どひゅーん、どひゅーん、と軽快な音がして花火が舞い上がり、続いてぱちぱちぱちという火の爆ぜる音がする。
たまに届く色彩を問わぬ光が暗い部屋を染め上げ、また闇に戻した。私はどっこいしょ、と軽く息を吐いて半身を起こし、その様子をじいっと見つめていた。
今日は楽しいお祭りの日だ。同年代の少年少女達は良い匂いを漂わせる出店に目を輝かせていることだろう。
もちろん、私は違う。風邪をこじらせてしまったというのも理由の一つではあるが、私は他の子に比べてぐっと大人びているのである。
この稗田阿求はお祭りに心奪われたりはしない。今もさらりと涼やかな表情で酒を飲んでいるところである。
布団はぐっしょりと濡れていた。汗をかきすぎてしまったらしい。今日は本当に暑いので、ともすればあせもが出来てしまうかもしれない。
それはちょっと頂けない。氷嚢を額に当てたまま、どうすべきかしばらく悩んでいた。これから風呂に向かうのは良策ではない。
家の人たちは風呂に入らず寝るようにと指示を出してきた。出向いても部屋に戻れの一点張りに違いない。
誰かを呼んで体を拭って貰うという手もあるが、風呂も駄目、外に出ても駄目だと家の者全員に不当な拘束を受けた私はそれと戦わねばならない。
敵に情けをかけてもらうほど私は甘ったれてはいないのだ。
そこまで考えて、私はたった一つの冴え過ぎた名案を思いついた。
夜風に当たって体を冷やせば良いのだ。家の者達に対する義憤の叫びにもなるし、まさに一石二鳥の上策だ。
善は急げ。思い立ったら行動あるのみだ。私はじっとりと重く湿った寝間着を脱ぎ捨てて、からっと乾いた普段着に着替えると背伸びを一つ。
この氷嚢が在る限り額の痛みは抑えることが出来る。大暴れしない限りはきっと大丈夫だ。急がねば花火も打ち止めになってしまうかも知れない。
別に外でそれを見たい訳じゃないけれど、折角だし見てあげないこともない。
襖を開けて堂々と廊下を歩く。出会った人には厠に行くと伝えておいた。
ここで妙にびくついては感づかれてしまう可能性があったからだ。私の作戦は面白いように上手くいった。
聡明な頭脳と大胆な行動力の結果である。一見馬鹿らしく見えるかも知れないが、これで失敗するのが妖精、成功するのが私だ。馬鹿となんとかは紙一重。
一番の難所は家の入り口である。戸口に立っている連中まで誤魔化すのは不可能だ。手を変えねばならない。
私より遙かに長身で、筋骨隆々の中年男二人を見上げる。何か口走ろうとする男二人だったが、
キッと鋭い顔をして唇に人差し指を当てるジェスチャーをとると、慌てて口を噤んだ。
ざっ、ざっ、とお気に入りの履き物で地面を蹴り音を立てて歩き、私は神妙極まりない表情で言った。
「……仔細、承知していますね?」
男二人は畏まって、はっ、と返事をした。失笑しそうだったが必死でこらえた。何を承知しているというのだ、あなたたちは。
可笑しくて仕方なかったが、何とか歩調を乱さずに外に出た。二、三分のうちに誰かが妙だと気づくだろうがもう遅い。私は夜の闇に姿をくらました。
脱走なんてやってみれば容易い事である。私の今まで読んできた本の主人公達も、その九割以上が難しい難しいと嘆いていながら皆脱走に成功しているのだ。
だから私は確信していた。逃げることなんて簡単なのだと。そしてそれは当然真実であった。闇夜に紛れた私を捕まえることは誰にも出来ない。
問題があるとすれば、今の私は一文無しであるという、その点のみである。村人に会うのは避けねばならないが、折角だからこの逃避行を誰かに伝えたい。
どこかその辺に都合良く妖怪が転がってはいないだろうかと祭りの中心から離れた河川敷をぶらぶらと歩く。真っ黒の水面には歪んだ月が浮いていた。
一瞬手に掬ってみようかとも思ったが馬鹿馬鹿しいのでやめた。更にてくてくと歩く。ちょっと頭がくらくらしてきた。なんだか良い気分だ。
寝る前に呑んでいた酒が良かったのかも知れない。
そんなことを思い歩き続けていると、川に下半身を突っ込み、奇っ怪な衣装の背に「マヌケ」と書かれた服を身に纏った男が転がっているのが目に入った。
なるほど一目見て分かる珍しいタイプのマヌケである。私はそんなことを思いながらそいつに近づいてみた。最近の妖怪は腑抜けばかりだ。
本当は妖怪というのは身の毛もよだつ恐ろしい存在なのだが、これではそれを理解してくれる人間は減る一方だ。てくてくと近づき、顔を覗き込んでみる。
間の抜けた姿勢とは裏腹に顔立ちは整っていた。眼鏡がずり落ちているのが玉に瑕ではあるのだが。とんだ三枚目も居たものだ。
しかしながら、優れた頭脳の持ち主の下には頭は悪いが純朴な手下がつくものと決まっている。
怪力ならば非の打ち所が無いのだが、この細腕を見る限りその線は無いと思って良いだろう。
しかし、よく考えてみたらこの男を手下にする方法が無かった。
まあ一人で居るのは詰まらないのでこんなぐったりしたマヌケでも良いかと自分を慰める。
じいっと観察していると、やがて男はぐっしょりと濡れた手で地面に手をつき、川から這い上がってきた。
そして、げほ、ごほ、と苦しそうに咳をしてみせる。どうやら私の存在には気が付いていないようだ。
眉を寄せて忌々しそうな表情を作り、彼は吐き捨てた。
「……二度と天狗なんかと酒を呑むものか」
どうやらこのどんちゃん騒ぎに乗じてやってきた天狗に絡まれてしまったようである。哀れな男だ。
気を失わずに悪態を吐く元気があるのをむしろ褒めてやるべきかも知れない。
周囲に吐瀉物が散っている様子もないし、案外酒には強いのだろうか。
そんな事を考えていると、青年の疲れ果てた目の焦点がようやく私に合った。
彼はじい、とこちらを観察した後、安心したように溜息をついて、左手を腹部に当て、石ころの転がる河原に這い蹲った。
ばあん、ばあん、と次々に花火が撃ち上がり、遠く祭囃子が聞こえる。彼は私の存在を確認してはいるようだけれど、話しかける元気は無さそうだった。
目を閉じ、呻き声を押し殺している。どうやら吐くほど呑んでいないのではなく、単に痩せ我慢しているだけのようだ。
戻すものは戻した方が楽になれるだろうに、意地っ張りな人なのだろう。
「吐いてしまった方がいいですよ」
彼に近づき、背中をさすりながら問うてみるも、嫌々するように首を振るばかりだ。
このまま放って先に行くのも良いが、これ以上里から離れても面白いものは何も無い。ちょうど花火を見るのに良い場所であることもあって、私は彼の隣に陣取った。
やはり大人の背中は大きい。小さな私の手の幾つ分の広さがあるんだろうか。マヌケと筆で走り書きされた一張羅らしき服の背を撫でながらそんなことを思う。
どひゅん、どひゅんと盛大に花火が打ち上げられる。わっ、という歓声までこちらに聞こえてきた。十分ほどそうしていたらだろうか、青年は礼を述べて河原に仰向けになった。
顔色は随分と良くなっている。本当に吐かずにやり過ごしてしまったようだ。その無駄な根性に思わず苦笑が漏れる。
あか抜けない雰囲気が漂っているのに、同時に切れ者なのだろうと知れる不思議な人格。
――ああ、思い出した。先程まで骸骨みたいな顔をしていたものだから、記憶と照合できなかったのか。
「あなたは、ついこの前に蝉のことを訊ねに来た人ですね?」
その言葉に、青年も驚いたように目を見開いた。今まで私が誰だか分かっていなかったらしい。
「ああ。君は、稗田家の……」
ぽかんとしている顔が面白かったので、いつまでも気が付かないその鈍さは許そう。ご名答、と笑んで彼に言う。
「香霖堂の森近霖之助さんでしたっけ」
さらりと流れるように、自己紹介のようでそれとは全く逆の挨拶を済ませた。さて、ここで一つ世間話でもと香霖堂さんに視線をやるが、何故だか彼は居心地が悪そうだった。
子供に情けない姿を見られたことがそんなに恥ずかしいのだろうか。吐かなかったという事実でこの人は一応の体面を保っているつもりなのだと思っていたのだけれど。
表情に疑惑の色でも浮かんでいたのか、彼は曖昧な表情を浮かべて頭を下げた。
「悪いね。里の人と話すのはちょっと苦手なんだ」
はてなと私は首を傾げる。返ってきたのが予想とは大幅にずれた答えだったからだ。香霖堂さんに人付き合いが苦手というイメージは無かった。
あの夏の日に私の元を訪れた時は随分リラックスしているように見えたし。だとすれば、誰かが前もってこの偏狭な商人の心を解きほぐしてくれたのだろうか。大した人である。
霧雨家と縁があると言っていたので、案外そこのご主人さんなのかも知れない。高齢だが、彼は今も元気にしている。
「別にあなたが半人半妖であっても石を投げたりはしませんよ?」
香霖堂さんの不安を解きほぐすようにそう言ってみる。すると、彼はきょとんとして二三度瞬きした後、顔を背けてひくひくと肩を震わせ始めた。笑っているらしい。
とんでもなく失礼な人だ。私が折角心配しているというのにその態度は無いだろう。
文句を言ってやろうと口を開いたのだが、こちらをちらりと見やった香霖堂さんが、耐えられないという様子でまた笑い出すものだから、閉口してしまう。
ひとしきり笑った後(その間私はずっと仏頂面だった)、彼は未だに頬を歪ませたまま言った。
「石を投げないのなら安心だね」
「馬鹿にしているんですか」
むっとしてそう言うと、彼は少しだけ真面目な表情になって、言った。
「安心が半分、不安が半分ってところだな」
森近霖之助は聡い男だ。学ぶ、記憶するという点において私の上を行く者はそうそう居ないが、考えるという点においてこの男の上を行く者もまた珍しいだろう。私は膨らませた頬を元に戻す。
彼は起きている間ずっと何かを考えているような人だ。天狗にはその様子が間の抜けているように見えたのかも知れない。
彼らは真実を写し取っているようで、実際その一面しか見ることが出来ない。写真機を用いて得た薄っぺらい写真がそれを隠喩していて滑稽だと以前そう思ったことがあるくらいだ。
もちろん、私が香霖堂さんを過大評価している可能性もあるが。
「なんだか面白そうですね。
酔い覚ましついでにその安心と不安を語って貰えませんか? 幻想郷縁起を仕上げる上でちょっとしたネタになるかも知れませんし」
仕事熱心なのは良いことだと感心しつつ、彼は私の頼みを了承した。しかし、なかなか話し出そうとしない。渋っているのかと顔を覗き込んでみると、どうやらただ単に酔いの気持ち悪さに耐えかねているだけらしい。
何があったのか知らないが、そんなになるまで呑むなという。どうせ山の技術を教えてやるから一緒に呑め云々と誘われたのだろう。
長い時を生きた者なら天狗との宴会がどれほどうざったいか知っているはずなのだが。それとも、知っていてなお我慢できずに突っ込んだのだろうか。好奇心、店主を殺す。
ちょっと失礼なことを考えている間に調子が良くなったのか、香霖堂さんは口を開く。
「それじゃあ少しばかり話そうか。君は覚えているかどうか知らないが、その昔、里の人間は酷く妖怪を恐れたものだ。何せ彼らは人を襲う対象としてしか見ていない。
人間にそれだけの価値しか見出していない。半人半妖の僕が人里で修行することができたのだって、妖怪らしさを見せることなく過ごしてきたからだ。
争いは好きじゃないし、能力だって人を襲うのには不適だったから、里の人たちも妖怪よりは人間に近い存在として僕を認めてくれた」
いきなり自分語りから始まった。肩すかしを食った感があったけれど、大人しく話を聞くことにする。
だけど、と彼は言葉を続ける。
「もしあの場所に何十年も居続けたら嫌でも僕に妖怪の血が流れていることを意識させてしまう。
どうやら僕の寿命は人間のそれより遙かに長いらしいからね。未だに老いる兆しがない」
香霖堂さんは何歳なのだろうかと疑問に思ったが、妖怪が自分の年を一々数えているはずがないと思い、話に集中することにした。
「もちろん半獣のように人と和し、人よりちょっとばかし長く生きている連中も居る。でもそいつらは基本的に人に利を成す存在だ。人を助け、人を襲う妖怪を退けてくれる。
しかし、僕は違う。僕にとって、人間も妖怪も等価値だ。つまり、何が言いたいのかというとだね――」
彼は、うーむ、と苦しそうに呻いた。喋りすぎてまた体調を崩してしまったらしい。ふー、ふー、と幾度か浅い呼吸を繰り返し、香霖堂さんはまた語る。
「人と妖怪とどっちに転ぶか分からないアンバランスな僕は、一向に老いぬその姿と相まって里の人々の恐怖の対象になるんじゃないかって思ったんだ」
「それで、安心と不安というわけですか」
言うと、彼は満足げにうなずいた。
「僕の知り合いは自分で考えようとしないからねえ。安心の方は分かっても、不安の方は訊ねてくるかと思ったが」
「頭脳明晰ですから」
言ってにこりと笑う。香霖堂さんの持論は、スペルカードルールの登場によって幻想郷は理想の時代を迎えたという私の考えよりやや悲観的だったが、言わんとすることは分かるし、一蹴すべき論ではないとも思う。
彼の安心というのはつまり、自分を恐れる存在が居なくなり、安心して人里を行き来することができるようになったということだ。
そして、不安というのはつまり、人間と妖怪の馴れ合いが過度に進んでいるのではないかということだ。
スペルカードルールの存在があってもなお、香霖堂さんはその不安を拭い去ることが出来ないのだろう。
妖怪は人間を襲い、人間は妖怪を退治する。このスタンスがもう一度崩れる時が来るのではないかと彼は懸念している。
ルールによって人間と妖怪は気軽に決闘することが可能になった。故に、どこか互いに余裕のようなものが漂っているのだ。
それでもなお互いに戦い続けてくれるのならば良い。人と妖怪との馴れ合いが悪しとされる理由は、互いの力が弱まってしまうからだ。
常に戦い続け、お互いの力を一定以上に保つことで幻想郷のパワーバランスを揺るぎないものとしてくれるのならば馴れ合いも大いに結構だ。
新参の強力な妖怪が来ても、幻想郷の掟に従わせることが出来るくらいの力を保持しなければならない。
今は、スペルカードルールによってそれが保持されている。だがもし――このルールが飽きられたらどうなるだろうか。
飽きられた場合はまだ何とかなる。新しい流行を生み出せば良いだけの話なのだから。
まずいのは、スペルカードルールが存続し続けた上で、妖怪と人間が馴れ合いだした時だ。
ルールの存在によって人間と妖怪は適度な緊張感を持って戦い続けているが、それはあくまでも決闘を常日頃から行っている一部の者達に限ったことなのだ。
少なくとも、毎日のように決闘を行う人間は少ない。
もちろん、それ自体は悪いことではない。元々妖怪退治は博麗の巫女の仕事だったから、むしろそれは当然である。
しかし、このルールの存在は決闘を行わない人間に、小さな誤解を生じさせかねない。
今の世の妖怪は人を食わない。意外に気さくで良い奴らだ。姿形は少々違えども人間と同じような奴らだ。大人達はともかく、里の子供達にはそんな観念が植え付けられているかもしれない。
それでは駄目だ。人間と妖怪が仲良くすることは悪いことではないが、
両者を同じものだと見なしてはならない。昔の人々は今のようなセーフティネットが無かったため、妖怪の恐ろしさを、熟知していた。人間とは全く別の生き物なのだと理解していた。
だが、もし死人が出るような大異変が起きてしまった場合、仮に巫女がそれを解決したとしても里の人間達の妖怪への信頼は敵愾心に転じてしまうことだろう。
幻想郷のパワーバランス自体はそうして人と妖怪が憎み合うことでも保たれるが、やっぱりこの地は楽園であって欲しい。
だからこそ、妖怪を恐れぬ今の風潮は憂えねばならない。彼の考えは、筋が通っている。私自身、妖怪をあまり怖がってはいない。
今執筆している幻想郷縁起は、そのことに警鐘を鳴らすものとして仕上げているつもりだ。あとは少々の加筆修正を加えれば完成である。
妖怪についての記述はかなり過激なものばかりだが、その程度で丁度良いのだと私は信じている。
そして、香霖堂さんもそれに賛同する人だと知った。このことで私は更に自信を持った。しかしだ。
「話を戻しますが、やっぱり笑うのは酷いのではないかと思います」
「まだそんなことを根に持っていたのか」
朴念仁店主さんにとっては多少の不快な記憶など塵芥に等しいのだろうが、私はそれら全てを鮮明に記憶している。
「そんなこととは何ですか。私は気を遣って発言したのに失笑されてはたまりません」
「大きい人間は懐が広いものだよ」
「天狗を許さんとかほざいていたのは誰ですか」
「山を取られた鬼かも知れないね」
呆れたことにこの男、平然とすっとぼけて見せた。香霖堂さんが一癖も二癖もある人物だということは、よく分かった。
こんなことならば蝉の話などしなければ良かった。誰かに蝉のことを自慢げに話して聞かせ、悦に入っているこの人の様子がありありと思い浮かぶ。
謝ってくるかと思ったが、その気配は無い。遠く、私の名を呼ぶ声が聞こえた気がした。しかし恐らくそれは幻聴だったのだろう。
香霖堂さんは何時の間にやら仰向けになってぼんやりと空を眺めたまま何か思索に耽っている。
「天狗をやっつける方法でも思案してるんですか?」
試しにそう問うてみると、彼はにやりと口許を歪めた。
「既に僕の武器は天狗を打倒したよ」
「といっても、スペルカードルール上でしょう?」
「その武器の名はミニ八卦炉と言うんだ」
「人の話を聞いて下さい」
まったく。自分に都合の悪い話になるとすぐに逃げようとする。ただの隠居かと思ったけれど、案外かわいげがあった。
天狗がからかいたくなるのも分かる気がする。純朴な良い人ではないけれど、何故か他者を惹き付ける。
あんな場所に立っているおんぼろな店に客が訪れるのは、物珍しい道具目当て、ということだけではないのだろう。
事実、香霖堂にやって来てそのまま帰っていく客は多いと聞く。
冬場ならストーブなどの利点があるため香霖堂に行きたくなる気持ちも分かるが(私も行ってみたい)、春や秋などの涼しい季節でも客足が完全に途切れることはないそうだ。
特に花見の季節になるとひっきりなしに誘われるのだという。なんだかんだで人気者なのだろう。好かれている訳では無いのだろうが、何か質問してみれば、奇っ怪な話で人を異世界に居るような不思議な気分にしてくれる。
もしかしたらそれを求めて客は香霖堂に通うのかも知れない。だったらいっそ茶屋にでもしてしまえば大儲けだろう。彼の商魂が傷つきそうなので、もちろんそんなことは進言しなかった。
しかし、と私は香霖堂さんを見やる。河原に寝転がっているその様はなんとも気持ちよさそうだ。立っている私は熱のせいか結構きつい。いいなあ、なんて思ってしまう。
ちょっと横になってみたい。いや、すごく横になってみたい。よいしょ、と腰を下ろすと私もまた仰向けになった。
「……なるほど」
瞬間、思わず笑みがこぼれた。やはり香霖堂さんは面白い人だ。思考回路が凡人とは違う。会話している間私に目を向けなかったのも頷ける。
彼はにんまりと笑んで(見えなかったがたぶんそんな表情を作っていたのだろう)言った。
「これは、次の代にまで持って行きたい記憶になるんじゃないかな?」
そうかも知れませんね、とすっとぼけた返事を返す。香霖堂さんはそれ以上私をからかうことはしなかった。視界全てが、夜の空で覆い尽くされていた。
いつの間にか、花火の最後の一発は打ち上げられてしまったらしい。少しばかりくすんだように思われる空には星の川が出来ていた。
天の川では無いのかも知れないけれど、それでも大きくて広い素敵な川だと思った。星がさらさらと流れていく川だ。幻想郷に流れるそれとはまた違う、幻想を超越した、決して触れることのできない川だ。
触れられないのに、幻想ですらないのに、それは確かにある。
「まるで、海みたいだとは思わないか」
香霖堂さんの言葉に、はっとした。そうだ。触れることが出来ないのに、確かにあるそれは、私たちにとっての海と同じだ。
黒くて広い夜の海。ではきらきらと輝く星は、一体何に例えれば良いのだろうか。彼に答えを問うのは止した。
この空を海に例えた彼のこと、星を何かにあてはめているのだろうけれど、私は私で考えてみたいと思ったのだ。
残念ながら彼と違って私には疑問一つ一つをわくわくしながら解きほぐしていくような膨大な時間は無い。
でも、たまにはこんな風に贅沢な時間の潰し方をしても悪くはないかな、とも思える。
妖怪と人間の距離が近くなるのは不安だけれど、私個人としてはちょっとだけ嬉しい。
転生した後、以前の知り合いに会うことができるのだから。
その時どれ程記憶が曖昧になっているか分からないけど、懐かしさのようなものをこの店主に感じられたら良いなとそう思った。
大の字になっている私の手に、少しひんやりとしたものが触れた。視線を動かすまでもなく、星のカーテンは遮られた。
その代わり、視界を覆い尽くしたのはもさっとした髪の店主さんだ。何をするのだと文句を言いそうになった私だけど、彼は額に乗せていた氷嚢をどけて無表情に言った。
「もう水になってしまっているようだから、これを使った方が良いだろうね、風邪引きさん」
茶化すようにそう言って彼が取り出したのは湿布だった。表側はふかふかと白く、裏側は明るい水色をしていた。
見抜いていたなら言ってくれればいいのにと口を開きかけたが、ずっと氷嚢を額に当てていて見抜くも何もあったものではないかと思い直す。
「これは外の世界の湿布を改良したものだ。病状をとても楽にしてくれる品だよ」
そう言って、彼は私の前髪を払うと、優しく湿布を貼ってくれた。何とも形容しがたい心地よい冷たさが額から全身に伝播する。
氷嚢なんてこれに比べたら物の数に入らない。この湿布はただ冷たいというだけではなく、安心感と心地よさを感じた。
冷たいのにあたたかさを感じるという表現は変だろうが、そんな感じだ。ほっとしてしまうのだ。香霖堂さんは満足そうに頷くと、私から体を離した。
「楽になったかい?」
道具はきっと、彼にとっての誇りだ。冗談ではなく、真剣に答えようと私は思った。未だ私の手は店主さんの手の中にあった。その手をぎゅっと握って答える。
「ええ、とても。素敵な湿布をありがとうございます」
空いた手をそっと湿布に当ててみる。額に感じる冷たさとは裏腹に、表面は布団みたいにふわふわで、あたたかだった。
そんな事実が、なんとなく嬉しい。思わず頬が緩んでしまいそうだったけれど、きりっと引き締めた。でもやっぱり緩むから諦める。
香霖堂さんは私の手を取ったまま、そしてもちろん寝ころんだまま、ぼそぼそと口を開いた。
「もうすぐ祭りも終わる頃だよ。しばらくしたら、帰ろうか」
彼の言葉に、素直に頷いた。たぶん、湿布の力だと思った。遠く、遠く、祭囃子が聞こえてくる。太鼓の音も、それに合わせてどんどんどんと。
星の空からも香霖堂さんからも目を背け、私は流れる水に目を遣った。水面に月が揺らいでいた。掬ってみたいと、そう思った。
そよそよそよと風が吹く。石ころの間から生えた数本の細い草が頬を時折掠める。目を瞑るとどくん、どくんと鼓動が聞こえた。
祭囃子は小さくなって、やがて全く聞こえなくなってしまった。さらさらという水の流れだけが、残った。
帰ろう、という彼の言葉にこくりと頷く。でも目を開くことは出来なかった。この気怠さと心地よさに身を任せていたかったのだ。
守られているような、包まれているような、愛されているようなそんな幸福を体中で感じていたかった。
そう思ったら、もう体が動かなかった。単なるわがままなのかも知れないけれど、こんな甘美な感覚を味わったことは無かった。
このまま眠ってしまいたかった。そしたらどれほど素敵な夢を見ることが出来るだろうか。でも、それができないことくらい分かっている。
私は帰らなければならないのだ。幻想的な夢から覚めて、また現実へと帰るのだ。せめて一晩だけでも。そんな甘い願いは――
ふわり、と体が持ち上がった。
「……やれやれ。眠ってしまったか」
すぐ近くで溜息混じりの香霖堂さんの声がした。とても小さな声だった。私はたぶん、抱きかかえられたのだろう。
抵抗はしなかった。目を開けることもしなかった。なすがままに、彼の腕に身を任せた。
たまには、こんな風に全てを受け入れるのも気持ちいいな、なんて思ったりした。
幻想郷のバランスがどうだのとか難しいことを考えずに、ただただ幸せだなあ、という感情に流されるのも、悪くない。先程幻想郷を憂いていた彼に、今の私なら反論してしまうかもしれない。人間と妖怪がどんどん仲良くなっても良い。幻想郷は、絶対に大丈夫だと。
とてもとても楽観的な考えだけれど、どこか確信めいたものもある。
難しい理論ではなく、心がそうだと告げている。明日になったらころりと変わってしまうような、ただの感慨なのかも知れないけれど、今はそれを大事にしたい。
体がぽかぽかとあたたかい。誰があたためてくれたのか分からないけど、心に燃料を入れられたみたいな感じがする。
香霖堂さんが、ざっ、ざっ、と軽快な足音と共に歩き出した。
真っ暗な視界の中で、とくんとくんと音がする。それは私の心音だ。私は確かにここにいる。私はここで、生きている。稗田阿求は、ここにいる。
一体何百年前の日記なのだろうか。そんなことを思いながら、私は棚にぼろぼろの日記帳を戻して畳に寝転がった。
開いた窓の向こう側は、満天の海だ。阿求は結局のところ、あの星々を何に例えたのだろうか。そして、私だったら何に例えるのだろうか。
古ぼけた座布団に座り、新しい幻想郷縁起に目を遣っている香霖堂さんを見ると、なんだか少しだけ落ち着いた。
どひゅーん、どひゅーん、と軽快な音がして花火が舞い上がり、続いてぱちぱちぱちという火の爆ぜる音がする。
たまに届く色彩を問わぬ光が暗い部屋を染め上げ、また闇に戻した
私はどっこいしょ、と軽く息を吐いて半身を起こし、そっと紅茶に口付けた。ちょっと甘めが好きだななんて、そんなどうでも良いことをふと思った。
霖之助の包容力に惚れた。
阿求の語りがとても面白いお話でした。
その話は当代がボロボロになった日記に綴られているのを読んでいたというのも
時の流れを感じますが、当代の近くに霖之助がいて幻想郷縁起を読んでいるというのも良いですね。
霖之助抱っこして
相変わらず貴方の香霖はちょっと抜けてて、格好良い。
阿求もかわいかったです。
特に読み終えた後の余韻が素敵だなと思う。
有難うございます。
すばらしい。次回も楽しみにしています。
くてくてになってる阿求が可愛かったです
阿求もちょっと変なノリでかわええ。
ゆったりした空気や情景が目に浮かぶようです。
夜の川辺で男と(少)女が手を繋ぎ、共に地に伏し満天の夜空を望む・・・うぎぎ。
過去作含め、全て堪能させて頂きました。素敵なお話をありがとうございます。
ラストとあとがきが効果的だなぁ。
霖之助、天狗に呑まれるのは二回目じゃなかったかいw
情景描写が実に素敵でした。
誤字(?)報告。
「その武器の名はミニ八卦路と言うんだ」
× 八卦路
○ 八卦炉
与吉さんの新作品を楽しみに待ってます!!
霖之助の感性に憧れます。