備『サモンタケミナカタ』ッ!
大結界『博麗弾幕結界』ッ!
またも両者同時にスペルカード宣誓。瞬間、弾幕が現れる。
早苗のスペルは弾を三重の星型に飛ばす。
そこから大きさが違う弾が数種飛び散り、相手の避けを惑わす。
一方の霊夢のスペルは完全に待ち受け型の弾幕。
霊夢を中心に結界が現れ、内側に居る敵に弾幕を浴びせる。
「そのスペル、貴女に近づかなければどうってことないです!」
早苗は距離を置き、弾幕を放ち続ける。
そこであれば霊夢の攻撃は届かないと思われた。だが。
「だから、甘いって言ってるの。」
「えっ。」
早苗に赤と白の弾幕が襲い掛かる。
すでに早苗はもう、霊夢の結界内に入っていたのだ。
弾幕結界は早苗の予想より遥かに大きく、四方数十メートルにも及んでいた。
「くぅ、でもパターンを読めば……ッ!」
前後から飛んでくる弾幕にはパターンがあった。
前方の弾が来る瞬間、後方に避ける隙ができる。後方の弾はその逆だ。
早苗は避けながらも懸命に弾を星型に放つ。
「そんなもの、当たらなければどうってことないですぅ~。」
早苗の弾幕はその殆どが霊夢の弾幕に相殺される。
霊夢まで届いてもスカスカで容易く避けられてしまう。
「早苗のマネ。」
「真面目にやりなさいッ!」
余裕の霊夢に対し、早苗は弾避けに必死だ。
さらに息も荒れてきた。ここへきて早朝ランニングが響いてきたようだ。
「あら、疲れてきた? 私はカードもう一枚あるのよ?」
笑みをこぼす霊夢に早苗は作り笑いを投げ返す。
「私もまだいち、枚残って、ます。お忘れ、なく……ッ。」
「……あんたもさぁ、神様二人に振り回されて大変ねぇ。」
「どういう、意味です……。」
「だから、どうして人間のあんたが信仰、信仰って必死になるのかって。神様に助けて貰えばいいじゃない。ただの人間として生きる手もあるわ。」
本当に巫女の台詞とは思えないが、今の早苗にそこを考える余裕はない。
弾幕は未だ止まず早苗に降り掛かる。
「簡単な、ことです、よ……ッ?」
「ほほう?」
疲労困憊で俯いていた早苗が前を向いて霊夢を見据える。
その目には消えない星が輝いていた。
「お二人が、私の家族だからです。」
「続けて続けて。」
「家族は支えあって、生きるもの。……人が生きる理由は『誰かの為』で充分です。」
幻想郷には家の者は誰もついて来なかった。……つまりはそういうことだ。
でも早苗は批難しない。あの人たちも誰かの為に生きていると信じているから。
「一人で生きるなんて、自分の為に生きてるなんて、言わせない……!」
そして二柱の為に生きることを許してくれた、両親に感謝していた。
「それが、わっ、私の信仰ですッ!」
ついに弾幕の嵐が止んだ。
早苗は霊夢のスペルを耐え切った。
「……格好いいこと言ってくれるじゃない。そんな変な格好で。」
早苗のジャージは森を突っ切ったので泥だらけだった。
「ですからぁ、腋出した巫女服の方がぁ、よっぽど変なんですってばぁ……。」
「誰がぐーたら乱弾撃ちの頭が紅白貧乏腋巫女よ。あんただっていつもは似たような格好じゃないの。」
「そうですよ、私は守矢の風祝、ただの巫女に負けるものですか!!」
早苗は不屈の笑みで最後のスペルカードを引き出す。
霊夢も不敵に笑いスペルカードを取り出す。
「私に喧嘩売るなんていい度胸してるわ。来なさい、お互い最後の一枚ッ!」
大奇跡『八坂の神風』ッ!!
『夢想天生』ッ!!
弾幕の華がひらく。美しい弾幕が一斉に乱れ咲く。
それは弾幕で彩る幻想の戦い。現という夢に生きる者たちの戦い。
自我、夢、心、プライド。人の形、生、死、混沌。希望、永遠、絶望。信仰、優しさ。
その全てを幻想郷は受け入れる。
それはそれは残酷なことですわ……そして、
「いけーッ! 早苗ぇーッ!!」
諏訪子の声が聞こえた。
※
……? 誰かが私の手を握ってる。
ごめんなさい、私、今疲れてて、握り返す事が出来ないんです。
なんだか目も開けられないし、歩こうにも、足が、前に進まないんですよ。
これでも進もうとしてるんですよ? 可笑しくなっちゃいます。
というか、私、今、立ってるんですか? それとも、寝てますか?
どうでもいい事かもしれないけど、私には大切な事なんです。
どうですか? 私は立って歩けてますか? あなたの目にはどう映ってますか?
……何も聞こえないけど、きっと誰かが見てくれています。
あ、でも大丈夫です。私は大丈夫なんです。
ほら、分かります? 見てください。私の顔。見てくださいよ。
かわいく笑えてると思いません? あなたに見えてますかね?
今は、何も出来ないけど、ここが何処かも分からないけど。
私はこんなに笑顔でいられますよ。あなたは、どうですか……?
だいじょうぶ、だいじょうぶ。こんなにあったかい手をしてるから。
ほら、あなたはだいじょうぶですね。
※
早苗が目を開けたら、そこは空の上だった。
眼下には人里が見える。河も見えた。
(……そうだ、村でお買い物しないと。お酒がきれてたんだ。)
そう思い、手を伸ばすとバランスが崩れて視界が揺れた。
「おっとっと、起きたかい、早苗。」
「…………諏訪子様、私お買い物しないと。」
「あ~? それは後で良いよ。先ずはうちに帰ろうな。」
諏訪子にそう言われ、早苗は静かに諏訪子の背に顔を埋める。
空の上で太陽が近いからだろうか、諏訪子の背中はとても温かくて落ち着いた。
(……?)
早苗は急に体を起こし、諏訪子はまたバランスを崩してよろけてしまう。
「諏訪子様!? 私おんぶされて、えぇ??」
「改めておはよう早苗さん。」
「降ります、降ります。」
「いいよぉ、早苗重くないから、大丈夫さな。」
早苗は諏訪子におんぶされ、空の上にいた。
仕えるべき神様におんぶされて申し訳ないのか、早苗はすぐに降りようとする。
だが諏訪子は足を怪我してるからと言って、降ろしてくれない。
早苗は恥ずかしがりながらも、諦めて諏訪子に体を預けた。
「……負けちゃったんですね、私……。」
「うん、惜しかった。博麗の最後のスペル、あれはズルイよ。」
諏訪子は笑いながら言う。
だが、早苗は逆に肩を落として残念そうに言う。
「霊夢が強いのは分かっていました。前に負けましたからね。」
「うん。私も。」
「それでも、戦って、また負けて。」
早苗の声が震えている。
「お二人の、力になる、って、自分で、決めたのに……。」
「うん。」
「ぐすっ、うええぇぇ~~……、わああぁぁぁ~~……!」
「…………。」
早苗は耐え切れずに感情を溢れさせた。
一度火が着いたら自分では止める事が出来ず、ただただ止むのを待つしかない。
「ひぃぃぃ~っ、ひっひぃぃぃ~~……っ!」
涙は昂ぶる感情に合わせ、脈打つように流れ出る。
声は上ずり、意味のない言葉が喉を振るわせる。
「早苗、ねぇ早苗。サーカスの時のこと、憶えてる?」
「ひっっ、ぐずぅ……ひっく……。」
「迷子になって、一所懸命に探して。それでも見つからなくてしゃがみ込んで。」
「うっく……、うう~……ひっく。」
「私が声を掛けたら、今と同じような顔しててなぁ。よいしょっ。」
諏訪子は早苗がずり下がってきたので担ぎなおした。
「あの頃からだいぶ大きくなった。こんなに重くなった。」
「……ひっ、やっやっぱり……降りますっう。」
「いいよいいよ。……あの時は私も我慢出来なくて、つい手を出してしまった。」
早苗は涙を拭いた。思いがけず自分の疑問の答えを聞けるのだ。
泣いてる時ではない。
諏訪子は静かに語りだした。
「私は分かっていた。私が手を貸せば早苗が憑かれることを。後で早苗が辛い思いをするって分かっててやったんだ。助けてやりたかった。その時はその一心だったけど、早苗が憑かれてからは何もしなかった。私は、お前を見捨てたんだ。苦しんでる早苗を横目に私は眠っていた。私が側に居ればさらにお前に祟りを与えてしまう。これ以上、辛い思いをさせたくなかった。」
寝ているあいだ、諏訪子は夢を見ていた。
幼い早苗が何も言わず、じっとこちらを見ているのだ。
悪夢に等しかった。
「そして、お前が憶えていないのをこれ幸いと黙っていた。卑怯だろう、神にあるまじき行いだ。忘れてしまうほど早苗は辛かったのに、私は都合が良い方に逃げたんだ。早苗が術を身に付けてからも、私は力を貸すのを拒んで逃げた。またあのような事になるのが怖かった。早苗と離れ、またあの棺桶のような狭い場所で、眠ることがたまらなく恐ろしくなった。次に起きたら、今度こそ早苗は私を完全に忘れてしまうのではないかと、想像するだけで足が震えたよ。だから力を貸さない、貸したくない。全部自分の為だ。早苗の為なんかじゃない、自らの保身の為にやった。」
懺悔のような独白が終わった。
諏訪子はそれ以上何も言わず、空の上を守矢神社に向けて飛翔する。
背中の早苗も顔を埋めたまま黙っている。
幾ばくかの時間が流れ、先に堪えきれなかったのは諏訪子だった。
「さな……」
「どうして、私が今泣いてると思います?」
「早苗……?」
「私が霊夢に負けて悔しくて泣いてるって思ってるんですか?」
「…………。」
早苗の声は諏訪子にこっち向くなと知らせている。
諏訪子はそれには気付けたが、早苗の発言の意図が分からなかった。
「ち、違うのかな?」
「……半分は当たってます。あの貧乏巫女に一矢報えられなくて悔しいです。」
その声の様子から、なんだかどうでもよくなった感じがある。
「あの貧乏巫女めぇ~、どんなに撃ってもスルスル避けて、あの人一体何なんですか?
信仰は絶対ウチが勝ってるのに~。くそぉ~!」
「早苗、落ち着いて早苗。」
早苗は諏訪子の背中で鼻をすすりながら腕を振り回す。
なにかスイッチが入ってしまったようだ。
「諏訪子様ッ!」
「は、はいッ!」
「私は、諏訪子様のお力を借りれなくてあとの半分泣いてるんです。それなのに、昔のことなんて掘り返して、私が迷子になった、なんて恥ずかしいじゃないですか!」
「あーうー……。」
諏訪子は早苗の迫力に押され気味だ。
鼻を垂らしながら怒る早苗はそれなりに鬼気迫るものがあった。
「私はですね、諏訪子様。あの時私を見つけてくれて嬉しかった。周りが知らない顔ばかりで私は不安で不安で、本当はみんな私を見てるんです、でも、みんな知らんぷりして通り過ぎてく。世界にただ一人取り残されたみたいな気がして、世界には私だけが居ない気がして、寂しくてしかたなかった……!」
「早苗……。憶えていたのか……。」
早苗はまた涙を滲ませた目をしていた。
必死に両腕で拭うけど、また止まらなくなってしまった。
「ぐず、そんな時に諏訪子様は私に手を差し伸べてくだざっだ! ひっ、いつまでも一緒に、居てぐださっだ。ずっど、ひっぐ、手を握っでいてぐれた……。わた、私は、うううっ、うれじかったから……私を見づげでぐれて、本当にうれしかっだから……!」
どんどんどんどん溢れてくる涙を、早苗はもう拭う事を止めていた。
もう遠慮することなどない。
早苗は世界一の幸せ者だから。
霊夢や魔理沙より、幻想郷の住人より、それに元いた世界の誰よりも幸せだと、確信していた。
天狗の新聞に載せてやろう。なんなら大声で叫んでやったって構わない。
東風谷早苗は世界で一番幸せです、と。
「な、なのに、ひっぐず……諏訪子様は、ま、まるで私と会わなければ良かっだみだく言って、ううぅ~ほんどに自分のごどばかりでぇ。私、わだし、私たちは、家族、なのに。ひっひいいぃぃぃ~~~~……っ! わああぁぁぁぁぁぁぁ……ッ!」
「……すまない。ごめん、ごめんね、早苗。悪かったよ。」
諏訪子は思い知らされた。
この少女は自分と同じ寂しさを味わったのだ。
孤独という、檻の中で生きているにも関わらず、まるで存在しないかのような扱われ方。
存在を知っていながらそれを否定する。
その否定された者が味わうもの、それが本当の孤独だ。
孤独とは己自らが見つけるものじゃない。孤独は他人から与えられるものだ。
その生々しい悪意は、年端もいかぬ少女に与えていいものではない。
少なくとも諏訪子の知っている早苗には必要じゃないし、唾棄すべき行いだ。
自分が拒んで逃げた結果、それを分かってやることが出来なかったのだと。
そして、自分を見つけてくれたことへの喜びを。
その者への感謝を、この少女は知っている。
「ごめんな、早苗。」
この話をし始めてから、謝るつもりなんて諏訪子にはなかった。
許されると思ってなかったからだ。
だが、もう諏訪子には謝るしか出来なかった。
「ひいい~、ひ~……うぐっ、ぐす、ううう……。」
「早苗……?」
どうやら、早苗は泣き疲れて、また眠ってしまったようだ。
体力も消費していたし、無理もないように思えた。
「……どうやら、神奈子の言った通りだったな。」
春先の、心を透くような風に、一人と一柱の髪がなびく。
寝静まった早苗は微かな寝息をたてて、暖かな背中で夢を見る。
「人は成長する。私たち神格の思いを越えて、大木のように力強く。」
早苗は手を繋いでいる。あったかくて、懐かしさを感じさせるあのヒトの掌だ。
両の手にそれを感じながら、早苗は三人で歩いている。
「私たちはそれを見守ればいい。信じてやればそれでよかったんだな。」
そうだ、あのとき言えなかったことを言おう。
私を見つけてくれたことに、私といっしょに居てくれてことに。
こんな幸せを授けてくれたことに……。
「早苗、ごめんな。……でも、それ以上に……。」
ありがとう。
※
博麗神社の鳥居の下。霊夢はそこに腰掛けお茶を啜っている。
一応、うちで一番いい茶葉だ。お客には絶対に出さない、自分用の茶葉。
神社の階段が悠々と連なっているのが見える。その奥には幻想郷の全体が見渡せた。
「悪役ご苦労。なかなか様になってたわ。今度は貴女が異変を起こしてもいいかも。」
またも神奈子が霊夢の後ろに現れる。
いつもいつもしれっと出てくるので、これでは幽霊と変わらないと霊夢は思った。
「……役、じゃないわよ。八つ当たりに近いのよね。」
「ふーん。そうか。」
「さっき紫が来たわ。なんだか訳分からない事言ってたから追い返したけど。」
「ふむ、境界の賢妖か。そういえば居たわね。」
八雲紫は妖怪側の幻想郷を守護する存在。人間側は霊夢だ。
同じような立場とはいえ、その行動力は霊夢とは正反対であった。
だが、肝心なことは何も語らない、そんな不気味さも持ち合わせていた。
「……何か思う所があるのかな?」
「…………。」
霊夢は無言でお茶を啜る。
「……戦ってる途中からね、早苗が羨ましく思えたの。なんだか分からないけど。」
「そうか。隣、座るわよ」
「あの子はあんなに必死になってでもやることがあるのね。私には無いから。」
「そうか。」
「私には必要の無いものだって、紫が言っていたわ。それがなんなのかすら私は知らないのに。」
「そうね。」
「……私は何も知らないのね。」
霊夢は湯飲みを見つめる。
中に入ってるのは高級なお茶。誰にも飲ませない、自分だけのお茶。
それがぐるぐるぐるぐる、霊夢に暗示を掛けるように渦を巻いている。
「何も知らなければこれから知ればいい、そう思わないかい?」
「でも、紫が……。」
「おや、あんな木端妖怪の言う事を鵜呑みにする博麗の巫女だったかしら。」
「…………。」
「本人が知らないだけで、周囲は気付いていることもある。例えば魔法使いや人形使い、吸血鬼や天人、果ては鬼までこの神社には集まってくるわ。あら、貴女にもあるじゃない?」
「……。それって……。」
霊夢は顔を上げた。そこには見渡す限りの幻想が広がっている。
「それって、みんな私のことが……。」
一瞬にして顔を赤らめる霊夢を、神奈子は面白そうに口の端を吊り上げて見ている。
言葉を濁した霊夢は一気にお茶を飲み干す。
「お茶がなくなったわッ! ちょっと淹れてくるッ!!」
神奈子に顔を見られないよう、俯きながら立ち上がり、霊夢は母屋に駆け出す。
自分は今どんな顔をしているだろう、神奈子に見られてないだろうか、そんな心配をしながら霊夢は振り返って大げさに叫んでみる。
「あんたも飲みなさいよ! いいお茶なの、今持ってくるからッ!!」
神奈子は座ったまま後ろ向きで手を振った。笑いを堪えるのに必死だった。
誰にも出さない霊夢だけの茶葉は、今や霊夢の中でなんでもなくなっていた。
魔理沙やアリスにも今度来たら出してやろう。
レミリアは渋い顔するかもしれないけど、無理矢理飲ませてやる。
早苗とも、仲直りしなくちゃ。早苗はお茶は好きだろうか?
すごく美味しいお茶の葉なのだ、みんなもきっと気に入ってくれる。
霊夢は考えることで頭が一杯になった。
「これで良かったかねぇ?」
どこからか、小気味好い扇子の開く音が、聞こえた。
※
いよいよ満開の春を迎えた幻想郷は、そこかしこに新芽を溢れさせた。
妖精たちは所狭しとはしゃぎ回り、呼応するかのように花が咲き乱れる。
春告精などは、本当に頭がおかしくなったかのように転げ回っている。
世は新しい季節を向かえ歓迎ムードで一杯であった。
春を謳歌しているのは人間も同じようで、様々な所で宴が開かれている。
特に桜の美しい博麗神社は毎日宴会をしていた。
居座る鬼が萃めたわけでもなく、勝手に集まって勝手に騒ぐ。
神社の巫女は五月蝿いと漏らしていたが、神社は笑い声が絶えることがなかった。
そんな春も折り返しを経て、人々の生活もようやく落ち着きを取り戻していたある日。
幻想郷はある噂で持ち切りになった。
「空に船が浮かんでる?」
「それがありがたい七福神を乗せた船で、金銀財宝を積んでるんだそうだ……。」
「いろんな所で目撃されてて、何かを探してるみたいだって。」
幻想郷の空に不思議な船が飛んでいるそうだ。
きっと何かの見間違いだろう、夢でも見ていたのでは?
そう突っぱねる者もいたが、実際に見たという者も少なくなかった。
現に、妖怪の山、頂上付近の守矢神社など……。
「……………。…………………………。」
「どうした、早苗。そんな口開けてると虫が入るよ。」
「…………………。」
「なに、何か面白いもんでも見え…………。」
「…………………。」
「…………………。」
早苗と諏訪子は、そのまま無言で社殿の奥で寝入る神奈子を叩き起こす。
「なによ、二人して。虫が入るわよ。」
嫌がる神奈子を引きずり、外に出た途端、一斉に空に向かって指をさした。
「なんじゃぁあれわぁぁぁっっ!!」
山に轟く絶叫を合図に、守矢神社で家族会議が始まった。
出席者は神奈子、諏訪子の二柱に風祝の早苗と天狗の射命丸文(?)。
「なに、なんなのあれ? 新たな侵略者なの? 朝廷の差し金?」
「落ち着いてください、神奈子様。ま、まずはデビルスタワーに向かいましょう。」
「早苗も落ち着いて。それより水辺の近くに居るほうが安全じゃない?」
「皆さん落ち着いてください。あれが今噂されている空飛ぶ宝船です。」
射命丸文は自らの手帳になにやら書き込み、ニヤリと笑って語り出す。
「以前から目撃されていましたが、ここ最近特に顕著な動きを見せています。なんでも何かを探しているのだとか……。」
「ほらやっぱり。私を探してるんだわ。昔、帝にやった悪戯を根に持ってるのよ。」
「な、何をしたんですか、神奈子様……?」
「寝てる間に歯の神経を全部剥き出しにしてやった。」
「なんて事を、神奈子、お前……ッ」
「だから違いますってば。兎に角、アレは怪しいです。直ぐに手を打ちましょう。」
文は立ち上がり、また手帳に書き込む。
「そういうのは麓の巫女に任せよう。うん。そうしよう。」
「それじゃ何時までたっても信仰は得られませんよ? ここは博麗より先に異変を解決し、幻想郷に守矢神社の実力を見せ付けるんです。」
「し、信仰……。」
「か、神奈子様……。」
「そこで早苗さん、あなたですッ!」
書き込むペンを早苗に向け、文は突然叫んだ。
「はい!」
「貴女この頃修行してましたよね? 今こそその成果を発揮する時では?」
「な、なるほど……。」
「早苗、大丈夫?」
頷く早苗に諏訪子は言葉を掛ける。
だが、早苗には確信があった。
行き当たりばったりなものじゃなく、心からそう思える確信が。
その思いに早苗の眼には消えぬ星が輝く。
「大丈夫です、なぜなら私には諏訪子様のお力がついているから!」
早苗は新しいスペルカード蛙符『手管の蝦蟇』を身に付けていた。
それは紛れも無く諏訪子の力、信頼の形だ。
「早苗~、私も忘れないでおくれよ~。」
「あああ、すみませんすみません。」
神奈子の力で得た蛇符『神代大蛇』も心強い。
「ふふふふっ、面白くなってきました……。」
「それじゃあ、行って参りますッ!!」
天狗の思惑など何処吹く風。
東風谷早苗は異変解決に喜び勇んで乗り出していく。
「早苗! 帝によろしくね!」
「あははは、早苗、いってらっしゃい! きっと素敵な物を見つけるよッ!」
二人の家族に見送られながら。
了。
綺麗にまとまった話だと思いました
いい家族を堪能させて貰いました。
そして作者はオニギリ食って職安逝きましょう。
…勘違いだったらすいません!読んでみたら早苗がカッコイイーw
それに原作の設定、雰囲気をしっかりと踏襲しリスペクトしているのはとても良い
満点です
早苗さんも霊夢もどっちもかわいい