────最初に、光が。
そういう言葉があったが、その光が私の場合、彼女だった。
ここはどこだろうか。……私には思いうかぶ過去がない。
それでいて、体はまったく動かず、利かず、ただ意識だけが宙にのぼるように、世界を見聞きできた。
今、私の前には彼女がたっている。
まだどこか幼さの残る少女で、それでいて、とても変わった服を着ていた。
あたたかい血のように紅い衣と、つめたい雪のように白い衣。それをあわせたものだ。
そう考えている内に、世界は少しばかり鮮明になった。
生き生きとした森の木々。並べられた石畳。朱い棒……いや、あれは鳥居だろう。
そうか、ここは神社……神のやしろ。────ああ、彼女は神に仕える者、巫女だったのか。
彼女が私の前にかがむ。
どこか哀しそうに、なにか求めるように、ひとつ息をついた。……心配してくれているのだろうか。
彼女のその様子からして、私の容態は思わしくないようだった。
大丈夫だ。
そう、言葉をかけようとして────口があかない事に愕然とする。
いや……それもそうだろう。まったく自分では動かせないくらいの、なまりの様なこの体。
こうして生きているのが、不思議なくらいだろう。
そう思っているうちに────私の意識はまた遠く闇へとかえっていった。
次に目覚めた時も、彼女は目の前にいた。
私のもとに座りこみ、なにかをしている。どうやら私は世話を受けているようだった。
ありがとう。
そう伝えたくて、手をのばす。────そんな簡単な事も、まだ私の体は頑なに拒んだ。
彼女はお辞儀をするように一度頭を下げると、少し悲しそうに、でも私にほほえんでくれた。
そして何かを言う。……まだ私の耳は遠いようで、それはうまく聞き取れなかった。
彼女は毎日、同じ時間に私のもとに訪れてくれた。
そのおかげだろうか、世界は次第に眩く、そして音も少しずつ届くようになっていく。意識も長くたもてるようになった。
相変わらず……言葉を聞き取る事はできなかったが、それでもなにかの思いは伝わってくる。
それだけで、今の私には十分だった。……しあわせだった。
ある日、彼女が庭にいる時に、どこからか別の少女が降りてきた。
黒く大きい帽子に、黒い服。それに白い割烹着のようななにかを身につけている。手には大きなホウキ。
この少女はこの神社のお手伝いさんなのだろうか?
……いや、どうもそんな様子ではない。どちらかというと、神社に遊びにきた子供のように、どこかあどけない雰囲気だ。
黒の少女と、巫女の彼女は知り合いのようで……友人だろうか。親しげに、話している。
途中、黒い少女が私のほうを見た。
哀れむような、面白がるような、そんな視線。……少女は何かを言う。
私には聞こえなかったが、近くでそれを聞いたらしい巫女の彼女が、ひどく怒っているようだった。
……ああ、そんなに怒らなくていい。私は確かに、だれかにワラわれるような存在だ。
彼女がこうしてかばってくれるのは嬉しいが、未だ体が動かせなく、礼を言う口すらもたない。
自分の無様さに、涙が──ああ、出ているかもわからない……。わからないのだ。
彼女には、友人が多くいるようだった。
気がつくと、神社が幾人もの少女たちで埋められていた事もある。
その誰もが楽しげに、ゆったりと時を過ごしていた。時々彼女がいなくても、思い思いに何かをしている。
たまに私の方を見て、やはり哀れみのような、冷たい目を向ける者もいたが、そんな事は些末な事だった。
……常に童たちが集うこの神社の、なんとあたたかみのある事か。
遊びの輪に加われなくても、おかげで私は寂しくもなく、穏やかな時を過ごせた。
ある時、彼女が姿を見せなかった日々があった。
私は驚いた。普段、あんなに元気にはしゃぎ回っている彼女が、まったく神社に訪れないなんて。
いや、もしかしたら、彼女は別の部屋にいて──そのまま動けない状態だとは考えられないだろうか?
そう思うと、居ても立ってもいられない気持ちになり、今まで以上に、動こう、動こうとひたすら考えた。
もし彼女が病気をしているならば、私が助けなければならない。
普段こうして世話を受けているのだったら、今その恩を返せなくてどうする?
自責の念と、焦りがただ募り、私はただひたすら動かそうと体に強いた。
たとえすぐにバラバラになってもいい。ボロボロに朽ちてもいい。
彼女の額に冷たい布の一つでもかぶせてあげられるのなら、それだけでも価値はあるのだと。私は心の中で叫び続けた。
そんな、彼女の今までの看病に泥を塗るような事を考えた罰だろうか、……私の体はやはり動かなかった。
──そこに、あの黒い少女が訪れた。
黒の少女は私のもとに座り、彼女がいつもするようになにかをしている。
……まさか、そんな。私はこの少女にまで、世話を受けているのだろうか、迷惑をかけてしまっているのだろうか。
そして思う。友人の少女がここにいるという事は、彼女も同じように看病を受けていて、そして、寝床から私の事を頼んだのではないかと。
ああ、なんてコトだ。私は……わたしは……何もできないのに、彼女は私の事を……こんなにも気にかけてくれている。
こんなにも、心も、体もみっともない私を。彼女は許してくれるのか。
帰る場所すらわからない私を慈しんでくれるのか。
どうすれば……いいのだろう。どうすれば、ワタシは……。
そんな私の肩を──黒の少女が軽くたたいた気がした。
白い軌跡が、ちらほらと。……雪だ。
彼女が、庭をはいている。しんしんと降り積もった彼らを、神への道を現すために、そっとどかす。
衣の半分が景色にとけて、淡くうつろう紅の色。ゆらゆらと、それは一つの灯のように。誰かを導くように。
ああ、あれに誘われるように、彼女の横に立ってみたい。赤くかじかむ手の、代わりをつとめてあげたい。
焦がれ、もどかしく、ただ見つめる。
美しさとは、なにかの輝きだと誰かが言った。
では彼女のもつ輝きとは何だろう。世界そのものから浮いているような、幽玄なもの……とも違う。
優しさ、だろうか? ……いや、それは私への配慮だけではわからない。
社交……それも言葉が聞こえない私には判断できない。
それに、彼女のもっているモノとは、他にない唯一なものに思える。
やはりそれは──幻想だろうか。その類い希なる不思議さに。その空気に。
あの巫女の少女にそれを見て、ここには多くの者が集まっている……惹かれているのだ。
そう、……私もその一つに違いない。
雪かきが終わる。
鳥居からまっすぐのびる参道の、掃き清められたその場所で、彼女は一つ息を吐く。
霧のようにかすむそれが、雲になって雪に成るのではないか。
そんな埒もない事を考えていたら……──彼女が、こちらに歩いてきた。
まだ震えている肩、それでも白い布を手にとり、私の体を優しくゆすった。
いつもより丹念に、きれいに拭いてくれているようだった。
そして、いつものように話しかけてくる。いや……いつもより強く、望むように。
……これはやはり、私の事だろうか。早くなおって欲しい、という事なのだろうか。
そうであってほしいという願いと、そうであっては哀しいという、二つの私が声をあげる。
前者はともかく、後者はなぜそう思うのか。……なぜなのか。
神事。
境内に幾つも篝火がたかれ、その中心に彼女がいる。
私の近くには黒の少女と、なぜか羽が生えた三人の幼児達がいて、それを一緒に眺めている。
まだ星々の宿る闇夜に対し、やがて日の昇る山々に向かって、巫女が詠う。
──私はこれを識っている。
明けの明星、天香香背男命を抑え封じる儀式。
日之女の方、天照大神を迎える夜明けの祈祷。
これを行わないと、その年は妖怪の力が高まり、人間の安全が脅かされる。
覚えて……いや、どこかで……そんな話を聞いた覚えがある。
彼女は日の出まで、祈りを捧げるのだろうか。
篝火と巫女の彼女を、ぼう、と見続けるうちに──私の意識が夜明けの光を映すまえに消えていく──
メを開けると、彼女がナいていた。
まさか、儀式が────いや、今は景色も明るい。天空には、眩きあの方がちゃんと鎮座している。
……無事に成功したのだ。
でも、彼女は悲しそうに泣いている。…………。
なぜかわからないが、私の体にすがりつくように、ただ、気を落としていた。
理由はよくわからない。それでも彼女が悲しんでいる。それならば。
君は、よくやった。
手も言葉もだせないが、私はその頭をそっと撫でる。……赤い布飾りが、風で少しゆらめいた。
しばらくそうしていると、──ふと、なにかに気がついたように彼女は頭をあげた。
そして笑う。
……。最初から、泣いてなどなかったかもしれない。そんな笑顔だった。
鳥居の方にかけていく彼女の後ろ姿を見送りながら、私は思う。
ああ、そうか、いつの間にか、こんなにも────……
新年から遊びに訪れた友人たちに囲まれている、日より眩しい彼女を見て、私はただ目を細めた。
雪融けはゆるやかに。地の眠りが覚めていく。
この体があたたまる頃には、春の息吹がこの楽園にも訪れるだろう。
相変わらず動かないこの体と、遣えぬ言葉と、ぼんやりとした耳音と、変わらない日々。
彼女はいつものように私のもとに来てくれて、彼女がいない時は他のだれかを眺めて過ごす。
このままこの日常に埋もれていくのも、悪くないのだろう。そう想い始めたその頃に──あの者が現れた。
──あらあら、驚いたわ。まさかこんな処にねぇ。
私を見て、その者はそう言った。日傘を差して、紫色の派手な格好をしている。
一見、姿形は他の少女と似たようなものだが──その不吉な笑みは、例えようない不安を私に抱かせた。
なにより、なぜ、この者だけ、急に私は言葉を理解できたのか……。
──初めまして。ご挨拶できて光栄ですわ。
そう言って日傘をくるりと回し、くすくすと笑いながら少女が私におじぎをする。
どこか人を馬鹿にしたような……いや、そんな事はいい。それよりも。
もしかしたら、この者には私の言葉も解るのだろうか?
──正解。くすくす。ええ、十分に。
私の独白に、返事が返る。
驚きと共に、恐怖と期待が入り交じった感情が私を支配した。……私は少し考えてから、伝えたい言葉を決める。
そうか。ならば頼みたいことがあるのだが……。
──あら、何かしら?
見ての通り、私はこんな体だ。口も開かず、言葉も表せない。そして過去もない。
しかし、こんな私を、この神社の少女が世話をし続けてくれている。
だから、なにかお礼をしたいのだが……その方法が見つからない。どうか、智恵を貸してもらえないだろうか。
──…………。ふふ、うふふふふ。そう、アナタがねぇ。ふふふ。
日傘の少女はなにが面白いのか、堪えきれないとでもばかりに笑い続ける。
面を上げた時には、笑い涙まで出てたようで、しきりに目元をこすっていた。
──失礼、ごめんなさいね。まだ起きたばかりだったから。うふふふふ。
……いや、構わない。おそらく、私の言い方がまずかったのだろう。
だが、偽りなく、思っていることだ。それはわかってほしい。
──えぇ、えぇ。わかっているわ。記憶がないのなら、確かにそういう事もあるでしょう。
ふふふ……いいわ。あなたには智恵どころか、手を貸してあげますわ──約束しましょう。
そう言って、日傘の少女は宙に小指を突き出した。そしてくるりを回す。
……これは、指きりのつもりだろうか? 私も気持ちだけ、小指を回した。
紫の少女はまたクスリと笑うと、私を見下ろした。
──さてと、では早速取引だけど……こういう話は単純な方がいいのよね。
確認だけど、あなたはあの子にお礼がしたい。それでいいかしら?
思いだけ、頷く。この者なら、それで解ってくれるだろうと思った。
──了承、ね。わかったわ。ではそれに対して、私は条件を一つ出しましょう。
そして日傘をたたみ、それを真っ直ぐに私に向けた。
────あなたには、ここから消えて貰うわ。
日傘が、トン、と私を叩いた。
ゆらいだ体以上に、私はその言葉に動揺する。
ゆらぎが小刻みになった時にようやく、なぜ、とかすれた問いをなげかけた。
──あなたは此処にいては駄目なのよ。あなたは本来<こちら側>じゃあないんだから。
世界が、きしむような音を立てる。……一体、それは、どういう意味だ。
冗談……いや……少女の目はもう笑っていない。これは、嘘でも、遊びでもなく、本気で──
──本気。正式な取引で、冗談を言うほど哀しい事は無いわ。うふふふふ……もちろん、あなたが消えたら約束は守るわ。
あの子にはちゃんとお礼をしてあげる。……さて、お返事は如何、寝坊助さん?
…………。しばらく、何も考えられなかった。
だが、この者は条件を提示し、私に答えを求めている。……取引をもちかけている。
つまりこれは、問答無用に手をかけたりはしないという、約定だろう。
ならば、私も、その礼儀に応えなければならない。
狼狽する気持ちを抑えて、私は言葉を伝える。
……わかった。その言葉、信じよう。
──あら、思ったよりわりと素直に信じてくれるのね。周りに見習わせたいくらいだわ。ふふふ。
少し、間を置いて、さらに言葉を選ぶ。
……ただ、あまりに突然の事で、私は驚いている……少しだけ時間を貰えないだろうか。
──…………。ええ。もちろんいいわよ。ゆっくり吟味してくださって結構ですわ。
正直、あなたとこうしてお喋りするのも大変だから────少し日をあけてから、またここに訪れるわ。
それまでには、ちゃんと決めておいてね──……
そう言いながら、紫の者は消えていった。
世界に呑み込まれるように去った彼の者を見て、ようやく──あれはヒトではないのか、と理解した。
どこか遠く、狂おしく、夜の意識に心がふさぐ。
……今まで、少しは考えていた。
私に記憶がないのに、彼女が世話をしてくれること。その事について。
それはとても簡単で、憧れていて、その実、胸がくるしくなるものだった。
────彼女は、昔の私を知っている。そして、どこかで事故に遭った私を、助けようとしてくれた────
そんな夢想があった。……だが、真実はそれを妄想だと告げている。
私には、此処とは違う、帰るべき場所があるのだ。
どういった経緯で流れたかはわからないが、それは考えてもしかたがない。
あの者は、異邦の私はここには存在してはいけない、と言った。
ならば私は、あの者の手を借りて、元の場所に帰らなければならない。……かえらねば。
…………。
本当にそれでいいのだろうか? ここから去ってまで、成しとげたい事だろうか。
動けもせず、口もきけない、……そんなモノを、果たして帰るべき場所は受け入れてくれるのか?
家族、恋人、友人、そういった者達がいて、今の私を受け入れてくれるのだろうか?
いや、そもそも私は孤独の存在で……元の場所には、誰もいないのかもしれない。
戻されたが最後に、棺桶の中にただ沈むだけかもしれない。
……それは恐ろしい。怖い。悲しい……。
…………。
……ここ居る限り、その恐怖に怯えることはない。悲しみはない。
今まで通り、穏やかに、しあわせに過ごせるだろう。……それはとても素晴らしく思える。
彼女がいて、神社に訪れるその友人たちがいて、季節彩る木々があり、そこに宿る鳥がいて、新たな芽吹きがある。
清浄な風と、豊饒な土と、見渡せば遠くに人の里、不尽の如き高く天貫くあの岩山。
深淵なる広き森、霧に抱かれる湖。小さく見える紅の屋敷。さらに遠く遠くに見事な竹林。それらに住む人々。動物。自然。
どれもこれもいつか訪れてみたい。いや、想像をしているだけで、こんなにも胸が躍るのだ。
どうして、ここから離れることなど、できようか。
体がなおり──彼女と肩を並べてこの世界を巡る。その希望を捨てられようか。
────この幻想から、どうして背中を向けられようか────
…………。
そう、最初から答えはでていたのだ。
悩むことなど、何もなかった。
幾つかの日が過ぎ、そしてまた夜が訪れる。
彼の者は、音もなく私の前に現れた。
──今晩は、いい夜ね。
…………。
あの日と同じように紫の者が嗤う。暗く冥く楽しげなその笑み。
その様子に、夜の王という言葉が一瞬浮かぶ──が、それもどこか違う。
酷く薄気味悪く曖昧なこの存在は……まるで色とりどり斑模様の蛇のように、目を背けたくなるくらい、禍々しさの塊に視える。
本来、関わってはいけないナニカだと、私の中で警鐘が鳴らされ続けている。
そう、間違いなく危険な相手だ。ましてや、まともに取引など──と思う。
──どうしたのかしら?
しかし、それでも……紫の者は真摯だった。
不吉な笑みをたたえているその奥底で──こちらを心配しているのだと、そう視えてしまった。
ずっと人を眺めているだけだった、のが幸いだったのか、不幸だったのか──今、私はこの者を信じるしかない。
……今晩は。いい夜だ。
──あら、今度はちゃんと挨拶を返してくれたのね。嬉しいわ。
クスクスと笑い出す。その仕草と皮肉とは裏腹に、そう悪くは見えなかった。
──もっと、準備を整えてからと思ったけど、私も気が急いてたのかしら。
あれから十日くらいしか寝られなかったわ。これだとお肌があれちゃうわねぇ。
……十分だろう。と、いうのが礼儀だろうか。それに、貴女は若くて美しい。
世界そのものが吹きだした。
そう思えた瞬間だった。
当の本人の様子は……その名誉のため、言及しないようにしよう。ただ、おかげで少しばかり時間が過ぎた。
──傘が折れちゃったわねぇ。
……すまない。一応、正直に言ったつもりなのだ。
──お上手ね。と、今度は流すわ。見た目より策略家で困ったちゃんね、あなた。
……それは照れてしまう。ましてや自分より上手の者に言われては尚更に。
私のつまらない台詞のどこかがツボだったのだろうか。
これ以上ないというくらい笑い転げた後だというのに、紫の者はまた腹を押さえはじめた。
起きたてで、少しばかり螺子がゆるんでいるのかも知れない。
それにしても、人と話すとはこんなにも面白いものだったのか。
改めて、名残惜しい。……彼女とも、こうして会話を重ねたかった。
──あら、答えは決まってたのね。
……ああ、答えは決まっていたよ。
思えば簡単なこと、私が此処から離れたくないと思うほど、彼女に対する思いも同時につよくつよく募っていく。
最初に、光が。
私の場合、それが彼女だった。
その中に、彼女の友人たち、神社の優しさ美しさ、遠く憧れた情景の数々────全てが詰まっている。
さながら風船の中に入れられた風船をふくらます様に、その中身が拡がるほどに、外側も拡がっていく。
今の私にとって、世界そのものである彼女のために、なにか出来ること──これほど魅力的なものは他にないのだ。
……私がどこに帰るかは未だ解らない。
でも、彼女のために何かができた後の未来(せかい)なら、たとえどんな処でも、それはとても素晴らしいものになるだろう。
今も神社のどこかで寝息をたてているだろう彼女を思うと、それだけでこの緊張に震えている心が落ち着いていく。
紫の者はそんな私を見てなにか思ったか、折れた傘をクルクルと廻し始めた。
──前に、この神社で大きな災害があったのだけどね。
……?
────ああ、あなたは聞いてるだけで良いのよ。むしろお願いね?
ええと、そう。結構ひどい事故だったわねあれは……人災、いえ、あれも天災よねぇ。首謀者は懲らしめてやったけど。
まあ、おかげで二回もこの神社は潰れちゃったのよねぇ。あの子もしばらく家が無くなってて面白……いえ、不憫だったわねぇ。
でも、やはり一番不憫だったのは……────
折れた傘の先が、私を示す。…………。
云われた通り、私は黙って聞いている事にした。
──それはそれは、巻き添えも巻き添えで、思えばあの時、私も落ち着きが足らなかったのかも知れないわ。
この神社は外とこちらの両方に建っている事を、境界を造っておいてなんだけど、すっかり忘れてちゃってたのよね。
あなたには気の毒な事だったけど……まあ、こうしてちゃんと無事だったことには、感謝しなくちゃね──
すました表情はそのままに、紫の者が軽く肩をすくめる。この者なりの、照れかくしみたいなものだろうか。
──この神社は、幻想郷の結界の一つの基点。
その仕組みの中に、外側に神様を置いて、内側にそれに仕える巫女を置く、というものがある。
二つ合い離せぬもので結界を挟みこんで強化する。……磁石のN極とS極の間に、紙を挟んで支えているようなものかしら。
これが、博麗大結界を保持している重要な歯車の一つなの。
利点はあるわ。これなら内側で急に巫女がいなくなっても、まだ外側に神様がいるから、すぐには崩れない。
巫女の代替わりまでの時間は稼げるというわけ。もちろん、これは逆もしかりという訳なんだけど────
廻していた傘がピタリと止まる。
──まあ、今の貴方には関係のない話ね。さて、時間もそろそろ押してきたし、準備はいいかしら?
紫の者は、そう言って今にも明けそうな山々を見下ろした。
私は、……ワタシはうなずいた。
──ふふ、流石ね。早し。潔し。こちらの都合で振り回してばっかりで、アレだけど……。そうね、やはり最後は正直に話すわ。
横目でこちらを見て、僅かに、申し訳なさそうに眉を下げた。
……なんだろうか?
──今のあなたは、全て跡形もなく失われてしまうわ。元の場所に還り、過去(きおく)が戻るのだから。
もう少し、時間はあるのよ? 名残があるなら、もう少し待っても大丈夫なのだけど。
……そうか。だが、それよりも。
──何かしら?
……巫女の彼女に一つの礼を。あの子が喜びそうなものを……どうか。
紫の者は、驚いた猫のように目をパチパチとさせて──……それから尊いなにかに祈るように目を瞑り、そっとこちらに手を合わせた。
その背中から、今にも世界を染め上げそうな夜明けの槍が伸びてくる。
夜と朝の境界で、愛しき全てのものが天に照らされていく。
ああ、これが最後の光景(ユメ)だとは、……なんと素晴らしき贈り物……幻想なのだろうか。
──うふふ。大丈夫。必ず喜んでくれるわ。……それじゃあね。神霊さん。今度から、避難所はちゃんと選んでね。
紫の者が、私の方に、ナニカをはじいた。
ああ、日が──貫くような朝日が────、──ワタシを消していき、その光を浴びて、はじかれてきたナニカが輝いて────
────────あ…あ────ワカった───ソウカ、これが────ワタシ────…………
──────……
───……
──…
……
…
──チャリン
博麗神社。
幻想郷の東の境に位置する神社である。
日は昇り、目に眩しいその時間に、いつもの様に彼女は起き出していた。
「おっ、そぅ、じ~」
よくわからない歌を口遊みながら、日課の境内の掃き清めをすませる。
今年はいつもより丁寧なそれは、石畳を毎日輝かせていた。
それを見て、楽園の巫女は満足そうにほほえむ。
「もう年明けの悲劇はごめんよ。というか、今年は参拝客、まだ誰もこないじゃない……。余計なのは来るのに」
箒に寄りかかりながら、巫女はぶつぶつと、ちゃんとキレイにしているのになぁ……と文句を言いはじめた。
「大体、最近の参拝客は貧弱なのよ。骨がないわ。骨。……最近骨が主食に見えてきた気がするなぁ」
とぼとぼと、物憂い気に神社へ向かう。
だが、途中で面を上げた時には───いつもの暢気な巫女だった。
「おっ、さっい、せん~」
白い布を手に取り、賽銭箱に歩み寄る。
汚らしい賽銭箱だと、参拝客は見向きもしないだろう。今年もこちらには特に力を入れ、こまめに掃除をしていた。
ついでに隅々まで中身を確認してしまうのは……致し方ない事だと割り切っている。
「うぉす。おはよう。……なんだ、朝っぱらからまた賽銭泥棒か。精が出るな」
空から、箒にまたがった黒い少女が降りてくる。
そして、ガタゴトと賽銭箱を揺らし続ける紅白の紅を、呆れたように眺めた。
「もう儚い望みは捨てとけよ。去年神社がぶっつれてからさっぱりじゃないか。
式年遷宮の際に、貧乏神でも賽銭箱に取り憑いたんじゃないか?」
「(ガタゴト)」
「私が代わりに調べてやっても、葉っぱしか出なかったくらいだしな。
狐か狸ぐらいしか拝みにきてないとしか思えん。いなり寿司でも新たに祀ったらどうだ?」
「((ガタガタ)))」
「そうだな、ここは一つ神社の名前でも改名して、霧雨神社と名づけよう。
これなら流れ星のように賽銭も降りそそぎ……」
「きたー!!」
「うおぉう!?」
「やったぁ!」
賽銭箱に頭まで突っ込んでいた巫女が、勢いよく飛び出した。
「ほらほら! ちゃんと見なさいよ。賽銭よ賽銭!」
彼女が誇らしそうに掲げた手の先には、確かに輝く銭がある。
「誰か来てくれたのよ! 良かったぁ……嬉しいなぁ」
「よ、良かったな……。うーん……だけど小銭一枚だぜ、これじゃ飯代の足しにもならんじゃないか」
「そういう問題じゃないのよ。誰かが来て、賽銭を入れてくれたって事自体が嬉しいの。
賽銭っていうのは、誰かが私や神様をまだまだ頼りにしてるって証拠なんだから」
「そういうもんかなぁ」
「うん、そういうものなの──ああ、今日はなんか良いことありそうねぇ」
はずむような足取りで、巫女は神社をまわっていく。
途中、空にはじかれた銅銭が────まるで光の涙のように、一つきらめいた。
そういう言葉があったが、その光が私の場合、彼女だった。
ここはどこだろうか。……私には思いうかぶ過去がない。
それでいて、体はまったく動かず、利かず、ただ意識だけが宙にのぼるように、世界を見聞きできた。
今、私の前には彼女がたっている。
まだどこか幼さの残る少女で、それでいて、とても変わった服を着ていた。
あたたかい血のように紅い衣と、つめたい雪のように白い衣。それをあわせたものだ。
そう考えている内に、世界は少しばかり鮮明になった。
生き生きとした森の木々。並べられた石畳。朱い棒……いや、あれは鳥居だろう。
そうか、ここは神社……神のやしろ。────ああ、彼女は神に仕える者、巫女だったのか。
彼女が私の前にかがむ。
どこか哀しそうに、なにか求めるように、ひとつ息をついた。……心配してくれているのだろうか。
彼女のその様子からして、私の容態は思わしくないようだった。
大丈夫だ。
そう、言葉をかけようとして────口があかない事に愕然とする。
いや……それもそうだろう。まったく自分では動かせないくらいの、なまりの様なこの体。
こうして生きているのが、不思議なくらいだろう。
そう思っているうちに────私の意識はまた遠く闇へとかえっていった。
次に目覚めた時も、彼女は目の前にいた。
私のもとに座りこみ、なにかをしている。どうやら私は世話を受けているようだった。
ありがとう。
そう伝えたくて、手をのばす。────そんな簡単な事も、まだ私の体は頑なに拒んだ。
彼女はお辞儀をするように一度頭を下げると、少し悲しそうに、でも私にほほえんでくれた。
そして何かを言う。……まだ私の耳は遠いようで、それはうまく聞き取れなかった。
彼女は毎日、同じ時間に私のもとに訪れてくれた。
そのおかげだろうか、世界は次第に眩く、そして音も少しずつ届くようになっていく。意識も長くたもてるようになった。
相変わらず……言葉を聞き取る事はできなかったが、それでもなにかの思いは伝わってくる。
それだけで、今の私には十分だった。……しあわせだった。
ある日、彼女が庭にいる時に、どこからか別の少女が降りてきた。
黒く大きい帽子に、黒い服。それに白い割烹着のようななにかを身につけている。手には大きなホウキ。
この少女はこの神社のお手伝いさんなのだろうか?
……いや、どうもそんな様子ではない。どちらかというと、神社に遊びにきた子供のように、どこかあどけない雰囲気だ。
黒の少女と、巫女の彼女は知り合いのようで……友人だろうか。親しげに、話している。
途中、黒い少女が私のほうを見た。
哀れむような、面白がるような、そんな視線。……少女は何かを言う。
私には聞こえなかったが、近くでそれを聞いたらしい巫女の彼女が、ひどく怒っているようだった。
……ああ、そんなに怒らなくていい。私は確かに、だれかにワラわれるような存在だ。
彼女がこうしてかばってくれるのは嬉しいが、未だ体が動かせなく、礼を言う口すらもたない。
自分の無様さに、涙が──ああ、出ているかもわからない……。わからないのだ。
彼女には、友人が多くいるようだった。
気がつくと、神社が幾人もの少女たちで埋められていた事もある。
その誰もが楽しげに、ゆったりと時を過ごしていた。時々彼女がいなくても、思い思いに何かをしている。
たまに私の方を見て、やはり哀れみのような、冷たい目を向ける者もいたが、そんな事は些末な事だった。
……常に童たちが集うこの神社の、なんとあたたかみのある事か。
遊びの輪に加われなくても、おかげで私は寂しくもなく、穏やかな時を過ごせた。
ある時、彼女が姿を見せなかった日々があった。
私は驚いた。普段、あんなに元気にはしゃぎ回っている彼女が、まったく神社に訪れないなんて。
いや、もしかしたら、彼女は別の部屋にいて──そのまま動けない状態だとは考えられないだろうか?
そう思うと、居ても立ってもいられない気持ちになり、今まで以上に、動こう、動こうとひたすら考えた。
もし彼女が病気をしているならば、私が助けなければならない。
普段こうして世話を受けているのだったら、今その恩を返せなくてどうする?
自責の念と、焦りがただ募り、私はただひたすら動かそうと体に強いた。
たとえすぐにバラバラになってもいい。ボロボロに朽ちてもいい。
彼女の額に冷たい布の一つでもかぶせてあげられるのなら、それだけでも価値はあるのだと。私は心の中で叫び続けた。
そんな、彼女の今までの看病に泥を塗るような事を考えた罰だろうか、……私の体はやはり動かなかった。
──そこに、あの黒い少女が訪れた。
黒の少女は私のもとに座り、彼女がいつもするようになにかをしている。
……まさか、そんな。私はこの少女にまで、世話を受けているのだろうか、迷惑をかけてしまっているのだろうか。
そして思う。友人の少女がここにいるという事は、彼女も同じように看病を受けていて、そして、寝床から私の事を頼んだのではないかと。
ああ、なんてコトだ。私は……わたしは……何もできないのに、彼女は私の事を……こんなにも気にかけてくれている。
こんなにも、心も、体もみっともない私を。彼女は許してくれるのか。
帰る場所すらわからない私を慈しんでくれるのか。
どうすれば……いいのだろう。どうすれば、ワタシは……。
そんな私の肩を──黒の少女が軽くたたいた気がした。
白い軌跡が、ちらほらと。……雪だ。
彼女が、庭をはいている。しんしんと降り積もった彼らを、神への道を現すために、そっとどかす。
衣の半分が景色にとけて、淡くうつろう紅の色。ゆらゆらと、それは一つの灯のように。誰かを導くように。
ああ、あれに誘われるように、彼女の横に立ってみたい。赤くかじかむ手の、代わりをつとめてあげたい。
焦がれ、もどかしく、ただ見つめる。
美しさとは、なにかの輝きだと誰かが言った。
では彼女のもつ輝きとは何だろう。世界そのものから浮いているような、幽玄なもの……とも違う。
優しさ、だろうか? ……いや、それは私への配慮だけではわからない。
社交……それも言葉が聞こえない私には判断できない。
それに、彼女のもっているモノとは、他にない唯一なものに思える。
やはりそれは──幻想だろうか。その類い希なる不思議さに。その空気に。
あの巫女の少女にそれを見て、ここには多くの者が集まっている……惹かれているのだ。
そう、……私もその一つに違いない。
雪かきが終わる。
鳥居からまっすぐのびる参道の、掃き清められたその場所で、彼女は一つ息を吐く。
霧のようにかすむそれが、雲になって雪に成るのではないか。
そんな埒もない事を考えていたら……──彼女が、こちらに歩いてきた。
まだ震えている肩、それでも白い布を手にとり、私の体を優しくゆすった。
いつもより丹念に、きれいに拭いてくれているようだった。
そして、いつものように話しかけてくる。いや……いつもより強く、望むように。
……これはやはり、私の事だろうか。早くなおって欲しい、という事なのだろうか。
そうであってほしいという願いと、そうであっては哀しいという、二つの私が声をあげる。
前者はともかく、後者はなぜそう思うのか。……なぜなのか。
神事。
境内に幾つも篝火がたかれ、その中心に彼女がいる。
私の近くには黒の少女と、なぜか羽が生えた三人の幼児達がいて、それを一緒に眺めている。
まだ星々の宿る闇夜に対し、やがて日の昇る山々に向かって、巫女が詠う。
──私はこれを識っている。
明けの明星、天香香背男命を抑え封じる儀式。
日之女の方、天照大神を迎える夜明けの祈祷。
これを行わないと、その年は妖怪の力が高まり、人間の安全が脅かされる。
覚えて……いや、どこかで……そんな話を聞いた覚えがある。
彼女は日の出まで、祈りを捧げるのだろうか。
篝火と巫女の彼女を、ぼう、と見続けるうちに──私の意識が夜明けの光を映すまえに消えていく──
メを開けると、彼女がナいていた。
まさか、儀式が────いや、今は景色も明るい。天空には、眩きあの方がちゃんと鎮座している。
……無事に成功したのだ。
でも、彼女は悲しそうに泣いている。…………。
なぜかわからないが、私の体にすがりつくように、ただ、気を落としていた。
理由はよくわからない。それでも彼女が悲しんでいる。それならば。
君は、よくやった。
手も言葉もだせないが、私はその頭をそっと撫でる。……赤い布飾りが、風で少しゆらめいた。
しばらくそうしていると、──ふと、なにかに気がついたように彼女は頭をあげた。
そして笑う。
……。最初から、泣いてなどなかったかもしれない。そんな笑顔だった。
鳥居の方にかけていく彼女の後ろ姿を見送りながら、私は思う。
ああ、そうか、いつの間にか、こんなにも────……
新年から遊びに訪れた友人たちに囲まれている、日より眩しい彼女を見て、私はただ目を細めた。
雪融けはゆるやかに。地の眠りが覚めていく。
この体があたたまる頃には、春の息吹がこの楽園にも訪れるだろう。
相変わらず動かないこの体と、遣えぬ言葉と、ぼんやりとした耳音と、変わらない日々。
彼女はいつものように私のもとに来てくれて、彼女がいない時は他のだれかを眺めて過ごす。
このままこの日常に埋もれていくのも、悪くないのだろう。そう想い始めたその頃に──あの者が現れた。
──あらあら、驚いたわ。まさかこんな処にねぇ。
私を見て、その者はそう言った。日傘を差して、紫色の派手な格好をしている。
一見、姿形は他の少女と似たようなものだが──その不吉な笑みは、例えようない不安を私に抱かせた。
なにより、なぜ、この者だけ、急に私は言葉を理解できたのか……。
──初めまして。ご挨拶できて光栄ですわ。
そう言って日傘をくるりと回し、くすくすと笑いながら少女が私におじぎをする。
どこか人を馬鹿にしたような……いや、そんな事はいい。それよりも。
もしかしたら、この者には私の言葉も解るのだろうか?
──正解。くすくす。ええ、十分に。
私の独白に、返事が返る。
驚きと共に、恐怖と期待が入り交じった感情が私を支配した。……私は少し考えてから、伝えたい言葉を決める。
そうか。ならば頼みたいことがあるのだが……。
──あら、何かしら?
見ての通り、私はこんな体だ。口も開かず、言葉も表せない。そして過去もない。
しかし、こんな私を、この神社の少女が世話をし続けてくれている。
だから、なにかお礼をしたいのだが……その方法が見つからない。どうか、智恵を貸してもらえないだろうか。
──…………。ふふ、うふふふふ。そう、アナタがねぇ。ふふふ。
日傘の少女はなにが面白いのか、堪えきれないとでもばかりに笑い続ける。
面を上げた時には、笑い涙まで出てたようで、しきりに目元をこすっていた。
──失礼、ごめんなさいね。まだ起きたばかりだったから。うふふふふ。
……いや、構わない。おそらく、私の言い方がまずかったのだろう。
だが、偽りなく、思っていることだ。それはわかってほしい。
──えぇ、えぇ。わかっているわ。記憶がないのなら、確かにそういう事もあるでしょう。
ふふふ……いいわ。あなたには智恵どころか、手を貸してあげますわ──約束しましょう。
そう言って、日傘の少女は宙に小指を突き出した。そしてくるりを回す。
……これは、指きりのつもりだろうか? 私も気持ちだけ、小指を回した。
紫の少女はまたクスリと笑うと、私を見下ろした。
──さてと、では早速取引だけど……こういう話は単純な方がいいのよね。
確認だけど、あなたはあの子にお礼がしたい。それでいいかしら?
思いだけ、頷く。この者なら、それで解ってくれるだろうと思った。
──了承、ね。わかったわ。ではそれに対して、私は条件を一つ出しましょう。
そして日傘をたたみ、それを真っ直ぐに私に向けた。
────あなたには、ここから消えて貰うわ。
日傘が、トン、と私を叩いた。
ゆらいだ体以上に、私はその言葉に動揺する。
ゆらぎが小刻みになった時にようやく、なぜ、とかすれた問いをなげかけた。
──あなたは此処にいては駄目なのよ。あなたは本来<こちら側>じゃあないんだから。
世界が、きしむような音を立てる。……一体、それは、どういう意味だ。
冗談……いや……少女の目はもう笑っていない。これは、嘘でも、遊びでもなく、本気で──
──本気。正式な取引で、冗談を言うほど哀しい事は無いわ。うふふふふ……もちろん、あなたが消えたら約束は守るわ。
あの子にはちゃんとお礼をしてあげる。……さて、お返事は如何、寝坊助さん?
…………。しばらく、何も考えられなかった。
だが、この者は条件を提示し、私に答えを求めている。……取引をもちかけている。
つまりこれは、問答無用に手をかけたりはしないという、約定だろう。
ならば、私も、その礼儀に応えなければならない。
狼狽する気持ちを抑えて、私は言葉を伝える。
……わかった。その言葉、信じよう。
──あら、思ったよりわりと素直に信じてくれるのね。周りに見習わせたいくらいだわ。ふふふ。
少し、間を置いて、さらに言葉を選ぶ。
……ただ、あまりに突然の事で、私は驚いている……少しだけ時間を貰えないだろうか。
──…………。ええ。もちろんいいわよ。ゆっくり吟味してくださって結構ですわ。
正直、あなたとこうしてお喋りするのも大変だから────少し日をあけてから、またここに訪れるわ。
それまでには、ちゃんと決めておいてね──……
そう言いながら、紫の者は消えていった。
世界に呑み込まれるように去った彼の者を見て、ようやく──あれはヒトではないのか、と理解した。
どこか遠く、狂おしく、夜の意識に心がふさぐ。
……今まで、少しは考えていた。
私に記憶がないのに、彼女が世話をしてくれること。その事について。
それはとても簡単で、憧れていて、その実、胸がくるしくなるものだった。
────彼女は、昔の私を知っている。そして、どこかで事故に遭った私を、助けようとしてくれた────
そんな夢想があった。……だが、真実はそれを妄想だと告げている。
私には、此処とは違う、帰るべき場所があるのだ。
どういった経緯で流れたかはわからないが、それは考えてもしかたがない。
あの者は、異邦の私はここには存在してはいけない、と言った。
ならば私は、あの者の手を借りて、元の場所に帰らなければならない。……かえらねば。
…………。
本当にそれでいいのだろうか? ここから去ってまで、成しとげたい事だろうか。
動けもせず、口もきけない、……そんなモノを、果たして帰るべき場所は受け入れてくれるのか?
家族、恋人、友人、そういった者達がいて、今の私を受け入れてくれるのだろうか?
いや、そもそも私は孤独の存在で……元の場所には、誰もいないのかもしれない。
戻されたが最後に、棺桶の中にただ沈むだけかもしれない。
……それは恐ろしい。怖い。悲しい……。
…………。
……ここ居る限り、その恐怖に怯えることはない。悲しみはない。
今まで通り、穏やかに、しあわせに過ごせるだろう。……それはとても素晴らしく思える。
彼女がいて、神社に訪れるその友人たちがいて、季節彩る木々があり、そこに宿る鳥がいて、新たな芽吹きがある。
清浄な風と、豊饒な土と、見渡せば遠くに人の里、不尽の如き高く天貫くあの岩山。
深淵なる広き森、霧に抱かれる湖。小さく見える紅の屋敷。さらに遠く遠くに見事な竹林。それらに住む人々。動物。自然。
どれもこれもいつか訪れてみたい。いや、想像をしているだけで、こんなにも胸が躍るのだ。
どうして、ここから離れることなど、できようか。
体がなおり──彼女と肩を並べてこの世界を巡る。その希望を捨てられようか。
────この幻想から、どうして背中を向けられようか────
…………。
そう、最初から答えはでていたのだ。
悩むことなど、何もなかった。
幾つかの日が過ぎ、そしてまた夜が訪れる。
彼の者は、音もなく私の前に現れた。
──今晩は、いい夜ね。
…………。
あの日と同じように紫の者が嗤う。暗く冥く楽しげなその笑み。
その様子に、夜の王という言葉が一瞬浮かぶ──が、それもどこか違う。
酷く薄気味悪く曖昧なこの存在は……まるで色とりどり斑模様の蛇のように、目を背けたくなるくらい、禍々しさの塊に視える。
本来、関わってはいけないナニカだと、私の中で警鐘が鳴らされ続けている。
そう、間違いなく危険な相手だ。ましてや、まともに取引など──と思う。
──どうしたのかしら?
しかし、それでも……紫の者は真摯だった。
不吉な笑みをたたえているその奥底で──こちらを心配しているのだと、そう視えてしまった。
ずっと人を眺めているだけだった、のが幸いだったのか、不幸だったのか──今、私はこの者を信じるしかない。
……今晩は。いい夜だ。
──あら、今度はちゃんと挨拶を返してくれたのね。嬉しいわ。
クスクスと笑い出す。その仕草と皮肉とは裏腹に、そう悪くは見えなかった。
──もっと、準備を整えてからと思ったけど、私も気が急いてたのかしら。
あれから十日くらいしか寝られなかったわ。これだとお肌があれちゃうわねぇ。
……十分だろう。と、いうのが礼儀だろうか。それに、貴女は若くて美しい。
世界そのものが吹きだした。
そう思えた瞬間だった。
当の本人の様子は……その名誉のため、言及しないようにしよう。ただ、おかげで少しばかり時間が過ぎた。
──傘が折れちゃったわねぇ。
……すまない。一応、正直に言ったつもりなのだ。
──お上手ね。と、今度は流すわ。見た目より策略家で困ったちゃんね、あなた。
……それは照れてしまう。ましてや自分より上手の者に言われては尚更に。
私のつまらない台詞のどこかがツボだったのだろうか。
これ以上ないというくらい笑い転げた後だというのに、紫の者はまた腹を押さえはじめた。
起きたてで、少しばかり螺子がゆるんでいるのかも知れない。
それにしても、人と話すとはこんなにも面白いものだったのか。
改めて、名残惜しい。……彼女とも、こうして会話を重ねたかった。
──あら、答えは決まってたのね。
……ああ、答えは決まっていたよ。
思えば簡単なこと、私が此処から離れたくないと思うほど、彼女に対する思いも同時につよくつよく募っていく。
最初に、光が。
私の場合、それが彼女だった。
その中に、彼女の友人たち、神社の優しさ美しさ、遠く憧れた情景の数々────全てが詰まっている。
さながら風船の中に入れられた風船をふくらます様に、その中身が拡がるほどに、外側も拡がっていく。
今の私にとって、世界そのものである彼女のために、なにか出来ること──これほど魅力的なものは他にないのだ。
……私がどこに帰るかは未だ解らない。
でも、彼女のために何かができた後の未来(せかい)なら、たとえどんな処でも、それはとても素晴らしいものになるだろう。
今も神社のどこかで寝息をたてているだろう彼女を思うと、それだけでこの緊張に震えている心が落ち着いていく。
紫の者はそんな私を見てなにか思ったか、折れた傘をクルクルと廻し始めた。
──前に、この神社で大きな災害があったのだけどね。
……?
────ああ、あなたは聞いてるだけで良いのよ。むしろお願いね?
ええと、そう。結構ひどい事故だったわねあれは……人災、いえ、あれも天災よねぇ。首謀者は懲らしめてやったけど。
まあ、おかげで二回もこの神社は潰れちゃったのよねぇ。あの子もしばらく家が無くなってて面白……いえ、不憫だったわねぇ。
でも、やはり一番不憫だったのは……────
折れた傘の先が、私を示す。…………。
云われた通り、私は黙って聞いている事にした。
──それはそれは、巻き添えも巻き添えで、思えばあの時、私も落ち着きが足らなかったのかも知れないわ。
この神社は外とこちらの両方に建っている事を、境界を造っておいてなんだけど、すっかり忘れてちゃってたのよね。
あなたには気の毒な事だったけど……まあ、こうしてちゃんと無事だったことには、感謝しなくちゃね──
すました表情はそのままに、紫の者が軽く肩をすくめる。この者なりの、照れかくしみたいなものだろうか。
──この神社は、幻想郷の結界の一つの基点。
その仕組みの中に、外側に神様を置いて、内側にそれに仕える巫女を置く、というものがある。
二つ合い離せぬもので結界を挟みこんで強化する。……磁石のN極とS極の間に、紙を挟んで支えているようなものかしら。
これが、博麗大結界を保持している重要な歯車の一つなの。
利点はあるわ。これなら内側で急に巫女がいなくなっても、まだ外側に神様がいるから、すぐには崩れない。
巫女の代替わりまでの時間は稼げるというわけ。もちろん、これは逆もしかりという訳なんだけど────
廻していた傘がピタリと止まる。
──まあ、今の貴方には関係のない話ね。さて、時間もそろそろ押してきたし、準備はいいかしら?
紫の者は、そう言って今にも明けそうな山々を見下ろした。
私は、……ワタシはうなずいた。
──ふふ、流石ね。早し。潔し。こちらの都合で振り回してばっかりで、アレだけど……。そうね、やはり最後は正直に話すわ。
横目でこちらを見て、僅かに、申し訳なさそうに眉を下げた。
……なんだろうか?
──今のあなたは、全て跡形もなく失われてしまうわ。元の場所に還り、過去(きおく)が戻るのだから。
もう少し、時間はあるのよ? 名残があるなら、もう少し待っても大丈夫なのだけど。
……そうか。だが、それよりも。
──何かしら?
……巫女の彼女に一つの礼を。あの子が喜びそうなものを……どうか。
紫の者は、驚いた猫のように目をパチパチとさせて──……それから尊いなにかに祈るように目を瞑り、そっとこちらに手を合わせた。
その背中から、今にも世界を染め上げそうな夜明けの槍が伸びてくる。
夜と朝の境界で、愛しき全てのものが天に照らされていく。
ああ、これが最後の光景(ユメ)だとは、……なんと素晴らしき贈り物……幻想なのだろうか。
──うふふ。大丈夫。必ず喜んでくれるわ。……それじゃあね。神霊さん。今度から、避難所はちゃんと選んでね。
紫の者が、私の方に、ナニカをはじいた。
ああ、日が──貫くような朝日が────、──ワタシを消していき、その光を浴びて、はじかれてきたナニカが輝いて────
────────あ…あ────ワカった───ソウカ、これが────ワタシ────…………
──────……
───……
──…
……
…
──チャリン
博麗神社。
幻想郷の東の境に位置する神社である。
日は昇り、目に眩しいその時間に、いつもの様に彼女は起き出していた。
「おっ、そぅ、じ~」
よくわからない歌を口遊みながら、日課の境内の掃き清めをすませる。
今年はいつもより丁寧なそれは、石畳を毎日輝かせていた。
それを見て、楽園の巫女は満足そうにほほえむ。
「もう年明けの悲劇はごめんよ。というか、今年は参拝客、まだ誰もこないじゃない……。余計なのは来るのに」
箒に寄りかかりながら、巫女はぶつぶつと、ちゃんとキレイにしているのになぁ……と文句を言いはじめた。
「大体、最近の参拝客は貧弱なのよ。骨がないわ。骨。……最近骨が主食に見えてきた気がするなぁ」
とぼとぼと、物憂い気に神社へ向かう。
だが、途中で面を上げた時には───いつもの暢気な巫女だった。
「おっ、さっい、せん~」
白い布を手に取り、賽銭箱に歩み寄る。
汚らしい賽銭箱だと、参拝客は見向きもしないだろう。今年もこちらには特に力を入れ、こまめに掃除をしていた。
ついでに隅々まで中身を確認してしまうのは……致し方ない事だと割り切っている。
「うぉす。おはよう。……なんだ、朝っぱらからまた賽銭泥棒か。精が出るな」
空から、箒にまたがった黒い少女が降りてくる。
そして、ガタゴトと賽銭箱を揺らし続ける紅白の紅を、呆れたように眺めた。
「もう儚い望みは捨てとけよ。去年神社がぶっつれてからさっぱりじゃないか。
式年遷宮の際に、貧乏神でも賽銭箱に取り憑いたんじゃないか?」
「(ガタゴト)」
「私が代わりに調べてやっても、葉っぱしか出なかったくらいだしな。
狐か狸ぐらいしか拝みにきてないとしか思えん。いなり寿司でも新たに祀ったらどうだ?」
「((ガタガタ)))」
「そうだな、ここは一つ神社の名前でも改名して、霧雨神社と名づけよう。
これなら流れ星のように賽銭も降りそそぎ……」
「きたー!!」
「うおぉう!?」
「やったぁ!」
賽銭箱に頭まで突っ込んでいた巫女が、勢いよく飛び出した。
「ほらほら! ちゃんと見なさいよ。賽銭よ賽銭!」
彼女が誇らしそうに掲げた手の先には、確かに輝く銭がある。
「誰か来てくれたのよ! 良かったぁ……嬉しいなぁ」
「よ、良かったな……。うーん……だけど小銭一枚だぜ、これじゃ飯代の足しにもならんじゃないか」
「そういう問題じゃないのよ。誰かが来て、賽銭を入れてくれたって事自体が嬉しいの。
賽銭っていうのは、誰かが私や神様をまだまだ頼りにしてるって証拠なんだから」
「そういうもんかなぁ」
「うん、そういうものなの──ああ、今日はなんか良いことありそうねぇ」
はずむような足取りで、巫女は神社をまわっていく。
途中、空にはじかれた銅銭が────まるで光の涙のように、一つきらめいた。
何ていい話なんだ……ええい、博麗神社はどこだ、俺は賽銭を入れるんだ!
そして霊夢と箱の両方を喜ばせてやるんだ!
賽銭代わりに100点チャリン。
ええ話や。
むしろ解らなくても普通にいい話として読める事に驚いた。
そして読み直したら、賽銭箱に絶賛される紫……そりゃ吹き出すなww
とは言え、それでも充分におもしろかったです。
独特の味わいある文章が良いですなぁ…。
でもこんな素敵な神様がいてもいいじゃない。
もってけ泥棒!つ1000円
いや、いいお話でした。そして、読み返すと最初の感想と180度変わってしまうというww
箱かよwww賽銭箱かよwww
チャリーンで確信できた
面白かったです。
読み終わった直後のいまなら樋口さんまで出せる。
⌒◎
[賽銭箱]
読み直しても若干の感動があるぜ
お見事ですw
つ[賽銭]
わからなそうでわかりそうな絶妙なヒントだったと思います。
話の作り方がとてもうまいなぁと。つ ミ ⑤