『秋の日、つるべ落とし。
じゃあ、残りの季節、何してろってのかい。
暇だしねぇ。人間でも驚かしてやるかな、なんつって。 ―― つるべ落とし 』
『 <落下中につき 外出してマス> ―― キスメ(落) 』
キスメは、
落ちていた。
何処とも知れない、
真っ暗な闇の中、
ただ遥か下方へ、
果てしなく落ちていた。
闇は、
限りなく深く、
そして、
ただ暗い。
が、
落ちてゆくキスメの心中に、
そんな闇のありようは、
これははっきりと、
何ら、
一切介在していなかった。
闇への恐怖など、
あろうはずもない。
そう。
そんなことよりも、
落下する、
自分。
重力加速度の、
全くとどまることを知らないかのような勢いに身を委ねる、
愚かな、
これもはっきりと愚かな自分の事で、
胸の内、
四肢の先、
逆立つ緑髪の毛一本一本、
更には骨の髄、
精神の隅々までが満たされていた。
その満足に、
正しく穴の空いた、
底抜けの不安を感じて、
キスメは、
少し笑った。
道化の妖怪が、
いつもながら、
わずかばかり多く道化ている、
と。
それだけで面白く、
とてもおかしいことだと笑った。
楽しいものなのだ、
落ちるということが、
そんなにも、
楽しいものなのだ。
その楽しさが――
ふと、
風が吹いた。
否、
風は、
ずうっと吹いていた。
闇に包まれ、
ただ落ちるキスメは、
その場所に吹き荒ぶ、
轟然たる風の存在に、
その身の全てを浴しておきながら、
そのことに、
全くたった今気付いたのだった。
その意味するところを、
キスメは考えない。
風は風、
キスメはキスメ。
ただ落下し、
一時の仰天をもたらす、
単にそれだけである、
純粋な、
つるべ落とし。
キスメは落ちるばかりで、
風などにかかずらって、
なんとするのか。
どうもせず、
キスメは考えない。
だが、
そのキスメに、
風は語りかけてくるのだった。
―― おい つるべ落とし キスメよ
お前 何処にいる?
繰り返すも、
キスメは落ちている。
応えようもなく、
答えようもない。
何となれば、
答えようもあろうが、
今、
キスメは落ちているのだ。
言い換えるまでもないことに、
それは、
下へ向かって、
ひたすらに、
凄まじい速度で、
運動しているということであり。
風は即ち、
その超高速落下物体キスメと、
併走するように吹き下ろし、
空間のありとあらゆるものを吹き散らす、
超巨大超風速のダウンバーストとなって、
キスメに語りかけているのだ。
風は何故、
キスメに語りかけることが出来るのか?
応えようもなく、
答えようもない。
そこ、
といって、
次の瞬間には誰もおらず、
何もない場所を指してしまうような、
状況。
目も口も、
開こう筈が無いのだった。
ただつるべにしがみつき、
落下の快感に身を委ねることだけが、
キスメに出来る全てなのだから、
キスメは考えない。
キスメは落ちていく――
それでも、
風が吹く。
―― 落ちて 落ちて
どこまで行く どこに落ちる?
風は何故、
キスメに語りかけるのか?
落ちることが、
落ちていくように当たり前のキスメ。
落ちていくことの先、
落ちていくこと以外のことなど、
キスメの埒外なのだ。
つるべ落ちるそのことに、
疑問も異論も
有ろう筈が無いのだった。
そうでなくとも、
妖怪なのだ。
聞かれて応える筋合いもなし。
それでもキスメに呼びかけるのは、
風らしからぬ、
粘っこさ。
流れる気質に、
辺りの闇が絡み付いて、
黒鴉の羽のように、
しっとり濡れた暗鬱さが籠もる。
陰湿な邪推から、
邪智を通って邪道に導き、
つるべ落とすキスメを乱しにかかる。
それは流布する風説。
あらゆる悪の影に響く、
正体の無い黒の風なのだった、
が。
知る由も無く、
キスメは落ちてゆく。
自らを、
魔道に呼び込む悪意の翳りに覆われても構わず、
全く構わず、
落ちていく。
風のあること、
それだけを感じ続けて――
―― これ以上 落ちようも無い お前が
落ち続けて 何とする?
何ともなるまい
天を吹く 雲風と異なり
無間地獄を 落ちるだけでは
何ともなるまい
風が何か、
キスメに吹き込もうとする、
も。
頓着せず、
キスメは落ちてゆく。
そもそもが、
闇であろうと、
無かろうと、
関わり無い。
キスメは満ち足り、
頬を染め、
つるべに縮こまって、
笑って、
落ちている。
それだけで面白く、
とてもおかしいことだと。
落ちるということが、
そんなにも、
楽しいものなのだ。
見ざるが故の、
偽りの享楽などと、
盲目さを責め詰られようとも、
キスメにはそれがある。
落ちているか、
落ちていないか、
この二つだけが、
キスメの真理。
捉え所の無い、
果てしない、
一切の暗闇の中を、
迂遠に道を探ることなく、
奈落に向かって、
墓穴を掘る。
その先に、
つるべの下に、
誰かの頭があることを信じて――
やがて黒風は、
落胆の色を滲ませる。
―― 単純明快 落ちるだけ
面白くなく 興を削ぐ
落ち込み、
外れた調子が風を染め、
墨が払われ消えてゆく。
単にそれは、
キスメの為すところだった、
が、
小揺るぎもしない、
キスメの引力への渇望は、
邪悪のつむじ風を解いてなお、
昂ぶる一方であり。
闇と風の混ざり物は、
その愚かなひたむきさに、
何かを思ったようで。
散り際に一度、
ふふ、
と笑い。
―― 古臭くて 嫌われるだけ
でも
こんな妖怪 嫌いじゃない
意地悪しちゃって
ごめんなさいね ――
それっきり、
全く静かになった。
そう、
静か。
耳朶を襲う落下速度の勢力が鳴らす、
びゅうごぉという轟音すらも無く、
静かなのだった。
思えば、
身を縛る壮絶な引力も失われているし、
素晴らしい高揚感も共に去ってしまっている。
そこでキスメは、自分がもう、落ちてはいないのだということに気付いた。
恐る恐るキスメが目を見開くと、そこは薄暗い洞窟。
キスメが棲む、封印された妖怪たちの風穴だった。
その見慣れた筈の光景を、キスメは訝ってきょろきょろ首を振り、目を回す。
自分は一体、どこからどこへと落ちていたのだろう、なんて、考えない。
ただ、落ち終わった、という確かな事実が、キスメを嘆息させた。
あんなに楽しかったのに、なんてあっという間の出来事だったんだろう?
もっと長く、できればずっと、落ち続けていたかったような気がして、もう一度息を吐いた。
その、ふぅ、と吐いた息の流れのまま、キスメはつるべごと、ごろん、と横に転がる。
過ぎたことは過ぎたこと、と割り切るキスメが傾いた視界に見たものは、岩肌に走る亀裂であった。
そしてキスメは、笑ったのだ。
そこからびゅうと吹いた、隙間風に気付いて。
***
***
***
「はっはっは。酒もうまけりゃ、お茶もうまい。一歩も動く気がしないよ」
「萃香、ちょっと緩みすぎてない? 地霊と温泉に浸かりすぎてないかしら」
「あっはー、あんたには言われたくないなぁ。じゃあ行って来いとは言わないけどぉ」
「うーん、そうなの。本当は、約定どうこう以前に、行きたくないのよね、地底」
「ぉ、紫でも苦手な相手はいるんだねぇ、やっぱり、古明地んとこのかい?」
「いいえ、違うわ、もっと単純で、それゆえに面倒なのが・・・」
「いたかなー、何か」
「そう、本当に頭の痛い・・・お仕置きに放り込んだ無明の隙間も楽しむような、けったいな妖怪よ」
「思いつかないなぁ、そんな天人みたいな厄介者」
「いや、本当に・・・」
「頭の痛い話なのよ、ひりひりとね」
<了>
長編が天畿楽事件の続きだったらいいなと思いつつこっそり応援させてもらいます
単純明快で無邪気な妖怪ぶりが実に素敵です。
オチもよめませんでした。
多分このキスメが当てられないのは古明地姉妹だけかもしれませんね。
そういえば珍しい気がするなぁと思いつつ、
楽しく読ませていただきました。
自分も天畿楽事件の続きが楽しみです。
それが恋だよ。
待ってました。
深奥な世界観とそれを形成する遠大な表現術に、尊敬を感じて止みませんです。
天畿楽事件の続きも待ってます。