幻想郷には山がある。川がある。里がある。湖がある。四季折々の美しさを見せてくれるそれらが僕は好きだ。
もちろん幻想郷の全てを肯定しているわけじゃない。幻想郷は変わらねばならないと常々そう思ってはいる。
しかし、だからといって全てを否定しているわけではない。なかなか難しいのだ、心というものは。
そんなことを考えながら、へくちっ、と大きく一つくしゃみをする少女を見やった。河城にとりである。
無縁塚に転がっていた死体を荼毘に付した後、僕は気まぐれを起こしていつもと違う道を通って帰った。
幻想郷は変わらない地だ。でも毎日どこかで何かが起きている。それは循環する季節に似る。
どんなに大きな変化が起ころうとも幻想郷それ自体が揺らぐことは決してない。
この地に住む者たちにとってそれはどれほど理想的なことだろうか。
しかし、と僕は考える。この幻想郷は砂上の楼閣に等しい。外に依存しきった今の形態がいつまでも保つことやら。
どうあがこうがこの仮初めの楽園は数百年もせぬうちに崩れ去るだろう。それが心配でならない。
現実から目を背けて遊び続ける妖怪や人間を見ていると、僕は時たま恐怖に似た感情に包まれることがある。
先日もそのように幻想郷の将来を憂えながら川辺を歩いていたのだが、その時僕はぼろぼろの服を身にまとった河童の少女が転がっているのをみとめたのだ。
服の破れ具合は尋常では無かったが、どうも弾幕ごっこの後のようには見えない。
確かに河童は水の中に長い間潜っていることができるというが、いくらなんでもそのまま放置するのはあんまりだ。
水に濡れてぐっしょりと重い彼女を荷台に載せ(今日は同人卦がでたので何か凄いことがあるだろうと思って用意していたのだ)、連れて帰った。
帰路で目を覚ましたにとりは少々驚いていたようだったが、香霖堂に連れて行かれることに抵抗は無い様子だった。
彼女の服は残念ながらボロ切れと化していたので、今は古い藍色の甚平を貸し与えている。少々ぶかぶかしているが、無いよりはましだろう。
「いやー、助かった助かった。ちょいと思いも寄らない大事件に巻き込まれてねえ。死ぬかと思った」
にとりはそう言ってけろりと笑う。溺れても河童、さきほどまであんなにも弱っていたのに体力がみるみる回復してきているようである。
昔の妖怪退治の専門家達はさぞ苦労したのだろうなあ、とそんなどうでも良いことに思いを馳せる。
「まあ、死ぬ死なないはいいからずり下がっている肩をなんとかしなさい」
おお、とにとりは慌てた様子もなく甚平の乱れをただす。どうやら店に陳列してあるものに好奇心を刺激され、自分の事まで気が回っていないらしい。
へええ、ほぉお、と感心したような溜息を何度もついているあたり、それは間違いないだろう。
にとりはくるりと振り返り、妖怪の山に移住するつもりはないかと問うた。どうやらこの店に並べてある商品群は気に入って頂けたらしい。
だが僕が山に行くなんてのはナンセンスだ。
だから、そんな事をしては商品を集められないだろう、と僕は彼女に返した。そりゃそうか、とにとりは気恥ずかしそうに頭を掻いた。
ともあれ僕も妖怪の山には興味がある。河童たちの生み出す高度に発展した道具が作られる様をこの目で観察してみたいものだ。
「それで? 思いも寄らない事件ってのは一体なんなんだ」
にとりの側も大分リラックスしたようだし、彼女が話したそうな話題を振ってみる。彼女は慣れた様子でてきとうなトランクケースに腰掛け、指をぴん、と立てて言った。
「天狗の子供が川に落ちちゃったのさ。誰も見てないもんだから焦った焦った。
ほら、考え無しに飛び込んだら天狗の馬鹿力でこっちまで引きずり込まれちゃうだろう?」
「ふん。それで、どうしたんだい?」
そこが恥ずかしいところでね、とにとりは後頭部を掻く。もう少し小さめの服は無かったかな、と僕はあたりを見渡した。
女性に飢えている訳ではないが、一々胸元がちらつくとさすがに気になる。断じて女性に飢えているわけではない。
「私のお手製の道具、まあアームみたいなもんなんだけどね。それを使って引き上げてやろうって思ったんだ」
「で、道具が壊れてしまった、と」
違うっ、とにとりは憤慨した。
「私はそんなヤワな道具を作らないよ、全く! 耐えられなかったのは私の体の方! 道具ごと天狗様に引きずり込まれてぶくぶくぶくぶく、って有様さ。
河童も腕力には自信があるんだけどねえ」
「哨戒の天狗達は何をやってるんだ」
「大将棋かお昼寝じゃないかなあ」
「ずいぶん平和だね」
僕も頑張れば潜入できるんじゃないかって気がしてきた。上手くいけば要らない道具と交換に河童の技術を得ることができるかもしれない。
天狗が引っ張っても壊れないなんて、なかなかの品質である。高値で取引されるだろう。無論、手に入ったとしても売るつもりは毛頭ないが。
息を吐いて深く腰掛けた椅子から立ち上がる。一仕事終えたのだから茶でも飲みたい気分になったのだ。
ぎぃ、ぎぃ、と歩くたびに床が音を立てる。丁度昼下がりといったところか、暑さも退き始めていた。
「最近は葉っぱも緑色に色づいていて綺麗だよねえ」
にとりはしみじみとそう言った。山の葉も生い茂り、いよいよ夏が近づいてきたということか。ついさっき冬が明けたと思ったのに早いことである。
近頃はともすれば背にじんわりと汗がにじむ日も多い。河童のようにすぐ水に飛び込める連中が実に羨ましい。
そんなことを考えながらお盆に湯飲みを置いて持ってきた。にとりはありがとうと礼を述べてからそれを手に取る。
僕ももう一つの湯飲みを手に取った。ごろごろごろ、という不吉な音が耳に届く。にとりはうーん、としばらく首を傾げた後、
「こりゃあ一雨来そうだねえ」
と呟いた。馬鹿な、と思わず言葉が口をついてでそうになる。今日は同人卦が出たのだ。だというのに雨で店に引きこもっていて良いものだろうか。
思わずそわそわとしてしまうが、愚痴を零すのは辛うじて思いとどまった。この国は言挙をせぬ国である。口に出した言葉は力と指向性を持つ。
故に大切なことは一切口に出してはならないのだ。神代の昔から続くしきたりに僕は従う。しばらくすると、にとりの言葉通りしとしとと雨が降り出した。
やっぱりねえ、と彼女は辟易したように溜息を吐いた。
「なんだ、河童なら雨くらいどうってことないだろう?」
問うと、
「川が濁るんだよ」
との答え。なるほど、と思った。常に清く思われるあの川もやはり雨の後は濁って感じられるらしい。
僕は雨の後の澄んだ川に清々しい気持ちを抱いたりしたものだったが。この子達とは少々感性が異なっているのかもしれない。
それからしばらく言葉が途絶えた。にとりは特に語りたいことも無いのかただただじっと天井を見つめていた。
声を掛けてみたい衝動に駆られたが、雨のせいで気が滅入ってしまい、その気持ちも薄れた。
時折、どぉおおん、と音がして雷が落ちる。その度にとりの体が、ぴくっ、と震えたが気にしないでおく。
水と相性の良い彼女らのこと、雷様は注意しすぎてし過ぎることはないのだろう。いやだなぁ、という小さな呟きが耳に入り、思わず苦笑が零れた。
それを耳にしたのか、むっとした様子でにとりがこっちを見た。
「いや、雷様とは相性が悪いのかな、と思ってね」
ふうん、とにとりは訝しげな目で僕を見たがしばらくしてまた視線を逸らした。雨は益々勢いを増した。
恐らくは俄雨の類だろう。一刻も待っていれば晴れ間がのぞくに違いない。もっとも、その頃には日は沈みかけてしまっているだろうけれど。
僕は今一度ぼろぼろになったにとりの衣服を手にとった。幻想郷のものとも外の世界のものとも違う不思議な素材で作られたそれは、手触りだけは布に近いものがあった。
大したもんだ、と思ってると、ごとりと音がして何かが勘定台に落ちた。忘れていた。そういえばぐったりしているにとりの側に扇が転がっていたから拾って持ってきてしまったのだった。
にとりの話から推すに、これはつまり――。僕はそっと美しい色合いをしたそれを台の下に置いた。扇なんて勘定台に置いても邪魔なだけだからな。隠したわけではない、置いただけだ。もちろん。
雨は弱まるどころか益々勢いを増した。にとりはあーもー、と非常に不機嫌な様子だ。恐らく住処に帰って研究の続きに没頭したいのだろう。
「それもこれもあの天狗のせいだよ……私を見捨ててどっかに行っちゃうしさあ」
「上にへつらい下をあざ笑うのが天狗の十八番だろう? べつにどこもおかしくはない」
「それを言われちゃおしまいだけど、いつも一緒に大将棋打ってる奴らがそんなんだって思いたくはないなあ」
「君の友人だけは別だと信じていればいいじゃないか」
簡単に言うなあ、とにとりは半眼で僕を睨むがどうしようもない。素直な感想を述べただけでそんな顔をされても困る。
僕は概して正しいことを言うのに、正しいことを言えば皆不機嫌になるのだ。
嘘を吐いたら嘘つきだと詰られるし、勘弁して欲しいものである。いつもこうだ。
「そういえば、天狗と雷で思い出したが」
面白そうな話題だと思ったのか、にとりはもぞもぞとこちらに体を向けた。
「雷斧という言葉を知っているかい?」
ある分野においては知識の点においてにとりの方が僕より遙かに分があるだろうと思い一応そう問うたが彼女はぶんぶんと首を横に振った。
「なんか暇つぶしにはなりそうだね。教えておくれよ」
僕の知識が単なる暇つぶしにしかならないのかと思うと少々淋しいものがあったが、それでも他の聞き手よりは理解力があるだろうと思い口を開いた。
「雷が落ちた先の地面に突き刺さっている斧の事を一般にそう言うのさ。いや、だからどうということじゃないけどね」
「ふーん。雷が落ちた後には穴ぼこしか残らないんじゃないかなって思ったけどね。その斧はよっぽど丈夫なんだろうなあ」
にとりの感想に、それは違うと首を横に振る。
「雷斧は石斧だよ」
そう返すとにとりは、どっちなのさ、と口許をおさえてくすくす笑った。
作った道具のことを貶せばすぐに怒るし、こうして話しかければ笑ってくれる。本当に感情の豊かな子だという感想を抱いた。
しかし、この子は不思議だ。こんなにも喜怒哀楽がはっきりしているのに何故だか幼さを感じさせない。
言葉遣いや立ち居振る舞いから古い妖怪特有の臭いのようなものを感じるのだ。
河童は古い妖怪であり、水の神と差異はないと言われる。
勿論、彼らはそんな高尚な生き物ではないと僕は思っているが、表面に現れる古風な空気が大昔の人々に神を連想させたのかも知れない。
しかし、古風なのはその雰囲気だけで、河童の技術は幻想郷一の発展を見せているという。
外の世界の真似事と嘲笑われる事も多々あるが、僕はある点ではそれを評価している。停滞、退廃の直中にある他の人妖も河童の向学心を見習うべきなのだ。
だが、僕だって負けてはいない。技術は残念ながら追いつかないが、いつか役立つ日が来ると自分に言い聞かせ、常に新しいことを考え続けている。
これは道具屋としてだけではなく、この僕自身の信条なのである。
「だけど、不思議だねえ」
さらさらと流れ落ちていく雨粒に目を遣りながらにとりはしみじみとした様子で言う。
「脆いのに壊れない、か。なかなかたどり着けない境地だよそれは」
「そうだね」
理論ではなく感覚で、にとりの言いたいことが分かる。人の作るものも、河童が作るものも、一つの概念から逃れられない。
つまりは強固な物は強固であり、脆い物は脆いということだ。その点自然の作り出すものはどれもこれも非常に脆い。
川も雲も草も、皆一様に脆い。だがそれらは決して滅びることはない。
三と七、合わせて十。脆いが故に不変であることはできず、しかし刻々と変化しながらも、一つの環を作り、流転を繰る。
魔法の基本にして自然の摂理だ。僕らが幾らそれに似せようと努力しても到底追いつくことの出来ぬ高みにあるものだ。
故に僕らはただただ強固な道具を作り出すか、儚く脆弱な魔法を繰るか、その両極端に留まらざるを得ない。
環を作ることが出来ねば流れは確実に断絶するのだ。今は全きを保っている幻想郷も、いつかは――。
そこまで考えて首を横に振る。自然の力は偉大だ。しかし僕らには自然に無い力がある。環を外れ壊れかけた物を修繕する力がある。
幻想郷はまさにその集大成である。だから何とかなる、なんて楽観的に考えている訳じゃない。
だからこそ何とかしなければ、と奮い立っているのだ。今の世の環で生きられない者達に用意された仮初めの壊れた環。
だけれど、それは絶対に必要な世界なのだ。僕が筆を執ったのも、外に行こうと決意したのも、全ては幻想郷のためだ。
もうけの事など一切頭には無かった。本が売れて商売繁盛だなんてこれっぽっちも考えなかった。
……雨は、ざあざあと降り続いていた。
「どれもこれも腐ってるじゃないのさ!」
お勝手の方からひょこっと顔を出したにとりは、お玉を片手にぷんすかと怒りを顕わにした。
助けてくれた礼に何か作ってくれるとのことだったのだが、どうやら最近じめじめしていたせいか食材が全滅してしまっているらしい。
「だから止めておけと言ったじゃないか。僕はこのボロを貰うからそれで貸し借りは無しだと言ったろう?」
そう言って、僕はにとりの服から切り取った布きれを彼女に見せる。河童の技術の片鱗でも味わうことができれば、と思ったのだ。
だがにとりはどうにも納得いかないらしく、むう、と唸っている。
料理くらい僕でも出来る。香の物でなんとかしようと思い椅子から立ち上がるが、韋駄天もかくやという勢いで走ってきたにとりが僕の両肩を押し、椅子に引き戻した。
「なにをする」
「いいから店主さんは座ってなってば。残ってるもんでちゃちゃっと作るから」
これでなかなか世話好きのようだ。とてとてとにとりが走り去っていき、追って、小気味よく包丁を振るう音が聞こえてくる。
とんとんとん、ざあざあ、と雨と包丁が不思議な調和を生んだ。これはこれで悪くないかも、なんて思う。
本心を言えば少々店の整理なんかもやりたかったが、勘違いしたにとりがどたどた走ってきて椅子に押し込めそうな気がするのでやめにした。
うだるような雨の中、河童少女を説得するのを想像する労力を考えただけでうんざりしてしまう。こういう時は動かないのが吉だ。
背を曲げて勘定台に顎を乗せ、両手を思い切り伸ばして弛緩させる。暗い店内に不思議な道具が映える。我ながら良い店だと思う。
きっと香霖堂はこれから認知されていくに違いない。未来に思いを馳せつつ、少しずつうとうとしていく自分を感じていた。
このままではきっと眠ってしまうに違いない。にとりならば怒らないだろうがなんだか申し訳ない気がする。
包丁が小気味良い音を立ててまな板を叩く。雨がざあざあと降り続く。微睡みの中でそれらが混じり合って心落ち着ける何かに変わった。
意識はあれど、幽かな思考でそれを記憶に留めるのは不可能だ。ただ今限りの不思議な音楽。流れては消える幻想の音だ。
勘定台の古い木の肌が何故だろう、しっとりと湿り、ほんのりあたたかい。音がする。何の音だかよく分からない、素敵で、眠気を誘う音がする。
とんとん、と足音が聞こえる。にとりがやってきたのだろう。頭を振ってこびり付く眠気を吹き飛ばす。
まだ寝ていてもいいのに、と彼女はのんびりそんなことを言った。見れば、吸い物と炊いた白米に香の物という見事な粗食が用意されていた。
粗食だというのに見事というのも妙な話だが、こういう食事もたまには悪くないと思っていただけに少しばかり嬉しい。粗衣粗食なんてのも、悪くはないものだ。
もっとも商人である以上粗末な衣装など身にまとっていては客が寄りつかなくなってしまうからそれは自重している。
「悪いね。本当に何から何まで用意して貰ったようだ」
「気にする必要はないよ。ご飯炊いただけだしね。昔っから要らぬお節介が好きなんだ」
さらりとそんなことを言ってのけ、にとりは薄い盆を勘定台に乗せる。彼女は机の上にぴょん、と飛び乗った。
よそってある量は明らかに僕の方が多かったが、そんな小さいことに言及していては彼女の達成感が傷つくだろう。心の中だけで感謝し、手を合わせる。
まどろんでいる間に用意が済んでしまうような簡単な食事だとはいえ、世話になったことにはかわりないのだ。
箸で春キャベツの浅漬けを摘み、口に放り込む。鷹の爪がぴりりと利いていて実に美味しい。ご飯が進むことこの上ない。
「実に美味しいが、しかし。せっかくなら香の物はきゅうりを選べば良かったじゃないか」
言うと、彼女は照れくさそうに笑って見せた。
「いやあ、それをやっちゃうと浅ましい奴だなって思われそうでねえ」
「食べたいんだろう? なんなら持って帰っても良いよ。どうせ食べないしね」
どうせ食べない、の言葉が良かったのだろう。無駄にするくらいなら、と非常に嬉しそうな表情でにとりはまたお勝手の方に走っていった。
そして、途方もなく幸せそうな顔をして、両手に余るきゅうり漬けの大瓶を持ってきた。
いくらなんでもそれを持って行くやつがあるか、と思ったが河童と仲良くするために支払う対価だと思えば高くない。
にとりとは割と気が合いそうだし、末永くお付き合いしたいと思っているのだ。アイテム作りの同業者としても、大事なお客様としても。
食事中の話題は魅力的な外の道具から妖怪の山の様子まで、多岐に及んだ。いつの間にか酒にも手が伸び、店を閉めることも忘れて僕らは時を忘れて歓談した。
いつまでも雨が止まないものだから、時間の経過に疎くなっていたのかも知れない。そんなことを言うと、にとりは、そうかも知れないねえ、と言って杯を干した。
夜も更けたので、にとりを香霖堂に泊めることにした。
彼女は押して帰ると言い張ったがそれは許さなかった。そんなことを許したならば店の風評に関わる。
しばらく彼女はぐずったが、千鳥足でまともに歩くこともままならない自身の様子に溜息を吐き、結局は僕の意見に賛同した。
暗い奥の間に布団を敷く。その間は終始無言だった。
いいかげん話題が尽きたというのもあったが、それ以上に話し疲れ、酔い疲れ、早く眠りにつきたくて仕方がなかったのだ。
にとりのそれを敷き終えた後、僕はござを敷き、その上に横になった。もちろん布団を用意することもできるのだが、それすら億劫だった。
どん、と大きな音を立てて畳に倒れ込んだ僕を見てにとりは何か言いたげだったが、結局は無言でもぞもぞと布団に潜り込んだ。
頭ががんがんと痛い。実はちょっと呑み過ぎてしまったのだ。吐いてしまったのは何時以来だろう。
ぎゃあぎゃあと店の商品をあれこれ持ち出して熱く語り、それに対して的確な反駁が来たのも嬉しかった。
だけどそれでも、今日の易は大はずれだ。当たるも八卦当たらぬも八卦とはよく言ったものである。無妄卦が出たのなら自分の腕に自信を持って良かったかも知れないが。
長い間丸め込んで放置していたためか、ござはじっとりと不快な湿り気を帯びていた。それでもやはりこうやって雑魚寝するのも悪くない。遠い記憶がよみがえるような、そんな気がする。
すうう、すうう、という寝息が耳に心地よい。にとりはもう眠ってしまったようだ。どうせ日の出まで二刻とないだろうが、それでもしっかりと睡眠をとった方が良いだろう。
僕もぎゅっと目を閉じる。ざあざあという雨の中、それでも明日はきっと晴れるに違いないと、なぜだかそう確信していた。
河城にとりが妖怪の山に帰って三日が経った。太陽は今まさに南中しようとしている。からりとした青い空、そしてぎらぎらとした日差しが夏の近いことを僕に知らせる。
扇で顔に涼やかな風を送りながら今日もまた外に繰り出す。何故だか、去り際のあの子の表情が脳裏に張り付いて離れない。
甚平をまとい、リュックサックを背負い、彼女は晴れた空の下を駆けていった。終始笑顔だったが、しかし何か言いたげだったな、と今になってそう思うようになったのだ。
疑問に思い出すと、きりがない。なんとかして会いたかったが、河童の住処に行くことは不可能だ。荒事はあまり好きじゃない。
だがまあその近くまでは行ってみようと思う。千里先を見通す下っ端哨戒天狗あたりが気を利かせてくれるかも知れないからな。
日差しはますます執拗に地上を熱すが今の僕には僅かの害すら与えられない。この扇、一振りするだけで実に心地よい風が吹く。
文がいつも巻き起こしている暴風に比べれば可愛いものだが、それくらいが丁度良いというものだ。
暴れ狂う風など迷惑以上のなにものでもない。先日にとりを見つけた川の縁の砂利道を歩く。
丸く小さな石ころは山を登っていけば少しずつごつごつとした無骨なものに変わっていくのだろう。
残念ながらその剛直な景観を楽しむことは出来そうにないが、さぞ美しいに違いない。
妖怪の山の頂は、あまりに遠く、高い。だから僕は足下を流れる川に目を遣った。石に水がぶつかり、ぱしゃぱしゃと跳ねる。
にとりは雨で川が汚れると言ったが、やはりそれはどこまでも澄んでいるように思われた。
しゃりしゃりと砂利を踏みつぶしながら進む。そよ風に細身の若草が揺れた。僕は先へと足を向ける。山の麓は目と鼻の先だ。
哨戒の天狗はこちらに向かわぬものの注視しているに違いない。もう少し先まで、行ってみることにしよう。
そう思って一歩踏み出すと、右肩を軽く叩かれた。数日前に見た顔がそこにある。髪からぽたぽた水を滴らせてその子はにへら、と笑った。
「久しぶりだねえ、店主さん」
「そうかも知れないね」
現れた少女、にとりは三日前に破れたのと全く同じような形状の服を身に纏っていた。お気に入りなのだろう。しかし、何か違和感を覚える。
足りないものがあるような気がしてならないのだ。にとりはへらりとした笑顔を浮かべたまま後頭部を掻いてみたり地面を蹴ってみたりともじもじしている。
何か言い出そうかそうすまいか悩んでいる様子だ。急かすのもなんだから僕は気づかぬふりをした
「い、いやあ……それにしても今日は暑い。これからどんどん暑くなっていくんだろうなあ」
ものすごくわざとらしい口調でにとりはそう言った。僕は扇を持っているので全然暑くない。だけれど一応、そうだろうね、と返答した。
それにしてもこの少女、天狗の扇について不審に思わないのだろうか。香霖堂には何でも置いてあるのでこんなものを持っていても不思議ではないと本気で信じているのだろうか。
それならば幸甚である。このままシラを切り通せば良いだけのことだ。最悪この扇は雷斧だと言い切ってしまえばそれで良し。
別名は天狗の鉞なんだし、この扇が雷斧であってもちっともおかしくはないのだ。第一僕だって雷斧をこの目で見たことはない。
だからこの扇は本物の雷斧である可能性だって否めないのだ。そうだ、そうに違いない。何せあの日は落雷が多かった。
雨が降る前に一度くらい雷様が気まぐれを起こしても妙ではない。そしてその気まぐれの結果、気を失ったにとりの脇に雷斧が転がっていることも、十分に考えられるのではないだろうか。
僕はこれを天狗の扇だと確信していたが、それこそ妖しいものだ。天狗がそう簡単に扇を手放したりするだろうか。僕はそんな話を一度だって耳にしたことがない。
雷斧のことは文献につまびらかにされているが、天狗が溺れて扇を手放した、だなんて昔話は聞いたことすらない。文だって知らないはずだ。
つまりこれは扇などではなく正真正銘の雷斧なのだ。しかし不思議なことにこれは石には見えない。石には見えない石だなんて不思議なものだと僕は思った。
無論長ったらしく自分のやっていることに言い訳しているわけではない。
「こんなに暑いと一泳ぎしたくなるよなあ」
にとりはあさっての方向を向いてまだぼそぼそ言っている。はじめは僕の気を逸らしたいのかと思ったが、どうやら違うようだ。
逆にこの子は何かに気が付いて貰いたがっている。まるで独り言でも呟いているようだが、時折ちらちらとこちらに上目遣いを使ってくるのだ。
お節介な子だが人に頼るのはどうやら苦手らしい。あー、だの、うー、だのぼそぼそ言っては首をぶんぶん振っている。凄く不自由そうに見えた。
先日の礼を言おうか言うまいか悩んでいる、というのではないだろう。にとりはお礼くらい笑顔でさらりと言うような気がする。
「僕に何かして欲しいことでもあるのか? 何なら手伝うけど」
言うと、にとりはぶんぶんと両手を振った。
「そんなんじゃないってば! これ以上世話になったら頭が上がんなくなっちまうよ!
そういうことじゃなくてさあ……くそぅ、気付けよお」
段々とにとりが焦りはじめてきたような気がする。どうやら口に出せない問題があるようだ。しかし、気付けというにとりの言葉が気にかかる。
彼女はやはり何かを悟って欲しいのだ。口に出すのは脈絡のないことばかり、恐らくは重要ではない。外見だ。外見なのだと僕は目をこらす。
帽子も髪飾りもいつも通り、服は新調して当たり前……ここからでは見えないが、リュックサックも多分――待てよ。
僕はにとりの格好に今まで以上の強い違和感を覚えた。ちがう。何かが違う。その違和感の中心は彼女の胸元にあった。
ぺけの字に交差したリュックサックの太い革紐が彼女の胸の中央できゅっと結ばれている。そこで、ようやくぴんと来た。
にとりが気が付いて欲しがっていたものが何なのかが分かった。
常々この子はなんでこんなものを身につけていたのかと不思議に思っていたものだから、それがなくなるとどうもしっくりこないような気がしていたのだ。
「分かったぞ。鍵が無いんだね?」
その言葉に、にとりは一瞬きょとんとし、それからだだだだっ、と僕の元に駆け寄ると、いきなり両手を取った。
何故だろう、物凄く嬉しそうだ。にとりはじいっと僕を上目遣いに睨め付けて強い語調で問う。
「今さ、鍵が無いんだろって言ったよな!」
「言った」
「確かに言った!?」
「確かに、言った」
その言葉を聞き、にとりは僕の手を思い切り振り払って(危うく転びそうになった)、いきなり万歳のポーズを取った。そして、
「やったーッ!!!!」
叫んだ。何がなんだか分からなかった。にとりの頭がおかしくなったのかと思った。しかし、次の瞬間もっと訳の分からないことが起きる。
白い髪に赤い頭巾(ときん)をちょこんと乗っけた気難しい顔をした天狗が背の低く腕白そうな少年を片手で掴み、猛烈な勢いで飛んできたのだ。
犬走椛。妖怪の山に住む下っ端の哨戒天狗である。
「椛っ、今の聞いたか? 見たか?!」
「聞いたし、見たよ」
呆然とする僕を置いてけぼりにして、彼女はにやりと笑う。
襟首を掴まれた少年はむすっとして黙り込んでいる。その右手には、どこかで見たことのある無骨で大きな鍵がぎゅっと握られていた。
なるほどなあ、と納得してしまう。問わずとも、事の仔細は自ずと知れるというものだ。大した悪戯小僧である。
「へっへっへー。賭けは私の勝ちだな! じゃあ鍵は返して貰うからな」
畜生っ、と悪態を吐いて少年は鍵を投げ捨てた。恐らくこの子がにとりに溺れていたところを助けてもらった少年なのだ。
上目遣いに彼女をにらみつける顔はどことなく赤い。これは、これは。僕は椛を見た。彼女はにやり、と笑った。
どうやら気が付いていないのはにとりただ一人らしい。とんでもない鈍感少女が居たものだ。思わず苦笑いが浮かんでしまう。
――天啓が閃いたのはその時だった。
この扇、実に素晴らしい物である。
僕が幾ら雷斧だと力説しても、この子は馬鹿力でそれを奪い取ってしまうかも知れない。
また、この雷斧が本当は天狗の扇で、それがこの子の持ち物である可能性は物凄く低いものの、あり得ないことではない。
この子がその暴論を振り回して扇を渡せと迫ってきたら大変なことになる。僕の正義は不義に敗れてしまう。
ならばどうするのか。その状況を打開する素晴らしい案を、僕は思いついたのだ。むくれる少年に近づき、その少しばかりごわごわした頭を軽く叩く。
「何だよ、にいちゃん」
少年は頬を膨らませてこちらを睨め付けてきた。悔しいのだろう、恥ずかしいのだろう。今にも泣きそうである。好きな子に悪戯したい年頃なのだ。仕方ない。
僕はそういう恋する少年の味方である。彼の耳元に口を寄せて、天狗にも聞こえないようなごくごく小さな声で囁く。
「この扇――君のだろう?」
そうだけど、と彼はやはり苛立っているような、今にも泣き出しそうな口調で肯定する。
やはり意地汚い子だ。これは雷斧だというのに平然と自分の扇と言ってのけた。しかし、そんなことはどうでも良いのだ。僕は続けて、彼の耳元で囁いた。
「これを譲ってもらえるなら数日後に、にとりの――」
「にとりの何だッ!! この色ボケ店主ッ!」
ぐいっ、と椛が僕の胸襟を掴んで怒声を放つ。まったく、この子はとことん友達思いの良い子だ。おかげで事が上手いように進んでしまう。
わざとにとりの部分だけ声を大にしたのだというのに。少年は顔を真っ赤にして僕を見上げている。だから僕は肩を竦めて、扇を揺らした。
彼は酷く悩んだ様子だったが、しばらくして一度だけ頷いた。正義が勝った瞬間だった。
「こらっ、店主! 今何を言おうとした!」
「結局何も言ってないから良いだろ……」
びし、と彼女の額を指で弾いて離れる。あだっ、と小さく悲鳴をあげて両手で弾かれた部分をおさえる辺り、まだまだ甘い。
一流の剣士なら狼狽えないし、一流のひよっこなら、あの幽霊使いのように意味不明な悲鳴をあげることだろう。
なにより、少年が頷いたのを見抜けなかったのが仇となった。千里を見通す目も、死角だけはどうしようもないようだ。
能力の名から千里眼を連想しがちだが、この子の能力はそんな大それたものではないのである。
「まあ、にとりも鍵が戻ってきたんだし仲直りしてやったらどうだい? その子だって反省しているさ」
少年は腕を組んでぷいっ、とそっぽを向いた。最早顔は茹で蛸のようである。初々しい。
にとりはどうしようかなあ、なんて悩んでいたが、椛も、許してあげても、と彼をかばったので、
「よし! じゃあ仲直りだっ」
と言って右手を差し出した。少年は――赤き石像と化していた。
それを怯えていると勘違いしたのか、しょうがないやつだなー、なんて笑ってにとりは彼の手を取った。
「ほい、仲直り」
頭から湯気でも立ち上れば面白いのだがそんなことはやはり起きなかった。少年はしばらくぼーっとにとりを見上げた後、
「は、はなせッ!!」
と叫んで彼女の手を払い、山の方へ飛んでいった。椛に比べてとても遅かった。文と比べるのは可愛そうだから止めておいた。
にとりは掌で鍵を玩びながら、うーん、と背伸びを一つ。
「どうやら嫌われちゃったみたいだねえ」
この子、どうやら道具作りにしか興味がないらしい。恋愛沙汰に疎いとかそういう問題ではなく、そもそもあの少年はにとりの眼中に無かったようだ。
「可愛そうに……」
椛が引きつった笑みでぼそりと言った。同じ男として同情を禁じ得ない。
一人の少年の心を見事に射止めた河童少女はにこにことご機嫌な様子で鍵をポケットにしまうと、手近な岩の上に腰掛けた。
そこは、妖怪の山の入り口の、ほんのすこしばかり奥地だった。僕が越えることの出来ない線のその先にある場所だった。
にとりは、ぱかっ、と弁当箱を開く。そしてリュックサックの中からあの浅漬けの大瓶を取り出した。
椛はちらりと山の方を見上げて、小さく頭を下げ、そして言った。
「ほんの少しだけなら入り口を越えても構わんってさ。あの子のお父さんがお偉いさんでね。良かったじゃないか、店主」
そう言って、彼女もにとりの座る岩の上へと軽やかに跳躍してみせた。正直、少しばかり驚いた。山を見上げても、誰の姿も見えなかった。
今だけ、そして入り口を僅かに越えることだけしか許されないにしても、それは大きな一歩だった。
魔理沙に言わせればざるみたいな警備とのことだけれど、僕にはそれをかいくぐるのだって一苦労なのだから、運が悪ければ一生立ち入ることの出来ない場所とさえ思っていたのだ。
不思議な感慨を抱き、妖怪、そして神の住まう山の中へと一歩、二歩。にとり達の脇に腰掛け、そっと風呂敷包みを開いた。
そこには味も素っ気もない小さなおにぎりがいくつか入っている。具すら無いのだからお笑いだ。そんな僕に、大瓶を差し出してにとりは笑んだ。
「ほれ、店主。きゅうりは要るかね?」
空を見上げると、白熱した太陽が南を通過して西に傾き始めようとしていた。いらないよ、とそう答えてからおにぎりにかぶりつく。ほんの少しだけ塩の味が濃かった。
きゅうりが食べたいな、と。遅れて僕はそう思った。
そしてにとりが可愛くて仕方が無い
にとりとの会話など、ほのぼのとしてて良かったですし、天狗の少年との
会話でその少年が顔を赤くしたりする反応が微笑ましいです。
誤字?脱字?の報告です。
>河童少女はにことご機嫌な様子で鍵をポケットにしまうと
『にこにこと』でしょうか? それとも『にこりと』ですか?
おたまもってるにとりとか、反則だ……
しかし相変わらず霖之助は図々しいんだか、お人好しなんだか分からん奴だなw
そんな彼が大好きです。
古妖らしく落ち着きのある雰囲気がちらほら見えていいバランスですねー。
打算的なわりに小賢しくはない霖之助もまた良し。
読んでいてとても楽しいです。
次回も楽しみに待っています。
それでは、頑張ってくださいね。
参加せざるを得ない
物語自体は以前より軽やかな調子ですが、このような作風も面白いと思います。
08年春が来るのは早い方が嬉しいですが、待つ時間もそれはそれで楽しいもの。
ご自分の納得できるペースで今後とも書き続けていって欲しいです。
終わりから数えて八行目、「椛の座る~」は「にとりの座る~」かな。
写真か!?破れた服か!?
あぁぁああああ!!!!妄想がとまらなぁぁああああい!!!
誤字報告
僕はの正義は不義に敗れてしまう。
僕の、かと。