最初のお客さんはデブだった。
「巫女さん萌え」
あまりのふとましさにおどろく間もなく、彼の一言が耳に入る。
真っ赤な鼻から吐かれた荒い息が顔にかかり、思わず蓮子は叫びそうになった。
彼の右人指し指が売り物に向いていなければ、きっと蓮子はこの男を殴り飛ばしていたところだろう。たとえクビになっても。
気持ち悪かったので、ロクに確かめもせずにお札を渡すと、デブは「フヒヒ」と言いながら、鳥居の真ん中を通って帰っていった。最後まで気持ち悪いヤツだった。
そして鳥居の真ん中を通るな。蓮子は殺意を込めた怒りのオーラを投げかけてみたものの、成功はしなかった。
「はあ……」
何で神社のバイトをやろうと思ったんだろう。……思い出した、わたしはアホだったんだ。
たしか、「この神社ではよく神隠しが起こる」、というウワサを聞いたからだ。
出来るもんならやってみろ! と蓮子は挑発するように応募したのだけど、いまだに「神隠し希望のかたはこっちですよー」という案内はない。
けっきょくはそれだけだった。つまり、神隠し目的だったのだ。神隠ししてくれるなら何でもよかったのだ。
……アホだった。
いや待て待て、まだある。
理想では日本に来たばっかりの外国人なんかが、「うわーかわいい巫女さん、写真とっていいですか?」というぺらぺらの日本語で頼んでくるというシナリオを期待してた。
だって、外国語で頼んでこられたら困るじゃない。
『ああでも、お札を売らないといけないので――』
『いいよ蓮子ちゃん、お客さんと写真とっといで』
ホントに理想でした。
希望は希望、現実ではなかったということですか。
外国人の代わりにいるのは気持ち悪いデブだし、写真といえば盗撮だし。全くロクな仕事じゃない。もうさっさと辞めてしまおう。契約している数日だけは適当にこなすけど。
もうさっそく、バイトに対してうしろ向きになってしまった蓮子だった。
【神さまの通り道】
期待にこたえてくれる仕事じゃない。
考えてしまうと、大学に入った当初のように欝で不安な気持ちが水のように湧き出てきた。
にごった水はどんどん、どんどん溜まっていって、やがてわたしの心の中いっぱいになってしまう。
大学のときはよかった。そう、あのときは入学した中に、かつて外国で知り合った友だちが偶然にもいた。その友だちと力をあわせて、今までやってきた。
いっしょに部活まで作ったくらいだ。
でも、この場ではたった一人。わたししかいない。
メリーと活動したいなあ……。
……今、巫女になったもうひとつの気持ちがわかった。
きっとわたしは、このどうしようもない世界に、神の力で変化を起こしてほしかったのだ。小説の中のような、ふしぎで、夢いっぱいの世界を。
心のどこかでは、神さまの存在を本気で信じてたんだ。
でも、やっぱりそれも幻想だったみたい。
現実的な方向に――頭の中ででも活動をしてみようかな――。
売り場に立ちながら、蓮子の意識はふわふわと空想の散歩に出かけていく。昔から、イヤなときにはこうすることが多かった。
高校生のころ、あこがれていた大学生としての生活。わざわざ京都まで引っ越してきた。夢のような毎日を期待していたのに。
興味があり、おもしろいにちがいないと信じていた勉強はつまらない。
部活は面倒だから、という理由で入らなかった結果、友だちもほとんどいない。だから秘封倶楽部を作ったとも言えるのだけど、入部者は二人。
理想の大学生は、しょせんは小さな夢でしかなかった。
部活をするため。蓮子にとって、それだけのために大学は存在しているのだ。
今日は、どこまで出かけようか。
地図の中を、自分とメリーが歩いていく。
ところが、わずか数秒でその散歩は中断されてしまう。
◆
「あの」
蓮子にとっては、天使の声にも聞こえただろう。
想像は、やさしい邪魔によってかき消されたのだ。
そのとき、なぜだかわからないけど、蓮子の頭に友人の顔がふっと浮かんだ。
「メ、リー……?」
蓮子は寝言のようにつぶやいた。女性は蓮子のつぶやきが聞こえたのか聞こえていないのか、要件をすばやく口にした。
「写真、一緒に撮ってもらえないでしょうか。記念にしたいんです」
「……ほわあ!?」
きた。ついにこのときがきた。
ばっ、と風を切る音がするくらいのはやさで蓮子は顔をあげる。にっこりと微笑む、金髪のやさしそうな女性が目に映った。
そして凍りついた。
しかしどっとあふれた冷や汗は、すぐにも安心のタオルにふき取られた。
目の前にいる女性は、あまりにも似ていたのだ。秘封倶楽部顧問の人に。
ただ、よく見ればすこしちがう。それに自分を見ても「かわいいですね」くらいしか反応しない。
別人だとわかったとたん、蓮子の中にわいてきた不安は霧のように消えてしまい、そこからよろこびだとか、うれしさだとか、いろいろ混ざった水滴が残った。
「ええ、よろこんで! えっとカメラは――」
蓮子もこの女性もテナガザルじゃない。とうぜん二人で映るには、誰かほかの人に頼まないといけない。
だから「誰に任せましょうか」と当たり前の疑問を口に出したつもりなんだけど、すでに女性は、通行人に自分のカメラを手渡していた。
「巫女さん、こっちこっち!」
手を引っ張られて、しめ縄に巻きつかれたご神木の前へ。
二人でカメラに向かってピース。はいチーズ。ぴかっ。大丈夫、目はつぶらなかった。
カメラマンが下手じゃなければ、いい写真が取れたにちがいない。
「ありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ」
やたらとブンブン上下に振る握手。何往復かしたら、気が済んだのか手を離し、手を振って去っていった。「ありがとう」の一言といっしょに。
女性に手を振りながら、蓮子はぼそっと声をかけた。ここにはいないけど、すこしの間だけ助けてくれた友人に。
「サンキュー、メリー」
今度、昼食でもおごってあげよう。
「にしても、似てたなあ……」
てっきり大学にばれて、大変なことになると思っていた。なんたって今、本来は授業時間なのだから。
しかしあせったせいで水分を結構使ってしまった。お茶がほしいなあ。
「お疲れ、蓮子ちゃん」
うしろからの声にふりかえると、お茶を持ったおばさんが立っていた。
◆
この人は、わたしを雇ってくれた神社の人。わたしに巫女服の着かたを教えてくれただけでなく、こうやって親切にお茶を持ってきてくれたりする。しかもなぜかこんな絶妙タイミングで。
「ありがとうございます」
お茶を受け取りながら言う。
「すごいお客さんですね」
さっきのデブでも外国人でも、じゃない。人の量だ。
「ええ、この時期はいつものことやけどね」
「何かあるんですか?」
「ええ、あのときは旧暦やったから厳密にはちがうかもしれへんけど――この時期はね、この世界と楽園が切り離された時期やって言われてるんよ」
「楽園?」
魑魅魍魎とか、そういったものに飢えた蓮子の頭がすばやく反応する。
「ええ、何でも楽園には妖怪がいるとか何とか」
「その楽園とこの神社が関係あるんですか?」
「たぶん、ないやろ」
「はい?」
話がつながっているのか、いないのか。よくわからなくて聞き返す。
「ほら、この山の上にもう一つ神社があるやろ? ホンマはあそこと関係があるんよ。
で、ちょうどこの神社はあそこへの通り道になるってわけやね」
え、そんな神社ありましたっけ?
思わず蓮子は聞き返そうとした。でも、おばさんの口をとめることができない。
蓮子を置いて、話はどんどん進んでしまう。
「たしか……あまり名前は知られてないけど博麗神社やったっけ」
「で、も、」とおばさんが続ける。
「似たところにあるもんやから、ほとんどの人が博麗神社をここやと思ってるみたいやね、ちゃんと調べてけえへんからもう!
『どんな小さなことにも案内する人が必要だ』って昔の人も言ったはったのにねえ」
おばさんがけらけらと笑う。
笑い声がわたしをバカにしているようで、ぐさっときた。
じつは前に一度、蓮子はメリーと二人で博麗神社に行こうとしたことがあった。
博麗神社はどこかなと探していたら、インターネットの地図でここだと出てきた。でも写真がなかったので、個人ブログに載ってたのをこっそり印刷させてもらった。
『すごく思ったより近くにあるじゃない、恵まれてるねわたしたち』
メリーを連れて夜、この神社の境内に忍び込んだ。
こっそり探索したものの、どこからどう見てもふつうの神社。あきれて、さっさと帰ってしまったのだった。
「ほ、ホントにねえ……あはははは」
「ま、正直なところあんなところ行っても、ボロボロの神社しかないんやけどね。
少なくとも江戸時代にはすでに建っとったらしいから、もうちょっと大事にしてあげたらええのに」
「江戸時代って……中世じゃないですか」
そんな昔のものなら、忘れられてもしかたないか。
いやでも、大事なものなんだから忘れるなよ。心の中で、カンちがいする人々をののしる。
ののしりは、そのままわたしにも返ってくるけど。
蓮子はまた、ある意味忘れられても仕方ないかな、と思うのだった。
◆
お札を売る仕事を交代して、蓮子は人気のない神社の裏を掃除していた。
ホウキを持って、神社をくるりと半周まわる。
なるほどね、たしかに細い道がある。獣道とまちがえられても仕方のないくらいの細さで、ところどころ石畳が砕けている。
もともとはキレイだったのかもしれないけど、きっと風化してしまったのだろう。
小さい子供が、おもちゃを適当に放り投げたような荒れ具合だ。
ホウキを持つ手を止めて、一息。
夏の風が、細道を沿って生える緑の雑草を揺らす。ざあっと音を立てて倒れ、もう一度同じ音を立てて起き上がる。まるで、何か言ってるみたいだ。
蓮子はふと、寝る前に欠伸をして、起きた後また欠伸をする自分を思い出した。
自分は雑草と同じか。
「あっ」
ひときわ強い風が吹いて、思わずスカートを押さえるくせで巫女服を押さえた。
目をスカートから細道に移すと、長い間頭をさげている草たちが見えた。
「律儀だなあ……神さまのお通りかな?」
ならわたしも頭をさげなくてはいけない。巫女だし。
蓮子は半分ふざけてぺこり。
でも、やるならもっと真剣にやらないといけない。バチが当たる。
「あら、何をなさっているの?」
「ひゃあ!」
ほら当たった。蓮子はおどろいて声をあげる。同時にあがっててからホウキが離れ、宙に浮かんだ。
数秒後、蓮子の頭を一突き。
「あ、ごめんなさい……」
ホウキを拾ってから、蓮子は声のほうを向く。かあっと顔が赤く染まった。
「こんにちは、また会いましたね」
微笑む金髪の女性。その顔は日本人とはかけ離れて白く、にっこりとした顔がよく似合う。
そしていまも、彼女はもっとも似合う顔をしている。
蓮子はそろそろ、この女性のふだんの顔は笑顔なのだと思いはじめた。
写真をいっしょにとってほしいと頼んできたときから、目の前に立つ女性は笑顔だけしか見せなかったんだから。
◆
「ねえ、この上にある神社に行ってみませんか?」
バイト中なのに、とつぜん何を言うかあなたは。
返す言葉を蓮子はなくしてしまった。
「ねえ、行きましょうよ!」
「でも……バイト中ですから、サボるのはまずいですし」
「大丈夫大丈夫、全部私のせいにしてくれて結構ですから!」
蓮子の腕をつかみ、細道のほうに足を向ける女性。
いやいや、それでも助かりませんから!
「あ、ちょっと……あの!」
「いいからいいから!」
女性がこわいわけではないのに、蓮子はまったく声を出すことができなかった。ついさっき細道を通った神さまが、「このままついて行ったほうがいいよ」と教えてくれているようで。
蓮子はただ、女性と手をつないだ操り人形のようになっていた。
たったった――。
二人の足音が風に流されては消えていく。
石段を踏みしめる感覚は足が痛くなるほどかたいのに、心は風に揺られる草のようにやわらかい。
石段を何度も踏んだせいで足が痛い。だけど、ぜんぜんスピードが落ちることはない。むしろ、だんだん足がはやくなっている。
直感の中の目は、何かいいものを見つけたのかな?
◆
ふーん、鳥居を見つけたのか。
「大丈夫ですかこの鳥居、崩れそうですよ」
上半分だけは赤い鳥居だ。上半分だけは。
右足は下に行くほど茶色く、色がはげてしまっていることがわかる。
それに、左においては地に足が着いてない。物理的に考えたら左っ側に倒れてもおかしくないバランスだろう。
しかし、物理的な法則を超えて右足はがんばっているのだ。誰か補強してあげてください。
「赤もほとんど地の色になっちゃってるし、ボロボロね。でも、私たちの上だけにピンポイントで崩れることはあんまりないと思うわ」
それもそうだ。
女性の考えに蓮子は納得した。しかしそれでも、蓮子はそろそろと鳥居の下を歩き、右端をさっと走り抜けた。
左端は石畳がはがれて草が生えていたので、ためらわれたのだ。真ん中はもってのほか。
「ひゃー……」
神社は幽霊屋敷だった。自然的に壊滅していった感じで、ところどころ中が見えている。
夜になったら何か妖怪が出てくるんじゃないか。
「ひどいですねこれは」
「そうね」
女性はくすくす笑いながら言って、鳥居の真ん中を歩いて抜けた。蓮子は思わず「あっ」とつぶやいた。
◆
巫女として、教えてあげるべきなのだろうか。「真ん中は通っちゃいけないんですよ」と。
「あら、表情がかたいですわ?」
どうやら相当真剣な顔をしていたらしい。顔にセロハンテープを貼り付けたように引きつっていたのかもしれない。
「真ん中は通っちゃいけない。そう注意するべきかどうか迷っていますのね?」
たまたまかもしれないけど、心を読まれてどきっとする蓮子。女性はまたくすくすと笑った。
「いいじゃないの、たまには神さまになっても」
「いや、人間が神になるなんて……」
「あら、なりたくはないの?」
「まあ、たまにはいいかもしれませんね、天上から世界を見下ろすのも」
女性はまた笑う。バカにしているようには感じられない。こちらも笑いに誘うような笑いかただった。
草原に飛ぶ、キレイなチョウチョを見たときのような、と言えばわかってもらえるだろうか。
「神さまだってつねに上から見てるわけじゃないのよ。だって、人と関れないなんて、たのしくないじゃない」
「人間が神さまの相手としてつとまるんですか?」
「ええ、十分すぎるくらい。神さまにだって、人間上がりもいるから。
私は神さまキライだけど、そういった神さまは好きよ」
こんなところで何という暴言だ。というか、キライなら何で神社に来たんだ。
ますますこの女性がわからない。ただ、言っていることのうち、最初の言葉だけは妙に説得力があるように感じた。
「ねえ巫女さん」
何か返す言葉はないかと探していたところに、また女性の言葉が飛び込む。蓮子はさっきからまったくついて行けてない。
「帰りましょうか」
「え、あ、はい。……へ?」
蓮子にしては助かる言葉。だけど、女性に対して悪いような気がしてきた。
「ホントにもういいの?」と聞きたくなるような。
「連れてきてごめんなさい。一度見学に来たかったのだけど、あまり何もないですしね」
「ええ、まあ誰も管理してないですからね」
二人は体を回し、来た方向に向ける。
女性は蓮子の左に移動し、今度は鳥居の左端をくぐった。蓮子もそれに続いて、左による。
鳥居をくぐり終えたとき、女性が「あっ」と声を漏らした。鳥居を指差して。
その方向を反射的に見ようとする蓮子。しかしそれよりはやくに女性が「きゃっ」と小さな悲鳴をあげ、蓮子に倒れこんだ。
体当たりされた蓮子もまた小さな悲鳴をあげ、鳥居の真ん中を危なっかしい足取りで通り抜けた。
◆
神さまは相当お怒りのようだ。
だからといって、一々おびえる必要はない。だって神さまの心はきっと広いから。
でもこのときだけは、わたしは神さまを心から恐れた。
絶対的な力を、この目で見たのだ。
「ここ……どこ?」
鳥居を抜けて、体のバランスを整えて。顔をあげたらそこは知らないところだった。
目の前にあったはずの、落城したような神社はリフォームされている。石段はひびが入っていないし、灰色の真珠をしいたようにキラキラと日の光をあびて光っている。
流れた風を追って振り返ると、自分がかなり高い所にいることがわかった。
「あ、ははは……」
緑の絨毯の上に、点々とした里がある。うっかり誰かが、走ったせいでコップから少しの水をこぼしたように点々と。
そんなに小さいのに人里だとわかった理由は、豆粒のような人が見えたからだ。さらに言うとすればわたしの目がよかったからだと思う。
さて、いったいどういうことだろう。
こんな光景、現代社会では考えられないよ。日本の面積よりも建物の面積のほうが大きいくらいだもん。
「どういうことでしょうね?」
人は不安になると、同じ気持ちの人間を探したくなる。
蓮子もとうぜん人だ。となりにいるはずの女性に同意してほしくて、言葉を投げかけた。
「……あれ」
いない。さっき後ろでつまづいて、自分を突き飛ばしたはずの女性がいない。
くるくるっと何回かその場で回ってみた。
女性の代わりに、風がひとつ通り抜けただけだった。
「あー……」
そうか、これは夢か。何か知らないけど、きっととつぜんにも気を失ったんだな。
ほら、さっきあの人に体当たりされたとき。あのときに気を失ったんだ。うん、そうにちがいない。
ほほを引っ張る、鳥居に頭突き。いたい。
神社は滅びない。石段は土の混じった瓦礫にならない。森は灰色の角ばった京の都にならない。
そうか、鳥居から来たのだから鳥居で帰れるはず!
鳥居の真ん中を往復。
神社はぴかぴか。石段は太陽の光を受けて白金のよう。森は緑の海、人の住む島々が点々と見えた。
ちょっとこわくなって鳥居を見上げる。
真っ赤だった。赤というと血を思い浮かべるけど、そんなおぞましいものとはかけ離れた赤だ。見ているだけで幸せになるような。アレだ、紅白で見るような赤。
信じたくなくて、すがるように鳥居を見つめて。首が痛くなったころ、また一つ強い風が吹いた。
見えない風を、何となく目で追いかけた。
「あれ?」
目を神社に向けると、何人か人が出てくるのが見えた。
そうだ、あの人たちに聞けばいいじゃないか。ここは京都のどこですか、って。
せっかくいい考えが浮かんでいるのに。
なのに、蓮子は背を向けて石段を駆け下りていた。せっかく差し伸ばされた神の手を振りほどくように。
しかしこれは、無理のないことだろう。
彼らがみな、目を見開いて追いかけてくるんだから。
◆
「お待ちください!」
集団の中からひときわ大きな男の声が聞こえた直後。ついに蓮子は右腕を掴まれ、前にかかった体重が後ろにひかれていった。
掴むのはかなりの強い力で、とても振りほどけそうにない。
「やめて、何するの!」
「申し訳ありません、ですが!」
残されたのは声を出して抵抗すること。だけど男は蓮子を離さず、むしろ引き寄せようとする。
蓮子は一度も振り返っていないので気づかない。男の後ろには年寄りから子供、男に女、たくさんの人が集まっていることを。
彼らは蓮子が捕まったことをよろこぶように歓声を上げる。
ほとんどの声がお互いを覆い隠そうとするかのようで、聞き取れない。しかし誰か――子供だったか老人だったか、男か女さえもわからない――が、叫んだ一言だけは蓮子の耳の中にはっきりと滑りこんだ。
「霊夢さまだ!」
間もなく全員が「霊夢さま!」「霊夢さま!」と何かに操られたかのように唱えだした。
蓮子は思わず振り返る。そして「ひいっ」と声を上げた。
人々は人間だけじゃなかった。明らかに人の形をしていないモノもいる。人の形をしているものの、髪の毛の色が人間じゃないモノもいる。
「あ、ああ……」
群集が一歩寄ってくる。
ちがう、引き寄せられている。
まるで操られたかのように、蓮子は歩いていた。群衆をすり抜けて、神社のほうへと。
◆
「さあ、この服をどうぞ」
神社に着いてから、蓮子はまたしてもおどろいた。
新しい巫女服を持ち、自分に声をかけてきたのはあの女性だったのだ。
ぼんやりとしたまま、巫女服を受け取る。夢の中の世界のようで、もう何でもよかった。どうせ時間が経てば、目が覚めるんじゃないかと信じていたのかもしれない。
「着替える場所はあちらですわ」
トイレかお風呂場かだろう。
従うまま、蓮子は指差された部屋の扉を開いた。
振り返って閉める。
そのとき。
女性の顔がふと友達とかぶった。
「メリー……?」
「はい?」
なぜだろうか。たしかに似ている。だけど、言われて初めてああそうね、と気づくぐらいだ。
雰囲気か、態度か、それともやっぱり見た目か。
だけどたまたま見えたメリーの幻が、蓮子に行動をさせたことにちがいない。
まずは巫女服を投げ捨てた。つぎにおどろく女性をすり抜けて、そのまま外を目指して走り出した。
「――!」
誰かが叫ぶ。もしかすると蓮子自身も叫んでいたかもしれない。すべての音が自然の中の音のように、気にならなくなっていた。
蓮子は神社の周りにいる人々を押しのけて、赤い鳥居をくぐり、石段を乱暴に踏む。右か左か真ん中か、どこを通ったかなんて考えていない。
たったった――。
ついさっきも聞いた音が聞こえる。蓮子を夢から現実へと呼び戻す音のようにも聞こえる。
石段を踏み、靴との音楽を聞くこと。
降りているはずなのに、そのことが目覚めへの階段を上っているかのような気分にしてくれた。
残り十段近くといったところ、ついに蓮子は石段から飛んだ。
石段の下に敷かれた石畳を踏むと、少し混じった砂のせいで転びそうになった。
「はあ、はあ、はあ……」
ひざに手をつきながら周りを見回す。
自分がバイトをしている神社はない。もう一つ赤い鳥居があったが、それだけだ。
心のどこかにあった期待は、トランプのお城のようにガラガラと崩れ落ちた。
ただただ、入ることをためらう森が広がっているだけだったのだ。
もう言葉も発せず、蓮子は絶望のあまり地面に両手を着いた。じゃり、と砂の感触と、日陰のためかひんやりと冷たい石畳の感覚が伝わる。
「……そう」
耳の近くで声が聞こえた。ささやくようだけど、すんなりと耳に伝わる声。気配はない。なのに、声自身が気配を持っているかのようにはっきりとしている。
「あなたは、もとの世界に戻りたいのね?」
蓮子はただ、こくこくと何度もうなづいた。
「……そう」
すこしの間静かになった。蓮子はもしかすると、声の主を怒らせたのじゃないかとつばを飲み込んだものの、ぐっと耐えた。
短い時間が何倍にも引きのばされ、体の中の時計の針がさびたように、鈍く重くなった。
そして、カチッという音とともについに針が動いた。
針の音が、さっきから自分を呼ぶ声と重なる。
「久しぶりに会えたものだから、ついつい私も冷静を失ったみたい。
ごめんなさい」
自分にささやきかける誰かは、頭を下げたのか、つぎの言葉を出すまで間があった。
「ほら、前を見て。そこから帰れるから」
言われたとおり、蓮子は鳥居を見た。なつかしさえ感じる、さっきまでいた神社がうっすらと鳥居の中に映っている。
「私たちにとって博麗はふしぎな存在だった。
生きている間は友だちとして過ごし、死んでからは神として祀ってきた。これからも、ずっとね」
いっそうはっきりと、神社が映る。
「でもね、今気づいた。あなたのおかげよ。
やっぱり、神様を困らせるなんて罰当たり。神様は嫌いだけど、その神様とあなたはちがうから、ね?」
声の主が微笑んだような気がする。見えないのだけど、無理して笑っているような、見るに耐えない笑顔で。
「さあはやく。はやくしないと、私たちに連れ戻されますわ」
蓮子は立ち上がる。さっきのように操られてしまったのだろうか、自分の体がいうことをきかなかった。
一歩、二歩、三歩――。
歩いて歩いて、ついに鳥居の前へ。自分を元の世界へと戻す門は、「はやくしろ」と言っているようだった。
蓮子は一度だけ、振り返ろうと思った。声の主――あの女性に対しての「ありがとう」と「ごめんなさい」を送らないといけない。
だけど女性はさせなかった。振り返ろうとすると首が動かず、ただ鳥居の奥の景色だけを見つめるようにしていた。
「ばいばい、蓮子さん……」
最後に聞こえたのはその声だった。
とん、と背中を押されたように――蓮子は鳥居を通り抜けた。
◆
バイトが終わって数日経った。
それなのに、今でもあの日のことはよく覚えている。一日前――いや、一時間前のことさえ覚えていないのに、なぜかあの日だけは完璧に覚えていた。
あの日感じた風の感覚も、石段を駆け下りたときの痛みも、あの女性の声も。
……あれから、神社に帰った。
するとおばさんに「どこ行ってたの?」と、大して心配していない様子で聞かれた。適当に掃除だと言ってごまかした。
おばさんは薄情だなと思ったものの、あとから大して時間が経っていなかったんじゃないだろうか。時計は見ていないけど、そんな気がする。
……やっぱり、夢だったのかもしれない。はっきりとした、なのに霞んだ、矛盾に満ちた夢。
家の布団で転がりながら、ぼんやりと考えた。
あの日から何をするにもやる気がなくて、一度も大学に行っていない。
勉強もしてない。
メリーから「どうしたの?」というメールが何度も来たけど、返すのもだるくて、これもまた一度も返していない。
あの日から自分の中に、ぽっかりと隙間が空いてしまっているのだろう。蓮子の生活は最低限必要なことと、ほうっておいたら溜まってしまう郵便物の回収だけになっていた。
それすらもだるいのだから、相当危険なのかもしれない。
立ち上がる。少しだけ外の空気が吸いたくなった。郵便物回収のついでだ。
扉の隙間からぶっきらぼうに突っ込まれていた郵便物を回収し、蓮子は扉を開ける。
扉の向こうには、イライラした顔のメリーが立っていた。
「おはよう」
気持ちのこもっていない、ひからびた挨拶。メリーは答えない。
「じゃあね」
言いながら、ドアノブに手をかけた。
いろいろ聞くことも言うこともあったはずだ。たとえばこの時間は、大学のはずだ。「サボったの?」とか。「何で来たの?」とか。
「待ちなさいよ」
ドアノブを掴まれ、扉が閉まらない。さらに強い力を出すけど、メリーの力にはかなわない。こじ開けられてしまった。
「蓮子、あなたいったいどうしたのよ?」
強引に家に入り、ドアを閉めるメリー。言葉は重く、疑問形なのに何か言うことを許さない雰囲気を持っていた。
「ちょっと、疲れてるだけよ」
蓮子の返事は相変わらず、砂漠のようだった。メリーはあきれたのか、ついに話を変えてしまった。
「そんな蓮子さんに手紙が届いてるけど?」
「さっき回収したわ」
「ちがうわよ、さっきそこで女の人に渡されたのよ。『蓮子さんに渡してください』って」
「……は?」
メリーの差し出した手紙を受け取る。真っ白な封筒で、差出人の名前はない。変だ、気持ち悪いし。
ふつうなら捨ててしまうだろう。だというのに蓮子は、狂ったように封筒を破き、中の手紙を開いた。
とつぜんの豹変。蓮子の様子に、メリーが不安げに声をかける。
「蓮子、一体どうしたのよ……」
蓮子はメリーを無視し、封筒を地面に放り投げた。「ひっ!」と言ってメリーが体を凍らせた。
「ねえ、いつもの蓮子に戻ってよ、おねがいだから……!」
泣きそうな声だった。しかし蓮子はメリーなんていないかのように無視する。
蓮子の興味は、手紙にすべて注がれていたのだ。
『もし会いにきてくれるなら。
もう一度、神さまの通り道に』
「ねえ、蓮子!
――え、何?」
声を荒げて呼びかけたメリーの肩に、とつぜん蓮子が手を置く。蓮子は肩に力を込めて立ち上がり、手紙を握り締めて玄関から飛び出した。
「蓮子!」
メリーの声が後ろから聞こえた。車にぶつかりそうになりながら、蓮子はひたすらアスファルトの上を駆けていた。
メリーの声はやがて、風に流されて聞こえなくなった。
◆
獣道のような、崩れかけた石段を駆け上がる。
たったった――。
もう三度目になる。今度の音は、わたしを運命へと誘いこむような音だった。
息が切れる。だけど、そんなことはどうでもいい。
ただ、あの場所に着けばそれでいいのだ。
うっすらと、鳥居の向こうにある古びた神社が見えてきた。だけどわたしはしっかりと、鳥居の中に映るピカピカの神社が見えていた。
近づけば近づくほど、足がはやくなる。
一歩、二歩、三歩――!
そして、最後の躍進。神さまだけが通ることを許される、鳥居の真ん中――神さまの通り道へ、蓮子は飛び込んだ。
彼女はたしかに、空気が変わったのを感じた。
◆
「……ありがとう」
最初に拾った声は、やはりあの女性のものだった。
「蓮子さん、あなたに会えてうれしいわ」
写真を一緒にとったときのような微笑み。
蓮子は何も言わず、つぎの言葉を待つ。
「お願いがあるの」
空間の裂け目に手を突っ込みながら女性が言う。
蓮子は、よろこんで受け入れた。
◆
写真をとり終えたあと、二人で空を眺めていた。すこし白くて、上にいくほど蒼い空だ。
「もう、帰らないといけないんじゃないかしら? 大学っていうんでしたっけ、それに行かないと」
「……できれば、今日一日この世界にいたいですね。この世界の顔を、もっと知りたい。
ダメですか?」
女性がまた微笑んだ。
「とっても、うれしい選択ですわ」
二人は、飽きることなくいろいろな話をした。蓮子の世界のこと、幻想郷と呼ばれるこの世界のこと。そして、霊夢の話――。どれもこれもが二人にはおもしろく、蓮子はやがて、この世界に対して大きな興味を持つようになっていた。
また、もうひとつ彼女は感じている。ここに来てから、もとの世界にいたころよりもずっと気分が軽い。
彼女の追い続けた夢幻が、ここにあったのかもしれない。
気づけば、もう夜は来ていた。
「何しているのかしら?」
「手紙ですよ、わたしって結構慕われてるみたいですから、勝手にいなくなっちゃうのも悪いなと思って」
女性は心に響く何かを感じたものの、照れ隠しのようにデコピンをかました。
「来て間もないくせに、うぬぼれやさんめ」
思わず噴出してしまったような顔で、「ホントですよぉ」と言い返す蓮子。
この夜は、二人とも眠ることがなかった。神社の中では、この夜笑い声が絶えなかった。
◆
つぎの日、朝はやくから人妖が集まっていた。みな、霊夢――蓮子を慕うものたちだ。
蓮子は一人一人に「ありがとう」と声をかけ、あの鳥居の前に立った。鳥居の奥には、もとの世界の景色がはっきりと映っている。
そこで蓮子は、背中越しにだけど、群集が涙声になっていることに気づいた。
蓮子は心の中で、すこしうれしくなった。こんなにも自分が慕われているんだ、と。
「行かないで……帰らないでよ、霊夢さま」
「こらっ、霊夢さまが困るでしょ、静かに!」
「お前こそ、霊夢様じゃなくて蓮子様だろ」
ぼそぼそっと聞こえた声々。一言一言に、蓮子は笑みを浮かべた。
そして、群集が見えるように体を反転させた。
離れて見ると、かなりの数だ。すこしびっくり。
蓮子は一歩、鳥居に近づいた。
左手に持った、昨日書いた手紙を両手で持ち、群衆に見せ付けるように高く上げる。蓮子ともっとも長い時間を過ごした女性が、その手紙を受け取ろうと蓮子に歩み寄る。
そして――。
「……え?」
間抜けな声がつぎからつぎへと、蓮子の聞こえた。涙声が一瞬に止まる。
しーん、ととっておきの一発ギャグがスベったときのように沈黙が続いた。
蓮子は、手紙をうしろに放り投げていたのだ。
とうぜん手紙は、鳥居の中――もとの世界へ。
「わたしは」
蓮子が口を開く。はっきりとした口調で、言葉がつながっていく。
「わたしは、ここで巫女として暮らします!」
たっぷりの沈黙。
そして、何かが爆発したかのように歓声が上がった。
人妖は適当に隣にいた人妖とはしゃぎあい、小さくジャンプしている。
「うるさい!」
今度は雷のような鋭い声が蓮子から吐き出され、群集は固まる。
「つぎ騒いだら、罰金としてお賽銭入れさせるからね!」
雨のようにお賽銭が落ちてきた。受け止めようとしたら痛かったので、今度は本気でキレた。
◆
「で、でも蓮子さん……いいの?」
「ええ、わたしは今日からつぎの博麗霊夢です」
たしかにもとの世界の未練はある。でも、それ以上に自分をひきつける何かがここにあったのだ。
小説やテレビドラマで、過去にタイムスリップしてそのまま残るという人を見たことがある。当時は「バカじゃないの?」と思わずテレビに言ったものだけど、謝りたくなった。
「……らしいわよ、メリー」
「え!?」
女性に呼ばれた名前。偶然か、それとも――。
――偶然じゃなかった。
「わたしを置いて行くなんて、ひどいわ」
「あー……えっとー……」
群衆の中から、泣きそうになっているメリーが出てきた。いや、泣いてた。
「怒らないの、メリー。何ならメリー、あなたも蓮子さんについで、つぎの八雲紫になっちゃう?」
「紫さまはまだまだ現役ですよ」
「あらあら」
「あ、でも蓮子をいじるときだけ八雲紫の名前をください」
メリーが紫の扇子に叩かれる。たかが扇子、だけど何であんなに痛そうなんだろう。
ちょっとかわいそうに思ったものの、蓮子もついでにメリーを叩いた。
「あんたに叩かれる筋合いはないわ」
――ばしっ。
耳に突き刺さる激しい音、ほほに走る熱。
真っ赤な手形がほほに残った。
「……いたい」
どこからか、笑い声が聞こえてきた。やがて数が増えた笑い声は神社を超え、幻想郷全土に響き渡った。
彼女たちにとっての、ちょっと変なおわりであり、はじまりでもある笑い声だった。
幻想を追い続けた二人は、ついに幻想にたどりついた。
これから彼女たちは、幻想の現実にこれからもおどろき、苦労するにちがいない。
だけど、きっとそれは、まちがった道ではない。
神さまの通り道なんじゃないかな。
誰かが、ふとそう思った。
◇
――なあなあ、知っとる? 博麗神社で遺書っぽいんが見つかったんやって。
――ホンマ? むっちゃ近所やん。遺体は見つかったん?
――まだみたいよ、というか警察が捜索やめたからなあ……。
――何で、結構な事件やと思うけど?
――何かな、探しても見つからへんらしいわ。
――……イタズラやったんちゃうん?
――ウチもそう思う。せやけど、ほらあそこ、博麗神社のすぐ近くの神社。
――ああ、あそこな。それがどうかした?
――あそこはそう思ってへんみたい。あそこの人たちはみんな、こうゆうてるよ。
――何て?
――また神隠しや、ってね。
ぬぅ・・・
ただ、最後がちょっと唐突であり、いまいちよくわからなかったのが、残念。
幻想郷に居続けることにした理由だとか、
幻想郷にメリーが現れた理由とか、
そのあたりがちょっとよく…
思ったことは上の方々とだいたい同じです。
しかし第一に思うのは面白かったということ。これからにも期待さしてください。
面白い作品は時間を忘れて読んでしまうものです。
メリーが蓮子に手紙を渡すところなど、思わず引き込まれました。
次の作品もお待ちしています。