同じ流れの中に還しましょう。
無限も有限も、生きた歴史も生きる永遠も、
全て淡く溶け合いましょう。
自分の身体さえも定かでない霧もやの中、私は足の赴くままに歩きます。気の向くまま、足の向くまま、私の意志とは無関係に、足跡は川原に刻まれます。霧に混じるのは僅かに甘い、水の匂いでした。流水はサワサワと私の耳をくすぐり、ここに居るよと囁いています。身を投げればきっと流れに溶け合い、全てのうちの一つとなりましょう。視界の隅を彩るのは彼岸花。霧の中にベタリと紅を落とし込み、確かに居たのだよと耳打ちます。
「ああ、死んだのですね。私は」
ええ、もちろん聞いているものなどありません。私は、私に囁いたのです。存在感の無い自分の身体が今にも消えてしまいそうで。不安なのかな、と自分に問いかけましたが返事は返ってきませんでした。これが私の教え子であったならば、間違いなく零点をくれてやっていたことでしょう。
私、上白沢慧音の人生は、一言で言えば幸せでした。里の人からも、妖怪からもそれなりに慕われて教師として生きることができました。寿命の永い妖怪たちには及びませんが、長寿といわれるほうでした。子を宿すことこそできませんでしたが、可愛い教え子たちは、私の意志を引き継ぎ、幻想郷に学を広めています。血よりも知が広まることに感動を覚えました。
大切な人に出会えました。最後を看取ってもらえました。置いてきてしまいましたが、代わりに一つ、大切なものを貰いました。
川の畔には粗末な桟橋が備え付けられていました。桟橋に寄りかかるように、これまた粗末な木船がぷかりぷかぷか浮いています。櫂が流れに揺れてぎ、ぎ、ぎ、とせせら笑っていました。待ち人来ず。全ての銭と現世への未練を置いて、遥か彼岸へと私を導いてくれるはずの死神は、姿を見せませんでした。こんなに具合の悪い天気だもの、サボりたくなるのもわかります。分かりますともさ。既に死んでいる身です。死に急ぐわけでもありませんので、のんびりお散歩を再開します。
「待ち焦がれた。いえ、お待ちしておりました。白澤様」
上流へ歩き始めてすぐのことです。川へ大きくせり出している岩の上から声がします。岩が喋っているのではありません。もやの中、霧の中。声を頼りに声かけます。しわがれた声が示すのは刻まれた年輪。どうやら老人のようです、あれは。
「ご老人。お会いするのは初めてだとおもいますが。私はそんなに大層なものではありませんよ。妖怪と人間の混血として自由気ままに生を謳歌し、果てた、ただの半人半妖、ただの上白沢慧音です」
「ご謙遜なさるな、白澤様」
かんらかんら。老人は豪快に笑って私の言葉を遮りました。生暖かい風が私の横を通り過ぎ、一瞬だけ老人の顔がみえます。
「貴方は、いや、しかし……」
「私はずっと、歴史の隙間に白澤様の影を追い続けてきました。徳のある人間の前にしか姿を現さない伝説の神獣。誰もが……、そう、息子たちでさえ、そんなものは絵空事に過ぎない、幻想の存在なのだと鼻で笑いました。しかし、歴史を紐解けば紐解く程に、伝説と呼ばれた存在がより確かな姿となって浮かび上がってくるのです。不思議なものですね」
居るはずが無いのです。世界はとうに違えたはずなのですから。出会うはずが無いのです。私と彼は、生きた歴史が違うはずなのですから。目の前の老人は私の良く識る人物です。識ってはいたけれど、会うことは叶いませんでした。
編みこむ言葉がふわりと霧に溶けて消えていきます。紡ぐ言葉がパラパラほどけて、消えてなくなってしまいます。彼が目の前にいるということは、今更外も中も関係ないということに違いないのだから。
「隣、よろしいですか?」
たっぷり沈黙をかけて、ようやくそれだけを紡げました。返答の代わりに差し出された枯れ木のような手を握り、岩によっこらしょっと腰掛けます。近くでマジマジと彼の顔を見つめます。なるほど、よく似ています。ちょびっと低い鼻、ふっくらしていたであろうほっぺたは、萎みに萎み、今やシワだらけ。笑ったときのえくぼだけは深いシワの上からでも存在感を失いません。あの子が歳を取ったならば、きっとこの人のように優しい面差しになるのでしょう。
「さ、さ。先ずは一杯」
どこからか取り出したお酒と盃。和と話をもたらす秘薬は、例え魂だけの存在と成り果てようとも健在でした。ともあれここで相伴に与らなければ礼儀を欠きます、などと自分に言い訳をし、なみなみ注がれた盃の端を啄ばみ、コクンと一口。百薬は舌をやんわりと痺れさせ、身体を焼きながら最奥へと流れていきました。
「うはぁ……。何です、コレ!? こんな上等なお酒、初めて呑みましたよ! 本当にお酒です?」
「そうでしょうとも、そうでしょうとも。ずっと昔から、盃を交わし、語り合いたいと願っていた。秘蔵中の秘蔵。何せ、千年以上は寝かせておりますからなぁ」
とくとく、とくとくと私の身体をお酒が満たします。ふわふわします。天国のようです。冥界を流れる川の畔だというのに、こんなにも気持ちが良くて良いのでしょうか。彼は、優しい面持ちで私に問いかけます。
「白澤殿。この川が流れ逝く先は、ご存知ですかな?」
「……川が流れつく先は、いつも決まっています」
「ほぅ……?」
少しばかり酔いの回る頭で、うみ、ですよ、と私は呟きました。生きている間には、ついぞ再びまみえることのできなかったうみ。私の胸をトクン、と脈打つは潮騒。もと在った場所に、還るのが生まれ出ずる者の最後の勤めにて。
「ふむ……幻想の彼岸を流れる川なれど、行き着く先は皆同じ、ということですか」
「ええ、少なくとも私は、そう考えます」
彼は悪戯が成功したときの子供のような笑いを浮かべました。不意に身体が粟立ちます。何かいけないことを言ってしまったのでしょうか。
「なるほど……。確かに、我等もコレに身を投げればたちまち流れの一つとなり、大いなるうみへと還りましょう。……はて? 逝きつく先の果てがうみだと言うならば、カロンは何故流れを遮り、魂を冥府の法廷へと導くのか。ぽちゃり、と落としてしまえば大河の一滴。結局は変わらないというのに、何故わざわざそんな手間隙をかけるのでしょう?」
「……」
矛盾に、身体を廻る酒混じりの潮騒がぞぞ、と叫びだします。
「私はこう考えます。彼女たちは、魂に猶予を与えているのだ、と。真に為すべきことを為した魂は、そもそもこの流れを渡らない。やがて溶けゆく流れの中に身を任せるのみです。やり残したこと、悔恨があるからこそヤマさまは魂を転生させ、次の生で為させようとする。長い口上も罪状も全てはその為――」
「ならば、今ココに居る私達は、現世に悔いがあると……?」
彼の口の端がつり上がります。満足げに、自信と尊厳に満ちた体で言い放ちました。
「あるじゃあ、ないですか」
「……ぇ?」
私をざわめく潮騒が引きました。
手を差し伸べたら恥ずかしそうに手を伸ばすあの子。
私がひっぱってやらないといつまでも一人でうじうじと悩んでいるあの子。
毎日つけていた日記を嬉しそうに私に見せてくれたあの子。
はにかむような表情で教壇に立ったあの子。
殺してやると鬼の様な表情で月の姫を睨んでいたあの子。
私の最期を泣きながら看取ってくれたあの子。
「あ……」
あの子の名前は?
2人で子供たちを引き連れて川へ遊びに行きました。
2人で異変を解決しました。
2人で一晩中語り合いました。
2人で輝く星空を眺めて過ごしました。
気がつけば、私の人生の大半をあの子が占めていたのです。
太陽のような眩しい笑顔をするあの子。憂いのある横顔も、透き通るような髪も、ぶっきらぼうな喋り方も全て。あの子の様をありありと想い出せるのに。なのに何故か、あの子を呼ぶ名前が抜け落ちていました。乱暴に消しゴムでわやくちゃにされたように、あの子の名前は見つかりません。
ねぇ。なぁ。それとも貴女。
私はあの子に何と呼びかけていましたか。
私はあの子からなんと呼ばれていましたか。
あの子を呼ぶ響きが胸を打つのです。
つ、つ、と私の頬を伝う雫が止まらないのです。
「私は! 私は、忘れてはいけない人の名前を忘れてっ……!」
「大切なことから零れ落ち逝く。……白澤殿、それが死、というものですよ。死ぬということは全てを忘れること、忘れられること。死ぬということは置いてきてしまうこと、置いていかれてしまうこと。空虚こそが死。忘却こそが死。死とはかく語りき」
「……っ」
やがて雫は静かな音を一つ、ぽとり響かせて硬い石に染みこみ、黒い華を咲かせていきます。また一つ。次々に華を咲かせてゆく様相は彼岸の花畑。ぽたぽた、ぽたぽた。雨にも似た。おと。
私は立ち上がり、見えぬ流れを望みます。視界の片隅に紅を落とす彼岸花が、ゆらゆらと手招きをしていました。
「己が許せないのならば、そこから一歩踏み出せば良い。たちまちのうちに流れに飲み込まれ、上白沢慧音は跡形も無くなりましょうぞ」
彼の言うとおり、一歩踏み出せば全てが終わることでしょう。
同じ流れの中に還りましょう。無限も有限も、生きた歴史も生きる永遠も、まどろみのうちに一つとなりましょう。流れの逝き尽く先の、あの懐かしいうみへと還りましょう。
「……だけど」
だけど、けれども私は。
「あの子を、忘れるわけにはいかないのです」
彼に振り返り、言い放ちます。消えてしまうわけにはいかないのです。あの子が私の内で燻っている限りは、まだ。
「ご老人、いえ……不比等殿。貴方も、同じなのでしょう? 転生することなく、輪廻の輪から外れ、あの子を待ち続けているのでしょう。永遠が永遠であったためしは無いのです。だから、いつかきっと、あの子は此処へとやってくる。その時が来て、独りぼっちでいるあの子を泣かせるわけにはいきません。あの子はとても弱くて、寂しがりで、おまけに意地っ張りなものだから、弱いところを見せまいと強がって生きています。本当は、誰かが手を引っ張ってやらないといつまでも隅の方で羨ましそうに眺めているだけなんです」
「わが子ですからなぁ。短所ばかりよく似ています。いやはや、お恥ずかしいことで」
「それはお互い様ですよ。私も、随分とあの子に吹き込んだものですから……」
顔を見あわせ、思わず零れる笑い声。
「さて、白澤殿。……慧音殿とお呼びしたほうが良いですか」
「ええ、構いません」
「我等の目的は同じ、ならばあの子を待つ間。無限にも等しいその時は、歴史を語り、過ごしましょう。まず語るは星の歴史にて」
「けれどもこの星も、あの子の歴史には及びませんよ」
「さればこそ。ここで待つことが、あの子を追いかけることになるならば、我等は喜んで待ちましょうぞ」
「藤原不比等と上白沢慧音。歴史にゆかりのある者同士が出会ったのです。待ちながらとくと語り明かしましょう」
交わす盃は高らかに。流れに抗いましょう。両の脚で地面を蹴り、あの子を追いましょう。歴史の果ての果て、泣きつかれて眠っているあの子を慰めましょう。死に死に死に死んで死の始めに語り、生き生き生き生きた生の終わりにて待ちましょう。そして。そして、いつかきっとまた出会いましょう。生きた私達、生きるあの子、再び交錯する瞬間は必ず在るのです。さぁ、まずはこの星に封じられた歴史を暴きましょう。迷うはずがありません。道しるべの蓬莱の魂には確かに「私」が刻まれているのですから。
私が歩んだ歴史の欠片は紡がれる幸せのために。
私からあふれた幸せの欠片は次の物語のために。
だから今は――。
さようなら、次の歴史で会いましょう。
ばいばい、妹紅。
と思うべきかスルーしてあげるのがシアワセと見るべきか
うーむむずかしい
とにかく良かった
なんというか、言葉にできない。
よかった。
とても、よかったです。
心に沁みる良い文章でした。
蜉噪縺ェ螻暮幕縺ッ縺ェ縺上→繧ゅ√§繧上§繧上→豸呵縺ォ縺上k濶ッ縺ス懷刀縺ァ縺励◆縲ゅ≠繧翫′縺ィ縺#縺悶>縺セ縺
妹紅の生い立ちを知ると堪えますね。藤原六子の内、名前すら残っていない忘れられた子……
それでも、覚えている人がいるのは幸いな事でしょう。
せめてあの子に幸せな再会を。
素敵なお話でした。
よかった。
魂の再会があらんことを。
素晴らしかった!
次の再会が遠いことだったとしても今はさよならですね。
あとがきを見て、タイトルの意味を考えて、
ああ、だからさよならなのか。と勝手に納得しました。
それなりに長い事東方SS読んできたけど、こんな経験初めてだ……。
ただひたすら待ち続ける二人が、何時の日か報われんことを。
けれど、さよならで終わらない二人であってほしいな